光を抱く者
021 - 俺の居場所
夜を裂くように、鋭いエンジン音が響いた。
湿った路地にポルシェ356Aのヘッドライトが差し込み、冷えたアスファルトを白々と照らし出す。闇に潜んでいた影を鋭利な刃で抉るような光だった。
滑るように車体が止まる。ブレーキランプの赤が夜気を滲ませ、排気の熱が蒸気となって立ち上る。静寂を裂いた轟音が消えると、途端に冷たい潮風が戻ってきた。
運転席のドアが開き、ジンが降り立つ。
ロングコートの裾が風を受け、僅かに舞う。銀色の髪に月明かりが落ち、煙草を噛んでいない唇が無言のまま硬く結ばれている。
足音が一つ、二つ。硬質な靴底が濡れた路地を叩く音が響く。
近付くにつれ、暗い染みが月光に鈍く反射した。赤黒い液体がゆっくりと滲み、石畳の隙間へと吸い込まれていく。
ジンの視線の先には、壁際に崩れ落ちるように座り込むアブサンの姿があった。血に濡れたシャツで腹部を押さえ、額には冷や汗が浮かび、唇からは途切れ途切れの呼吸が漏れ出ている。灰緑の瞳は虚ろに夜空を仰ぎ、時折瞬きもせずに月の光を受け止めていた。
革靴が血溜まりを蹴る音が、乾いた夜に弾けた。
アブサンの目の前に膝を落とすと、上裸の肩を乱暴に掴む。
「……テメェ、死にてぇのか……」
低く唸る声。
だが、その指先には冷酷さよりも強い熱が宿っていた。
掌に伝わる体温は不自然に冷たい。
血に濡れたシャツを辛うじて押さえていた手を退けると、腹部の傷口が露わになり、鮮血が指の隙間からじわじわと溢れ出てくる。
「防弾も着けずに乗り込みやがって……クソが」
吐き捨てるように呟いた声は、怒りと焦燥で微かに震えていた。アブサンは顎を引き、ゆっくりと視線をジンへと滑らせる。薄く張った笑みに浮かぶ血の気のない唇が動き、掠れた声が落ちた。
「ジン……そのコート、寄越せ。今夜は……妙に冷える」
ジンは短く舌打ちを鳴らした。
気温は決して冷え込んでいるわけではない。夜風は肌を刺すほど鋭くもなく季節は既に初夏を孕んでいる。それでもアブサンの唇から不釣り合いな言葉が零れたのは、体温が失血で急速に奪われている証拠だった。
眉間に皺を刻みながら、ジンは肩を揺さぶる指先を離す。無造作にコートの前合わせを剥ぎ、黒色の布地を脱ぎ取ると、そのままアブサンの晒された身体へ乱暴に掛けた。分厚い生地が血に濡れた素肌を覆い、布地がより一層、黒く染まり上がっていく。
ジンの動きは荒々しくも、そこに迷いはなかった。
裾を掻き払うように膝を折り、片腕をアブサンの背に差し入れる。もう一方の腕は躊躇なく膝裏へ潜り込ませた。
次の瞬間、軽々とした力で横抱きに引き寄せる。革靴が血溜まりを踏み抜き、乾いた夜に水気を弾く音が響いた。赤黒い雫が飛沫となってアスファルトに散り、冷たい月明かりに一瞬だけ煌めいた。腕に抱えられたアブサンは、抵抗の素振りひとつ見せない。虚ろな灰緑の瞳がゆっくりと伏せられ、長い睫毛が震えながら閉じられていく。力の入らない腕で引き寄せたコートに顔を埋める。月光が猫毛の黒髪を撫で、その輪郭を淡く縁取った。
冷たいはずの顔立ちが、今はどこか幼さを帯びて見えた。
ジンは低く息を吐き、無言のままその身体を抱き直した。
車へと戻ると、助手席のドアを乱暴に開け、抱えたままのアブサンをシートへと凭れさせる。ぐったりとした体躯。深く沈み込むと同時に、微かな吐息が漏れ落ちる。
ジンは掛けていたコートを一度引き剥がした。
血に濡れて重くなったシャツを絞り、前合わせを乱暴に裂く。布地が引き裂かれる、鋭くも乾いた音が夜に響いた。露わになった傷口からは、赤黒い血がまだじわりと溢れ出ている。
その布切れを厚く畳み、傷口へ強く押し当てる。
掌だけでは移動中に圧が抜ける。ジンは残った布を腹部へ回し、当て布がずれぬよう固く固定した。
圧迫が加わった瞬間、アブサンの目が反射的に強く瞬かれ、喉の奥から微かな呻きが零れ落ちる。だが、ジンはその反応を一切無視して縛りを終え、裂いたシャツの端を固結びにした。そして再びコートを乱雑に掛け直す。黒い布地がアブサンの胸元を覆い隠し、血に濡れた素肌と冷気を遮断した。
ジンは助手席のドアを鋭く閉め、回り込んで運転席に身を滑り込ませる。
クラッチを踏み込み、エンジンを再び唸らせると同時に、車体は夜気を裂くように滑り出した。
速度は一定を保ちながらも、アクセルを踏み込む幅は深い。焦燥を隠しきれぬその誤差が、車体の唸りに滲み出ていた。
ハンドルを握る黒革の手袋が、鈍く光る。
指先に伝わる湿りにジンは目を細めた。赤黒い感触――それは己の手に移ったアブサンの血だった。
横目で助手席を盗み見る。
アブサンはこめかみを窓枠に預け、薄く目を開けていた。焦点の定まらぬ灰緑の瞳はどこか遠く、夜空を透かして別の光景を見ているかのようにさえ見える。その表情は虚ろだった。
ジンは苛立ちを押し殺すように低く息を吐き、声を落とす。
「一人で十数人を相手取ろうなんざ……テメェにしては合理性に欠ける判断だったな……あの場で何があった」
ハンドルを切る硬質な音と、タイヤが乾いた路面を噛み締める唸りだけが、二人の間に重く響いた。
アブサンは横目を静かに滑らせると、窓枠から上体を起こした。
膝に滑り落ちたコートを片手で掬い上げ、無造作に掛け直す。
その仕草は淡々としていたが、背もたれに腕を預けた瞬間、腹部に鈍い痛みが走ったのか、片目を僅かに瞑る。だが次の瞬間には、表情から痛みの色を消し去り、虚勢を張りつけた。
「……変装が見破られたんでな。一斉に銃口を向けられたあの状態では合理に基いた“最善”と言える」
ジンは短く鼻を鳴らした。
呆れとも嘲りともつかない息が漏れる。
「だろうな。だが、防弾を着けず、不利も承知で乗り込むなんざ、悪手でしかねぇ……死に急ぐ趣味でも出来たようだな……」
アブサンの口元が僅かに動いた。笑ったようにも見えた。だが、持ち上がった口角は途中で止まり、頬の筋肉だけが不自然に引き攣る。血の気を失った唇は乾き切り、その歪な笑みは一瞬で崩れ去った。
ジンは眉間の皺を深くした。
あれを笑顔と呼ぶには、あまりにも形が崩れていた。
「……否定は、しないでおく」
返事は、それきり途絶えた。
ジンは僅かに顎を上げ、バックミラー越しに後方を確認する。車内を満たすのはエンジンの低い唸りと、タイヤが夜の舗装を噛み続ける単調な走行音だけだった。
やがて左手がポケットへ伸びる。
煙草を一本取り出し、唇へ咥えると、片手でライターを弾いた。火花が散り、小さな橙色の火が銀色の瞳を一瞬だけ照らし出す。深く煙を吸い込み、細く吐き出された紫煙がフロントガラスへ流れていった。
ジンは何も言わない。
ただ煙を吐きながら、アブサンを横目で一度だけ見た。
ジンの視線の先で、アブサンは窓の外を眺めていた。流れ去る街灯の光が横顔を断続的に照らし、そのたびに血の気を失った頬が白く浮かび上がる。灰緑の瞳は景色を追っているようで、何ひとつ映してはいない。コートの裾を握る指先だけが、僅かに力を込めた。やがてその力さえ抜け落ちる。
「お前……どうしてあのとき……俺を、組織に連れ戻した」
掠れた声が車内に落ちた。
ジンはすぐには答えなかった。紫煙だけが静かに車内を漂い、僅かに開いた窓から夜の闇へ溶けていく。ハンドルを握る左手が一度だけ握り直される。黒革の手袋が微かに軋み、銀色の前髪が額へ落ちた。
「此処がテメェの居場所だからだ……不満か」
アブサンの喉が、僅かに鳴った。
何かを返そうとしたのか、乾いた唇が微かに開く。だが、声が落ちることはなかった。灰緑の瞳がゆっくりと伏せられ、流れていた街灯の光が長い睫毛の下へ沈んでいく。その横顔には安堵も反発もない。ただ、とうに知っていた答えを改めて突き付けられたような、奇妙に静かな影だけが落ちていた。
「……俺の居場所、か。そうか。そうだな……忘れてくれ」
ジンは何も返さなかった。
咥えた煙草の先だけが赤く明滅し、吐き出された紫煙が二人の間を緩やかに横切っていく。
アブサンも、それ以上は口を開かなかった。
力の抜けた指先が膝の上へ落ち、借り物のコートの襟を僅かに引き寄せる。伏せられた灰緑の瞳は、窓硝子を流れていく街灯の光を受けても、二度と持ち上がることはなかった。
やがてポルシェは大通りを外れ、街灯の疎らな夜道へと入っていく。
ギアが切り替わるたび、エンジンが低く唸った。黒い車体は濡れた舗道を滑るように進み、ヘッドライトが行く先の闇を細く切り開いていく。だが、通り過ぎた光はすぐに背後へ呑まれ、ルームミラーの奥で小さく消えていった。
車内に残るのは、煙草と血の匂い。
一定の間隔で響く走行音と、助手席から漏れる浅い呼吸だけだった。
ジンは前を見据えたまま、アクセルを静かに踏み込む。
ポルシェは二人を乗せ、夜のさらに深い場所へと走り去っていった。
夜を裂くように、鋭いエンジン音が響いた。
湿った路地にポルシェ356Aのヘッドライトが差し込み、冷えたアスファルトを白々と照らし出す。闇に潜んでいた影を鋭利な刃で抉るような光だった。
滑るように車体が止まる。ブレーキランプの赤が夜気を滲ませ、排気の熱が蒸気となって立ち上る。静寂を裂いた轟音が消えると、途端に冷たい潮風が戻ってきた。
運転席のドアが開き、ジンが降り立つ。
ロングコートの裾が風を受け、僅かに舞う。銀色の髪に月明かりが落ち、煙草を噛んでいない唇が無言のまま硬く結ばれている。
足音が一つ、二つ。硬質な靴底が濡れた路地を叩く音が響く。
近付くにつれ、暗い染みが月光に鈍く反射した。赤黒い液体がゆっくりと滲み、石畳の隙間へと吸い込まれていく。
ジンの視線の先には、壁際に崩れ落ちるように座り込むアブサンの姿があった。血に濡れたシャツで腹部を押さえ、額には冷や汗が浮かび、唇からは途切れ途切れの呼吸が漏れ出ている。灰緑の瞳は虚ろに夜空を仰ぎ、時折瞬きもせずに月の光を受け止めていた。
革靴が血溜まりを蹴る音が、乾いた夜に弾けた。
アブサンの目の前に膝を落とすと、上裸の肩を乱暴に掴む。
「……テメェ、死にてぇのか……」
低く唸る声。
だが、その指先には冷酷さよりも強い熱が宿っていた。
掌に伝わる体温は不自然に冷たい。
血に濡れたシャツを辛うじて押さえていた手を退けると、腹部の傷口が露わになり、鮮血が指の隙間からじわじわと溢れ出てくる。
「防弾も着けずに乗り込みやがって……クソが」
吐き捨てるように呟いた声は、怒りと焦燥で微かに震えていた。アブサンは顎を引き、ゆっくりと視線をジンへと滑らせる。薄く張った笑みに浮かぶ血の気のない唇が動き、掠れた声が落ちた。
「ジン……そのコート、寄越せ。今夜は……妙に冷える」
ジンは短く舌打ちを鳴らした。
気温は決して冷え込んでいるわけではない。夜風は肌を刺すほど鋭くもなく季節は既に初夏を孕んでいる。それでもアブサンの唇から不釣り合いな言葉が零れたのは、体温が失血で急速に奪われている証拠だった。
眉間に皺を刻みながら、ジンは肩を揺さぶる指先を離す。無造作にコートの前合わせを剥ぎ、黒色の布地を脱ぎ取ると、そのままアブサンの晒された身体へ乱暴に掛けた。分厚い生地が血に濡れた素肌を覆い、布地がより一層、黒く染まり上がっていく。
ジンの動きは荒々しくも、そこに迷いはなかった。
裾を掻き払うように膝を折り、片腕をアブサンの背に差し入れる。もう一方の腕は躊躇なく膝裏へ潜り込ませた。
次の瞬間、軽々とした力で横抱きに引き寄せる。革靴が血溜まりを踏み抜き、乾いた夜に水気を弾く音が響いた。赤黒い雫が飛沫となってアスファルトに散り、冷たい月明かりに一瞬だけ煌めいた。腕に抱えられたアブサンは、抵抗の素振りひとつ見せない。虚ろな灰緑の瞳がゆっくりと伏せられ、長い睫毛が震えながら閉じられていく。力の入らない腕で引き寄せたコートに顔を埋める。月光が猫毛の黒髪を撫で、その輪郭を淡く縁取った。
冷たいはずの顔立ちが、今はどこか幼さを帯びて見えた。
ジンは低く息を吐き、無言のままその身体を抱き直した。
車へと戻ると、助手席のドアを乱暴に開け、抱えたままのアブサンをシートへと凭れさせる。ぐったりとした体躯。深く沈み込むと同時に、微かな吐息が漏れ落ちる。
ジンは掛けていたコートを一度引き剥がした。
血に濡れて重くなったシャツを絞り、前合わせを乱暴に裂く。布地が引き裂かれる、鋭くも乾いた音が夜に響いた。露わになった傷口からは、赤黒い血がまだじわりと溢れ出ている。
その布切れを厚く畳み、傷口へ強く押し当てる。
掌だけでは移動中に圧が抜ける。ジンは残った布を腹部へ回し、当て布がずれぬよう固く固定した。
圧迫が加わった瞬間、アブサンの目が反射的に強く瞬かれ、喉の奥から微かな呻きが零れ落ちる。だが、ジンはその反応を一切無視して縛りを終え、裂いたシャツの端を固結びにした。そして再びコートを乱雑に掛け直す。黒い布地がアブサンの胸元を覆い隠し、血に濡れた素肌と冷気を遮断した。
ジンは助手席のドアを鋭く閉め、回り込んで運転席に身を滑り込ませる。
クラッチを踏み込み、エンジンを再び唸らせると同時に、車体は夜気を裂くように滑り出した。
速度は一定を保ちながらも、アクセルを踏み込む幅は深い。焦燥を隠しきれぬその誤差が、車体の唸りに滲み出ていた。
ハンドルを握る黒革の手袋が、鈍く光る。
指先に伝わる湿りにジンは目を細めた。赤黒い感触――それは己の手に移ったアブサンの血だった。
横目で助手席を盗み見る。
アブサンはこめかみを窓枠に預け、薄く目を開けていた。焦点の定まらぬ灰緑の瞳はどこか遠く、夜空を透かして別の光景を見ているかのようにさえ見える。その表情は虚ろだった。
ジンは苛立ちを押し殺すように低く息を吐き、声を落とす。
「一人で十数人を相手取ろうなんざ……テメェにしては合理性に欠ける判断だったな……あの場で何があった」
ハンドルを切る硬質な音と、タイヤが乾いた路面を噛み締める唸りだけが、二人の間に重く響いた。
アブサンは横目を静かに滑らせると、窓枠から上体を起こした。
膝に滑り落ちたコートを片手で掬い上げ、無造作に掛け直す。
その仕草は淡々としていたが、背もたれに腕を預けた瞬間、腹部に鈍い痛みが走ったのか、片目を僅かに瞑る。だが次の瞬間には、表情から痛みの色を消し去り、虚勢を張りつけた。
「……変装が見破られたんでな。一斉に銃口を向けられたあの状態では合理に基いた“最善”と言える」
ジンは短く鼻を鳴らした。
呆れとも嘲りともつかない息が漏れる。
「だろうな。だが、防弾を着けず、不利も承知で乗り込むなんざ、悪手でしかねぇ……死に急ぐ趣味でも出来たようだな……」
アブサンの口元が僅かに動いた。笑ったようにも見えた。だが、持ち上がった口角は途中で止まり、頬の筋肉だけが不自然に引き攣る。血の気を失った唇は乾き切り、その歪な笑みは一瞬で崩れ去った。
ジンは眉間の皺を深くした。
あれを笑顔と呼ぶには、あまりにも形が崩れていた。
「……否定は、しないでおく」
返事は、それきり途絶えた。
ジンは僅かに顎を上げ、バックミラー越しに後方を確認する。車内を満たすのはエンジンの低い唸りと、タイヤが夜の舗装を噛み続ける単調な走行音だけだった。
やがて左手がポケットへ伸びる。
煙草を一本取り出し、唇へ咥えると、片手でライターを弾いた。火花が散り、小さな橙色の火が銀色の瞳を一瞬だけ照らし出す。深く煙を吸い込み、細く吐き出された紫煙がフロントガラスへ流れていった。
ジンは何も言わない。
ただ煙を吐きながら、アブサンを横目で一度だけ見た。
ジンの視線の先で、アブサンは窓の外を眺めていた。流れ去る街灯の光が横顔を断続的に照らし、そのたびに血の気を失った頬が白く浮かび上がる。灰緑の瞳は景色を追っているようで、何ひとつ映してはいない。コートの裾を握る指先だけが、僅かに力を込めた。やがてその力さえ抜け落ちる。
「お前……どうしてあのとき……俺を、組織に連れ戻した」
掠れた声が車内に落ちた。
ジンはすぐには答えなかった。紫煙だけが静かに車内を漂い、僅かに開いた窓から夜の闇へ溶けていく。ハンドルを握る左手が一度だけ握り直される。黒革の手袋が微かに軋み、銀色の前髪が額へ落ちた。
「此処がテメェの居場所だからだ……不満か」
アブサンの喉が、僅かに鳴った。
何かを返そうとしたのか、乾いた唇が微かに開く。だが、声が落ちることはなかった。灰緑の瞳がゆっくりと伏せられ、流れていた街灯の光が長い睫毛の下へ沈んでいく。その横顔には安堵も反発もない。ただ、とうに知っていた答えを改めて突き付けられたような、奇妙に静かな影だけが落ちていた。
「……俺の居場所、か。そうか。そうだな……忘れてくれ」
ジンは何も返さなかった。
咥えた煙草の先だけが赤く明滅し、吐き出された紫煙が二人の間を緩やかに横切っていく。
アブサンも、それ以上は口を開かなかった。
力の抜けた指先が膝の上へ落ち、借り物のコートの襟を僅かに引き寄せる。伏せられた灰緑の瞳は、窓硝子を流れていく街灯の光を受けても、二度と持ち上がることはなかった。
やがてポルシェは大通りを外れ、街灯の疎らな夜道へと入っていく。
ギアが切り替わるたび、エンジンが低く唸った。黒い車体は濡れた舗道を滑るように進み、ヘッドライトが行く先の闇を細く切り開いていく。だが、通り過ぎた光はすぐに背後へ呑まれ、ルームミラーの奥で小さく消えていった。
車内に残るのは、煙草と血の匂い。
一定の間隔で響く走行音と、助手席から漏れる浅い呼吸だけだった。
ジンは前を見据えたまま、アクセルを静かに踏み込む。
ポルシェは二人を乗せ、夜のさらに深い場所へと走り去っていった。
