光を抱く者
002 - 蒸留された三人
摩天楼の影に潜む、組織拠点。
地上の喧騒から隔絶された地下室は、白い蛍光灯に照らされていた。光は隅々まで届いているはずなのに、そこに満ちるのは冷ややかな無機質さだけで、温度というものが感じられなかった。
バーボンは壁際に立ち、端末に映る任務概要へ目を落とす。
潜入、接触、暗殺――冷たい文字列が並ぶたびに、僅かに背筋が強張るのを自覚した。
視線を横に流すと、スコッチとライも同じように端末に見入っていた。
二人とも席に座ろうとはせず、バーボンと同様に立ったまま画面の流れを追っている。意図的か、それとも落ち着かないのか。どちらにせよ、その姿勢が場の張り詰めを更に強めていた。
耳に届くのは、端末を操作する微かなタップ音と、空調が吐き出す乾いた風の音だけ。会話はひとつもなく、言葉よりも沈黙の方がこの場にはふさわしいと、誰もが直感していた。
バーボンはふと、蛍光灯に照らされたライの横顔を盗み見た。無表情のまま画面を睨み、指先は一分の狂いもなく動く。スコッチは顎を僅かに引き、必要以上に視線を走らせては周囲を計るようにしていた。バーボンを含め、この三人は幹部から見れば新人でしかない。だがその眼差しには、若さよりも深い影が宿っている。
立ち尽くす三人の間に、薄氷のような緊張が張り詰めていた。
その静寂を、重たい鉄扉が軋む音が切り裂いた。
先に姿を現したのはベルモットだった。
場違いなほど艶やかな笑みを浮かべ、まるで舞台袖から優雅に現れた女優のように、拠点の冷たさを一瞬だけ塗り替える。ブロンドが蛍光灯を受けて淡く揺れ、白い壁面に儚い光を散らした。
そして、その後ろに現れた黒い影。
濡鴉色の長髪をさらりと胸元に垂らした髪型。異国情緒漂う褐色の肌。彫りの深い顔に落ち込んだ灰緑色の瞳。引き結ばれた口元は、塩で塗り固めたかのように動かない。黒一色で統一された背広と、それを覆う外套が、彼の温度を感じさせなかった。
この男が誰なのか、三人の誰も口を開こうとはしなかった。
ただ、その存在だけで場が圧される。
「あなたたちに紹介するわ」
艶やかな声色は、舞台の幕開けを告げるアナウンスのように透き通っていた。冗談めかした軽さを装っているのに、その奥には相手を値踏みする冷ややかさが潜んでいる。バーボンには、彼女の一言すら観客を翻弄する芝居の一部のように見えた。
「彼はアブサンよ。組織の理念をそのまま反映させた男……って言えば伝わるかしら……得意分野は近接戦闘と、機械周りね」
ベルモットの紹介は淡々としていたが、その言葉は、ナイフの刃先のように冷ややかに三人へ突き付けられた。
バーボンは目だけを男に移した。
灰緑の瞳は深い水底のように澄んでいながら、底に沈むものを誰にも見せようとしない。
組織の理念――裏切りは許さず、痕跡は一欠片も残さない。個人は存在せず、ただ組織に奉仕する。
組織にアブサンという名の幹部がいることは知っていた。だが、自分に名が与えられるまで、廊下ですれ違うことすら叶わなかった存在だった。その彼を前にして、バーボンはどこか納得したように冷や汗を垂らす。
この男は、組織の象徴そのものだった。
アブサンは咥えていた煙草に火を点け、深く吸い込んだ。紫煙が緩やかに広がり、無機質な空気を濁らせていく。その動作はただの習慣のはずなのに、どこか場を支配する間を作り出していた。
吐き出された煙の向こうで、灰緑の瞳がゆっくりと動く。
バーボン、スコッチ、ライを順に一瞥した。それは警戒から射抜かれたわけでもなく、興味を示しているわけでもない――まるで、道端に転がる石ころの存在を確認するかのようだった。
「……察しているだろうが、俺はお前らの監視役だ。裏切りの影を見せたら、その場で処分する」
紫煙が天井へと揺れ昇り、冷えた空気を鈍く濁らせた。
灰緑の瞳に浮かぶのは、脅しでも激情でもなく、ただ淡々とした事実だけが響いていた。
「だが、安心しろ。お前らが仲間でいる限りは、上司として、お前らを鍛えてやる。余計な手間だけは掛けさせるなよ」
煙草を咥え直し、アブサンは気怠げに肩を竦めてみせた。
吐き出された言葉は、冷酷でありながらも理に適っていた。生かすのも殺すのも感情ではなく、ただ組織の益に沿うか否かだけ――その徹底した線引きこそが、彼の言葉を重く響かせていた。
バーボンはふっと口元に笑みを浮かべた。
その笑みは場を和ませるためというより、むしろ相手の反応を計るための仮面に近かった。軽く肩を竦め、視線を細める。
「案外、僕たちとは仲良くやっていけそうですね」
皮肉とも挑発ともつかない声音。
だがその奥には、目の前の男をどう捉えるべきか――値踏みする鋭さが潜んでいた。その声に、アブサンは口角を上げる。
「そうか。なら、まずは歓迎しよう」
アブサンはそう言い、ゆっくりと腕を伸ばした。
友好の証に過ぎないはずの仕草。だがその掌には、どこか測りかねる重さが宿っていた。
差し出された手を前に、バーボンの指先が一瞬止まる。僅かな逡巡ののち、その手を握り返した瞬間、冷たい掌の感触に妙な異物感が走った。だがそれはすぐに煙のように紛れて、ただ硬質な印象だけが残る。
アブサンは淡々と次の相手に手を差し出す。
ライは無表情のまま受け、スコッチは僅かに身構えながらも従った。三人の手に残ったのは、温もりではなく、何か曖昧な“痕跡”だった。それが契約の印なのか、それとも鎖の端緒か――判断はつかなかった。
「話は以上だ。何もなければ、解散してくれ」
アブサンは片手をポケットに差し込み、もう片方で無造作に灰を落とした。その仕草は軽やかに見えるのに、三人の背には妙な重さだけが残った。
バーボンは鉄扉へ歩を向けながら、足取りを僅かに緩めた。
先に出たライとスコッチの背を追うふりをしながら、耳を欹てる。
「――で、このあとどうするつもり?」
アブサンは横目でベルモットを流し見る。
その灰緑の瞳には、思案どころか感情の影すら映っていない。
むしろ、それを意図的に消し去っているようにさえ見えた。
「まあ……この拠点で酒でも、とは思っていたがな」
何気ない独り言のように落とされた言葉。
だが、その声音は不自然なほど明瞭で、まるで誰かに|聞かせる《・・・・》ために選ばれた調子だった。
***
地下拠点、休憩室。
白い壁に囲まれた部屋は狭く、家具も必要最低限。机の上には三人の端末と資料が広げられ、蛍光灯の光に照らされていた。バーボンは椅子の背に浅く腰かけ、端末の画面を指先でなぞる。
明日は潜入、接触、暗殺の任務がある。
標的の行動記録や、周囲との交友関係、趣味嗜好――そのすべてを読み解き、接触の糸口を探っていく。
バーボンの役目は、標的への接触と情報収集。懐に入り込み、裏切りの兆候を見極めるのが、今回の任務となる。標的の裏切りが確定した時点で暗殺に移行し、射撃の届くテラスへと誘き出す。
視線を横にやれば、ライが壁際の椅子に腰かけ、無言で端末を操作していた。銃器の構造図や建物の間取り、射線の確認。無駄のない指先の動きは、既に最終局面を見据えているようだった。
スコッチはベッドに腰を下ろし、端末を眺めながら情報を整理していた。
通信経路の洗い出し、周囲の監視網、警備の配置。彼の役目は情報の遮断――敵の声を封じることだ。
狭い空間にいながら、互いに言葉を交わすことはなかった。
だが沈黙の中に、それぞれが背負った役割が鮮やかに浮かび上がる。
この任務はただの接触ではない。
裏切りの芽を見極め、芽吹く兆しがあれば躊躇なく摘み取る――組織に属する者としての通過儀礼でもあった。
バーボンは一度だけ目を閉じ、深い息を吐く。
そのとき――袖口に、僅かな違和感が走った。
布地の内側に触れる、ごく小さな硬質の感触。
何気なく手首を払う仕草をしながら、指先でそれを摘み取る。掌に乗せたのは、第一関節ほどの小さな盗聴器だった。それが握手のときに仕掛けられたものだと悟るのに、大した時間はかからなかった。
胸の奥に冷たいものが落ちる感覚と同時に、どこか納得する思いもあった。あの男なら、仕掛けてもおかしくはない。
バーボンは唇の端を僅かに吊り上げ、力を込めて潰す。
カチリ、と乾いた音とともに、冷たい残骸が掌に散った。指先に残る感触は小さく儚いが、その背後に潜む意図は重く、息苦しい。
「バーボン、少しいいか」
不意に声を掛けられ、心臓が一瞬だけ跳ねる。
振り向いた先で、ライが無表情のままこちらを見ていた。
低く抑えた声が、休憩室の冷たい空気を震わせる。
「……お前、あの部屋から出るのが遅かったが……奴は、アブサンは何か言っていなかったか」
バーボンは軽く息を吐き、視線を端末に戻した。
「ああ。拠点で酒でも飲むと言っていたが……」
アブサンの、意図的に落とされた言葉。
やはり、仕掛けたのはあの男に違いない――心の中でそう結論づけながらも、表には出さず淡々と告げる。
ライは小さく頷き、スコッチも無言で視線を合わせた。その反応だけで、二人もまた同じものを見つけていると分かった。
「……この拠点で酒を飲めるのは、あのバーしかないよな?」
スコッチの、低い声に込められた確信。問いかけの形を取りながらも、答えは最初から決まっているようだった。
バーボンは目を細め、唇の端に僅かな笑みを浮かべる。
「……どうやら、全員で行くしかなさそうだ」
重たい沈黙を切り裂くように交わされた言葉。
三人の視線が交錯した瞬間、向かうべき場所はひとつに定まった。
白い蛍光灯に照らされた休憩室を後にし、三人は無言のまま狭い廊下を進んでいく。コンクリートの壁に反響する靴音が、やけに大きく耳に残った。地下深くへと続く階段を下りるにつれ、微かに酒精と煙草の匂いが漂ってくる。
扉を押し開けた瞬間、目に飛び込んできた光景に、僅かに足を止めた。
地下拠点のバーカウンター。
その中央に、アブサンは既に腰を据えていた。組織端末を開き、琥珀色のグラスを片手で揺らしている。まるで三人が来るのを知っていたかのように、ゆったりと紫煙を燻らせていた。その姿は待ち構えていたというより――最初から、三人がここに来ることを織り込んでいたようだった。
アブサンはグラスを口元に運び、喉を湿らせるとゆっくりと視線を横に滑らせた。その灰緑色の瞳が三人の顔を順に眺めたあとで、低く、くぐもった声が落ちる。
「遅かったな」
その声音は歓迎でも叱責でもない。ただ、予定通りの結末を確認するかのような響きだった。
三人は自然と距離を詰め、カウンターへ歩み寄る。バーボンは懐から潰した盗聴器の残骸を取り出し、無造作に置いた。
「――この盗聴器。どういうつもりですか?」
アブサンは片手で組織端末のキーボードを淡々と叩く。
視線すら三人に向けずに、口を開いた。
「安心しろ……仕掛けはしたが、何も聞いていない」
三人の間に微かな沈黙が落ちた。その沈黙を断ち切るように、アブサンの乾いた操作音が途切れ途切れに響く。日常の作業の片手間に答えているだけのようでいて、その気安さがかえって不気味だった。
バーボンは唇を引き結び、視線を細める。
「……なら、なぜ仕掛けたんです?」
その問いに、アブサンはようやく片手を止めた。
琥珀の液体をゆるく揺らし、気怠げに目を伏せる。その仕草には、脅すでも言い訳するでもなく、ただ当然のことを答えるだけの淡白さが漂っていた。
「歓迎の印だ。ただの挨拶だと思え」
まるで形式ばった乾杯のように軽い響きだった。バーボンの耳には警告よりも、むしろ義務的な説明のように聞こえた。
「……それにしては、やけに物々しい挨拶だったが」
ライの皮肉混じりの返しにも、アブサンは煙草を咥え直すだけだった。紫煙の向こう、その瞳には感情の揺らぎは見えない。
「……名を与えられたからと言って、組織に益をもたらす人間だとは限らない。お前らのような新人が一番危うい……周囲への疑心が鈍り、僅かな驕りが生まれ、最後には愚行に走る」
語り口はあくまで平坦。
叱責でも戒めでもなく、まるで天気の話でもするように投げかけられる。それがかえって、彼の言葉に重みを与えていた。
「つまり、気付かなければ……どうしてた?」
バーボンの声に、アブサンは短く吐息を零す。まるで面倒な計算の答えを示すように、静かに口を開いた。
「当然、処理対象だ。裏切る知性も持たない、という意味でな」
そこに迷いは一片もなく、ただ事実を述べる冷たさがあった。だが同時に、非情さよりも徹底した合理の匂いが勝っていた。
「……なら、今回は大丈夫ってことか?」
スコッチの声が低く落ちる。
沈黙を挟んで、アブサンは再びキーを叩きながら答えた。
「ああ。だがな……この組織に長く居たいなら覚えておくといい。この組織では、裏切るよりも先に――無能が消えていく」
紫煙の奥で、灰緑の瞳が僅かに細まる。そこに嘲笑も脅迫もなかった。ただ静かに現実を告げる色が宿っていた。
「その言葉の意味をよく咀嚼して、今日は帰るといい」
促す声音は冷ややかだったが、刃を突きつける鋭さはなく、むしろ淡い倦怠感が滲んでいた。まるで忠告以上の意味は持たないと言わんばかりに、その声は響いていた。
「明日の任務はお前らだけで終わらせろ。俺は影に潜む……だが、堕ちたときは……後始末くらいはしてやる」
そう言い切ったアブサンは、指を止めると端末を静かに閉じた。
残された琥珀の液体をひと息で煽り、カウンターに無造作に置く。立ち上がった背中は重々しさも誇示もなく、ただ気怠い気配を纏ったまま、紫煙の向こうに遠ざかっていった。
その背を見送りながら、バーボンは僅かに目を細める。
冷酷な処刑宣告のようでもあり、奇妙な庇いの言葉のようでもある。どちらとも取れる曖昧さが、胸の奥に棘のように残った。
ただ一つだけ確かに分かったのは――明日の任務に失敗は許されない、ということ。微かな安堵が胸を掠めたが、それはすぐに重い焦燥に呑まれ、残ったのは圧迫感だけだった。
酒精と煙草の匂いが掠めて離れない。
それは忠告の残響のように、三人の胸の奥を鈍く刺していた。
摩天楼の影に潜む、組織拠点。
地上の喧騒から隔絶された地下室は、白い蛍光灯に照らされていた。光は隅々まで届いているはずなのに、そこに満ちるのは冷ややかな無機質さだけで、温度というものが感じられなかった。
バーボンは壁際に立ち、端末に映る任務概要へ目を落とす。
潜入、接触、暗殺――冷たい文字列が並ぶたびに、僅かに背筋が強張るのを自覚した。
視線を横に流すと、スコッチとライも同じように端末に見入っていた。
二人とも席に座ろうとはせず、バーボンと同様に立ったまま画面の流れを追っている。意図的か、それとも落ち着かないのか。どちらにせよ、その姿勢が場の張り詰めを更に強めていた。
耳に届くのは、端末を操作する微かなタップ音と、空調が吐き出す乾いた風の音だけ。会話はひとつもなく、言葉よりも沈黙の方がこの場にはふさわしいと、誰もが直感していた。
バーボンはふと、蛍光灯に照らされたライの横顔を盗み見た。無表情のまま画面を睨み、指先は一分の狂いもなく動く。スコッチは顎を僅かに引き、必要以上に視線を走らせては周囲を計るようにしていた。バーボンを含め、この三人は幹部から見れば新人でしかない。だがその眼差しには、若さよりも深い影が宿っている。
立ち尽くす三人の間に、薄氷のような緊張が張り詰めていた。
その静寂を、重たい鉄扉が軋む音が切り裂いた。
先に姿を現したのはベルモットだった。
場違いなほど艶やかな笑みを浮かべ、まるで舞台袖から優雅に現れた女優のように、拠点の冷たさを一瞬だけ塗り替える。ブロンドが蛍光灯を受けて淡く揺れ、白い壁面に儚い光を散らした。
そして、その後ろに現れた黒い影。
濡鴉色の長髪をさらりと胸元に垂らした髪型。異国情緒漂う褐色の肌。彫りの深い顔に落ち込んだ灰緑色の瞳。引き結ばれた口元は、塩で塗り固めたかのように動かない。黒一色で統一された背広と、それを覆う外套が、彼の温度を感じさせなかった。
この男が誰なのか、三人の誰も口を開こうとはしなかった。
ただ、その存在だけで場が圧される。
「あなたたちに紹介するわ」
艶やかな声色は、舞台の幕開けを告げるアナウンスのように透き通っていた。冗談めかした軽さを装っているのに、その奥には相手を値踏みする冷ややかさが潜んでいる。バーボンには、彼女の一言すら観客を翻弄する芝居の一部のように見えた。
「彼はアブサンよ。組織の理念をそのまま反映させた男……って言えば伝わるかしら……得意分野は近接戦闘と、機械周りね」
ベルモットの紹介は淡々としていたが、その言葉は、ナイフの刃先のように冷ややかに三人へ突き付けられた。
バーボンは目だけを男に移した。
灰緑の瞳は深い水底のように澄んでいながら、底に沈むものを誰にも見せようとしない。
組織の理念――裏切りは許さず、痕跡は一欠片も残さない。個人は存在せず、ただ組織に奉仕する。
組織にアブサンという名の幹部がいることは知っていた。だが、自分に名が与えられるまで、廊下ですれ違うことすら叶わなかった存在だった。その彼を前にして、バーボンはどこか納得したように冷や汗を垂らす。
この男は、組織の象徴そのものだった。
アブサンは咥えていた煙草に火を点け、深く吸い込んだ。紫煙が緩やかに広がり、無機質な空気を濁らせていく。その動作はただの習慣のはずなのに、どこか場を支配する間を作り出していた。
吐き出された煙の向こうで、灰緑の瞳がゆっくりと動く。
バーボン、スコッチ、ライを順に一瞥した。それは警戒から射抜かれたわけでもなく、興味を示しているわけでもない――まるで、道端に転がる石ころの存在を確認するかのようだった。
「……察しているだろうが、俺はお前らの監視役だ。裏切りの影を見せたら、その場で処分する」
紫煙が天井へと揺れ昇り、冷えた空気を鈍く濁らせた。
灰緑の瞳に浮かぶのは、脅しでも激情でもなく、ただ淡々とした事実だけが響いていた。
「だが、安心しろ。お前らが仲間でいる限りは、上司として、お前らを鍛えてやる。余計な手間だけは掛けさせるなよ」
煙草を咥え直し、アブサンは気怠げに肩を竦めてみせた。
吐き出された言葉は、冷酷でありながらも理に適っていた。生かすのも殺すのも感情ではなく、ただ組織の益に沿うか否かだけ――その徹底した線引きこそが、彼の言葉を重く響かせていた。
バーボンはふっと口元に笑みを浮かべた。
その笑みは場を和ませるためというより、むしろ相手の反応を計るための仮面に近かった。軽く肩を竦め、視線を細める。
「案外、僕たちとは仲良くやっていけそうですね」
皮肉とも挑発ともつかない声音。
だがその奥には、目の前の男をどう捉えるべきか――値踏みする鋭さが潜んでいた。その声に、アブサンは口角を上げる。
「そうか。なら、まずは歓迎しよう」
アブサンはそう言い、ゆっくりと腕を伸ばした。
友好の証に過ぎないはずの仕草。だがその掌には、どこか測りかねる重さが宿っていた。
差し出された手を前に、バーボンの指先が一瞬止まる。僅かな逡巡ののち、その手を握り返した瞬間、冷たい掌の感触に妙な異物感が走った。だがそれはすぐに煙のように紛れて、ただ硬質な印象だけが残る。
アブサンは淡々と次の相手に手を差し出す。
ライは無表情のまま受け、スコッチは僅かに身構えながらも従った。三人の手に残ったのは、温もりではなく、何か曖昧な“痕跡”だった。それが契約の印なのか、それとも鎖の端緒か――判断はつかなかった。
「話は以上だ。何もなければ、解散してくれ」
アブサンは片手をポケットに差し込み、もう片方で無造作に灰を落とした。その仕草は軽やかに見えるのに、三人の背には妙な重さだけが残った。
バーボンは鉄扉へ歩を向けながら、足取りを僅かに緩めた。
先に出たライとスコッチの背を追うふりをしながら、耳を欹てる。
「――で、このあとどうするつもり?」
アブサンは横目でベルモットを流し見る。
その灰緑の瞳には、思案どころか感情の影すら映っていない。
むしろ、それを意図的に消し去っているようにさえ見えた。
「まあ……この拠点で酒でも、とは思っていたがな」
何気ない独り言のように落とされた言葉。
だが、その声音は不自然なほど明瞭で、まるで誰かに|聞かせる《・・・・》ために選ばれた調子だった。
***
地下拠点、休憩室。
白い壁に囲まれた部屋は狭く、家具も必要最低限。机の上には三人の端末と資料が広げられ、蛍光灯の光に照らされていた。バーボンは椅子の背に浅く腰かけ、端末の画面を指先でなぞる。
明日は潜入、接触、暗殺の任務がある。
標的の行動記録や、周囲との交友関係、趣味嗜好――そのすべてを読み解き、接触の糸口を探っていく。
バーボンの役目は、標的への接触と情報収集。懐に入り込み、裏切りの兆候を見極めるのが、今回の任務となる。標的の裏切りが確定した時点で暗殺に移行し、射撃の届くテラスへと誘き出す。
視線を横にやれば、ライが壁際の椅子に腰かけ、無言で端末を操作していた。銃器の構造図や建物の間取り、射線の確認。無駄のない指先の動きは、既に最終局面を見据えているようだった。
スコッチはベッドに腰を下ろし、端末を眺めながら情報を整理していた。
通信経路の洗い出し、周囲の監視網、警備の配置。彼の役目は情報の遮断――敵の声を封じることだ。
狭い空間にいながら、互いに言葉を交わすことはなかった。
だが沈黙の中に、それぞれが背負った役割が鮮やかに浮かび上がる。
この任務はただの接触ではない。
裏切りの芽を見極め、芽吹く兆しがあれば躊躇なく摘み取る――組織に属する者としての通過儀礼でもあった。
バーボンは一度だけ目を閉じ、深い息を吐く。
そのとき――袖口に、僅かな違和感が走った。
布地の内側に触れる、ごく小さな硬質の感触。
何気なく手首を払う仕草をしながら、指先でそれを摘み取る。掌に乗せたのは、第一関節ほどの小さな盗聴器だった。それが握手のときに仕掛けられたものだと悟るのに、大した時間はかからなかった。
胸の奥に冷たいものが落ちる感覚と同時に、どこか納得する思いもあった。あの男なら、仕掛けてもおかしくはない。
バーボンは唇の端を僅かに吊り上げ、力を込めて潰す。
カチリ、と乾いた音とともに、冷たい残骸が掌に散った。指先に残る感触は小さく儚いが、その背後に潜む意図は重く、息苦しい。
「バーボン、少しいいか」
不意に声を掛けられ、心臓が一瞬だけ跳ねる。
振り向いた先で、ライが無表情のままこちらを見ていた。
低く抑えた声が、休憩室の冷たい空気を震わせる。
「……お前、あの部屋から出るのが遅かったが……奴は、アブサンは何か言っていなかったか」
バーボンは軽く息を吐き、視線を端末に戻した。
「ああ。拠点で酒でも飲むと言っていたが……」
アブサンの、意図的に落とされた言葉。
やはり、仕掛けたのはあの男に違いない――心の中でそう結論づけながらも、表には出さず淡々と告げる。
ライは小さく頷き、スコッチも無言で視線を合わせた。その反応だけで、二人もまた同じものを見つけていると分かった。
「……この拠点で酒を飲めるのは、あのバーしかないよな?」
スコッチの、低い声に込められた確信。問いかけの形を取りながらも、答えは最初から決まっているようだった。
バーボンは目を細め、唇の端に僅かな笑みを浮かべる。
「……どうやら、全員で行くしかなさそうだ」
重たい沈黙を切り裂くように交わされた言葉。
三人の視線が交錯した瞬間、向かうべき場所はひとつに定まった。
白い蛍光灯に照らされた休憩室を後にし、三人は無言のまま狭い廊下を進んでいく。コンクリートの壁に反響する靴音が、やけに大きく耳に残った。地下深くへと続く階段を下りるにつれ、微かに酒精と煙草の匂いが漂ってくる。
扉を押し開けた瞬間、目に飛び込んできた光景に、僅かに足を止めた。
地下拠点のバーカウンター。
その中央に、アブサンは既に腰を据えていた。組織端末を開き、琥珀色のグラスを片手で揺らしている。まるで三人が来るのを知っていたかのように、ゆったりと紫煙を燻らせていた。その姿は待ち構えていたというより――最初から、三人がここに来ることを織り込んでいたようだった。
アブサンはグラスを口元に運び、喉を湿らせるとゆっくりと視線を横に滑らせた。その灰緑色の瞳が三人の顔を順に眺めたあとで、低く、くぐもった声が落ちる。
「遅かったな」
その声音は歓迎でも叱責でもない。ただ、予定通りの結末を確認するかのような響きだった。
三人は自然と距離を詰め、カウンターへ歩み寄る。バーボンは懐から潰した盗聴器の残骸を取り出し、無造作に置いた。
「――この盗聴器。どういうつもりですか?」
アブサンは片手で組織端末のキーボードを淡々と叩く。
視線すら三人に向けずに、口を開いた。
「安心しろ……仕掛けはしたが、何も聞いていない」
三人の間に微かな沈黙が落ちた。その沈黙を断ち切るように、アブサンの乾いた操作音が途切れ途切れに響く。日常の作業の片手間に答えているだけのようでいて、その気安さがかえって不気味だった。
バーボンは唇を引き結び、視線を細める。
「……なら、なぜ仕掛けたんです?」
その問いに、アブサンはようやく片手を止めた。
琥珀の液体をゆるく揺らし、気怠げに目を伏せる。その仕草には、脅すでも言い訳するでもなく、ただ当然のことを答えるだけの淡白さが漂っていた。
「歓迎の印だ。ただの挨拶だと思え」
まるで形式ばった乾杯のように軽い響きだった。バーボンの耳には警告よりも、むしろ義務的な説明のように聞こえた。
「……それにしては、やけに物々しい挨拶だったが」
ライの皮肉混じりの返しにも、アブサンは煙草を咥え直すだけだった。紫煙の向こう、その瞳には感情の揺らぎは見えない。
「……名を与えられたからと言って、組織に益をもたらす人間だとは限らない。お前らのような新人が一番危うい……周囲への疑心が鈍り、僅かな驕りが生まれ、最後には愚行に走る」
語り口はあくまで平坦。
叱責でも戒めでもなく、まるで天気の話でもするように投げかけられる。それがかえって、彼の言葉に重みを与えていた。
「つまり、気付かなければ……どうしてた?」
バーボンの声に、アブサンは短く吐息を零す。まるで面倒な計算の答えを示すように、静かに口を開いた。
「当然、処理対象だ。裏切る知性も持たない、という意味でな」
そこに迷いは一片もなく、ただ事実を述べる冷たさがあった。だが同時に、非情さよりも徹底した合理の匂いが勝っていた。
「……なら、今回は大丈夫ってことか?」
スコッチの声が低く落ちる。
沈黙を挟んで、アブサンは再びキーを叩きながら答えた。
「ああ。だがな……この組織に長く居たいなら覚えておくといい。この組織では、裏切るよりも先に――無能が消えていく」
紫煙の奥で、灰緑の瞳が僅かに細まる。そこに嘲笑も脅迫もなかった。ただ静かに現実を告げる色が宿っていた。
「その言葉の意味をよく咀嚼して、今日は帰るといい」
促す声音は冷ややかだったが、刃を突きつける鋭さはなく、むしろ淡い倦怠感が滲んでいた。まるで忠告以上の意味は持たないと言わんばかりに、その声は響いていた。
「明日の任務はお前らだけで終わらせろ。俺は影に潜む……だが、堕ちたときは……後始末くらいはしてやる」
そう言い切ったアブサンは、指を止めると端末を静かに閉じた。
残された琥珀の液体をひと息で煽り、カウンターに無造作に置く。立ち上がった背中は重々しさも誇示もなく、ただ気怠い気配を纏ったまま、紫煙の向こうに遠ざかっていった。
その背を見送りながら、バーボンは僅かに目を細める。
冷酷な処刑宣告のようでもあり、奇妙な庇いの言葉のようでもある。どちらとも取れる曖昧さが、胸の奥に棘のように残った。
ただ一つだけ確かに分かったのは――明日の任務に失敗は許されない、ということ。微かな安堵が胸を掠めたが、それはすぐに重い焦燥に呑まれ、残ったのは圧迫感だけだった。
酒精と煙草の匂いが掠めて離れない。
それは忠告の残響のように、三人の胸の奥を鈍く刺していた。