光を抱く者

002 - 蒸留された三人


 摩天楼の影に潜む、組織拠点。
 地上の喧騒から隔絶された地下室は、白い蛍光灯に照らされていた。光は隅々まで届いているはずなのに、そこに満ちるのは冷ややかな無機質さだけで、温度というものが感じられなかった。

 バーボンは壁際に立ち、端末に映る任務概要へ目を落とす。
 潜入、接触、暗殺――冷たい文字列が並ぶたびに、僅かに背筋が強張るのを自覚した。

 視線を横に流すと、スコッチとライも同じように端末に見入っていた。
 二人とも席に座ろうとはせず、バーボンと同様に立ったまま画面の流れを追っている。意図的か、それとも落ち着かないのか。どちらにせよ、その姿勢が場の張り詰めを更に強めていた。

 耳に届くのは、端末を操作する微かなタップ音と、空調が吐き出す乾いた風の音だけ。会話はひとつもなく、言葉よりも沈黙の方がこの場にはふさわしいと、誰もが直感していた。

 バーボンはふと、蛍光灯に照らされたライの横顔を盗み見た。無表情のまま画面を睨み、指先は一分の狂いもなく動く。スコッチは顎を僅かに引き、必要以上に視線を走らせては周囲を計るようにしていた。バーボンを含め、この三人は幹部から見れば新人でしかない。だがその眼差しには、若さよりも深い影が宿っている。

 立ち尽くす三人の間に、薄氷のような緊張が張り詰めていた。
 その静寂を、重たい鉄扉が軋む音が切り裂いた。

 先に姿を現したのはベルモットだった。
 場違いなほど艶やかな笑みを浮かべ、まるで舞台袖から優雅に現れた女優のように、拠点の冷たさを一瞬だけ塗り替える。ブロンドが蛍光灯を受けて淡く揺れ、白い壁面に儚い光を散らした。

 そして、その後ろに現れた黒い影。
 濡鴉色の長髪をさらりと胸元に垂らした髪型。異国情緒漂う褐色の肌。彫りの深い顔に落ち込んだ灰緑色の瞳。引き結ばれた口元は、塩で塗り固めたかのように動かない。黒一色で統一された背広と、それを覆う外套が、彼の温度を感じさせなかった。

 この男が誰なのか、三人の誰も口を開こうとはしなかった。
 ただ、その存在だけで場が圧される。

「あなたたちに紹介するわ」

 艶やかな声色は、舞台の幕開けを告げるアナウンスのように透き通っていた。冗談めかした軽さを装っているのに、その奥には相手を値踏みする冷ややかさが潜んでいる。バーボンには、彼女の一言すら観客を翻弄する芝居の一部のように見えた。

「彼はアブサンよ。組織の理念をそのまま反映させた男……って言えば伝わるかしら……得意分野は近接戦闘と、機械周りね」

 ベルモットの紹介は淡々としていたが、その言葉は、ナイフの刃先のように冷ややかに三人へ突き付けられた。

 バーボンは目だけを男に移した。
 灰緑の瞳は深い水底のように澄んでいながら、底に沈むものを誰にも見せようとしない。

 組織の理念――裏切りは許さず、痕跡は一欠片も残さない。個人は存在せず、ただ組織に奉仕する。

 組織にアブサンという名の幹部がいることは知っていた。だが、自分に名が与えられるまで、廊下ですれ違うことすら叶わなかった存在だった。その彼を前にして、バーボンはどこか納得したように冷や汗を垂らす。

 この男は、組織の象徴そのものだった。

 アブサンは咥えていた煙草に火を点け、深く吸い込んだ。紫煙が緩やかに広がり、無機質な空気を濁らせていく。その動作はただの習慣のはずなのに、どこか場を支配する間を作り出していた。

 吐き出された煙の向こうで、灰緑の瞳がゆっくりと動く。
 バーボン、スコッチ、ライを順に一瞥した。それは警戒から射抜かれたわけでもなく、興味を示しているわけでもない――まるで、道端に転がる石ころの存在を確認するかのようだった。

「……察しているだろうが、俺はお前らの監視役だ。裏切りの影を見せたら、その場で処分する」

 紫煙が天井へと揺れ昇り、冷えた空気を鈍く濁らせた。
 灰緑の瞳に浮かぶのは、脅しでも激情でもなく、ただ淡々とした事実だけが響いていた。

「だが、安心しろ。お前らが仲間でいる限りは、上司として、お前らを鍛えてやる。余計な手間だけは掛けさせるなよ」

 煙草を咥え直し、アブサンは気怠げに肩を竦めてみせた。
 吐き出された言葉は、冷酷でありながらも理に適っていた。生かすのも殺すのも感情ではなく、ただ組織の益に沿うか否かだけ――その徹底した線引きこそが、彼の言葉を重く響かせていた。

 バーボンはふっと口元に笑みを浮かべた。
 その笑みは場を和ませるためというより、むしろ相手の反応を計るための仮面に近かった。軽く肩を竦め、視線を細める。

「案外、僕たちとは仲良くやっていけそうですね」

 皮肉とも挑発ともつかない声音。
 だがその奥には、目の前の男をどう捉えるべきか――値踏みする鋭さが潜んでいた。その声に、アブサンは口角を上げる。

「そうか。なら、まずは歓迎しよう」

 アブサンはそう言い、ゆっくりと腕を伸ばした。
 友好の証に過ぎないはずの仕草。だがその掌には、どこか測りかねる重さが宿っていた。

 差し出された手を前に、バーボンの指先が一瞬止まる。僅かな逡巡ののち、その手を握り返した瞬間、冷たい掌の感触に妙な異物感が走った。だがそれはすぐに煙のように紛れて、ただ硬質な印象だけが残る。

 アブサンは淡々と次の相手に手を差し出す。
 ライは無表情のまま受け、スコッチは僅かに身構えながらも従った。三人の手に残ったのは、温もりではなく、何か曖昧な“痕跡”だった。それが契約の印なのか、それとも鎖の端緒か――判断はつかなかった。

「話は以上だ。何もなければ、解散してくれ」

 アブサンは片手をポケットに差し込み、もう片方で無造作に灰を落とした。その仕草は軽やかに見えるのに、三人の背には妙な重さだけが残った。

 バーボンは鉄扉へ歩を向けながら、足取りを僅かに緩めた。
 先に出たライとスコッチの背を追うふりをしながら、耳を欹てる。

「――で、このあとどうするつもり?」

 アブサンは横目でベルモットを流し見る。
 その灰緑の瞳には、思案どころか感情の影すら映っていない。
 むしろ、それを意図的に消し去っているようにさえ見えた。

「まあ……この拠点で酒でも、とは思っていたがな」

 何気ない独り言のように落とされた言葉。
 だが、その声音は不自然なほど明瞭で、まるで誰かに|聞かせる《・・・・》ために選ばれた調子だった。


***


 地下拠点、休憩室。
 白い壁に囲まれた部屋は狭く、家具も必要最低限。机の上には三人の端末と資料が広げられ、蛍光灯の光に照らされていた。バーボンは椅子の背に浅く腰かけ、端末の画面を指先でなぞる。

 明日は潜入、接触、暗殺の任務がある。
 標的の行動記録や、周囲との交友関係、趣味嗜好――そのすべてを読み解き、接触の糸口を探っていく。

 バーボンの役目は、標的への接触と情報収集。懐に入り込み、裏切りの兆候を見極めるのが、今回の任務となる。標的の裏切りが確定した時点で暗殺に移行し、射撃の届くテラスへと誘き出す。

 視線を横にやれば、ライが壁際の椅子に腰かけ、無言で端末を操作していた。銃器の構造図や建物の間取り、射線の確認。無駄のない指先の動きは、既に最終局面を見据えているようだった。

 スコッチはベッドに腰を下ろし、端末を眺めながら情報を整理していた。
 通信経路の洗い出し、周囲の監視網、警備の配置。彼の役目は情報の遮断――敵の声を封じることだ。

 狭い空間にいながら、互いに言葉を交わすことはなかった。
 だが沈黙の中に、それぞれが背負った役割が鮮やかに浮かび上がる。

 この任務はただの接触ではない。
 裏切りの芽を見極め、芽吹く兆しがあれば躊躇なく摘み取る――組織に属する者としての通過儀礼でもあった。

 バーボンは一度だけ目を閉じ、深い息を吐く。
 そのとき――袖口に、僅かな違和感が走った。

 布地の内側に触れる、ごく小さな硬質の感触。
 何気なく手首を払う仕草をしながら、指先でそれを摘み取る。掌に乗せたのは、第一関節ほどの小さな盗聴器だった。それが握手のときに仕掛けられたものだと悟るのに、大した時間はかからなかった。

 胸の奥に冷たいものが落ちる感覚と同時に、どこか納得する思いもあった。あの男なら、仕掛けてもおかしくはない。

 バーボンは唇の端を僅かに吊り上げ、力を込めて潰す。
 カチリ、と乾いた音とともに、冷たい残骸が掌に散った。指先に残る感触は小さく儚いが、その背後に潜む意図は重く、息苦しい。

「バーボン、少しいいか」

 不意に声を掛けられ、心臓が一瞬だけ跳ねる。
 振り向いた先で、ライが無表情のままこちらを見ていた。
 低く抑えた声が、休憩室の冷たい空気を震わせる。

「……お前、あの部屋から出るのが遅かったが……奴は、アブサンは何か言っていなかったか」

 バーボンは軽く息を吐き、視線を端末に戻した。

「ああ。拠点で酒でも飲むと言っていたが……」

 アブサンの、意図的に落とされた言葉。
 やはり、仕掛けたのはあの男に違いない――心の中でそう結論づけながらも、表には出さず淡々と告げる。

 ライは小さく頷き、スコッチも無言で視線を合わせた。その反応だけで、二人もまた同じものを見つけていると分かった。

「……この拠点で酒を飲めるのは、あのバーしかないよな?」

 スコッチの、低い声に込められた確信。問いかけの形を取りながらも、答えは最初から決まっているようだった。

 バーボンは目を細め、唇の端に僅かな笑みを浮かべる。

「……どうやら、全員で行くしかなさそうだ」

 重たい沈黙を切り裂くように交わされた言葉。
 三人の視線が交錯した瞬間、向かうべき場所はひとつに定まった。

 白い蛍光灯に照らされた休憩室を後にし、三人は無言のまま狭い廊下を進んでいく。コンクリートの壁に反響する靴音が、やけに大きく耳に残った。地下深くへと続く階段を下りるにつれ、微かに酒精と煙草の匂いが漂ってくる。

 扉を押し開けた瞬間、目に飛び込んできた光景に、僅かに足を止めた。

 地下拠点のバーカウンター。
 その中央に、アブサンは既に腰を据えていた。組織端末を開き、琥珀色のグラスを片手で揺らしている。まるで三人が来るのを知っていたかのように、ゆったりと紫煙を燻らせていた。その姿は待ち構えていたというより――最初から、三人がここに来ることを織り込んでいたようだった。

 アブサンはグラスを口元に運び、喉を湿らせるとゆっくりと視線を横に滑らせた。その灰緑色の瞳が三人の顔を順に眺めたあとで、低く、くぐもった声が落ちる。

「遅かったな」

 その声音は歓迎でも叱責でもない。ただ、予定通りの結末を確認するかのような響きだった。

 三人は自然と距離を詰め、カウンターへ歩み寄る。バーボンは懐から潰した盗聴器の残骸を取り出し、無造作に置いた。

「――この盗聴器。どういうつもりですか?」

 アブサンは片手で組織端末のキーボードを淡々と叩く。
 視線すら三人に向けずに、口を開いた。

「安心しろ……仕掛けはしたが、何も聞いていない」

 三人の間に微かな沈黙が落ちた。その沈黙を断ち切るように、アブサンの乾いた操作音が途切れ途切れに響く。日常の作業の片手間に答えているだけのようでいて、その気安さがかえって不気味だった。

 バーボンは唇を引き結び、視線を細める。

「……なら、なぜ仕掛けたんです?」

 その問いに、アブサンはようやく片手を止めた。
 琥珀の液体をゆるく揺らし、気怠げに目を伏せる。その仕草には、脅すでも言い訳するでもなく、ただ当然のことを答えるだけの淡白さが漂っていた。

「歓迎の印だ。ただの挨拶だと思え」

 まるで形式ばった乾杯のように軽い響きだった。バーボンの耳には警告よりも、むしろ義務的な説明のように聞こえた。

「……それにしては、やけに物々しい挨拶だったが」

 ライの皮肉混じりの返しにも、アブサンは煙草を咥え直すだけだった。紫煙の向こう、その瞳には感情の揺らぎは見えない。

「……名を与えられたからと言って、組織に益をもたらす人間だとは限らない。お前らのような新人が一番危うい……周囲への疑心が鈍り、僅かな驕りが生まれ、最後には愚行に走る」

 語り口はあくまで平坦。
 叱責でも戒めでもなく、まるで天気の話でもするように投げかけられる。それがかえって、彼の言葉に重みを与えていた。

「つまり、気付かなければ……どうしてた?」

 バーボンの声に、アブサンは短く吐息を零す。まるで面倒な計算の答えを示すように、静かに口を開いた。

「当然、処理対象だ。裏切る知性も持たない、という意味でな」

 そこに迷いは一片もなく、ただ事実を述べる冷たさがあった。だが同時に、非情さよりも徹底した合理の匂いが勝っていた。

「……なら、今回は大丈夫ってことか?」

 スコッチの声が低く落ちる。
 沈黙を挟んで、アブサンは再びキーを叩きながら答えた。

「ああ。だがな……この組織に長く居たいなら覚えておくといい。この組織では、裏切るよりも先に――無能が消えていく」

 紫煙の奥で、灰緑の瞳が僅かに細まる。そこに嘲笑も脅迫もなかった。ただ静かに現実を告げる色が宿っていた。

「その言葉の意味をよく咀嚼して、今日は帰るといい」

 促す声音は冷ややかだったが、刃を突きつける鋭さはなく、むしろ淡い倦怠感が滲んでいた。まるで忠告以上の意味は持たないと言わんばかりに、その声は響いていた。

「明日の任務はお前らだけで終わらせろ。俺は影に潜む……だが、堕ちたときは……後始末くらいはしてやる」

 そう言い切ったアブサンは、指を止めると端末を静かに閉じた。
 残された琥珀の液体をひと息で煽り、カウンターに無造作に置く。立ち上がった背中は重々しさも誇示もなく、ただ気怠い気配を纏ったまま、紫煙の向こうに遠ざかっていった。

 その背を見送りながら、バーボンは僅かに目を細める。
 冷酷な処刑宣告のようでもあり、奇妙な庇いの言葉のようでもある。どちらとも取れる曖昧さが、胸の奥に棘のように残った。

 ただ一つだけ確かに分かったのは――明日の任務に失敗は許されない、ということ。微かな安堵が胸を掠めたが、それはすぐに重い焦燥に呑まれ、残ったのは圧迫感だけだった。

 酒精と煙草の匂いが掠めて離れない。
 それは忠告の残響のように、三人の胸の奥を鈍く刺していた。

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