光を抱く者

018 - 絶望への布石


 都内の商業区は、休日の喧騒を孕んでいた。
 舗道の石畳には昨夜の雨の名残が薄く光を反射し、その上を行き交う人々の影が重なり合っては揺れている。

 だが、頭上に広がるのは雲ひとつない快晴だった。
 梅雨入り前の重苦しさを裏切るような澄んだ青が、ビルのガラス窓を鋭く照りつけていた。

 駐車場に車を停めたアブサンは、無造作にコートの裾を払って歩道へ足を踏み出した。黒一色のスーツにロングコート――周囲の華やいだ休日の空気から浮き上がるような装いだったが、本人にその自覚はない。灰色の調光グラスが陽光を鈍く弾き、隠された灰緑の瞳は雑踏の中を静かに切り裂くように前だけを見据えていた。

 隣を歩くシェリーは、タートルネックに身を包んでいた。
 研究所で纏っていた白衣は置いてきたはずなのに、その仕草や纏う気配にはまだ冷ややかな研究員の影が残っている。

 細身の体躯を覆う臙脂が街の雑踏に映え、すらりとした長身は同年代の少女たちよりも大人びて見えた。だが、どこか張り詰めた影を纏うその横顔は、やはり彼女を“普通の少女”とは呼び切れない雰囲気を漂わせていた。

 目に留まった店先へ、シェリーは迷いなく足を踏み入れる。
 その姿は休日を楽しむ少女というより、必要な資料を淡々と取り揃える研究者のようだった。品物を手に取る仕草も、支払いを済ませる動作も無駄がなく、次の店へと移るまでに迷いはない。

 購入した袋はすべてアブサンが抱えていた。
 黒のスーツに映える無機質な紙袋がいくつも腕に下がる光景は、場違いなようでいて妙に収まりがよい。アブサンは表情を変えず、ただ無言で歩を進めていた。

 その無骨な姿に、シェリーはふと視線を流した。
 普段、研究所で見る冷徹な幹部の横顔が、今は雑踏の中で荷物持ちに徹している――その落差に、彼女の唇が自然と弧を描いた。

 くすり、と小さな笑みが零れる。
 アブサンは僅かに横目を遣ったが、何も言わない。灰色の調光グラスの奥に潜む視線は再び正面へ戻り、歩みは変わらなかった。

 やがて歩道の信号が赤を示し、人の群れが立ち止まる。
 シェリーもその流れに倣い、隣に立つアブサンの横顔を見上げるようにした。陽光を反射するグラスが彼の瞳を隠し、表情を読み取ることはできない。だが、それでも問いは自然に零れ落ちた。

「……今日、仕事は休み?」

 抑えた声は、人波のざわめきに溶けるように響いた。
 アブサンは視線をシェリーに移すと、鼻を低く鳴らした。グラスの奥に潜む灰緑の瞳は動かず、淡々と短い言葉だけが返る。

「予定ではな」

 素っ気ない答えに、シェリーは目を細めた。
 立ち止まったままの横顔を観察するように見つめ、吐息まじりに言葉を重ねる。

「どうして休みの日に予定を組むのよ……私と姉を引き合わせるのだって、貴方からしたら“仕事”でしょ」

 アブサンは短く息を吐いた。グラスの奥に潜む双眸が僅かに揺れ、口端に苦味を帯びた笑みが浮かぶ。

「……休暇を貰っても、時間を潰す術がない」

 快晴の陽光に照らされた街並みの喧騒と、アブサンの冷めた声。その落差にシェリーは呆れを隠せず、肩を竦めて口を開いた。

「仕事人間ね……趣味もないの?」

 皮肉めいた問いに、アブサンは小さく眉を寄せた。だが、反論はなく、代わりに吐き出されたのは淡々とした現実の答えだった。

「あるにはあるが、すべて仕事の延長線と言える」

 信号が青へと変わる。
 群衆が一斉に横断歩道を渡り始め、シェリーの呆れを含んだ溜め息は、喧騒に呑まれて掻き消える。

 そして渡った先、ガラス張りの店舗が視界に飛び込んだ。
 そこに掛けられた看板の文字――フサエブランド。シェリーの足は自然に吸い寄せられるように、その店先へ向かっていた。

 店内のガラスケースに、秋を思わせる金の光が煌めいていた。
 イチョウを模した繊細なネックレス。その前に立ち止まったシェリーの視線が、ほんの一瞬だけそこに縫いつけられる。

 店内に流れる空調の風が、外の熱気を洗い流していく。シェリーは視線を逸らすように踵を返し、店先から離れようとした。

「買わないのか」

 アブサンの低い声が背後に落ちる。
 足を止めたシェリーは躊躇いがちに振り返ると、落ちた髪を耳元に撫で付ける。貼り付けた笑みはぎこちなかった。

「今日の買い物は終わり。予算はもう使っちゃったし……それに、見てただけだから。帰りましょう」

 言葉を並べるたび、口元に浮かんだ笑みは僅かに歪んだ。
 未練を押し殺すほど、声は乾き、笑みはぎこちなく歪む。その瞳の奥にはまだ金の光が残り――自分で切り捨てたはずのものを惜しむように、微かに揺れていた。

 アブサンは薄く目を細め、無言のままケースへと視線を移す。
 イチョウの葉が重なり合うようにあしらわれた繊細な金の光が、ガラス越しに冷ややかに煌めいていた。

 黒い手袋をした指先が静かに持ち上がる。
 アブサンは店員を呼び止めると、迷いのない声でネックレスを指し示した。短いやり取りののち、アブサンの懐からカードが取り出され、流れるように店員に受け渡される。

 シェリーの青い瞳が大きく揺れ動いた。
 止める言葉を探そうと唇が開きかける。だが、声を出そうとしたときには、アブサンは既に会計を終えており、白い手袋に包まれた店員の手がネックレスをガラスケースから取り出していた。

 ネックレスを受け取ったアブサンは、紙袋を脇に抱えると無造作に振り返った。その自然な足取りは、シェリーの逡巡を断ち切るように一切の迷いがなかった。

「……どうして……」

 その問いに答えることなく、アブサンは代わりに足を止め、シェリーの正面に立った。黒い影のような長身が至近に迫り、シェリーの青い瞳が揺れながら彼を見上げる。

 次の瞬間、アブサンの腕が緩やかに持ち上がる。
 抱き締めるように背後へと回され、冷ややかな指先が首筋に触れた。シェリーは息を詰め、身じろぎもできずに硬直する。

 黒い手袋の指先で持ち上げられた鎖が、耳元で微かな音を立てた。
 アブサンは首を傾け、繊細な留め金を迷いなく繋ぎ合わせる。そのすぐ傍で、低く冷徹な声が落ちた。

「誕生日くらい、年相応でいても誰も何も言わん」

 低い囁きが耳朶を掠める。
 灰緑の瞳が間近に迫り、その声音は冷徹さを装いながらも、僅かに揺らぐ温もりを帯びていた。

「今のお前は“シェリー”ではなく……“宮野志保”なのだからな」

 囁きとともに、胸元で金のイチョウが微かに揺れた。
 その瞬間、シェリーの青い瞳が大きく見開かれる。

 胸奥に冷たく沈殿していた孤独が、僅かに解けていく感覚。
 組織に縛られた存在であることを忘れさせるほどに――その声はシェリーの胸に響いていた。常に利用価値だけを測られ続けてきた自分が、初めて“年相応の少女”として扱われた気がした。

 熱のようなものが頬を染め、吐息が浅く乱れる。感情を抑え込もうと口端を引き結ぶが、揺れる瞳はどうしても隠し切れない。

 誇りでも歓喜でもない。
 ただ“自分が存在していい”と告げられたような温度に、シェリーは抗いようもなく心を奪われていた。

「……ねぇ。貴方、妙に手慣れてるけど。いつも女の人にこんなことしてるんじゃない……?」

 感情を隠すように吐き出された揶揄。
 シェリーの青い瞳が探るように細められる。

「さあ……どうだったかな」

 アブサンは薄く笑みを浮かべ、曖昧に答える。
 そして抵抗の余地を与えぬように、黒い手袋の指先が伸ばされ、シェリーの頭に置かれる。その仕草はまるで子供を宥めるかのようでいて、同時に年相応の少女として扱う優しさを孕んでいた。

「買い物は終いだ。移動するぞ」

 アブサンの表情が無に戻る。
 言葉は冷徹に区切られていた。だが、その声音の奥には、確かに彼女を導こうとする微かな温度が潜んでいた。

 シェリーは胸元のイチョウの輝きをそっと指先で押さえた。
 アブサンの黒い背中が雑踏の向こうへと歩み出す。その背を追う一歩の軽さに、自分でも気付かぬほどの信頼が滲んでいた。


***


 米花町の外れにある古びた喫茶店。
 そこは昼下がりの陽光を受けても尚色褪せた趣を残していた。

 朽ちた看板、年季の入った木の扉、僅かに軋む硝子窓。喧騒に満ちた街の中心から離れたこの一角には、人影もまばらで、時間の流れが鈍くなったかのような静けさが漂っていた。

 アブサンは車を停車させると、無言でエンジンを切った。
 灰色の調光グラスがわずかに光を弾き、無機質な瞳の奥を覆い隠している。ドアを開け、長身の影が外に現れたとき、シェリーもまた助手席から小さく吐息を洩らして続いた。

 店先にはすでにひとりの影が立っていた。宮野明美――シェリーこと宮野志保の姉。どこか憂いを帯びながらも柔らかな眼差しを浮かべ、妹の姿を見た途端、ふっと花のような笑みを咲かせた。

「志保……」

 呼びかけに、シェリーの青い瞳が小さく揺れる。
 アブサンはふたりの間に漂う温度を測ることなく、無言でポケットから鍵を取り出した。古びた扉が乾いた音を立てて開くと、微かに焙煎豆の残り香が鼻を掠める。

 中は外観以上に古びていた。
 使い込まれた木製のテーブルと縒れた革のソファ、壁に掛けられた色褪せの貼り紙。客の気配はなく、外界から切り離されたようにひっそりとした空間だった。

「奥のテーブルに座れ」

 アブサンは短く告げ、二人を奥まった席へと促す。
 姉妹が向かい合って腰を下ろすと、カウンターの奥にあるポットへと向かい、無言でふたり分の珈琲を注いだ。立ち昇る蒸気と苦味を帯びた香りが、静けさに混じって漂いはじめる。

 注ぎ終えたカップを両手で持ち、テーブルに置く。
 すぐさま背を向け、アブサンはその場を離れようとした。足を一歩踏み出したとき、コートの裾が不意に弱々しく引かれる。

 はたと立ち止まる。
 片眉を上げて振り返ると、シェリーが裾を掴んでいた。

 頬に微かな赤みを滲ませ、視線は宙を泳いでいる。
 投げかける言葉を探すように、あるいは言い出すことを躊躇うように唇を震わせていたが、それでも掠れた声が零れた。

「今日はこっちで一緒に話さない? 休み……なんでしょ」

 その一言に、アブサンは眉を僅かに寄せる。
 灰色の調光グラスを持ち上げ、探るように目を細めた。見上げたままのシェリーと視線が交錯し、数秒の沈黙が流れる。

 揺れた青い瞳を、無碍にはできなかった。
 前夜のやり取りが脳裏を掠める。不用意な発言への負い目と彼女が誕生日であるという事実が、重く伸し掛かっていた。

 それに――宮野明美には訊きたいこともある。
 会議で出た情報漏洩の件で、宮野明美の身近にいる組織の人間を調べる必要があった。その存在を確かめるには、この場に同席する必要がある。拒む理由は、もはやどこにもなかった。

「……早く手を離せ。珈琲くらい、注ぎに行かせろ」

 吐息混じりに低い声を落とし、調光グラスを戻した。冷徹に響かせたはずの声音に、微かな逡巡が滲んでいた。

 シェリーはその答えに、ふっと笑みを咲かせる。
 花が開くように明るい笑顔。静かに裾から手を離した。

 アブサンは僅かに気圧され、口元を苦々しく歪める。半ば逃げるように踵を返し、カウンターへと足を運んだ。

「志保、嬉しそうね……私は歳の差でも応援するわよ」

 背後で、宮野明美の柔らかな声が落ちた。
 微笑ましげに響いたその一言に、シェリーが潜めた声で否定の言葉を落とす気配が伝わってくる。だが、アブサンは何も聞かなかったことにした。耳に届いた音を冷酷に切り捨てるように、ただ黙々と珈琲をカップへと注ぎ込む。

 熱気を孕んだ香りが立ち上り、短い吐息が零れる。
 カップを手に取り再びテーブルへ戻ると、そこには座り直された姉妹の姿があった。先ほどまで向かい合っていたシェリーが、既に姉の隣に移っている。並んで座り、どこか安心したように寄り添う姿。その対面に、アブサンは無言で腰を下ろした。

 宮野明美は、湯気を立てるカップに指を添えたまま、静かに顔を上げた。視線はまず妹に、次いでアブサンへ――交互に往復し、最後にはにこやかな笑みを浮かべる。

「志保も信じられる人、見つけられたのね……嬉しいわ」

 柔らかな声が落ちる。
 シェリーの頬に、一瞬で赤みが差した。視線を逸らそうとする気配があったが、代わりに唇が小さく結ばれる。そして、芯の通った声が、かすかな棘を帯びて響いた。

「……組織の中では、一番信用できると思ってるけど……」

 認めたくない――その意思が透けて見える調子だった。
 アブサンは短く鼻を鳴らし、無言で腕を組む。伏せた瞳に陰りを落とし、忠告めいた言葉を吐き出した。

「やめておけ……組織の人間は忠実だが、それはあくまで組織に対してだけだ。他には……言うまでもない」

 冷徹に切り捨てるような声音。
 シェリーは反射的に唇を尖らせ、非難の眼差しを対面に座るアブサンに投げる。だが、返す言葉は見つからず、結局は黙り込んだ。カップの縁をなぞる指先だけが、不満を物語っている。

 その様子を眺めていた宮野明美は、くすりと笑った。
 静かに揺れる笑みには、否定の響きが含まれていた。

「私はそうは思わないわ」

 やんわりとした声で切り返し、続けて言葉を重ねる。

「私が今お付き合いしている人は組織の人間だけど……私には、組織の人全員が悪い人には見えないかな」

 アブサンは片目を僅かに開き、探るような視線を向けた。
 カップを指先で回しながら、低い声で促す。

「……それは興味があるな。どんな奴なんだ」

 薄く笑みを浮かべ、探る意図を押し隠した。
 純粋な興味を演出する裏で、冷徹な思考が素早く駆け巡る。

 宮野明美は組織の末端にすぎず、組織の内部システムに接続できる権限など付与されていない。彼女の自宅に出入りできる一定以上の権限を持った組織の人間が、不正通信を行ったと推測できる。

「いけ好かない男よ……」

 シェリーが呆れと苛立ちを混ぜた吐息を洩らした。
 続く声は棘を含み、淡々と鋭かった。

「組織に入るために姉を利用したの。名前は、諸星大」

 名が落ちた瞬間、アブサンの奥歯が僅かに軋んだ。
 表情に出すことはなかったが、喉に溜まった重苦しさを押し流すように、カップを口元に運び、苦味を舌に落とした。

「そうね……でも、本当は悪い人じゃないと思うの」

 宮野明美は眉を下げ、小さく息をついた。
 曇った声で言いながらも、瞳には確信めいた光が宿る。

「最初は組織に入るために近付いたのかもしれないけど……今は、ちゃんと私のことを見てくれているのが分かるもの」

 彼女の声は、柔らかさの中に揺るがぬ感情を秘めていた。
 目を僅かに上げ、遠い記憶を呼び起こすように呟く。

「寡黙で、凄く落ち着いてる。何かを隠している気もするけど――でも、優しいの」

 アブサンの喉が短く鳴った。
 言葉を遮るように、低い声が間を裂いた。

「……黒髪を腰まで伸ばしていて、長身。ニット帽を好んで被っている。深く関わろうとしない癖に、観察眼は鋭い……だろ」

 シェリーも、宮野明美も、驚きに目を瞬いた。
 一拍の静寂を置いて、明美が掠れた声を零す。

「どうして分かったの?」

 アブサンは目を僅かに伏せ、吐息を押し殺すように答えた。

「俺の部下だった男だ。そのくらい分かる」

 冷徹に区切った言葉の裏で、奥歯が強く噛み締められる。
 かつて部下として隣にいたはずの人間。その名を、今は過去形で呼ぶしかない現実が胸を抉った。

「部下“だった”って……今は違うのね」

 シェリーの怪訝な声が飛ぶ。
 アブサンは返答の代わりに立ち上がった。

「……ああ。残念だがな」

 それだけを残し、珈琲のカップを手に取る。
 続けて、短く告げた。

「悪いが、急遽仕事が入った。二人で話していろ」

 冷たく響かせた声に、言い訳も説明もなかった。
 カップを持った手を僅かに強張らせながら、アブサンは距離を取るように別のテーブルへ歩を移す。革張りのソファが軋む音が、妙に耳に残った。

 姉妹の小さな吐息や囁きは、もう彼の耳には入らない。
 ただ一つ、内心に深く刻まれたのは“諸星大”という名と、その名が孕む不可避の――絶望の連鎖だけだった。

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