光を抱く者
017 - 副次作用
研究所の廊下は、冷気を孕んだ無機質な空間だった。
磨かれた床が靴底を硬質に響かせるたび、淡白な蛍光灯の光が灰色の壁に薄い影を作る。そこを歩くアブサンの黒いコートは、音すら拒むように静かに揺れていた。
すれ違う研究員たちは、男の姿を認めた瞬間に強張る。
誰もが一様に目を逸らし、竦むように背を丸めて深々と頭を垂れる。恐怖の色を隠しきれず、呼吸さえ浅くなるのが見て取れた。
アブサンは何も返さない。声を掛けることも、目を留めることすらしなかった。ただ影のように淡々と歩を進める。廊下に満ちる緊張は、アブサンが背を過ぎれば潮が引くように僅かに緩む。だが次の瞬間、また別の研究員の肩が強張る――その繰り返しだった。
やがて無骨な金属製の扉が現れる。
カードキーの認証音が乾いた電子音を響かせ、アブサンは躊躇なく取っ手を押し下げた。
扉が軋みを立てて開く。
研究室の空気は廊下よりもさらに冷え、薬品と機械油の匂いが鼻を突いた。無数の端末と試験管が整然と並び、作業台に立つ白衣の研究員たちが一斉に顔を上げる。
鋭い視線が突き刺さるわけではない。
だが恐怖と緊張の入り混じった空気が、アブサンの入室と同時に走ったのは明白だった。数秒の沈黙ののち、研究員たちは慌てて視線を逸らし、再び手元の作業に没頭する。
アブサンは鬱陶しげに目を細めた。
灰緑の瞳に映るのは、己を忌避する視線の残滓。馴れ切った反応ではあるが、無駄な注視には相変わらず煩わしさを覚えた。
足音を立てぬまま、部屋の隅へと移動する。
中央で作業を行う研究員たちの邪魔にならない位置――壁際の無骨な椅子に腰を下ろすと、コートの裾が静かに広がった。
テーブルの上に組織端末を置き、即座に起動させる。
黒い画面が開き、白い文字の羅列が淡々と踊り始める。コマンドラインに流れる英字や数字、記号は、無骨な静寂に金属音のような冷たさを添えていた。
キーを叩く指は迷いなく動く。
だがその動作の合間、アブサンの視線が僅かに中央へ滑った。
そこでは研究員たちが機器を操作していた。
白衣が忙しなく行き交い、薬品の匂いが漂い、乾いた声が短く交わされる。シェリーの氷のように冷ややかな指示が響くたび、その場の空気は一段と硬く、重く苦しくなる。
アブサンは瞬きひとつせず、端末に視線を戻した。
指先が無言のままキーを叩き続ける。
黒い画面に走る文字列は、次々と内部ネットワークのログを引きずり出し、冷たい光を帯びて並び替えられていった。
会議で上げられた情報漏洩の件――内部端末と外部ネットが交差していたという不審な挙動。ジンが放った簡素な報告を裏付けるために、アブサンは端末の深層に潜り込んでいく。
無機質なコマンド群が画面を埋める。
幾重にも重ねられた認証ログを捲り上げ、時刻、発信元、宛先を冷徹に洗い出す。文字列は奔流のように流れ続けたが、その中にアブサンの灰緑の瞳は、確かな規則性を見つけ出していた。
――不自然なポート接続。
組織で定められた暗号方式とは異なるパケットが、一度だけ外部へ向けて送信されていた。
「CIAか……いや、FBIの暗号方式か?」
唇の端が僅かに引き結ばれる。
パケット長の揺らぎと再送間隔には見覚えがあった。以前解析したFBIの秘匿通信と、よく似ている。内容自体は分からないが、ヘッダーに刻まれた経路情報は消しきれてはいなかった。
位置情報を引き出す。流れた瞬間を捉えるかのように、座標が数列として浮かび上がり、地図データへと変換される。灰緑の瞳がそれを映した瞬間、指先の動きが僅かに止まった。
その座標が指し示していたのは、宮野明美の自宅周辺だった。
研究員たちの無機質な作業音が背後で鳴り響く。そのざわめきの中で、アブサンは一度だけ短く瞼を伏せた。思考が冷徹に巡る。
端末を操作したのが誰か――断定はできない。
だが、場所がそこだというだけで、疑念は確かに募る。
「……まさか、な」
アブサンは息を潜めるように吐息を落とした。
白い文字が走り続ける画面に視線を戻す。冷徹な表情には何の揺らぎも浮かばない。だが、口元を片手で覆い、細めた目で黒い画面を睨みつけるその姿には、僅かに焦燥の色が滲んでいた。
時は過ぎ、研究室の喧騒は少しずつ薄れていった。
資料を抱えた研究員が一人、また一人と退出し、白衣の擦れる音も、薬品瓶の触れ合う微かな音も、やがて途切れがちになる。
日付が変わる頃には、作業台に並ぶ影は殆ど消えていた。
残された端末の光だけが機械的に瞬き、空調の低い唸りが広い室内を満たす。
アブサンは壁際の椅子に深く腰掛けたまま、黒い画面を閉じた。
指先がキーから離れると同時に、白い文字の奔流は消え、虚ろな闇だけが液晶に映り込む。静寂の中で聞こえるのは、紙を捲る小さな音と、ペン先がノートを走る微かな掠れだけだった。
中央の机に座るシェリーが、書類を束ねる仕草を止めない。
氷のように冷ややかな気配を纏いながらも、その小さな背中は、広すぎる研究室にただ一つ灯された明かりのように際立っていた。
「……嘘……まさか……」
静寂を破るように、シェリーが勢いよく立ち上がった。
椅子の脚が甲高い音を立て、白衣の裾が翻る。驚きの声が喉奥から零れ落ち、シェリーの瞳が研究用カゴに釘付けになる。まるで信じられないものを見たかのように、全身が硬直していた。
アブサンは片眉を上げ、ゆっくりと立ち上がる。
足音を殺して背後に歩み寄ると、その肩に指先を置いた。シェリーは小さく悲鳴を上げ、振り返る。続けて声は出なかった。
「何かあったのか」
僅かに怪訝な表情を浮かべ、アブサンが顔を近付ける。
彼女の視線はすぐにカゴへ戻り、震える唇が動いた。
「前臨床段階で、試薬投与時の反応を確認していたのだけど……」
言葉を切り、喉を鳴らす。その視線の先を追ったアブサンの灰緑の瞳に、小さな影が映り込んだ。
「一匹だけ、幼児化したのよ……マウスが……」
シェリーは指先を震わせながら、ケージの奥を指し示す。
そこには、他の成熟した個体より明らかに小さく、未発達な体躯を持つマウスが蠢いていた。
アブサンは顎に手を添え、しばし沈黙のまま凝視する。
やがて低い吐息とともに言葉を零した。
「毒としての効能以外確認されず、切り捨てられていたものが本来の目的を掠め取ったか……」
灰緑の瞳が微かに光を宿す。
それは驚きではなく、成果を冷徹に評価する視線だった。
「僥倖だな、シェリー。お前の両親もさぞやお喜びになるだろう。彼ら以上の成果を出せる兆しが見えたのだからな……」
言葉を落とした瞬間、アブサンの胸中に自己嫌悪が胸を掠めた。
幹部として、研究の成果を評価するのは当然の務め。だが、その評価で両親を引き合いに出すのは、酷だった。
まだ子供のシェリーにとって、その両親を亡くした喪失は決して癒えるはずもない。己の口が不用意に刃を突き立てたのではないかという猛省が、冷徹な表情の奥に走った。
「そうね……けど、幼児化の反応を見せたのは、これまで実験に使ったマウスの中で、この一匹だけ。調べることが増えたわね」
だが、シェリーの反応は意外なものだった。
一瞬だけ、その瞳に翳りが過った。哀しみの影が薄氷のように揺れ、胸奥に閉じ込めた痛みが滲んだのは確かだった。しかしそれは束の間。すぐにその揺らぎは歓喜へと塗り替えられる。
シェリーは幼児化したマウスを見つめ、吐息を洩らした。
その瞳には、研究員としての純粋な感嘆と、抑えきれぬ誇らしさが宿っていた。そして僅かに口端を持ち上げる。子供らしからぬ冷ややかさを常に纏っていた彼女の顔に、ほんの短い間だけ己を誇示するような熱い色が灯った。
言葉の刃は深くは刺さらなかった。だが、その反応が却って胸の奥を締め付ける――そんな奇妙な感覚が彼を襲っていた。
シェリーは椅子を引き戻すと、立ち上がった勢いを抑えきれぬまま研究用カゴに記録用のノートを近付けた。
視線はもう完全に研究者のものに戻っており、驚愕と歓喜が混じるその横顔に迷いはない。震える指でページを捲り、目の前の現象に取り憑かれたように動こうとする。
「……おい。まだやるつもりか」
低い声が研究室に沈む。
黒手袋をした掌が机の端に音を立てて置かれ、灰緑の視線が冷ややかにシェリーの横顔を射抜いた。
シェリーの肩が僅かに震える。だがすぐに、振り返ったその顔には気丈な色が戻っていた。掠れ気味の声が返る。
「当たり前でしょ。幼児化なんていう、信じられないものを見せられて……眠くなる方がおかしいわよ」
子供らしい強情さとも、研究者の執念とも言える返答。アブサンは眉間に皺を刻み、吐息をひとつ零すと視線を逸らした。説得が無駄であることは分かり切っている。今の彼女は止められない。
再び部屋の隅へと歩を戻すと、アブサンは机の下からひとつの紙袋を取り出した。薔薇の紋様を纏った包装紙が、無骨な空間には不釣り合いに覗いている。それを手に研究室の中央へと戻り、彼女の机に静かに置いた。訝しげに眉を顰め、彼女は瞬きを返す。
「ジンから、お前に」
その言葉が落ちた途端、シェリーの表情は固く強張った。
指先が微かに震え、伏せられた睫毛の奥に複雑な色が揺れる。それが“ジン”という名に反応したのか、それとも紙袋の意味を知っていたからか、アブサンには判断がつかなかった。
「そう言えば……誕生日だったわね。忘れてたわ」
シェリーの口から落ちた言葉は、淡々としていながらも自嘲の色を含んでいた。その声音は机上の冷たい蛍光灯に照らされ、乾いた響きとなって空気に溶けた。
アブサンは灰緑の瞳を細め、僅かに片眉を上げた。
予想外の言葉に反応するように、低く声を落とす。
「……誕生日? お前がか」
問い掛けを受けたシェリーは、一瞬だけ視線を泳がせたのち、ゆっくりとアブサンへ顔を戻した。机に頬杖をつく姿勢は崩さないまま、形ばかりの薄い笑みを口端に浮かべる。
「……ええ。まあ、別に大した日じゃないから……祝ってくれる人も姉くらいなものだしね……」
軽い調子に聞こえるその声の奥底に、孤独の匂いが潜んでいるのをアブサンは見逃さなかった。
灰緑の瞳が僅かに陰り、眉間に深い皺が刻まれる。
舌打ちが短く響く。
その音は苛立ちというより、自分の胸奥に突き刺さる苛立ちを外へ吐き出したような響きだった。
「何か、欲しいものは」
吐息を落としながら身を屈める。
黒手袋をした指先が机に触れ、灰緑の視線が間近にシェリーの顔を覗き込む。至近に迫るその眼差しは、冷徹に映りながらも、どこか探るような色を秘めていた。
不意を突かれたシェリーの瞳が、大きく揺れた。瞬きが二度、三度と繰り返され、次いで頬が僅かに朱に染まる。研究員としての冷ややかな仮面が剥がれ、年相応の少女の色が滲み出していた。
視線を逸らすように髪へ手をやり、落ち着かぬ仕草で毛先を撫でつける。そして、掠れるように声を落とした。
「……じゃあ、私の買い物に付き合って……なんてね。無理なのは分かってるから……ただの冗談よ」
最後の一言は、願望をかき消すように偽装されていた。
だがその僅かに紅潮した頬と、逸らされた瞳の奥に潜む淡い光は冗談にしてしまうにはあまりに真実味を帯びていた。
アブサンはその揺らぎを見逃さず、静かに息を吐いた。
「問題ない。明日の朝、迎えに来る」
「え……?」
シェリーの声は掠れていた。
瞳が瞬きを忘れたように大きく見開かれ、言葉を失ったままアブサンを凝視する。椅子の背に凭れていた身体が思わず前のめりになり、机に置いた指先が小さく震えた。
その表情には驚愕が先に走っていたが、次の瞬間には――胸の奥から溢れ出すような喜びの色が混じり始める。冷徹を装ってきた幼い顔に、年相応の少女の輝きが不意に灯った。
「姉との待ち合わせは十五時だからな……それまでは付き合える。買い物のあと、そのまま迎えば……何も問題はない」
アブサンは顎に手を当て、僅かに首を傾けながら淡々と答えた。
感情の昂ぶりを一切示さず、まるで予定の調整を報告するかのような冷静な声音。だが、その静けさの奥に――ほんの微かに、子供の願いを叶えることを厭わぬ響きが潜んでいた。
「……本当に? いいの?」
驚きに目を輝かせ、シェリーは立ち上がった。その瞳は今まで見せたことのないほどまっすぐで、淡い光が宿っていた。アブサンは薄く笑みを浮かべながら、シェリーの頭に手を添える。
その手つきは柔らかく、だが長くは留まらない。すぐに離され、冷徹な吐息がその場に落ちた。
「寝る口実が出来たな。明日に備えて、さっさと寝ろ」
背を向けたアブサンの耳に、シェリーの小さな吐息が届いた気がした。
だが、振り返ることはない。部屋の隅から荷物を取り出し、それを抱えたまま淡々と歩みを進め、研究室の扉を押し開ける。
冷えた空気が流れ込み、コートの裾を揺らす。背後に取り残された薔薇模様の紙袋だけが、所在なげに机上で揺れていた。
研究所の廊下は、冷気を孕んだ無機質な空間だった。
磨かれた床が靴底を硬質に響かせるたび、淡白な蛍光灯の光が灰色の壁に薄い影を作る。そこを歩くアブサンの黒いコートは、音すら拒むように静かに揺れていた。
すれ違う研究員たちは、男の姿を認めた瞬間に強張る。
誰もが一様に目を逸らし、竦むように背を丸めて深々と頭を垂れる。恐怖の色を隠しきれず、呼吸さえ浅くなるのが見て取れた。
アブサンは何も返さない。声を掛けることも、目を留めることすらしなかった。ただ影のように淡々と歩を進める。廊下に満ちる緊張は、アブサンが背を過ぎれば潮が引くように僅かに緩む。だが次の瞬間、また別の研究員の肩が強張る――その繰り返しだった。
やがて無骨な金属製の扉が現れる。
カードキーの認証音が乾いた電子音を響かせ、アブサンは躊躇なく取っ手を押し下げた。
扉が軋みを立てて開く。
研究室の空気は廊下よりもさらに冷え、薬品と機械油の匂いが鼻を突いた。無数の端末と試験管が整然と並び、作業台に立つ白衣の研究員たちが一斉に顔を上げる。
鋭い視線が突き刺さるわけではない。
だが恐怖と緊張の入り混じった空気が、アブサンの入室と同時に走ったのは明白だった。数秒の沈黙ののち、研究員たちは慌てて視線を逸らし、再び手元の作業に没頭する。
アブサンは鬱陶しげに目を細めた。
灰緑の瞳に映るのは、己を忌避する視線の残滓。馴れ切った反応ではあるが、無駄な注視には相変わらず煩わしさを覚えた。
足音を立てぬまま、部屋の隅へと移動する。
中央で作業を行う研究員たちの邪魔にならない位置――壁際の無骨な椅子に腰を下ろすと、コートの裾が静かに広がった。
テーブルの上に組織端末を置き、即座に起動させる。
黒い画面が開き、白い文字の羅列が淡々と踊り始める。コマンドラインに流れる英字や数字、記号は、無骨な静寂に金属音のような冷たさを添えていた。
キーを叩く指は迷いなく動く。
だがその動作の合間、アブサンの視線が僅かに中央へ滑った。
そこでは研究員たちが機器を操作していた。
白衣が忙しなく行き交い、薬品の匂いが漂い、乾いた声が短く交わされる。シェリーの氷のように冷ややかな指示が響くたび、その場の空気は一段と硬く、重く苦しくなる。
アブサンは瞬きひとつせず、端末に視線を戻した。
指先が無言のままキーを叩き続ける。
黒い画面に走る文字列は、次々と内部ネットワークのログを引きずり出し、冷たい光を帯びて並び替えられていった。
会議で上げられた情報漏洩の件――内部端末と外部ネットが交差していたという不審な挙動。ジンが放った簡素な報告を裏付けるために、アブサンは端末の深層に潜り込んでいく。
無機質なコマンド群が画面を埋める。
幾重にも重ねられた認証ログを捲り上げ、時刻、発信元、宛先を冷徹に洗い出す。文字列は奔流のように流れ続けたが、その中にアブサンの灰緑の瞳は、確かな規則性を見つけ出していた。
――不自然なポート接続。
組織で定められた暗号方式とは異なるパケットが、一度だけ外部へ向けて送信されていた。
「CIAか……いや、FBIの暗号方式か?」
唇の端が僅かに引き結ばれる。
パケット長の揺らぎと再送間隔には見覚えがあった。以前解析したFBIの秘匿通信と、よく似ている。内容自体は分からないが、ヘッダーに刻まれた経路情報は消しきれてはいなかった。
位置情報を引き出す。流れた瞬間を捉えるかのように、座標が数列として浮かび上がり、地図データへと変換される。灰緑の瞳がそれを映した瞬間、指先の動きが僅かに止まった。
その座標が指し示していたのは、宮野明美の自宅周辺だった。
研究員たちの無機質な作業音が背後で鳴り響く。そのざわめきの中で、アブサンは一度だけ短く瞼を伏せた。思考が冷徹に巡る。
端末を操作したのが誰か――断定はできない。
だが、場所がそこだというだけで、疑念は確かに募る。
「……まさか、な」
アブサンは息を潜めるように吐息を落とした。
白い文字が走り続ける画面に視線を戻す。冷徹な表情には何の揺らぎも浮かばない。だが、口元を片手で覆い、細めた目で黒い画面を睨みつけるその姿には、僅かに焦燥の色が滲んでいた。
時は過ぎ、研究室の喧騒は少しずつ薄れていった。
資料を抱えた研究員が一人、また一人と退出し、白衣の擦れる音も、薬品瓶の触れ合う微かな音も、やがて途切れがちになる。
日付が変わる頃には、作業台に並ぶ影は殆ど消えていた。
残された端末の光だけが機械的に瞬き、空調の低い唸りが広い室内を満たす。
アブサンは壁際の椅子に深く腰掛けたまま、黒い画面を閉じた。
指先がキーから離れると同時に、白い文字の奔流は消え、虚ろな闇だけが液晶に映り込む。静寂の中で聞こえるのは、紙を捲る小さな音と、ペン先がノートを走る微かな掠れだけだった。
中央の机に座るシェリーが、書類を束ねる仕草を止めない。
氷のように冷ややかな気配を纏いながらも、その小さな背中は、広すぎる研究室にただ一つ灯された明かりのように際立っていた。
「……嘘……まさか……」
静寂を破るように、シェリーが勢いよく立ち上がった。
椅子の脚が甲高い音を立て、白衣の裾が翻る。驚きの声が喉奥から零れ落ち、シェリーの瞳が研究用カゴに釘付けになる。まるで信じられないものを見たかのように、全身が硬直していた。
アブサンは片眉を上げ、ゆっくりと立ち上がる。
足音を殺して背後に歩み寄ると、その肩に指先を置いた。シェリーは小さく悲鳴を上げ、振り返る。続けて声は出なかった。
「何かあったのか」
僅かに怪訝な表情を浮かべ、アブサンが顔を近付ける。
彼女の視線はすぐにカゴへ戻り、震える唇が動いた。
「前臨床段階で、試薬投与時の反応を確認していたのだけど……」
言葉を切り、喉を鳴らす。その視線の先を追ったアブサンの灰緑の瞳に、小さな影が映り込んだ。
「一匹だけ、幼児化したのよ……マウスが……」
シェリーは指先を震わせながら、ケージの奥を指し示す。
そこには、他の成熟した個体より明らかに小さく、未発達な体躯を持つマウスが蠢いていた。
アブサンは顎に手を添え、しばし沈黙のまま凝視する。
やがて低い吐息とともに言葉を零した。
「毒としての効能以外確認されず、切り捨てられていたものが本来の目的を掠め取ったか……」
灰緑の瞳が微かに光を宿す。
それは驚きではなく、成果を冷徹に評価する視線だった。
「僥倖だな、シェリー。お前の両親もさぞやお喜びになるだろう。彼ら以上の成果を出せる兆しが見えたのだからな……」
言葉を落とした瞬間、アブサンの胸中に自己嫌悪が胸を掠めた。
幹部として、研究の成果を評価するのは当然の務め。だが、その評価で両親を引き合いに出すのは、酷だった。
まだ子供のシェリーにとって、その両親を亡くした喪失は決して癒えるはずもない。己の口が不用意に刃を突き立てたのではないかという猛省が、冷徹な表情の奥に走った。
「そうね……けど、幼児化の反応を見せたのは、これまで実験に使ったマウスの中で、この一匹だけ。調べることが増えたわね」
だが、シェリーの反応は意外なものだった。
一瞬だけ、その瞳に翳りが過った。哀しみの影が薄氷のように揺れ、胸奥に閉じ込めた痛みが滲んだのは確かだった。しかしそれは束の間。すぐにその揺らぎは歓喜へと塗り替えられる。
シェリーは幼児化したマウスを見つめ、吐息を洩らした。
その瞳には、研究員としての純粋な感嘆と、抑えきれぬ誇らしさが宿っていた。そして僅かに口端を持ち上げる。子供らしからぬ冷ややかさを常に纏っていた彼女の顔に、ほんの短い間だけ己を誇示するような熱い色が灯った。
言葉の刃は深くは刺さらなかった。だが、その反応が却って胸の奥を締め付ける――そんな奇妙な感覚が彼を襲っていた。
シェリーは椅子を引き戻すと、立ち上がった勢いを抑えきれぬまま研究用カゴに記録用のノートを近付けた。
視線はもう完全に研究者のものに戻っており、驚愕と歓喜が混じるその横顔に迷いはない。震える指でページを捲り、目の前の現象に取り憑かれたように動こうとする。
「……おい。まだやるつもりか」
低い声が研究室に沈む。
黒手袋をした掌が机の端に音を立てて置かれ、灰緑の視線が冷ややかにシェリーの横顔を射抜いた。
シェリーの肩が僅かに震える。だがすぐに、振り返ったその顔には気丈な色が戻っていた。掠れ気味の声が返る。
「当たり前でしょ。幼児化なんていう、信じられないものを見せられて……眠くなる方がおかしいわよ」
子供らしい強情さとも、研究者の執念とも言える返答。アブサンは眉間に皺を刻み、吐息をひとつ零すと視線を逸らした。説得が無駄であることは分かり切っている。今の彼女は止められない。
再び部屋の隅へと歩を戻すと、アブサンは机の下からひとつの紙袋を取り出した。薔薇の紋様を纏った包装紙が、無骨な空間には不釣り合いに覗いている。それを手に研究室の中央へと戻り、彼女の机に静かに置いた。訝しげに眉を顰め、彼女は瞬きを返す。
「ジンから、お前に」
その言葉が落ちた途端、シェリーの表情は固く強張った。
指先が微かに震え、伏せられた睫毛の奥に複雑な色が揺れる。それが“ジン”という名に反応したのか、それとも紙袋の意味を知っていたからか、アブサンには判断がつかなかった。
「そう言えば……誕生日だったわね。忘れてたわ」
シェリーの口から落ちた言葉は、淡々としていながらも自嘲の色を含んでいた。その声音は机上の冷たい蛍光灯に照らされ、乾いた響きとなって空気に溶けた。
アブサンは灰緑の瞳を細め、僅かに片眉を上げた。
予想外の言葉に反応するように、低く声を落とす。
「……誕生日? お前がか」
問い掛けを受けたシェリーは、一瞬だけ視線を泳がせたのち、ゆっくりとアブサンへ顔を戻した。机に頬杖をつく姿勢は崩さないまま、形ばかりの薄い笑みを口端に浮かべる。
「……ええ。まあ、別に大した日じゃないから……祝ってくれる人も姉くらいなものだしね……」
軽い調子に聞こえるその声の奥底に、孤独の匂いが潜んでいるのをアブサンは見逃さなかった。
灰緑の瞳が僅かに陰り、眉間に深い皺が刻まれる。
舌打ちが短く響く。
その音は苛立ちというより、自分の胸奥に突き刺さる苛立ちを外へ吐き出したような響きだった。
「何か、欲しいものは」
吐息を落としながら身を屈める。
黒手袋をした指先が机に触れ、灰緑の視線が間近にシェリーの顔を覗き込む。至近に迫るその眼差しは、冷徹に映りながらも、どこか探るような色を秘めていた。
不意を突かれたシェリーの瞳が、大きく揺れた。瞬きが二度、三度と繰り返され、次いで頬が僅かに朱に染まる。研究員としての冷ややかな仮面が剥がれ、年相応の少女の色が滲み出していた。
視線を逸らすように髪へ手をやり、落ち着かぬ仕草で毛先を撫でつける。そして、掠れるように声を落とした。
「……じゃあ、私の買い物に付き合って……なんてね。無理なのは分かってるから……ただの冗談よ」
最後の一言は、願望をかき消すように偽装されていた。
だがその僅かに紅潮した頬と、逸らされた瞳の奥に潜む淡い光は冗談にしてしまうにはあまりに真実味を帯びていた。
アブサンはその揺らぎを見逃さず、静かに息を吐いた。
「問題ない。明日の朝、迎えに来る」
「え……?」
シェリーの声は掠れていた。
瞳が瞬きを忘れたように大きく見開かれ、言葉を失ったままアブサンを凝視する。椅子の背に凭れていた身体が思わず前のめりになり、机に置いた指先が小さく震えた。
その表情には驚愕が先に走っていたが、次の瞬間には――胸の奥から溢れ出すような喜びの色が混じり始める。冷徹を装ってきた幼い顔に、年相応の少女の輝きが不意に灯った。
「姉との待ち合わせは十五時だからな……それまでは付き合える。買い物のあと、そのまま迎えば……何も問題はない」
アブサンは顎に手を当て、僅かに首を傾けながら淡々と答えた。
感情の昂ぶりを一切示さず、まるで予定の調整を報告するかのような冷静な声音。だが、その静けさの奥に――ほんの微かに、子供の願いを叶えることを厭わぬ響きが潜んでいた。
「……本当に? いいの?」
驚きに目を輝かせ、シェリーは立ち上がった。その瞳は今まで見せたことのないほどまっすぐで、淡い光が宿っていた。アブサンは薄く笑みを浮かべながら、シェリーの頭に手を添える。
その手つきは柔らかく、だが長くは留まらない。すぐに離され、冷徹な吐息がその場に落ちた。
「寝る口実が出来たな。明日に備えて、さっさと寝ろ」
背を向けたアブサンの耳に、シェリーの小さな吐息が届いた気がした。
だが、振り返ることはない。部屋の隅から荷物を取り出し、それを抱えたまま淡々と歩みを進め、研究室の扉を押し開ける。
冷えた空気が流れ込み、コートの裾を揺らす。背後に取り残された薔薇模様の紙袋だけが、所在なげに机上で揺れていた。