光を抱く者
016 - 紙袋と懸念
無機質な白い蛍光灯の明かりが、灰色のコンクリートを無骨に照らし出していた。漆黒のポルシェ356Aが低い唸りを残しながら地下駐車場に滑り込み、指定のスペースで音もなく停車する。
ドアが開き、ジンが無造作に足を投げ出した。
僅かに瞼を落とした横顔には、長距離の運転をものともしていない鋭さと、相容れないはずの眠たげな色が張り付いている。
その一方で、助手席のアブサンは重たい吐息を漏らし、指先に残る震えを隠すように拳を握り締めた。断崖で引き摺り出された記憶の残滓が、まだ脳裏に深く焼き付いていた。
コートの裾を揺らして立ち上がると、冷気の籠もった地下の空気が肺を刺す。アブサンは肩を回し、僅かに緊張の色を残した身体を解きほぐすように歩を進めた。
背後では、ジンが中折れ帽のへこみを指先で押し下げ、気怠げに吐き出した煙草の煙が白く漂い始めていた。
拠点の扉を押し開け、無機質な廊下に二人は滑り込んだ。
乾いた足音だけが淡々と響く沈黙。
アブサンはふと歩を止め、背後にいる男の顔を横目で見た。
灰色の光に浮かんだその横顔は、眠気を纏いながらも相変わらず揺るぎない鋭さを湛えていた。
「……仕事は俺が代わる。会議が終わったら、お前は帰って寝ろ」
その声音に、ジンは一瞥せず足すら止めなかった。細めた眼差しだけを返すと、吐き捨てるように言葉を落とした。
「俺の心配より、テメェの心配をしろ。手、震えてるぜ……」
鋭い視線が一瞬、指先を射抜いた。
アブサンは咄嗟に拳を握り直し、震えを隠すように力を込める。吐息をひとつ落とすと、男の背中を追って再び歩を進めた。
無機質な廊下を抜け、ジンが会議室の扉を押し開ける。軋む音とともに、冷えた空気が僅かに流れ込んだ。
中央には白い会議机が据えられ、その周囲には既にベルモットとウォッカの姿があった。ベルモットは脚を組み、微かに苛立った指先で膝蓋骨を軽く叩いていた。ウォッカは両手を膝に置いたまま、主を待つ犬のように背筋を伸ばしている。ジンは何も言わずウォッカの隣に腰を下ろした。中折れ帽の影が机上に落ち、その存在感だけで場を支配する。
アブサンは淡々とベルモットの隣に身を沈める。
無造作にネクタイを緩め、深く吐息を洩らすと、机上の灰皿を引き寄せて煙草に火を点けた。紫煙が静かに立ち上る。その指先は震えを見せず、まるで何事もなかったかのように滑らかだった。
「二人とも、まるで恋人同士の帰宅じゃない。会議にも遅れて……一体何をしてたのかしらね……」
甘美な声が隣に落ちる。
ベルモットは艶やかに笑いながら脚を組み直した。アブサンは口元を僅かに引き攣らせて、吐息混じりに紫煙を吐く。
「……目医者に診てもらえ。目が腐っているとな」
「あら、言ってくれるわね。そこまで言うなら予約してくれる?」
口元に弧を描き、頬杖を付いたベルモットが軽口を返す。
アブサンは微かに鼻を鳴らしただけだった。その空気を撹乱させるような会話に、ジンが鋭く目を細める。
「くだらねぇ冗談はいい。……他の幹部はどうした」
空気を裂くような言葉とともに、ジンの視線が緩やかに会議室を這う。ベルモットは肩を竦め、ゆっくりと目を伏せた。
「私たちだけよ。皆、任務で出払ってるわ」
「ささっと終わらせやしょうぜ……兄貴」
ウォッカの一言を合図に、ジンは腕を組み背を椅子に深く沈め込んだ。紫煙の揺らめきの向こうで、ジンの視線が静かに、だが鋭くアブサンを射抜いていた。
言葉はない。
だがその視線が、会議を進めろと命じていた。
アブサンは吐息を洩らし、灰皿に煙草を押し付ける。
低く立ち昇る煙から逃れるように腰を上げると、会議机に置かれた資料を全員に配り、ホワイトボードの前に立った。
「――ではまず、人員不足の件についてだが」
アブサンの声が会議室の冷えた空気を切り裂いた。
灰緑の瞳がホワイトボードに流れ、その手が黒のマーカーを静かに走らせる。短く線を引く音すら、沈黙を支配する響きとなった。
「スコッチを処理した影響と、元々抱えていた業務量もあり、どの幹部も手が回っていない状況が散見される」
振り返った灰緑の瞳が、順に三人を射抜く。ベルモットの余裕の笑みも、ウォッカの緊張した背筋も、そしてジンの沈黙すらも、すべてを冷ややかに映し取る視線だった。紫煙の残り香がその声に絡みつき、静かな圧力を会議室に充満させていく。
「次期幹部候補の選定はあのお方のご意思だが、それをただ待つのではなく、候補を育てる体制を整えるべきだろう」
淡々とした声音。
だが、言葉の奥底には揺るぎない刃が潜んでいた。冷静さを装いながら、まるで命令に等しいその響きに、場の誰もが否応なく耳を傾ける。
「手が回ってない状況で育てるってのは無理な話ですぜ……」
低く呻くようなウォッカの声が会議室の隅で響いた。現場叩き上げの現実感を滲ませる言葉に、一瞬だけ沈黙が落ちる。
だがアブサンは眉ひとつ動かさず、すぐさま返した。
「それで放置していては、いずれ回らなくなる」
冷徹な声音は、まるで何かを切り落とす刃のようだった。
机上の灰皿から立ち昇る煙を片手で払う仕草すら、異論を許さぬ圧として場に沈む。
視線はウォッカから、ベルモットとジンへ。灰緑の瞳は淡々と揺らめきながらも、そこに映るものを冷ややかに裁断していく。
「即戦力は裏切りの疑念が拭えない。内部の忠誠心を基盤に据えることが、唯一長期的な安定に繋がる」
言葉を切った瞬間、会議室の空気が僅かに張り詰めた。
ジンの視線が、ゆっくりとアブサンに留まる。煙草の煙越しに覗く双眸は鋭さを失わないまま、しかし無意識に長く見つめ続けていた。冷酷を纏ったはずの眼差しに、微かに沈んだ色が滲む。
「理想論ね。口で言うほど簡単じゃないと思うけど……」
ベルモットが喉の奥で思案を零す。脚を組み直し、頬杖をついたまま目を細めた。挑発するでも、否定するでもなく――ただアブサンの言葉を吟味するように、その声音には湿った含みがあった。
「誰にやらせるつもりだ。幹部全員だ、とは言わねぇだろうな」
ジンが腕を組み直し、椅子に背を沈めながら低く吐き捨てた。
ベルモットの柔らかな笑みに対して、徹底した現実主義を叩き付けるような響きだった。帽子の影が深く落ち、感情を隠すはずのその双眸が、しかし一瞬だけアブサンを測るように揺れた。
アブサンは薄く目を細め、僅かに口元を上げた。
「残念だが、幹部全員だ。別に育成に時間を割く必要はない。少しずつ水を与えていけばいい……手間もさほど掛からん」
ジンは一拍あけて、鼻を低く鳴らした。
片目だけをアブサンへと向け、唇の端から吐き出された紫煙が揺らぎながら二人の間に漂う。言葉はなくとも、その眼差しには測るような鋭さが潜んでいた。
「芽が出る前に枯れる奴ばかりだろうがな……」
「枯れるならそれまでだ。だが、残った芽は強い」
言い切った瞬間、アブサンの灰緑の瞳は迷いなく次の資料へと移った。
その横顔には感情の影すらなく、ただ冷徹に次の現実を告げる者の静けさがあった。
「それと、末端構成員が減少傾向にある。任務で死ぬのは常だが、特に技術者不足が顕著だな。研究者は多いが……」
会議室に短い沈黙が落ちた。その隙間を縫うように、ベルモットの赤い唇がゆっくりと開く。
挑発的な艶を帯びた声が、紫煙を裂くように落ちた。
「末端は所詮、使い捨てでしょ。技術者は特に、存在意義が感じられないわね……補充する必要もないんじゃない?」
アブサンは灰緑の瞳を細め、ジンが吐き出した紫煙の向こうで、一度ふむ、と低く喉を鳴らした。否定ではなく、肯定の気配を漂わせる短い頷き。だが、その目はすでに別の未来を見据えていた。
「今は必要性を感じられないだろうが、この先の時代を考えれば、暗号技術に精通する人間を今から囲うべきだろう」
淡々と放たれた声音に、会議室の空気が再び重く沈む。
紫煙がゆらめき、誰もすぐには言葉を返さなかった。
「……なら、どうするつもりで?」
沈黙を破ったのはウォッカだった。
現場叩き上げの低い声が、警戒と戸惑いを混ぜ合わせて響く。言葉自体は単純だが、そこには“理屈より手立てを示せ”という不器用な直球の意図が滲んでいた。
「いずれ何処かの大学に教授か何かで潜入して、使える駒を組織に引き入れようとは考えている」
「……じゃあ、そのときは私の出番ってわけね」
ベルモットが艶やかに唇を吊り上げる。
軽口の裏に潜む自負を受け止め、アブサンは小さく頷いた。灰緑の瞳が一度だけ彼女を掠め、低く言葉を落とす。
「軽い変装で問題はない。必要なのは、身分と教授職に合う経歴だろうか。その辺りは……ベルモットに任せる」
「オーケー。そのときは教えてちょうだい」
気だるげに零れたその声は、重さを欠いた承諾でありながら、妙に場を支配する色香を漂わせていた。
「次に監視対象についてだが……」
アブサンはホワイトボードに短く線を引き、その軌跡を追うように低く声を落とした。
「バーボンとライの二名は、今のところ裏切りの兆候はない」
言葉は淡々としていた。
だが灰緑の瞳の奥には、一瞬だけ測るような影が揺れる。確証のない情報を切り捨て、あえて“ない”と言い切ったその声音には、冷静な報告に偽装された微かな庇護の色が滲んでいた。
その色に、会議室の誰ひとりとして気付くことはなかった。
「シェリーに関しては、現在月に一回姉と会わせることで、研究を再開させている。まあ、問題はないだろう」
その言葉に、ジンは無言のまま灰皿に煙草を押し付けた。
焦げる音が小さく響き、唇の端から吐き出された息は短く鋭い。要求を呑むなど虫唾が走る、とでも言いたげに、その眼差しは机上の一点を冷ややかに射抜いていた。
一方でベルモットは脚を組み直し、赤い爪先で膝を軽く叩いた。笑みを崩さぬまま、しかし目尻に僅かな影を落とし――甘すぎる、と心の奥で突きつけるように視線を逸らした。
「月に一回も会わせるなんて……情でも移ったのかしらね」
「いや……研究を再開させることが、組織にとっての益だからな。脅しても駄目なら、要求を呑むしかない」
淡々と返された声に、ベルモットの瞳が細められる。
艶を帯びた視線が正面からアブサンを射抜き、灰緑の瞳がそれを受け止める。互いの表情は崩れないまま、言葉以上の探り合いが交錯した。張り詰めた沈黙が数秒、会議室を支配する。
やがて、ジンが鼻を低く鳴らした。
冷ややかに沈黙を断ち切ると、椅子から背を離して身体を屈め、机の下へと無造作に手を伸ばす。その仕草に、アブサンの眉間に皺が寄る。灰緑の瞳が鋭く閃き、ジンの動きを射止めた。
「……名が出たついでだ。アブサン、これをあの女に渡しておけ」
机の下からジンが引き出したのは、無骨な場に似つかわしくない紙袋だった。大きすぎもせず、小さすぎもしない絶妙なサイズ。手慣れた仕草で放られたそれを、アブサンは反射的に受け止めた。
視線を落とした瞬間、片眉が僅かに跳ね上がる。
薔薇の紋様が散りばめられた包装紙に包まれた品が、袋の口から覗いていた。冷徹な男の指先からこんな物が出てくるとは――その意外性に、ほんの一瞬だけ灰緑の瞳が驚きを映した。
「なんだ、これは」
アブサンは僅かに首を傾げる。
灰緑の瞳が紙袋からジンへと流れ、低く問いを落とした。
ジンは視線を逸らした。帽子の影に沈む双眸が僅かに揺れ、吐き出された吐息が薔薇模様を曖昧に霞ませる。
「今じゃ、形だけの定期便みてぇなもんだ。無駄な詮索はするな」
否定に似た声音。冷徹を装いながらも、その口振りには説明を急ぐような不自然な色が滲んでいた。
灰緑の瞳が紙袋に落ち、思案に似た音が喉奥から漏れる。
妙だな、と心中で短く結ぶ。だがそれ以上深く考える気もなく、吐息を洩らして紙袋を机上に据え置いた。
「……それと別件だが、内部で機密情報が漏れた疑いがある。内部端末と外部ネットが交差していた。ただ、鍵は抜かれてねぇ」
アブサンは片眉を上げ、灰緑の瞳をゆるやかに細めてジンの横顔を眺めた。薔薇模様の紙袋を否定した直後に投げられた唐突な報告――そこに微かな意図を嗅ぎ取ったが、深入りはしない。ただ、組織の一角を担う者として冷徹に状況を秤に掛ける。
「情報漏洩か。鍵が抜かれていないのは僥倖だな……辿れば、痕跡も見つけられるだろう。俺の方で調べておく」
淡々と落とされた言葉は、探る色をすべて飲み込み、ただ静かに会議室へ沈んでいった。
「会議は終わりだ。他に報告もなければ、解散してくれ」
ジンを皮切りに、ベルモット、ウォッカが無言のまま椅子を引いた。誰ひとり言葉を交わすことなく、扉の向こうへと姿を消す。軋む音が遠ざかるにつれ、会議室には静寂だけが落ちた。
取り残されたアブサンの前には、薔薇模様の紙袋がひとつ。
空調の風を受けて、所在なさげに揺れ動く。灰緑の瞳がそれを映しとめ、微かな吐息が静けさに滲んで消えていった。
無機質な白い蛍光灯の明かりが、灰色のコンクリートを無骨に照らし出していた。漆黒のポルシェ356Aが低い唸りを残しながら地下駐車場に滑り込み、指定のスペースで音もなく停車する。
ドアが開き、ジンが無造作に足を投げ出した。
僅かに瞼を落とした横顔には、長距離の運転をものともしていない鋭さと、相容れないはずの眠たげな色が張り付いている。
その一方で、助手席のアブサンは重たい吐息を漏らし、指先に残る震えを隠すように拳を握り締めた。断崖で引き摺り出された記憶の残滓が、まだ脳裏に深く焼き付いていた。
コートの裾を揺らして立ち上がると、冷気の籠もった地下の空気が肺を刺す。アブサンは肩を回し、僅かに緊張の色を残した身体を解きほぐすように歩を進めた。
背後では、ジンが中折れ帽のへこみを指先で押し下げ、気怠げに吐き出した煙草の煙が白く漂い始めていた。
拠点の扉を押し開け、無機質な廊下に二人は滑り込んだ。
乾いた足音だけが淡々と響く沈黙。
アブサンはふと歩を止め、背後にいる男の顔を横目で見た。
灰色の光に浮かんだその横顔は、眠気を纏いながらも相変わらず揺るぎない鋭さを湛えていた。
「……仕事は俺が代わる。会議が終わったら、お前は帰って寝ろ」
その声音に、ジンは一瞥せず足すら止めなかった。細めた眼差しだけを返すと、吐き捨てるように言葉を落とした。
「俺の心配より、テメェの心配をしろ。手、震えてるぜ……」
鋭い視線が一瞬、指先を射抜いた。
アブサンは咄嗟に拳を握り直し、震えを隠すように力を込める。吐息をひとつ落とすと、男の背中を追って再び歩を進めた。
無機質な廊下を抜け、ジンが会議室の扉を押し開ける。軋む音とともに、冷えた空気が僅かに流れ込んだ。
中央には白い会議机が据えられ、その周囲には既にベルモットとウォッカの姿があった。ベルモットは脚を組み、微かに苛立った指先で膝蓋骨を軽く叩いていた。ウォッカは両手を膝に置いたまま、主を待つ犬のように背筋を伸ばしている。ジンは何も言わずウォッカの隣に腰を下ろした。中折れ帽の影が机上に落ち、その存在感だけで場を支配する。
アブサンは淡々とベルモットの隣に身を沈める。
無造作にネクタイを緩め、深く吐息を洩らすと、机上の灰皿を引き寄せて煙草に火を点けた。紫煙が静かに立ち上る。その指先は震えを見せず、まるで何事もなかったかのように滑らかだった。
「二人とも、まるで恋人同士の帰宅じゃない。会議にも遅れて……一体何をしてたのかしらね……」
甘美な声が隣に落ちる。
ベルモットは艶やかに笑いながら脚を組み直した。アブサンは口元を僅かに引き攣らせて、吐息混じりに紫煙を吐く。
「……目医者に診てもらえ。目が腐っているとな」
「あら、言ってくれるわね。そこまで言うなら予約してくれる?」
口元に弧を描き、頬杖を付いたベルモットが軽口を返す。
アブサンは微かに鼻を鳴らしただけだった。その空気を撹乱させるような会話に、ジンが鋭く目を細める。
「くだらねぇ冗談はいい。……他の幹部はどうした」
空気を裂くような言葉とともに、ジンの視線が緩やかに会議室を這う。ベルモットは肩を竦め、ゆっくりと目を伏せた。
「私たちだけよ。皆、任務で出払ってるわ」
「ささっと終わらせやしょうぜ……兄貴」
ウォッカの一言を合図に、ジンは腕を組み背を椅子に深く沈め込んだ。紫煙の揺らめきの向こうで、ジンの視線が静かに、だが鋭くアブサンを射抜いていた。
言葉はない。
だがその視線が、会議を進めろと命じていた。
アブサンは吐息を洩らし、灰皿に煙草を押し付ける。
低く立ち昇る煙から逃れるように腰を上げると、会議机に置かれた資料を全員に配り、ホワイトボードの前に立った。
「――ではまず、人員不足の件についてだが」
アブサンの声が会議室の冷えた空気を切り裂いた。
灰緑の瞳がホワイトボードに流れ、その手が黒のマーカーを静かに走らせる。短く線を引く音すら、沈黙を支配する響きとなった。
「スコッチを処理した影響と、元々抱えていた業務量もあり、どの幹部も手が回っていない状況が散見される」
振り返った灰緑の瞳が、順に三人を射抜く。ベルモットの余裕の笑みも、ウォッカの緊張した背筋も、そしてジンの沈黙すらも、すべてを冷ややかに映し取る視線だった。紫煙の残り香がその声に絡みつき、静かな圧力を会議室に充満させていく。
「次期幹部候補の選定はあのお方のご意思だが、それをただ待つのではなく、候補を育てる体制を整えるべきだろう」
淡々とした声音。
だが、言葉の奥底には揺るぎない刃が潜んでいた。冷静さを装いながら、まるで命令に等しいその響きに、場の誰もが否応なく耳を傾ける。
「手が回ってない状況で育てるってのは無理な話ですぜ……」
低く呻くようなウォッカの声が会議室の隅で響いた。現場叩き上げの現実感を滲ませる言葉に、一瞬だけ沈黙が落ちる。
だがアブサンは眉ひとつ動かさず、すぐさま返した。
「それで放置していては、いずれ回らなくなる」
冷徹な声音は、まるで何かを切り落とす刃のようだった。
机上の灰皿から立ち昇る煙を片手で払う仕草すら、異論を許さぬ圧として場に沈む。
視線はウォッカから、ベルモットとジンへ。灰緑の瞳は淡々と揺らめきながらも、そこに映るものを冷ややかに裁断していく。
「即戦力は裏切りの疑念が拭えない。内部の忠誠心を基盤に据えることが、唯一長期的な安定に繋がる」
言葉を切った瞬間、会議室の空気が僅かに張り詰めた。
ジンの視線が、ゆっくりとアブサンに留まる。煙草の煙越しに覗く双眸は鋭さを失わないまま、しかし無意識に長く見つめ続けていた。冷酷を纏ったはずの眼差しに、微かに沈んだ色が滲む。
「理想論ね。口で言うほど簡単じゃないと思うけど……」
ベルモットが喉の奥で思案を零す。脚を組み直し、頬杖をついたまま目を細めた。挑発するでも、否定するでもなく――ただアブサンの言葉を吟味するように、その声音には湿った含みがあった。
「誰にやらせるつもりだ。幹部全員だ、とは言わねぇだろうな」
ジンが腕を組み直し、椅子に背を沈めながら低く吐き捨てた。
ベルモットの柔らかな笑みに対して、徹底した現実主義を叩き付けるような響きだった。帽子の影が深く落ち、感情を隠すはずのその双眸が、しかし一瞬だけアブサンを測るように揺れた。
アブサンは薄く目を細め、僅かに口元を上げた。
「残念だが、幹部全員だ。別に育成に時間を割く必要はない。少しずつ水を与えていけばいい……手間もさほど掛からん」
ジンは一拍あけて、鼻を低く鳴らした。
片目だけをアブサンへと向け、唇の端から吐き出された紫煙が揺らぎながら二人の間に漂う。言葉はなくとも、その眼差しには測るような鋭さが潜んでいた。
「芽が出る前に枯れる奴ばかりだろうがな……」
「枯れるならそれまでだ。だが、残った芽は強い」
言い切った瞬間、アブサンの灰緑の瞳は迷いなく次の資料へと移った。
その横顔には感情の影すらなく、ただ冷徹に次の現実を告げる者の静けさがあった。
「それと、末端構成員が減少傾向にある。任務で死ぬのは常だが、特に技術者不足が顕著だな。研究者は多いが……」
会議室に短い沈黙が落ちた。その隙間を縫うように、ベルモットの赤い唇がゆっくりと開く。
挑発的な艶を帯びた声が、紫煙を裂くように落ちた。
「末端は所詮、使い捨てでしょ。技術者は特に、存在意義が感じられないわね……補充する必要もないんじゃない?」
アブサンは灰緑の瞳を細め、ジンが吐き出した紫煙の向こうで、一度ふむ、と低く喉を鳴らした。否定ではなく、肯定の気配を漂わせる短い頷き。だが、その目はすでに別の未来を見据えていた。
「今は必要性を感じられないだろうが、この先の時代を考えれば、暗号技術に精通する人間を今から囲うべきだろう」
淡々と放たれた声音に、会議室の空気が再び重く沈む。
紫煙がゆらめき、誰もすぐには言葉を返さなかった。
「……なら、どうするつもりで?」
沈黙を破ったのはウォッカだった。
現場叩き上げの低い声が、警戒と戸惑いを混ぜ合わせて響く。言葉自体は単純だが、そこには“理屈より手立てを示せ”という不器用な直球の意図が滲んでいた。
「いずれ何処かの大学に教授か何かで潜入して、使える駒を組織に引き入れようとは考えている」
「……じゃあ、そのときは私の出番ってわけね」
ベルモットが艶やかに唇を吊り上げる。
軽口の裏に潜む自負を受け止め、アブサンは小さく頷いた。灰緑の瞳が一度だけ彼女を掠め、低く言葉を落とす。
「軽い変装で問題はない。必要なのは、身分と教授職に合う経歴だろうか。その辺りは……ベルモットに任せる」
「オーケー。そのときは教えてちょうだい」
気だるげに零れたその声は、重さを欠いた承諾でありながら、妙に場を支配する色香を漂わせていた。
「次に監視対象についてだが……」
アブサンはホワイトボードに短く線を引き、その軌跡を追うように低く声を落とした。
「バーボンとライの二名は、今のところ裏切りの兆候はない」
言葉は淡々としていた。
だが灰緑の瞳の奥には、一瞬だけ測るような影が揺れる。確証のない情報を切り捨て、あえて“ない”と言い切ったその声音には、冷静な報告に偽装された微かな庇護の色が滲んでいた。
その色に、会議室の誰ひとりとして気付くことはなかった。
「シェリーに関しては、現在月に一回姉と会わせることで、研究を再開させている。まあ、問題はないだろう」
その言葉に、ジンは無言のまま灰皿に煙草を押し付けた。
焦げる音が小さく響き、唇の端から吐き出された息は短く鋭い。要求を呑むなど虫唾が走る、とでも言いたげに、その眼差しは机上の一点を冷ややかに射抜いていた。
一方でベルモットは脚を組み直し、赤い爪先で膝を軽く叩いた。笑みを崩さぬまま、しかし目尻に僅かな影を落とし――甘すぎる、と心の奥で突きつけるように視線を逸らした。
「月に一回も会わせるなんて……情でも移ったのかしらね」
「いや……研究を再開させることが、組織にとっての益だからな。脅しても駄目なら、要求を呑むしかない」
淡々と返された声に、ベルモットの瞳が細められる。
艶を帯びた視線が正面からアブサンを射抜き、灰緑の瞳がそれを受け止める。互いの表情は崩れないまま、言葉以上の探り合いが交錯した。張り詰めた沈黙が数秒、会議室を支配する。
やがて、ジンが鼻を低く鳴らした。
冷ややかに沈黙を断ち切ると、椅子から背を離して身体を屈め、机の下へと無造作に手を伸ばす。その仕草に、アブサンの眉間に皺が寄る。灰緑の瞳が鋭く閃き、ジンの動きを射止めた。
「……名が出たついでだ。アブサン、これをあの女に渡しておけ」
机の下からジンが引き出したのは、無骨な場に似つかわしくない紙袋だった。大きすぎもせず、小さすぎもしない絶妙なサイズ。手慣れた仕草で放られたそれを、アブサンは反射的に受け止めた。
視線を落とした瞬間、片眉が僅かに跳ね上がる。
薔薇の紋様が散りばめられた包装紙に包まれた品が、袋の口から覗いていた。冷徹な男の指先からこんな物が出てくるとは――その意外性に、ほんの一瞬だけ灰緑の瞳が驚きを映した。
「なんだ、これは」
アブサンは僅かに首を傾げる。
灰緑の瞳が紙袋からジンへと流れ、低く問いを落とした。
ジンは視線を逸らした。帽子の影に沈む双眸が僅かに揺れ、吐き出された吐息が薔薇模様を曖昧に霞ませる。
「今じゃ、形だけの定期便みてぇなもんだ。無駄な詮索はするな」
否定に似た声音。冷徹を装いながらも、その口振りには説明を急ぐような不自然な色が滲んでいた。
灰緑の瞳が紙袋に落ち、思案に似た音が喉奥から漏れる。
妙だな、と心中で短く結ぶ。だがそれ以上深く考える気もなく、吐息を洩らして紙袋を机上に据え置いた。
「……それと別件だが、内部で機密情報が漏れた疑いがある。内部端末と外部ネットが交差していた。ただ、鍵は抜かれてねぇ」
アブサンは片眉を上げ、灰緑の瞳をゆるやかに細めてジンの横顔を眺めた。薔薇模様の紙袋を否定した直後に投げられた唐突な報告――そこに微かな意図を嗅ぎ取ったが、深入りはしない。ただ、組織の一角を担う者として冷徹に状況を秤に掛ける。
「情報漏洩か。鍵が抜かれていないのは僥倖だな……辿れば、痕跡も見つけられるだろう。俺の方で調べておく」
淡々と落とされた言葉は、探る色をすべて飲み込み、ただ静かに会議室へ沈んでいった。
「会議は終わりだ。他に報告もなければ、解散してくれ」
ジンを皮切りに、ベルモット、ウォッカが無言のまま椅子を引いた。誰ひとり言葉を交わすことなく、扉の向こうへと姿を消す。軋む音が遠ざかるにつれ、会議室には静寂だけが落ちた。
取り残されたアブサンの前には、薔薇模様の紙袋がひとつ。
空調の風を受けて、所在なさげに揺れ動く。灰緑の瞳がそれを映しとめ、微かな吐息が静けさに滲んで消えていった。