光を抱く者
015 - 過去の残滓
漆黒のポルシェ356Aは、荒れた断崖の手前で緩やかに減速し、砂利を噛むタイヤの音を残して静止した。夜が終わりを告げる頃合いで、窓越しに差し込んだ朝日が、助手席に沈む影を照らした。
アブサンは腕を組み、長い睫毛を伏せたまま微動だにしない。
眠り込んでいるのか、それともただ目を閉じているだけなのか――外見からは判断がつかなかった。だが、僅かに揺れる胸の上下に、ジンは無意識に息を呑む。
普段なら決して晒さない無防備な横顔だった。長い睫毛の影が頬へ落ち、朝日に縁取られた輪郭は、記憶を失う以前と何も変わらない。なのに、その目が開けば、自分を知らない男へ戻る。ジンは視線を逸らせなかった。自分の運転する車の中でだけ、こうして眠る。その事実が、妙に癪に障った。
「――おい、起きろ」
近付いた距離のせいで、互いの顔が至近に迫る。
ほんの僅かに乱れた息遣いまで感じ取れるほどだった。
やがてアブサンは、ゆっくりと片目を開ける。眠りから覚めたばかりの視線が、曖昧な焦点を結びながらジンを捉えた。
「珍しいじゃねぇか。お前が俺の車で寝るなんざ……」
ジンの物珍しげな反応に、アブサンは身じろぎすると重たげに瞼を伏せた。眠気に引き摺られた吐息がこぼれ落ちる。
「……たまには許せ。お前の運転くらいしか……こうはできん」
掠れた声。普段の冷徹な響きが薄れ、妙に柔らかく耳に残る。
ジンは息を飲んだまま、ほんの刹那、言葉を失った。それを誤魔化すように中折れハットの鍔を引き下げ、小さく鼻を鳴らす。
「……寝惚けたこと抜かすな。さっさと起きろ」
アブサンは朝日に染まる断崖を一瞥した。無防備さはすぐに影を潜め、いつもの冷静な顔がそこに戻っていた。
ジンは無言のままドアを押し開けた。冷たい金属音とともに、夜明けの潮風が流れ込み、黒いコートの裾を揺らす。靴底が砂利を踏む音を残して車外へ出ると、海鳴りの低い轟きが耳に届いた。
遅れてアブサンも助手席のドアを開けた。
潮風に黒髪を靡かせ、緩やかに外へ出る。その横顔は朝日に照らされ、精悍な輪郭に淡い光を縁取っていた。遠くの海へ視線を移し薄く目を細めると、短く言葉を落とした。
「……はじめて来た場所だが……何処だ、ここは」
掠れ気味の声が潮騒に混じり、ジンの耳に届いた。
その言葉に目を細めながら、アブサンの傍に近付いていく。
「ここがお前の切れ目だ。その血で黒潮の海を染め上げて、記憶を葬り去ったのが、この断崖だ――覚えてねぇか」
アブサンの身体が一瞬だけ硬直した。
潮風に晒された横顔に、朝日が薄く影を刻む。灰緑の瞳がどこか遠くを映したかと思えば、その次の瞬間には踵を返していた。
砂利を踏みしめる靴音が短く響く。
躊躇いのない動きに見えて、その背中からは微かな恐怖と拒絶が滲んでいるように見えた。
ジンは細めた眼でその背を追った。
逃げるでもなく、立ち向かうでもなく――ただ記憶に触れることを本能で避けた反応。無意識に蓋をするように、アブサンは助手席のドアに手を掛け、金属音を鳴らして押し開ける。
わずかに強張った指先。
そこに言葉よりも雄弁な“拒絶”があった。
ジンはアブサンが助手席に滑り込む前に、肩口から腕を回し込むようにしてその動きを制する。反射的に身を固くしたアブサンを横目に収め、低く諭すように声を落とした。
「落ち着け――そんなに嫌か。記憶に触れるのは」
逃げ場を塞がれたアブサンは短く息を吐いた。反射的に強張った肩をゆっくりと落とし、やがて口元を歪める。
深く、長いため息が潮騒に混じった。
灰緑の瞳は朝日に淡く光りながらも、どこか遠くを見ている。確かな力で回された拘束を無理に振り払うことはせず、指先でジンの腕を掴み、ゆっくりと振り解く。
「……さあな、俺もよく分からん。無意識のものだからな……」
アブサンは僅かに目を伏せると、開けたまま所在なさげに揺れるドアを押し閉めた。鈍い音が響き、潮の風に溶けていく。
「だが、もう潮時か。これ以上放置していては……錠前も海水で錆び付いて二度と開けられなくなる」
「なら……錆びて記憶ごと朽ち果てる前に、俺が開けてやる」
ジンの声音は潮騒を断ち切るように低く落ちた。
柔らかさの欠片もなく、強引に道を示す鎖のような響き。それはアブサンの迷いを断ち切るように深く切り込まれた。
アブサンの片眉が僅かに上がる。
薄く目を細め、苦笑めいた笑みが口端に浮かんだ。そのままポルシェに凭れかかり、ふと手を口元へ当てる。感慨に耽るように喉を小さく鳴らすと、朝日を受けた灰緑の瞳が横に逸れた。
「……妙な感覚だ。お前に興味が湧くとはな……」
ジンの瞳孔が微かに揺れ、次いで見開かれた。
耳に入ったはずの言葉を咀嚼できず、思考が一瞬空白に支配される。胸の奥を鋭く抉られたような感覚に呼吸すら忘れ、硬直した身体は潮騒の中で沈黙に深く縫い付けられた。
その様子をアブサンは正面から静かに観察していた。
だが、いつまで経っても口を開こうとしないジンを現実に引き戻すように、胸倉を掴むと力強く引き寄せた。
「どうした、ジン――黙ってないで案内しろ。お前が此処まで連れてきたんだろうが……なら、最後まで責任を持て」
鋭く突き付けられた声に、ジンの喉が僅かに鳴った。胸の奥で凍りついていた何かが軋むように解け、強張っていた呼吸が戻る。
掴まれたままの胸倉に視線を落とすと、ジンはその腕を乱暴に掴み返した。反発するでもなく、振り払うでもなく――ただ自らを前へと動かす力に変えるような、そんな仕草だった。
ジンはアブサンを伴い、無造作に歩き出した。海風が足元の砂利を転がし、断崖の縁へと伸びる細道が二人を誘っていく。
掴んだままの腕越しに、僅かに伝わる体温があった。
潮騒と朝風に冷やされた肌の中で、その熱だけが確かに残り、歩みを進めるたびに意識の奥に沈み込んでいった。
やがて二人は、鋭く尖った断崖の先端に辿り着いた。
眼下には荒れ狂う白波が打ち寄せ、海面が光と影を繰り返し刻んでいる。朝日が水平線から昇りつつあり、断崖の上に立つ二人の影を長く伸ばしていた。
ジンは掴んでいた腕を緩め、静かに手を離した。
解放されたアブサンは顎に手を添え、潮風を受けながら左右を見渡す。断崖の縁を確かめるように一歩、また一歩と進み出ていく。
朝日に照らされた横顔は冷静に見えながらも、その喉からは小さく思案の音が零れた。一拍の間を置き、低く言葉が落ちる。
「見覚えがあるような気もするが……それだけだな」
振り返ったその刹那、灰緑の瞳が大きく見開かれた。
瞳孔が開き、全身が硬直する。潮騒の音さえ掻き消すかのような沈黙の中で、アブサンの眼光は鋭く殺気を帯び、臨戦態勢に入ったまま何かを探すように四方を這った。
その異様な変化に、ジンの背筋が僅かに冷える。
息を呑み、思わず一歩踏み出していた。
「……ッ……!」
次の瞬間、アブサンの喉から低いうめき声が洩れた。
右手で頭を押さえ、指先は小刻みに震える。歪んだ口元が苦悶を物語り、灰緑の瞳は焦点を結ばずに揺れ続けていた。
その刹那――アブサンの足から力が抜け、身体が右へと傾ぐ。
ジンの視界では左、眼下には荒れ狂う海が口を開けていた。
考えるよりも先に、ジンの手が伸びていた。
指先が黒いネクタイを掴むと同時に、全身の力を込めて強引に引き寄せる。勢いのまま、アブサンの身体がジンの胸へと飛び込んできた。二人は均衡を崩し、そのまま断崖の先端に倒れ込む。
足元の岩が崩れる音に、ジンは即座に判断を下した。
荒い息を吐きながら、腕に力を込めアブサンを引き摺るようにして根元へと後退する。安全な位置まで退くと、ジンは肩で息を整えつつ小さく吐息を洩らした。
そして膝を砂利に沈め、腕でアブサンの身体を支えるように抱え込む。ぐったりとした重みが片腕にのしかかる。焦点の合わない瞳が宙を彷徨い、こめかみを押さえる指先は細かく震えていた。
荒れ狂う潮騒が二人を包む中、ジンは顔を近付けた。
灰緑の瞳を覗き込むように、息を潜めて名を囁く。
その瞬間、アブサンの身体が僅かに震えた。閉ざされていた扉が軋むように、ゆっくりと視線が交錯し瞬きが繰り返される。やがて瞳の揺れが収まり、濁った光が少しずつ戻ってきた。
「戻ったか」
息を吐き、ジンは低く声を落とした。そしてほんの刹那の安堵を隠すように、鋭い眼差しでアブサンを射抜く。
「今の……記憶が戻ったんじゃねぇのか。何を見た」
アブサンは灰緑の瞳を僅かに逸らし、瞼を伏せた。
長く吐息を洩らし、掠れた声を零す。
「……銃声が、何発も響いていた。あとは……膝に手をついて荒い呼吸を繰り返す俺の視界と、腹から血を流したお前……」
額に滲んだ汗を手の甲で拭い、ゆっくりと身体を起こす。ふらつきながらも立ち上がるその様子を、ジンは射抜くように見つめた。
「……他は」
低い問いに、アブサンは静かに首を横に振る。
「それだけだ……お前のその反応だと……思い出してほしい記憶ではなかったようだな……」
その声音には嘘の影はなかった。まるで淡々と事実を告げるだけの口振り。ジンは奥歯を噛み、鋭く舌打ちを落とした。
膝を地面から離し、立ち上がる。まだ足取りの覚束ないアブサンの腕を強く掴み、自分の肩へ回して支え込む。海風に黒いコートと銀髪が靡き、二人の影が長く砂利に伸びた。
アブサンは疲弊の色を滲ませた顔で、僅かに眉を下げる。
「……悪いな。それと……助かった」
はじめて向けられた謝罪と感謝の言葉に、ジンは返さなかった。
ただ肩に感じる重みを黙って受け止める。潮騒と朝風だけが二人の間を埋め、荒れた断崖の上を冷ややかに吹き抜けていった。
漆黒のポルシェ356Aは、荒れた断崖の手前で緩やかに減速し、砂利を噛むタイヤの音を残して静止した。夜が終わりを告げる頃合いで、窓越しに差し込んだ朝日が、助手席に沈む影を照らした。
アブサンは腕を組み、長い睫毛を伏せたまま微動だにしない。
眠り込んでいるのか、それともただ目を閉じているだけなのか――外見からは判断がつかなかった。だが、僅かに揺れる胸の上下に、ジンは無意識に息を呑む。
普段なら決して晒さない無防備な横顔だった。長い睫毛の影が頬へ落ち、朝日に縁取られた輪郭は、記憶を失う以前と何も変わらない。なのに、その目が開けば、自分を知らない男へ戻る。ジンは視線を逸らせなかった。自分の運転する車の中でだけ、こうして眠る。その事実が、妙に癪に障った。
「――おい、起きろ」
近付いた距離のせいで、互いの顔が至近に迫る。
ほんの僅かに乱れた息遣いまで感じ取れるほどだった。
やがてアブサンは、ゆっくりと片目を開ける。眠りから覚めたばかりの視線が、曖昧な焦点を結びながらジンを捉えた。
「珍しいじゃねぇか。お前が俺の車で寝るなんざ……」
ジンの物珍しげな反応に、アブサンは身じろぎすると重たげに瞼を伏せた。眠気に引き摺られた吐息がこぼれ落ちる。
「……たまには許せ。お前の運転くらいしか……こうはできん」
掠れた声。普段の冷徹な響きが薄れ、妙に柔らかく耳に残る。
ジンは息を飲んだまま、ほんの刹那、言葉を失った。それを誤魔化すように中折れハットの鍔を引き下げ、小さく鼻を鳴らす。
「……寝惚けたこと抜かすな。さっさと起きろ」
アブサンは朝日に染まる断崖を一瞥した。無防備さはすぐに影を潜め、いつもの冷静な顔がそこに戻っていた。
ジンは無言のままドアを押し開けた。冷たい金属音とともに、夜明けの潮風が流れ込み、黒いコートの裾を揺らす。靴底が砂利を踏む音を残して車外へ出ると、海鳴りの低い轟きが耳に届いた。
遅れてアブサンも助手席のドアを開けた。
潮風に黒髪を靡かせ、緩やかに外へ出る。その横顔は朝日に照らされ、精悍な輪郭に淡い光を縁取っていた。遠くの海へ視線を移し薄く目を細めると、短く言葉を落とした。
「……はじめて来た場所だが……何処だ、ここは」
掠れ気味の声が潮騒に混じり、ジンの耳に届いた。
その言葉に目を細めながら、アブサンの傍に近付いていく。
「ここがお前の切れ目だ。その血で黒潮の海を染め上げて、記憶を葬り去ったのが、この断崖だ――覚えてねぇか」
アブサンの身体が一瞬だけ硬直した。
潮風に晒された横顔に、朝日が薄く影を刻む。灰緑の瞳がどこか遠くを映したかと思えば、その次の瞬間には踵を返していた。
砂利を踏みしめる靴音が短く響く。
躊躇いのない動きに見えて、その背中からは微かな恐怖と拒絶が滲んでいるように見えた。
ジンは細めた眼でその背を追った。
逃げるでもなく、立ち向かうでもなく――ただ記憶に触れることを本能で避けた反応。無意識に蓋をするように、アブサンは助手席のドアに手を掛け、金属音を鳴らして押し開ける。
わずかに強張った指先。
そこに言葉よりも雄弁な“拒絶”があった。
ジンはアブサンが助手席に滑り込む前に、肩口から腕を回し込むようにしてその動きを制する。反射的に身を固くしたアブサンを横目に収め、低く諭すように声を落とした。
「落ち着け――そんなに嫌か。記憶に触れるのは」
逃げ場を塞がれたアブサンは短く息を吐いた。反射的に強張った肩をゆっくりと落とし、やがて口元を歪める。
深く、長いため息が潮騒に混じった。
灰緑の瞳は朝日に淡く光りながらも、どこか遠くを見ている。確かな力で回された拘束を無理に振り払うことはせず、指先でジンの腕を掴み、ゆっくりと振り解く。
「……さあな、俺もよく分からん。無意識のものだからな……」
アブサンは僅かに目を伏せると、開けたまま所在なさげに揺れるドアを押し閉めた。鈍い音が響き、潮の風に溶けていく。
「だが、もう潮時か。これ以上放置していては……錠前も海水で錆び付いて二度と開けられなくなる」
「なら……錆びて記憶ごと朽ち果てる前に、俺が開けてやる」
ジンの声音は潮騒を断ち切るように低く落ちた。
柔らかさの欠片もなく、強引に道を示す鎖のような響き。それはアブサンの迷いを断ち切るように深く切り込まれた。
アブサンの片眉が僅かに上がる。
薄く目を細め、苦笑めいた笑みが口端に浮かんだ。そのままポルシェに凭れかかり、ふと手を口元へ当てる。感慨に耽るように喉を小さく鳴らすと、朝日を受けた灰緑の瞳が横に逸れた。
「……妙な感覚だ。お前に興味が湧くとはな……」
ジンの瞳孔が微かに揺れ、次いで見開かれた。
耳に入ったはずの言葉を咀嚼できず、思考が一瞬空白に支配される。胸の奥を鋭く抉られたような感覚に呼吸すら忘れ、硬直した身体は潮騒の中で沈黙に深く縫い付けられた。
その様子をアブサンは正面から静かに観察していた。
だが、いつまで経っても口を開こうとしないジンを現実に引き戻すように、胸倉を掴むと力強く引き寄せた。
「どうした、ジン――黙ってないで案内しろ。お前が此処まで連れてきたんだろうが……なら、最後まで責任を持て」
鋭く突き付けられた声に、ジンの喉が僅かに鳴った。胸の奥で凍りついていた何かが軋むように解け、強張っていた呼吸が戻る。
掴まれたままの胸倉に視線を落とすと、ジンはその腕を乱暴に掴み返した。反発するでもなく、振り払うでもなく――ただ自らを前へと動かす力に変えるような、そんな仕草だった。
ジンはアブサンを伴い、無造作に歩き出した。海風が足元の砂利を転がし、断崖の縁へと伸びる細道が二人を誘っていく。
掴んだままの腕越しに、僅かに伝わる体温があった。
潮騒と朝風に冷やされた肌の中で、その熱だけが確かに残り、歩みを進めるたびに意識の奥に沈み込んでいった。
やがて二人は、鋭く尖った断崖の先端に辿り着いた。
眼下には荒れ狂う白波が打ち寄せ、海面が光と影を繰り返し刻んでいる。朝日が水平線から昇りつつあり、断崖の上に立つ二人の影を長く伸ばしていた。
ジンは掴んでいた腕を緩め、静かに手を離した。
解放されたアブサンは顎に手を添え、潮風を受けながら左右を見渡す。断崖の縁を確かめるように一歩、また一歩と進み出ていく。
朝日に照らされた横顔は冷静に見えながらも、その喉からは小さく思案の音が零れた。一拍の間を置き、低く言葉が落ちる。
「見覚えがあるような気もするが……それだけだな」
振り返ったその刹那、灰緑の瞳が大きく見開かれた。
瞳孔が開き、全身が硬直する。潮騒の音さえ掻き消すかのような沈黙の中で、アブサンの眼光は鋭く殺気を帯び、臨戦態勢に入ったまま何かを探すように四方を這った。
その異様な変化に、ジンの背筋が僅かに冷える。
息を呑み、思わず一歩踏み出していた。
「……ッ……!」
次の瞬間、アブサンの喉から低いうめき声が洩れた。
右手で頭を押さえ、指先は小刻みに震える。歪んだ口元が苦悶を物語り、灰緑の瞳は焦点を結ばずに揺れ続けていた。
その刹那――アブサンの足から力が抜け、身体が右へと傾ぐ。
ジンの視界では左、眼下には荒れ狂う海が口を開けていた。
考えるよりも先に、ジンの手が伸びていた。
指先が黒いネクタイを掴むと同時に、全身の力を込めて強引に引き寄せる。勢いのまま、アブサンの身体がジンの胸へと飛び込んできた。二人は均衡を崩し、そのまま断崖の先端に倒れ込む。
足元の岩が崩れる音に、ジンは即座に判断を下した。
荒い息を吐きながら、腕に力を込めアブサンを引き摺るようにして根元へと後退する。安全な位置まで退くと、ジンは肩で息を整えつつ小さく吐息を洩らした。
そして膝を砂利に沈め、腕でアブサンの身体を支えるように抱え込む。ぐったりとした重みが片腕にのしかかる。焦点の合わない瞳が宙を彷徨い、こめかみを押さえる指先は細かく震えていた。
荒れ狂う潮騒が二人を包む中、ジンは顔を近付けた。
灰緑の瞳を覗き込むように、息を潜めて名を囁く。
その瞬間、アブサンの身体が僅かに震えた。閉ざされていた扉が軋むように、ゆっくりと視線が交錯し瞬きが繰り返される。やがて瞳の揺れが収まり、濁った光が少しずつ戻ってきた。
「戻ったか」
息を吐き、ジンは低く声を落とした。そしてほんの刹那の安堵を隠すように、鋭い眼差しでアブサンを射抜く。
「今の……記憶が戻ったんじゃねぇのか。何を見た」
アブサンは灰緑の瞳を僅かに逸らし、瞼を伏せた。
長く吐息を洩らし、掠れた声を零す。
「……銃声が、何発も響いていた。あとは……膝に手をついて荒い呼吸を繰り返す俺の視界と、腹から血を流したお前……」
額に滲んだ汗を手の甲で拭い、ゆっくりと身体を起こす。ふらつきながらも立ち上がるその様子を、ジンは射抜くように見つめた。
「……他は」
低い問いに、アブサンは静かに首を横に振る。
「それだけだ……お前のその反応だと……思い出してほしい記憶ではなかったようだな……」
その声音には嘘の影はなかった。まるで淡々と事実を告げるだけの口振り。ジンは奥歯を噛み、鋭く舌打ちを落とした。
膝を地面から離し、立ち上がる。まだ足取りの覚束ないアブサンの腕を強く掴み、自分の肩へ回して支え込む。海風に黒いコートと銀髪が靡き、二人の影が長く砂利に伸びた。
アブサンは疲弊の色を滲ませた顔で、僅かに眉を下げる。
「……悪いな。それと……助かった」
はじめて向けられた謝罪と感謝の言葉に、ジンは返さなかった。
ただ肩に感じる重みを黙って受け止める。潮騒と朝風だけが二人の間を埋め、荒れた断崖の上を冷ややかに吹き抜けていった。