光を抱く者

014 - 口に出した後悔


 錆びついた鉄骨が縦横に走る倉庫街。
 砕けた硝子窓から月明かりが差し込み、薄闇の中に緊張を孕んだ影を描き出していた。僅かに吹き抜ける風も、忙しなく響く足音や銃声を掻き消すには何処か心許なかった。

 壁際に身を滑らせたアブサンは、無表情ながらもその冷徹な灰緑色の瞳を鋭く光らせていた。鼻腔を掠める火薬の匂い。咳き込むほど立ち込める硝煙の濁り。肺を灼くような感覚に慣れ過ぎたアブサンの身体が、鉄板を弾いた跳弾の音とともに飛び出した。

 右手に構えた拳銃を闇を切り裂くように持ち上げる。捉えた標的の影に向けて、静かに照準を合わせた。動きに合わせて発砲した弾丸が迷いなくその額を貫き、赤黒い飛沫を壁に散らしていく。

 それと同時に、アブサンの背後から足音を消すような動きで漆黒のコートがはためいた。アブサンとは反対側の柱に身を沈めると、間髪入れずに弾丸を撃ち込んでいく。乾いた銃声とともに鈍い音が複数落ちると、合流するようにアブサンの傍に寄ってきた。

 長い銀髪が風に揺れ、ジンの鋭い眼光と視線を合わせる。
 二人の動きは、事前に打ち合わせたかのように噛み合い、息遣いさえも同調していた。言葉も要らず、ただ視線と仕草だけで、何を考えているのかが分かる――そんな精錬された連携だった。

 アブサンは視線を後方に移し、銃口を上にあげる。
 一拍空けて、二人は飛び出した。積まれた木箱の影から、それに合わせて銃口が突き出される。連射の火花が散り、流れ弾が鉄骨を穿つ。破片がアブサンの頬を掠めた瞬間、反撃の一手を放つ。

 ジンは素早く身を屈め、弾丸の雨を避けながら的確に弾丸を撃ち込んでいく。銀髪を掠めた鉛玉を流し見ながら、ジンは開いた瞳孔とともに、口角を吊り上げた。甲高い破裂音が再び倉庫を震わせ、複数の影がその場にドサリと崩れ落ちる。

 硝煙と錆びた鉄の臭いが入り混じる静寂。
 束の間の安息に、ジンは吐息を洩らした。

 ――その刹那。

 潜伏していた別の影が、闇の奥で銃を構えた。
 擦れた金属音とともに捉えられた先は、ジンの側頭部。

 その引き金が絞られる瞬間、薄く細められたアブサンの瞳が鋭く光る。右手が伸びたときには、既に火が噴いていた。銃声が倉庫に反響し、標的の胸が弾け飛ぶ。血潮が宙を舞い、重力に負けて滴り落ちた。倒れ伏した男の身体から鮮血が溢れ出していく。

 銃口を下ろし、アブサンは眉を寄せた。
 片目だけ細めた瞳には、僅かに非難の色が滲んでいた。

「――反応が遅い。後方支援が多いのも考えものだな」

 低く、くぐもった声だった。
 ジンは倒れた標的を肩越しに眺め、低く鼻を鳴らす。

「反応する必要はねぇ。俺の背後はお前に任せてる」

 それは裏付けのない信頼の声だった。
 アブサンは舌打ちを落とすと、視線を滑らせながら残党の不在を確かめていく。先ほどまで立ち込めていた鋭い殺気が消え失せたのを確認し、胸元のホルスターに拳銃を収めた。

「……お前への殺気に、身体が勝手に反応しやがる――過去の残滓に振り回されたくはないのだがな……」

 僅かに嫌悪感を滲ませた瞳が、気怠げに伏せられる。
 その声に愉快そうに口角を上げたジンは、アブサンの近くに歩み寄ると、その肩を軽く叩いた。

「嫌悪だろうが残滓だろうが、俺は構わねぇぜ……お前の引き金が俺のために動くって事実がありさえすればな……」

 アブサンは口元を歪め、その手を振り払う。
 手をひらつかせたジンがアブサンの横を通り過ぎ、崩れ落ちた死体の真横にゆっくりと膝を付く。血に濡れた胸元を手際良く探り、隠されていたフロッピーを引き抜いた。それを無表情に眺めると、胸ポケットに滑り込ませ、何事もなかったように立ち上がる。

「撤収だ――アブサン、戻るぞ」

 鋭さの残る眼光と視線が交差する。外に向かうジンの背中を一頻り眺めた後で、アブサンはその後を追った。

 外に出ると、夜風が硝煙と血の臭いを散らしていく。
 月光に照らされた黒いポルシェ356Aが、無機質な倉庫街の中で異質な存在感を放っていた。

 二人は無言のまま車に乗り込んでいく。
 ジンは助手席に腰を落とし、シートに深く沈みながら煙草を取り出した。アブサンは運転席でエンジンをかけ、ステアリングに両肘を預けるようにし、一度だけ深い息を吐いた。

 灰緑の瞳が前方を見据え、無感情に整えられる。
 月光に照らされたジンの銀髪が、僅かに揺れ動いた。それに横目を向けると、ジンの瞳と交錯する。だが言葉は落ちなかった。沈黙が車内を支配し、夜の帳にエンジン音だけが響いていた。

 やがて、アブサンの指先がギアにかかる。無造作に握り直した掌がレバーを押し込み、乾いた音を立てる。クラッチを踏み込み、アクセルを軽く煽ると、低い振動が車体を揺らした。

 鋼の獣がようやく眠りから目を覚ましたかのように、ポルシェは夜の路地へと滑り出していった。

 微かな走行音に包まれながら、アブサンは胸ポケットに手を差し入れる。ひしゃげたソフト煙草を揺らし、一本を口端に咥えると、火を灯したライターの炎が一瞬だけ灰緑の瞳を照らした。

 二つの紫煙が混ざり合い、夜気に似た匂いを車内に漂わせる。
 それは窓ガラスの隅に淡く溶けて、霧散していった。

「……で、今日も定期確認か」

 視線は一度も横に流さない。
 フロントガラスの向こうに過ぎ去る街灯の光を、ただ無感情に追いながら、吐き出した紫煙に言葉を溶かした。

「あぁ。お前の動きを見てりゃ、記憶が戻ったのかどうかくらいは分かるからな――まぁ、無駄足だったが」

 ジンの抑揚を抑えた声色は、探るでもなく、ただ結果を告げるだけの事務的な響きを帯びていた。淡々としたその声音が、かえって底に潜む落胆を滲ませている。アブサンは紫煙を吐き出しながら、僅かに嘲笑するように喉を小さく鳴らした。

「それはそれは。残念だったな」

 紫煙に霞む横顔を、ジンはしばし無言で眺めた。
 それは無表情を貼り付けたアブサンの輪郭に、微かな揺らぎを探すかのような仕草だった。

「最近のお前は、妙に殺気立ってるじゃねぇか……記憶が戻ったんだと思ったが、そうじゃねぇ……お前は何に苛立ってる」

 言葉を切ったジンは、煙草を指先で弄ぶように回しながら、どこか思案に沈んでいるようだった。視線は正面を向いているはずなのに、僅かに伏せられた睫毛の影が横顔を曖昧に覆い隠す。

 アブサンは目を瞬かせ、静かにブレーキを踏み込む。
 信号で停車すると、窓枠に肘を付き煙草を深く吸い込んだ。吐き出した紫煙を眺め、僅かに視線を傾ける。

「……お前の想像では、俺の記憶が戻れば……俺はひたすらに殺気立つようだな。実に興味深い」

 その声は興味を抱いている気配など微塵もなく、むしろ退屈さを皮肉に変えたような響きだった。吐き出された言葉は淡白に空気を切り裂き、車内に冷えた沈黙を落とす。

 ジンは返答を選ばなかった。
 煙草を指先で転がしながら、視線だけを助手席の窓に移す。窓ガラスに揺らいだ銀の横顔は、どこか愉快そうにも、あるいは苛立っているようにも見えたが、その沈黙は最後まで崩れなかった。

 アブサンは鼻を鳴らし、苛立ちの原因を想起する。
 仲間を殺される痛みを知っていた筈なのに、同じ憎悪を向けさせることしか出来なかった己に、ただ苛立っていた。だが、それをそのまま言葉にする気は、今のアブサンにはなかった。

「苛立ちの正体は……幻想を維持する虚しさだろうな。相手が誰であれ……演目を降りられない以上は、同じことだ」

 助手席の窓に映る銀の横顔が、僅かに歪んだ。笑みとも皮肉とも取れる影を落とし、煙草の灰を指先で弾く。

「……俺に苛立ってる訳じゃねぇのか」

 アブサンは短く喉を鳴らし、呆れを滲ませるように吐息を洩らした。灰緑の瞳は一度も横に逸れず、ただフロントガラス越しの、街灯の明滅を冷ややかに眺めていた。

「鬱陶しいのは確かだ……苛立ちや憎悪を向けたこともあったが、それも何年か前に一度向けただけの、ただの気晴らしだ」

 言葉の調子は淡々としていた。ただ事実を述べるだけの口振りで落とした言葉に、感情の起伏は乗せていない。吐き出された紫煙が言葉と共に揺れ、前方のガラスへ淡く溶けていった。

 かつて、アブサンは確かにジンを憎んでいた。無実の仲間を確証もなく処理する、その冷酷さを呪ったこともあった。だがそれは、己の無力さが招いた種でしかなかった。ジンはただ組織の理を体現し、割り振られた仕事を全うしているだけに過ぎない。そこに憎悪を向けるのは筋違い――そう結論付けた時点で、アブサンの胸に残るのは、もはや乾いた諦念だけだった。

「気晴らしに向けた、そのワケを訊こうじゃねぇか」

 ジンは口端を僅かに吊り上げた。
 笑みとも嘲りともつかぬ表情。だが目の奥には、計りかねるものを探るような鋭さが消えなかった。

「……確証もなく仲間を撃つ。それがお前の悪癖だ。疑わしきは罰せよ――その博打が毎度当たるなら、俺に異論はなかった」

 正面から答える気など更々なかった。
 全てを晒す必要もなく、ただ体裁の良い事実を並び立てる。粘着質な言及を避けるには、それに相手の話を混ぜ、会話の流れをすり替えるのが手っ取り早く、アブサンには好ましかった。

「……これは癖じゃねぇ、俺のやり方だ。誰に何を言われようが、変える気はねぇよ」

 鼻を鳴らしたジンが腕を伸ばし、灰皿に煙草を押し付ける。
 腕を組んでシートに深く沈んだのを横目に、アブサンはブレーキパッドからゆっくりと足を離した。

「ああ……だから俺は、お前が処理するより先に、裏切りの確証を得るようにしている」

 アクセルを踏み込むと、エンジン音が低く唸りを上げた。
 車体が夜の路地を滑るように進み、街灯の明滅がフロントガラスにリズムを刻んでいく。窓を叩く風の音と、タイヤの摩擦音だけが沈黙を埋め、会話の続きを待つように流れていった。

 ジンは背もたれに身を沈めたまま、片肘を窓の縁に掛けた。
 無意識に動く指先が、硬質な縁を小さく叩く。規則性を欠いたその音には、抑え込もうとした焦燥の色が僅かに滲んでいた。

 視線は前に向けられたままだったが、沈黙を押し破る言葉を探しているのが横目にも伝わってくる。

「――記憶はまだ戻らねぇのか」

 想定通りの言葉に、アブサンは微かに吐息を洩らした。
 煙草を深く吸い込み、そのまま灰皿に押し潰す。吐き出された煙が車内に漂い、気怠さを纏ったアブサンの横顔を覆った。

「深海にまで到達した記憶が、水圧に負けて浮上を拒んでいてな。このまま行けば、戻ることもないだろう」
「なら、深海まで手を伸ばせ。無理矢理にでも、浮上させろ」

 ジンの声音には、無理に抑え込んだ焦燥が滲んでいた。
 窓の縁を叩く指先が止まり、代わりに拳が膝の上で固く握り込まれる。月光に照らされた横顔は静かに見えながら、その奥底で揺らぐものを隠し切れていなかった。

 アブサンは左肘を窓枠に掛け、頬杖をつく。
 眉は僅かに寄せられていた。

「忘れ去りたいから海底に沈めたのだがな……わざわざ、手を伸ばす必要もないだろう。俺に構うな……放っておけ」

 淡々と返すアブサンの声が車内に沈む。
 その一言に、ジンの視線が横へと逸れた。細められた眼差しは射抜くようでいて、奥底には拭いきれぬ翳りが漂っていた。

「それはできねぇな……」

 その声音に微かに滲んだ哀しみを耳にして、アブサンは片眉を上げた。思案するように喉の奥で小さく鳴らす。

 何に対して揺れているのか、その理由を計りかねながらも、探るようにジンの目を一瞥した。

「お前、組織の誰にも興味を示さない癖に、俺に対しては妙な執着を見せるが……そんなに過去の俺に会いたいのか」

 言葉が落ちるが、ジンは反応を示さない。
 ただ、目を細めて前方の街灯を見つめていた。

「……過去の俺とお前、一体どんな関係だったんだか……」

 苦笑混じりの声に、ジンが驚いたように瞳孔を開いた。
 アブサンが過去に興味を示したのは初めてだとでも言うようにシートから身体を起こし、じわりと距離を詰めてくる。

「気になるか」
「……こうも執拗にされると、多少は、気にもなる」

 前方を向きながら、アブサンは距離を取るように身体を傾ける。その返答に、ジンの口端が緩やかに吊り上がった。笑みというには鋭すぎる。だが、愉悦の色を帯びた表情だった。

「アブサン、車を路肩に寄せろ。俺が運転する」
「……なんだ、急に」

 僅かに困惑の色を滲ませながらも、アブサンの指先がウィンカーレバーを倒した。乾いたカチリという音が、車内に一定の間隔で響き始める。黄色い点滅が夜の闇を裂き、ポルシェは緩やかに速度を落とし、路肩へと寄せていった。

 ブレーキを踏み込み、ポルシェが完全に静止する。
 エンジンの低い唸りだけが残響のように続き、夜の路地には一瞬だけ張り詰めた沈黙が落ちた。

 先にジンがドアを押し開け、黒いコートの裾を夜気に揺らしながら外へ出る。続いてアブサンも無言でドアを開け、靴底がアスファルトを踏む乾いた音が響いた。二人は無言のまま互いの横をすれ違い、それぞれのドアを閉める音が重なって夜に吸い込まれる。

 アブサンは助手席に腰を下ろし、背を深くシートに沈めた。
 僅かに眉を寄せ、訝しげな眼差しを運転席へ滑らせる。灰緑の瞳がハンドルを握り直したジンの横顔を探るように射抜いた。

 ジンは何も言わず、キーを捻る。低い振動が車体を震わせ、ヘッドライトが闇を切り裂く。ギアを滑らかに入れ替え、アクセルを踏み込むと、鋼の車体は再び夜の路地を滑り出した。

「……お前、何を企んでいる」

 助手席に沈んだアブサンは腕を固く組み、声だけを落とした。
 灰皿に残る焦げた匂いが車内に薄く漂い、沈黙を割るその声音がより一層際立ったのを感じ取る。

「ようやくお前が興味を示したんだ……なら俺も、それに応えなきゃならねぇと思ってな……」

 ハンドルを握るジンの口端が吊り上がる。視線は前方に据えられたまま、声だけが愉快そうに響いた。

 アブサンはその笑みに目元を押さえた。
 僅かに眉を寄せ、短く息を洩らす。その仕草には、言葉にしてしまったことへの後悔が、微かに滲んでいた。

「引き返せ。応える必要はない」
「ハッ……今更遅ぇよ」

 ポルシェは夜風を切り裂き、街灯の明滅を連れて走り続ける。
 二人の沈黙は、夜の闇に呑まれていった。

14/25ページ
スキ