光を抱く者
013 - 差し向けた憎悪
夜の屋上は、風に晒された鉄とコンクリートの匂いに満ちていた。
遠くに連なるビル群の光が滲み、眼下の街はまだ眠らずにざわめいている。だが、ここには緩やかに吹き抜ける風とネオンの明滅しか存在せず、孤独な監視台のように闇に浮かんでいた。
アブサンは煙草を口端に咥えながら、無骨な欄干に片肘を掛け、双眼鏡を構えていた。灰緑の瞳がレンズ越しに標的の建物を捉え、冷徹な視線を揺らすことなく留めている。
背後で風が鳴り、鉄扉の軋む音が響いた。
僅かに顎を引いて横目を滑らせると、そこにはバーボンの姿があった。任務帰りとは思えないほどの熱を宿した灰色の眼差しが、アブサンを真っ直ぐに射抜いていた。
来るべきではない場所に、来るべきではない相手が現れた。
夜風が二人の間を抜け、僅かに張り詰めた沈黙を運んでいく。近付いてきた革靴の音に、アブサンは冷ややかに目を細めた。
「よくここが分かったな……バーボン」
視線を一度だけ合わせると、すぐに双眼鏡へと戻した。欄干に肘を預け直し、もう片方の手を無造作にポケットへ差し込む。その仕草は、背後に立つ存在を意にも介さない余裕を装っていた。
「あなたの居場所は手に取るように分かりますよ……」
そこで一拍置き、灰色の瞳が細められる。
吐き出された息と共に、声の温度が僅かに上がった。
「――そのくらい、“僕たち”は濃い時間を過ごしてきた。共に任務を重ね、背中を預けてきた仲じゃないですか」
最後の言葉には棘が潜んでいた。
問いかけるでもなく、責めるでもなく、それでも“どうしてスコッチを手に掛けた”という思いが、暗に突き付けられていた。
アブサンは双眼鏡を下げ、夜風を受けながら思案を沈めた。
バーボンの“真相への執着”は、もはやアブサンにとって制御不能の域に達していた。だが、それに絆されて生存を告げてしまえば、スコッチの立場も、アブサン自身の立場も危うくなる。
スコッチの死の真相に囚われたまま、今のように闇雲に捜査を続ければ、いずれ幹部の耳にも知れ渡る。そうなれば矛先はバーボン自身に向かい、同類として処理命令が下るのは避けられない。
それを阻止するには、情を断ち切らせるしかない。
アブサンに向けられた曖昧な信頼を砕き、死を揺るぎないものにさせ、アブサン個人への憎しみ――それだけに昇華させる。
それ以外に――三人がこの先、生きて立つ道はなかった。
沈黙に耐えかねたように、バーボンは一歩踏み出した。
夜風に揺れるコートの裾がアブサンの足元を掠め、距離の詰まった空気がひどく重くなる。灰色の瞳は射抜くように細められ、強い光を帯びていた。
「スコッチは……僕たちにとって“同僚”で、あなたにとっても大事な部下だったはずです。そんな相手を、本当に躊躇いもなく処理できるものでしょうか? 僕は、そうは思えない」
やがて伸ばされた手が、欄干に凭れるアブサンの肩に置かれる。
それは問い質すための仕草であると同時に、逃げ場を与えまいとする決意の現れのようだった。
アブサンは冷ややかに鼻を鳴らし、肩に置かれた手を鬱陶しげに払い落とした。灰緑の瞳を細め、侮蔑と嘲笑の色を滲ませた。
「笑わせるな。奴は俺にとってただの“任務の延長”にすぎん。情を注いでやる価値なんざ、端からありはしない」
次の瞬間、バーボンの体が前のめりに動いた。
肩を押し突けられ、アブサンの背は冷たい床に叩きつけられる。鉄とコンクリートの硬い感触が背中に広がり、その上に覆い被さる影が、アブサンの襟元を強く掴んだ。
荒く弾む息と共に、拳が震えながら振り上げられる。だが、アブサンは抗わなかった。片眉を僅かに持ち上げただけで、目の前のバーボンを灰緑の瞳で見据える。その眼差しには苛立ちも恐怖もない。感情を滲ませぬまま、バーボンの動きを測るように視線を滑らせる。怒りと迷いに揺れる灰色の瞳を、ただ冷ややかに観察していた。
「……本当に何も、何の躊躇いもなかったと言うのか……」
言葉が漏れると同時に、バーボンの眉が深く下がった。口元は悔しげに歪み、噛み締めた唇が震えている。まるで、二度も裏切られたとでも言うような表情だった。拳を振り下ろせないまま、灰色の瞳には怒りと悲嘆が入り混じり、縋るような色が揺れていた。
その揺らぎを見た瞬間、アブサンの灰緑の瞳が細められた。
アブサンは腕を素早く伸ばし、胸倉を掴まれていた体勢を逆手に取って関節を容赦なく極める。捻り上げられたバーボンの肩から鈍い音が鳴り、抵抗の余地を作らないままうつ伏せに叩きつけた。
「……ぐっ……!」
うめき声とともに動きを封じたアブサンは、無造作に胸元のホルスターから拳銃を抜き取り、迷うことなくバーボンの後頭部へと押し付けた。冷たい金属が髪を分け、頭蓋を抉るように食い込む。その瞬間、バーボンの背が硬直し、喉奥で短い息を呑む音が洩れた。
アブサンの灰緑の瞳には、その反応が余計に鮮明に映っていた。目を細め、僅かに笑みを称えながら、低い声を落とす。
「お前、スコッチの――公安の仲間か?」
「な、なにを……」
バーボンの声は掠れ、言葉の芯が揺らいでいた。喉を鳴らすように息を呑み、震える呼吸が夜気に混じる。握り締めた拳が微かに汗を滲ませ、その迷いが一瞬の隙となって表情に滲んでいた。
「その執着――スコッチに対して、同僚以上の“何か”があるように見えるが……公安のお仲間なら、納得もできる」
アブサンの声音は低く抑えられていたが、その奥には確信を試すような硬さがあった。銃口を押し込む力を僅かに強め、抵抗の一切を許さぬという意思を示す。バーボンの口元に歪みが走ったのを確認して、アブサンは一拍置いてから言葉を続けていく。
「お前が憤るのも無理はない……大事な潜入任務を潰されたうえ、代えの利かない相棒を殺されたんだからな……」
言葉を突き付けられた瞬間、バーボンの瞳が大きく揺れた。
悔しさと悲嘆が混ざり合い、奥歯が強く噛み締められる音すら聞こえてくるようだった。
「お前らが何を勘違いしていたのか知らんが、俺はただの監視役。上司の顔はあくまで、懐柔するために見せただけにすぎん」
冷酷に言い放つと同時に、アブサンは眉ひとつ動かさずにバーボンを見下ろした。視線には苛烈さではなく、計算し尽くされた冷徹さだけが宿っていた。
「俺は忠告したはずだがな……手を伸ばせば伸ばすほど、深い闇に引き摺り込まれ……破滅を辿ることになると」
バーボンの拳が震えた。
だが、その震えは怒りだけではない。信じたいという最後の思いが、裏切られた現実に打ち砕かれようとしていた。
「なら……もう、いい。もう、信じるのは今日で最後だ」
低く絞り出すような声だった。
灰色の瞳に決別の光が宿る。
「いいや、バーボン。もう遅い」
無慈悲なまでの、冷ややかな声が落ちた。
アブサンの瞳が鋭く細められる。
「お前もあちらに送ってやる。撃たれる間際まで俺のことを信用しきっていた……あの愚鈍な“仲間”のもとにな……」
アブサンは撃鉄を起こし、再び銃口を後頭部へ深く押し込んだ。
冷たい金属が皮膚を抉る感触に、バーボンの体が焦燥に駆られ、必死にもがく。肩を軋ませ、床を擦る音が夜気に響いた。
その様を見下ろしながら、アブサンの口端が僅かに歪む。
乾いた笑いが零れ、風に散る。
感情を欠いたそれは、むしろ狂気の色を帯びていた。
「もっとも――今日のところは見逃してやる。ジンなら迷わず処理するだろうが……俺は確証のない殺しは好かんからな」
言い放ちながら、アブサンは銃口を僅かに浮かせた。
安堵にも似た震えがバーボンの肩に走ったのを感じ取り、灰緑の瞳が冷たく細められる。アブサンにとっては命乞いのようなその反応すら、観察対象にすぎなかった。
アブサンはゆっくりと銃口を夜空に向けると、目を薄く細めた。バーボンの肩から手を離し、静かに立ち上がる。解放されたバーボンの身体が床に沈み、荒い呼吸が夜気に混じった。
「お前が公安の犬でないなら、言動には気を付けることだ。幹部の耳に届く前に身を引け――これはお前への、最後の忠告だ」
低く落とされた声に、バーボンの拳が震えた。
悔しさか恐怖か、その判別はつかない。だがアブサンにとって、その揺らぎこそが狙い通りだった。
「仕事の邪魔だ。俺の気が変わる前に……さっさと失せろ」
アブサンは拳銃を胸元のホルスターへ滑らせると、気怠げに片手をひらつかせ、再び欄干に凭れた。夜風が黒いコートを揺らし、その姿は最初から何もなかったかのように静かだった。
背後で足音が遠ざかる。
バーボンは振り返ることなく、ただ黙って鉄扉の向こうへ姿を消した。残されたのは夜風と、微かな呼吸の余韻だけだった。
アブサンは双眼鏡を構え、視線を再び標的の建物へと戻す。
淡い吐息が零れ、誰に届くでもない独白が風に溶けた。
「……それでいい。俺を憎め……俺がそうだったように……」
その声は夜の屋上に沈み、風に攫われて消えていった。
夜の屋上は、風に晒された鉄とコンクリートの匂いに満ちていた。
遠くに連なるビル群の光が滲み、眼下の街はまだ眠らずにざわめいている。だが、ここには緩やかに吹き抜ける風とネオンの明滅しか存在せず、孤独な監視台のように闇に浮かんでいた。
アブサンは煙草を口端に咥えながら、無骨な欄干に片肘を掛け、双眼鏡を構えていた。灰緑の瞳がレンズ越しに標的の建物を捉え、冷徹な視線を揺らすことなく留めている。
背後で風が鳴り、鉄扉の軋む音が響いた。
僅かに顎を引いて横目を滑らせると、そこにはバーボンの姿があった。任務帰りとは思えないほどの熱を宿した灰色の眼差しが、アブサンを真っ直ぐに射抜いていた。
来るべきではない場所に、来るべきではない相手が現れた。
夜風が二人の間を抜け、僅かに張り詰めた沈黙を運んでいく。近付いてきた革靴の音に、アブサンは冷ややかに目を細めた。
「よくここが分かったな……バーボン」
視線を一度だけ合わせると、すぐに双眼鏡へと戻した。欄干に肘を預け直し、もう片方の手を無造作にポケットへ差し込む。その仕草は、背後に立つ存在を意にも介さない余裕を装っていた。
「あなたの居場所は手に取るように分かりますよ……」
そこで一拍置き、灰色の瞳が細められる。
吐き出された息と共に、声の温度が僅かに上がった。
「――そのくらい、“僕たち”は濃い時間を過ごしてきた。共に任務を重ね、背中を預けてきた仲じゃないですか」
最後の言葉には棘が潜んでいた。
問いかけるでもなく、責めるでもなく、それでも“どうしてスコッチを手に掛けた”という思いが、暗に突き付けられていた。
アブサンは双眼鏡を下げ、夜風を受けながら思案を沈めた。
バーボンの“真相への執着”は、もはやアブサンにとって制御不能の域に達していた。だが、それに絆されて生存を告げてしまえば、スコッチの立場も、アブサン自身の立場も危うくなる。
スコッチの死の真相に囚われたまま、今のように闇雲に捜査を続ければ、いずれ幹部の耳にも知れ渡る。そうなれば矛先はバーボン自身に向かい、同類として処理命令が下るのは避けられない。
それを阻止するには、情を断ち切らせるしかない。
アブサンに向けられた曖昧な信頼を砕き、死を揺るぎないものにさせ、アブサン個人への憎しみ――それだけに昇華させる。
それ以外に――三人がこの先、生きて立つ道はなかった。
沈黙に耐えかねたように、バーボンは一歩踏み出した。
夜風に揺れるコートの裾がアブサンの足元を掠め、距離の詰まった空気がひどく重くなる。灰色の瞳は射抜くように細められ、強い光を帯びていた。
「スコッチは……僕たちにとって“同僚”で、あなたにとっても大事な部下だったはずです。そんな相手を、本当に躊躇いもなく処理できるものでしょうか? 僕は、そうは思えない」
やがて伸ばされた手が、欄干に凭れるアブサンの肩に置かれる。
それは問い質すための仕草であると同時に、逃げ場を与えまいとする決意の現れのようだった。
アブサンは冷ややかに鼻を鳴らし、肩に置かれた手を鬱陶しげに払い落とした。灰緑の瞳を細め、侮蔑と嘲笑の色を滲ませた。
「笑わせるな。奴は俺にとってただの“任務の延長”にすぎん。情を注いでやる価値なんざ、端からありはしない」
次の瞬間、バーボンの体が前のめりに動いた。
肩を押し突けられ、アブサンの背は冷たい床に叩きつけられる。鉄とコンクリートの硬い感触が背中に広がり、その上に覆い被さる影が、アブサンの襟元を強く掴んだ。
荒く弾む息と共に、拳が震えながら振り上げられる。だが、アブサンは抗わなかった。片眉を僅かに持ち上げただけで、目の前のバーボンを灰緑の瞳で見据える。その眼差しには苛立ちも恐怖もない。感情を滲ませぬまま、バーボンの動きを測るように視線を滑らせる。怒りと迷いに揺れる灰色の瞳を、ただ冷ややかに観察していた。
「……本当に何も、何の躊躇いもなかったと言うのか……」
言葉が漏れると同時に、バーボンの眉が深く下がった。口元は悔しげに歪み、噛み締めた唇が震えている。まるで、二度も裏切られたとでも言うような表情だった。拳を振り下ろせないまま、灰色の瞳には怒りと悲嘆が入り混じり、縋るような色が揺れていた。
その揺らぎを見た瞬間、アブサンの灰緑の瞳が細められた。
アブサンは腕を素早く伸ばし、胸倉を掴まれていた体勢を逆手に取って関節を容赦なく極める。捻り上げられたバーボンの肩から鈍い音が鳴り、抵抗の余地を作らないままうつ伏せに叩きつけた。
「……ぐっ……!」
うめき声とともに動きを封じたアブサンは、無造作に胸元のホルスターから拳銃を抜き取り、迷うことなくバーボンの後頭部へと押し付けた。冷たい金属が髪を分け、頭蓋を抉るように食い込む。その瞬間、バーボンの背が硬直し、喉奥で短い息を呑む音が洩れた。
アブサンの灰緑の瞳には、その反応が余計に鮮明に映っていた。目を細め、僅かに笑みを称えながら、低い声を落とす。
「お前、スコッチの――公安の仲間か?」
「な、なにを……」
バーボンの声は掠れ、言葉の芯が揺らいでいた。喉を鳴らすように息を呑み、震える呼吸が夜気に混じる。握り締めた拳が微かに汗を滲ませ、その迷いが一瞬の隙となって表情に滲んでいた。
「その執着――スコッチに対して、同僚以上の“何か”があるように見えるが……公安のお仲間なら、納得もできる」
アブサンの声音は低く抑えられていたが、その奥には確信を試すような硬さがあった。銃口を押し込む力を僅かに強め、抵抗の一切を許さぬという意思を示す。バーボンの口元に歪みが走ったのを確認して、アブサンは一拍置いてから言葉を続けていく。
「お前が憤るのも無理はない……大事な潜入任務を潰されたうえ、代えの利かない相棒を殺されたんだからな……」
言葉を突き付けられた瞬間、バーボンの瞳が大きく揺れた。
悔しさと悲嘆が混ざり合い、奥歯が強く噛み締められる音すら聞こえてくるようだった。
「お前らが何を勘違いしていたのか知らんが、俺はただの監視役。上司の顔はあくまで、懐柔するために見せただけにすぎん」
冷酷に言い放つと同時に、アブサンは眉ひとつ動かさずにバーボンを見下ろした。視線には苛烈さではなく、計算し尽くされた冷徹さだけが宿っていた。
「俺は忠告したはずだがな……手を伸ばせば伸ばすほど、深い闇に引き摺り込まれ……破滅を辿ることになると」
バーボンの拳が震えた。
だが、その震えは怒りだけではない。信じたいという最後の思いが、裏切られた現実に打ち砕かれようとしていた。
「なら……もう、いい。もう、信じるのは今日で最後だ」
低く絞り出すような声だった。
灰色の瞳に決別の光が宿る。
「いいや、バーボン。もう遅い」
無慈悲なまでの、冷ややかな声が落ちた。
アブサンの瞳が鋭く細められる。
「お前もあちらに送ってやる。撃たれる間際まで俺のことを信用しきっていた……あの愚鈍な“仲間”のもとにな……」
アブサンは撃鉄を起こし、再び銃口を後頭部へ深く押し込んだ。
冷たい金属が皮膚を抉る感触に、バーボンの体が焦燥に駆られ、必死にもがく。肩を軋ませ、床を擦る音が夜気に響いた。
その様を見下ろしながら、アブサンの口端が僅かに歪む。
乾いた笑いが零れ、風に散る。
感情を欠いたそれは、むしろ狂気の色を帯びていた。
「もっとも――今日のところは見逃してやる。ジンなら迷わず処理するだろうが……俺は確証のない殺しは好かんからな」
言い放ちながら、アブサンは銃口を僅かに浮かせた。
安堵にも似た震えがバーボンの肩に走ったのを感じ取り、灰緑の瞳が冷たく細められる。アブサンにとっては命乞いのようなその反応すら、観察対象にすぎなかった。
アブサンはゆっくりと銃口を夜空に向けると、目を薄く細めた。バーボンの肩から手を離し、静かに立ち上がる。解放されたバーボンの身体が床に沈み、荒い呼吸が夜気に混じった。
「お前が公安の犬でないなら、言動には気を付けることだ。幹部の耳に届く前に身を引け――これはお前への、最後の忠告だ」
低く落とされた声に、バーボンの拳が震えた。
悔しさか恐怖か、その判別はつかない。だがアブサンにとって、その揺らぎこそが狙い通りだった。
「仕事の邪魔だ。俺の気が変わる前に……さっさと失せろ」
アブサンは拳銃を胸元のホルスターへ滑らせると、気怠げに片手をひらつかせ、再び欄干に凭れた。夜風が黒いコートを揺らし、その姿は最初から何もなかったかのように静かだった。
背後で足音が遠ざかる。
バーボンは振り返ることなく、ただ黙って鉄扉の向こうへ姿を消した。残されたのは夜風と、微かな呼吸の余韻だけだった。
アブサンは双眼鏡を構え、視線を再び標的の建物へと戻す。
淡い吐息が零れ、誰に届くでもない独白が風に溶けた。
「……それでいい。俺を憎め……俺がそうだったように……」
その声は夜の屋上に沈み、風に攫われて消えていった。