光を抱く者
011 - 沈黙の温度
窓の外は、夜と朝の狭間に沈んでいた。
東の空がうっすらと白み始め、街並みはまだ眠りの中にある。だが遠くから鳥の鳴き声が細く重なり、時折、車道を走る車のエンジン音が微かに響いていた。
古びたマンションの一室にも、その気配は淡く忍び込んでいた。
剥がれかけた壁紙と擦り切れた床に、窓越しの光が淡く染み込み色のない空間をぼんやりと照らし出していた。
アブサンは既に目を覚ましていた。
椅子を少し引き、ベッドの脇に腰を下ろす。微かな寝息を立てるスコッチを、灰緑の瞳でじっと見下ろしている。
胸の上下は規則正しく、昨夜よりも幾分か落ち着いていた。
だが、その顔にはまだ疲労の影が濃く残っている。
アブサンは腕を組み、背を預けるように椅子に凭れた。窓の隙間から射す淡い光が頬を掠める。懐に忍ばせていた煙草に手を伸ばしかけて、思い直したように指先を止めた。
代わりに短い吐息が落ちる。
静かな室内に、その呼吸音だけが溶けていった。
不意に、静寂を破る電子音が室内に響いた。
携帯の着信音。スコッチは眠ったまま、反応を見せない。
アブサンは灰緑の瞳を一度だけベッドに落とし、寝息が乱れていないことを確かめる。
やがて、音を立てぬように椅子を引いて立ち上がった。コートの内ポケットから携帯を取り出し、リビングへ足を運ぶ。
剥き出しの蛍光灯が淡く光る狭い空間に入ると同時に応答する。耳に押し当てた端末の向こうから、低く乾いた声が響いた。
《……アブサン、掃除は終わった》
ライの声だった。短く切り落とされる報告は、余計な感情を一切含んでいなかった。
アブサンは無言でソファに腰を下ろし、深く凭れた。
懐から煙草を取り出し、火を点ける。橙の小さな炎が灰緑の瞳を一瞬照らし、次いで紫煙が天井へと昇っていく。
「ああ、ご苦労。お前はしばらく、バーボンを監視しておけ」
紫煙を吐き出しながらの声は、感情を排した冷ややかさを帯びていた。その言葉に電話口のライが小さく喉を鳴らした。
《……バーボンをか?》
問い返す声は低く、だがその裏には戸惑いが隠れていた。
アブサンは短い沈黙を置いて、指先で灰を落とした。灰皿に散る音は乾いていて、それが返事の代わりに響く。
「そうだ。あの行動は少々、目に余る。スコッチに対して、同僚以上の感情があるように思えたからな……」
灰緑の瞳が半ば伏せられ、紫煙の向こうに昨夜の光景を映す。
バーボンの歪んだ瞳、向けられた拳、吐き捨てられた憎悪――心を掻き乱すその光景に、アブサンはただ蓋をした。
《……バーボンがああなるのも無理はないとは思うが……》
それは冷静を装いながらも、奥歯に溜めた感情を噛み潰した末に絞り出された声だった。
「気付かれない程度で構わない。何かあれば連絡を入れろ」
アブサンは聞かなかったことにし、電話を切ろうと耳から携帯を離そうとした。その刹那、ライの抑制された声が落ちた。
《……アブサン。お前は本当に、スコッチを殺したのか》
横目で携帯を捉え、目を細める。
吐息を洩らし、ソファに深く沈む。
「ライ……現実を見ろ。幻想に溺れるのは、もうやめておけ」
通話を切る。
電子音が途絶え、部屋に再び静けさが戻った。アブサンはゆっくりとした手つきで携帯を置くと、しばらく無言でソファに沈み、天井を見上げた。指先に残った煙草を燻らせ、紫煙がゆらゆらと視界を曇らせる。その片手で顔を覆い、掠める痛みを押し殺すように、長く浅い吐息を落とした。
遠のくような沈黙だった。
だが、やがて指先の煙草を灰皿に押し潰した。紫煙の残滓がふっと揺れ、音もなく掻き消えていく。重い足取りで立ち上がり、コートの裾が僅かに揺れる。ソファに残る温もりを背に、寝室へ向かおうとしたところで、アブサンは一度立ち止まった。
短く息を吐き、掌で前髪を掻き上げる。
滲み出した影を押し殺すように表情を整えると、灰緑の瞳には再び冷徹な仮面が張り付いていた。
そのまま扉の前に立ち、ゆっくりとノブに手を掛ける。
隙間から漏れる淡い光の先では、ベッドに沈んでいたはずの影が上体を起こしていた。シーツに凭れたスコッチの灰色の瞳が、まだ霞んだ光を湛えながらも確かにこちらを捉えている。
アブサンは一拍の沈黙を置き、冷えた声音を返す。
「目が覚めたか……体調はどうだ」
「ああ。まだ怠いけど……大丈夫だ」
スコッチの声は掠れていたが、その口元には僅かな安堵の色が差していた。アブサンは無言でその様子を眺めながらベッドに足を向けると、その脇に置かれた椅子に腰を下ろした。
「ここ……本当に安全なのか?」
スコッチはベッドの上で上体を起こし、胸に手を当てながら周囲を見回した。壁紙は所々剥がれ、床は軋む。古びた家具が散らばるだけの無機質な部屋。カーテンの隙間から差し込む薄明かりが、床の傷や埃を照らし出していた。
「ああ。ここは公安の旧観察施設で、数年前に“事故”で閉鎖され、名義も消されている。表の不動産記録にも乗っていない」
アブサンは腕を組み淡々と答える。灰緑の瞳は窓に差し込む白光を反射し、冷たさを帯びて揺れていた。
「……なるほど、それは完璧な隠れ家だな」
スコッチは苦笑するように息を洩らし、枕側の壁に凭れた。だが目の奥には、どこか信じ切れない不安の色がまだ残っていた。
「お前はもう、組織では処理されたことになっている」
アブサンの声は感情を排した平坦な響きだった。
その言葉にスコッチは一度息を止め、目を伏せる。
「ジンたち……幹部を欺けたのか?」
「ああ、そこは問題ない。それよりも、現場に居合わせたバーボンとライが問題だ。二人は妙に勘が鋭いからな……」
アブサンは短く煙を吐き出すような仕草をし、記憶の中の光景を一瞬だけ思い返す。紫煙はないのに、眉間に影が差した。
「バーボンとライが?」
スコッチは眉を寄せる。
声に浮かんだのは驚きと、痛みに似た感情だった。
「偽装工作は完璧、映像も消去済み……指摘の通り、死を裏付けるような痕跡も残してある。問題はないと思うが……」
淡々とした答えの裏に、僅かに慎重さが滲む。
アブサンは頬杖をついて、冷めた目をスコッチに向けた。
「……その、二人は何か言っていたか?」
声を落とす直前、スコッチは小さく息を呑んだ。眉を下げ、躊躇いを隠せないまま言葉を探すように口にした問いだった。
アブサンは僅かに目を伏せ、視線を逸らす。
感情を押し殺した声音で言葉を落とした。
「ライは無言だったが、バーボンは……俺に煮え滾るような憎悪を向けてきた。殴りかかってきたのは、正直想定外だった」
その言葉にスコッチの表情が一瞬固まる。
想像以上に事態が深刻であることを悟り、呼吸が浅くなった。
「……本当に、死んだって思われてるんだな、俺……」
呟きは掠れ、目は宙を彷徨った。自分がこの世から消されたという実感が、ようやく胸に重く沈んでいるようだった。
「俺、これからどうなるんだ……?」
一拍空けて、スコッチはアブサンを射抜いた。握り込んだ拳が僅かに震え、眉は下がっていた。アブサンは短く息を吐く。
「飼い主の公安には裏切られ、帰る場所もなく、我々組織からも追放された身……現状、お前を外に出してやることはできない」
アブサンの声は冷酷で、現実を突き付ける刃のようだった。
スコッチは俯き、唇を噛む。
「お前に自由を与える条件は一つ、変装技術を会得することだ」
アブサンは姿勢を崩さずに続ける。その眼差しには曖昧な情が滲んだが、すぐに冷徹な仮面に覆い隠される。
「変装技術……ベルモットみたいな奴か……」
スコッチは皮肉めいた笑みを浮かべる。
だが、その目はどこか怯えていた。
「すべては俺が提供する。お前はただ、技術を磨け。誰にも疑われない顔になれるまで……それまでは、俺が面倒を見てやる」
アブサンの声音は乾いていたが、確かな重みがあった。
その言葉に、スコッチは困惑したように眉を顰めた。理解し難いものを見たように、震える手を握り締める。
「どうしてそこまで……どうして、俺を助けた?」
スコッチは視線を逸らしながら問う。
声は震え、答えを聞くのが怖いとでも言うような、そんな仕草だった。アブサンは目を細め、肘を付いた手で顔を覆った。
「……もう見たくないから、だろうか。俺自身が誰かを手に掛けるのも、誰かが、俺の目の前で殺されていくのも……」
低く落ちた声は、抑え込んだ痛みを無意識に滲ませていた。
アブサンの目が僅かに伏せられ、記憶の底の影が掠める。
「俺は助けられる状況でないと、手を差し伸べることができない。だから、お前を助けられて……良かったと思っている」
僅かな吐息が混じったその言葉は、冷徹な仮面から零れ落ちた本音だった。スコッチを射止めたアブサンの瞳は、これまでになく、穏やかな瞳だった。スコッチは息を呑み、ただ目を伏せる。
「……ありがとう、アブサン」
掠れた声の余韻が静寂に溶ける。
アブサンは返事をせず、揺らいだ灰緑の瞳を覆い隠すように瞼を閉じると、部屋には二人の呼吸音だけが残った。
古びた一室を包む静寂には、安堵と苦味が入り混じる。
窓の外には、夜を追い払うように朝の光が広がりはじめていた。
窓の外は、夜と朝の狭間に沈んでいた。
東の空がうっすらと白み始め、街並みはまだ眠りの中にある。だが遠くから鳥の鳴き声が細く重なり、時折、車道を走る車のエンジン音が微かに響いていた。
古びたマンションの一室にも、その気配は淡く忍び込んでいた。
剥がれかけた壁紙と擦り切れた床に、窓越しの光が淡く染み込み色のない空間をぼんやりと照らし出していた。
アブサンは既に目を覚ましていた。
椅子を少し引き、ベッドの脇に腰を下ろす。微かな寝息を立てるスコッチを、灰緑の瞳でじっと見下ろしている。
胸の上下は規則正しく、昨夜よりも幾分か落ち着いていた。
だが、その顔にはまだ疲労の影が濃く残っている。
アブサンは腕を組み、背を預けるように椅子に凭れた。窓の隙間から射す淡い光が頬を掠める。懐に忍ばせていた煙草に手を伸ばしかけて、思い直したように指先を止めた。
代わりに短い吐息が落ちる。
静かな室内に、その呼吸音だけが溶けていった。
不意に、静寂を破る電子音が室内に響いた。
携帯の着信音。スコッチは眠ったまま、反応を見せない。
アブサンは灰緑の瞳を一度だけベッドに落とし、寝息が乱れていないことを確かめる。
やがて、音を立てぬように椅子を引いて立ち上がった。コートの内ポケットから携帯を取り出し、リビングへ足を運ぶ。
剥き出しの蛍光灯が淡く光る狭い空間に入ると同時に応答する。耳に押し当てた端末の向こうから、低く乾いた声が響いた。
《……アブサン、掃除は終わった》
ライの声だった。短く切り落とされる報告は、余計な感情を一切含んでいなかった。
アブサンは無言でソファに腰を下ろし、深く凭れた。
懐から煙草を取り出し、火を点ける。橙の小さな炎が灰緑の瞳を一瞬照らし、次いで紫煙が天井へと昇っていく。
「ああ、ご苦労。お前はしばらく、バーボンを監視しておけ」
紫煙を吐き出しながらの声は、感情を排した冷ややかさを帯びていた。その言葉に電話口のライが小さく喉を鳴らした。
《……バーボンをか?》
問い返す声は低く、だがその裏には戸惑いが隠れていた。
アブサンは短い沈黙を置いて、指先で灰を落とした。灰皿に散る音は乾いていて、それが返事の代わりに響く。
「そうだ。あの行動は少々、目に余る。スコッチに対して、同僚以上の感情があるように思えたからな……」
灰緑の瞳が半ば伏せられ、紫煙の向こうに昨夜の光景を映す。
バーボンの歪んだ瞳、向けられた拳、吐き捨てられた憎悪――心を掻き乱すその光景に、アブサンはただ蓋をした。
《……バーボンがああなるのも無理はないとは思うが……》
それは冷静を装いながらも、奥歯に溜めた感情を噛み潰した末に絞り出された声だった。
「気付かれない程度で構わない。何かあれば連絡を入れろ」
アブサンは聞かなかったことにし、電話を切ろうと耳から携帯を離そうとした。その刹那、ライの抑制された声が落ちた。
《……アブサン。お前は本当に、スコッチを殺したのか》
横目で携帯を捉え、目を細める。
吐息を洩らし、ソファに深く沈む。
「ライ……現実を見ろ。幻想に溺れるのは、もうやめておけ」
通話を切る。
電子音が途絶え、部屋に再び静けさが戻った。アブサンはゆっくりとした手つきで携帯を置くと、しばらく無言でソファに沈み、天井を見上げた。指先に残った煙草を燻らせ、紫煙がゆらゆらと視界を曇らせる。その片手で顔を覆い、掠める痛みを押し殺すように、長く浅い吐息を落とした。
遠のくような沈黙だった。
だが、やがて指先の煙草を灰皿に押し潰した。紫煙の残滓がふっと揺れ、音もなく掻き消えていく。重い足取りで立ち上がり、コートの裾が僅かに揺れる。ソファに残る温もりを背に、寝室へ向かおうとしたところで、アブサンは一度立ち止まった。
短く息を吐き、掌で前髪を掻き上げる。
滲み出した影を押し殺すように表情を整えると、灰緑の瞳には再び冷徹な仮面が張り付いていた。
そのまま扉の前に立ち、ゆっくりとノブに手を掛ける。
隙間から漏れる淡い光の先では、ベッドに沈んでいたはずの影が上体を起こしていた。シーツに凭れたスコッチの灰色の瞳が、まだ霞んだ光を湛えながらも確かにこちらを捉えている。
アブサンは一拍の沈黙を置き、冷えた声音を返す。
「目が覚めたか……体調はどうだ」
「ああ。まだ怠いけど……大丈夫だ」
スコッチの声は掠れていたが、その口元には僅かな安堵の色が差していた。アブサンは無言でその様子を眺めながらベッドに足を向けると、その脇に置かれた椅子に腰を下ろした。
「ここ……本当に安全なのか?」
スコッチはベッドの上で上体を起こし、胸に手を当てながら周囲を見回した。壁紙は所々剥がれ、床は軋む。古びた家具が散らばるだけの無機質な部屋。カーテンの隙間から差し込む薄明かりが、床の傷や埃を照らし出していた。
「ああ。ここは公安の旧観察施設で、数年前に“事故”で閉鎖され、名義も消されている。表の不動産記録にも乗っていない」
アブサンは腕を組み淡々と答える。灰緑の瞳は窓に差し込む白光を反射し、冷たさを帯びて揺れていた。
「……なるほど、それは完璧な隠れ家だな」
スコッチは苦笑するように息を洩らし、枕側の壁に凭れた。だが目の奥には、どこか信じ切れない不安の色がまだ残っていた。
「お前はもう、組織では処理されたことになっている」
アブサンの声は感情を排した平坦な響きだった。
その言葉にスコッチは一度息を止め、目を伏せる。
「ジンたち……幹部を欺けたのか?」
「ああ、そこは問題ない。それよりも、現場に居合わせたバーボンとライが問題だ。二人は妙に勘が鋭いからな……」
アブサンは短く煙を吐き出すような仕草をし、記憶の中の光景を一瞬だけ思い返す。紫煙はないのに、眉間に影が差した。
「バーボンとライが?」
スコッチは眉を寄せる。
声に浮かんだのは驚きと、痛みに似た感情だった。
「偽装工作は完璧、映像も消去済み……指摘の通り、死を裏付けるような痕跡も残してある。問題はないと思うが……」
淡々とした答えの裏に、僅かに慎重さが滲む。
アブサンは頬杖をついて、冷めた目をスコッチに向けた。
「……その、二人は何か言っていたか?」
声を落とす直前、スコッチは小さく息を呑んだ。眉を下げ、躊躇いを隠せないまま言葉を探すように口にした問いだった。
アブサンは僅かに目を伏せ、視線を逸らす。
感情を押し殺した声音で言葉を落とした。
「ライは無言だったが、バーボンは……俺に煮え滾るような憎悪を向けてきた。殴りかかってきたのは、正直想定外だった」
その言葉にスコッチの表情が一瞬固まる。
想像以上に事態が深刻であることを悟り、呼吸が浅くなった。
「……本当に、死んだって思われてるんだな、俺……」
呟きは掠れ、目は宙を彷徨った。自分がこの世から消されたという実感が、ようやく胸に重く沈んでいるようだった。
「俺、これからどうなるんだ……?」
一拍空けて、スコッチはアブサンを射抜いた。握り込んだ拳が僅かに震え、眉は下がっていた。アブサンは短く息を吐く。
「飼い主の公安には裏切られ、帰る場所もなく、我々組織からも追放された身……現状、お前を外に出してやることはできない」
アブサンの声は冷酷で、現実を突き付ける刃のようだった。
スコッチは俯き、唇を噛む。
「お前に自由を与える条件は一つ、変装技術を会得することだ」
アブサンは姿勢を崩さずに続ける。その眼差しには曖昧な情が滲んだが、すぐに冷徹な仮面に覆い隠される。
「変装技術……ベルモットみたいな奴か……」
スコッチは皮肉めいた笑みを浮かべる。
だが、その目はどこか怯えていた。
「すべては俺が提供する。お前はただ、技術を磨け。誰にも疑われない顔になれるまで……それまでは、俺が面倒を見てやる」
アブサンの声音は乾いていたが、確かな重みがあった。
その言葉に、スコッチは困惑したように眉を顰めた。理解し難いものを見たように、震える手を握り締める。
「どうしてそこまで……どうして、俺を助けた?」
スコッチは視線を逸らしながら問う。
声は震え、答えを聞くのが怖いとでも言うような、そんな仕草だった。アブサンは目を細め、肘を付いた手で顔を覆った。
「……もう見たくないから、だろうか。俺自身が誰かを手に掛けるのも、誰かが、俺の目の前で殺されていくのも……」
低く落ちた声は、抑え込んだ痛みを無意識に滲ませていた。
アブサンの目が僅かに伏せられ、記憶の底の影が掠める。
「俺は助けられる状況でないと、手を差し伸べることができない。だから、お前を助けられて……良かったと思っている」
僅かな吐息が混じったその言葉は、冷徹な仮面から零れ落ちた本音だった。スコッチを射止めたアブサンの瞳は、これまでになく、穏やかな瞳だった。スコッチは息を呑み、ただ目を伏せる。
「……ありがとう、アブサン」
掠れた声の余韻が静寂に溶ける。
アブサンは返事をせず、揺らいだ灰緑の瞳を覆い隠すように瞼を閉じると、部屋には二人の呼吸音だけが残った。
古びた一室を包む静寂には、安堵と苦味が入り混じる。
窓の外には、夜を追い払うように朝の光が広がりはじめていた。