光を抱く者
010 - 救済の代償
東都、杯戸市。
人通りもほとんどない住宅街の一角に、外観は古びた五階建てのマンションがある。表札も郵便受けも曖昧に塗り潰され、普段は夜中に明かりが灯ることはない。
だが、そのマンションの一室に淡い裸電球が灯っていた。
そこはアブサンの避難地の一つだった。
淡く白い裸電球の下、色褪せたベッドにスコッチが横たえられていた。血糊で濡れたシャツは胸に張り付き、呼吸は浅く途切れたり洩れたりを繰り返している。
アブサンは椅子を引き寄せ、そこに腰を下ろした。
灰緑の瞳が冷ややかに揺れ動く。指先で頸動脈を押さえると、一定の脈がまだ微かに残っているのを確認する。
「……生きてはいる、か……」
低く呟き、手際よく処置を進める。
まずは胸元の布地を切り裂くようにして開いた。布に貼り付いた血糊の袋は、赤黒く固まって皮膚に吸い付いている。無骨な指で端を摘まみ、力を込めて剥ぎ取ると湿った音を立てて床に落ちた。
肌に残った血の染みは、冷え固まった絵の具のように不自然で、強い鉄錆の匂いが鼻を掠める。演出に過ぎないと分かっていても、胸に広がった赤が、まるで本物の死の影を見せつけてくる。
アブサンは一瞬だけ灰緑の瞳を細めた。
胸に触れた掌の下で、生命はまだ細く続いている。
だが、薬で心拍と呼吸を極限まで落とした影響は大きい。
アブサンは掌を胸に残したまま、耳を近付けた。
肺の奥から微かに空気が抜ける気配――しかし、それは頼りなく掠れていて、今にも途絶えそうだった。
灰緑の瞳が細く絞られる。
冷え切った顔に影が落ち、唇から低く言葉が漏れた。
「世話の焼ける……」
ベッド脇に腰を掛け直すと、肩を支えて首を後ろに反らせる。
指先で顎を固定し、気道を開く。機械的に――だが、僅かな緊張がその動作に滲んでいた。
そして迷いなく、自らの口を近付ける。
冷えた唇が触れ、次の瞬間、肺に溜めた空気を押し込む。胸が僅かに膨らみ、数秒後に萎む。
ひと呼吸。間髪入れず、再び息を吹き込む。乾いた室内の空気が肺へと流れ込み、規則的な上下がほんの僅かに戻ってくる。
アブサンは淡々と続けた。
呼吸の合間、己の鼓動が耳の奥でやけに響く。冷徹に徹しようとすればするほど、指先が微かに震えていた。
三度目の人工呼吸。
スコッチの胸郭が小さく痙攣し、青ざめた唇が微かに震えた。
その反応に、アブサンの瞳が細められる。
硬い声で命令のように囁いた。
「……さっさと起きろ……」
四度目の息を吹き込む。
その刹那、喉奥が僅かに震え、掠れた音が溢れた。
吐息が触れた直後、スコッチの瞼が震えた。
固く閉じられていた睫毛がゆっくりと開き、焦点を探す灰色の瞳が至近距離でアブサンを捉える。
視線が交錯した。
灰緑色の冷たい光と、揺らぐ灰色の戸惑い。
互いに数秒、息を呑んだまま固まる。
「……ん、えっなに……ッ!?」
状況を理解した瞬間、スコッチの顔に朱が差す。
反射的に胸を押し退け、荒い呼吸を繰り返しながら身を捩った。まだ痺れる四肢が言うことを利かず、バランスを崩す。
ガタン、と鈍い音を立ててベッドの端から転げ落ちる。床に手をつき、目を瞬かせるスコッチの頬は真っ赤に染まっていた。
アブサンは頭を抱え、片目でスコッチを射止める。
「なんだその反応は……ただの人工呼吸だろうが」
アブサンは低く吐き捨てると、無造作に屈み込む。
肩を支え、腰に手を回して軽々と抱き上げる。抵抗しようとしたスコッチの腕は力なく空を掻くだけだった。
そのまま再びベッドへと横たえる。
乱れたシャツを直しながら額へ掌を当て、落ち着けとでも言うように軽く押さえ込む。
「あー、アブサン? 俺、なんでこうなってるんだっけ……」
眩しげに目を細めるスコッチが、顔を覆うように手を添えた。
「頭がぼんやりしてて……何がどうなってるのか……」
問いかけるスコッチに、アブサンは額に手を添えたまま僅かに息を吐き、言葉を選ぶように唇が動く。
「……公安の潜入捜査官だと組織に知られ、自決の選択を取ろうとしたお前の命を、俺が貰い受けた」
低い声音は淡々としていたが、そこには揺るぎない確信があった。指先でシャツの襟元を整えながら、続けて言葉を落とす。
「仮死状態にして疑いの目をすり抜けたが、薬の影響で心拍も呼吸も限界まで落ちていたからな……まだ本調子ではないはずだ」
スコッチは瞬きを繰り返し、言葉を飲み込むように口を結んだ。
アブサンの言葉は現実を突き付けるように鋭いが、その手つきは割れ物に触るかのように酷く柔らかだった。
「ここは誰も知らない俺の避難地だ。だから、安心していい」
低く抑えた声に、僅かな温度が滲んでいた。
アブサンは薄く目を細め、乱れた黒髪へ掌を滑らせる。ざらついた手のひらが頭皮を優しく撫で、緊張に強張っていたスコッチの呼吸が徐々に和らいでいく。
「……よく、戻ってきたな。今は身体を休めろ」
静かに告げられた言葉は、命令のようでありながら、どこか庇うようでもあった。俯せがちに瞼を伏せかけたスコッチの肩が、小さく震えた。その刹那、か細い声が空気を掠めた。
「……アブサン……」
灰緑の瞳が無意識に揺れる。
次の瞬間、力の入らぬはずの腕が伸び、黒いコートの裾を掴んだ。布が引き寄せられ、身体が僅かに傾ぐ。
抱き込まれる形になった己の胸へ、温もりが沈んだ。
顎の下に触れる黒髪の感触、耳に届く荒い呼吸。
その全てが、理屈を越えて“生”を主張していた。
「お前……煙に巻いて否定してたけど、やっぱり……誰かを救いたいって思ってたんだな……」
アブサンは僅かに眉を寄せる。
突き放すことも出来た。だが、伸ばされた掌の震えが、あまりに細く脆いことを、指先で確かに感じ取ってしまった。
沈黙が数秒。やがて無骨な手が自然とスコッチの後頭部に回り、添えるように軽く撫でる。
「さあな。だが、お前がそう思いたいなら、そうすればいい」
灰緑の瞳は天井を仰いでいたが、声色はどこか力を抜いたように響いた。事実を肯定も否定もせず、ただ受け流す。だがその淡白さの奥に、微かな温度が滲んでいた。
「……別にもう隠す必要ないだろ……」
スコッチが掠れた声で続ける。
弱々しく、それでいて縋るような響きだった。アブサンは眉を動かさず、乱れたシーツを整える指先に視線を落とす。
「これは俺の性分なんでな」
呟きは乾いている。だが、己を律するように吐き出されたその声は、冷徹さの裏で微かに揺れていた。
スコッチの肩を叩き、ゆっくりとその上体をベッドに横たえる。揺れたスコッチの目がアブサンを捉えていた。
「なあ、お前のこと……信じても良いんだよな?」
灰色の瞳が真っ直ぐに向けられる。数秒、視線が交差する。言葉を選ぶように沈黙を置き、やがて低く吐き出す。
「……言ったはずだ。お前の命を、俺に預けろとな」
確信を押し付けるでもなく、ただ事実を示すだけの響き。
それでも、その言葉はスコッチの胸に重く沁みていった。
「バーボンとライには、俺のこと……」
震え混じりの問い。
アブサンは小さく鼻を鳴らし、僅かに目を細めた。ベッド脇から毛布を取り出すと、優しげな手つきでそれを掛ける。
「お前が生きていると知れたら、俺たちは終わりだ。それくらいは理解しろ……憎まれ役には慣れている。お前は何も考えるな」
スコッチは息を呑み、ただ頷いた。
もう戻れないことを悟った、悲しげな色が瞳に滲んでいた。
「鎮静剤だ。今は、眠れ」
注射器を用意しながら、声を低く抑える。鋭さを帯びた声音の奥に、疲れと微かな安堵が混じっていた。
「ありがとう、アブサン……」
囁きは次第に掠れ、瞼が落ちる。ゆっくりと呼吸が整い、スコッチは安らかな寝息へと沈んでいった。
部屋に静寂が戻る。アブサンはしばらく寝顔を見下ろしていたがやがて腕を上げ、裸電球の明かりを落とした。
闇が広がり、彼の輪郭を沈めていく。壁際に腰を下ろし、膝を抱えるようにして蹲る。深い吐息が零れ、闇の奥へ溶けていった。
「……結局、俺はジンと同じことを……仲間を殺された痛みは、俺が一番分かっていたはずだろ……すまない、バーボン……」
誰に届くでもなく落とされた声は、夜の闇に吸い込まれた。
冷酷を装うその姿の奥に、確かに滲む弱さがあった。
それでも、夜は明ける。
救った命の重みも、背負わされた現実も、かつて己が抱いた憎悪が同じように自分に向けられているという事実も――眩しい光に照らされて逃げ場を失っていく。それでもアブサンは、その重さを抱えたまま生きていく他なかった。
東都、杯戸市。
人通りもほとんどない住宅街の一角に、外観は古びた五階建てのマンションがある。表札も郵便受けも曖昧に塗り潰され、普段は夜中に明かりが灯ることはない。
だが、そのマンションの一室に淡い裸電球が灯っていた。
そこはアブサンの避難地の一つだった。
淡く白い裸電球の下、色褪せたベッドにスコッチが横たえられていた。血糊で濡れたシャツは胸に張り付き、呼吸は浅く途切れたり洩れたりを繰り返している。
アブサンは椅子を引き寄せ、そこに腰を下ろした。
灰緑の瞳が冷ややかに揺れ動く。指先で頸動脈を押さえると、一定の脈がまだ微かに残っているのを確認する。
「……生きてはいる、か……」
低く呟き、手際よく処置を進める。
まずは胸元の布地を切り裂くようにして開いた。布に貼り付いた血糊の袋は、赤黒く固まって皮膚に吸い付いている。無骨な指で端を摘まみ、力を込めて剥ぎ取ると湿った音を立てて床に落ちた。
肌に残った血の染みは、冷え固まった絵の具のように不自然で、強い鉄錆の匂いが鼻を掠める。演出に過ぎないと分かっていても、胸に広がった赤が、まるで本物の死の影を見せつけてくる。
アブサンは一瞬だけ灰緑の瞳を細めた。
胸に触れた掌の下で、生命はまだ細く続いている。
だが、薬で心拍と呼吸を極限まで落とした影響は大きい。
アブサンは掌を胸に残したまま、耳を近付けた。
肺の奥から微かに空気が抜ける気配――しかし、それは頼りなく掠れていて、今にも途絶えそうだった。
灰緑の瞳が細く絞られる。
冷え切った顔に影が落ち、唇から低く言葉が漏れた。
「世話の焼ける……」
ベッド脇に腰を掛け直すと、肩を支えて首を後ろに反らせる。
指先で顎を固定し、気道を開く。機械的に――だが、僅かな緊張がその動作に滲んでいた。
そして迷いなく、自らの口を近付ける。
冷えた唇が触れ、次の瞬間、肺に溜めた空気を押し込む。胸が僅かに膨らみ、数秒後に萎む。
ひと呼吸。間髪入れず、再び息を吹き込む。乾いた室内の空気が肺へと流れ込み、規則的な上下がほんの僅かに戻ってくる。
アブサンは淡々と続けた。
呼吸の合間、己の鼓動が耳の奥でやけに響く。冷徹に徹しようとすればするほど、指先が微かに震えていた。
三度目の人工呼吸。
スコッチの胸郭が小さく痙攣し、青ざめた唇が微かに震えた。
その反応に、アブサンの瞳が細められる。
硬い声で命令のように囁いた。
「……さっさと起きろ……」
四度目の息を吹き込む。
その刹那、喉奥が僅かに震え、掠れた音が溢れた。
吐息が触れた直後、スコッチの瞼が震えた。
固く閉じられていた睫毛がゆっくりと開き、焦点を探す灰色の瞳が至近距離でアブサンを捉える。
視線が交錯した。
灰緑色の冷たい光と、揺らぐ灰色の戸惑い。
互いに数秒、息を呑んだまま固まる。
「……ん、えっなに……ッ!?」
状況を理解した瞬間、スコッチの顔に朱が差す。
反射的に胸を押し退け、荒い呼吸を繰り返しながら身を捩った。まだ痺れる四肢が言うことを利かず、バランスを崩す。
ガタン、と鈍い音を立ててベッドの端から転げ落ちる。床に手をつき、目を瞬かせるスコッチの頬は真っ赤に染まっていた。
アブサンは頭を抱え、片目でスコッチを射止める。
「なんだその反応は……ただの人工呼吸だろうが」
アブサンは低く吐き捨てると、無造作に屈み込む。
肩を支え、腰に手を回して軽々と抱き上げる。抵抗しようとしたスコッチの腕は力なく空を掻くだけだった。
そのまま再びベッドへと横たえる。
乱れたシャツを直しながら額へ掌を当て、落ち着けとでも言うように軽く押さえ込む。
「あー、アブサン? 俺、なんでこうなってるんだっけ……」
眩しげに目を細めるスコッチが、顔を覆うように手を添えた。
「頭がぼんやりしてて……何がどうなってるのか……」
問いかけるスコッチに、アブサンは額に手を添えたまま僅かに息を吐き、言葉を選ぶように唇が動く。
「……公安の潜入捜査官だと組織に知られ、自決の選択を取ろうとしたお前の命を、俺が貰い受けた」
低い声音は淡々としていたが、そこには揺るぎない確信があった。指先でシャツの襟元を整えながら、続けて言葉を落とす。
「仮死状態にして疑いの目をすり抜けたが、薬の影響で心拍も呼吸も限界まで落ちていたからな……まだ本調子ではないはずだ」
スコッチは瞬きを繰り返し、言葉を飲み込むように口を結んだ。
アブサンの言葉は現実を突き付けるように鋭いが、その手つきは割れ物に触るかのように酷く柔らかだった。
「ここは誰も知らない俺の避難地だ。だから、安心していい」
低く抑えた声に、僅かな温度が滲んでいた。
アブサンは薄く目を細め、乱れた黒髪へ掌を滑らせる。ざらついた手のひらが頭皮を優しく撫で、緊張に強張っていたスコッチの呼吸が徐々に和らいでいく。
「……よく、戻ってきたな。今は身体を休めろ」
静かに告げられた言葉は、命令のようでありながら、どこか庇うようでもあった。俯せがちに瞼を伏せかけたスコッチの肩が、小さく震えた。その刹那、か細い声が空気を掠めた。
「……アブサン……」
灰緑の瞳が無意識に揺れる。
次の瞬間、力の入らぬはずの腕が伸び、黒いコートの裾を掴んだ。布が引き寄せられ、身体が僅かに傾ぐ。
抱き込まれる形になった己の胸へ、温もりが沈んだ。
顎の下に触れる黒髪の感触、耳に届く荒い呼吸。
その全てが、理屈を越えて“生”を主張していた。
「お前……煙に巻いて否定してたけど、やっぱり……誰かを救いたいって思ってたんだな……」
アブサンは僅かに眉を寄せる。
突き放すことも出来た。だが、伸ばされた掌の震えが、あまりに細く脆いことを、指先で確かに感じ取ってしまった。
沈黙が数秒。やがて無骨な手が自然とスコッチの後頭部に回り、添えるように軽く撫でる。
「さあな。だが、お前がそう思いたいなら、そうすればいい」
灰緑の瞳は天井を仰いでいたが、声色はどこか力を抜いたように響いた。事実を肯定も否定もせず、ただ受け流す。だがその淡白さの奥に、微かな温度が滲んでいた。
「……別にもう隠す必要ないだろ……」
スコッチが掠れた声で続ける。
弱々しく、それでいて縋るような響きだった。アブサンは眉を動かさず、乱れたシーツを整える指先に視線を落とす。
「これは俺の性分なんでな」
呟きは乾いている。だが、己を律するように吐き出されたその声は、冷徹さの裏で微かに揺れていた。
スコッチの肩を叩き、ゆっくりとその上体をベッドに横たえる。揺れたスコッチの目がアブサンを捉えていた。
「なあ、お前のこと……信じても良いんだよな?」
灰色の瞳が真っ直ぐに向けられる。数秒、視線が交差する。言葉を選ぶように沈黙を置き、やがて低く吐き出す。
「……言ったはずだ。お前の命を、俺に預けろとな」
確信を押し付けるでもなく、ただ事実を示すだけの響き。
それでも、その言葉はスコッチの胸に重く沁みていった。
「バーボンとライには、俺のこと……」
震え混じりの問い。
アブサンは小さく鼻を鳴らし、僅かに目を細めた。ベッド脇から毛布を取り出すと、優しげな手つきでそれを掛ける。
「お前が生きていると知れたら、俺たちは終わりだ。それくらいは理解しろ……憎まれ役には慣れている。お前は何も考えるな」
スコッチは息を呑み、ただ頷いた。
もう戻れないことを悟った、悲しげな色が瞳に滲んでいた。
「鎮静剤だ。今は、眠れ」
注射器を用意しながら、声を低く抑える。鋭さを帯びた声音の奥に、疲れと微かな安堵が混じっていた。
「ありがとう、アブサン……」
囁きは次第に掠れ、瞼が落ちる。ゆっくりと呼吸が整い、スコッチは安らかな寝息へと沈んでいった。
部屋に静寂が戻る。アブサンはしばらく寝顔を見下ろしていたがやがて腕を上げ、裸電球の明かりを落とした。
闇が広がり、彼の輪郭を沈めていく。壁際に腰を下ろし、膝を抱えるようにして蹲る。深い吐息が零れ、闇の奥へ溶けていった。
「……結局、俺はジンと同じことを……仲間を殺された痛みは、俺が一番分かっていたはずだろ……すまない、バーボン……」
誰に届くでもなく落とされた声は、夜の闇に吸い込まれた。
冷酷を装うその姿の奥に、確かに滲む弱さがあった。
それでも、夜は明ける。
救った命の重みも、背負わされた現実も、かつて己が抱いた憎悪が同じように自分に向けられているという事実も――眩しい光に照らされて逃げ場を失っていく。それでもアブサンは、その重さを抱えたまま生きていく他なかった。