光を抱く者

001 - 幻想を抱かせる男


 東都湾に面した、朽ちた倉庫街。
 波打ち際をかすめる風が、錆びた鉄骨を軋ませる。その中に混じって、短く乾いた銃声が数発。直後に続いた足音も次第に減り、最後には何か重いものが倒れる音だけが残った。

 倉庫の中央。赤錆びたコンテナの扉に背を預け、男は熱を帯びた拳銃を、胸のホルスターに仕舞い込む。口に咥えた煙草に火を点けると、その炎が頬を照らし、床に転がる死体の群れを淡く浮かび上がらせた。灰緑の瞳は死者たちを無感情に掠めただけで、その奥に広がる闇をじっと見据えていた。

「ベルモット。なんの用だ」

 低く、くぐもった声音。
 鋭くも抑制の効いた問いかけに応えるように、暗がりからヒールの音が一歩ずつ近付いてくる。鈍く湿ったアスファルトを、細く尖った靴先が確かめるように踏みしめた。

 現れたのは、艷やかな長いブロンドを風に揺らした女。
 鉄と血の臭気に満ちた倉庫には似つかわしくない――スクリーンから抜け出したような、虚構の輝きを纏っていた。だがその双眸には、夜よりも濃い企図の色が滲んでいる。ベルモットは男の視線を正面から受け止めながら、唇の端をゆるく持ち上げ、囁きを零す。

「相変わらず無愛想ね。女に台詞を言わせるのも嫌?」

 声は軽やかで挑発的。
 だが、その奥には、言葉以上の何か、情報を握る者の余裕と、弄ぶ者の気配が静かに潜んでいた。

 男は煙草を僅かに噛み、紫煙を暗がりへ吐き出す。
 頬に浮かぶ炎の残り火が、倦んだ灰緑の瞳を淡く照らした。

「……長い前置きなら他でやれ。今夜は観客の気分じゃない」

 その言葉に、ベルモットは小さく肩を竦める。
 まるで舞台上で観客に応えるかのような、軽やかな仕草。受け流しながらも瞳の奥には企図の影が残っていた。

「なら本題に入るけど……ボスから、命令が下ったわ」

 ベルモットは一歩踏み出し、煙草の煙を切るように近づく。
 その視線は笑っていたが、瞳の奥では冷たさと熱がせめぎ合っていた。

「人に幻想を抱かせる男――“アブサン”。あなたにね」

 その名を呼ばれて、男――アブサンは僅かに眉を顰めた。
 短い沈黙の後、小さく吐息を洩らすと、吸いかけの煙草を足元に落とし、革靴で静かに踏み潰した。

 後始末を組織の処理班に任せ、二人が廃倉庫を出ると、外は雨の匂いが立ち込めていた。湿気に濡れた舗道の向こう――儚げに灯る外灯の下に、ドイツのアマガエルが身を沈めている。そのポルシェ356Aのボディに凭れかかる銀髪の男が、こちらを見据えていた。

「……随分と優雅じゃねぇか、アブサン。死体の上で煙草なんざ……」

 その男、ジンは煙草の先を赤く灯らせ、低く吐き捨てる。
 緑色の瞳は氷のように冷たかったが、その奥にだけ、ほんの僅かに言葉にできぬ揺らぎが潜んでいた。

「お前が仕込んだんだろ。上等な趣味だ」

 小さく肩を竦めてみせる。
 ジンは鼻を鳴らすだけで、それ以上何も言わなかった。

 濡れた舗道を踏み締め、ゆっくりと後部座席に向かう。アブサンの足音は極めて静かで、夜雨に濡れたアスファルトに吸い込まれていった。三人は迷うことなく、各々の定位置へと身を収めた。

「ウォッカ、出せ」

 運転席のウォッカが無言で応じると、低く唸るエンジン音が湿気を震わせた。ポルシェは水面を滑るように、夜の街へと走り出す。

 夜空は重く、雲は低い。
 眠りについた街を包む静寂の中、タイヤが濡れた路面を切り裂く音だけが、やけに遠くまで響いていた。

 アブサンは口の端に煙草を咥える。
 ベルモットの声が、まだ鼓膜の奥に残っていた。

 ――“人に幻想を抱かせる男”。

 その肩書通り、アブサンに幻想を見た者は、例外なく海の底に堕ちていく。行動や仕草から“何か”を信じようとして、結果、何も掴めず沈んでいく。伸ばした手ほど深く、闇に引き込まれる。

 それが偶然か必然か――考えようとしたことはあった。
 だが、その答えを追い求める気力は、とうに手放していた。

 ライターの火が小さく弾ける。
 僅かに下ろされた車窓から、煙が夜へと溶けていった。

 ワイパーの駆動音。濡れた舗道を噛むタイヤの低音。
 誰も、口を開こうとはしなかった。

「……しかし、数年ぶりにジン経由で命令とは。俺にとっても退屈だが、お前も面倒な役を押し付けられたな」

 吐き出された声は乾いていて、冗談めいて聞こえるほど力が抜けていた。だが、その灰緑の瞳は窓の外に流れ、湿った闇の奥に倦んだ光を宿していた。皮肉に包まれた言葉は、ジンを刺すというよりむしろ淡い同情のように響いた。

「お前を拾ったときから……俺の役回りは変わらねぇ」

 ジンは煙を吐き、瞳を僅かに細めた。
 吐き捨てるような声音は冷ややかだったが、その奥には言葉にできない、わだかまりのようなものが沈んでいた。ウォッカがその言葉に驚いたように肩を僅かに跳ねさせた。アブサンはそれに何も返さず、ただ窓の外に視線を流す。

「……で、任務の内容は」

 その声には気怠さが滲んでいた。過去の言葉を受け取る気配もなく、淡々と次の話題を求める響きだけが残った。

「監視だ。例の新人が、明日から動き出す」
「……ああ、あの三人か。監視を付けるなら、酒の名を与える前にすれば良いものを……まあ、あのお方らしいが」

 アブサンは紫煙を吐き、微かに鼻を鳴らした。
 声音には皮肉が混じっていたが、そこに感情の起伏はなく、ただ冷めた観察のように響いた。

「裏切りの芽が見えたら、容赦なく摘め」

 ジンの低声が車内を切り裂く。
 アブサンは視線を窓の外に逸らし、雨に濡れた街灯の明滅をぼんやりと追った。紫煙がゆっくりと曇りガラスに溶けていく。

「……その芽が出なければ、俺としては楽で良いんだがな」

 アブサンの声は乾いていて、笑いとも溜息ともつかぬ響きだけが残った。
 運転席から、同情めいた苦笑が低く漏れる。

「アブサンが担当した新人は全員、裏切りやしたからね」

 その声に、アブサンは目を細める。

 過去に任された新人は、例外なく潜入捜査官だった。
 仮面を被り、組織に潜り込み、やがて牙を剥く。銃を向けてきた者も、毒を仕込もうとした者もいた。だが、彼らも最後には骸となって地に還る。

 組織の証拠も、痕跡も、そして罪も、救いさえも。
 燃やしてしまえば、違いなど残らない。

 アブサンはゆっくりと目を閉じた。
 処理した者たちの顔や名前、声色。そのすべてが、血の業火に沈んでいく。

「……まあそのときは、俺が摘む。その、根の先までな」

 その声音は乾いていて、冗談にも脅しにも聞こえなかった。
 ただ夜の静寂に吸い込まれ、雨粒と共に消えていく。
 灰緑の瞳だけが、虚ろな光を宿していた。

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