刀剣乱舞の夢小説

【②-B】加州清光が忘れっぽい審神者の過去を守る話

 俺の主は忘れっぽい。しかし本人なりに忘れないようにしようと努力はしていて、出会った時からやたらとメモを作る人だった。時時そのメモを作ったことすら忘れてしまうのだけど。
 長谷部が来てから、メモを貼る専用のボードを買ってそこに貼り付けて忘れたことがないかチェックする、というシステムが作られてからは主の物忘れはかなり減ったように思う。
「若い頃からきちんとこういう管理をすればよかったんだね……」
 と少しばかり悲しそうにもしていたけれど。
 さてそんな主のもとに、一件の特殊任務が届いた。遡行軍が、ある人物を狙ってごく近年に現れたという。こんのすけから時代と場所を聞いた主は、はあなるほどと頷いた。俺は全く聞き覚えのない時代と場所だ。
「ここはわたしが高校生の頃の時代で、場所は通ってた学校の近くだよ」
 この辺りは有名な企業ビルや広い公園、図書館などがあって、現在の重要人物もいたかもしれないという。
「ターゲットの名前に記載がないのは、まだ対象を絞れていないの?」
「いえ、時代が近すぎるために情報が伏せられています。任務にあたる刀剣男士には対象人物を教えますが、守秘義務が課せられます」
「対象のプライバシーが考慮されてるってこと?」
「そうですね。現在も生きている人間の場合もありますから、いろいろな問題を避けるために審神者には秘密にされます」
「まあ、わかるけど……誰を守るかもわからないのにうちの刀を行かせろって? しかも、一振りだけ?」
「ダメでしょうか……」
 難色を示した主に、こんのすけは耳をしょんぼりとさせる。
「ダメではないけど、ちょっと不安になる任務だね。こんな近代に出たなんて話、初めて聞くし……」
「実を言えば、ままあることなのです。これはある程度実力のある審神者にしか依頼されず、守秘義務が課せられるので集会などでも話題にはなりません。この依頼が来るのは政府が主様の実力を高く評価しているということでもあります」
「……敵の数は把握出来てるの?」
「短刀乙が一」
「短刀の、しかも乙が一? もっといないの? 槍とか、苦無や中脇差は?」
「現在のところ確認はありません。おそらくいる可能性は低いです」
「どうしてそう言い切れるの?」
「強い刀ほど時間遡行の際の移動エネルギーが大きくなりますから、そこまで大きなものがこんな近代に移動すると即座に感知出来てしまいます。数が多くなっても同じこと。だから移動エネルギーの低い短刀乙を送ったと思われます」
「ああ──こっちが一振りなのも敵に感知されない意味もあるのか。そう……」
 主はしばし考えて、答えた。
「わかった。引き受けます」
「ありがとうごさいます! で、出陣する刀剣男士は」
 こんのすけの問いに、俺は思わず姿勢を正す。主が俺を見た。
「加州清光。受けてくれる?」
「もちろん」
「よかったー!」
 こんのすけが飛び上がるほど喜んだ。
「では、別室にて詳細をお話しいたします!」

 こんのすけの話した『詳細』は、確かに主には聞かせられない話だった。敵のターゲットは主自身。主が今存在出来るか否かがかかっている。
「昔は本人に伝えていましたが、そうするとパニックを起こしてしまったり、逆に今自分が生きているなら必ず成功するはずと油断して失敗したりといったことが起きまして、現在のように本人には秘密にすることになっています。あと自分の過去に干渉したくなって我我の敵となる人も稀に」
「教えないのがベターってことね」
「過去に行ったら、主様からつかず離れず護衛してください。普段と同様、人間に目撃されてもその人間には『そこにいるのが自然な存在』と思われ、その時代を離れればあなたの記憶は消えます」
「……それって主にとっても同じ?」
「ええ、同じです。……強く干渉したら別ですけど、それは」
「時間遡行軍と同じ、ね」
 少しだけ、過去に会った俺を覚えていて、だから俺を選んでくれたのなら運命的でいいな、なんて思ったけど。
「ま、あのひとのことだから、仮に強く干渉しても忘れちゃいそうだけどね……」
「……こんのすけも、ちょっとそう思います……」
 本丸の発足当時、主の物忘れに困らされた俺たちはひそかに笑いあった。
 こんのすけと詳細を話し終え、主に出発日を報告に行く。ターゲットがわからない程度になら主に当時の詳細を聞いてもいいそうだ。しかし、いくら主が鈍くて忘れっぽいといっても、下手なことを言って感付かれては困る。なんと言って聞き出せばいいのか……。
「加州、何か困ってる?」
 俺が聞きあぐねているのに気づいた主が心配そうに言った。
「うーん……まあ、近代は初めてだから」
「そうだよね……あ、こんのすけ。加州は詳細を話しちゃいけないけど、わたしが勝手に昔のことを話すのは問題ないよね」
「はい、そうですね。主様が話してくだされば、何か参考になることもあるかもしれません」
「そっか! じゃあ……といっても、わたしも忘れっぽいからなあ……」
 主は左手を見る。何かを思い出そうとする時の癖だ。小指を見ていると何か思い出しやすいらしい。
「……あの頃は……うーん……何かはあった気がする……」
「ほんと、忘れっぽいよね」
「……昔のわたしはもっと忘れっぽかった。大事なことを忘れてしまって、それで今のメモ書きの癖をつけたからね」
「その大事なことってなんだったの?」
「それが、今も思い出してないんだよ。ただ、そのうち思い出すとは思う。高校生くらいの頃だったかな」
 ……そんなに前の忘れたこと思い出すかなあ。そう思ったけれど口にはしない。
「あ、マニキュアにハマったのも高校生の頃かな。学校って規則の厳しいところもあるけど、わたしが通ったところは制服もない自由なところでね。友達もおしゃれな子が多くて、それで教えてもらったんだったかな」
「そうだったんだ」
 マニキュアは主が俺を選んでくれた理由の一つだ。とても綺麗な爪だったから目を引かれたと言っていた。今も落ち着いた紅色が主の指を彩っている。
「そうそう、初めて自分で買ったマニキュア、今は廃盤になっちゃって……こんのすけ、消耗品なら過去で買ってもよかったよね?」
「物によりますね。腐りやすい食べ物などは多くが大丈夫ですが。規制対象かどうか検索します。出来れば正式な名前がわかるといいのですが」
「名前は覚えてないけど、現物があるよ」
 主は机の中からマニキュアの空瓶を取り出した。底の方に赤い塗料が残っている。
「最初に買ったから、忘れたくなくて残してたんだ。この色のことを忘れちゃいけない気がして……まあ、今は少し変色してしまったけど」
 少し寂しそうに主は笑う。こんのすけは空瓶をじっと見つめた。 
「……規制品目データベースの中に一致するものはありません」 
「じゃ、お土産に買ってくるね」
「お願い。あ、そうだ。あの辺りのおいしいもの売ってる店教えてあげる」
 主は楽しそうにクレープや焼きたてパンの店を教えてくれた。つまりは、その辺りが主がかつてよく行った場所なのだ。
「おいしそうだね。他にも、よく行った場所とかあるの?」
 雑談めかしてそう言った。あるよと主は笑う。
「こことか、よく友達と服を見に行ってね。加州も気に入るのあるんじゃないかな。あ、ここの図書館通り道だからよく行ったの。隣の公園は花が綺麗でね……」
 こんのすけの出した地図を見ながら主はとても楽しそうに自分の思い出を話してくれた。主の命はもちろんのこと、その思い出も絶対に遡行軍なんかに壊させるわけにはいかない──そう思いを新たにした。

 初めて来た近すぎる過去の世界は、現代とそう大きく変わるわけではない。俺が本丸の外に出ることは少ないけれど、それでも何度か見た外の世界を思い出せばそれほど違和感はなかった。
 ──ビル街で短刀一体探すのは、なかなか大変そうだけど。
 見慣れた江戸などの町並みと違って、近代はやたらに高い建物が多く見通しが悪い。車も昼夜なく走って音が拾いにくい。こんのすけが「つかず離れず主を守れ」と言ったのは、この偵察のしにくさから確実に主を守るためだろう。
 学校に通う主は、ほとんど毎日同じ道を通る。行動パターンの決まっている相手は命を狙うのも簡単だ。
 しかし敵はまだ審神者の卵たる主を捕捉するのに時間を要しているらしい。もう一週間も主を護衛しているが敵の姿は見ない。これまでの近代への襲撃記録から、敵は審神者が一人でいるところを狙うらしい。学校や会社で大勢に囲まれている時を狙った前例はないのだそうだ。だからといって油断は出来ないが。
「加州様、お変わりありませんか?」
「ないよ。本丸の方はどう?」
 こんのすけからの通信にそう聞き返したけれど、なぜか返事はない。
「……こんのすけ? 聞こえてる?」
「変わりない……といえば変わりないです」
「どういう意味?」
「主様が相変わらず忘れっぽいですが、前に増しているような……」
「増すってどのくらい?」
「……加州様を探してました」
「は?」
「特殊任務についていると言ったら、いつからなのか、自分に無断で行ったのかと聞き返されまして」
「待ってそれおかしいじゃん!」
 思わず声が大きくなり、あわてて口をつぐむ。いくらここが騒がしい食堂とはいえ、あまり目立ちたくはない。幸い特に周囲には気にされなかったようだ。斜め前のテーブルに座るこの時代の主も友人と談笑しながら食事を続けている。この時代の主は当然のことながらまだあどけない顔立ちで、マニキュアもしていなかった。一緒に食事をしている友人の一人はピンクに爪を塗っており、主の言っていた『マニキュアを教えてくれた友達』というのが彼女なのだろう。
「で、ですよねえ? こんのすけもおかしいとは思ったんですが、髭切様に『そう? 主はいつもああじゃない?』と言われてしまうとなんだか自信が……」
「髭切より自分の記憶に自信持って! 主は仕事のことをそこまで忘れるほど抜けてないでしょ!」
「はい……」
「それっていつからなの?」
「昨日も『今日は加州を見ない』と言って……その時は、任務に出ていると言ったら『そうだったね』と思い出したのですが……」
 今日は記憶を失ったかのように忘れていた──。
「それ、主が歴史改編の影響を受けてるってこと?」
「そうかもしれません……」
「これまで遡行軍に過去を狙われた審神者はどうだったの?」
「記憶に影響が出た前例はありません」
 前例がないなら、やはりいつもの物忘れなのだろうか……?
「その、実は乱様からも報告がありまして」
 まだ悪い報告があるのか。
「まあ、こちらは些細なことなのですが」
「教えて」
「マニキュアをしてません」
 だから何? と思うような内容だ。しかし。
「乱が報告したってことは、何か変なの?」
「それが……」
 ──あるじさん、今日はマニキュアしてないんだね。
 ──え? いつもしてないよ。
「不審に思って主様の部屋を調べたところ、マニキュアを落とした痕跡もないとのことで」
「それ些細じゃなくない!?」
 明らかに異変が起きている。
「こんのすけ、この時代に何か変化はある?」
「今は特に何もありません……」
「そうか……じゃ、何か変なことあったら、また教えて。俺はこのまま護衛を続けるから」
 わかりました、と言って通信が切れた。
 その後、授業を受ける主を見守った。危険なのは多くの生徒たちに囲まれる授業中より、放課後だ。 放課後は主の行動も一定ではない。まっすぐ帰宅する日もあれば、遅くまで図書館で勉強する日も友達と遊び回っている日もある。
 今日はどうやら、一人で帰るようだ。図書館にも寄らずに駅に向かう。が、駅の側で一軒の店屋に寄った。
 ──今日はパン屋か。
 パンの焼ける香りに惹かれたのだろう。主は店に入ると、お気に入りのメロンパンを買いイートインスペースへ向かった。俺も飲み物だけ頼んでそちらへ向かう。主の座る席とは少し離れて座ろうかと思ったが、主は俺を見て笑う。
「はい」
 主はメロンパンを三分の一ほど千切ると、俺にそれを差し出した。
「え」
「メロンパン大丈夫? 前にクレープ食べてたから小麦大丈夫かなと思ったけど」
「……うん。ありがと」
 よもや分けられるとは思っていなかった。この状態から離れて座るのも変なので同じテーブルの席へ座る。
 たぶん今の主の中で、俺は「一緒に帰っていた学校の友達」なのだろう。先日主の友人たちに紛れていたことも覚えているようだ。
 もらったメロンパンは、まだほんのり温かい。外はさっくりとして中はふわふわ、未来の主がいつも寄り道したのだと話したのも納得の味だった。
「おいしいでしょ」
「うん」
 主も幸せそうにメロンパンにかじりついている。今の主にはさしたる問題もなさそうだ。しかし、未来は少しずつ歪み始めている。消えたマニキュア。変化する記憶。この時代に紛れ込んだ短刀さえ倒せば、それは本当に取り戻せるのだろうか……。胸に浮かんだ苦い思考をごまかすように指についた砂糖を舐めた。
 と、目の前の主がじっと俺を見ていた。しまった、行儀が悪かったかな。未来のあんたもさんざんやってるじゃん、と思いはするけれど。
 でも主は俺の行儀を咎めるのではなく、笑顔を見せた。
「爪、綺麗だね」
 それは、初めて会った時のようで。
「……ありがとう。赤は、好き?」
「うん」
 ──わたし、赤が一番好きなんだ。
 未来の主はそう言った。でも。
「赤も好きだし、青とか緑とかも好きだよ。最近気に入ったのはこれ」
 と、目の前の主は辛子みたいな色のポーチを見せた。どうやら、今の主は赤が一番というわけでもないらしい。その後も雑貨の話などをして、主は店を出て家に帰った。帰り道も平穏なもので、主の家の近所にも敵の気配はなかった。
 主の家の屋根で夜を明かすのも、もう慣れた。戦場の野宿よりよほど快適だ。
 空が明るくなった頃、こんのすけから通信が入った。
「加州様、そちらの時代に少し変化がありました!」
 こんのすけから送られてきたのは、今朝のニュース記事だった。主の学校の近くで、通行人が腕に怪我をしたようだ。
 刃物で切られたような傷……周囲に危険物はなく……警察は通り魔の犯行の可能性を……ニュースを流し読みして、遡行軍の短刀の仕業だろうと見当をつける。
「この被害者って未来の重要人物?」
「今のところは、これ以降特に何もない一般人です」
「人違いで襲うほど馬鹿じゃないよな……」
 何か目的があっての行動のはずだ。
「学校周辺の安全が確定するまではそちらの主様を一時保護する提案が近代保護課からきています」
「一時保護って何するのさ」
「主様の学校を休校にしたり警察に保護させたりするそうですよ。詳細はその時代の近代保護課と相談してからだそうですが」
「それって過去への過干渉にならないわけ?」
「高度なシミュレーションを行い最適と思われる方法で保護しますので」
「だとしても、ちょっとやりすぎだと思うけど……それなりにこの時代の人間に影響が──」
 そこまで言って、ふと思う。それこそが敵の狙いなのでは、と。
「……適当な人間を攻撃することでこの時代の重要人物をあぶり出そうとしてる……ってこともあるかもだよね」
「……確かに……」
 こんのすけが神妙に頷く。
「とりあえず、その保護はナシ。今まで通りに護衛を続ける。また何かあったら連絡して」
「わかりまし──」
「加州さん!」
 乱の声だった。遅れて、慌てた顔が映り込む。
「乱、どうしたの?」
「あるじさんが……」
 乱の言葉は、信じられないものだった。

 主の学校の周辺は、パトカーやら報道関係者やらがわらわらいた。現在でもカメラが嫌いな主は、普段通る道を避けて学校へ向かった。こうして突然ルートを変えさせる、というのも敵の狙いだろうか。死角から虎視眈眈と待ち構えているのかもしれないのだ。
 と、登校時には思ったのだが主は無事に学校へついた。近隣で起きた事件にざわつく教室でも、主はマイペースに忘れた宿題をやり始めている。
 忘れっぽいよね、ほんと。
 胸の内で話しかける。
 ──あるじさんが、加州さんのこと忘れちゃったの……!
 乱から言われた言葉は、信じがたいものだった。でも、乱が嘘を言うはずもなく、未来の主からマニキュアが消えたように、俺の記憶も主から失われた。では主が本丸に来たときに連れてきたはずの刀は誰なのか、そう訊ねれば首をかしげて「誰かはいたと思う」と答えたそうだ。違う刀に置き換わっていなかったのはよかったが、これは主の『審神者』としての未来が歪み始めているということなのか……?
 もしも『今』、主が俺のことを覚えてくれたら、その未来は元通りになるのだろうか。それとも、その行動こそ歴史修正になるのか。きっとそれはこんのすけの言う高度なシミュレーションでもしないとわからない。
 でも、『今』動かなければ、それは永遠に失われてしまう──そんな気がした。
「何してるの」
「数学。宿題忘れてて」
 声をかけても、主はプリントにかじりついたままだ。だからわざと視界に入るように主の机に手を置いて、前の席に座った。
「──怖いねえ、辻斬りみたいで」
 なんとか主の気を引けるように話しかける。やっとこっちを見た。妙に緊張したけれど、気づかれないように微笑む。
「犯人がいたの?」
「いや、まだみたい」
「かまいたち、とかかな」
 なにその発想。思わず笑ってしまう。
「妖怪じゃん」
「突風? の方」
「風で人間の皮膚が切れるかなあ……」
 俺の言葉に、主は適当に頷いている。今はプリントをやる方が大切なようだ。
「あんたって忘れっぽいよね」
 そう言うと、主の手が止まった。意地悪な言葉だが、そうでもないと主の気を引けない。
「そう……だね」
 主は複雑そうに頷く。メモをしたらどうかと言えば、 メモをなくしてしまい、その上、メモしたこと自体を忘れてしまうと言う。
 ああ、こんなところも変わらないのかと、とても愛しい気持ちがわいてくる。
 いくつか言葉を交わして、俺は気づいた。この頃の主には、小指を見る癖がない。
 もしかしたら、『今』がその時なのかもしれない。
「それなら、なくさないものにメモすればいいよ」
「なんでもすぐどっかいっちゃうよ」
「自分だったら何処にも行かないでしょ」
 そう言ってプリントに添えられていた主の左手を取る。初めて過去の主に触れた。まだ一度も刀を握ったことのない柔らかい手。
「手に書くのは恥ずかしいよ。電車に乗ったりもするんだし……」
「書かないよ。──ほら」
 俺は主の小指にマニキュアを塗った。主に買って欲しいと頼まれていたものだ。
「これがあれば忘れないよ」
 主はその色に惹かれたのか、じっと小指を見つめる。過去の審神者との物理的な接触は基本的に禁止されている。未来に戻ったら、過干渉として処罰されるかもしれない。でも主が俺を忘れてしまうなら、そんな未来になんの意味があるんだろう。
 始業の時間が近づいて、俺は席から離れた。

 豪胆というべきかマイペースというべきか、主は今日も普段と行動を変えることはなかった。帰りは可能なら一人歩きは避けるように、と教員が言っていたにも関わらずふらふらと公園を歩き花を眺め、それから図書館へ向かう。本の返却と貸出だけで帰るかと思いきや、フリースペースで勉強を始める。今日配られた数学のプリントを熱心にやっているようだった。
 日が暮れてきた。今日はなるべく早くこの辺りから離れてほしかったが、俺が主の行動に直接関わることは緊急時以外は禁止されている。窓の外やほとんど人の通らない通路に目を光らせながら主が次の行動に移るのを待つ。
 ぐうう、と静かな空間に間抜けな音が響いた。
 主の腹の虫だ──こみ上げる笑いをこらえようとしたが、努力虚しく吹き出してしまう。主が振り向いた。
「……すごい音」
 主は恥ずかしそうに目を泳がせる。
「頭使ったらお腹がすくんだよ」
「早く帰らないから。先生も言ってたじゃん」
 帰るのを促すためにそう言ったが、主は不思議そうな顔をした。──たぶん、教員に言われたことをもう忘れている。
「昨日の事件」
「あ。忘れてた」
 やっぱり。
「パトカーいつもより走ってたじゃん」
「でも忘れたんだよ。あ、そうだ」
 主は俺に赤い小指を見せた。
「小指のこれ結構効いたみたい。図書館と数学のプリント」
 自慢げに笑っているが、図書館や数学のプリントのことより、今はこの辺りが危険なことを忘れないでほしい。そう言うと、主は「ごめん」と眉を下げた。
「いや、謝んなくていいけど……もう帰るの?」
「うん。プリント出来たし」
 主は机に広げていた教科書やプリント、筆記具を片付ける。
「そこの駅に行くんだよね? 俺も行く」
 同行を申し出ると不思議そうな顔をしたが、方向が同じだとか理由をつけて一緒に図書館を出た。
「結構暗くなってるねえ」
「危ないから、次から早く帰った方がいいよ」
 俺が守れるのは今だけだ。そうだねと主は頷くが、きっとこの会話もすぐに忘れてしまうんだろう。
 車が行き交う大通り。洒落た街灯が並ぶ歩道を二人で歩く。──まだ少し距離はあるが、敵の気配を感じる。気がついていない振りをしながら主と話す。
「やっぱり結構パトカーがいるね」
「そーね」
「駅のコンビニのとこの新チョコが美味しかったよ」
「へえ、どんなやつ?」
「生チョコみたいなやつにクッキーがついててね……」
 他愛ない会話も、これで最後になってしまうのか。本丸に戻れば未来の主と話せるが、過去の主と離れるのが少し寂しい。
「もうすぐ秋バラが咲くから楽しみだね」
「うん」
 俺は見られないけれど。未来の主も目を輝かせながら語った公園のバラが咲くところは見たかったな。
 だんだん敵の気配が近づいてくる。主が足を止めた。敵の気配を感じるのだろう。今はまだ本当の力が発揮できなくても、やはり審神者の卵だ。
 前方の街灯の影にいる──しかし主は視認出来ないらしい。街灯を見つめて不思議そうにしているだけだ。だが敵は気づかれたと思ったのか、主に刃を向けて飛び出した。
 異様な気配を感じたのか、主が身をすくめる。俺は政府に渡されていた姿隠しの札を破り刀を抜いた。
 一閃。
 それだけで敵は砕けて消えた。短刀乙一体のみという情報は間違いなかったようで、敵の気配はきれいに消えた。主もそれを感じたらしく、きょろきょろと辺りを見回した。俺はその隙にまた札で刀を隠す。
「どうしたの?」
 なんでもないように主に声をかける。
「今……」
 主は俺を見て、でも感じた気配をうまく言葉に出来なかったのか、こう訊ねた。
「なんか、変な音しなかった?」
「いや? 俺は聞こえなかったけど」
 そう答えると、主はじゃあ気のせいかなあと小さく言った。
「それより、突っ立ってたら電車乗り遅れるんじゃない?」
 俺の言葉に、主はちょっと驚いた顔をした。足元を見る。
「……歩くの忘れてた」
「忘れっぽすぎでしょ」
 俺が笑ってしまうと、主は「忘れちゃうものは忘れちゃうの」と唇を尖らせて早足で駅に向かった。──ゆっくり歩いてくれてもいいのになあ。ごめんごめんと謝って隣を歩く。
 もう駅についてしまう。これでお別れなんて、主は微塵も思っていない。まあ、また会えるんだけど──彼女が選んでくれさえすれば。
「ね、家の場所は忘れてないよね」
「さすがにそれは忘れないよ」
 もう少し一緒にいる口実が欲しかったけれど、無理そうだ。
「俺、コンビニ行くからここで。またね」
「うん、またね」
 主は微笑む。彼女にとってはなんでもない、明日また会える別れみたいに。
「……俺のことも忘れないでよね」
「じゃあ、これ見て覚えとく」
 主は小指のマニキュアを見せる。今だけお揃いの紅色。俺はその小指に自分の小指を絡ませる。
「約束ね」
 そう言ってすぐ離した。じゃあね、と告げて主に背を向けた。駅に向かう人波に逆らってしばらく歩き、人気のない路地へと入る。
「加州様。その時代の敵性反応が完全に消えたことを確認いたしました。転送を開始します」
 こんのすけの声がした。

 未来に戻ることには、不安があった。主の記憶がきちんと戻るのか。俺は本当に初期刀として選ばれるのか。そして、過去での俺の行動にお咎めがないかどうか──。
 結論から言えば、主の記憶は戻ったし俺も相変わらず初期刀だし、俺の行動は「正しい行動」だったらしい。
 俺が主の小指にマニキュアを塗り、主はそれをきっかけにマニキュアに興味を持ち、マニキュアが好きだから俺を選び、そして己の過去を守るために俺を過去に送る……。
「それって矛盾してない? タイムパラドックスとかなんとか……」
「こんのすけにはそういうことを検証するプログラムは搭載されてません」
 すっぱりとこんのすけは言った。
「主様が守られ、加州様も無事。それで良いじゃありませんか! 記憶が戻られてから、主様は加州様の帰りを心待ちにしていますよ」
 納得いかない部分はあるが、こんのすけに追及しても仕方ないのだろう。主のもとへ向かう。
「加州! おかえりなさい」
 執務室へ行けば、主が笑顔で迎えてくれた。あの頃と比べると、すっかり落ち着いた雰囲気になっているなと思う。
「ただいま」
「お疲れ様。無事終わってよかった。近代はどうだった?」
「結構楽しかったよ。これ、頼まれたやつ。──早速塗ったげようか?」
 主の爪は今は何も塗られていない。記憶は戻ってもこちらは戻らなかったらしい。
「……あれ? 最近塗り直してなかったっけ……じゃ、お願いします」
 主は不思議そうにしながらも、いつもの忘れっぽさと思ったのかあまり気にしなかった。
 主の小指の爪に、あの時のように紅をのせる。あの頃と同じようで、あれからたくさんの経験を積み重ねてきた手。
「やっぱりこの色が一番好きだなあ」
「どうして?」
「この色を見ると、忘れてしまった大事なことを思い出せそうな気がして。気がするってだけで、ずっと思い出せないんだけど……」
 主は紅に染められた左の小指を見つめる。あの小指を絡めた一瞬が遠い昔のことのように思える。俺にとってはまだ一日と経っていないのに。
 ──俺のことも忘れないでよね。
 ──じゃあ、これ見て覚えとく。
 それは決して果たされない約束だ。どういう原理が働いているのか知らないが、過去の人間は未来から来た俺たちのことを忘れてしまう。あの時代で一緒に過ごした日日は、もう主の中にはない。
「覚えてないけど、この色がなんだか関係あるような気がして。小指を見ると思い出せそうな気がするんだけど……」
 あの時の俺の存在も、約束の内容も主の記憶からは消えてしまった。でも、この色と絡めた小指のことは、残っている──。
「……それだけ覚えてたら、充分だよ」
「そう?」 
「うん」
 俺にはそれだけで充分。
「近代はどうだった? 感想だけ聞いていい?」
「結構楽しかったよ。あんたに教えてもらったクレープとメロンパンもおいしかったし」
「食べれたんだね。クレープ何にした?」
「あんたのおすすめのチョコミントにしてみたよ。モンブランクレープもおいしそうだった」
「モンブランもおいしいよ。あそこのクレープ何食べてもおいしいんだ。いいなあ、わたしもクレープ食べたくなってきちゃった」
「じゃ、今度一緒に行く?」
「うん!」
「バラの咲く時期に行きたいな。過去じゃ見られなかったから」
「そうなの? じゃ、秋がいいかな。──うん、そのくらいなら、少しまとまって休みがとれるかも」
「約束、ね」
 小指を絡めて、笑い合う。あの頃の主が俺を忘れても、また新しい思い出は作れる。約束だって何度でも出来る。指を離すときも、あの時みたいな寂しさはなかった。

2019/06/10 pixiv公開
2024/11/02 当サイト掲載
7/15ページ
スキ