刀剣乱舞の夢小説
【①】加州清光が忘れっぽい審神者の過去を守る話
さわさわと、今日はいつもより教室が騒がしい。窓縁に頬杖をついてパトカーを眺める生徒も少なくない。
でも外の騒ぎよりも、わたしにはやり忘れたプリントの計算を解く方が大事だった。幸い数学の時間までは二科目あるから、休み時間を全部使えばプリントを終えられそうだ。友人たちにはプリントに集中したいと伝えてあるから、終わるまで話しかけられることはない、が。
「怖いねえ、辻斬りみたいで」
そう声をかけられて、紅い爪の指が机の隅に乗せられた。顔を上げれば、爪と同じく赤の目が細められる。辻斬りとは古風な例えだ。時代劇は好きだけれど。
「犯人がいたの」
「いや、まだみたい」
昨日、この近隣で怪我人が出た。何針も縫う大怪我だが、命に別状はないという。刃物で切られたかのような傷があり、被害者は「少し風のようなものを感じたら、腕が切れていた。周りには誰もいなかった」と証言しているらしい。警察は、事件と事故の両方の可能性を調べている──それが今朝聞いたニュースだった。
「かまいたち、とかかな」
「妖怪じゃん」
わたしの言葉に、彼はおかしそうに笑う。
「突風? の方」
「風で人間の皮膚が切れるかなあ。昨日はそんなに風なかったし、それで皮膚が切れるなら台風の時は怪我人だらけになっちゃうよ」
「そっかあ……」
相槌をうったけれど、正直プリントをやる方が大事だ。
「あんたって忘れっぽいよね」
「そう……だね」
指摘されると複雑だけれど、実際にやり忘れたのだからなんとも言い返せない。
「ちゃんとメモしないと。見えるところに貼ったりして」
「メモ自体なくすし、メモしたことも忘れちゃうの」
「あちゃー」
彼は笑ったけれど、からかったり馬鹿にしたりという風でもなかった。気になってプリントから視線を上げる。
あ。
何故だか、彼は存外にやさしい目をして笑っていて、なんだか胸が苦しくなったような気がした。
けれどその表情は一瞬のことで、彼は白い歯を見せてにかりと笑う。
「それなら、なくさないものにメモすればいいよ」
「なんでもすぐどっかいっちゃうよ」
「自分だったら何処にも行かないでしょ」
そう言ってプリントに添えられていたわたしの左手を取る。
「手に書くのは恥ずかしいよ。電車に乗ったりもするんだし……」
「書かないよ。──ほら」
彼は素早く、慣れた手つきでわたしの爪の一本に紅のマニキュアを塗った。たぶん彼が使っているのと同じものだろう。
「これがあれば忘れないよ」
小指だけに塗られたそれは、一番細くて小さな爪のはずなのに、強く存在を主張していた。しかしこんなものではメモにはならない。いや、この小指に関連させて覚えろということかな。それなら、今日は図書館へ行くのを忘れないように──と小指をじっと見ながら考える。
……とはいうものの、わたしの記憶力では小指を見て何か覚えようとしたことだけは思い出しても、内容のことは忘れてしまいそうだなあ……。
これ、本当に効くの? そう訊ねようとしたけれど、小指から視線を戻した先にもう彼はいなかった。かわりにちょうど先生が入ってきて、生徒たちは席に着き始める。わたしの前の席に戻ってきた友達が、終わった? と聞いてきた。
「……まだ」
プリントは半分も埋まっていなかった。友達は笑って、次の空き時間があるよ、と慰めてくれた。
始業チャイムの音が鳴れば、教室がしんとなる。
挨拶をしてから、先生は昨日起きた事件のことに触れ、可能ならば単独行動を避けたり早めの帰宅をしたりするように促した。改めてそう言われると、少しだけ実感のようなものがわく。ニュースを見てもパトカーを見ても、友達とそのことを話しても、何か現実味がなかったのに。
ざわざわしてきたわたしの肚の内など知らず、先生は授業を始める。一度数学のプリントをしまった。
今日提出のプリントはなんとか倒せたけれど数学の先生はとても教育熱心で、また新しいプリントをもらった。次こそは、きちんと忘れずにやらなくては。
ああそうだ。小指をじっと見つめて、数学のプリント数学のプリントと頭の中で唱える。
図書館、という言葉を不意に思い出した。そうだ、図書館にも行かなければ……。
小指の爪記憶法は案外効果があったらしく、今日の帰りは忘れずに図書館に行って本を返却し、無事に続きの巻を借りた。数学のプリントも思い出したので図書館で終わらせた。図書館という空間がいいのか、今日の授業の復習だからか、さくさくと解くことが出来た。そうか、忘れっぽいからこそこういうプリントは早めにやらなくてはいけないのか、と今までの自分を反省する。
ぐうう、と腹の虫が鳴った。
「ぷっ……くくっ……」
笑いをこらえる、誰かの声。ひとのいない辺りを選んだのに、と思いながら振り向くと、赤色と目が合った。
「すごい音」
「頭使ったらお腹がすくんだよ」
「早く帰らないから。先生も言ってたじゃん」
先生も、と言われてなんのことだか考える。
「昨日の事件」
「あ。忘れてた」
「パトカーいつもより走ってたじゃん」
「でも忘れたんだよ。あ、そうだ。小指のこれ結構効いたみたい。図書館と数学のプリント」
「いや、数学のプリントより身の安全が大事でしょ……」
呆れたような、困ったような声音で言われた。ごめん、と思わず謝る。
「いや、謝んなくていいけど……もう帰るの?」
「うん。プリント出来たし」
「そこの駅に行くんだよね? 俺も行く」
「なんで?」
「方向一緒だし、なるべく友達と帰れって先生が言ってたじゃん……」
「そうだっけ?」
図書館から駅に向かう道は、大通りの交通量が多いくらいで特に危険という道ではない。かといって断る理由もないので、他愛ない話をしながら歩いた。
薄暗くなった道は、確かに一人歩きは危ないかもしれないと感じた。──でも、いつもならもう少し明るい気がするなあ。街灯が道を明るく照らして、時期ならば街路樹の花を夜でも楽しめるような道なのに。照明が古びているのかな。
ふと──肌に寒さを感じた。まるで周りの気温が突然下がったみたい。いくら最近は寒くなってきたとはいえ、不自然な寒さだ。風が出てきたせいか。
──少し風のようなものを感じたら、腕が──。
今朝のニュースを思い出してぞくりとする。真正面から風が吹いてくるように感じ思わず強く目を閉じる。
ヒュッと空を切るような音がした。
すると、突然先程の寒さが消えた。風も収まったようだ。目を開ける。一度暗闇を見たからなのか、道はいつものように明るい。
思わず辺りを見回す。
「どうしたの?」
「今……」
風が。いや。
「なんか、変な音しなかった?」
「いや? 俺は聞こえなかったけど」
ならば、気のせいなのか。
「それより、突っ立ってたら電車乗り遅れるんじゃない?」
「……歩くの忘れてた」
「忘れっぽすぎでしょ」
左下にほくろのある唇がけらけら笑った。
駅に着く。「家の場所は忘れてないよね?」と確認されてしまったけど。さすがにそれは忘れない。
「俺、コンビニ行くからここで。またね」
「うん、またね」
「……俺のことも忘れないでよね」
赤い目が少し寂しそうな色を帯びる。
「──じゃあ、これ見て覚えとく」
わたしは彼が塗ってくれた小指のマニキュアを見せる。
「約束ね」
彼は素早く自分の小指を絡ませて、指切りみたいな動作で離した。じゃあねと笑って、彼の姿は駅を行き交う人波の中に消える。
──あ、そういえば……。
「おーい、なにやってんの」
学校の友達が声をかけてきた。
「まだこの辺にいるなんて珍しいじゃん。ずっと一人で立って、誰か待ってるの?」
「え……」
一人で。一人──だったろうか。さっきまで一緒にいたような……でも、誰と?
「ううん……」
「なんかこの辺危ないかもしれないから早く帰れーって警察がうるさいよ。もうちょっと遊ぼうと思ったのにさ。もう帰るなら一緒に行こうよ。あとちょっとで電車来るよ」
そう言われて、彼女と一緒に電車に乗った。電車の中で、昨日の事件の話や化粧品の話で盛り上がる。
「で、この新しいカラー超可愛いの。あ、その小指のやつ、一緒のじゃない?」
彼女が見せてくれたマニキュアの瓶の色と、わたしの小指に塗られた色は同じだった。
「この前出たとこなのに早いじゃん。もう買ったんだ?」
「んー、買ってない……」
「あ、試し塗り?」
「ううん……忘れちゃった」
──これを見て、何かを覚えておこうと思ったんだけどな。
ぽっかり、胸に穴が空いてしまったような気がした。忘れちゃいけないことだった気がするのに……。
「なになに、暗い顔しちゃって」
「いや……またいろいろ忘れちゃったなって……」
「忘れちゃったって、大事なことならそのうち思い出すって! 今朝のプリントみたいに後からやったっていいしさ」
「あ、今日出た数学はもう終わった」
「うそ、はやーい!」
友達は、わたしの暗い気持ちを払ってくれるみたいに、にこにこしながら話してくれた。その気持ちが嬉しくて、わたしの気分も明るくなってくる。
そう、今は忘れてても、大事なことならきっと──。
小指の紅を見て、忘れたことを忘れないようにしよう、と決めた。
(②-Aまたは②-Bへ続く)
2018/10/29 pixiv公開
2024/11/02 当サイト掲載
さわさわと、今日はいつもより教室が騒がしい。窓縁に頬杖をついてパトカーを眺める生徒も少なくない。
でも外の騒ぎよりも、わたしにはやり忘れたプリントの計算を解く方が大事だった。幸い数学の時間までは二科目あるから、休み時間を全部使えばプリントを終えられそうだ。友人たちにはプリントに集中したいと伝えてあるから、終わるまで話しかけられることはない、が。
「怖いねえ、辻斬りみたいで」
そう声をかけられて、紅い爪の指が机の隅に乗せられた。顔を上げれば、爪と同じく赤の目が細められる。辻斬りとは古風な例えだ。時代劇は好きだけれど。
「犯人がいたの」
「いや、まだみたい」
昨日、この近隣で怪我人が出た。何針も縫う大怪我だが、命に別状はないという。刃物で切られたかのような傷があり、被害者は「少し風のようなものを感じたら、腕が切れていた。周りには誰もいなかった」と証言しているらしい。警察は、事件と事故の両方の可能性を調べている──それが今朝聞いたニュースだった。
「かまいたち、とかかな」
「妖怪じゃん」
わたしの言葉に、彼はおかしそうに笑う。
「突風? の方」
「風で人間の皮膚が切れるかなあ。昨日はそんなに風なかったし、それで皮膚が切れるなら台風の時は怪我人だらけになっちゃうよ」
「そっかあ……」
相槌をうったけれど、正直プリントをやる方が大事だ。
「あんたって忘れっぽいよね」
「そう……だね」
指摘されると複雑だけれど、実際にやり忘れたのだからなんとも言い返せない。
「ちゃんとメモしないと。見えるところに貼ったりして」
「メモ自体なくすし、メモしたことも忘れちゃうの」
「あちゃー」
彼は笑ったけれど、からかったり馬鹿にしたりという風でもなかった。気になってプリントから視線を上げる。
あ。
何故だか、彼は存外にやさしい目をして笑っていて、なんだか胸が苦しくなったような気がした。
けれどその表情は一瞬のことで、彼は白い歯を見せてにかりと笑う。
「それなら、なくさないものにメモすればいいよ」
「なんでもすぐどっかいっちゃうよ」
「自分だったら何処にも行かないでしょ」
そう言ってプリントに添えられていたわたしの左手を取る。
「手に書くのは恥ずかしいよ。電車に乗ったりもするんだし……」
「書かないよ。──ほら」
彼は素早く、慣れた手つきでわたしの爪の一本に紅のマニキュアを塗った。たぶん彼が使っているのと同じものだろう。
「これがあれば忘れないよ」
小指だけに塗られたそれは、一番細くて小さな爪のはずなのに、強く存在を主張していた。しかしこんなものではメモにはならない。いや、この小指に関連させて覚えろということかな。それなら、今日は図書館へ行くのを忘れないように──と小指をじっと見ながら考える。
……とはいうものの、わたしの記憶力では小指を見て何か覚えようとしたことだけは思い出しても、内容のことは忘れてしまいそうだなあ……。
これ、本当に効くの? そう訊ねようとしたけれど、小指から視線を戻した先にもう彼はいなかった。かわりにちょうど先生が入ってきて、生徒たちは席に着き始める。わたしの前の席に戻ってきた友達が、終わった? と聞いてきた。
「……まだ」
プリントは半分も埋まっていなかった。友達は笑って、次の空き時間があるよ、と慰めてくれた。
始業チャイムの音が鳴れば、教室がしんとなる。
挨拶をしてから、先生は昨日起きた事件のことに触れ、可能ならば単独行動を避けたり早めの帰宅をしたりするように促した。改めてそう言われると、少しだけ実感のようなものがわく。ニュースを見てもパトカーを見ても、友達とそのことを話しても、何か現実味がなかったのに。
ざわざわしてきたわたしの肚の内など知らず、先生は授業を始める。一度数学のプリントをしまった。
今日提出のプリントはなんとか倒せたけれど数学の先生はとても教育熱心で、また新しいプリントをもらった。次こそは、きちんと忘れずにやらなくては。
ああそうだ。小指をじっと見つめて、数学のプリント数学のプリントと頭の中で唱える。
図書館、という言葉を不意に思い出した。そうだ、図書館にも行かなければ……。
小指の爪記憶法は案外効果があったらしく、今日の帰りは忘れずに図書館に行って本を返却し、無事に続きの巻を借りた。数学のプリントも思い出したので図書館で終わらせた。図書館という空間がいいのか、今日の授業の復習だからか、さくさくと解くことが出来た。そうか、忘れっぽいからこそこういうプリントは早めにやらなくてはいけないのか、と今までの自分を反省する。
ぐうう、と腹の虫が鳴った。
「ぷっ……くくっ……」
笑いをこらえる、誰かの声。ひとのいない辺りを選んだのに、と思いながら振り向くと、赤色と目が合った。
「すごい音」
「頭使ったらお腹がすくんだよ」
「早く帰らないから。先生も言ってたじゃん」
先生も、と言われてなんのことだか考える。
「昨日の事件」
「あ。忘れてた」
「パトカーいつもより走ってたじゃん」
「でも忘れたんだよ。あ、そうだ。小指のこれ結構効いたみたい。図書館と数学のプリント」
「いや、数学のプリントより身の安全が大事でしょ……」
呆れたような、困ったような声音で言われた。ごめん、と思わず謝る。
「いや、謝んなくていいけど……もう帰るの?」
「うん。プリント出来たし」
「そこの駅に行くんだよね? 俺も行く」
「なんで?」
「方向一緒だし、なるべく友達と帰れって先生が言ってたじゃん……」
「そうだっけ?」
図書館から駅に向かう道は、大通りの交通量が多いくらいで特に危険という道ではない。かといって断る理由もないので、他愛ない話をしながら歩いた。
薄暗くなった道は、確かに一人歩きは危ないかもしれないと感じた。──でも、いつもならもう少し明るい気がするなあ。街灯が道を明るく照らして、時期ならば街路樹の花を夜でも楽しめるような道なのに。照明が古びているのかな。
ふと──肌に寒さを感じた。まるで周りの気温が突然下がったみたい。いくら最近は寒くなってきたとはいえ、不自然な寒さだ。風が出てきたせいか。
──少し風のようなものを感じたら、腕が──。
今朝のニュースを思い出してぞくりとする。真正面から風が吹いてくるように感じ思わず強く目を閉じる。
ヒュッと空を切るような音がした。
すると、突然先程の寒さが消えた。風も収まったようだ。目を開ける。一度暗闇を見たからなのか、道はいつものように明るい。
思わず辺りを見回す。
「どうしたの?」
「今……」
風が。いや。
「なんか、変な音しなかった?」
「いや? 俺は聞こえなかったけど」
ならば、気のせいなのか。
「それより、突っ立ってたら電車乗り遅れるんじゃない?」
「……歩くの忘れてた」
「忘れっぽすぎでしょ」
左下にほくろのある唇がけらけら笑った。
駅に着く。「家の場所は忘れてないよね?」と確認されてしまったけど。さすがにそれは忘れない。
「俺、コンビニ行くからここで。またね」
「うん、またね」
「……俺のことも忘れないでよね」
赤い目が少し寂しそうな色を帯びる。
「──じゃあ、これ見て覚えとく」
わたしは彼が塗ってくれた小指のマニキュアを見せる。
「約束ね」
彼は素早く自分の小指を絡ませて、指切りみたいな動作で離した。じゃあねと笑って、彼の姿は駅を行き交う人波の中に消える。
──あ、そういえば……。
「おーい、なにやってんの」
学校の友達が声をかけてきた。
「まだこの辺にいるなんて珍しいじゃん。ずっと一人で立って、誰か待ってるの?」
「え……」
一人で。一人──だったろうか。さっきまで一緒にいたような……でも、誰と?
「ううん……」
「なんかこの辺危ないかもしれないから早く帰れーって警察がうるさいよ。もうちょっと遊ぼうと思ったのにさ。もう帰るなら一緒に行こうよ。あとちょっとで電車来るよ」
そう言われて、彼女と一緒に電車に乗った。電車の中で、昨日の事件の話や化粧品の話で盛り上がる。
「で、この新しいカラー超可愛いの。あ、その小指のやつ、一緒のじゃない?」
彼女が見せてくれたマニキュアの瓶の色と、わたしの小指に塗られた色は同じだった。
「この前出たとこなのに早いじゃん。もう買ったんだ?」
「んー、買ってない……」
「あ、試し塗り?」
「ううん……忘れちゃった」
──これを見て、何かを覚えておこうと思ったんだけどな。
ぽっかり、胸に穴が空いてしまったような気がした。忘れちゃいけないことだった気がするのに……。
「なになに、暗い顔しちゃって」
「いや……またいろいろ忘れちゃったなって……」
「忘れちゃったって、大事なことならそのうち思い出すって! 今朝のプリントみたいに後からやったっていいしさ」
「あ、今日出た数学はもう終わった」
「うそ、はやーい!」
友達は、わたしの暗い気持ちを払ってくれるみたいに、にこにこしながら話してくれた。その気持ちが嬉しくて、わたしの気分も明るくなってくる。
そう、今は忘れてても、大事なことならきっと──。
小指の紅を見て、忘れたことを忘れないようにしよう、と決めた。
(②-Aまたは②-Bへ続く)
2018/10/29 pixiv公開
2024/11/02 当サイト掲載