GX一話完結短編

前世捏造話

「またここにいたんですか」
 ユベルは木の下に寝転ぶ少年に声をかけた。城から少し離れた海の見える丘が彼のお気に入りだった。彼は小さな精霊たちに囲まれていたが、ユベルが近づくと精霊たちは蜘蛛の子を散らすように逃げてしまった。
「外に出るなら呼んでくださいよ」
「ごめん……ちょっとひとりになりたくて」
 少年は小さな声で答えた。勉強だの武術の稽古だのに四六時中追われ、教師たちのそれが終われば今度はユベルがそばにつくことになっていた。
「……気持ちはわかりますけどね」
 ユベルは少年の隣に座る。立場は違えどユベルも似たようなものだ。寝るときくらいしかひとりになる時間などない。
「ユベルはつらくないの」
「たぶんあなたの方が大変です」
「ユベルが、どうなのか聞いてるの」
「つらいというのとは、違う気がします。あなたみたいに無理に連れてこられたわけでもないし」
 少年はもとは小さな農村の生まれだとユベルは聞いている。占い師により覇王の資質を見出だされ、ひとりこの城に連れてこられた。数年前の痩せて怯えた目の少年の姿が、ユベルには哀れさと共に記憶に残っている。
「……無理に連れてこられたわけじゃないよ。そうするべきだって思ったから。昔、金色の石にも言われたんだ。覇王とか光の波動とか、あのときは難しくてなに言われてるかよくわかんなかったけど」
 少年は城の占い師よりも先に『金色の石』に覇王の宿命を言い渡されていたという。彼の村には森の奥に願いを叶える金色の石があると言い伝えられており、少年はその石に「母の病を治してほしい」と願いに行った。彼が物心ついたときから母はずっと顔色が悪く毎日咳をしていたそうだ。幼い彼にできるのは、言い伝えを頼りに金色の石に願うことだった。その石はこれまで誰も見つけたことがなかったが、少年は精霊の導きもありその石のもとへたどりついた。しかし、逆に石から覇王になるように願われてしまったそうだ。
「願いに行って願われるのも変な話だと思うけど」
「でも叶えてくれたよ。すっかりよくなったって手紙に書いてあったもの」
 少年は微笑んだ。彼が城に来てから『覇王』の両親のもとには城から食料や薬などが送られるようになり、彼の母の病はだんだんとよくなったそうだ。それは石により願いが叶えられたというよりは。
 母を人質に取られたとか、薬や食料の代わりに売られたとか言うんじゃないかなあ──。
 そんなことをユベルは思う。売られたといっても、小さな農村の子供には到底得られない教育や衣食住を与えられている。同時に「世界に破滅をもたらす光の波動と戦え」などという無理難題も与えられているのだが。
 売られただとか、そんなことを考えるなんて性格が悪いと自分でも思う。でもそれは、ユベルが投げつけられた言葉でもあった。
 ユベルはさる騎士の家の養子だ。本当の父母は行商人だったそうで、馬車が狼に襲われた際に亡くなった。偶然そこを騎士が通りかかり、狼を追い払った。父母は狼に殺されたが母にかばわれていたユベルだけが生き残った──らしい。幼いユベルにその記憶はなかった。騎士はそのままユベルを養子として引き取り、ユベルに騎士としての教育を受けさせた。同じく騎士として学ぶ同世代の「血筋のいい」子供たちからは、商人の子のくせにとか、本当は捨てられたり売り飛ばされたりしていたのを養親が哀れみ狼の話を作ってくれたのだろうとか、さまざまな嫌味を言われていた。ユベルの家には馬車から回収された血のついた帳面や母が付けていたという髪飾りが残っており、命日には養父母と実の父母の墓参りにも行っているのだから、もし嘘だとしたらあまりにも手が込んでいる。
 ともかく死別であれなんであれ、ユベルは実の父母と別れ養父母のもとにいる。本来ならばきっと得られなかった「恵まれた」境遇で。そんなところは彼と似ているような気もしている。だから王は彼の側仕えにユベルを任じたのか、ただ年頃が近かっただけなのかはよくわからない。あるいはいわゆる「親のコネ」か。実際養父は優秀な騎士で、今は年齢もあり最前線からは身を引いているが、若い騎士たちの養成に関わり多くの者に慕われている。王の覚えもめでたく、コネと言われたらユベルとてそうかもしれないと思う。
 しかしユベル以外の子供をつけたら、彼も「ただの田舎者のくせに」とか「親に売られた」とか言われるのではないだろうか。
 ユベルとて内心は彼を哀れに思っているから、感情の方向が違うだけなのかもしれないと思うが。
「だからボクも、つらいっていうのとは違うかなあ。お母さんはよくなったし、ここではよくしてもらってるし。精霊のみんなも応援してくれてると思うし」
 少年は木を見上げた。枝葉に隠れて精霊たちが彼を見つめていた。ユベルと目が合ったリスのような精霊は驚いたようでさっと幹の後ろ側に逃げてしまった。最初のうち、少年は精霊たちに「ユベルは怖くないよ」と声をかけたりしていたが、今はもう言わなくなった。人間はそう簡単に精霊に好かれるものではない。彼が精霊に好かれるさまを見ていると、嘘くさく感じた「命を育むやさしい闇」が彼に宿るという話は本当なのかもしれないと思う。
 その話を初めて聞いたとき、ユベルはあの痩せた小さな少年の中にそんなものがあるなんて、ちっとも思えなかった。今は頬も丸くなって背も伸びているけれど、それでもまだユベルよりも小さい。大人になればわからないが。
 ──大人になれるのかな。
 彼のそばに常に誰かがつけられるのは、暗殺を案じてのことだろうとユベルは思う。いや、まだ子供のユベルひとりがついていたところで、大の男が二人も来たら敵わないだろう。これまで深く考えなかったが、逃亡防止の意味の方が大きいのか。
「暗くなる前に帰りましょう」
「うん」
 少年は隣に畳んで置いていたマントや腕飾りを身につける。これらの装飾品を彼は普段から窮屈だの邪魔だの言っている。腕輪の宝石ひとつだって、彼の村で一生働いたって買えないのではないかと思ってしまうけれど、ユベルも値段は知らない。
「こういうのも重いけど、鎧はもっと重いよねぇ……」
 少年はため息をついた。覇王のために用意されている鎧は、ユベルも少しだけ見たことがある。真っ黒な見た目も相まって、ずいぶん重そうに見えた。こんな小さな子供があのいかめしい鎧を身につける姿は、今のユベルには想像もできない。
「……その頃にはきっとお体も成長してますよ」
「そうかなあ」
「……似合わないかもしれないけど」
「そうだよね」
 少年は笑った。彼は常日頃から『覇王』となるべく努力を怠らないように、と言われている。だからか、こんな冗談を言ってやると案外喜ぶのだ。大人たちには余計なことを言うなと怒られる気がするけれど。
「──でも、似合うようにならなくちゃいけないね」
 そう言って夕陽を見つめる瞳には、もう出会ったときのような怯えた色はない。時折先程のようにこぼすことはあっても、彼はそれを受け入れている。
「じゃ、まずはきちんと宿題をやることですね」
 ユベルが冗談めかしてそう言うと少年は困ったように笑った。
「帰りましょうか。あ、そうだ。明日はボクいないですから、お城から出るならちゃんと誰かに声をかけないと怒られちゃいますよ」
「いないの? なんで?」
「お墓参りですよ、両親の」
「え……? この前会ったユベルのご両親……?」
 少年は困惑した。そういえば先日養父母に会ったばかりだったか。彼らと勘違いしたようだ。
「あ、いえ。そうじゃなくて」
 ユベルは彼にざっと実の両親のことを説明した。
「そうだったんだ……」
 少年は悲しげに目を伏せた。
「昔の話だし、ボクは両親のこと覚えてないから、実は悲しくないんですけどね。父上と母上の方が悲しがってるくらい……」
 養父はユベルの両親を助けられなかったことを悔やんでいるし、養母は幼くして両親を亡くしたユベルを哀れみ、幼い子供を置いて亡くなった両親はさぞ無念だろうと悲しんでいる。親子のはずのユベルよりもよほど亡くなった両親に対して思いを馳せている。養父母はそんな風に心を砕いてくれるのにユベルは悲しめないことが、いつも少しだけ申し訳ないような気持ちになってしまう。
「……ボクもおばあちゃんたちのこと覚えてないから、おばあちゃんたちのお墓参りみたいな感じかなぁ……?」
「かもしれませんね」
「そっか……じゃ、ユベル、お花摘みに行こ!」
 少年は笑顔になると手を差し出した。
「もう暗くなっちゃいますよ」
「急げば大丈夫!」
 そんな風に笑顔で言われて、ユベルは差し出された少年の手に自分の手を重ねた。少年はユベルの手をぎゅっと握った。
「行こっ!」
 嬉しそうに笑って少年はユベルの手を引いて早足に歩き出す。
 本当は早く帰ってほしいけれど、そう遠くない場所だろうしまあいいか──そう思ったけれど、薄暗い林の中に足を踏み入れたときには止めなかったことを後悔した。ユベルには右も左も同じに見えるが、彼は迷いなく足を進めていった。
「ほら、ここいっぱい咲いててきれいでしょ?」
 彼に連れてこられたのは、明らかに林の中とは雰囲気の違う、青い光がちらつく花畑だった。ほんのり光る泉には何かの影がちらついて、美しいのだが恐ろしくもあった。
「前に精霊たちに教えてもらったんだ。この星みたいな花、この時間にしか咲かないんだよ。でもこうやってちょっとこの泉につけると何日か花が閉じないし、他の花も長持ちするんだ。お墓参りにいいと思うんだ」
 少年は慣れた様子で色とりどりの花を摘んで、茎をさっと泉に浸した。泉から魚のようなものが頭を出して、少年は元気だった? と声をかける。ユベルには微かな風音のように聞こえるが何か話しているらしく、少年は「うん」とか「ありがとう」とか返している。魚が泉の中に沈むと、花が一輪浮かんできた。たくさんの花弁の重なる、淡いピンクの花だった。
「この花、くれるって」
 水底に咲く花だろうか。あの魚の精霊を見た目で不気味に思ってしまって悪かったな、とユベルは思う。
「お母さんがね、ボクが覚えてなくてもボクがお墓参りに行ったらおばあちゃんたちは喜んでくれるって言ってたんだ。もういないことを悲しんだりするより笑顔で会いに行ってあげてって。だからお墓参りのときはいろんなお花摘んで、どこで咲いてたとか、そういうお話をしたんだ。ユベルのご両親も喜んでくれるといいね」
 少年は摘んだ花と泉から浮かんできた花をまとめてユベルに差し出した。
「……はい。そうですね」
 彼のくれた小さな花束に、いつも養父母が買う花のような華やかさはない。控えめな黄色の小さな花や、初めて見る青い星の粒みたいな花、白い鳥が翼を広げたような花もある。泉の花だけは一輪が大きいけれど、華美ではなく楚楚とした美しさがある。
「……ありがとうございます」
 ずっと悲しめないことを悪く思っていたけれど、そうではなかったのかもしれない。
「じゃ、急いで帰ろっか。あ、ここのこと、秘密にしてね」
「はい」
 そういえば、今までも彼はこっそりひとりで来ていたのだろうな、と思う。でも今さらそんなことを言うのは野暮だろう。
 手を繋いで林を足早に抜けていく。行くときは怖かったのに、今は怖くなかった。
 城の前で彼と別れてユベルは家に帰った。
「おかえりなさい。花を摘んできてくれたの?」
 養母が笑顔で迎えてくれる。
「明日墓参りに行くことを言ったら、覇王が摘んでくれて」
「そうなの。本当にやさしい子ね。あの子、最初は本当に痩せて小さくて心配だったけど、最近は元気そうでよかった」
 養母は目を細めた。養母は子供全般の好きなひとで、少年のことも気にかけていた。過去に幼い実の子を亡くしたのだと、ちらと聞いている。養父母がユベルを我が子のごとく扱ってくれるのも、その後に子供が生まれなかったからだろうと思う。
「それに何よりユベルとお友達になれてよかった」
 友達──彼とは友達だったのだろうか、と思う。世話役を言いつけられているからそばにいる。だけど、今日のように世話役とは関係ないこともしている。世話役につけられた日から、お城を探検したいとか外に出たいとか、そんなことに付き合っている。彼のお気に入りの丘に昼寝をしに行ったり、市を見に行ったり。思えばそれは──友達と遊んでいるのかもしれない。
 ユベルには友達と呼べる相手がいない。同じ学舎の子供たちからは距離を置かれているし、それを押しのけ自ら仲良くなろうとしにいく性格でもない。──彼のように、距離を取ろうとしたユベルに近づいてくるようなことは、できない。それは彼の生来の性格かもしれないし、農村育ち故に身分や生まれに頓着するほどの知識がなかったからかもしれない。
 ともかく今ユベルと彼は、「友」と呼べるのかもしれない。
 ──本当の名前も知らないのに。
 ユベルは彼の名を知らない。「覇王」と呼ぶように言われているし、彼から聞いたこともない。城の中で彼の名を知っているのは王と占い師くらいだろう。親を亡くしたユベルだって元の名前を奪われたりしていないのに。
 やはり、ユベルはどこかで彼を哀れんでいる。
 ──友達ってそんな感情を持つものかな。
 そう思ったけれど、ユベルには彼しか友と呼べそうな者はいないのだから、比べようもない。ユベルの養親も彼を哀れむと同時に我が子のように愛してくれているから、その感情は一概に悪いわけではないかもしれないけれど。
 翌日の墓参りは、いつものような気の重さはなかった。心の中で墓前に「友達が摘んでくれた花です」と告げた。
 ──ピンクの花は精霊がくれました。場所はふたりだけの秘密だけど、きれいなところです。
 そんな風に報告して、なぜだか心は軽くなるような気がした。明日、改めて彼にお礼を言おうと思った。
 でも。
「……どうしたんですか、それ」
 翌日に会った彼は、頭に包帯を巻いていた。
「ちょっと血が出ただけなんだけど」
「……なんで?」
 えーと、と少年は言葉に迷う。
「……精霊と話してたら石投げられちゃった」
「誰に」
 思ったより低い声が出て、ユベルは自分でもおかしいと思った。少年も少し戸惑う。
「わかんない」
「そもそもどこで?」
「えっと……」
 いわく、昨日は武術の稽古が休みだったので、午後から座学の先生と一緒に町へ行ったらしい。勉強として町を歩いている最中に精霊を見つけて、珍しくて話しかけていたら同じくらいの歳の子供に石を投げられたそうだ。子供はすぐに逃げてしまったという。
「でも先生から聞いたんだけど、五年前に精霊が暴れて何人か亡くなったんだってね。それで精霊を嫌ってるひともいて、あの子も家族に何かあったのかもって……」
「そんなの、あなたは関係ない」
「そうだけど……覇王にはそういう精霊をしずめる役割もあるって……だから……」
「だからってあなたが石を投げられるいわれはないでしょう」
 ユベルは責めるような口調になってしまう。少年は眉を下げる。
 ──困らせてしまっている。
「……ごめんなさい、あなたを困らせたいわけじゃなくて。ただすごく……」
 許せない。怒りを感じる。そいつを見つけ出して──。
「ひどいと思って……」
 ユベルは思い浮かんだ言葉を打ち消した。そんなことを考えてはいけない。
「包帯なんてしてるけど、本当に傷はたいしたことないんだ。先生がすごく心配して……」
「当たり前です、ケガをしたんですから」
「ありがとう。ユベルも心配してくれたんだね」
 少年は微笑んだ。
 心配も確かにしている。だがそれ以上にユベルは怒りを感じた。自分でもどうしてかわからないくらいに。
「あなたは──怒らないんですか? そんな風にケガをさせられて」
 少年は少し考える。
「……覇王だから?」
「今は関係ないでしょう」
「えっと……ごめん、説明になってないね。ボクは怒ってはない。驚いたし……悲しいと思ったよ。精霊が嫌われてしまってることが」
「……石を投げられたことじゃなくて、ですか?」
「ボク子供の頃は精霊しか遊んでくれる友達いなかったから……あ、歳の近い子が村にいなくて」
 ユベルが怪訝な顔をしたからだろう。少年は付け足した。
「ボクよりもっと上のお兄さんお姉さんはいたけど、畑仕事とかで忙しいし。ボクがまだお手伝いできるほどは大きくなくて、お母さんは寝込んでるし、お父さんは忙しいし……暇だったからよく精霊と遊んでたんだ。あの頃は知らなかったけど、みんな精霊と遊んだりしないんだね。村じゃこっちみたいに精霊が人間から逃げたりはしなくて、でも人間と遊んだりもしない。そこらにふわふわ飛んでたりはするけど、遊んでたのはボクだけ。それでそういう子は」
 少年は言葉を止めた。
「なんです」
「……その話は関係なかった」
「途中でやめられると余計に気になるんだけど……」
「えっと……ボクの村じゃ、ひとは死ぬと精霊になるんだって言われてたんだ。町の方じゃ違うみたいだけど。だから……小さい頃に精霊に好かれる子供は早く亡くなって精霊たちに迎えられるんだって言われてて……たぶん先生には子供の死亡率の高い農村で遺された家族の慰めになるように作られたお話だろうって言われるんだけど」
 あの先生なら言いそうだ、とユベルは思う。
「それで……本当に人間が精霊になるかはわかんないけど、でもボクは人間と精霊はそんなに違わないような気がしてて。だって友達になって一緒に遊んだりできるし。五年前みたいなこともあるけど……光の波動に影響されたのかもって聞いてる。覇王に精霊をしずめる力とか光の波動を追い払うことができるなら、そうしたい。……五年前のことは間に合わなかったけど……」
「間に合うも何も……」
 五年前なら、彼はただの農村の痩せっぽちの子供だ。
「うん、そうなんだけど……でも、間に合ってたらたぶんあの子は石を投げる必要なかったよ。だから……悲しいと思うけど怒るって気持ちにはならないんだ。五年前のことはボクに直接関係ないけど、ひとと精霊の間に立てるのがボクなら──覇王なら、受けとめるべきだと思うんだ」
 きっぱりと少年は言った。ユベルは泣きたいような気持ちになる。
「そんなの──変ですよ。覇王なんて占いだかなんだかを信じてる連中が言ってるだけじゃないですか。どうしてあなたが、あなただけがそんなもの背負わなくちゃならないんですか」
 少年は一度目を伏せた。
「……そうだね。ボクは覇王なんかじゃないかもしれないし、金色の石だって、たまたまボクが見つけたからそう言っただけかもしれない。ボクには光の波動とか正しい闇の力とか、まだよくわからない。でも、ひとと精霊が仲良くなれるようにしたいのは本当だよ。ボクにその闇の力があるなら、できることをやりたいんだ」
「どうして……」
 その言葉は、質問ではなく嘆きとしてユベルの口からこぼれた。
「……ありがとう、ユベル」
「なんでお礼なんて言うんですか」
「心配してくれてるんでしょ」
 少年は笑う。彼の中で、覇王になるということはたぶん揺らがない。
 傷つけられても笑って、小さな身体に見合わない大きな宿命を背負って──。
 ユベルはとても胸が苦しくなって、でもその理由がわからなかった。彼が覇王だと最初から聞かされていた。「かわいそう」だと思ったけれど、どこか他人事だった。それが今は他人事のように思えないのは。
 ──友達、だから。
「──ユベル? どうしたの、泣かないで」
 少し慌てた少年の声。
「……ボク」
 あなたの名前も知らないのに。
 どうしてこんな気持ちになるんだろう。
「ユベル、心配かけちゃってごめんね……」
 滲む視界に彼がハンカチを差し出した。ユベルはそれを受け取り涙を拭く。
「……ごめんなさい、突然泣いたりして」
「ううん。ユベルはやさしいんだね。ボクね、本当につらくなんてないんだよ。だって覇王になったらキミのことも守れるでしょ?」
 少年はユベルに微笑んだ。
 ──違う。
 守られたいとは思わない。ボクは。
 ──ボクは?
 ボクはどうなりたいんだろう、とユベルは自分に問う。
 名前も知らない、でも過酷な運命が待ち受けていることだけはわかる、ユベルの初めての友達。
 傷つけられたことや重い宿命の理不尽さへの怒り、悲しみ、哀れみ──。初めて会ったときの他人事の哀れみと違う感情が、確かにユベルの中に芽吹いていた。

2024/11/17
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