GX一話完結短編

愛のかたち

「昔したことあるかも」
 既視感みたいなものに思わずそう呟いてから、十代は「あ、やべ」と思った。しかし後悔しても遅い。いくら友人たちに鈍感と言われる十代にも、さすがにこのタイミングで言うべき台詞ではなかったとはっきりわかる。愛するひとと初めて唇を重ねた、このタイミングで。
「キミねぇ……」
 ユベルは渋い顔をした。
「別にキミの過去にどうこう言う気はないけど、ボクに言うなよ」
「いや、あの」
 誤解されている。このままだとユベルの中で十代が過去に誰かと何かあったことになってしまう。
「過去にどうこうはないけど。……ないと思う、けど」
 否定しようと思ったのに言いきれなかった。なにしろ一度記憶が消えている。しかし記憶をなくしたあとなら、なかったとはっきり言える。だから。
「あってもすごく小さい頃の話だと思うんだけど」
「言わなくていいって」
 ユベルは呆れた様子で十代の言葉をさえぎる。
「……誰だったのか、マジでわかんない」
「はあ?」
 ユベルは顔をしかめた。また余計なことを言ってしまった、と十代は思う。しかし、覚えていないものは覚えていない。ただ、ユベルとキスをしたときに『覚えがある』と思ってしまったのは事実なのだ。
「……ユベルじゃないんだ?」
 若干そうならいいなと思いながら十代は言った。が、ユベルは十代をにらみ返した。
「あのね、ボクが子供になんかすると思ってるの。だいたい触れないだろ」
 そう──人間界では、十代とユベルが触れ合うことはできない。精霊界に来た今、普段は触れないな、などと話しながらお互いに手だの髪だの触っていたら、いい雰囲気になり初めて口づけを交わしたのだ──が、十代の発言で台無しにしたのである。
「だよ、な……」
 なら誰なんだろう。なんとなく、その相手は自分より大きかった気がする。子供の頃に関わって、自分より大きいというと、オサム兄さんくらいしか思い出せない。しかしデュエルはしても特にスキンシップを取った覚えがない。それは頭を撫でるとか抱きしめるとか、そういう延長線上の記憶のような気がする……。
「あ」
 十代の脳裏にあるひとが浮かぶ。一度浮かんだら、もうそのひとでしかないような気がしてしまった。ものすごく認めたくない。いや、そのひとを愛していないわけではないのだ。よく頭を撫でてくれて、抱き上げてくれて──。
「親父かもしれない……」
 十代が幼い頃、父は十代を猫可愛がりしていた。仕事で会えない反動なのか、家にいたらよく遊んでくれて、頬にキスもされていたと思う。小学校に上がる前にはもうされなくなっていたから今の今まで忘れていたが、ややうざったいと感じていたのを覚えている。たまに髭の剃り残しがあると痛いし。母ではないという確信があるのは、母は撫でたり抱きしめることはあってもキスはしなかった覚えがあるからだ。
「ああ……そう……」
 ユベルの眉は下げられ、やや十代を憐れんでいる気がする。相手が父親とあっては嫉妬よりも同情心がわくらしい。
 父ならありうる──が、いくらなんでも口にはしまい。実際、記憶としては頬にされた記憶しかない。頬にキスをされていた記憶がユベルとのキスでよみがえってしまっただけなのか。
 いやでも──違う。あのとき思い出したものは頬にされたものではない。それになんだか──『された』のではなく『した』ような気がする。しかし人間とそんなことをした覚えはまったくない。もしかしたら、幼い頃ぬいぐるみにでもしたのを思い出したのだろうか? しかしぬいぐるみやら人形やらにはそれほど興味がなかった気がする。そもそも最初に「自分より大きかった」と思ったのだからぬいぐるみの類いではないか。そうなると。
 ──やっぱりユベルなんじゃないか?
 真っ先に否定されたけれど。そもそも触ることができないのだから無理なのだ。でも触れたら?
 ──まだ人と精霊が触れ合えた頃なら。
 遠い記憶を思い起こす。愛を誓った日を鮮やかに思い出せる。でも。
 ──子供だった。
 あのときの自分もユベルも、まだ子供だった。お互いを愛していたけれど、もっと時間が必要だった。
 それに十代は、子供のままあっけなく死んでいる。風邪をこじらせたとか、そんな理由だった気がする。今の日本だったら少し薬でも飲めば治るようなものだったのかもしれない。でもたぶん、あの頃の医療だとか栄養状態だとか、さまざまな理由が重なりあっけなく──。
 光の波動から十代を守るというユベルの決意も虚しく、実際に十代の命を奪ったのはウイルスか何かだった。ユベルの失意はいかほどだったろう。病なんていう、どうにもならないもので失ってしまうのは──。
 今生に出会ったばかりのユベルは、悲しい顔をしていることも多かった気がする。あの頃の十代は、デュエルで呼んであげられないからかな、とかそんなことを思っていたけれど。ユベルがよく悲しげな顔をしていたのも、十代に対して過保護だったのも、一度失ってしまったことが原因だったのだろう。そんなことは全然わからないまま、十代はユベルが笑ってくれたらいいのにと、いろいろやっていたような気がする。何をやっていたんだったか。
 似顔絵を描いたり、折り紙を折ったり、花を摘んできたこともあったか。お菓子をわけようとしたときは「食べられないよ」と言われた気がする。「どうしてそんなことをしてくれるの?」と聞かれたこともあった。
「だってユベルがだいすきだもん」
「そう。ありがとう」
 ユベルは笑い返してくれたけれど、子供の言葉だからかあまり信じてくれなかった気がする。
「ほんとだよ。いちばんだいすき」
 そうして十代は「いちばんだいすき」なひととするという、テレビだか絵本だかで見たことをユベルにしたのだ。正確には、しようとした。ユベルに触れることはできないから。
 それで。
「キミねえ、子供がそんなことをするものじゃないよ」
 怒られたのだ、ユベルに。そういうことはちゃんと大人になってから、きちんと考えてしなさい、そんなようなことを言われた。
「ボクは心配だよ。悪いやつがいっぱいいるんだから。とにかくああいうことは大人になるまでしない、いいね?」
 真剣な顔のユベルに「はい」と返事をしたと思う。他にもいろいろお説教をされたような気もするが、あまり覚えていない。
「……やっぱりユベルだ」
 十代がそう言うとユベルは不思議そうに見返す。十代は思い出したことを話した。
「確かにそんなこともあったね。覚えてたんだ」
「そりゃ……」
 いわゆるファーストキスってやつだし──と思ったが、言葉にするのは恥ずかしかった。
「……まあ、怒られたし」
「止めておかないとキミはそこらじゅうのものにキスしかねない。電子レンジとか」
「電子レンジ?」
「なんでも温まって好きって言ってた」
「電子レンジにはしない」
「どうかな。キミってすごくふわふわした子供だったもの」
 ユベルは肩をすくめる。ふわふわ、と抽象的なことをいわれても十代にはよくわからない。
「触れないボクにキスしようとしたくらいだし」
 呆れた声でユベルは言った。どうやらユベルにとってあれは好印象ではなかったらしい。十代が今思い返す分にはそれが幼いなりのユベルへの愛の表現だったのだと思うが、幼い自分が愛を本当に理解していたのかというと怪しいものがある。子供がするものではない、というユベルの言葉はとても真っ当だ。電子レンジにでもしかねないというユベルの心配もあながち間違いではないのかもしれない。
「あの頃、ボクに触ろうとしてこけたり壁にぶつかったりして、見てて心配だったよ。ボクは触れないんだから気をつけてって言うと、そのときはわかったって言うのに繰り返すし」
「……転んだりしたのはあんまり覚えてないけど、手をつなぎたかったのは覚えてる」
 仲のいい友達みたいに。他の子供たちがやっているのを見るたびに羨ましかった。両親もたまの休みに外に連れていってくれたときに手をつないでくれたけれど、十代はユベルともそうしたかった。たまのお出かけだけじゃなく、日常で当たり前にそうしたかった。
「あ、だから転んだのか」
 あの頃は十代も小さく、宙に浮いているユベルの手が遠くて届かないこともあった。背伸びしたり少しジャンプしてみたり、そんなことをしていたから転んだりしていたのだろう。
「キミって馬鹿だよねぇ……」
「ユベルは思わなかったか? 手をつなぎたいとか」
「キミが危なっかしいから助けられたらってよく思ったよ。転びそうなときとか。なんで繰り返したんだい」
「昨日はだめでも今日なら触れるかもとか思ってた気がするな」
「昔から馬鹿な方向に前向きなんだね。ボクは本当にキミが心配だったよ。よく死なずに大人になれたもんだ」
 ユベルはもう皮肉というより呆れた声音になっている。
「言われてみれば……野球で足の骨折くらいはしたけど」
「やっぱり転んだのか……」
「いやスポーツは多少ケガするもんだって。思えば……ハネクリボーには触ろうと思わなかったなあ」
「何年も経ってやっと学んだってこと?」
「ていうか……ハネクリボーには手をつなぎたいとかは思わなかったなあ。初めて異世界に行って触れたのは嬉しかったけど、たぶん……ユベルと手をつなぎたかったときの気持ちとは違うと思う」
「気持ちは嬉しいけど、触れたって危ないだろ。子供の皮膚なんかやわいんだから」
 ユベルは十代に左手の爪を見せる。しっかりとした鱗に覆われた指先の、鋭い金色の爪。
「でも触ってもなんともなくね?」
 十代は向けられたその爪を右手で握る。爪の固い感触はあるがそれだけだ。
「今のキミは頑丈だし融合してるんだからボクらは基本的にはお互いを傷つけないよ」
「そうなのか?」
 十代は右手の握る力を強くする──が、すぐさまユベルに振り払われた。
「試すなよ。ケガしたらどうする」
「すぐ治るし」
「治ってもボクが嫌だよそんなのは。ボクがキミを傷つけたいわけないだろ」
 ユベルは十代をにらむ。ごめん、と十代は謝った。
「……あれって本当に光の波動の影響だったんだ」
 十代は痛みこそ愛だと言っていたユベルを思い出す。ユベルは顔をしかめた。
「……だけとも言い難いけど。そう思わないといられなかったのも事実だからね」
「それは本当に、ごめん……」
「キミが望んだ結果じゃないことはわかってる。衛星の事故がなかったら、ボクもネオスみたいに正しい闇の力を得られたんだろう」
 ユベルは真剣な顔で十代を見つめ、それから微笑んだ。
「まったく……なんでキスからこんな話になったんだか。キミのせいで雰囲気が台無しだ」
 ユベルは声色を明るくしてからかうように言った。十代を励ますためだろうか。事故であろうが、十代がユベルに激しい苦痛と長い孤独を与えてしまったことは謝っても謝りきれない。当のユベルに励まされるべきではない気がするが、ユベルの心遣いをむげにしたくもない。十代は笑い返した。
「お父様でなくてよかったね」
「それはマジで」
 からかうユベルに十代は深く頷く。目を合わせて、今度こそ本当に笑い合う。「いい雰囲気」は台無しだが、今の方が居心地はいい。
「そもそも、人間の愛情表現の真似事がボクらには合わないのかもね」
 真似事──そうなのかもしれない。子供の頃、ただテレビだか絵本だかの真似をしたように。
「……でもオレは、手をつなぎたいけどなあ。昔から……ずっと昔から、ユベルの手が好きだよ」
 ユベルはやさしく目を細めて、先ほど振り払った十代の両手を取った。左右それぞれに堅い鱗の感触がするその手を、十代は力を入れすぎないように握る。
 遠い昔につないだ同じくらいの大きさの手も、今の大きな手も、どちらも十代には愛おしい。その手を握ると幸せな気持ちになる。
 でも、ユベルはあまり握り返そうとはしない。やはり爪でケガでもさせたらと気にしているのだろう。
 ──そんなの構わないのに。
 十代はずっとそう思っている。ユベルの手は十代のために苦痛に耐えてこうなった。だったらその苦痛は、本当は十代も負うべきものなのだ。
 愛している。どんなに傷つけられてもいいくらいに。同じ痛みを負いたいと思うほどに。
 ずっと昔からそう思っている。
 だから、ボクは傷ついたっていいよ、ユベル──。
 そんな言葉が、ひいては光の波動を浴びたユベルに傷つけ合うことが愛だと思わせてしまったのかもしれない。
 相手を傷つけるのは間違っている。痛みそのものが愛だとも思わない。でも傷つけられてもいいと思ってしまうのだから、矛盾している。
 ──歪んでいるのはオレの方か。
 それが歪んだ愛なら、正しい愛のかたちはどんなものなのだろう。
「……また面倒なこと考えてそうだな」
 ユベルは心の中を覗こうとでもするように十代の目を見つめる。わざわざ覗き込まなくても、つながった魂からおおよその感情は互いにわかってしまうのだが。
「正しい愛のかたちについて考えてた」
「正しいって何を基準に?」
「わかんないけど……傷ついてもいいとかは間違ってるんだろうし」
 ユベルはやや首を傾げた。
「──正しくはないかもね。でもキミの愛はそういうかたちだ。ボクのために自分が自分でなくなっても構わないと思うような」
 そうか。正しいかたちをしていたら、魂の融合なんて思いつきもしなかったのかもしれない。
「……正しくはないか。オレには一番よかった選択だけど」
「正しいかたちである必要もないだろう。そういうのは人間の基準なんだろうしね」
「……そうかもな。いびつなかたちかもしれないけど」
「ボクもたぶんキミとは違うかたちで歪んでるんだろうね」
 少し皮肉っぽくユベルは言った。十代はつないだままの手に力を入れる。堅い鱗や爪の感触。
「……ユベルの愛はたぶんこのかたちだ。オレのためにすべてなげうって、人間には異形でも、オレにはなによりきれいな、このかたち」
 ユベルは二色の目を瞬かせた。
「……キミが言うならそうかもね」
 それから笑って、十代の手をやさしく握り返す。
「キミの愛は、そうだな……かたちがいびつというより、かたちがないんだろう」
「ない?」
「キミのやさしい闇の力と同じように、きっと不定形なんだ」
 確かに闇にかたちはないだろう。あったとしても見えないだけかもしれないが。
「だからボクの愛がどんなかたちでも──どんな姿でも、キミの愛はいつもボクを包んでる」
 ユベルの目は、穏やかなあたたかさをたたえて十代を見つめる。その瞳に今は悲しみも憎しみもない。幸せだと思う。互いの手を握って、愛について語らうことができる。
「包むってことは布みたいな感じ?」
「そんな薄っぺらいものにたとえるなよ」
 ユベルの目はまた呆れた色に変わってしまう。
「すぐ雰囲気を台無しにしちゃうんだから」
「ごめん……」
 布ではユベルの気に召さなかったらしい。
「じゃあ毛布とか」
「安っぽい……」
「毛布は高いぞ。この前買ったのだって……」
「値段の問題じゃない」
「軽くてあったかい」
「あったかいはともかく軽いは愛に用いたら悪い意味になる」
「あ、そうか」
「キミに情緒的な表現を求めたボクが馬鹿だったよ……」
 言葉を重ねるほどユベルを呆れさせてしまう。布も毛布も愛のたとえには向かないようだ。
「でも、この前買った毛布は本当にいいと思うぜ。せっかく触れるんだからユベルも毛布かぶってみろって」
 十代は荷物の中から先日買った毛布を取り出す。軽くて小さく畳めるから運びやすく、肌触りよくあたたかい。ファラオもずいぶん気に入って、買ったときには十代よりも先に寝転がっていたほどだ。
「……まあ、確かにやわらかいけど」
 ユベルは右手で毛布を撫でる。
「今日はこれで一緒に寝ないか? でかいからふたりでもいけると思うぜ」
「……ボクまで野宿しろって?」
「嫌ならいいけど……たまには楽しいかなと思って」
 ユベルは少し考えて、
「まあ……たまにはね」
 と微笑んだ。
 大判の毛布は、身を寄せ合えばやはりふたりでも入ることができた。もちろんハネクリボーが入る余裕もあり、ハネクリボーは十代の左側でもう寝入っている。今回は人間界に残してきたが、ファラオだってまだ入れるだろう。奮発して買ってよかったと思う。
 やわらかくてあたたかい毛布は、ユベルの感じる愛に似ているのだろうかと思ったが、言ったらまた「情緒がない」と呆れられるだろうから黙っていた。
 頭を寄せて寝転び見上げる空は深い赤色をしていた。赤は好きだが、夜空にあると変な感じだと十代は思う。
「あ……あれに似てる」
「なに?」
「前に日本で寄った喫茶店の椅子の生地。あそこのエビフライうまかったなぁ」
「本当に情緒ってもんがないよキミは」
 十代は結局またユベルを呆れさせてしまった。さっさと寝なよとユベルは言う。
「おやすみ、ユベル」
「おやすみ十代」
 十代は毛布の中でつないでいる右手を少しだけ強く握って目を閉じる。ユベルが同様に握り返してくれたのが嬉しくて、眠ってしまったら少しもったいないような気さえした。

 見慣れない臙脂色の夜空には星もない。代わりに波打つような濃淡があるから、そこに布地の連想をするのは不自然ではない。
 ──けど、喫茶店の椅子はないよ。
 昼間の明るい緑の空にも、万丈目のところで食べた高いブドウみたいだ、と十代は情緒のかけらもないたとえをしていた。喫茶店の椅子に比べたら果物にたとえるのはまだマシかもしれないが。
 ──もう少し情緒ってもんがないのかな。
 たとえ話といい、すぐ雰囲気を台無しにしてしまうことといい、十代は情緒的と言い難い。愛を語らうときはもう少しロマンチックでもいいと思う。でも「手をつなげるのってやっぱり嬉しいな」とか「小さい頃からこうやって一緒に寝たかったんだ」とかの直球の言葉ならば得意だし、時には「ユベルの愛のかたちはユベルそのものだ」なんて表現が飛び出してくる。ある意味それは「ロマンチックな言い回し」よりも情熱的なのかもしれない。
 しかし眠る前、屈託ない笑顔で「相棒も来いよ」とハネクリボーを呼んだときには、キミの相棒は今気を遣って少し離れていたんだよ、と言ったものかどうか迷ってしまった。この大きさならハネクリボーだけじゃなくファラオだって入れると笑う十代には、ふたりきりで眠るという発想がそもそもなかったらしい。
 十代とユベルは、隣で一緒に眠るということを基本的にしない。十代が眠るときにユベルは十代の心の闇の中に戻る。ユベルはわざわざ外で野宿したいとは思わない。現に薄っぺらいマットの上の寝心地はよくないし、十代のすすめた毛布の触り心地はまあまあといったところだ。どんな高級な毛布や敷物も、十代の心の闇の居心地にはかなわないだろう。
 それでも今こうして眠る十代の隣にいるのは、たまにはこうした触れ合いも悪くないかと思ったからだ。十代がユベルの手を握ることに心から喜んでいることは、ユベルにとっても嬉しいことだった。
 十代に触れることが怖くないわけではない。融合した今、ユベルの手が簡単に十代を傷つけることはないし、もし傷つけてしまったとて十代がそれでユベルを厭うことはない。頭ではわかっているが、不安はユベルの心にくすぶっている。
 傷つけ合うことは愛ではない、と十代は言う。しかし十代は傷つけられることを厭わないし、なんならユベルに自分を傷つける権利があるとさえ思っている。以前「ユベルが望むなら十年燃やしたって構わない」と言われたときには「は?」と思ったより低い声が出て十代はばつが悪そうにしていた。
 ──歪んでるんだよな。
 同じ痛みや苦しみを負いたいだとか、自己犠牲だとか、それを愛とするなら、突き詰めれば「痛みこそ愛、傷つけ合うことこそ愛だ」というところに行きつくのではないか? ユベルは十代のためならばどんな苦痛も孤独も耐えてみせる──ならばそこで発生する苦痛も孤独もひいては愛だということになる。あの頃のユベルの思想はそういうものだった。その危うさはユベルだけでなく十代も持ちうるものだ。彼の示した融合という愛も。
 オレという存在がなくなってしまうとしても、オレは構わない──。
 その覚悟は、竜の鱗をまとうと決めたユベルと同種のものだ。愛するもののためならば我が身を顧みない──結局、妙なところで似た者同士なのだろう。
 ──破れ鍋に綴じ蓋。
 そんな言葉が浮かんだ。情緒的ではないなんて、十代のことを言えたものではない。
 ──ロマンチックな言葉なんて必要ないか。
 人間と違って言葉にしなければ愛が伝わらないわけではない。伝えるまでもなく魂はいつも愛に包まれている。融け合った魂に本当は言葉も触れ合いも必要ないのかもしれない。
 でもオレは、手をつなぎたいけどなあ──。
 そんな言葉と眠っていてもしっかりとつながれた手に、ユベルも幸せを感じている。薄っぺらなマットも毛布も寝心地がいいとは言い難いが。野宿慣れした十代にはそのマットと毛布でも充分なようで、ほんの少し口角を上げて気持ちよさそうに寝息を立てている。もしかしたらエビフライか高級な葡萄の夢でも見ているのかもしれない。
 その幸福そうな寝顔をもっと眺めていようか、それとも十代の望むように眠りを共有しようか──まだ暗い臙脂色の空の下で、ユベルは思案した。

2024/11/12
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