【連作】風のゆくさき
続・朝靄の少年
朝靄の向こうに人影が見えた。その人は海に向かって何か話しているようだった。船の上に誰か──いや、船はない。電話か、一人言か。
もしや世を儚んで──などと頭によぎる。ここ最近、沖に化け物が出ると噂になり船が出せず、不安がっている漁師たちが多いのだ。
「おはよう!」
声をかけてみる。靄の向こうだが背筋のしっかり伸びた佇まいはまだ若そうだ。
「おはようございます」
その声に聞き覚えがあるような気がした。近づいていけば、赤いジャケットに茶色の髪の少年──。
「十代くん──」
呼んで、そんなわけはないと思い直す。彼に会ったのはもう何年前だ? まだ父が元気だった頃だ。
「父か祖父のお知り合いですか? オレ、遊城十代三世なんですが」
「三世──ああ。お父様そっくりで驚いた」
わたしは名乗り、アナシスの息子なのだと言った。すると彼は、話は聞いていますと頷く。
「アナシスさんには何度か船に乗せてもらってお世話になったと聞いています。あなたは確か……そう、クッキーがおいしかったと聞きました。スパイスが効いてて」
「ああ、我が家の伝統の。彼にも食べてもらったんだったかな」
「朝食後に頂いたって聞きました」
「ああそうそう、あのクッキーはカフェレストランの当時のオーナーもお気に入りで、朝食のあと父と一緒に食べたりしてたんだ」
懐かしい気持ちになる。あの頃は週末に父の顔を見にこの島に来て、朝は父と散歩をしカフェレストランで朝食をとる──というのが習慣のようになっていた。私たちと談笑するオーナーの陽気な笑い声を思い出す──彼女もしばらく前に亡くなっていた。
「アナシスさん、今は……?」
十代三世は少し遠慮がちな声音で訊ねた。
「数年前に亡くなったよ。大往生さ」
「そうでしたか。オレもお会いしてみたかったです。あの、もしかしてお墓はこの島に?」
彼は、差し支えなければ墓参りさせてほしいと言った。
「父や祖父から友人や知人の墓の近くに行ったら代わりに線香あげてくれって言われてるんです」
「センコウ?」
「棒状のお香なんですけどね、日本だとお墓に蝋燭や線香を焚いて故人を偲ぶんです。あ、元は仏教の作法だと思うから、お嫌ならお参りだけでも構いません」
「いやいや、構わないよ。父はそういうのにこだわりある人じゃなかったからね。お孫さんのキミが来てくれたらきっと喜ぶよ」
道すがら父の晩年の話をしながら墓へと向かった。父は十代二世と会った後精霊探しの旅をしていたが、寄る年波には勝てず旅を辞めた後も自伝を書いたり曾孫たちのデュエルの相手をしたり、島の漁師たちの相談に乗ったりと充実して過ごしていた──そう話すと十代は安堵したように笑った。会ったこともない父の晩年のことを気にかけてくれていたようだ。
彼はどこでも墓参りできるように蝋燭と線香を置く台のようなものを持ち歩いていた。十代三世は日本の作法だというやり方で丁寧に父を偲んでくれたようだった。嗅ぎ慣れない線香の香りは異国情緒があり、世界中を旅した父を偲ぶにふさわしい気がした。
「ありがとう。父も喜ぶよ」
「こちらこそ、お参りさせていただきありがとうございます。オレもお会いしたかったです。本当に」
十代は寂しそうに少しだけ微笑んだ。
墓参りを終えたあと、十代を家に誘った。昨日仕込んだ例のクッキーがあるから焼くと言うと、「食べてみたかったんです」と彼は笑顔になった。
「そういえば、キミはデュエルをするのかい?」
「ええ、好きですよ」
「今遊びに来てる孫たちも好きなんだ。少し相手をしてくれない?」
「もちろんです」
家に帰り、彼の分を含めて朝食を作りクッキーを焼いた。孫たちは最初は見知らぬ人間に戸惑ったものの、デュエルをするとすぐに十代と打ち解けたようだった。孫たちは遊びにくると曾祖父とデュエルすることを楽しみにしていたから、久しぶりに新しい相手とデュエルができて楽しめたようだった。
庭の世話をしていた妻が戻り、皆で朝食にした。十代は朝食もクッキーも喜んで食べた。
朝食中、孫たちは十代の行った珍しい場所の話を聞きたがり、十代は故郷である日本の話をした。テングと呼ばれる日本のモンスターの調査をしたのだという。
「残念ながらテング本体は見つからなかったけど、天狗倒しなら聞いたぜ」
天狗倒しというのは、夜中に大木を切るような音が響いて、大木が倒れた地響きまでするのだという。しかし翌朝その音がしたはずの場所に行っても何もない──という日本に昔から伝わる怪現象なのだそうだ。嘘か本当かわからないが、十代の語る見知らぬ国の不思議な話に孫たちは喜んだ。
「お祖父様やお父様は今はどうしているんだい?」
「祖父も父もまだ世界中を飛び回ってますよ。たまにオレも居場所がわからない」
「冒険一家なんですねえ。お義父さんの自伝にあなたのお祖父様もお父様も出てきて、どんな方なのかしらと思っていたの。お孫さんにお会いできるなんて嬉しいです」
妻が言った。父の自伝には確かに彼らのことが書いてある。
「自伝にですか?」
「ええ、何回か。あなたのお祖父様がデュエルアカデミアの学生だった頃にデュエルしたとか、気に入って連れていこうとしたけど逃げられたとか。あと彼がこの島の港に来た時にきれいな生き物を見たとか……こちらはお父様かしら」
「ええ、そうだと思います。なんだか──身内の話が自伝に載ってるなんて照れくさいです」
十代三世ははにかんだ。
「アナシスさんのお話も聞かせてくれませんか?」
十代に乞われ、孫たちはひいおじいちゃんは最高のデュエリストだと自慢した。妻は育児が大変だった時に父が助けてくれた思い出を話した。私は子供の頃の父との思い出を話した。
食後、わたしは十代三世に父の自伝を渡した。生前父が自費出版し親類や親しい友人たちに配ったもので、父はいつか十代に渡せるようにと一冊赤い紙でラッピングしていた。
「いつかまたキミに会ったら渡してくれって一冊預かっていたんだ。キミからお祖父様に渡してもらえないかな。あ、キミとお父様の分もいるかい? たくさんあるから何冊でもあげるよ」
「いえ、一冊あれば。家族で読ませてもらいます。祖父も父も喜びます」
十代は赤い鞄へと本をしまい、丁寧に礼を述べて去っていった。
奇しくも翌日から沖に化け物が出るという噂はなくなり、漁が再開された。そういえば彼の父が来た時も、その後に化け物は出なくなったのだったか──。
後日、遊城十代からお礼の手紙が送られてきた。これは遊城十代二世の手によるものだった。自伝を面白く読んだこと、息子が世話になった礼、本のラッピングの中には父からの手紙と十代二世の写真が同封されていて、遊城十代一世がとても喜んでいたことなどが書かれていた。父の遺した願いを果たせてよかった。
個人的には、自伝に載せていた我が家のクッキーのレシピを三世代で一緒に作り、私の作ったものには及ばないもののおいしかったと書かれていたことが嬉しかった。
◇◆◇
十代、お前がこれを読む頃、オレはもうこの世にいないんだろうが──という書き出しからアナシスの手紙は始まった。
初めてのデュエルが楽しかったこと。十代がプロにならなかったのが本当に惜しいと思うこと。十代と再会した日に見た精霊が美しかったこと。精霊探しの旅が楽しかったこと──手紙にはそんな思い出がつづられ、十代への感謝で締めくくられていた。
アナシスは、十代に不老不死であるのかなどと訊ねなかった。でも、いつでも「遊城十代」として接してくれた。最期の手紙も「遊城十代」へと宛ててくれた。海運王と呼ばれた男は海のごとく深い懐の持ち主だったと思う。
アナシスとは、友人というには少し遠い関係だったかもしれない。でも、会えばいつでも楽しく過ごせるような、そんな人だった。
人の死はいつも悲しく寂しい。もう旅先で精霊を探すアナシスと偶然に出会うことは二度とない。何人の死を見送っても、この喪失感に慣れることはできない。
いや、慣れてはいけないのか。どんなに永い時を生きても、人の死を悼み悲しむ心を失ってはいけない。悲しんでばかりいることも、もちろんよくないけれど。
十代は手紙を丁寧にたたんで元の封筒にしまった。潮風が濡れた頬を冷やす。今は誰もいない埠頭も、明日からはまた活気を取り戻すだろう。
「……日本に帰るか」
十代は呟く。魂の中で片割れが静かに同意した。
この手紙と本をきちんと保管しておかなければ。それにじっくりと自伝を読んで──ああ、息子さんにお礼の手紙も書かなければと十代は思案する。二世の名前で出した方が自然だろうか。
手紙は得意ではない。十代が不老不死と知る友人たち宛てならまだしも、それをごまかさなければならない相手ならなおさらだ。でも、アナシスの遺した本と手紙を渡してくれたことに心から感謝していることを伝えたいと思う。「十代二世」を覚えていてくれて、「十代三世」を歓迎してくれたことも。
偽りの身分で生きることに、最初は不安もあった。しかし案外と遊城十代の子や孫と言えば疑われないし、アナシスのように真実に気づいても受け入れてくれる者もいる。
遊城十代の子や孫として認識されるのも、あと何年かのことだろう。「遊城十代」を知る人間は日に日に減っていくばかりだ。
真実を共有し身分の隠蔽に協力してくれる人たちがいるから、全くのゼロになることはないが──。
いつかはその人たちもいなくなってしまうかもしれない。
遥か遠い未来には、人間も精霊も、微かな命ひとつ存在しなくなってしまうのかもしれない。
「今日はずいぶん感傷的だ」
帰ると言いながらいつまでも座っている十代の目の前にユベルが現れる。からかうような声音、しかしその瞳はやさしく十代を見つめた。その目は言葉にしなくても、十代をひとりにはしないと語る。
「感傷にひたれるだけ健康的かもしれないが」
「そーだな。もう少しひたることにする」
十代は立ち上がった。
「船で本を読みながら帰るよ」
海の男の自伝を読むのに船の上ほどふさわしい場所はない。それに船旅ならば時間がかかるから、存分に彼に想いを馳せられるだろう。
「日本に向かう船なんかあるのかい?」
「それは詳しいやつに聞かないとな」
十代は、ずっと前にアナシスとデュエルをしたカフェレストランへと向かった。そこに海の男がいるか、いなければ店主に紹介してもらえるだろう。もしアナシスの知り合いがいれば、思い出話もできるかもしれない。
人の死は悲しく寂しい。でも、死を悼んだり思い出を聞いたり語ったりして、受け入れていくしかない。今はゆっくり感傷にひたることにしよう。
2026/06/05
朝靄の向こうに人影が見えた。その人は海に向かって何か話しているようだった。船の上に誰か──いや、船はない。電話か、一人言か。
もしや世を儚んで──などと頭によぎる。ここ最近、沖に化け物が出ると噂になり船が出せず、不安がっている漁師たちが多いのだ。
「おはよう!」
声をかけてみる。靄の向こうだが背筋のしっかり伸びた佇まいはまだ若そうだ。
「おはようございます」
その声に聞き覚えがあるような気がした。近づいていけば、赤いジャケットに茶色の髪の少年──。
「十代くん──」
呼んで、そんなわけはないと思い直す。彼に会ったのはもう何年前だ? まだ父が元気だった頃だ。
「父か祖父のお知り合いですか? オレ、遊城十代三世なんですが」
「三世──ああ。お父様そっくりで驚いた」
わたしは名乗り、アナシスの息子なのだと言った。すると彼は、話は聞いていますと頷く。
「アナシスさんには何度か船に乗せてもらってお世話になったと聞いています。あなたは確か……そう、クッキーがおいしかったと聞きました。スパイスが効いてて」
「ああ、我が家の伝統の。彼にも食べてもらったんだったかな」
「朝食後に頂いたって聞きました」
「ああそうそう、あのクッキーはカフェレストランの当時のオーナーもお気に入りで、朝食のあと父と一緒に食べたりしてたんだ」
懐かしい気持ちになる。あの頃は週末に父の顔を見にこの島に来て、朝は父と散歩をしカフェレストランで朝食をとる──というのが習慣のようになっていた。私たちと談笑するオーナーの陽気な笑い声を思い出す──彼女もしばらく前に亡くなっていた。
「アナシスさん、今は……?」
十代三世は少し遠慮がちな声音で訊ねた。
「数年前に亡くなったよ。大往生さ」
「そうでしたか。オレもお会いしてみたかったです。あの、もしかしてお墓はこの島に?」
彼は、差し支えなければ墓参りさせてほしいと言った。
「父や祖父から友人や知人の墓の近くに行ったら代わりに線香あげてくれって言われてるんです」
「センコウ?」
「棒状のお香なんですけどね、日本だとお墓に蝋燭や線香を焚いて故人を偲ぶんです。あ、元は仏教の作法だと思うから、お嫌ならお参りだけでも構いません」
「いやいや、構わないよ。父はそういうのにこだわりある人じゃなかったからね。お孫さんのキミが来てくれたらきっと喜ぶよ」
道すがら父の晩年の話をしながら墓へと向かった。父は十代二世と会った後精霊探しの旅をしていたが、寄る年波には勝てず旅を辞めた後も自伝を書いたり曾孫たちのデュエルの相手をしたり、島の漁師たちの相談に乗ったりと充実して過ごしていた──そう話すと十代は安堵したように笑った。会ったこともない父の晩年のことを気にかけてくれていたようだ。
彼はどこでも墓参りできるように蝋燭と線香を置く台のようなものを持ち歩いていた。十代三世は日本の作法だというやり方で丁寧に父を偲んでくれたようだった。嗅ぎ慣れない線香の香りは異国情緒があり、世界中を旅した父を偲ぶにふさわしい気がした。
「ありがとう。父も喜ぶよ」
「こちらこそ、お参りさせていただきありがとうございます。オレもお会いしたかったです。本当に」
十代は寂しそうに少しだけ微笑んだ。
墓参りを終えたあと、十代を家に誘った。昨日仕込んだ例のクッキーがあるから焼くと言うと、「食べてみたかったんです」と彼は笑顔になった。
「そういえば、キミはデュエルをするのかい?」
「ええ、好きですよ」
「今遊びに来てる孫たちも好きなんだ。少し相手をしてくれない?」
「もちろんです」
家に帰り、彼の分を含めて朝食を作りクッキーを焼いた。孫たちは最初は見知らぬ人間に戸惑ったものの、デュエルをするとすぐに十代と打ち解けたようだった。孫たちは遊びにくると曾祖父とデュエルすることを楽しみにしていたから、久しぶりに新しい相手とデュエルができて楽しめたようだった。
庭の世話をしていた妻が戻り、皆で朝食にした。十代は朝食もクッキーも喜んで食べた。
朝食中、孫たちは十代の行った珍しい場所の話を聞きたがり、十代は故郷である日本の話をした。テングと呼ばれる日本のモンスターの調査をしたのだという。
「残念ながらテング本体は見つからなかったけど、天狗倒しなら聞いたぜ」
天狗倒しというのは、夜中に大木を切るような音が響いて、大木が倒れた地響きまでするのだという。しかし翌朝その音がしたはずの場所に行っても何もない──という日本に昔から伝わる怪現象なのだそうだ。嘘か本当かわからないが、十代の語る見知らぬ国の不思議な話に孫たちは喜んだ。
「お祖父様やお父様は今はどうしているんだい?」
「祖父も父もまだ世界中を飛び回ってますよ。たまにオレも居場所がわからない」
「冒険一家なんですねえ。お義父さんの自伝にあなたのお祖父様もお父様も出てきて、どんな方なのかしらと思っていたの。お孫さんにお会いできるなんて嬉しいです」
妻が言った。父の自伝には確かに彼らのことが書いてある。
「自伝にですか?」
「ええ、何回か。あなたのお祖父様がデュエルアカデミアの学生だった頃にデュエルしたとか、気に入って連れていこうとしたけど逃げられたとか。あと彼がこの島の港に来た時にきれいな生き物を見たとか……こちらはお父様かしら」
「ええ、そうだと思います。なんだか──身内の話が自伝に載ってるなんて照れくさいです」
十代三世ははにかんだ。
「アナシスさんのお話も聞かせてくれませんか?」
十代に乞われ、孫たちはひいおじいちゃんは最高のデュエリストだと自慢した。妻は育児が大変だった時に父が助けてくれた思い出を話した。私は子供の頃の父との思い出を話した。
食後、わたしは十代三世に父の自伝を渡した。生前父が自費出版し親類や親しい友人たちに配ったもので、父はいつか十代に渡せるようにと一冊赤い紙でラッピングしていた。
「いつかまたキミに会ったら渡してくれって一冊預かっていたんだ。キミからお祖父様に渡してもらえないかな。あ、キミとお父様の分もいるかい? たくさんあるから何冊でもあげるよ」
「いえ、一冊あれば。家族で読ませてもらいます。祖父も父も喜びます」
十代は赤い鞄へと本をしまい、丁寧に礼を述べて去っていった。
奇しくも翌日から沖に化け物が出るという噂はなくなり、漁が再開された。そういえば彼の父が来た時も、その後に化け物は出なくなったのだったか──。
後日、遊城十代からお礼の手紙が送られてきた。これは遊城十代二世の手によるものだった。自伝を面白く読んだこと、息子が世話になった礼、本のラッピングの中には父からの手紙と十代二世の写真が同封されていて、遊城十代一世がとても喜んでいたことなどが書かれていた。父の遺した願いを果たせてよかった。
個人的には、自伝に載せていた我が家のクッキーのレシピを三世代で一緒に作り、私の作ったものには及ばないもののおいしかったと書かれていたことが嬉しかった。
◇◆◇
十代、お前がこれを読む頃、オレはもうこの世にいないんだろうが──という書き出しからアナシスの手紙は始まった。
初めてのデュエルが楽しかったこと。十代がプロにならなかったのが本当に惜しいと思うこと。十代と再会した日に見た精霊が美しかったこと。精霊探しの旅が楽しかったこと──手紙にはそんな思い出がつづられ、十代への感謝で締めくくられていた。
アナシスは、十代に不老不死であるのかなどと訊ねなかった。でも、いつでも「遊城十代」として接してくれた。最期の手紙も「遊城十代」へと宛ててくれた。海運王と呼ばれた男は海のごとく深い懐の持ち主だったと思う。
アナシスとは、友人というには少し遠い関係だったかもしれない。でも、会えばいつでも楽しく過ごせるような、そんな人だった。
人の死はいつも悲しく寂しい。もう旅先で精霊を探すアナシスと偶然に出会うことは二度とない。何人の死を見送っても、この喪失感に慣れることはできない。
いや、慣れてはいけないのか。どんなに永い時を生きても、人の死を悼み悲しむ心を失ってはいけない。悲しんでばかりいることも、もちろんよくないけれど。
十代は手紙を丁寧にたたんで元の封筒にしまった。潮風が濡れた頬を冷やす。今は誰もいない埠頭も、明日からはまた活気を取り戻すだろう。
「……日本に帰るか」
十代は呟く。魂の中で片割れが静かに同意した。
この手紙と本をきちんと保管しておかなければ。それにじっくりと自伝を読んで──ああ、息子さんにお礼の手紙も書かなければと十代は思案する。二世の名前で出した方が自然だろうか。
手紙は得意ではない。十代が不老不死と知る友人たち宛てならまだしも、それをごまかさなければならない相手ならなおさらだ。でも、アナシスの遺した本と手紙を渡してくれたことに心から感謝していることを伝えたいと思う。「十代二世」を覚えていてくれて、「十代三世」を歓迎してくれたことも。
偽りの身分で生きることに、最初は不安もあった。しかし案外と遊城十代の子や孫と言えば疑われないし、アナシスのように真実に気づいても受け入れてくれる者もいる。
遊城十代の子や孫として認識されるのも、あと何年かのことだろう。「遊城十代」を知る人間は日に日に減っていくばかりだ。
真実を共有し身分の隠蔽に協力してくれる人たちがいるから、全くのゼロになることはないが──。
いつかはその人たちもいなくなってしまうかもしれない。
遥か遠い未来には、人間も精霊も、微かな命ひとつ存在しなくなってしまうのかもしれない。
「今日はずいぶん感傷的だ」
帰ると言いながらいつまでも座っている十代の目の前にユベルが現れる。からかうような声音、しかしその瞳はやさしく十代を見つめた。その目は言葉にしなくても、十代をひとりにはしないと語る。
「感傷にひたれるだけ健康的かもしれないが」
「そーだな。もう少しひたることにする」
十代は立ち上がった。
「船で本を読みながら帰るよ」
海の男の自伝を読むのに船の上ほどふさわしい場所はない。それに船旅ならば時間がかかるから、存分に彼に想いを馳せられるだろう。
「日本に向かう船なんかあるのかい?」
「それは詳しいやつに聞かないとな」
十代は、ずっと前にアナシスとデュエルをしたカフェレストランへと向かった。そこに海の男がいるか、いなければ店主に紹介してもらえるだろう。もしアナシスの知り合いがいれば、思い出話もできるかもしれない。
人の死は悲しく寂しい。でも、死を悼んだり思い出を聞いたり語ったりして、受け入れていくしかない。今はゆっくり感傷にひたることにしよう。
2026/06/05
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