中編(二万字以上)

にわか雨とビーバー①

 太陽というのはカンカン照りではうっとうしいことこの上ないが、隠れてしまえば惜しいものだ。
 午前中は晴れていたのに、昼を過ぎてにわかに降りだした雨に万丈目は思った。まだ六月になったばかりだというのに空気はじっとりとして蒸し暑かった。
 自宅マンションへ向かう帰り道。時間と天候のせいか人通りは少なかった。雨空で薄暗く傘に当たる雨音しかしない。
 ふと、何か違和感を覚えた。昼間に加えて雨で人通りが少ないのはわかる──しかし、車の一台も走っていないのはおかしくないか?
 万丈目は道路を見た。雨のせいか視界は悪く、いつもなら見えるはずの景色がけぶったように見えなかった。
 不審に感じたものの万丈目は歩き続けた。耳には雨音と自分の足が濡れたアスファルトを踏むぴちゃぴちゃした音しか聞こえない。
 普段は何が聞こえていたのだろう──思い出そうとすると、ザザアと雨が激しくなった。こんなに激しい雨の降る天気予報だったろうか? 滝のような雨──滝?
 数メートル先に滝が見えた気がした。
 気がした、ではなく滝だ。道路に川のように水が流れていく。
 万丈目は足を止めた。滝を見つめる。空から滝が流れて来ている──。
「ああ~」
 遠くから情けない悲鳴が聞こえた。
「あ~~~~~」
 音はだんだん近づいてくる。滝から何か茶色の丸っこい物が流れてくる。
「あいたっ! あ~~~」
 茶色の物体は道路に叩きつけられぼよんと跳ねて、相変わらず情けない悲鳴を上げながら万丈目に向かって飛んできた。
「アニキ危ないっ!」
 おジャマ・イエローが万丈目の目の前に飛び出した。
 お前なんか何の役に立つ──万丈目はそう思ったが、おジャマ・イエローより大きいはずのその物体はイエローにぶつかると「あいたっ」と叫び弾き飛ばされた。
「あ~~~」
 茶色い物体は歩道を転がって止まった。よく見れば茶色の物体からは平たい尻尾のようなものが生えていた。
「……ビーバー?」
 万丈目は実際にビーバーを見たことなどなかった。しかし茶色で全身に毛が生えていて尻尾の平たい動物はビーバーしか思いつかなかった。
「痛い……」
 ビーバーが呻く。動物のビーバーではなくビーバー型の精霊だろう。人間の子供くらい大きくて喋る上におジャマ・イエローにぶつかったのだから間違いない。
「おい、そこの雑魚。大丈夫か」
「あ~~~! ごめんなさい覇王様」
「覇王様ぁ?」
 十代関連か、と万丈目は思った。ビーバーは地面にうつ伏せてごめんなさいと再び言った。手足が短くてわからないが土下座のつもりなのかもしれない。
「わざとじゃないんですよ」
「何が」
「本当にごめんなさい」
 ビーバーは謝る。どうやら万丈目のことを「覇王様」だと思っているようだ。
「おい、オレは覇王じゃないが──」
「えっ」
 ビーバーは顔を上げた。つぶらな瞳に万丈目を映し、ぱちぱちと瞬きをした。立ち上がると万丈目の腰よりも背(体長?)は高そうだ。
「オレは覇王じゃないが、覇王の知り合いだ。覇王はどこにいる?」
「えっと……覇王様もたぶん流されました」
「たぶん?」
「いやあダムを決壊させちゃって……わざとじゃないんです」
 そういえばビーバーとはダムを作る動物だったか。
「言い訳じゃなく経緯を話せ、経緯を」
「えーとお。ボクはダム作りの修行中なんですけど」
 ビーバーいわく、修行のためにある川でダムを作ったが、その材料にした木の中に近隣の村で育てていた特別なものが混ざっていたそうだ。村の住民が覇王に木が盗まれてしまったと相談し、覇王は犯人を探してビーバーに出会った。
「お守りを作るための特別な木だったそうなんです。でもわざとじゃないんですよ、本当に知らなくて」
「言い訳はいい」
「木をお返ししようと思ったんですけど、ちょっとダムから外す木の順番を間違えちゃって勢いよく決壊しちゃって」
 ビーバーも覇王も流されてしまった──。
「わざとじゃないんです」
「それはわかった。それで覇王は」
 どこにいる、と聞こうとした万丈目の声は大きな音にかき消された。滝から丸太が流れてきて道路に叩きつけられた音だった。
「ありゃ」
 ビーバーが間の抜けた声をこぼして滝を振り返った。丸太は大量の水と細かい木木と共に次次と流れてきて、道路はあっという間に川のようになってしまう。落ちてきた丸太や枝の間に見覚えある赤い色が見えた。
「十代!」
「覇王様、大丈夫ですかー!」
 ビーバーは道路の川に飛び込んだ。万丈目も追おうとしたが、袖を引っ張られた。おジャマ・イエローだ。
「アニキ、たぶんこの水触っちゃだめよ! なんか変なエネルギーを感じるの。アタシは平気だけど、人間は危ないかもしれないわ」
「しかし」
 それなら十代は──万丈目は全身の血の気が引くのを感じた。
「覇王様、ごめんなさい! わざとじゃないんですよぉ!」
 ビーバーは相も変わらず言い訳しながら十代を丸太の影から引っ張り出す。
 赤い袖が動いてビーバーの頭を撫でるのが見えた。生きている──。
「十代ッ!」
 思わず大きな声で呼んだ。十代の顔はビーバーや木に隠れて見えないが、赤い袖が手を振って返事をした。
 ビーバーが十代を背負って川を泳ぎ歩道へと戻ってくる。十代の背にはファラオがしがみついていた。
「よぉ万丈目」
 十代はいつものようにへらりと笑った。しかし声には元気がない。ファラオは十代の背から飛び降り、不快そうに毛繕いを始めた。
「大丈夫か。イエローがこの水は危険だと……」
「ファラオは大丈夫。お前は触んない方がいいな。それよりなんで精霊界に?」
「ここは人間界だ」
「ん?」
 十代はゆっくり辺りを見回した。十代は笑顔を作っているものの動くのがつらいらしく、ビーバーに寄りかかったままだ。
「……人間界が混ざってる」
「どーりで変だと思いました。この地面、土とも岩とも違います」
 ビーバーが水かきのある足でアスファルトをペタペタと踏む。
「なんだってそんな……」
「慌てて繋いだから変な繋がり方したかな。いやダムが決壊して……そもそも御神木みたいなのが盗まれたって話でさ」
「それは一応こいつに聞いた」
「わざとじゃないんですよ」
「で、このままだと下流にある村に川の水と丸太とかが一気に流れて大変になるから、とにかくどっか別に繋ごうとしてさ……でも繋いだ場所がまた別の村になったりしたら困るから、一端空間と空間の隙間みたいな場所に流してそれから処理しようと思って……精霊界と人間界の間みたいな場所に入り込んじまったか? なんで万丈目がいるんだろうな?」
「オレが聞きたい」
 十代の顔に雨が当たるのが気になって、万丈目は傘を差し出した。十代は今度は作り笑顔でなく笑った。
「濡れ鼠に差してどーすんの」
「ネズミじゃないです」
「比喩だよ。……濡れ鼠ってなんでネズミなんだろ。ビーバーとかカピバラとか水辺にいるから?」
「濡れ鼠は水辺に住むネズミのことじゃないぞ」
 なんて低レベルな会話なんだろう、と万丈目は思う。
「……この雨は人間界のっぽいな……雨で人間界と精霊界の波長みたいなもんが合っちまったか。人間界の雨ってお前は大丈夫なのか?」
「んー、ただの水ですね。覇王様こそ大丈夫なんですか?」
「しばらく休めば」
「じゃあ覇王様は休んでてください。ボクは木を集めておきます」
「わかった」
「覇王様のことお願いします」
 ビーバーは万丈目を見た。万丈目はビーバーの代わりに十代に肩を貸そうとしたが、十代は断った。
「さわんねー方がいいよ。あと傘もいいよ、オレは今更だし」
 そう言われても、弱っている相手を雨ざらしにしてアスファルトに転がすなど気分のいいものではない。
「ならこれを着ろ」
 万丈目は鞄の底に入っていた合羽を十代に渡した。万一のために雨具は複数用意してあるのだ。万丈目は合羽を着た十代に肩を貸し、近くのビルの外階段に十代を座らせた。コンクリートの階段では、結局雨がしのげる以外はアスファルトとあまり変わらないか。
「サンキュ。……巻き込んでごめんな」
 まったくだと言い返したくなったが、具合の悪そうな十代に言うのは憚られた。黙って万丈目も階段に座る。
 そもそも本当に十代のせいだろうか。万丈目だって精霊が見えるのだから、精霊界の波長とやらと合いやすい体質なのではないか。
「万丈目、仕事とかあった?」
「いや、帰り道だ」
「そっか。たぶんここに来る前の時間に戻せると思うけど、しばらく時間かかりそうだからさ」
 ビーバーは器用に泳いで木を一箇所に集めている。その様子を見て、万丈目は川の水深が本来道路があった場所よりも深いことに気づいた。
「道路が──川になってる」
「道路?」
「……歩道の向こうは少し前まで道路で、最初は道路の表面に水が流れてた。だが」
 今は川に変化してしまった──。
「これは人間界に影響はないのか?」
「ないと思うよ。ここの空間は……例えるのなら鏡の中とか。空間の隙間だから」
 空間の隙間がどういうものなのか、万丈目はさっぱりわからない。
「お前は本当に大丈夫なのか?」
「休めば平気。……川の水のせいかな。なんてーか、魔力みたいなのが入ってる水なんだ。少し当てられただけ。精霊にとっちゃほとんどただの水なんだけど。……あいつは前にもダムを直そうとして決壊させちゃったり、そーいう失敗をよくするみたいだ。で、元いた場所で居づらくなっちゃってダム修行の旅に出たんだと」
「それで結局旅先でもトラブルを起こしたわけか」
「わざとじゃないんだ。一生懸命だけど空回りしちゃうっていうか」
「……そのようだな」
 ビーバーは懸命に木を集めている。十代を助けるために即座に川へ飛び込んだりと、悪い精霊でないのは確かだ。失敗を重ねて居づらくなっても腐らず修行の旅に出たことなど、ある意味では学生時代の万丈目よりしっかりしている。当時の万丈目はただ逃げ出しただけだったかもしれない。結果的に修行のようになっただけで。
 ──いや、あんなビーバーと自分を比べたくはないのだが。
 十代はしばらく黙っていると思ったら、階段に身を預けて眠っていた。
「旦那、具合悪そうね……」
 おジャマ・イエローは心配そうに言った。
「せっかく久しぶりに会えたのに、これじゃデュエルもできないわね……」
 そういえば、もう一年以上十代に会っていなかっただろうか。卒業後しばらくしてカードの消える事件があり、それについて調査を頼み報告を受けたのが最後──。
 あの時の十代は未来から来たデュエリストと出会い、過去に行き武藤遊戯と三人で歴史を変えようとしたパラドックスとデュエルしたのだと嬉しそうに話していた。学生時代と変わらない、太陽みたいな笑顔で。
 それが今は濡れ鼠で、ぐったりとして眠っている。ずぶ濡れのままなのはよくない気がするが、タオルも着替えもここにはない。ここが片づいたらしっかり休ませた方がいいのだろう。
 仕方がないからベッドを貸してやるか。風呂は前より広くなったし風呂好きのこいつは喜ぶだろう──そう考えて、万丈目は一ヶ月前に送った引っ越しの報せに十代から返事がなかったことを思い出した。異世界にいて万丈目の送ったメッセージなど見てもいないのだろう。
 ファラオがやって来て階段を登り、十代の膝に頭をのせた。今まではどこにいたのだろうと万丈目は思う。ファラオはレッド寮にいた頃はそっけない猫だったように思うが、旅をするうちにずいぶん十代に懐いたようだった。
「お待たせしました。……あ、覇王様はお休み中ですね」
 ビーバーは両手に何か抱えて、ペタペタと歩いてきた。
「あのう、あなたはもしかして、万丈目サンダーですか?」
「知ってるのか」
「はい。有名ですよぉ。人間界で捨てられた精霊たちのカードを見事に使いこなしたって。覇王様とご友人だったんですね」
 「覇王様とご友人」などと言われると妙な気分だった。
「よければ食べます? 一番おいしそうな木の皮を持ってきました。あ、ちゃんと村の木じゃないやつですよ」
 ビーバーは万丈目に木の皮を差し出した。
「いらん。人間はそういうものは食べない」
「そうなんですか。だからあそこの木おいしくないんですかね」
 どうやらビーバーは街路樹をつまみ食いしたようだった。
「猫さんはどうですか」
 ビーバーはファラオにも木の皮をすすめたが、ファラオはふんふんとにおいをかいでからそっぽを向いた。
「ではボクがいただきます」
 ビーバーは万丈目と十代の間にわざわざ座って木の皮を食べ始めた。この精霊にそのような習性があるのかこいつが変わり者なのか、万丈目には区別がつかない。
 ビーバーは黙黙と木の皮を食べ、食べ終わると毛繕いを始めた。それが終わると目を閉じてしまう。木を運んで疲れたのかもしれない。
 コンクリートの階段に、ビーバーと猫と十代の眠っている様はなんともちぐはぐだった。
 やることもない万丈目は、雨音を聞きながらその珍妙な光景を眺めた。
「……ん? あ、オレ寝てた……?」
 十代は目を覚ました。先程よりはマシな顔になったと万丈目は思う。
「……ごめん、もしかしてすごい時間経った?」
「さあな。時計が動かない」
 結構な時間が経っていたが、万丈目はそう答えた。時間がわからないのも事実ではあった。
「覇王様、木を集めておきましたよ」
 ビーバーも起きたようだ。
「サンキュ。向こうに戻るか」
「お前も戻るのか?」
「ああ。水が人間界に流れ込むといけないから先にこっち片付けるけど、終わったらすぐ人間界側の道も開くから待っててくれ」
 万丈目は、なぜだか引き留めたい気持ちになった。十代はまだ調子が悪そうだからか──しかし万丈目の家に来させたところで、万丈目が看病などをしてやれるわけではない。万丈目は明日も仕事がある。
 十代が精霊界への通路を開け、ビーバーは集めた木木をまた運ぶ。十代もそれを手伝う──が。
 十代の身体が傾き、倒れる。
「覇王様!」
「十代!」
「川は入っちゃダメよぉ!」
 思わず駆け出しそうになった万丈目をおジャマ・イエローが止める。
「いやあ、転んじまった」
 へらへらと十代は笑う。無理をしているのは明らかだった。
「十代を連れてこい!」
「はい!」
 ビーバーは十代を背負い歩道へ運んだ。万丈目は十代に肩を貸してやる。
「悪い、いつもは平気なんだけど」
「覇王様、今よさそうな木の皮をお持ちしますね」
「人間は食わんと言ったろ」
「ああそうか」
 ビーバーは抜けているがお人好しではあるようだ──人間ではないが。
「気持ちだけ受け取っとく。ありがとな」
「ボクのせいですから」
「わざとじゃないだろ」
 十代はビーバーの頭を撫でる。
「わざとじゃないです。でも、ボクのやったことですから。覇王様、ここまで力を貸していただいてありがとうございました。あとはボク一人でやりますから、覇王様はお休みになってください」
 ビーバーはぺこりと頭を下げて、再び木木を運び出した。川の水かさはだんだんと減っていく。水が減るとうっすらもとの道路が見えてきて、地面もせり上がっているようだった。ここの物理法則はめちゃくちゃだ。
「……本当、すごいやつだよ」
 十代は少し羨ましそうに言った。十代もあのビーバーと自分を比べ思うところがあるらしい。
「間抜けだがな。お前もだが」
「ああ、間抜けだ」
「そう思うなら体調管理くらいしろ」
「いつもは平気なんだぜ、本当に……」
「今はダメなんだろ」
「……そうだな」
 万丈目は十代を連れて先程の階段に戻った。ファラオが階段を枕にして寝ていた。
「猫の方がきちんと休むだけ偉いもんだ」
「本当だな」
 十代は苦笑いして、先程のように階段にもたれて目を閉じた。
 十代の元気がないのは体調不良だけが原因だろうか。何か悩みでもあるのではないか──なんとなくだが、万丈目はそう思った。
 しかし十代は素直にそれを話すことはないだろう。きっとへらりと笑ってなんでもないと言う。あるいは何も言わずに立ち去る。たとえこちらが手を伸ばしてもそれを取ることはない。
 そして万丈目がそうしようとした場合、ろくな結果にならない──。
 それが高校生の頃の万丈目準と遊城十代だった。
 大人になった今なら──結果は変わるだろうか?
 しばらくすると木を片づけ終えたビーバーがやって来た。十代は起き上がる。
「ボクはこれで失礼します。覇王様、お世話になりました。村の方にはボクが謝りに行きますから、覇王様は人間界でゆっくり休んでください」
「わかった。気をつけてな」
「ボクが通路閉じるから、キミはここにいな」
 ユベルが現れた。不機嫌そうな顔をしていた。
「あ、ユベル様。ありがとうございます。万丈目さんもお世話になりました」
 ビーバーは万丈目にも律儀に挨拶して精霊界へと帰った。
「悪いなユベル」
 十代は戻ってきたユベルに謝る。
「本当にそう思うんなら倒れるまで無理しないことだね」
「悪かったって」
 ユベルは仏頂面で十代に文句を言うと消えてしまった。
「……お前ユベルにまで呆れられてるのか」
「この前から人間界に帰れって言われてて……あんまり精霊界に長居しすぎるのはよくないみたいだ。そうは言ってもオレにはユベルがいるし大丈夫かなと思ったんだけど」
 大丈夫ではなかったようだ。
「ともかく、待たせて悪かったな万丈目。人間界に戻れるぜ」
 人間界への通路はユベルが先に開いていた。
 もやのかかった歩道を進むと、いつの間にか元の世界に戻った。景色はきちんと遠くまで見えるし、道路は川になどなっておらず、車が通り抜けていった。万丈目は何時間もあの空間にいた気がするが、夕方になった様子もない。
 何より──蒸し暑さが戻ってきた。万丈目はあの空間が暑くも寒くもなかったことをやっと認識した。
「ここってどのあたりだ?」
 十代が訊ねる。顔色は倒れた時よりマシになっていた。
「オレの家の近くだ。……一ヶ月前に引っ越した。とりあえずうちに来い。風呂と着替えくらい貸してやる」
 万丈目は十代と共にやっと自宅へと戻った。帰る途中、にわか雨は止んで太陽が少し顔を出した。天候のせいであの空間と波長が合ったというなら、ほんの少しタイミングが違えば万丈目は十代ともビーバーとも出会わなかったのかもしれない。
「お前腹は減ってないのか」
「いや……あー……ごめん、なんか食べるものある?」
 十代はなぜか言葉を迷わせた。万丈目が不審に思うと十代は付け加えた。
「しばらく食べてなくて」
「食欲がなかったのか?」
「少し」
 十代に食欲がないなど、万丈目には信じがたかった。
「なんてーか……精霊界にいるとあんま腹減らなくて」
「……粥でよかったら作るが」
「ありがと。ファラオも洗っていい?」
「そうしてくれ。越したばかりの部屋を汚されたらたまらん」
 十代が風呂に入る間、万丈目は冷凍していた白飯で粥を作った。白飯を煮て梅干しを入れただけのそれを十代はうまいうまいと笑って食べた。食欲があるなら大丈夫かと万丈目はほっとした。
「ソファ借りていいか」
「寝るならベッド使っていいぞ。病人だろ」
「病人ってほどじゃないけど」
「いいから使え」
 十代は遠慮したものの、ベッドに横になるとすぐに眠ってしまった。やはり体調はよくないのだろう。
 万丈目は十代のために病人でも食べられそうなものを買いに行った。夜はうどんでも茹でてやろうかと思ったが、十代は朝まで起きなかった。
 意外なことに朝起きた十代は昨日よりも一層顔色を悪くしていた。
「大丈夫か? 熱はあるか?」
「大丈夫。別に病気じゃなくて、ちょっと精霊界に居すぎた反動みたいな……」
「居すぎたって、どのくらい居たんだ?」
「パラドックスのことが終わった後くらいから?」
「一年以上いたのか?」
「そんなに経つ?」
「期間も把握してないのか」
 万丈目が呆れると十代は苦笑いした。病人を責めても仕方がない。万丈目は話題を変えた。
「精霊界では何をしてたんだ?」
「いろいろ。昨日みたいに精霊の手伝いしたり、迷い込んだ人間を帰らせたり、デュエルしたり。いろんな精霊と知り合って、次から次へとやることがあって、あっという間に時間が過ぎてたみたいだ。三ヶ月くらいの気分だったんだけど」
「時間感覚が雑だな」
 本当だなと十代は笑う。十代は食欲はあるようで、万丈目が茹でたうどんをぺろりと食べた。
「よく食ってよく寝るのが一番いいみたい」
「そうか。昨日、病人でも食べられそうなものをいろいろ買っておいた。冷蔵庫の中のものも好きに食え」
「ありがとう。万丈目ちょーやさしい。大好き」
 十代の頬に少し赤みが差す。万丈目は妙に自分が喜んでいることに気がついた。病人のような顔をしていた十代に元気が出てきたから──本当にそれだけか?
「そうだ、感謝しろ」
「さすが万丈目サンダー!」
 軽口を言って笑い合えば、先程感じた引っ掛かりは消えた。
 万丈目は仕事へ出掛け、夕方に戻った。薬局で昨日買い忘れたファラオの猫缶を買って帰った。ついでに、十代が食べやすいかもしれないとアイスをいくつか。
 しかし、玄関を開けるとそこに赤い靴はなかった。
 万丈目は急いで靴を脱ぎ、誰もいないリビングを確認すると寝室へ向かった。やはりベッドは空だった。持て余して使っていない洋室も空。トイレも。風呂場も──。
「えっ?」
 脱衣場は誰もいなかったが浴室には十代がいた。湯に浸かっていた十代は、いきなりドアを開けられて身を縮ませた。
「どうした? なんかあったか?」
「……すまん、なんでもない」
 万丈目は浴室のドアを閉めてリビングへ戻った。アイスを冷凍庫にしまい、猫缶を机に置く。ファラオは缶の状態でも気配を察知したのか、素早く机に飛び乗った。
「机に乗るな! まったくどこにいたんだお前は」
 先にファラオを見つけていたら十代がいないなどと勘違いしなかったのに。小さいから猫の姿など見逃したのだろう。寝室にでもいたのかもしれない。
 万丈目は猫缶を開けてファラオにやった。昨日は仕方がないので鶏肉を茹でてやったのだ。ファラオにしてみたら、肉を食うのと猫缶を食うのはどちらがうまいのだろう。昨日と同じようにファラオはがっついていた。
「おかえり。なんだった?」
 風呂から上がった十代が髪を拭きながら万丈目に訊ねた。今朝より調子が良さそうに見えた。
「すまん、靴がなかったから」
 なかったから、なんだ? 万丈目はなぜあんなに焦って十代を探したのかわからなくなった。元気になって出ていったならそれでいいじゃないか。まだ体調が悪いかもしれないから? だからって室内を探し回ってどうするのだ? 靴がないのだから室内にはいないだろうに。
 ──動転している。
「靴? あ、ベランダに干したままだ」
 十代はベランダから靴を取って玄関に戻した。今日は天気がいいから干していたのだという。
「無理して出てったかもって心配した? ごめんな」
 たぶんそれは半分当たりで、もう半分は──万丈目自身も何かわかっていない。
「倒れられたら寝覚めが悪いからな」
 口からはほとんど勝手に強がりな言葉が出た。
「それよりここ、風呂広くていいな。久しぶりにお湯浸かったよ」
 万丈目の予想通り、十代は風呂の広さに喜んだ。
「精霊界じゃ風呂に入れないか?」
「水浴びなんかはよくするけど。あ、でも火山の近くの温泉にみんなで入ったぜ。熱すぎるからアブソルートに氷で冷やしてもらってさ」
 精霊の力をそんなことに使うとは。しかし精霊たちと自由に過ごせる精霊界は、十代にとって居心地がいいのかもしれない。一年があっという間に過ぎてしまうほどに。
「また精霊界に行くのか?」
 口にして、行かないで欲しいと思っている自分に気づく。
「特に急ぎの用はないし、しばらく人間界にいるつもり。泊めてくれりゃ嬉しいけど」
「いいぞ」
 食い気味に答えてしまい、万丈目は後悔した。まるでいてほしいみたいだ──どうして。
「マジ? サンキュー万丈目!」
 戸惑う万丈目に気づかず十代は笑った。
「ちゃんと食費とか払わなきゃだな。えーと……」
 ここにいてくれるなら食費なんて──そう思っていること自体がどうかしている。
「追い追い考える。今は元気になるのを優先してろ」
「……ありがとう。ところで、晩飯食った? 豚汁作ったんだ」
「この暑いのに?」
「食いたかったんだよ」
 暑いのに湯に浸かって、暑いのに熱いものを食べたがる。おかしな気はしたがそんな気分の日もあるのかもしれない──十代との共同生活はそんな小さな違和感から始まった。

にわか雨とビーバー②」へ続く
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