一話完結短編

熾火

 ぎょーむめーれーだって、と遊城十代はへらへらと笑いながらヨハンのもとへ来た。頭と顔半分を覆う包帯の白さがヨハンの目に突き刺さった。ペガサス会長って大袈裟なんだよなぁ、こんなのすぐ治るのに。笑いながらそう言った友を、ヨハンは思わず抱きしめて泣いてしまった。ああごめんヨハン、ごめんな、と十代は謝った。
「……ちょっと痛いんだ」
 そう言われて傷が頭部のみでないことに思い至り、十代を離して今度はヨハンが謝る番だった。十代はやはり笑っていた。
 十代をヨハンの部下という扱いでこちらに送るとペガサスから連絡があったのは昨日のことだ。怪我をしているから治るまで「逃がすな」と言われた。それがペガサスからヨハンへの「業務命令」で、十代の方は怪我が治るまでここにいろというのが「ぎょーむめーれー」のようだった。
 十代とヨハンが会ったのを見計らったようにヨハンの電話が鳴り、ペガサスから十代の所在確認があった。十代はよほど「逃走」を疑われているらしかった。
「いいですか、十代ボーイ?」
 ペガサスは逃げたら上司のヨハンの責任になること、医師の診察を受けるのも業務だと十代に念押しした。
「わかってます、わかってますって」
 どうやらヨハンは十代を脅迫する人質役でもあるらしい──怪我を治療しろというのが脅迫にあたるのかはよくわからないが。
「大袈裟なんだよなぁ……」
 電話を切ったあと十代はため息をついた。顔半分を覆うその包帯の下がどうなっているかは知らないが、よほどの怪我なのだろうとヨハンは思っている。十代は多少の怪我ならすぐ治ってしまう。ヨハンは以前それを目の前で見た。
 十代と一緒に釣りに行った日のことだ。十代が釣った魚を捌こうとした包丁でザックリと手のひらを切った。当の本人は「あ」と間の抜けた声を出しただけだったが、ヨハンは心臓が縮み上がり悲鳴をあげたい気分だった。実際は悲鳴をあげる間さえなく、十代が手のひらの血を水で流してしまえばもうそこに傷跡さえなかった。まな板に血溜まりが残らなければ怪我をしたなんてヨハンの見間違いかと思うほどだった。そのときも十代は「あーワリィ汚しちまった」とへらへら笑っていた。ヨハンは思わずその手を握りしめ、涙を必死にこらえたことを覚えている。そんなヨハンを見て、十代はやはり今日みたいに「ごめん、ヨハン」と謝ったのだった。微塵も慌てない十代に、彼が血を見ることに慣れてしまうほどに普段から傷を負っているのかと思いヨハンの胸はひどく痛んだ。デュエルアカデミアを卒業してからの彼がやっていることが、ヨハンに話してくれる「気ままな楽しい旅」だけではないとは感じていた。でもそれが血を流すことに慣れてしまうほどだとは想像していなかった。そんな自分が情けなかったし、十代が肝心なことは何も話してくれないことが悲しかった。
 自分と十代のいる場所が違うのだと決定的に感じたのもそのときだったように思う。学生時代は確かに隣に立っていたのに。離れても、会えばまた隣に立てると思っていたのに。そんなのはただの思い込みだったのだと思い知ったのは。
「何があったんだ?」
 ヨハンは十代を家に上げながら訊ねた。厳密には家ではなくインダストリアル・イリュージョン社の精霊研究のための施設だった。住み込んでいるヨハンにとってここは「家」という印象が強い。外観はレトロで洒落た住宅、表向きは「物好きな金持ちの別荘」ということになっている。内部も少し入っただけならその表向きに違わないリビングやキッチンが設置されている。奥に最新式のコンピュータやらなんやらがあるなどと、少し見ただけなら誰もわからないだろう。
「会長から聞いてないの」
 十代は珍しげに室内を見回した。適当に座ってくれと言うと、十代はソファに座った。
「お前を逃がすなとは何度も言われたけどな。お茶かコーヒーかどっちがいい?」
「お茶がいい。爆発事故の話は?」
 昨日、インダストリアル・イリュージョン社のある施設で爆発事故があったというニュースが入った。ニュースには爆発は機器の故障によるもので、死者はなく怪我人が複数とあった。ヨハンは爆発事故として処理されているが精霊が原因だろうと思った。その施設は、こことよく似た精霊の観察・発見を目的とした施設だったからだ。
「一般報道レベルのことなら。でも精霊だろ」
「ああ。まあ──不運が重なったんだ」
 いわく、たまたま精霊界と人間界のあの場所の波長が合ってしまい精霊が人間界へ転移、実体化してしまった。突然のことにパニックを起こした精霊が暴れ、研究所は破壊された。十代が精霊の暴走を収め、精霊をもとの世界へ帰した。
 それだけだ、と十代は言った。
「十代はどうしてその施設に?」
「会長に呼ばれた。……あのひとはオレたちとは違う第六感みたいなのがあるな。無性にあの場所で絵が描きたくなって、何かまずいと感じたみたいだ」
 ヨハンは十代の前に紅茶のカップを置き、自分もソファに座った。
「それで会長があんなに責任感じてるのか」
「早めに報せてもらえたからケガ人少なくて済んだと思うけどな」
 十代は紅茶を一口飲んだ。
「他にはどのくらい怪我人が出たんだ?」
「三人だったかな。精霊が実体化したときの衝撃で転倒して……でもみんな軽いケガだったよ」
「重傷者はお前だけってこと」
「すぐ治る」
「治ってないだろ。……調子が悪いのか?」
 ヨハンの質問に十代はしばし考える。言いたくないのか説明する言葉を探しているのかはわからない。
「……相性が悪かった」
「相性?」
「光属性とは相性悪い」
 十代はため息をついた。十代を守護するユベルが闇属性だからだろうか。
「ユベルは大丈夫なのか?」
「ああ、なんともない」
 ユベルはヨハンの前には姿を現したがらない。ヨハンとしてはユベルとも話したいのだが、嫌われているようだった。
「よかったら顔を──」
「嫌だってさ」
 十代は眉を下げて笑った。顔を見せてほしいとは十代に会うたびにずっと言っているが、ユベルがそれに応えることはない。最後に見たのはアカデミアにいた頃だったような気がする。
「怪我の具合はどうなんだ? 個室は二階にあるんだが、階段はつらいか?」
「いや、日常生活に支障はないよ」
「ならオレの隣の部屋でいいかな。そういえば、一緒に寝泊まりなんてレッド寮以来か?」
 本校に留学していた頃、十代のいるレッド寮に何度か泊まったことがある。夜中までデュエルやおしゃべりをして。もうずいぶん遠い記憶だ。
「確かに。懐かしいな」
 頷いた十代の微笑みは、あの頃の無邪気な笑顔とは違う。自分もまたそうなのだろうと思う。包帯に覆われていることを除けば、十代の外見はあの頃のように肌つやの衰えなど些細な老いの翳りひとつないけれど。
 十代は卒業後も着っぱなしの制服のジャケットまでちょっとしたほころびも色褪せもない。いくら制服が頑丈にできているといっても二十年以上も変わらないのはおかしいし、そもそもつい昨日に頭や身体に大きな傷を負ったのではなかったのか。なぜそのジャケットに血の染み一つ、破れも汚れも何一つないのか──。
 それらは十代と長く付き合ううち、何度となく浮かんだ疑問だった。でも一度も訊ねたことはない。十代から話さないのならば聞くべきではないのだろうと思っている。
 唯一訊ねてしまったのが指輪のことだったか。今も十代の左の薬指にはまる指輪。それを初めて見たのは十代がヨハンの卒業前に彼が会いにきたときだった。彼の育った日本の文化を思えばそれはパートナーのいる証で、驚いて訊ねると「ナンパ避けだよ」と笑っていた。そのことに安堵しながら新しい出会いまで避けてしまうかもしれないと冗談混じりで言った。
「ユベルがいるから」
 その言葉と表情は、ヨハンならわかっているだろうとでも言いたげだった。ヨハンもさもわかっていたかのように頷いた。
 表面は取り繕っても実を言えばその瞬間に「やっぱりオレが特別なわけじゃなかったんだ」と改めて思い知って絶望の淵に落ちたような気分だった。彼が卒業したときから思っていたことだったけれど、まだどこか自分が彼にとって特別なのではないかと自惚れていた。それはヨハンが消息不明になった際に十代が取り乱しついには心の闇に溺れ覇王にまでなったのだ──と翔から聞いたことを根拠にしていて、実際にヨハンが十代の態度などから感じたものではなかった。精霊が見える者同士ということで寄せてくれた信頼は確かにあっただろう。でも友を失い闇に溺れるということ自体は、あの頃のまだ心の弱い十代ならば相手が誰であっても陥ったのではないか。翔でも万丈目でも明日香でも剣山でも吹雪でも、ジムでもオブライエンでも──友達想いな彼は誰を失っても同様に心を痛めたのではないか。あのときはたまたまヨハンだっただけで、自分が特別なわけではない──そう思ったのは、デュエルアカデミア本校の卒業式の日だった。オブライエンと共に本校の卒業式までわざわざ残ったのは、友人たちを見送りたいからだけではなかった。もしかしたら十代が自分には何か特別なことを言ってくれるのではないかと期待していた──たとえば「一緒に行かないか」とか。そんなことは起こらず、十代はヨハンに何も言わずに旅立ってしまった。ヨハンだけでなく、他の友人たちにも何も言わなかった。なんのことはない、自分は特別だというのはただの幻想だったのだ。
 デュエルと精霊ばかり追いかけていた少年の恋はそこで終わった。
 それでもユベルのことがショックだったのは、十代の愛は太陽のように誰もを等しく照らすもので、たったひとりに注がれることなどないのではないかと──そんなことを思っていたからだった。
 我ながら青くさい幻想だったと思う。もし十代との間に何か起きてほしいなら自分が行動するべきだったろう。結果として失恋するにしても自ら動いた方が悔いがなかったのではないか──二十年も経った今はそんなことを思う。
 後から思う分には簡単でも、当時の自分にそんな度胸はなかったのだが。仮にあったとしたら、今こうして友人として向き合うことはできなかっただろうか。それならあの頃の感情を胸に秘めたままでいてよかったのかもしれない。隣に立つ存在にはなれなくても、こうして今も茶を飲みながら話せるような間柄であるのは確かなのだ。
 肝心なことは何も話してもらえないけれど。
 ──ずっと踏み込めずにいるだけか。
 若い頃から今に至るまで。
 今回もヨハンは十代の怪我が治るまで当たり障りなく過ごして、平気な顔で「またな」と軽く言うのだろう。少年のような姿の彼がつむじ風のように吹き抜けていくのを見送る。あの卒業式の日のように。
 茶を飲みながらいろいろと話し、それから家の中をざっと案内した。
「オレはまだ仕事があるから、ゆっくりしてくれよ。あ、暇潰しに本とかいるか?」
「いや。外って少し散歩とかしてもいい? 入ったらまずいとこあれば教えて」
 ヨハンは地図を出し、他者の私有地との境界や精霊の観測機器の設置箇所を説明した。
「精霊の観察場所は入っていいけど、入ったら場所と時間を報告してほしい。十代の連れてる精霊に機器が反応したのかこの土地の精霊が反応したのか区別したいんだ」
「了解。ファラオも反応するか?」
「あー、不思議な猫だもんなあ……」
 腹に幽霊を宿した、二十年も姿を変えない猫はソファで毛づくろいしていた。ファラオもまた毛並みの衰えひとつない。
「……ファラオは報告できないよな?」
「ここにいる間は家猫になってもらうか。ファラオ、悪いけど家の中にいてな」
 ファラオは聞いているのかいないのか、くるりとそっぽを向いて身体を丸めて寝てしまう。
「大丈夫、わかってるよ」
「そういうもんかね」
 ヨハンは仕事に戻り十代は散歩へ行った。逃げないでくれよとヨハンが冗談めかして言うと、ならこいつを置いていくよと十代はデッキケースを外した。
「おい冗談だぜ」
「知ってる。ハネクリボーだってたまにはお前やルビーと一緒にいたいさ」
 ヨハンは一旦デッキケースを預かった。デッキからはハネクリボーやネオスたちの気配がした。ハネクリボーとルビー・カーバンクルは久しぶりの再会を喜んで、話したり遊んだりしていた。
 仕事に集中するうち、気がつけば夕方になっていた。十代はまだ散歩から戻っていない。ヨハンにデッキを預けた以上逃げることはないだろうが、初めて来る土地で迷子にでもなったかもしれない。
 ヨハンは二階の自室に行き、コートへ袖を通す。朝夕は風が出て冷えるのだ。
「ルビー、ハネクリボー、一緒に十代を迎えに行こうぜ」
 ヨハンはじゃれている精霊たちに声をかけた。するとハネクリボーは窓の方へ飛んだ。ヨハンは窓の外を覗く。
 ああ──そうか。
 ヨハンの胸はちくりと痛む。窓から見えたこちらへ向かう十代の隣にはユベルがいた。遠くて二人の顔は見えない。見えなくてよかったのかもしれない。デッキを置いていったのは、二人きりになるためでもあったのだろうか──。
 ざあ、と風に木木が揺れる音がした。今夜は冷えそうだ。
「……薪」
 ヨハンは呟く。暖炉用の薪を倉庫から取ってこなければ。コートを着たついでだ、ヨハンは外の倉庫へと向かった。
「ヨハン、手伝うか?」
 いつの間にか倉庫のそばに来ていた十代が声をかける。もうユベルはいなかった──姿が見えないだけで、十代の中にはいるのだが。
「怪我人が無理すんなよ」
 平気、と十代は薪の束を一つ抱える。
「これって何に使うんだ?」
「暖炉だよ。これからぐっと冷えてくる。お前寒くないの?」
「全然」
 いつもの制服姿の十代は笑う。冷たい風がまた強く吹いた。風は枯れ葉を飛ばし十代の髪を巻き上げ──彼の耳に光る二色の宝石をあらわにした。
 右耳にオレンジ、左耳に緑の宝石のピアス。彼が学生の頃にはつけていなかったと思う。卒業から二十年、いつの間にそんなものをつけていたのかヨハンは知らなかった。もしかしたら左手の指輪と同様に、卒業してすぐつけていたのかもしれない。彼の少し長い髪の下にあるものさえ、ヨハンは知らない。
「スゲー風」
 薪で両手の塞がった十代は頭を振って乱れた髪を直そうとする。白い包帯に茶色の髪が引っかかっている。ヨハンは思わずその髪に手を伸ばして直したが、茶色の大きな目に見つめられて手を引っ込めた。
 嫌だったろうか──と思ったが、十代は破顔した。
「なんだあ? ヨハンまでオレを子供扱いかよ」
「オレまでって?」
「この前会った万丈目と明日香もさ、別れるとき車に気をつけろとか暗いから気をつけろとか……いつも子供に言ってんだろうな」
 万丈目準と天上院明日香──卒業後に結ばれた二人の結婚式へ行ったのは何年前だったろうかとヨハンは考える。二人の子供も一番上の子がもう十四、五になるだろう。あと数年で十代と変わらない外見となり、さらに数年したら彼よりも大人になる。
「……まあ、今のオレたち、親子に間違われてもおかしくないしな」
 ヨハンに子供はいない。パートナーもいない──いた時期もあったが、結局うまくいかなかった。仕事を優先しすぎているとよく言われた。
 同じ世界が見えていたらうまくいっただろうかと十代の顔を思い出すこともあったが──。
 十代とも同じ世界は見えていない、と今は思う。
 風は再び十代のピアスを夕日にきらめかせた。
「早く戻ろうぜ。お前が風邪ひいちまう」
 十代の言葉で、ヨハンは気持ちを切り替える。夕日と冷たい風が少しばかり感傷を引き起こしただけだ。
 ヨハンは想像通りに当たり障りなく十代と過ごした。共に食事や雑談をし、仕事をして、デュエルをして、眠った。そんな日日が続いた。
 十代は逃げ出そうとなどせずに、散歩したりテレビを見たり本を読んだりしていた。医師の診察もおとなしく受けた。頭と顔を覆う包帯は数日で外れたものの、まだ療養は必要らしかった。
 ほとんど文句も言わず過ごした十代が唯一不満をこぼしたのは、この家にはシャワーしかなく湯に浸かれないことだった。彼は風呂が好きで、ヨハンが本校に留学していた頃はデュエルアカデミア内の温泉施設に連れていかれたことがある。初めての温泉は興味深く十代と過ごすのも楽しかったが、一人で再び入りたいとは特に思わなかった。十代はよく温泉にでも行くのだろうか。そう話を振った。
「今は行かないな」
「忙しいか?」
「最近は人がいるところより一人でゆっくりできる方がいい」
「ふうん」
 昔は賑やかで楽しいと言っていた。外見は変わらなくても中身は年相応に賑やかな場所より落ち着いた一人の時間を好むようになったのかと、その時は思った。
 しかしヨハンはその理由を目の当たりにした。最悪な状況で──いや、最悪だと言いたいのは十代の方だろう。風呂場で十代の裸を見てしまったのだ。
 その日、十代は雨に降られて散歩から帰ってきた。濡れ鼠になった十代は風呂場へ直行し、ヨハンはボディソープがなかったことを思い出して納戸から新しいものを出し十代に渡そうとした。その時のヨハンには十代がもう服を脱いでいるかもしれないとか、そんな考えはまったく頭になかった。
「十代、ボディソープがさ」
 そんなことを言いながらバスルームのドアを開け、十代の肌に赤黒い火傷のような痕が広がっていることと──半身に男性らしからぬ丸みがあることを目撃した。
「ああ、サンキュ」
 十代は動けなくなったヨハンの手からひょいとボディソープを取るとシャワーを浴び始めた。ヨハンに裸を──おそらくは秘密にしていたことを見られたことを気に留めた様子はなかった。
 仕事部屋に戻ったヨハンは頭を抱えた。二十年も何も知らなかった。十代にとって、ヨハンはそのような秘密を明かすべき相手ではなかった──。
 当たり前だ、恋人でもあるまいに──ヨハンの胸はずきりと痛む。二十年も前の失恋を未だに引きずっている──いや。
 まだ好きなのか。
 とうに諦めたつもりの恋が、まだ心の底にくすぶっている。
 十代といるとヨハンの心まで「十代」になってしまう気がする。あの頃のようにときめいて、切なくなって、二十年経っても、まだ──。
 いい歳をして、高校時代の恋を未だに捨てきれないなんて。いっそ今からでも告白してしまえば諦めもつくか? きっと十代はこの家に来た日のように「ごめん、ヨハン」と申し訳なさそうに断ることだろう。自分の心の整理をつけるために一方的な想いを告げて十代を苦しめるべきではない。
 十代がシャワーを終えたあとにヨハンは謝罪したが、十代は「気にするなよ」と軽く笑っただけだった。
「ショックじゃないのか?」
 言ってから、ショックを受けたのは自分なのだとヨハンは思う。呪いのように広がる赤黒い痕、人間にあり得ない左右非対称な身体──。何も知らなかったこと、ユベルと心身ともにわかちがたい存在であること──その全てが。
「別に。ヨハンはビビったかもしれないけど」
「ビビったって──そりゃ驚いたさ。……痛くないのか?」
「ちょっとは。……ごめんな、ヨハン。いつも心配かけて」
 十代はやはり申し訳なさそうに言った。
「謝ることじゃ──そもそもオレなんだよ、謝らないといけないのは」
「ヨハンが謝ることもないと思うけど」
「でも──秘密にしたかったことだろ」
 ヨハンが知るべきではないのだ──親密なパートナーでもないのだから。
「別に秘密にしたいほどじゃねーけど。言う必要もないだけで」
「秘密にしないとダメだろ、そんなの誰かに知られたら」
 見世物、人体実験、人身売買──ヨハンの頭には考え得る最悪な事態が次次浮かぶ。
「そりゃ他の誰かならな。ヨハンは絶対に他言なんてしないだろ」
 十代の瞳には微塵の疑いも不安もなかった。
「当たり前だ」
「じゃ、もう気にすんなよ」
 それから二週間ほど経ってから、医師は十代の怪我は治ったとヨハンに言った。あの赤黒い痕が本当に消えたのかヨハンは気になったが、見せてもらうわけにもいかない。医師の診断を信じるしかないだろう。
 十代は素早く少ない荷物をまとめ、その日の夕方に旅立った。
「町まで送ろうか?」
「いや。あっちに通れる場所見つけたから」
 十代が指差したのは人里と真逆、鬱蒼とした森がある方角だ。私有地ではないものの、迷いやすいから立ち入らないようにとヨハンは言われていた。
「もしかして散歩って、異世界の入り口を探してたのか?」
「偶然見つけただけだ」
「そもそもあんな場所まで行って……怪我人のする散歩じゃないぜ」
「中年の運動不足はよくないからな」
 十代は少年の顔でからかうように笑った。
「日本には厄年ってのがあってさ、体調とか崩しやすい年齢なんだって。そろそろだからヨハンも気をつけろよ。見送りなんかいいからさ」
 冷たい風はまた十代の髪を乱し二色のピアスをきらめかせた。
「……わかった。お前も気をつけろよ」
「ああ。世話になった。またな、ヨハン」
 軽い挨拶一つで、十代は風と共に去ってしまう。ヨハンの方へ振り向きもしないまま、十代の姿は見えなくなった。
 ヨハンはすぐ仕事に戻る気が起きず、暖炉の前に座って風で冷えた身体を暖めた。
 ──少しくらい別れを惜しんでくれたらいいのに。
 惜しんでいるのはヨハンばかりのようだった。一ヶ月近く共に過ごしたと思う。知った秘密に戸惑いもしたが、十代と過ごす時間はやはり楽しかった。十代が秘密を知られても態度を変えなかったのはヨハンを友として信頼してくれているからだろう。恋人にはなれなくてもそれだけで充分だ──。
 そんなことは、二十年も前からずっと思っているけれど。
 いつになればこの想いは過去のものになってくれるのだろう。青春を吹き抜けていったつむじ風だと笑って一粒だけ涙を流したあの少女のようにきっぱりと心の整理をつけられる日は?
 若い頃のように熱烈な恋をしているわけではない。表面に炎はなくともいつまでも燃えている──まるで熾火のようだとヨハンは暖炉を見つめながら思った。

2026/02/24
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