【連作】遊城十代が死んだ
【不老不死if】十代が高校生の頃まで記憶喪失になった話(後編)
畏れ多くもデュエルキング武藤遊戯に仲介を頼み海馬社長と連絡を取った。海馬社長はそんなものは病院に問い合わせろとやや怒り気味ではあったものの、十代の過去のカルテは既に集めてあること、記憶操作技術の後遺症は治療できるかもしれないことを教えてくれた。最初から病院に問い合わせれば済むことを回り道してしまったが、何が回り道かさえわからなかったのだから仕方あるまい。
十代の主治医へと問い合わせれば、明日来院するようにと言われた。十代は記憶操作のこと自体を忘れており、それを思い出させるのは危険だろうとユベルが言っていることを伝えると、本人には記憶喪失以外の異常がないか検査をするとごまかすように言われた。
翌朝に十代に病院で検査をしたいことを伝えると、十代はあっさりと承諾した。
病院の診察室で主治医は十代に嘘の検査の説明をした。十代は疑うことはなく検査に向かい、オレは書類を確認してほしいと診察室に残された。
主治医は万丈目さんにもご協力いただきたいのですと言った。治療のためならもちろん協力するつもりだが、十代の頭の中に入るようなものだ──という話はにわかには信じがたかった。
長い説明を受けたが、十代に施された記憶操作は「ユベルの記憶を食べる虫」を十代の頭の中に入れたようなものであり、その虫を取り除く必要があるのだそうだ。バーチャルリアリティーシステムを用いて頭の中を映像として描き出し、その虫を捕まえて取り除く。その取り除く作業は、患者を眠らせている間に他者がやらねばならない。頭の中を映像として描き出す以上、非常にプライベートな情報が出てきてしまう。だから患者と親密な、たとえばふうふや親子やきょうだいの協力が必要である──らしい。
なんとも荒唐無稽な話に聞こえたが、十代自体が闇の力で宇宙を守る覇王だなんて荒唐無稽な存在なのだから今更か。
十代が受ける検査はほとんどオレがその説明を受け準備をするまでの時間稼ぎであるそうだ。安全管理はもちろん最善を尽くすが予期せぬ事故はあるかもしれない、怪我をするかもしれないし最悪の場合は目覚めない、あるいは死亡する場合もあるかもしれないが、そのリスクを理解した──という書類にサインをさせられた。「書類の確認」はオレを診察室に残す口実ではなく事実だったようだ。
十代には脳を調べる検査だと言い機械の中に入れ、オレは隣室の機械から十代の頭の中に入ることになった。実際に入るわけではないのだが。流石はデュエルディスクを開発した海馬コーポレーションだとその機械を見て思った。
仕組みの説明も一通りはされたが、大雑把にはオレも眠ったような状態になり、十代と夢を共有するようなものだそうだ。夢を共有といっても夢の支配者は十代である。十代の機嫌次第でオレに危険が及ぶ可能性もあるが、その夢はオレにしか見えないので外部から手助けすることはできない。しかし心拍数や脳波などに異常があれば即座にその夢を切断するから安全なはずである──らしい。
機械の中でやや緊張しながらその「夢」が始まるのを待った。
「やあ万丈目。本当にキミが来るとはね」
何もない暗闇に突如ユベルが現れた。
「ユベル! これ、もう夢の中なのか?」
「そうだ。まだここは入り口だけどね。こんな場所に他人が来るなんてなあ──これもパンドラの箱だと思うが、人間ってのは探究をやめられないんだろうな」
「まずかったか?」
「今回は仕方ない。医者が虫と言ってたやつはボクじゃどうにもできないし、キミでもなきゃ十代の心の中に入れられない」
案外とユベルに認められている。
「それにしてもキミって、心も見たままなんだね。面白味がないなあ」
ユベルは少しつまらなそうに言った。
「なんだ面白味って」
「すごく大きいとか小さいとか、本来より若いとか年寄りとか? キミは普段と全然変わらない。服がさっきと変わったくらいだ」
服は──「万丈目サンダー」のそれだ。
「それはよくないという意味か?」
「良し悪しは知らないね。キミの自己認識は見たままなんだなというボクの感想だ。まあ、過大評価や過小評価よりはいいんじゃないの」
自己認識が見たまま──か。高校生の頃なら過大評価していただろうか? それとも心の奥底の卑屈さから過小評価していただろうか。
「ところで虫と医者が言ってたやつだが、あれは例えだし本当に虫の姿かはわからない。頑張って探してくれ」
「わかった」
「ボクは虫探しには付き合えない。ボクを消そうとするものだからな。十代がキミを攻撃することはないと思うが──危なそうならここに引き戻すくらいはできる。キミが故意に何かするとは思わないが、キミの言動は十代にも影響するから気をつけてくれ」
じゃあ、頼んだよ。そうユベルが言うと扉が現れた。
うちの玄関ドアだ──これはユベルが作ったものだろうか? 一番見慣れたものを出したのだろう。
それを開けると、中は見知らぬ家の玄関だった。小さな靴が一組置いてあった。廊下には階段と、左右に扉もある。廊下を見た限りでも我が家よりは広そうな作りだ。ここが十代の夢の中なら、ここは彼の実家だろうか?
少しドアの開いた部屋があり、とりあえずそこを覗いた。広いリビングに机と椅子があり、そこに子供が一人座っている。玄関の小さな靴の持ち主であり、この夢の主である遊城十代だ。まだ小学生に上がったばかりくらいだろうか。机に広げた画用紙に絵を描いていた。
「十代」
呼ぶと、少年はびくりとしてオレを見た。怯えている。
「だれ──」
「……忘れたのか。万丈目さんだ」
そう言うと少年はぱちぱちと大きな目を瞬かせ、表情は怯えから平常のものに変わった。
「ああ、なんだ、万丈目か」
それはまるで最近の十代と変わらない抑揚で、しかし声は幼い子供のものだった。どうやら幼い十代に不審者と思われずには済んだようだ。もしかしたらオレのことを「思い出した」のかもしれない。オレは十代の向かいの椅子に座った。
「何を描いてるんだ?」
「何か──ぼんやりしたイメージがある。それを描いてるんだ」
「ぼんやりしたイメージ?」
「ぼんやり──なんだ。はっきりわからない。お前のことがさっきまでわからなかったみたいに。でも、見ると思い出す。だから描いてる」
なるほど、この十代は忘れたことを思い出そうとしている。机にはハネクリボーやE・HEROのフェザーマンやバーストレディが描かれた画用紙があった。どれも子供らしい筆致だ。今はピンクのイルカ──おそらくはC・ドルフィーナを描いているようだ。
「次はお前でも描くか。忘れちゃ困るからな」
ドルフィーナを完成させた十代は、黒い色鉛筆に持ち変えた。幼い顔のまま、でも高校生の頃みたいに笑う。
「お前はやっぱり黒だ。うーん……マジックの方がいいかな」
机には缶のケースに入った色鉛筆しかない。
「ほら十代、マジックだよ」
突然男の声がした。大人の男──しかし顔はのっぺらぼうだ。急に現れた男は机にマジックを置くと、よく描けたねえと言ってモンスターの描かれた画用紙を手に取った。お母さん見てごらん上手だよ、と言いながら男はリビングを出ていった。
父親──なのか。幼い十代に必要なものを買い与えてくれる人としてここに映像化されているのだろう。十代は父親に見向きもせずマジックを取り絵を描き出す。父親を見ないのは、顔を思い出せないからか?
オレとしても十代の父親の顔などもう曖昧だ。葬式で一度会っただけだし、ずいぶん疲れた顔をしていた。顔は見えないが先程の男は若そうな雰囲気だった。なんなら今のオレと変わらないほど──かもしれない。
「今の──」
「できた! 結構うまいだろ」
十代はニコニコ笑ってオレに絵を見せた。デフォルメされた黒で描かれた人間がいて、手にはカードを持ち背景には黄色で稲妻が描かれていた。
「サンダーは黄色より、金色がよかったなあ。万丈目はキラキラしてるから。金色でキラキラして、あ──」
十代は急に悲しそうな顔をした。
「……指輪は? 指輪がない。お前がくれたのに。なくしちゃったら、お前といられない」
結婚指輪のことか。十代は大きな目に涙を溜めて、慌ててポケットや机の下を探し出した。
「指輪はオレが持ってる。検査前に預かっただろ」
事実、十代は検査のために金属類は外すように言われて、指輪はオレが預かったのだ。夢の中の手元にあるかは怪しいものだが──少し内ポケットを探ると、その指輪は出てきた。
「あ──ああ、うん、そうだ。お前が持ってるんだ」
十代は指輪を見るとほっとした顔になり、椅子に座り直した。姿が幼いからか、痛ましいほどの慌てぶりだった。
「はめるか?」
「今は──いい。こんな手じゃなくしちまうし」
「もしなくしたってまた買ってやる。指輪がないから一緒にいないなんてことはしない」
「そんなことはわかってるけどさ、でも墓に新品の指輪入れるのも違うじゃん」
墓の心配をしているのか。
──ん?
あの約束を覚えているのか。てっきり高校生までの記憶しかないのかと思っていた。いや、それならば昨日の十代のように姿に違和感を持たれるか。ユベルはオレを本来より若くも年寄りでもないと言っていたのだから。この十代は大人のオレを記憶している。
ここは夢の中のようなもの──幼い姿でありながら中身は現在の十代なのだろう。ただ、記憶は一部失われて絵にしないと思い出せない──。
十代は、茶色の色鉛筆で再びハネクリボーを描き始めた。
「またハネクリボーを描いてるのか?」
「また?」
「さっきも描いてただろ」
「描いてないよ。だって、お前の絵しかここにはないじゃないか」
机には最新作であるオレを描いた絵しかない。他の絵は──十代の父親らしき姿をした男が持ち去ったのだ。
「あいつが虫か!」
「虫?」
「お前の記憶を奪ってる虫がいる! さっき父親が紙を持っていっただろ、そいつが」
「何言ってんの? 父さんがこんな昼間に家にいるわけないじゃん」
十代はぽかんとしてオレを見返した。十代にはあれが見えないのか?
「ともかく──取り返してくる。これ以上絵を取られないように気をつけろ。忘れたくないなら」
十代は不安そうな顔をして、オレを描いた絵を自分に引き寄せた。
オレはあの男を追い廊下へと出た。しばらく経ってしまったからもう逃げただろうか? 廊下の全てのドアを開けようとしたが、開いたのはバスルームとトイレだけだ。二階へ行っても同様で、一室だけ開いたのは十代の部屋らしい学習机とベッドのある部屋だった。壁に飾られた太陽系のイラストのジグソーパズルは以前話に聞いたものだろう。
この家は、十代の部屋と共用部分であるリビングやバスルームしか入れないようだ。入れる部分に虫はいなかった。
もしや絵を奪う時だけ現れて、奪い次第消えてしまうのか? ならば十代のそばにいた方がいいのか──オレは再びリビングに戻る。
リビングに入るとまた男が十代の画用紙を取ろうとしていた。
「十代! 絵を取られるぞ!」
十代は小さな肩をびくりと跳ねさせ、それから絵を守るように机に突っ伏した。
オレは渡されていた《虫捕りセット》のカードを男にかざした。虫捕り網と空の虫捕り籠の描かれたカードだ。こんなものでどうにかなるのか半信半疑だったのだが──のっぺらぼうの男はカードに吸い込まれて消えた。代わりに、カードの空だった虫捕り籠の中に蛍のような光が追加されている。
「大丈夫か?」
「……たぶん?」
オレのいない間に十代の絵は増えている。一度取られたハネクリボーたちはもちろん、ネオスやフレイム・ウィングマンもある。そして──。
大きな目玉と黒い翼。一部分に過ぎないが、確かに絵にしている。
「これは──」
「ユベル!」
十代は屈託なく笑った。思い出せたのか。
「でも、うまく描けないんだ。大人より大きかった気もするし、家より大きかった気もするし……頭は二つ──三つ──いや一つだったかな……」
記憶が入り雑じってしまっているのだろう。だが、それはどれも正解だとオレが言うのは違う気がした。きっと十代が自分自身で思い出さなければいけない。
「全部描いてみたらいいじゃないか。画用紙はたくさんあるから失敗したっていい」
十代はオレをちょっと見つめて、そうだなと笑った。
オレはまた十代の向かいに座って絵を描く姿を見守る。十代はマジックを持つ手を迷わせながらも、双頭の竜や双頭の間にさらに頭のある竜を描いていく。それから紫の色鉛筆を持って、人と竜の合わさったユベルの姿を描く。
「十代」
女の声がした。のっぺらぼうの、おそらく十代の母親をかたどった女が突如十代の後ろに現れた。
「病院へ行きましょう。大丈夫、少しお医者さんとお話して、検査をするだけだからね。帰りはおもちゃ屋さんに行きましょう。なんでも好きなものを買ってあげるから」
女の声はあくまでもやさしく、十代に害意のあるようには見えなかった。おそらく先程の父親もこの母親も、十代の記憶の一部なのだ。息子のことを想って記憶を消した。その未来に何が起きるのかなど知らずに──いや、そんなものは誰にも予測不能だったのだ。ただの人間に過ぎない彼の両親にも施術をした医者にも。ただ目の前の子供の苦しみを取り去ってやりたかったのだ。
そうしなかった未来はどうなっていたのだろう? ユベルを通じて光の波動に殺されていたか? あるいは不眠から身体を壊してしまったか? あるいはなんとか乗り越えて、今のように半身を取り戻していたかもしれない。そんなものは誰にもわからない。ただその場の最善を尽くそうとしてきたのだ──彼の両親も、十代も、オレも。
オレはのっぺらぼうの母親にカードをかざした。先程と同じようにカードの中に吸い込まれる。
「……何してんの?」
十代が不思議そうに顔を上げた。やはり声も姿も十代には認識できないのだろう。
「虫がいた。ユベルは描けたか?」
「うん、もう少し」
十代は──紫の髪の子供を描いていた。これが──ユベル?
瞬間、目の前にノイズが走る──机と椅子は消えて、世界は暗くなって、声だけが聞こえた。
「またサボりですか」
やや聞き覚えのある少年の声。
「だって飽きちゃった」
そう答えたのは先程の十代と同じ幼い声。
「ユベルみたいに頭よくないもん」
「そういう問題じゃないでしょう、まったく──」
聞き覚えのある声が呆れてため息をついた。
「あんな子供が本当に覇王なのか?」
「さあ──王も何を考えているのやら」
「黒い森をふらついていたらしいじゃないか。どこかの貧乏人の捨て子だろ。あんな豪奢な衣装を着せたところで──」
大人の男たちの笑い声。少しだけ映像が見える。石造りの建物──陰口を言う大人たち──廊下の影に隠れた二人の子供。見慣れた茶色の髪の少年と、彼より少し歳上らしい紫の髪の少年。茶色の髪の少年は短く切り揃えた髪以外はあの幼い十代にそっくりで、男たちの言う通り痩せた身体に似合わない豪奢な装飾品を身につけている。紫の髪の少年の面影と緑の瞳には声と同じようにやや見覚えがある──彼の方は装飾品こそ少ないものの、服の仕立てはよさそうに見えた。額に輝く目と同系色の宝石などとても安物とは思えない。
「ユベル。ボクは大丈夫」
「でも」
「大丈夫──」
なんだこれは。これも十代の記憶? また目の前が真っ暗になる。
「ユベル!」
声変わりした──今の十代に似た、でもまだ幼さの残る声。
「ユベル、ユベル!」
切羽詰まった声と、足音、そして。
「ユベル!」
血の匂い。
ぐいと肩を後ろに引っ張られた。金色の目が逆さにオレを覗き込み視界を奪った。
「こっから先はショッキングな内容が含まれますってやつ」
「十代──」
十代はくるりと宙を回転してオレの前に立つ。久しぶりに見る赤い制服姿──それが、十代の自己認識なのだろうか。
「もっと知りたい? オレのこと。お前なら全てを見たっていい」
再び金色の目が視界を奪う。まるで口づけでも迫るように肩に手を置かれる。
「オレの過去も、起きてるオレさえ自覚しない心も、全部」
金色の瞳が細められる。子供っぽい大きな目が、この金色になるだけで一気に雰囲気を変えるのはなぜだろう。
「オレは虫を回収しに来ただけだ。心を覗き込みたいわけじゃない。お前が話したいなら話は聞く」
金色の目はしばらく黙ってオレを見つめた。
「──オレを知りたいと思わない?」
「一方的に知ることに意味はない」
「ユーワクしがいのないやつだ」
金色の瞳が離れた。
「誘惑なのか?」
「秘されしものを知りたがるのが人間だと思うけど」
「秘されるものには秘されるだけの理由がある。それを暴きたがるほど悪趣味じゃない」
「ふうん。お前は悪魔に魂を売ってくれそうにない」
「もう懲りた」
学生時代に思い知ったのだ。己の力でないものを求めても無意味だと。
「懲りたァ? いつ誰に魂を売ったんだ」
いつ、誰に? オレは──何をした?
「ああ──そうか。お前は自分で求めたのか。よりによって──」
金色の瞳が鋭くオレをにらむ。思い出せない。頭の中がジリジリ焼けつくような気がした。
「出ていってもらおうか」
聞いたことのない低い声。胸ぐらをつかまれて、十代の手が眼前に迫る。目でも潰されるのかと恐ろしいのに目を閉じることができない。目の前が、白く──。
「さあもう大丈夫だぜ!」
明るい声と同時に胸ぐらをつかんでいた手が離され、オレは脱力し膝をついた。十代を見れば、右手に何か持っている。白く光ってよくわからない。
「お前の頭ン中にも虫みたいなもんがいたんだなァ。これでおあいこってことにしようぜ!」
十代は光を握りつぶした。闇が支配するこの場所で、光はかけらの一つも残らなかった。
「今のは……光の結社の時の──?」
立ち上がり膝を払う。この暗闇で膝は汚れないのかもしれないが。
「ああ。もっと早く気づくべきだった。お前が光の結社のリーダーみたいな真似をしてたってことは、それだけ破滅の光の影響が強かったってことだ。あの頃にオレがもっとちゃんとしてたら……」
それも──記憶操作の悪影響の一つか。もし十代が『覇王』として破滅の光に対処していたら、そもそもアカデミアに光の結社など作られなかったかもしれない。だが。
「お前一人でなんでもできるなんて思い上がるな」
金色の瞳がぱちりと瞬く。あの幼い十代とそっくりに。
「……そうだな」
「助けがいるときはちゃんと言え」
「……うん。オレはお前に助けられてばっかりだ」
「はあ? どこがだ」
助けられてばかりなのはオレの方だろう。あの頃からずっと。
「毎日助けられてる。お前がいてくれるだけで」
「そんなもんを勘定するな。肝心なときにちゃんと言えと言ってる」
感情を映し出さないように見えた金色が揺れた。
「オレにできないことがあるのは重重承知だ。でも必要ならオレは」
どんなことでも──。
「悪魔に魂を売るのは懲りたんじゃないのか?」
十代ではない声がさえぎる。悪魔のような翼が広がる。
「そんなことをするつもりはない」
「なんでもするっていうならそういうことだろう? ただの人間のキミが」
どうやって十代を守るんだい──二色の目がオレを試すように見た。
「ユベル」
十代に咎めるように名を呼ばれ、ユベルは肩をすくめた。
「ま、悪魔に魂を売る以外にもいろいろとあるさ」
そう言うとユベルは消えた。
「……あんまり気にしないでくれ」
だが──ユベルの言う通りだろう。ただの人間では。
「オレは充分助けられてる。今だってお前がいたからその──虫? 退治できたろ。ユベルを忘れるってことは覇王であることを忘れるようなものだから、本当に助かった。だから」
オレは大丈夫だよ、と言って十代はオレを抱きしめた。
「ありがとう万丈目。それじゃ……また後でな」
暗闇が、暗闇なのに霞む。
目の前が明るくなった。万丈目さん大丈夫ですかと医師の声がした。
「万丈目さん、ご気分は」
「大丈夫です」
「無事に虫は除去できましたよ。ケントさんの方もしばらくしたら目覚めますから、また診察室の前でお待ちください」
脅すような書類にサインさせられたが、身体に特段異常はないように思う。気になることといえばユベルに言われたことくらいだ。
ただの人間──か。
あの日からずっと頭の隅にあることだった。ユベルはそれを看破したに過ぎない。
悪魔に魂を売る以外にもいろいろとあるさ──。
──助言なのだろうか?
ユベルと呼ばれた少年はただの人間だった。彼はなんらかの方法で現在の力を手にした。彼にできたなら──。
──領分を越えているか。
領分を踏み越えてはならないと、十代と暮らし始めた頃には思っていたのに。
「万丈目」
十代に呼ばれた。目が合うと笑う。
「検査長かったよ。なんか脳? 調べるやつ、長すぎて寝てた」
「そうか。……具合は悪くないか?」
「全然。むしろ寝てすっきりしたかも」
虫がいなくなりよくなったのかもしれない。この十代はその間に治療されたなどと露ほども知らない。
診察室に呼ばれ、主治医から検査結果の説明を受ける。不老不死の十代の身体は健康そのもので、異常はないと言われて診察は終わった。病院のレストランで昼食を食べ帰宅した。
十代はずいぶん疲れたようで、帰って三十分もしないうちに眠ってしまった。昨日と違って慣れたのか、十代はソファで甘えるようにオレに身を寄せて眠った。
握った手の温度も絡められた腕の温度も肩に乗せられた頭の重さも身体に馴染んで、境界線はこうしてゆるんでいく。そうして長く過ごすうちに、守りたいと分不相応な願いまで持つ。
そんな力はどこにもないのに。
オレも眠くなってくる。十代の頭の中を覗くような真似をして疲れたか。ソファの端に引っ掛けていた膝掛けを自分と十代にかぶせ、オレも睡魔に身をまかせた。
夢を見た。
十代と砂浜にいた。それはデュエルアカデミアの浜辺かもしれないし、全然違う場所かもしれない。何故だか妙に懐かしい気持ちがする。十代はあの赤い制服姿で、靴も脱がずに波を踏んで笑っていた。
音は聞こえなかった。潮騒も十代が波を蹴る音もしなかった。十代が口を動かすのに何も聞こえない。
「全然聞こえないぞ」
自分の声だけはしっかり聞こえた。なら十代の声だって聞こえるはずだ。どうして聞こえないのだ。距離か。十代に近づく。波が足にかかる──生ぬるい。
裸足だったのか? 足元を見たのに自分の足は見えない。足だけじゃない。オレには手も身体もない。たぶん頭もない。だから音が聞こえない──いや。
ならばなぜ見える? 今のオレは目玉だけだというのか。脳はどうした。そもそも動けたなら足はあるはずだ。でも砂浜の感触などしただろうか。でも海が生ぬるいと感じるなら──本当にそう感じたか?
オレは──。
「境界線がゆるんでる」
十代の声だった。どこにいるのかよくわからない。
「お前は人間だもんな。オレの心に入れば」
そうそう自分は保てないよ──。
「大丈夫。お前の手を握るから。ほら、手があるだろ」
そう言われた途端に、はっきりと手の感覚がした。手だけではない。足は生ぬるい海に浸かり、十代の顔が間近に見える。
「な?」
「あ──ああ」
十代は笑った。それから思案顔になる。
「あの機械──あんまりよくないな。こんなに簡単に繋がっちまう」
「またお前の頭の中だとでもいうのか?」
「頭というよりは夢の中だ。正確には心の闇の中かもな」
「心の闇って──こんな明るい場所が?」
「命を育むやさしい闇の中って言った方がよかったか?」
「その二つは──同じなのか?」
「同じさ。たとえば海。生命の誕生する母なる海──なんて言うけど、陸上の生物が沈んだら死んじゃうし、海洋生物だって死ぬ場所だ。地球にたとえたっていい。生命のゆりかごであると同時に」
墓場だ。
「そんなことより、せっかくだから遊ぼうぜ」
「遊ぶって──そんなことしてる場合か。夢が繋がるなんてそもそも何があったんだ?」
「たとえるなら、今日のでお前の夢の住所を知っちまったんだ。そんで、お前と遊びたくなったからお前の夢のピンポンを鳴らしちまったってとこ」
子供っぽいたとえだ。
「なら、お前が遊びたくなったら今後もこうなるのか?」
「もう起きないよ。今日は油断してただけ。お前が今後も遊びたいんなら……いや、やめた方がいいか。お前がオレに溶けちまったら嫌だし」
さっき溶けかけてたもんなあと十代は笑った。
「境界線が──なくなるのか」
「少しゆるんだだけ。でも、もしお前が強く望めば」
本当に溶けちまうかもな。
「精霊にもたまにいる。深く傷ついたやつなんか──もうここに溶けてしまいたいって。もちろんその魂が癒えてほしいけど、ごくまれには」
溶ける者もいる──のか。
「最初のうちはなんとなくわかるけど、今はもうわからない。この海のひとしずくかもしれないし、砂浜の一粒かもしれない。あるいはもっと広範に、全体に溶け込んでしまったのか……もしかしたら」
それを消滅というのかもしれないな──と十代は寂しそうに言った。
「たまにお前の魂がほしくなっちゃうけど、器のない人間の魂は精霊より脆い。だから」
十代の目から涙がこぼれた。
「十代。お前が望むならオレは」
続きが言えなかった。声が出ない。十代が微笑む。
「……こんな場所でそんなことは言うもんじゃない。ごめんな、なんでこんな話してんだろ。ここは──不安や願望が出やすい。でも本気でそう思ってるわけじゃない。感情のゆらぎっていうのか──お前もあるだろ?」
ごまかすように笑う十代を抱きしめる。
「十代」
声は──出る。
「夢の中でくらい不安でも願望でも言え」
十代は頭を横に振る。
「……言ったらダメなんだよ」
夢の中でさえも本当のことを言ってくれない。あるいは夢が繋がったなんてのはオレの妄想にすぎず、オレは十代の本音を知らないから十代は何も語らないのか。
「でも、ありがとう万丈目」
十代はオレを抱きしめ返す。
「目が覚めるまで、もう少し抱きしめてて」
もう目覚めてしまうのか。十代の悲しみに何もしてやれないまま。
「十代」
お前が望むならなんだってしてやる。そんなことはやはり声にはできなかった。それは──オレに意気地がないからできないのか? 全てオレの妄想なのか。十代がオレの言葉を拒否しているのか。オレは。
オレはそんなに頼りないかよ。
目が覚めた。室内は薄暗くなっている。十代は──いない。
廊下に出ると十代の部屋のドアが少し開いていた。
「十代」
中を見れば、十代はちゃぶ台の上のパソコンを見ている。
「お、万丈目おはよう。世話かけたな」
記憶が戻ったのか──。もう、十代の目にはいつもの落ち着いた色がある。
「大丈夫なのか?」
「元気。記憶なくしてた間の記憶ないからユベルにざっと聞いただけだけど、いろいろやってくれたんだってな。ありがとう」
「いや」
十代はノートパソコンの画面を閉じて立ち上がる。
「オレよりお前の方が顔色悪くね? 別に熱とかなさそうだけど」
十代はオレの額に触れた。そういえば記憶のない間は十代はこんな風には触らなかったか。忘れかけているが、一緒に暮らす前だってきっとそうだったのだ。以前に引いていた境界線はどんどんと近づいて、ゆるんで、皮膚一枚くらいしか隔てるものがない。
抱きしめる。なんだぁ寂しかったかあ? と十代はオレの背を叩いた。
「夢を──見なかったか」
「夢? さあ──」
十代の声音は本当にわかっていなさそうだった。
「怖い夢でも見たか?」
「いいや。ただ」
自分が情けなくなる夢だ。
「海の夢だった」
海かぁ海はいいよなぁと十代は頷く。
「今度海行くか?」
「海水浴の時期でもないのにか?」
「別に見るだけでもいいだろ。花見があんだから海見だ」
結局、翌日も休みだったから海に行った。時期外れの海には誰もいなかった。
ファラオも連れていき、ファラオは捕食動物らしく浜辺のカニを器用に見つけては追いかけ回した。はしゃぐ猫の足跡と、その猫を追いかける少年の足跡が砂浜に残った。少し遅れて三十路前の男の足跡も。
十代は楽しそうに笑っていた。
──遊びたかったのか。
昨日の夢を思い出す。境界に踏み込もうとせず、ただ遊んでやればよかったのかもしれない。
あいつの抱える寂しさに目をつぶって?
無駄な反省だろう。夢は夢に過ぎない。夢が繋がっただなんてことは、いくらなんでもない。ないと──思う。
でも、波打ち際に遊ぶ姿はあまりに夢に似ていた。
「万丈目もこっち来いよ」
「濡れるのはごめんだ」
「冷てェよな。しぶきでも冷てェ」
海は──冷たいか。当たり前だ。真夏でもあるまいに。十代は波から離れてオレに近づいてくる。片手にいつの間にやら拾った木の棒を持って、まるで子供だ。
「昨日は高校生の頃より大人になったと思ったんだが」
「そりゃあオレは永遠に十代だぜ」
十代どころか小学生っぽい。永遠に生きるにあたって童心は必要なのかもしれないが。
「たぶんそこカニいる」
棒でオレの足元を差す。よく見れば小さな穴がある。十代は棒を半分に折ってオレに渡した。
「出てこねーな」
棒で砂浜を適当に掘り返してもカニは出てこなかった。大人二人で砂浜を掘る様は端から見たら滑稽だろう。人目がないのが幸いだ。
「ファラオはすぐ見つけてたのに」
「あいつは動物だからな」
そういえばあの夢の砂浜にカニはいたのだろうか。生ぬるい海に、魚や何かの生き物は。なんとなくいないような気がした。きっとあの海にひとり──。
「竜宮城見たことある?」
カニ探しに飽きた十代は砂浜に絵を描いた。簡素な家の絵に見えるが、竜宮城のつもりだろうか。
「ない」
「前にそれっぽいの見た。中には入れてもらえなかったけど。カニの門番が厳しいんだ。怖ェ顔して」
カニなのか。カメじゃなくて。十代は胴体に顔がある奇妙なカニを描いた。
「不審者をそうそうに入れないだろうな」
「怪しいもんじゃないとは言ったんだぜ。でもゲンジノヨノマツエーは入るなとかって」
「源──」
背筋に冷たいものが走った気がした。
「結構でかい街っぽかったけど。綺麗に整列して案外和風っぽい建物が並んで……アトランティスかと思ったけど、誰かの都だって……誰だったかな」
「安徳天皇」
「あ、それ」
どうやら黄泉の都の入り口に行ってしまったらしいが、そのことに気づいていないようだ。恐怖というのは教養がなければ感じないのだときょとんとした間抜け面を見て思う。
「前も話したんだっけ?」
「いや、聞いてない」
「じゃ、なんで誰の都かわかったんだ?」
「お前よくアカデミアを卒業できたな……」
ため息をついて説明してやる。
「檀ノ浦戦いくらいわかるな?」
「源平の最後の戦いだっけ」
「ついに平氏が負けるとなって、二位の尼が安徳天皇を抱えて入水するんだ。安徳天皇はまだ八歳──数えだから現在でいうならまだ六歳だな。二位の尼にどこへゆくのか尋ねて」
波の下にも都はございます──。
「カニは平家蟹だろうな。檀ノ浦で死んだ平氏の亡霊がカニに乗り移ったから甲羅が恐ろしい顔なのだという伝説がある」
「平氏の亡霊……だから源氏の世の末裔は入るな──か。ありゃ死者の都だったってことか?」
ようやく理解したらしい。
「波の下の──死者の都か」
十代は水平線を見つめた。あの夢の中の海にも波の下の都はあるだろうか。溶けてしまったという精霊の魂の行き先が。
「……次に見つけても絶対入るなよ」
「確かに入らねー方がよさそうだ。竜宮城じゃなかったんだな」
「いや竜宮城だぞ」
「竜宮城は乙姫様だろ?」
「それも竜宮城だ。『平家物語』には、安徳天皇の母親が夢で立派な御殿に亡くなった息子や平家の者たちがいるのを見て、ここはどこですかと問うと竜宮城だと言われたたという話がある」
「竜宮城って二つあんの?」
「二つどころかいろんな伝承や物語に出てくる」
「へえ。万丈目ってやっぱ頭いいな」
「平家蟹や波の下の都あたりは一般教養だ」
「あれなら知ってるぜ、ほら、船の上に立てられた扇をさ」
十代は立ち上がって海に向かって弓を引く真似をする。それから棒を海に投げた。へろへろと飛んだ棒は、浅い波の上に落ちて再び浜辺へ打ち上げられた。
「那須与一にゃなれねえな」
なんで安徳天皇はわからなくて那須与一はわかるんだと言ったら、たぶん授業で聞いたと言う。そういえば、学校で読んだ『平家物語』はほんの一部分に過ぎなかったか。
オレも海に棒を投げた。オレも十代と似たような結果になり、那須与一にはなれそうもなかった。
浜辺を満喫したファラオは足を砂だらけにして、いつの間にか腹まで海水に濡らしてしまっていた。帰宅してから嫌がるファラオを風呂に入れて、ファラオにシャワーヘッドを蹴られてオレは頭から水浸しになって、十代はげらげらと笑って、笑われたから十代の頭にシャワーのお湯をかぶらせて──。
くだらない、愛おしき日日。
失われる日が来るとしても、それは遠いのだと漠然と思っていた。
「与一、鏑を取ってつがい、よっ引いてひょうと放つ──」
『平家物語』の一文を読み上げ、あの日弓を引く真似をした十代の姿を思い出す。ファラオを追って元気に走り回っていた身体は、今はベッドに横たわるばかりでぴくりとも動かない。ころころと表情の変わった顔も、両の目蓋は固く閉じられ動かないまま。かすかに上下する胸だけが、それが人形ではなく生きた人間だと教えてくれる。
通常の人間が意識を失ったのとほほ同じ状態で、精霊が魂に呼びかけても応えはない。かつて頭の中を覗いた機械も反応しなかった。
耳は聞こえていると思いますから、何か話しかけてみてはどうでしょうか。
そう医師に言われて最初は何かしら話しかけていたが、話すネタも尽きて本を読み上げ続けている。少しでも十代が反応するようにと、以前話したことのある本や、知り合いの著書を読んでいる。なんの反応もないまま一年近く経とうとしている。
「浪の下にも都の候うぞ──」
十代の魂はあの生ぬるい海の底にでも沈んでしまったのだろうか。命を育むやさしい闇。生まれた命は育まれ、やがて朽ちていく。
諸行無常というならこの状態もいずれは変わるだろう。それが今日なのか明日なのか、一年後か十年後か百年後か千年後か──。
本を閉じる。動かない目蓋を見つめる。空調の動作音が潮騒のように鳴り続けていた。
2026/01/25
畏れ多くもデュエルキング武藤遊戯に仲介を頼み海馬社長と連絡を取った。海馬社長はそんなものは病院に問い合わせろとやや怒り気味ではあったものの、十代の過去のカルテは既に集めてあること、記憶操作技術の後遺症は治療できるかもしれないことを教えてくれた。最初から病院に問い合わせれば済むことを回り道してしまったが、何が回り道かさえわからなかったのだから仕方あるまい。
十代の主治医へと問い合わせれば、明日来院するようにと言われた。十代は記憶操作のこと自体を忘れており、それを思い出させるのは危険だろうとユベルが言っていることを伝えると、本人には記憶喪失以外の異常がないか検査をするとごまかすように言われた。
翌朝に十代に病院で検査をしたいことを伝えると、十代はあっさりと承諾した。
病院の診察室で主治医は十代に嘘の検査の説明をした。十代は疑うことはなく検査に向かい、オレは書類を確認してほしいと診察室に残された。
主治医は万丈目さんにもご協力いただきたいのですと言った。治療のためならもちろん協力するつもりだが、十代の頭の中に入るようなものだ──という話はにわかには信じがたかった。
長い説明を受けたが、十代に施された記憶操作は「ユベルの記憶を食べる虫」を十代の頭の中に入れたようなものであり、その虫を取り除く必要があるのだそうだ。バーチャルリアリティーシステムを用いて頭の中を映像として描き出し、その虫を捕まえて取り除く。その取り除く作業は、患者を眠らせている間に他者がやらねばならない。頭の中を映像として描き出す以上、非常にプライベートな情報が出てきてしまう。だから患者と親密な、たとえばふうふや親子やきょうだいの協力が必要である──らしい。
なんとも荒唐無稽な話に聞こえたが、十代自体が闇の力で宇宙を守る覇王だなんて荒唐無稽な存在なのだから今更か。
十代が受ける検査はほとんどオレがその説明を受け準備をするまでの時間稼ぎであるそうだ。安全管理はもちろん最善を尽くすが予期せぬ事故はあるかもしれない、怪我をするかもしれないし最悪の場合は目覚めない、あるいは死亡する場合もあるかもしれないが、そのリスクを理解した──という書類にサインをさせられた。「書類の確認」はオレを診察室に残す口実ではなく事実だったようだ。
十代には脳を調べる検査だと言い機械の中に入れ、オレは隣室の機械から十代の頭の中に入ることになった。実際に入るわけではないのだが。流石はデュエルディスクを開発した海馬コーポレーションだとその機械を見て思った。
仕組みの説明も一通りはされたが、大雑把にはオレも眠ったような状態になり、十代と夢を共有するようなものだそうだ。夢を共有といっても夢の支配者は十代である。十代の機嫌次第でオレに危険が及ぶ可能性もあるが、その夢はオレにしか見えないので外部から手助けすることはできない。しかし心拍数や脳波などに異常があれば即座にその夢を切断するから安全なはずである──らしい。
機械の中でやや緊張しながらその「夢」が始まるのを待った。
「やあ万丈目。本当にキミが来るとはね」
何もない暗闇に突如ユベルが現れた。
「ユベル! これ、もう夢の中なのか?」
「そうだ。まだここは入り口だけどね。こんな場所に他人が来るなんてなあ──これもパンドラの箱だと思うが、人間ってのは探究をやめられないんだろうな」
「まずかったか?」
「今回は仕方ない。医者が虫と言ってたやつはボクじゃどうにもできないし、キミでもなきゃ十代の心の中に入れられない」
案外とユベルに認められている。
「それにしてもキミって、心も見たままなんだね。面白味がないなあ」
ユベルは少しつまらなそうに言った。
「なんだ面白味って」
「すごく大きいとか小さいとか、本来より若いとか年寄りとか? キミは普段と全然変わらない。服がさっきと変わったくらいだ」
服は──「万丈目サンダー」のそれだ。
「それはよくないという意味か?」
「良し悪しは知らないね。キミの自己認識は見たままなんだなというボクの感想だ。まあ、過大評価や過小評価よりはいいんじゃないの」
自己認識が見たまま──か。高校生の頃なら過大評価していただろうか? それとも心の奥底の卑屈さから過小評価していただろうか。
「ところで虫と医者が言ってたやつだが、あれは例えだし本当に虫の姿かはわからない。頑張って探してくれ」
「わかった」
「ボクは虫探しには付き合えない。ボクを消そうとするものだからな。十代がキミを攻撃することはないと思うが──危なそうならここに引き戻すくらいはできる。キミが故意に何かするとは思わないが、キミの言動は十代にも影響するから気をつけてくれ」
じゃあ、頼んだよ。そうユベルが言うと扉が現れた。
うちの玄関ドアだ──これはユベルが作ったものだろうか? 一番見慣れたものを出したのだろう。
それを開けると、中は見知らぬ家の玄関だった。小さな靴が一組置いてあった。廊下には階段と、左右に扉もある。廊下を見た限りでも我が家よりは広そうな作りだ。ここが十代の夢の中なら、ここは彼の実家だろうか?
少しドアの開いた部屋があり、とりあえずそこを覗いた。広いリビングに机と椅子があり、そこに子供が一人座っている。玄関の小さな靴の持ち主であり、この夢の主である遊城十代だ。まだ小学生に上がったばかりくらいだろうか。机に広げた画用紙に絵を描いていた。
「十代」
呼ぶと、少年はびくりとしてオレを見た。怯えている。
「だれ──」
「……忘れたのか。万丈目さんだ」
そう言うと少年はぱちぱちと大きな目を瞬かせ、表情は怯えから平常のものに変わった。
「ああ、なんだ、万丈目か」
それはまるで最近の十代と変わらない抑揚で、しかし声は幼い子供のものだった。どうやら幼い十代に不審者と思われずには済んだようだ。もしかしたらオレのことを「思い出した」のかもしれない。オレは十代の向かいの椅子に座った。
「何を描いてるんだ?」
「何か──ぼんやりしたイメージがある。それを描いてるんだ」
「ぼんやりしたイメージ?」
「ぼんやり──なんだ。はっきりわからない。お前のことがさっきまでわからなかったみたいに。でも、見ると思い出す。だから描いてる」
なるほど、この十代は忘れたことを思い出そうとしている。机にはハネクリボーやE・HEROのフェザーマンやバーストレディが描かれた画用紙があった。どれも子供らしい筆致だ。今はピンクのイルカ──おそらくはC・ドルフィーナを描いているようだ。
「次はお前でも描くか。忘れちゃ困るからな」
ドルフィーナを完成させた十代は、黒い色鉛筆に持ち変えた。幼い顔のまま、でも高校生の頃みたいに笑う。
「お前はやっぱり黒だ。うーん……マジックの方がいいかな」
机には缶のケースに入った色鉛筆しかない。
「ほら十代、マジックだよ」
突然男の声がした。大人の男──しかし顔はのっぺらぼうだ。急に現れた男は机にマジックを置くと、よく描けたねえと言ってモンスターの描かれた画用紙を手に取った。お母さん見てごらん上手だよ、と言いながら男はリビングを出ていった。
父親──なのか。幼い十代に必要なものを買い与えてくれる人としてここに映像化されているのだろう。十代は父親に見向きもせずマジックを取り絵を描き出す。父親を見ないのは、顔を思い出せないからか?
オレとしても十代の父親の顔などもう曖昧だ。葬式で一度会っただけだし、ずいぶん疲れた顔をしていた。顔は見えないが先程の男は若そうな雰囲気だった。なんなら今のオレと変わらないほど──かもしれない。
「今の──」
「できた! 結構うまいだろ」
十代はニコニコ笑ってオレに絵を見せた。デフォルメされた黒で描かれた人間がいて、手にはカードを持ち背景には黄色で稲妻が描かれていた。
「サンダーは黄色より、金色がよかったなあ。万丈目はキラキラしてるから。金色でキラキラして、あ──」
十代は急に悲しそうな顔をした。
「……指輪は? 指輪がない。お前がくれたのに。なくしちゃったら、お前といられない」
結婚指輪のことか。十代は大きな目に涙を溜めて、慌ててポケットや机の下を探し出した。
「指輪はオレが持ってる。検査前に預かっただろ」
事実、十代は検査のために金属類は外すように言われて、指輪はオレが預かったのだ。夢の中の手元にあるかは怪しいものだが──少し内ポケットを探ると、その指輪は出てきた。
「あ──ああ、うん、そうだ。お前が持ってるんだ」
十代は指輪を見るとほっとした顔になり、椅子に座り直した。姿が幼いからか、痛ましいほどの慌てぶりだった。
「はめるか?」
「今は──いい。こんな手じゃなくしちまうし」
「もしなくしたってまた買ってやる。指輪がないから一緒にいないなんてことはしない」
「そんなことはわかってるけどさ、でも墓に新品の指輪入れるのも違うじゃん」
墓の心配をしているのか。
──ん?
あの約束を覚えているのか。てっきり高校生までの記憶しかないのかと思っていた。いや、それならば昨日の十代のように姿に違和感を持たれるか。ユベルはオレを本来より若くも年寄りでもないと言っていたのだから。この十代は大人のオレを記憶している。
ここは夢の中のようなもの──幼い姿でありながら中身は現在の十代なのだろう。ただ、記憶は一部失われて絵にしないと思い出せない──。
十代は、茶色の色鉛筆で再びハネクリボーを描き始めた。
「またハネクリボーを描いてるのか?」
「また?」
「さっきも描いてただろ」
「描いてないよ。だって、お前の絵しかここにはないじゃないか」
机には最新作であるオレを描いた絵しかない。他の絵は──十代の父親らしき姿をした男が持ち去ったのだ。
「あいつが虫か!」
「虫?」
「お前の記憶を奪ってる虫がいる! さっき父親が紙を持っていっただろ、そいつが」
「何言ってんの? 父さんがこんな昼間に家にいるわけないじゃん」
十代はぽかんとしてオレを見返した。十代にはあれが見えないのか?
「ともかく──取り返してくる。これ以上絵を取られないように気をつけろ。忘れたくないなら」
十代は不安そうな顔をして、オレを描いた絵を自分に引き寄せた。
オレはあの男を追い廊下へと出た。しばらく経ってしまったからもう逃げただろうか? 廊下の全てのドアを開けようとしたが、開いたのはバスルームとトイレだけだ。二階へ行っても同様で、一室だけ開いたのは十代の部屋らしい学習机とベッドのある部屋だった。壁に飾られた太陽系のイラストのジグソーパズルは以前話に聞いたものだろう。
この家は、十代の部屋と共用部分であるリビングやバスルームしか入れないようだ。入れる部分に虫はいなかった。
もしや絵を奪う時だけ現れて、奪い次第消えてしまうのか? ならば十代のそばにいた方がいいのか──オレは再びリビングに戻る。
リビングに入るとまた男が十代の画用紙を取ろうとしていた。
「十代! 絵を取られるぞ!」
十代は小さな肩をびくりと跳ねさせ、それから絵を守るように机に突っ伏した。
オレは渡されていた《虫捕りセット》のカードを男にかざした。虫捕り網と空の虫捕り籠の描かれたカードだ。こんなものでどうにかなるのか半信半疑だったのだが──のっぺらぼうの男はカードに吸い込まれて消えた。代わりに、カードの空だった虫捕り籠の中に蛍のような光が追加されている。
「大丈夫か?」
「……たぶん?」
オレのいない間に十代の絵は増えている。一度取られたハネクリボーたちはもちろん、ネオスやフレイム・ウィングマンもある。そして──。
大きな目玉と黒い翼。一部分に過ぎないが、確かに絵にしている。
「これは──」
「ユベル!」
十代は屈託なく笑った。思い出せたのか。
「でも、うまく描けないんだ。大人より大きかった気もするし、家より大きかった気もするし……頭は二つ──三つ──いや一つだったかな……」
記憶が入り雑じってしまっているのだろう。だが、それはどれも正解だとオレが言うのは違う気がした。きっと十代が自分自身で思い出さなければいけない。
「全部描いてみたらいいじゃないか。画用紙はたくさんあるから失敗したっていい」
十代はオレをちょっと見つめて、そうだなと笑った。
オレはまた十代の向かいに座って絵を描く姿を見守る。十代はマジックを持つ手を迷わせながらも、双頭の竜や双頭の間にさらに頭のある竜を描いていく。それから紫の色鉛筆を持って、人と竜の合わさったユベルの姿を描く。
「十代」
女の声がした。のっぺらぼうの、おそらく十代の母親をかたどった女が突如十代の後ろに現れた。
「病院へ行きましょう。大丈夫、少しお医者さんとお話して、検査をするだけだからね。帰りはおもちゃ屋さんに行きましょう。なんでも好きなものを買ってあげるから」
女の声はあくまでもやさしく、十代に害意のあるようには見えなかった。おそらく先程の父親もこの母親も、十代の記憶の一部なのだ。息子のことを想って記憶を消した。その未来に何が起きるのかなど知らずに──いや、そんなものは誰にも予測不能だったのだ。ただの人間に過ぎない彼の両親にも施術をした医者にも。ただ目の前の子供の苦しみを取り去ってやりたかったのだ。
そうしなかった未来はどうなっていたのだろう? ユベルを通じて光の波動に殺されていたか? あるいは不眠から身体を壊してしまったか? あるいはなんとか乗り越えて、今のように半身を取り戻していたかもしれない。そんなものは誰にもわからない。ただその場の最善を尽くそうとしてきたのだ──彼の両親も、十代も、オレも。
オレはのっぺらぼうの母親にカードをかざした。先程と同じようにカードの中に吸い込まれる。
「……何してんの?」
十代が不思議そうに顔を上げた。やはり声も姿も十代には認識できないのだろう。
「虫がいた。ユベルは描けたか?」
「うん、もう少し」
十代は──紫の髪の子供を描いていた。これが──ユベル?
瞬間、目の前にノイズが走る──机と椅子は消えて、世界は暗くなって、声だけが聞こえた。
「またサボりですか」
やや聞き覚えのある少年の声。
「だって飽きちゃった」
そう答えたのは先程の十代と同じ幼い声。
「ユベルみたいに頭よくないもん」
「そういう問題じゃないでしょう、まったく──」
聞き覚えのある声が呆れてため息をついた。
「あんな子供が本当に覇王なのか?」
「さあ──王も何を考えているのやら」
「黒い森をふらついていたらしいじゃないか。どこかの貧乏人の捨て子だろ。あんな豪奢な衣装を着せたところで──」
大人の男たちの笑い声。少しだけ映像が見える。石造りの建物──陰口を言う大人たち──廊下の影に隠れた二人の子供。見慣れた茶色の髪の少年と、彼より少し歳上らしい紫の髪の少年。茶色の髪の少年は短く切り揃えた髪以外はあの幼い十代にそっくりで、男たちの言う通り痩せた身体に似合わない豪奢な装飾品を身につけている。紫の髪の少年の面影と緑の瞳には声と同じようにやや見覚えがある──彼の方は装飾品こそ少ないものの、服の仕立てはよさそうに見えた。額に輝く目と同系色の宝石などとても安物とは思えない。
「ユベル。ボクは大丈夫」
「でも」
「大丈夫──」
なんだこれは。これも十代の記憶? また目の前が真っ暗になる。
「ユベル!」
声変わりした──今の十代に似た、でもまだ幼さの残る声。
「ユベル、ユベル!」
切羽詰まった声と、足音、そして。
「ユベル!」
血の匂い。
ぐいと肩を後ろに引っ張られた。金色の目が逆さにオレを覗き込み視界を奪った。
「こっから先はショッキングな内容が含まれますってやつ」
「十代──」
十代はくるりと宙を回転してオレの前に立つ。久しぶりに見る赤い制服姿──それが、十代の自己認識なのだろうか。
「もっと知りたい? オレのこと。お前なら全てを見たっていい」
再び金色の目が視界を奪う。まるで口づけでも迫るように肩に手を置かれる。
「オレの過去も、起きてるオレさえ自覚しない心も、全部」
金色の瞳が細められる。子供っぽい大きな目が、この金色になるだけで一気に雰囲気を変えるのはなぜだろう。
「オレは虫を回収しに来ただけだ。心を覗き込みたいわけじゃない。お前が話したいなら話は聞く」
金色の目はしばらく黙ってオレを見つめた。
「──オレを知りたいと思わない?」
「一方的に知ることに意味はない」
「ユーワクしがいのないやつだ」
金色の瞳が離れた。
「誘惑なのか?」
「秘されしものを知りたがるのが人間だと思うけど」
「秘されるものには秘されるだけの理由がある。それを暴きたがるほど悪趣味じゃない」
「ふうん。お前は悪魔に魂を売ってくれそうにない」
「もう懲りた」
学生時代に思い知ったのだ。己の力でないものを求めても無意味だと。
「懲りたァ? いつ誰に魂を売ったんだ」
いつ、誰に? オレは──何をした?
「ああ──そうか。お前は自分で求めたのか。よりによって──」
金色の瞳が鋭くオレをにらむ。思い出せない。頭の中がジリジリ焼けつくような気がした。
「出ていってもらおうか」
聞いたことのない低い声。胸ぐらをつかまれて、十代の手が眼前に迫る。目でも潰されるのかと恐ろしいのに目を閉じることができない。目の前が、白く──。
「さあもう大丈夫だぜ!」
明るい声と同時に胸ぐらをつかんでいた手が離され、オレは脱力し膝をついた。十代を見れば、右手に何か持っている。白く光ってよくわからない。
「お前の頭ン中にも虫みたいなもんがいたんだなァ。これでおあいこってことにしようぜ!」
十代は光を握りつぶした。闇が支配するこの場所で、光はかけらの一つも残らなかった。
「今のは……光の結社の時の──?」
立ち上がり膝を払う。この暗闇で膝は汚れないのかもしれないが。
「ああ。もっと早く気づくべきだった。お前が光の結社のリーダーみたいな真似をしてたってことは、それだけ破滅の光の影響が強かったってことだ。あの頃にオレがもっとちゃんとしてたら……」
それも──記憶操作の悪影響の一つか。もし十代が『覇王』として破滅の光に対処していたら、そもそもアカデミアに光の結社など作られなかったかもしれない。だが。
「お前一人でなんでもできるなんて思い上がるな」
金色の瞳がぱちりと瞬く。あの幼い十代とそっくりに。
「……そうだな」
「助けがいるときはちゃんと言え」
「……うん。オレはお前に助けられてばっかりだ」
「はあ? どこがだ」
助けられてばかりなのはオレの方だろう。あの頃からずっと。
「毎日助けられてる。お前がいてくれるだけで」
「そんなもんを勘定するな。肝心なときにちゃんと言えと言ってる」
感情を映し出さないように見えた金色が揺れた。
「オレにできないことがあるのは重重承知だ。でも必要ならオレは」
どんなことでも──。
「悪魔に魂を売るのは懲りたんじゃないのか?」
十代ではない声がさえぎる。悪魔のような翼が広がる。
「そんなことをするつもりはない」
「なんでもするっていうならそういうことだろう? ただの人間のキミが」
どうやって十代を守るんだい──二色の目がオレを試すように見た。
「ユベル」
十代に咎めるように名を呼ばれ、ユベルは肩をすくめた。
「ま、悪魔に魂を売る以外にもいろいろとあるさ」
そう言うとユベルは消えた。
「……あんまり気にしないでくれ」
だが──ユベルの言う通りだろう。ただの人間では。
「オレは充分助けられてる。今だってお前がいたからその──虫? 退治できたろ。ユベルを忘れるってことは覇王であることを忘れるようなものだから、本当に助かった。だから」
オレは大丈夫だよ、と言って十代はオレを抱きしめた。
「ありがとう万丈目。それじゃ……また後でな」
暗闇が、暗闇なのに霞む。
目の前が明るくなった。万丈目さん大丈夫ですかと医師の声がした。
「万丈目さん、ご気分は」
「大丈夫です」
「無事に虫は除去できましたよ。ケントさんの方もしばらくしたら目覚めますから、また診察室の前でお待ちください」
脅すような書類にサインさせられたが、身体に特段異常はないように思う。気になることといえばユベルに言われたことくらいだ。
ただの人間──か。
あの日からずっと頭の隅にあることだった。ユベルはそれを看破したに過ぎない。
悪魔に魂を売る以外にもいろいろとあるさ──。
──助言なのだろうか?
ユベルと呼ばれた少年はただの人間だった。彼はなんらかの方法で現在の力を手にした。彼にできたなら──。
──領分を越えているか。
領分を踏み越えてはならないと、十代と暮らし始めた頃には思っていたのに。
「万丈目」
十代に呼ばれた。目が合うと笑う。
「検査長かったよ。なんか脳? 調べるやつ、長すぎて寝てた」
「そうか。……具合は悪くないか?」
「全然。むしろ寝てすっきりしたかも」
虫がいなくなりよくなったのかもしれない。この十代はその間に治療されたなどと露ほども知らない。
診察室に呼ばれ、主治医から検査結果の説明を受ける。不老不死の十代の身体は健康そのもので、異常はないと言われて診察は終わった。病院のレストランで昼食を食べ帰宅した。
十代はずいぶん疲れたようで、帰って三十分もしないうちに眠ってしまった。昨日と違って慣れたのか、十代はソファで甘えるようにオレに身を寄せて眠った。
握った手の温度も絡められた腕の温度も肩に乗せられた頭の重さも身体に馴染んで、境界線はこうしてゆるんでいく。そうして長く過ごすうちに、守りたいと分不相応な願いまで持つ。
そんな力はどこにもないのに。
オレも眠くなってくる。十代の頭の中を覗くような真似をして疲れたか。ソファの端に引っ掛けていた膝掛けを自分と十代にかぶせ、オレも睡魔に身をまかせた。
夢を見た。
十代と砂浜にいた。それはデュエルアカデミアの浜辺かもしれないし、全然違う場所かもしれない。何故だか妙に懐かしい気持ちがする。十代はあの赤い制服姿で、靴も脱がずに波を踏んで笑っていた。
音は聞こえなかった。潮騒も十代が波を蹴る音もしなかった。十代が口を動かすのに何も聞こえない。
「全然聞こえないぞ」
自分の声だけはしっかり聞こえた。なら十代の声だって聞こえるはずだ。どうして聞こえないのだ。距離か。十代に近づく。波が足にかかる──生ぬるい。
裸足だったのか? 足元を見たのに自分の足は見えない。足だけじゃない。オレには手も身体もない。たぶん頭もない。だから音が聞こえない──いや。
ならばなぜ見える? 今のオレは目玉だけだというのか。脳はどうした。そもそも動けたなら足はあるはずだ。でも砂浜の感触などしただろうか。でも海が生ぬるいと感じるなら──本当にそう感じたか?
オレは──。
「境界線がゆるんでる」
十代の声だった。どこにいるのかよくわからない。
「お前は人間だもんな。オレの心に入れば」
そうそう自分は保てないよ──。
「大丈夫。お前の手を握るから。ほら、手があるだろ」
そう言われた途端に、はっきりと手の感覚がした。手だけではない。足は生ぬるい海に浸かり、十代の顔が間近に見える。
「な?」
「あ──ああ」
十代は笑った。それから思案顔になる。
「あの機械──あんまりよくないな。こんなに簡単に繋がっちまう」
「またお前の頭の中だとでもいうのか?」
「頭というよりは夢の中だ。正確には心の闇の中かもな」
「心の闇って──こんな明るい場所が?」
「命を育むやさしい闇の中って言った方がよかったか?」
「その二つは──同じなのか?」
「同じさ。たとえば海。生命の誕生する母なる海──なんて言うけど、陸上の生物が沈んだら死んじゃうし、海洋生物だって死ぬ場所だ。地球にたとえたっていい。生命のゆりかごであると同時に」
墓場だ。
「そんなことより、せっかくだから遊ぼうぜ」
「遊ぶって──そんなことしてる場合か。夢が繋がるなんてそもそも何があったんだ?」
「たとえるなら、今日のでお前の夢の住所を知っちまったんだ。そんで、お前と遊びたくなったからお前の夢のピンポンを鳴らしちまったってとこ」
子供っぽいたとえだ。
「なら、お前が遊びたくなったら今後もこうなるのか?」
「もう起きないよ。今日は油断してただけ。お前が今後も遊びたいんなら……いや、やめた方がいいか。お前がオレに溶けちまったら嫌だし」
さっき溶けかけてたもんなあと十代は笑った。
「境界線が──なくなるのか」
「少しゆるんだだけ。でも、もしお前が強く望めば」
本当に溶けちまうかもな。
「精霊にもたまにいる。深く傷ついたやつなんか──もうここに溶けてしまいたいって。もちろんその魂が癒えてほしいけど、ごくまれには」
溶ける者もいる──のか。
「最初のうちはなんとなくわかるけど、今はもうわからない。この海のひとしずくかもしれないし、砂浜の一粒かもしれない。あるいはもっと広範に、全体に溶け込んでしまったのか……もしかしたら」
それを消滅というのかもしれないな──と十代は寂しそうに言った。
「たまにお前の魂がほしくなっちゃうけど、器のない人間の魂は精霊より脆い。だから」
十代の目から涙がこぼれた。
「十代。お前が望むならオレは」
続きが言えなかった。声が出ない。十代が微笑む。
「……こんな場所でそんなことは言うもんじゃない。ごめんな、なんでこんな話してんだろ。ここは──不安や願望が出やすい。でも本気でそう思ってるわけじゃない。感情のゆらぎっていうのか──お前もあるだろ?」
ごまかすように笑う十代を抱きしめる。
「十代」
声は──出る。
「夢の中でくらい不安でも願望でも言え」
十代は頭を横に振る。
「……言ったらダメなんだよ」
夢の中でさえも本当のことを言ってくれない。あるいは夢が繋がったなんてのはオレの妄想にすぎず、オレは十代の本音を知らないから十代は何も語らないのか。
「でも、ありがとう万丈目」
十代はオレを抱きしめ返す。
「目が覚めるまで、もう少し抱きしめてて」
もう目覚めてしまうのか。十代の悲しみに何もしてやれないまま。
「十代」
お前が望むならなんだってしてやる。そんなことはやはり声にはできなかった。それは──オレに意気地がないからできないのか? 全てオレの妄想なのか。十代がオレの言葉を拒否しているのか。オレは。
オレはそんなに頼りないかよ。
目が覚めた。室内は薄暗くなっている。十代は──いない。
廊下に出ると十代の部屋のドアが少し開いていた。
「十代」
中を見れば、十代はちゃぶ台の上のパソコンを見ている。
「お、万丈目おはよう。世話かけたな」
記憶が戻ったのか──。もう、十代の目にはいつもの落ち着いた色がある。
「大丈夫なのか?」
「元気。記憶なくしてた間の記憶ないからユベルにざっと聞いただけだけど、いろいろやってくれたんだってな。ありがとう」
「いや」
十代はノートパソコンの画面を閉じて立ち上がる。
「オレよりお前の方が顔色悪くね? 別に熱とかなさそうだけど」
十代はオレの額に触れた。そういえば記憶のない間は十代はこんな風には触らなかったか。忘れかけているが、一緒に暮らす前だってきっとそうだったのだ。以前に引いていた境界線はどんどんと近づいて、ゆるんで、皮膚一枚くらいしか隔てるものがない。
抱きしめる。なんだぁ寂しかったかあ? と十代はオレの背を叩いた。
「夢を──見なかったか」
「夢? さあ──」
十代の声音は本当にわかっていなさそうだった。
「怖い夢でも見たか?」
「いいや。ただ」
自分が情けなくなる夢だ。
「海の夢だった」
海かぁ海はいいよなぁと十代は頷く。
「今度海行くか?」
「海水浴の時期でもないのにか?」
「別に見るだけでもいいだろ。花見があんだから海見だ」
結局、翌日も休みだったから海に行った。時期外れの海には誰もいなかった。
ファラオも連れていき、ファラオは捕食動物らしく浜辺のカニを器用に見つけては追いかけ回した。はしゃぐ猫の足跡と、その猫を追いかける少年の足跡が砂浜に残った。少し遅れて三十路前の男の足跡も。
十代は楽しそうに笑っていた。
──遊びたかったのか。
昨日の夢を思い出す。境界に踏み込もうとせず、ただ遊んでやればよかったのかもしれない。
あいつの抱える寂しさに目をつぶって?
無駄な反省だろう。夢は夢に過ぎない。夢が繋がっただなんてことは、いくらなんでもない。ないと──思う。
でも、波打ち際に遊ぶ姿はあまりに夢に似ていた。
「万丈目もこっち来いよ」
「濡れるのはごめんだ」
「冷てェよな。しぶきでも冷てェ」
海は──冷たいか。当たり前だ。真夏でもあるまいに。十代は波から離れてオレに近づいてくる。片手にいつの間にやら拾った木の棒を持って、まるで子供だ。
「昨日は高校生の頃より大人になったと思ったんだが」
「そりゃあオレは永遠に十代だぜ」
十代どころか小学生っぽい。永遠に生きるにあたって童心は必要なのかもしれないが。
「たぶんそこカニいる」
棒でオレの足元を差す。よく見れば小さな穴がある。十代は棒を半分に折ってオレに渡した。
「出てこねーな」
棒で砂浜を適当に掘り返してもカニは出てこなかった。大人二人で砂浜を掘る様は端から見たら滑稽だろう。人目がないのが幸いだ。
「ファラオはすぐ見つけてたのに」
「あいつは動物だからな」
そういえばあの夢の砂浜にカニはいたのだろうか。生ぬるい海に、魚や何かの生き物は。なんとなくいないような気がした。きっとあの海にひとり──。
「竜宮城見たことある?」
カニ探しに飽きた十代は砂浜に絵を描いた。簡素な家の絵に見えるが、竜宮城のつもりだろうか。
「ない」
「前にそれっぽいの見た。中には入れてもらえなかったけど。カニの門番が厳しいんだ。怖ェ顔して」
カニなのか。カメじゃなくて。十代は胴体に顔がある奇妙なカニを描いた。
「不審者をそうそうに入れないだろうな」
「怪しいもんじゃないとは言ったんだぜ。でもゲンジノヨノマツエーは入るなとかって」
「源──」
背筋に冷たいものが走った気がした。
「結構でかい街っぽかったけど。綺麗に整列して案外和風っぽい建物が並んで……アトランティスかと思ったけど、誰かの都だって……誰だったかな」
「安徳天皇」
「あ、それ」
どうやら黄泉の都の入り口に行ってしまったらしいが、そのことに気づいていないようだ。恐怖というのは教養がなければ感じないのだときょとんとした間抜け面を見て思う。
「前も話したんだっけ?」
「いや、聞いてない」
「じゃ、なんで誰の都かわかったんだ?」
「お前よくアカデミアを卒業できたな……」
ため息をついて説明してやる。
「檀ノ浦戦いくらいわかるな?」
「源平の最後の戦いだっけ」
「ついに平氏が負けるとなって、二位の尼が安徳天皇を抱えて入水するんだ。安徳天皇はまだ八歳──数えだから現在でいうならまだ六歳だな。二位の尼にどこへゆくのか尋ねて」
波の下にも都はございます──。
「カニは平家蟹だろうな。檀ノ浦で死んだ平氏の亡霊がカニに乗り移ったから甲羅が恐ろしい顔なのだという伝説がある」
「平氏の亡霊……だから源氏の世の末裔は入るな──か。ありゃ死者の都だったってことか?」
ようやく理解したらしい。
「波の下の──死者の都か」
十代は水平線を見つめた。あの夢の中の海にも波の下の都はあるだろうか。溶けてしまったという精霊の魂の行き先が。
「……次に見つけても絶対入るなよ」
「確かに入らねー方がよさそうだ。竜宮城じゃなかったんだな」
「いや竜宮城だぞ」
「竜宮城は乙姫様だろ?」
「それも竜宮城だ。『平家物語』には、安徳天皇の母親が夢で立派な御殿に亡くなった息子や平家の者たちがいるのを見て、ここはどこですかと問うと竜宮城だと言われたたという話がある」
「竜宮城って二つあんの?」
「二つどころかいろんな伝承や物語に出てくる」
「へえ。万丈目ってやっぱ頭いいな」
「平家蟹や波の下の都あたりは一般教養だ」
「あれなら知ってるぜ、ほら、船の上に立てられた扇をさ」
十代は立ち上がって海に向かって弓を引く真似をする。それから棒を海に投げた。へろへろと飛んだ棒は、浅い波の上に落ちて再び浜辺へ打ち上げられた。
「那須与一にゃなれねえな」
なんで安徳天皇はわからなくて那須与一はわかるんだと言ったら、たぶん授業で聞いたと言う。そういえば、学校で読んだ『平家物語』はほんの一部分に過ぎなかったか。
オレも海に棒を投げた。オレも十代と似たような結果になり、那須与一にはなれそうもなかった。
浜辺を満喫したファラオは足を砂だらけにして、いつの間にか腹まで海水に濡らしてしまっていた。帰宅してから嫌がるファラオを風呂に入れて、ファラオにシャワーヘッドを蹴られてオレは頭から水浸しになって、十代はげらげらと笑って、笑われたから十代の頭にシャワーのお湯をかぶらせて──。
くだらない、愛おしき日日。
失われる日が来るとしても、それは遠いのだと漠然と思っていた。
「与一、鏑を取ってつがい、よっ引いてひょうと放つ──」
『平家物語』の一文を読み上げ、あの日弓を引く真似をした十代の姿を思い出す。ファラオを追って元気に走り回っていた身体は、今はベッドに横たわるばかりでぴくりとも動かない。ころころと表情の変わった顔も、両の目蓋は固く閉じられ動かないまま。かすかに上下する胸だけが、それが人形ではなく生きた人間だと教えてくれる。
通常の人間が意識を失ったのとほほ同じ状態で、精霊が魂に呼びかけても応えはない。かつて頭の中を覗いた機械も反応しなかった。
耳は聞こえていると思いますから、何か話しかけてみてはどうでしょうか。
そう医師に言われて最初は何かしら話しかけていたが、話すネタも尽きて本を読み上げ続けている。少しでも十代が反応するようにと、以前話したことのある本や、知り合いの著書を読んでいる。なんの反応もないまま一年近く経とうとしている。
「浪の下にも都の候うぞ──」
十代の魂はあの生ぬるい海の底にでも沈んでしまったのだろうか。命を育むやさしい闇。生まれた命は育まれ、やがて朽ちていく。
諸行無常というならこの状態もいずれは変わるだろう。それが今日なのか明日なのか、一年後か十年後か百年後か千年後か──。
本を閉じる。動かない目蓋を見つめる。空調の動作音が潮騒のように鳴り続けていた。
2026/01/25
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