一話完結短編
心臓
「──十代?」
何か気配を感じて目を開けると、十代がオレの顔を覗き込んでいた。金色の大きな瞳をさらに大きくして十代は「うそぉ」と小さく呟いた。
「なんだ」
「……起きると思わなかった」
「おい、こんな夜中に病院に侵入するやつがあるか」
「ちょっと寝顔でも見ようかなって」
「気色悪いことを言うな。お前──別れて何十年経ったと思うんだ?」
十代は苦笑いした。別れた頃と変わらない、十代の少年みたいな顔をしている。
高校時代の腐れ縁。嫉妬して、ムカついて、憎んで、でも憧れて、一応友情はあって──大人になってみれば恋い焦がれていたような気も、して。
若い頃は付き合って同棲もしていた。結婚まで考えた。でも、この根なし草は結婚はしたくないと言った。法的な縛りもないオレたちは、些細なすれ違いから喧嘩になり別れてしまった──と、思う。
何十年も前のことで記憶は曖昧だ。何がきっかけで別れたんだったか。
「でも、万丈目はまだオレのこと好きだろ?」
「そんなわけあるか」
あの頃のような情熱はもうない。でも、こいつが心から消えた日はただの一日もなかった。こいつと初めてデュエルをした日から、ずっと。
それは永遠のライバルとしての敵愾心かもしれないし、恋慕だったかもしれない。誰とデュエルしても十代ならどうやってあのデッキを攻略しただろうかと考えたし、誰と付き合っても十代との違いを探した。デュエルはともかく恋愛でそんなことをしてうまくいくはずもなく、結局十代の後にまともに付き合えた相手はいない。
「オレは好きだよ」
十代は昔のように笑った。
「で? 想い人の死に顔でも見に来たってか?」
「寝顔見に来たって言ったじゃん。でも起きたんならちょうどいいや。なあ」
オレの心臓を食べない?
十代はベッドに腰かけてオレを見下ろして笑った。金色の目は人ならざる力を誇示するように妖しく光る。
「はあ?」
「心臓を食べると、病気なんか治って、若返って、そこらの人間より頑丈になって、不老不死! 楽しいことい~っぱいできるぜ。一石百鳥、いや千や万あるかも」
十代はにこにこ笑う。この能天気な笑顔が好きだったし、嫌いだった。その笑顔が心を癒してくれるときもあれば、苛立ちや怒りを掻き立てられるときもあった。
「なあ、食べてみる?」
点滴をしていない右手が十代によって持ち上げられ、彼の左胸へと導かれる。黒いシャツ越しに触れた胸は温かく、皺だらけの手に心臓の鼓動が伝わってくる。懐かしい赤い制服は色褪せもなく、触れた黒いシャツに毛玉の一つもない。不老不死の少年の身を包む衣服は何十年経とうと劣化しないようだった。
「……お前の心臓なんか食べたくない」
「おいしいかもよ。新鮮で、刺身でもいけるかも。オレの血の色キレーだよ。オレの好きな赤い色して」
「オレは赤より黒が好きだ」
「じゃ、お前の好きな醤油で煮るか。甘辛く煮たレバー好きだったろ。あれみたいに」
甘辛く煮たレバー──その言葉で、かつての食卓の記憶がよみがえる。鉄分やビタミンが摂れると時折彼はそれを作った。醤油と砂糖でよく煮たそれは濃い茶色をして、上品な見た目ではないがうまいのだ。
二人で囲む食卓は幸せだった。でも、同時にすげなく求婚を断られたことも思い出す。
「今さら結婚でもしたくなったか?」
「オレに籍はない」
人ならざる彼は、もう人間としての身分は捨ててしまったようだった。
この数十年、オレも友人たちも、誰一人遊城十代を見た者はいなかった。友が一人また一人と世を去っても、その葬儀にさえこいつは顔を見せなかった。友人たちは旅先で人知れず死んだのかもしれないとささやきあった。十代は不老不死であることをオレ以外には明かさなかったようだった。
「けど、覇王城でウェディングドレスでも着せてやろうか?」
「着るかたわけ」
「ロマンチストのお前のために豪華なやつを用意してやろうと思ったのに。それともタキシードがよかった?」
からかうような声音に似合わず、その瞳は不安げに揺れる。色が変わってしまっても、相変わらずその表情はころころと変わる。
「覇王城で結婚式なんて御免だ」
潤んだ瞳が月明かりに輝く。少しはあのときのオレの気持ちがわかったか? でも、そうか。こいつにとっての結婚は、人間の世界で書類を書くことではなかったのかもしれない。オレは話でしか知らない覇王城、その玉座の隣に立つ者を選定することなのか──?
「……式がないならいい?」
ぎゅっと右手が握られた。ますます押しつけられたシャツの向こうの心臓はトクトクと動いている。これは早いのだろうか、遅いのだろうか。
「甘辛煮はおいしそうだと思ったろ? お前のためなら煮てあげる」
この心臓を取り出して?
「……お前のそういうところが嫌なんだ。平気で自分を傷つけて──それでオレが喜ぶと思うのか」
「思わないけど」
十代は困ったように笑う。
「でも、万丈目、オレは本当にお前に心臓をあげたっていい」
「いらん」
「欲しがるやつはいっぱいいるのに。心臓どころか肉のひとかけら、爪の一枚だって」
「お前のものだ。かけらだって他人にはやるな」
十代の目が潤んで、懐かしむように笑う。
「やっぱりお前の愛はちゃんと人間のかたちをしてる」
「お前のはしてないのか」
「人間は自分の心臓を自分で料理できない」
当たり前だ。そんな常識もこいつには通用しない。人間ではないから──。
「わかった。お前は人間のままでいるのがいいんだな」
「お前も人間のままでいろ」
「それは無理」
十代は少し悲しそうに笑った。心臓はトクトクと動いて、温かくて、こんなに人間と変わらない姿をしているのに。
「……本当に無理なんだよ、万丈目。でも、そう願ってくれてありがとう」
十代は己の心臓から離したオレの手を確かめるように撫でて、ベッドの上へと戻した。
「迷惑かけて悪かったよ。じゃあな、お大事に」
「待て!」
帰ろうとした赤いジャケットの裾を掴む。
「なんだよ?」
「いつまでも身勝手なやつだな。自分の望みばっかりべらべら並べ立てて、拒否されたらさっさと帰ろうとして」
「なんだよォ……」
十代は悲しげな目でオレをにらみ返す。
「少しはオレの話も聞け」
そう言えば十代はおとなしくオレの言葉を待った。
「まず、何十年も来なかったくせにいきなり心臓を食えだのいうのはやめろ。あと夜中に来るな。どこから侵入したんだか知らんが、病院の人たちを困らせることはやめろ。人間じゃないとか言い訳せずに人間のルールは守れ」
「こんなときにお説教……」
「お前がそんなだからだろうが。お前がドロップアウトボーイなのは知ってるがな、もういい大人だろうが。少しは社会性ってもんを身につけたらどうなんだ。友達の葬儀にも来ないのは、さすがにどうかと思うぞ。出られないなら弔電のひとつも出せ。冠婚葬祭は大事にしろ。だがそれよりも、生きているうちに会いに行け。もう──オレと翔とヨハンくらいしか残ってないぞ」
「……ん」
「『はい』なら『はい』とハッキリ言え。誤魔化すな」
「もう会えない。翔もヨハンも──オレが見えない」
「何?」
「……人間じゃないんだ」
十代は真剣な目をしている。精霊を見るヨハンにさえ見えないだと?
「なら、なんでオレは」
「たぶん昔オレの血に触ったから」
血など触っただろうか。こいつはどんな傷もあっという間に治ってしまうのに。
「覚えてない? 昔、一緒にチョコケーキ作っただろ」
十代は懐かしそうに目を細めた。
「……バレンタインの頃だったかな。テレビで焼き立てのあったかいチョコケーキがうまいんだって作り方紹介しててさ。そんな特別な材料はなかったし、見てすぐ一緒に作った。お前は型とかバターとか小麦粉とか用意して、オレはチョコを刻んで」
まるで覚えていない。喧嘩別れした記憶ばかり残っているが、一緒にテレビを見て思いつきで料理をするような、そんな穏やかな日もあったのだろう。
「で、オレ指切っちゃってさ。すぐ治るのに、お前はぼんやりしてないで止血しろってオレの指おさえてくれて。今でも覚えてる。嬉しかったんだ。オレのこと人間みたいに扱ってくれて」
なんだそれは。つまり。
「……人間扱いされなかったのか」
笑っていた顔が強ばる。そういえば、あの頃──なんでこの根なし草がおとなしくオレと一緒に暮らしたりしてたんだ?
「……何かあったのか」
「忘れた」
十代はへらりと笑った。先ほど一瞬覗かせた緊張などすぐ隠してしまう。こういう──素直に言わないところも嫌いだったのだ。大事なことはいつもオレに話さない。高校生の頃から、ずっと。
「お前のそういう態度も別れた原因だぞ」
「聞いても楽しくねーよ。捕まって解剖されるとこだったとか、カルト教団に神の遣いだと思われてストーカーされたとか」
言いながら十代は、今度は椅子に腰かけてオレの頭の横に頬杖をついた。
「……でも、確かにお前に隠し事ばっかりなのはよくなかったよな。今ならなんでも話そうか?」
そんなことを言って、どこまで素直に答えるものか。でも。
「……困ってないか?」
金色の瞳が瞬く。
「なにそれ? もっと聞くことあるだろ」
「質問に答えろ」
「困っては……ないよ」
「他の人間から見えないんだろ」
「人間から見えない方が都合がいい。もう誘拐されるかもなんて思わなくていいし。それに、見せれないこともない。疲れるからあんまやりたくないけど」
「……オレといた頃にはもうそうだったのか?」
だから結婚を嫌がったのか? 存在しない人間になってしまったから──。
「あの頃はまだ見えてた。でも、そうなりかけてはいたかもな」
「なんでオレに話さなかった」
「まだ違和感レベルだったんだよ。スーパーのレジで店員に声をかけないと気づかれないとか、そーゆー地味な違和感。まさかその後見えなくなるとは思わなかったし……お前忙しかったじゃん」
忙しい──それが別れた原因だったかと思い出す。仕事が立て込んで、夜遅く帰り早朝から出掛けて、ほとんど会話もしない日日。あの頃は十代がオレを心配する言葉さえ煩わしく聞こえた。結局オレは倒れて、心配する十代と喧嘩になって別れた。オレはこいつが悩んでいたのも気づかないまま──。
「……すまなかった」
「なんでお前が謝るんだよ。たぶんもともとそうだ。人間の身体は覇王の魂が目覚めるまでの器に過ぎないんだろう。たぶん、おたまじゃくしがカエルになるみたいな。おたまじゃくしは水中で生きられるけど、カエルになったら水中じゃ息ができない。そういうものだ」
「つらくないのか」
「まったくとは言わない。でも、人生にはつらいことも楽しいこともあるだろ。それと変わらないさ」
十代は微笑んだ。生まれ故郷の人間界にいられなくなることが十代の人生なのか? カエルが水中で生きられなくなるように。
「……この何十年、何してた」
「旅してたよ。主に異世界を。──光の波動の活動が異世界に移ったからな。相変わらずのいたちごっこだ」
「これからもそうやって過ごすのか」
「たぶんな」
「──オレが必要か?」
十代はオレを見つめ返す。金の瞳にほんのりと悲しげな色が滲む。
「オレには。でも、オレのためなら心臓はやれない。オレのために人間でなくなるのは、ひとりだけでいい」
金色の瞳が一瞬二色に輝いた。
「お前がもっとデュエルしたいとか、もっといろんなもの見たいとか、自分のために生きたいならこの心臓をやる」
どこまでもひとを頼らないやつだ。そういうところが嫌いなんだ。助けてくれなんて一言も言わない。オレはこんなに老いているのに、こいつはあの頃と中身まで変わらないまま。
「オレは世界中飛び回ってデュエルばかりして生きてきた。もちろんまだ足りないという気持ちもあるが、老兵は去るのみだ。おジャマたちも継ぐ者がいる。アームド・ドラゴンもノース校に返す。心残りは……お前が心配なことくらいだ」
微笑む十代の目から涙が流れた。皺だらけの手を伸ばして、その涙を拭う。
「まったく、どこまでもオレの人生に食い込んできやがって。心臓が不老不死の薬になるだの、解剖されそうだっただの他の人間に見えなくなっただの、冥土の土産どころか心残りにしかならん」
「ごめん。でも心配しなくて大丈夫。オレはお前より強いから」
「何十年も前にオレに勝っただけでまだオレよりも強いつもりなのか? オレがいつまでもお前に負けたノース校の代表選手だと?」
「まさか。お前はキングだ、サンダー」
十代は両手でオレの手を握り、笑った。細められた目からまた涙がこぼれる。
「十代、デュエルしないか」
「……無理すんなよ。片手動かさない方がいいし……」
「なんだ、腑抜けたか?」
「お前が元気ならやりたいけど」
「もう元気になんてならない。お前も知ってるから来たんだろ」
十代は答えなかった。
「十代。オレより強いと証明しろ。でないと心配であの世にも行けん」
「寿命が縮むぜ、じいちゃん」
「これから何日変わろうが同じことだ」
十代は渋渋といった様子でオレが起き上がるのを手伝った。十代に鍵を渡して貴重品入れにしまってあったデッキケースを取り出させ、ベッドにテーブルと片手でデュエルができるようにした、手札立てつきのデュエルフィールドを用意させる。
「なんでこんなのあるの?」
「デュエルするためだ。オレはデュエリストだからな」
十代はまだ不満げな顔のまま自分とオレのデッキをシャッフルした。オレは右手で十代のデッキをカットだけする。久しぶりに触れた十代のデッキには、相変わらずごちゃごちゃと精霊たちの気配がする。
「そんな顔するな。久しぶりのデュエルだ」
オレは右手を差し出した。十代は少し微笑みオレの手を握る。
「アンティルールだ、遊城十代。オレが勝ったらお前の心臓をよこせ」
「はあ?」
十代はぽかんと口をあけた。さっきと逆だ。少しはお前に突然トンチキなことを言われるオレの気持ちがわかったか?
「……なんで」
「強さを証明しろと言ったろ。宇宙を守る覇王様がたかが人間のオレより弱いんじゃ、この先すぐさま世界が滅びかねないからな。とても一人にしておけん」
「……オレのためなら心臓はやれないってさっき言った」
金色の目がオレをにらむ。
「お前のためじゃない。オレのためだ。オレの親族や弟子たちの未来が腑抜けた覇王のせいで滅んだらかなわん」
「じゃあ……オレが勝ったら何くれるの」
「オレの遺産の相続でもするか? 遺言状を書いてやろう」
「人間の金なんかもらってもな」
十代はため息をつく。
「ならオレの心臓は? 心臓同士、フェアだろ」
「……まあ、フェアだけどさ。……オレがわざと負けたら、オレがここに来た目的は果たせるけど」
「お前はそんなことしない。それがどれだけ相手を失望させるか、お前は知っているだろう」
「……そうだな」
「さあ、始めるぞ。先攻はチャレンジャーに譲ってやる」
十代はデッキから手札を引く。一度カードを手にすれば、十代の目は先ほどまでの悲しげなものから勝負の先を計算するデュエリストのそれになる。
心臓が高鳴る。それは勝負への高揚感だけではない。数多の栄冠を賭けたデュエルとは違う感情がここにある。
遊城十代。入学試験に遅刻した上、受験番号百十番のくせに教諭のクロノスを倒した規格外。デュエルアカデミアで多くの者を魅了したレッド寮のドロップアウトボーイ。一時は十二次元を恐怖に陥れ、今は宇宙の守護者となった覇王。そして。
別れの苦手な、永遠の少年。
さあ、一度くらいはまともに別れを告げろ。それともオレに負けるほど弱いのか? もしそうなら、ヒーロー気取りはやめてオレのサイドキックにでもなるんだな。
「オレのターン」
十代はデッキからカードをドローした。
◇◆◇
万丈目に勝った。
勝って──しまった。
「これなら心配する必要はないな」
「うん」
「誇りに思え。この万丈目サンダーの最期のデュエルに勝ったんだ」
「うん」
「楽しいデュエルだった」
万丈目は指を三本揃えて前に出す。ガッチャのポーズだ。
「……うん。楽しいデュエルだった」
オレも同じようにする。目からは我慢してた涙が流れた。
「まったく、それが勝者の顔か? 賞品だってあるだろ」
「……くれるの、心臓」
「約束だからな」
ただし、と万丈目はつけ加える。
「賭けたのは心臓だけだからな、心臓以外のものはやれない。血の一滴も流さず、血管も皮膚細胞の一つも傷つけず、心臓だけを持っていけよ」
なんだかそれはどこかで聞いたことがある──けれど何か思い出せなかった。
「……無理じゃん」
「なんだ、覇王様はそんなこともできないのか?」
万丈目はからかうように笑う。オレもおかしくなって笑った。
「ひでーなあ。騙したのかよ」
「騙してなどいない。お前にその技術がなかっただけだ」
「そんな技術……あるかもしれないけどさ」
十二次元世界のどこかにないとは言い切れない。万丈目は、オレが負けたところで同じことを言うつもりだったのだろう。
「でも、取り出せないけどオレのものにはなったんだよな」
「そうなるな」
「じゃ、大事にしてくれよ。とりあえずは、夜更かしはここまでにして寝てくれ」
「お前が起こしたんだぞ」
「起こすつもりはなかったんだけどなあ」
デッキやデュエルフィールドを元の場所へと片付けて、万丈目を再びベッドに寝かせる。万丈目の胸に耳をあてれば、どくんどくんと音がしている。
「何十年も前に別れた相手には、普通もう少し遠慮があるもんだぞ」
文句を言うわりには万丈目はオレの頭を撫でた。
「オレはついこの前まで一緒に暮らしてたみたいな気がするんだけどな」
頭を撫でてくれる感触もくっついたときのあったかさも、昨日のことみたいにちゃんと覚えてるのに。
心臓の音に耳を澄ます。ずっとこうしていたいけど、精霊の気配で身体を起こした。窓から連絡役の精霊が入ってきた。
「行くのか」
その精霊を見た万丈目が言った。
「うん。本当は一緒にいたいけど。……心臓、大事にして」
「お前が戻ってくるまでくらいは動かしといてやる」
「……無理はしなくていいよ」
「別れくらい言いに来いと言ってる。あと、オレの葬式でもなんでもいいから、翔とヨハンには会え。姿を見せようと思えば見せれるんだろ。挨拶くらいちゃんとしろ。お前は」
人間だろうが。
まっすぐオレの目を見つめて万丈目は言った。
もう人間じゃないって、万丈目が一番知ってるはずなのに。
「……わかった。最速で片づけて帰ってくる。いってきます」
「ああ。行ってこい」
こうやって見送ってくれるのは何年ぶりだっけ。喧嘩別れした日は、出ていくときに顔も見てくれなかった。
ちゃんと帰って来たいな。そんなことを思うのも何年ぶりなんだろう。
右手を振ってくれる万丈目を見ながら、病室のドアを閉めた。
◇◆◇
「遊城十代三世」を名乗る少年は、高校生の頃の遊城十代とそっくりだった。相違点を挙げるとしたら金色の目くらいだ。この少年を見たら遊城十代を知る誰もが孫だと疑わないのではないか、と翔は思った。
翔は遊城十代その人だと知っているわけだが。
十代は、会うなりまるでほんの数ヶ月ぶりのように「よお、久しぶり」などと言うものだから、会ったのが葬儀場でなかったら翔は何言ってるのと大声で叫ぶところだった。
ヨハンの方は驚き呆れていたものの、会えただけでもよかったとその肩を叩いていた。彼は心が広すぎると思う。
「なあ、ちょっと知恵を貸してほしいんだけど、血の一滴も流さず、血管も皮膚細胞の一つも傷つけず、心臓だけを取り出す方法ってある?」
十代は挨拶もそこそこ突拍子もないことを言った。
「心臓ぉ?」
翔は声が裏返ってしまった。
「なんだ? ヴェニスの商人か?」
「あ、ヴェニスの商人……そーいや昔映画見たな。どっかで聞いた気がしたんだよ」
十代は一人で納得したようだった。
「いや、万丈目と心臓を賭けてデュエルしたんだけど、心臓しか賭けてないから正確に心臓だけ持っていけって言われてさ」
「なんで心臓なんか賭けたの」
「話すと長くなるんだよ。それより方法はないのか? 遺体が焼かれる前になんとかしないと」
「無理でしょそんなの」
「まあ、どんな名医も無理だろうな」
無理かァと言った十代は、購買のドローパンが売り切れたときのようだった。そのくらいの軽さで残念がっている。
「三人寄ればなんとやらとはいかねーな」
「仏より悪魔や魔女の方が知ってそうだ」
冗談めかしてヨハンが言う。
「確かに。異世界で聞いてみりゃよかった」
「……ずっと異世界にいたの?」
「ああ。最近は向こうで光の波動の活動が活発になっててな、あんまり人間界に来る暇がない。たぶん会えるのは今日が最後だ」
金色の目は、孫と偽装するためではなく、もうそのように十代は変化してしまったのだろう。
「でも、今日はここにいられるからさ、少し話さないか」
十代の誘いは願ってもないことだった。葬儀の後に三人で食事をすることにした。火葬へ付き添わなくていいのかと聞くと、オレは家族でも親戚でもないと十代は答えた。
「そうなるのは断っちまったからな。仮に結婚してても、十年もしたらオレは死んだことにでもしなきゃいけない。不老不死だなんて知られたら面倒だからな。どのみちオレはあそこには座れない」
十代は親族席を見ながら言った。
葬儀は何事もなく終わった。参列者は多かった。万丈目グループの親類縁者はもちろん、デュエリストとしての関係者も多かった。たくさんの人に愛されてるなと十代は笑った。
葬儀のあとに翔とヨハンと十代は喫茶店へ行った。十代はあまり食べられないとコーヒーだけ頼んでいた。
「長いこと人間界のものは飲み食いしてないし、これだけにしとくよ」
十代は、姿を消してから人間界には時折様子を見に来るだけなのだという。
「問題があればこっちにも留まるけど、今のところダークネスみたいな変な動きはない」
「つまり今は異世界の方に問題があるのか?」
「まあな」
「一人で大丈夫なのか」
「一人じゃねえよ」
笑った十代の少し後ろにヨハンは視線をやった。翔には見えないが精霊たちがいるのだろう。
「それより、二人はどうしてた?」
十代に訊かれ、二人はそれぞれにここ何十年のあらましを話した。十代は興味深そうに頷きながら聞いていた。
「アニキはどうしてたの?」
そう聞けば、光の波動との追いかけっこやら、カエルの王子が都を取り戻すのを手伝ったやら、アンデッドたちの町に住む話すしゃれこうべと友達になったとか、お化けのような魚ばかりが住む海に行ったなど、ファンタジー小説のような話が出てきた。異世界に行った経験がなければ到底信じられなかっただろうと翔は思う。
「そろそろ火葬も終わったかな」
十代は喫茶店の壁にかかる時計を見た。
「心臓──燃えちゃった」
「結局、なんで心臓を賭けてデュエルしたの?」
「別に万丈目の心臓が欲しかったわけじゃないんだけど」
もとはといえば十代の心臓を万丈目に食べさせたかったらしい。覇王の心臓には不老不死をもたらす力があるそうだ。
「いらないって言われちまった。でもそんな力があるなら心配だから、オレより強いと証明しろって、お互いに心臓賭けてデュエルしたんだよ」
勝っちゃった、と十代は少し寂しそうに笑った。
「きっと万丈目は安心したさ」
「アニキのいない間、万丈目くんほとんど負けなしだったんだから」
大器晩成型とでもいうのか、万丈目は三十歳頃からほとんど負けなくなった。当時の万丈目は「あいつがいなくなって気が楽になったんだ」などと嘯いていたが。翔は何か隙間を埋めるようにデュエルに熱中しているのではないかと思った。
「そうか。なら本当に──安心できたかな」
十代は少し瞳を潤ませた。それから気を取り直すように笑う。
「さて、そろそろお暇するよ」
「アニキ──アニキに心配なんて無用かもしれないけど、大丈夫なんスか? 不老不死なんて人類の夢っスよ」
不老不死の肉体を持ち、他者へも不老不死を与えられる。その心臓を求めて戦争が起きたっておかしくはない──それは大袈裟な考えだろうか? 彼が三十代になる頃には姿を消したのは、万丈目と別れたことだけが理由ではないだろう。異世界でだって狙われるのではないか?
「わざわざオレを狙わなくても、不老不死のアイテムなんか異世界にはごろごろあるぜ。定番の人魚にドラゴン、虫なんかにもいる。果物や木の実もあるし、深い森の奥の湧き水とか。お遍路みたいにどっかをめぐるとか、食べる以外の方法もあるし」
「……そんなにあるんスか?」
「ああ。頑張れば手に入るよ、大変だけど」
「軽く言うけどオレの想像よりずっと大変なんだろうな」
「ヨハンなら、レインボードラゴンに聞いた方が早い」
ヨハンの目が見開かれた。
「研究の幅が広がるかもな」
金色の目が細められる。
「……いや、もう次の世代にまかせるさ」
ヨハンは首を横に振った。
「そっか」
「でも十代、お前にオレの力が必要なら、オレはそうする」
ヨハンがまっすぐに十代を見つめた。彼もその心は少年の頃と変わらないと翔は思う。
「ありがとう、ヨハン。気持ちだけ受け取っとく。オレのためにそうするのはひとりだけでいい」
十代は微笑んだ。ヨハンの視線が十代の頭より上へと動く。
「万丈目にも心配されたけど、オレは大丈夫。人間にはもう見えないし」
「え?」
「今は姿を見せてるんだ。疲れるけど、葬儀にはちゃんと出たかったから」
「……それっていつから? だから……ずっと誰にも会わなかったの?」
この何十年も、友人の葬式にさえ来なかったのは。
「正確にいつ頃かはわかんねーけど、たぶん年齢でいえば三十くらい? 光の波動の活動が人間界から精霊界の方に移った時期でもあるから、そっちに対応しやすく変化したのかもしれない」
十代は淡淡と言ったが、翔には受け入れがたかった。
「それって、精霊の見える人にしか見えないってこと?」
「いや、ヨハンにも見えない」
「オレも?」
「葬儀場入る前に試した。見えなかったろ」
翔とヨハンが十代に会ったのは葬儀場の中だ。ヨハンにさえ見えないのか。
「まあちょうどいいよ。変な研究所に目をつけられたりしてたから」
研究所──やはり不老不死というものは厄介なようだ。
「しばらく人間界からは離れる。たぶん百年くらいは」
「あっさり百年なんて言うんだから」
「でも、本当に──あっという間なんだ、すごく」
不満げに言った翔に十代は微笑む。人ならざる力の象徴の金色の目。少年のままの姿。人間とは違う時間を生きている。
「翔、ヨハン、最後に話せてよかった。本当にありがとう。──さよなら」
喫茶店を出て、十代は別れを言い終わると一瞬で姿を消してしまった。まだそこにいて見えなくなっただけなのか、それともいなくなってしまったのか、翔もヨハンもわからなかった。
「……神出鬼没のつむじ風ってか」
ヨハンが呟いた。風が二人の頬を撫でた。それがただの風であったのか、それとも十代が走り去った際の風だったのか、やはり翔にはわからなかった。
◇◆◇
「ただいま……」
真っ暗な病室に入る。部屋の主は最後に見たときより繋がれた管が増えている。
「また夜中でごめん。もっと早く戻りたかったけど……」
最後に見たときより痩せた顔。ただでさえ白い肌は、さらに青白くなった気がする。
「待っててくれてありがとう。もう大丈夫だよ……」
心臓のそばに耳をあてる。あの日より弱くなった音。
「光の波動はおとなしくさせてきたから、しばらくここにいられるよ。ちゃんとお前の葬式出るし翔とヨハンにも会う。たぶん、これが最後になる」
万丈目はなんの反応もしない。もう聞こえないのかもしれない。
「……お前がいなかったら、きっと戻らなかった。人間として別れる機会をくれてありがとう」
涙が溢れてくる。心臓の音は。
「おやすみ、万丈目……」
しばらく胸を借りてもいいかな。心臓はもらえないしこのくらい許してくれよ。朝が来る前にはちゃんと出ていくから。
ちゃんと笑って、ありがとうとさようならを言うよ。だから今は、もう少しだけ。
2025/11/24
2025/12/27 一部修正
「──十代?」
何か気配を感じて目を開けると、十代がオレの顔を覗き込んでいた。金色の大きな瞳をさらに大きくして十代は「うそぉ」と小さく呟いた。
「なんだ」
「……起きると思わなかった」
「おい、こんな夜中に病院に侵入するやつがあるか」
「ちょっと寝顔でも見ようかなって」
「気色悪いことを言うな。お前──別れて何十年経ったと思うんだ?」
十代は苦笑いした。別れた頃と変わらない、十代の少年みたいな顔をしている。
高校時代の腐れ縁。嫉妬して、ムカついて、憎んで、でも憧れて、一応友情はあって──大人になってみれば恋い焦がれていたような気も、して。
若い頃は付き合って同棲もしていた。結婚まで考えた。でも、この根なし草は結婚はしたくないと言った。法的な縛りもないオレたちは、些細なすれ違いから喧嘩になり別れてしまった──と、思う。
何十年も前のことで記憶は曖昧だ。何がきっかけで別れたんだったか。
「でも、万丈目はまだオレのこと好きだろ?」
「そんなわけあるか」
あの頃のような情熱はもうない。でも、こいつが心から消えた日はただの一日もなかった。こいつと初めてデュエルをした日から、ずっと。
それは永遠のライバルとしての敵愾心かもしれないし、恋慕だったかもしれない。誰とデュエルしても十代ならどうやってあのデッキを攻略しただろうかと考えたし、誰と付き合っても十代との違いを探した。デュエルはともかく恋愛でそんなことをしてうまくいくはずもなく、結局十代の後にまともに付き合えた相手はいない。
「オレは好きだよ」
十代は昔のように笑った。
「で? 想い人の死に顔でも見に来たってか?」
「寝顔見に来たって言ったじゃん。でも起きたんならちょうどいいや。なあ」
オレの心臓を食べない?
十代はベッドに腰かけてオレを見下ろして笑った。金色の目は人ならざる力を誇示するように妖しく光る。
「はあ?」
「心臓を食べると、病気なんか治って、若返って、そこらの人間より頑丈になって、不老不死! 楽しいことい~っぱいできるぜ。一石百鳥、いや千や万あるかも」
十代はにこにこ笑う。この能天気な笑顔が好きだったし、嫌いだった。その笑顔が心を癒してくれるときもあれば、苛立ちや怒りを掻き立てられるときもあった。
「なあ、食べてみる?」
点滴をしていない右手が十代によって持ち上げられ、彼の左胸へと導かれる。黒いシャツ越しに触れた胸は温かく、皺だらけの手に心臓の鼓動が伝わってくる。懐かしい赤い制服は色褪せもなく、触れた黒いシャツに毛玉の一つもない。不老不死の少年の身を包む衣服は何十年経とうと劣化しないようだった。
「……お前の心臓なんか食べたくない」
「おいしいかもよ。新鮮で、刺身でもいけるかも。オレの血の色キレーだよ。オレの好きな赤い色して」
「オレは赤より黒が好きだ」
「じゃ、お前の好きな醤油で煮るか。甘辛く煮たレバー好きだったろ。あれみたいに」
甘辛く煮たレバー──その言葉で、かつての食卓の記憶がよみがえる。鉄分やビタミンが摂れると時折彼はそれを作った。醤油と砂糖でよく煮たそれは濃い茶色をして、上品な見た目ではないがうまいのだ。
二人で囲む食卓は幸せだった。でも、同時にすげなく求婚を断られたことも思い出す。
「今さら結婚でもしたくなったか?」
「オレに籍はない」
人ならざる彼は、もう人間としての身分は捨ててしまったようだった。
この数十年、オレも友人たちも、誰一人遊城十代を見た者はいなかった。友が一人また一人と世を去っても、その葬儀にさえこいつは顔を見せなかった。友人たちは旅先で人知れず死んだのかもしれないとささやきあった。十代は不老不死であることをオレ以外には明かさなかったようだった。
「けど、覇王城でウェディングドレスでも着せてやろうか?」
「着るかたわけ」
「ロマンチストのお前のために豪華なやつを用意してやろうと思ったのに。それともタキシードがよかった?」
からかうような声音に似合わず、その瞳は不安げに揺れる。色が変わってしまっても、相変わらずその表情はころころと変わる。
「覇王城で結婚式なんて御免だ」
潤んだ瞳が月明かりに輝く。少しはあのときのオレの気持ちがわかったか? でも、そうか。こいつにとっての結婚は、人間の世界で書類を書くことではなかったのかもしれない。オレは話でしか知らない覇王城、その玉座の隣に立つ者を選定することなのか──?
「……式がないならいい?」
ぎゅっと右手が握られた。ますます押しつけられたシャツの向こうの心臓はトクトクと動いている。これは早いのだろうか、遅いのだろうか。
「甘辛煮はおいしそうだと思ったろ? お前のためなら煮てあげる」
この心臓を取り出して?
「……お前のそういうところが嫌なんだ。平気で自分を傷つけて──それでオレが喜ぶと思うのか」
「思わないけど」
十代は困ったように笑う。
「でも、万丈目、オレは本当にお前に心臓をあげたっていい」
「いらん」
「欲しがるやつはいっぱいいるのに。心臓どころか肉のひとかけら、爪の一枚だって」
「お前のものだ。かけらだって他人にはやるな」
十代の目が潤んで、懐かしむように笑う。
「やっぱりお前の愛はちゃんと人間のかたちをしてる」
「お前のはしてないのか」
「人間は自分の心臓を自分で料理できない」
当たり前だ。そんな常識もこいつには通用しない。人間ではないから──。
「わかった。お前は人間のままでいるのがいいんだな」
「お前も人間のままでいろ」
「それは無理」
十代は少し悲しそうに笑った。心臓はトクトクと動いて、温かくて、こんなに人間と変わらない姿をしているのに。
「……本当に無理なんだよ、万丈目。でも、そう願ってくれてありがとう」
十代は己の心臓から離したオレの手を確かめるように撫でて、ベッドの上へと戻した。
「迷惑かけて悪かったよ。じゃあな、お大事に」
「待て!」
帰ろうとした赤いジャケットの裾を掴む。
「なんだよ?」
「いつまでも身勝手なやつだな。自分の望みばっかりべらべら並べ立てて、拒否されたらさっさと帰ろうとして」
「なんだよォ……」
十代は悲しげな目でオレをにらみ返す。
「少しはオレの話も聞け」
そう言えば十代はおとなしくオレの言葉を待った。
「まず、何十年も来なかったくせにいきなり心臓を食えだのいうのはやめろ。あと夜中に来るな。どこから侵入したんだか知らんが、病院の人たちを困らせることはやめろ。人間じゃないとか言い訳せずに人間のルールは守れ」
「こんなときにお説教……」
「お前がそんなだからだろうが。お前がドロップアウトボーイなのは知ってるがな、もういい大人だろうが。少しは社会性ってもんを身につけたらどうなんだ。友達の葬儀にも来ないのは、さすがにどうかと思うぞ。出られないなら弔電のひとつも出せ。冠婚葬祭は大事にしろ。だがそれよりも、生きているうちに会いに行け。もう──オレと翔とヨハンくらいしか残ってないぞ」
「……ん」
「『はい』なら『はい』とハッキリ言え。誤魔化すな」
「もう会えない。翔もヨハンも──オレが見えない」
「何?」
「……人間じゃないんだ」
十代は真剣な目をしている。精霊を見るヨハンにさえ見えないだと?
「なら、なんでオレは」
「たぶん昔オレの血に触ったから」
血など触っただろうか。こいつはどんな傷もあっという間に治ってしまうのに。
「覚えてない? 昔、一緒にチョコケーキ作っただろ」
十代は懐かしそうに目を細めた。
「……バレンタインの頃だったかな。テレビで焼き立てのあったかいチョコケーキがうまいんだって作り方紹介しててさ。そんな特別な材料はなかったし、見てすぐ一緒に作った。お前は型とかバターとか小麦粉とか用意して、オレはチョコを刻んで」
まるで覚えていない。喧嘩別れした記憶ばかり残っているが、一緒にテレビを見て思いつきで料理をするような、そんな穏やかな日もあったのだろう。
「で、オレ指切っちゃってさ。すぐ治るのに、お前はぼんやりしてないで止血しろってオレの指おさえてくれて。今でも覚えてる。嬉しかったんだ。オレのこと人間みたいに扱ってくれて」
なんだそれは。つまり。
「……人間扱いされなかったのか」
笑っていた顔が強ばる。そういえば、あの頃──なんでこの根なし草がおとなしくオレと一緒に暮らしたりしてたんだ?
「……何かあったのか」
「忘れた」
十代はへらりと笑った。先ほど一瞬覗かせた緊張などすぐ隠してしまう。こういう──素直に言わないところも嫌いだったのだ。大事なことはいつもオレに話さない。高校生の頃から、ずっと。
「お前のそういう態度も別れた原因だぞ」
「聞いても楽しくねーよ。捕まって解剖されるとこだったとか、カルト教団に神の遣いだと思われてストーカーされたとか」
言いながら十代は、今度は椅子に腰かけてオレの頭の横に頬杖をついた。
「……でも、確かにお前に隠し事ばっかりなのはよくなかったよな。今ならなんでも話そうか?」
そんなことを言って、どこまで素直に答えるものか。でも。
「……困ってないか?」
金色の瞳が瞬く。
「なにそれ? もっと聞くことあるだろ」
「質問に答えろ」
「困っては……ないよ」
「他の人間から見えないんだろ」
「人間から見えない方が都合がいい。もう誘拐されるかもなんて思わなくていいし。それに、見せれないこともない。疲れるからあんまやりたくないけど」
「……オレといた頃にはもうそうだったのか?」
だから結婚を嫌がったのか? 存在しない人間になってしまったから──。
「あの頃はまだ見えてた。でも、そうなりかけてはいたかもな」
「なんでオレに話さなかった」
「まだ違和感レベルだったんだよ。スーパーのレジで店員に声をかけないと気づかれないとか、そーゆー地味な違和感。まさかその後見えなくなるとは思わなかったし……お前忙しかったじゃん」
忙しい──それが別れた原因だったかと思い出す。仕事が立て込んで、夜遅く帰り早朝から出掛けて、ほとんど会話もしない日日。あの頃は十代がオレを心配する言葉さえ煩わしく聞こえた。結局オレは倒れて、心配する十代と喧嘩になって別れた。オレはこいつが悩んでいたのも気づかないまま──。
「……すまなかった」
「なんでお前が謝るんだよ。たぶんもともとそうだ。人間の身体は覇王の魂が目覚めるまでの器に過ぎないんだろう。たぶん、おたまじゃくしがカエルになるみたいな。おたまじゃくしは水中で生きられるけど、カエルになったら水中じゃ息ができない。そういうものだ」
「つらくないのか」
「まったくとは言わない。でも、人生にはつらいことも楽しいこともあるだろ。それと変わらないさ」
十代は微笑んだ。生まれ故郷の人間界にいられなくなることが十代の人生なのか? カエルが水中で生きられなくなるように。
「……この何十年、何してた」
「旅してたよ。主に異世界を。──光の波動の活動が異世界に移ったからな。相変わらずのいたちごっこだ」
「これからもそうやって過ごすのか」
「たぶんな」
「──オレが必要か?」
十代はオレを見つめ返す。金の瞳にほんのりと悲しげな色が滲む。
「オレには。でも、オレのためなら心臓はやれない。オレのために人間でなくなるのは、ひとりだけでいい」
金色の瞳が一瞬二色に輝いた。
「お前がもっとデュエルしたいとか、もっといろんなもの見たいとか、自分のために生きたいならこの心臓をやる」
どこまでもひとを頼らないやつだ。そういうところが嫌いなんだ。助けてくれなんて一言も言わない。オレはこんなに老いているのに、こいつはあの頃と中身まで変わらないまま。
「オレは世界中飛び回ってデュエルばかりして生きてきた。もちろんまだ足りないという気持ちもあるが、老兵は去るのみだ。おジャマたちも継ぐ者がいる。アームド・ドラゴンもノース校に返す。心残りは……お前が心配なことくらいだ」
微笑む十代の目から涙が流れた。皺だらけの手を伸ばして、その涙を拭う。
「まったく、どこまでもオレの人生に食い込んできやがって。心臓が不老不死の薬になるだの、解剖されそうだっただの他の人間に見えなくなっただの、冥土の土産どころか心残りにしかならん」
「ごめん。でも心配しなくて大丈夫。オレはお前より強いから」
「何十年も前にオレに勝っただけでまだオレよりも強いつもりなのか? オレがいつまでもお前に負けたノース校の代表選手だと?」
「まさか。お前はキングだ、サンダー」
十代は両手でオレの手を握り、笑った。細められた目からまた涙がこぼれる。
「十代、デュエルしないか」
「……無理すんなよ。片手動かさない方がいいし……」
「なんだ、腑抜けたか?」
「お前が元気ならやりたいけど」
「もう元気になんてならない。お前も知ってるから来たんだろ」
十代は答えなかった。
「十代。オレより強いと証明しろ。でないと心配であの世にも行けん」
「寿命が縮むぜ、じいちゃん」
「これから何日変わろうが同じことだ」
十代は渋渋といった様子でオレが起き上がるのを手伝った。十代に鍵を渡して貴重品入れにしまってあったデッキケースを取り出させ、ベッドにテーブルと片手でデュエルができるようにした、手札立てつきのデュエルフィールドを用意させる。
「なんでこんなのあるの?」
「デュエルするためだ。オレはデュエリストだからな」
十代はまだ不満げな顔のまま自分とオレのデッキをシャッフルした。オレは右手で十代のデッキをカットだけする。久しぶりに触れた十代のデッキには、相変わらずごちゃごちゃと精霊たちの気配がする。
「そんな顔するな。久しぶりのデュエルだ」
オレは右手を差し出した。十代は少し微笑みオレの手を握る。
「アンティルールだ、遊城十代。オレが勝ったらお前の心臓をよこせ」
「はあ?」
十代はぽかんと口をあけた。さっきと逆だ。少しはお前に突然トンチキなことを言われるオレの気持ちがわかったか?
「……なんで」
「強さを証明しろと言ったろ。宇宙を守る覇王様がたかが人間のオレより弱いんじゃ、この先すぐさま世界が滅びかねないからな。とても一人にしておけん」
「……オレのためなら心臓はやれないってさっき言った」
金色の目がオレをにらむ。
「お前のためじゃない。オレのためだ。オレの親族や弟子たちの未来が腑抜けた覇王のせいで滅んだらかなわん」
「じゃあ……オレが勝ったら何くれるの」
「オレの遺産の相続でもするか? 遺言状を書いてやろう」
「人間の金なんかもらってもな」
十代はため息をつく。
「ならオレの心臓は? 心臓同士、フェアだろ」
「……まあ、フェアだけどさ。……オレがわざと負けたら、オレがここに来た目的は果たせるけど」
「お前はそんなことしない。それがどれだけ相手を失望させるか、お前は知っているだろう」
「……そうだな」
「さあ、始めるぞ。先攻はチャレンジャーに譲ってやる」
十代はデッキから手札を引く。一度カードを手にすれば、十代の目は先ほどまでの悲しげなものから勝負の先を計算するデュエリストのそれになる。
心臓が高鳴る。それは勝負への高揚感だけではない。数多の栄冠を賭けたデュエルとは違う感情がここにある。
遊城十代。入学試験に遅刻した上、受験番号百十番のくせに教諭のクロノスを倒した規格外。デュエルアカデミアで多くの者を魅了したレッド寮のドロップアウトボーイ。一時は十二次元を恐怖に陥れ、今は宇宙の守護者となった覇王。そして。
別れの苦手な、永遠の少年。
さあ、一度くらいはまともに別れを告げろ。それともオレに負けるほど弱いのか? もしそうなら、ヒーロー気取りはやめてオレのサイドキックにでもなるんだな。
「オレのターン」
十代はデッキからカードをドローした。
◇◆◇
万丈目に勝った。
勝って──しまった。
「これなら心配する必要はないな」
「うん」
「誇りに思え。この万丈目サンダーの最期のデュエルに勝ったんだ」
「うん」
「楽しいデュエルだった」
万丈目は指を三本揃えて前に出す。ガッチャのポーズだ。
「……うん。楽しいデュエルだった」
オレも同じようにする。目からは我慢してた涙が流れた。
「まったく、それが勝者の顔か? 賞品だってあるだろ」
「……くれるの、心臓」
「約束だからな」
ただし、と万丈目はつけ加える。
「賭けたのは心臓だけだからな、心臓以外のものはやれない。血の一滴も流さず、血管も皮膚細胞の一つも傷つけず、心臓だけを持っていけよ」
なんだかそれはどこかで聞いたことがある──けれど何か思い出せなかった。
「……無理じゃん」
「なんだ、覇王様はそんなこともできないのか?」
万丈目はからかうように笑う。オレもおかしくなって笑った。
「ひでーなあ。騙したのかよ」
「騙してなどいない。お前にその技術がなかっただけだ」
「そんな技術……あるかもしれないけどさ」
十二次元世界のどこかにないとは言い切れない。万丈目は、オレが負けたところで同じことを言うつもりだったのだろう。
「でも、取り出せないけどオレのものにはなったんだよな」
「そうなるな」
「じゃ、大事にしてくれよ。とりあえずは、夜更かしはここまでにして寝てくれ」
「お前が起こしたんだぞ」
「起こすつもりはなかったんだけどなあ」
デッキやデュエルフィールドを元の場所へと片付けて、万丈目を再びベッドに寝かせる。万丈目の胸に耳をあてれば、どくんどくんと音がしている。
「何十年も前に別れた相手には、普通もう少し遠慮があるもんだぞ」
文句を言うわりには万丈目はオレの頭を撫でた。
「オレはついこの前まで一緒に暮らしてたみたいな気がするんだけどな」
頭を撫でてくれる感触もくっついたときのあったかさも、昨日のことみたいにちゃんと覚えてるのに。
心臓の音に耳を澄ます。ずっとこうしていたいけど、精霊の気配で身体を起こした。窓から連絡役の精霊が入ってきた。
「行くのか」
その精霊を見た万丈目が言った。
「うん。本当は一緒にいたいけど。……心臓、大事にして」
「お前が戻ってくるまでくらいは動かしといてやる」
「……無理はしなくていいよ」
「別れくらい言いに来いと言ってる。あと、オレの葬式でもなんでもいいから、翔とヨハンには会え。姿を見せようと思えば見せれるんだろ。挨拶くらいちゃんとしろ。お前は」
人間だろうが。
まっすぐオレの目を見つめて万丈目は言った。
もう人間じゃないって、万丈目が一番知ってるはずなのに。
「……わかった。最速で片づけて帰ってくる。いってきます」
「ああ。行ってこい」
こうやって見送ってくれるのは何年ぶりだっけ。喧嘩別れした日は、出ていくときに顔も見てくれなかった。
ちゃんと帰って来たいな。そんなことを思うのも何年ぶりなんだろう。
右手を振ってくれる万丈目を見ながら、病室のドアを閉めた。
◇◆◇
「遊城十代三世」を名乗る少年は、高校生の頃の遊城十代とそっくりだった。相違点を挙げるとしたら金色の目くらいだ。この少年を見たら遊城十代を知る誰もが孫だと疑わないのではないか、と翔は思った。
翔は遊城十代その人だと知っているわけだが。
十代は、会うなりまるでほんの数ヶ月ぶりのように「よお、久しぶり」などと言うものだから、会ったのが葬儀場でなかったら翔は何言ってるのと大声で叫ぶところだった。
ヨハンの方は驚き呆れていたものの、会えただけでもよかったとその肩を叩いていた。彼は心が広すぎると思う。
「なあ、ちょっと知恵を貸してほしいんだけど、血の一滴も流さず、血管も皮膚細胞の一つも傷つけず、心臓だけを取り出す方法ってある?」
十代は挨拶もそこそこ突拍子もないことを言った。
「心臓ぉ?」
翔は声が裏返ってしまった。
「なんだ? ヴェニスの商人か?」
「あ、ヴェニスの商人……そーいや昔映画見たな。どっかで聞いた気がしたんだよ」
十代は一人で納得したようだった。
「いや、万丈目と心臓を賭けてデュエルしたんだけど、心臓しか賭けてないから正確に心臓だけ持っていけって言われてさ」
「なんで心臓なんか賭けたの」
「話すと長くなるんだよ。それより方法はないのか? 遺体が焼かれる前になんとかしないと」
「無理でしょそんなの」
「まあ、どんな名医も無理だろうな」
無理かァと言った十代は、購買のドローパンが売り切れたときのようだった。そのくらいの軽さで残念がっている。
「三人寄ればなんとやらとはいかねーな」
「仏より悪魔や魔女の方が知ってそうだ」
冗談めかしてヨハンが言う。
「確かに。異世界で聞いてみりゃよかった」
「……ずっと異世界にいたの?」
「ああ。最近は向こうで光の波動の活動が活発になっててな、あんまり人間界に来る暇がない。たぶん会えるのは今日が最後だ」
金色の目は、孫と偽装するためではなく、もうそのように十代は変化してしまったのだろう。
「でも、今日はここにいられるからさ、少し話さないか」
十代の誘いは願ってもないことだった。葬儀の後に三人で食事をすることにした。火葬へ付き添わなくていいのかと聞くと、オレは家族でも親戚でもないと十代は答えた。
「そうなるのは断っちまったからな。仮に結婚してても、十年もしたらオレは死んだことにでもしなきゃいけない。不老不死だなんて知られたら面倒だからな。どのみちオレはあそこには座れない」
十代は親族席を見ながら言った。
葬儀は何事もなく終わった。参列者は多かった。万丈目グループの親類縁者はもちろん、デュエリストとしての関係者も多かった。たくさんの人に愛されてるなと十代は笑った。
葬儀のあとに翔とヨハンと十代は喫茶店へ行った。十代はあまり食べられないとコーヒーだけ頼んでいた。
「長いこと人間界のものは飲み食いしてないし、これだけにしとくよ」
十代は、姿を消してから人間界には時折様子を見に来るだけなのだという。
「問題があればこっちにも留まるけど、今のところダークネスみたいな変な動きはない」
「つまり今は異世界の方に問題があるのか?」
「まあな」
「一人で大丈夫なのか」
「一人じゃねえよ」
笑った十代の少し後ろにヨハンは視線をやった。翔には見えないが精霊たちがいるのだろう。
「それより、二人はどうしてた?」
十代に訊かれ、二人はそれぞれにここ何十年のあらましを話した。十代は興味深そうに頷きながら聞いていた。
「アニキはどうしてたの?」
そう聞けば、光の波動との追いかけっこやら、カエルの王子が都を取り戻すのを手伝ったやら、アンデッドたちの町に住む話すしゃれこうべと友達になったとか、お化けのような魚ばかりが住む海に行ったなど、ファンタジー小説のような話が出てきた。異世界に行った経験がなければ到底信じられなかっただろうと翔は思う。
「そろそろ火葬も終わったかな」
十代は喫茶店の壁にかかる時計を見た。
「心臓──燃えちゃった」
「結局、なんで心臓を賭けてデュエルしたの?」
「別に万丈目の心臓が欲しかったわけじゃないんだけど」
もとはといえば十代の心臓を万丈目に食べさせたかったらしい。覇王の心臓には不老不死をもたらす力があるそうだ。
「いらないって言われちまった。でもそんな力があるなら心配だから、オレより強いと証明しろって、お互いに心臓賭けてデュエルしたんだよ」
勝っちゃった、と十代は少し寂しそうに笑った。
「きっと万丈目は安心したさ」
「アニキのいない間、万丈目くんほとんど負けなしだったんだから」
大器晩成型とでもいうのか、万丈目は三十歳頃からほとんど負けなくなった。当時の万丈目は「あいつがいなくなって気が楽になったんだ」などと嘯いていたが。翔は何か隙間を埋めるようにデュエルに熱中しているのではないかと思った。
「そうか。なら本当に──安心できたかな」
十代は少し瞳を潤ませた。それから気を取り直すように笑う。
「さて、そろそろお暇するよ」
「アニキ──アニキに心配なんて無用かもしれないけど、大丈夫なんスか? 不老不死なんて人類の夢っスよ」
不老不死の肉体を持ち、他者へも不老不死を与えられる。その心臓を求めて戦争が起きたっておかしくはない──それは大袈裟な考えだろうか? 彼が三十代になる頃には姿を消したのは、万丈目と別れたことだけが理由ではないだろう。異世界でだって狙われるのではないか?
「わざわざオレを狙わなくても、不老不死のアイテムなんか異世界にはごろごろあるぜ。定番の人魚にドラゴン、虫なんかにもいる。果物や木の実もあるし、深い森の奥の湧き水とか。お遍路みたいにどっかをめぐるとか、食べる以外の方法もあるし」
「……そんなにあるんスか?」
「ああ。頑張れば手に入るよ、大変だけど」
「軽く言うけどオレの想像よりずっと大変なんだろうな」
「ヨハンなら、レインボードラゴンに聞いた方が早い」
ヨハンの目が見開かれた。
「研究の幅が広がるかもな」
金色の目が細められる。
「……いや、もう次の世代にまかせるさ」
ヨハンは首を横に振った。
「そっか」
「でも十代、お前にオレの力が必要なら、オレはそうする」
ヨハンがまっすぐに十代を見つめた。彼もその心は少年の頃と変わらないと翔は思う。
「ありがとう、ヨハン。気持ちだけ受け取っとく。オレのためにそうするのはひとりだけでいい」
十代は微笑んだ。ヨハンの視線が十代の頭より上へと動く。
「万丈目にも心配されたけど、オレは大丈夫。人間にはもう見えないし」
「え?」
「今は姿を見せてるんだ。疲れるけど、葬儀にはちゃんと出たかったから」
「……それっていつから? だから……ずっと誰にも会わなかったの?」
この何十年も、友人の葬式にさえ来なかったのは。
「正確にいつ頃かはわかんねーけど、たぶん年齢でいえば三十くらい? 光の波動の活動が人間界から精霊界の方に移った時期でもあるから、そっちに対応しやすく変化したのかもしれない」
十代は淡淡と言ったが、翔には受け入れがたかった。
「それって、精霊の見える人にしか見えないってこと?」
「いや、ヨハンにも見えない」
「オレも?」
「葬儀場入る前に試した。見えなかったろ」
翔とヨハンが十代に会ったのは葬儀場の中だ。ヨハンにさえ見えないのか。
「まあちょうどいいよ。変な研究所に目をつけられたりしてたから」
研究所──やはり不老不死というものは厄介なようだ。
「しばらく人間界からは離れる。たぶん百年くらいは」
「あっさり百年なんて言うんだから」
「でも、本当に──あっという間なんだ、すごく」
不満げに言った翔に十代は微笑む。人ならざる力の象徴の金色の目。少年のままの姿。人間とは違う時間を生きている。
「翔、ヨハン、最後に話せてよかった。本当にありがとう。──さよなら」
喫茶店を出て、十代は別れを言い終わると一瞬で姿を消してしまった。まだそこにいて見えなくなっただけなのか、それともいなくなってしまったのか、翔もヨハンもわからなかった。
「……神出鬼没のつむじ風ってか」
ヨハンが呟いた。風が二人の頬を撫でた。それがただの風であったのか、それとも十代が走り去った際の風だったのか、やはり翔にはわからなかった。
◇◆◇
「ただいま……」
真っ暗な病室に入る。部屋の主は最後に見たときより繋がれた管が増えている。
「また夜中でごめん。もっと早く戻りたかったけど……」
最後に見たときより痩せた顔。ただでさえ白い肌は、さらに青白くなった気がする。
「待っててくれてありがとう。もう大丈夫だよ……」
心臓のそばに耳をあてる。あの日より弱くなった音。
「光の波動はおとなしくさせてきたから、しばらくここにいられるよ。ちゃんとお前の葬式出るし翔とヨハンにも会う。たぶん、これが最後になる」
万丈目はなんの反応もしない。もう聞こえないのかもしれない。
「……お前がいなかったら、きっと戻らなかった。人間として別れる機会をくれてありがとう」
涙が溢れてくる。心臓の音は。
「おやすみ、万丈目……」
しばらく胸を借りてもいいかな。心臓はもらえないしこのくらい許してくれよ。朝が来る前にはちゃんと出ていくから。
ちゃんと笑って、ありがとうとさようならを言うよ。だから今は、もう少しだけ。
2025/11/24
2025/12/27 一部修正
