一話完結短編

りんご

「よぉ万丈目。久しぶりだな」
 十代はオレを見下ろして笑った。昼間見れば明るく健康的に見えるだろうその顔は、月明かりだけに照らされて今は顔色が悪く見える。病院のベッドで点滴を刺されたオレほどじゃないだろうが。
 オレは自由な右手を伸ばして、それが本物か幻か確かめようとした。
「本物。触れるだろ?」
 十代は自らその手をつかんで自分の頬へ導いた。触れた頬は温かく、みずみずしく、皺も染みのひとつもない。皺だらけでかさかさのオレの手とは大違いだ。懐かしい赤い制服も、暗くても色褪せもなさそうに見えた。
「……何十年ぶりだ? 相変わらずの間抜け面だな」
「お前はずいぶんしおしおになっちゃって。ま、いーもん持ってきたぜ」
 十代はオレの右手をそっとベッドの上に戻した。それから赤いショルダーバッグに手を突っ込む(それも何十年前に見たのと全く変わっていない)。フニャアと猫の迷惑そうな鳴き声がした。どうやらファラオがいるらしい。ここが病院だとこいつはわかっているのだろうか。
「あった。ほら、りんご」
 ショルダーバッグから出てきたのは、薄暗がりでも赤いとわかるほど色鮮やかなりんごだった。十代がバッグから取り出した途端に甘く、しかしさわやかな香りがする。
「すごいぜ、一口でどんな病気も怪我もたちどころに治って、老いた者は若返り永遠の命を得るチートアイテムだ」
 にっこりと十代は笑い、ただし──と付け加える。
「私利私欲でこれを貪る者は罰を受ける」
「そんなもんをひとに食わすな」
「お前は大丈夫だよォ、オレへの愛のために食べてくれるなら」
「愛?」
「そ。精霊と人間の愛は太古の昔からの悩みの種だからな。精霊への愛のために人間が食べることは私利私欲から除外されてる」
 もしや十代の不老不死は、このりんごを食べたからもたらされたのか? 魂の片割れと永遠に共にいるために?
「お前には──ユベルがいるだろ」
「ユベルへの愛とお前への愛は別枠だよ。お前だって兄貴たちへの愛とオレへの愛は別枠だろ」
 悪びれもせず十代は笑った。
「……何十年も前に別れて、まだオレがお前を愛してると思うのか。オレたちは喧嘩別れしたんだぞ。記憶力が悪すぎてそれも忘れたのか?」
 確か──別れたのも病院だった気がする。
 仕事に明け暮れ、過労で倒れたのだったと思う。十代は心配し駆けつけてきた。でも、そこで仕事を減らせだのなんだの、挙げ句の果てにはもうプロは辞めたらどうかと言われ、怒りにまかせて別れた──そう思い返すと自分が最低の男だったような気がする。だが十代も、オレが何度も無理をするなと言っても聞くことはなかった。それでオレに指図するのはおかしいだろう。オレは死なないからいいんだなんて、オレがどんなにお前が心配で胸を痛めているかをまるで無視しておきながら、自分だけ「お前が心配だ」なんてふざけてるのか。
 それだけが理由ではなかったと思う。日常の些細なすれ違いだとか、そういうものの積み重ね。結婚でもしていれば喧嘩で済んだかもしれないが、オレたちにそんな縛りはなかった。申し入れたのに断られたからだ。結婚もしてないくせに、とも言ったような気がする。
「覚えてるよォ。いつも自分の都合ばかり言いやがってって怒ってた。もう無理だ、出てってくれ、結婚する気もないくせに、年も取らないお前にオレの気持ちはわからないって──だから」
 同じになるようにしたんじゃないか。
「食べてよ、万丈目。見つけるの苦労したんだぜ」
 十代はりんごを差し出した。鼻先に近づいた果実からは甘くてさわやかな香り。入院以来あまり食欲がなかったというのにやけにうまそうだ。思わず唾を飲み込んだ。でも。
「オレが望んだのはそんなことじゃない。お前が身勝手にふらついてたこの何十年を一緒に過ごしたかったんだ。でもお前はそのための譲歩をしなかった。全然変わってないじゃないか」
 十代は首を傾げた。子供のように可愛子ぶるな。
「……オレとはいたくなかったんじゃないの? お前がいたらオレは仕事に集中できないって──」
 お前がそう言うなら出てくよ、とあの日十代は家を出ていった。ショルダーバッグとファラオ以外の荷物はオレの家に置いたまま。他のものは好きにしろというから処分した。十代は十代でオレに愛想を尽かしたのだと──思っていた。
「……オレと過ごしたかった?」
「今さら遅い」
「今から一緒に過ごせばいいよ」
 十代は瞳を潤ませて笑う。
「……十代、お前とは過ごせない」
「愛してるのに?」
「愛してないと言ったろ」
「そんなことないよ。だってこのりんご、うまそうだろ?」
「だからどうした」
「愛してない人間にはうまそうに見えないんだってさ。精霊の片思いで事故ったら大変だからな」
「そんな都合のいい話あるか」
「最近のカードよりは都合よくないぜ。デメリットつきだ」
 私利私欲で貪れば罰を受ける──か。罰とはいったいなんだろう。永遠の命を持ったまま、永遠に罰を受け続けるのか。
「罰ってなんだ」
「さあ? 試してみるか」
 十代はオレに差し出したりんごを自分の口許に運ぶ──。
「馬鹿! 何やってる!?」
 飛び起きて右手でりんごを叩き落とした。十代は目を見開いた。オレも自分で驚くほどの素早さだったと思う。床に落ちたりんごの音がやけに大きく聞こえた。
「……お前の、そういうところが嫌いなんだ! いつも自分を顧みない。オレがどんなにお前が心配か、全然考えようとしない。そんなだからお前とは一緒にいられないんだ!」
 驚いた顔が、悲しみへと変わっていく。
「オレは──お前が出ていってほっとした。もうお前のことで気を揉まなくていいと。そりゃあな、少しも心配しなかったわけじゃない。でも、自分事のようには心配しなくなった。他人だからな。それからの方が──楽だった。お前といるのは」
 苦しかったんだ。幸せでもあったが、旅に出ればいつも無事か気を揉んで、戻っても真実は話さない十代に苛ついて、そうされるのは自分が無力だからだと虚しくなって──そんな日日が耐えられなかった。
「……愛しているさ。でも、お前と一緒にいるのは無理だ」
 出てってくれ──あの時と同じ台詞をオレは言っている。
 十代は大きな瞳から涙を一粒二粒こぼして、ごめんなと謝った。オレは視線を落としてため息をついた。膝に置いた右手は皺だらけだ。十代と話していると若い頃のように怒ってしまうが、この歳になってまだ、あの日と同じように十代を傷つけることしか言えないのか?
「オレも愛してるよ、万丈目」
 十代がそう言った後、病室の戸が開く音がした。
「万丈目さん」
 突然女性の声がした。驚いて顔を上げると、ドアの前に看護師がいた。
「眠れませんか? お加減は」
「いえ……大丈夫です」
「そうですか……すみませんが、夜間のお電話はお控えください。隣の部屋の方が……」
「あ──すみません。気をつけます」
 電話──この看護師は十代の姿を見ていないのだ。この病室は廊下の突き当たり、いったいあいつはどこから出ていったんだ? そもそも、こんな真夜中の病院にどうやって入り込んだ? 昼間ならまだしも夜間に部外者の出入りなどできないはずだ。オレは夢を見ていたのか?
「あ……少し失礼します」
 看護師は廊下から病室に入り、ベッドのそばで何かを拾った。
「それは──」
 りんごだ。なら、あれは夢ではなく──。
「よく出来てますね。木工細工ですか?」
 木工細工?
「……見舞いに来た友人の土産で、よくは知らなくて」
 看護師は工芸品ですかねぇと言いりんごをサイドテーブルに置いた。失礼しますと部屋を出ていく。
 愛してない人間にはうまそうに見えないんだってさ、という十代の言葉を思い出す。十代と無関係なあの看護師には置物にしか見えないというのか。それとも暗くて勘違いを──見た目ならまだしも触って間違えることがあるか?
 オレはりんごを手に取った。その感触は木などではなく、みずみずしい果物のそれだ。甘くさわやかな香りも相変わらずしている。
 オレの手と鼻がおかしいのか?
 触覚も嗅覚も老いて木工細工と本物の果実の区別もつかなくなったか。そもそも十代は本当に来たのか? 先ほど看護師にごまかしたように、本当はこれも誰かの見舞品で十代が持ってきたなんてただの夢じゃないのか。
 病室であの日のことを思い出し、あんな夢を見ただけで。
 いや、りんごの見舞いなんて覚えがない。手も鼻もそこまで耄碌してないだろう。存在ごと非常識なあいつのことだ。変なりんごを持ってきたっておかしくはない。病室にだってテレポートかなにかで人知れず出入りできるんじゃないか?
 またあいつのことで頭を悩ませている。
 まだ──愛しているのか?
 本物のりんごとしか思えないそれをサイドテーブルに戻した。

◇◆◇

 翌日。ヨハン・アンデルセンが見舞いに来た。現在日本に住んでいる彼は白い髭を伸ばしていて、珍しいなと言うと孫娘に冬にサンタ役をやれとせがまれているのだと話した。町内会の催しで子供たちを驚かせたいそうだ。
 しばらくそんな談笑をしてから──オレはりんごがどう見えるかとヨハンに訊ねた。
「木彫り? よくできてるな。万丈目が作ったのか?」
「まさか。……信じられないかもしれないが」
 昨夜十代が持ってきたのだと言うと、ヨハンはひどく驚き居場所を知りたがった。
「オレもわからん。真夜中にいきなり来ていきなり消えた」
「またかよあいつは……本当にどこで何してんだか」
「お前は最近会ってないのか」
「会ってないよ。最後に会ったのは──土砂崩れの時。話したろ?」
 ヨハンが三十代の頃、精霊研究のためにある山小屋にいた。そこに十代が訪ねてきて、一緒に麓の町へ買い物に行った。しばらくすると土砂崩れがあったが大丈夫かとヨハンへ連絡があり、誰もいない山小屋は土砂崩れに巻き込まれていた。十代の姿はいつの間にか消えていた──という、まるで怪談話のような出来事がヨハンにはあった。
 ヨハン以外の友人たちからも、横断歩道を渡る直前に後ろから十代に呼ばれた気がして立ち止まったら目の前を信号無視のバイクが猛スピードで横切ったとか、発掘作業中に足を滑らせ高所から落ちそうになったところを赤い袖に引っ張られた気がするだとか、そんな話を聞くのである。どれも命の危機を救われた話だ。はっきり姿を見て会話したというのはヨハンしかおらず、他の友人たちは聞き違いや見間違いかもしれないと言っている──。
「お前にも、そういう理由で会いに来たのか?」
「……不老不死の秘薬らしい。ただ、私利私欲で食うと罰を受けると」
「秘薬って、木が? 削った粉でも飲むのか?」
「木じゃ──ないかもしれん」
「触っていいか?」
 頷くとヨハンはりんごを手に取った。ヨハンが爪で叩くとコツコツとまるで木としか思えない音がした。
「……木に見えるけど……」
「オレには──本物のりんごに見える。手触りも──香りも」
「香り?」
 ヨハンは鼻にりんごを近づけた。
「……匂いはしないな。木や塗料の匂いがしないのも不自然だけど」
 どうやらヨハンには何も匂いがしないようだった。
「他に何か言ってたか?」
 オレは昨夜聞いたことをヨハンに話した。
「精霊の──か。エメラルド・タートル、聞いたことあるか?」
 ヨハンがそう訊ねるとエメラルド・タートルが姿を現した。
「さて──十二次元世界のどこかに、そんな果樹園があると聞いたことはあるが……実際に手にした精霊の話は聞いたことがない」
「十代は──そいつを見つけたってことか」
「本当に存在するとは……」
「エメラルド、これ──木彫りと本物のどっちに見える?」
 ヨハンはりんごをエメラルド・タートルの前にやる。
「本物の果実に見える」
「精霊と食べる資格のある人間には果実に見える、ってことかもな」
 ヨハンはオレにりんごを渡した。
「食うの?」
「食わん。この先もあれに煩わされるのは御免だ」
「手厳しいなあ」
「お前なら──食うのか」
「……奥さんが持ってきたら食う」
 ヨハンの連れ合いは五年ほど前に亡くなっている。ヨハンは長く連れ添ったからそう思うだろうが──。
「オレは何十年も前に別れてんだぞ。その間は音信不通だ。今さら来られても困る」
「より戻すのもよくないか? 独り身なんだし誰に遠慮もいらないだろ」
「お前、奥さんじゃなくて元カノで想像してみろ」
「そりゃ怖い」
 ヨハンはおどけて笑った。それから、少し寂しそうに言った。
「でも、十代──お前とは一緒にいたかったんだな」
 ちょっとうらやましいや、とヨハンは呟く。
「お前は知らんからそんなことが言える。あいつと暮らすとなぁ、心が削れるんだ」
「はは。ま、暮らした人間にしかわかんないことはあるよな」
 ヨハンなら──愛する人からこのりんごを渡されたら迷わずかじるのだろう。愛する人と永遠に共にいられることを心から喜ぶのかもしれない。
 ──オレには無理だ。
 りんごをまたサイドテーブルに戻す。それをかじる気はしなかったが、捨てる気も起きなかった。

◇◆◇

 夜、また十代は病室に現れた。あんなことを言われたのにけろりとした顔をしている。
「……ヨハンが会いたがってたぞ。オレのとこなんか来てないで、あいつのところに行け」
「ヨハンにはこの前会ったよ」
「何年前の話だ」
「数えてない」
「心配してたぞ。お前が──ひとりになるんじゃないかって」
「オレにはユベルもネオスペーシアンたちも、ファラオも大徳寺先生もいるよ」
「なら──どうしてオレに不老不死になれだなんて言うんだ」
 十代は大きな目をぱちくりとさせ、それから笑った。
「お前、年取って鈍くなった? 昔はオレに野暮だなんだ言ってたくせに」
 十代はオレの右手を握った。
「……ちょっと冷たい手が、大好きなんだ」
 十代の手の熱が伝わってくる。たぶん何十年も前の、薄れてしまった記憶と同じなのだろうが──もうよく覚えていない。
「大好きだよ。愛してる。一緒にいたい。理由なんてそれだけだ」
「それだけ──か」
 愛してる、一緒にいたい──そんな言葉は昔だって言われたのだ。でも、それは十代の都合の押しつけのように感じたし、今もそうだ。
「その次は?」
「次?」
「オレを不老不死にして、お前はどうしたいんだ」
「どうって……」
「お前はいつも後先を考えない。少しは先の話をしろ。オレを勧誘したいなら、そのくらいプレゼンしてみせろ」
「ぷれぜん?」
 十代は不思議そうに聞き返した。こいつには無縁の言葉だろう。
「仮にだ。オレがそこのりんごを食ったとして、オレになんのメリットがある?」
「……不老不死」
「まあ、確かにメリットだ。やり残したことがないとは言わん。この先に出るカードがどんなものか気になるし、これから面白いデュエリストがたくさん出てくるだろうし、甥姪やその子や孫の行く末だって気になる。でもオレは、人間ってのは寿命があると、できる範囲のことはもうやっちまった。そこはもう納得してる。それをくつがえすほどのメリットが、オレにあると思えんのだ」
「あと……この先一生病知らず、全盛期以上の気力体力、見た目の年齢は多少変えれるから、お前の好きな頃の姿になれる」
「見た目変えられるなら、なんでお前はその姿なんだ。もっと大人になれば職質されずに済むぞ」
「実際なったことないからな。そういうのは難しい」
「じゃあ子供にはなれるのか」
「子供の姿でお願いしたら食べてくれる? サンダーおじいちゃん」
「子供の願いがなんでも通るなんてのは教育に悪い」
「それは確かに」
「で、他には?」
「……暑さ寒さに強くなるから、南極探検だって行けるぜ。富士山やエベレスト登ったって苦しくない。地球だって異世界だって、だいたいどこでも行ける。世界中の絶景でも見に行くか? 異世界のドラゴンがいっぱい住んでるとこや空飛ぶ魚がいるとこなんて見に行くのはどうだ? そんでいろんな精霊たちとデュエルすんの。楽しいぜ」
「旅行とデュエルがメリットか? 確かに並みの人間には体験できないだろうが、オレは世界中飛び回って強豪たちとデュエルしてきたんだぞ。行ってない場所もあるし対戦できなかったデュエリストもいるがな、もう十分だ」
 十代は黙り込んで視線を迷わせる。早早にネタ切れか。
「……なんだ、もう思いつかないのか? 人様から安らかな死を奪おうというんだ、そのくらい」
 右手が握りしめられた。十代は、まるで痛みをこらえるような顔をしている。
「……お前に安らかな死は来ない。これ以上──苦しまずに済む」
 ──なんだ、知ってやがったのか。
「……だから来たのか。ヨハンや翔を助けた時みたいに」
 十代に助けられたかもしれないという話をいくつか聞いた時、オレのところにも来るのだろうかと考えたことがある。
「お前に恩を受けるのは御免だ」
 そう思った。みんな十代に感謝していたし、それで無事であったこと自体はとてもいいことだ。でも。
「……恩を売るなんて思ってない」
 オレを見つめる瞳に涙がにじんだ。また傷つけている。
「お前にとってはそうだろうよ。でも、オレは助けられてばかりで、若い頃はいつか恩を返せるはずだと思ったがな──そんな日は来なかった。これ以上は受けられない」
「恩なんて」
「ある。返しきれないほど」
「……じゃ、これを恩返しと思ってよ。オレはお前の苦しむところ見たくない。お前が死ぬのも嫌だ。お前とずっと──」
「それは割に合わないだろ」
 十代は目に涙を浮かばせた。
「……プレゼンも下手、恩と恩返しのバランスも悪い、まったく、本当にオレのメリットがないな」
「……オレは万丈目と一緒にいられたら嬉しい」
「自分の都合ばかり言うな」
 十代の目からはぼろぼろ涙がこぼれる。オレが少し右手を動かすと、十代は握っていた手を離した。濡れた頬を袖で拭ってやる。十代に泣き落とすつもりはないのだろうが、泣かれると弱い。
「十代」
 少し背に手をやれば、十代はオレの肩に額を寄せた。ぎゅっとオレの患者衣を掴む。子供のように泣き出したその背を軽く叩いてやる。
 若い頃、別れた時だってこんな風に泣かなかった気がする。別れずに一緒に暮らしていたら十代はオレの死を受け入れられたのだろうか。それとも、こうして不可思議なりんごや何かを食わせようとしただろうか。もし長く連れ添っていたら、オレはそれを食べただろうか?
 でも、そんなもしもを考えたって、オレたち十年ももたなかったじゃないか。付き合ったのは二十を過ぎ仕事も慣れた頃だったか。別れたのは三十頃だったと思う。オレがお前に同情して不老不死になったところで、関係を続けるなんて無理だろう。オレも十代もいずれ後悔に苛まれるはずだ。
 オレのようなただの人間に不老不死は重すぎる。
「……オレが苦しむのを見たくないなら、もう来るな。本当にすまないが、あのりんごは食べてやれん」
 十代はさらに激しく泣いた。オレは慰めになるかどうかわからないことをいくつか十代に話した。泣きじゃくる十代の背を撫でたり叩いたりしてやるうち、いつの間にか眠っていた。
 目が覚めたら病室は明るくなっていて、十代の姿はなかった。サイドテーブルには相変わらずりんごがあって、甘くさわやかな香りをさせていた。

◇◆◇

 甘くさわやかな香りで意識が浮上した。近頃苛まれていた息苦しさと痛みが和らいでいた。視界の端に赤い色──。
 十代はりんごをおろし金ですりおろしていた。いい香りがしたのはこのせいだろう。
「こんなもんでいいかな」
 十代はおろしたりんごを陶器の小鉢に入れた。銀色のスプーンに一匙すくう。そういえば、一緒に暮らしていた頃に熱を出したら十代がこうしてすりおろしたりんごを食べさせてくれたことがあったか。十代はあの頃のように微笑む。
「ほら、これ食べたら楽になるぜ」
「十代」
 これは夢か、何かそれに近いものだ。こんなにはっきり声が出るはずがないし、眼鏡もないのにその姿がはっきり見えるのもおかしい。それはこの病室に初めて十代が訪ねて来たときからそうだ──すぐに気づかなかったなんて耄碌している。
「十代、もう言ったはずだ。オレは不老不死にはならない」
「なってみりゃあ楽しいって。オレは楽しいもん」
「お前みたいな能天気は楽しいだろうさ」
「お前はいろいろ考えすぎ。もっと気楽に行こうぜ」
「お前のそういうところが付き合いきれんと言ってる」
「でも、ずっとこれを食べれたらって思ってただろ?」
 十代はオレの口許にスプーンを近づける。甘くさわやかな香り。口に入れたら甘くほどよく酸味があってきっとうまいだろう。病状が悪化し痛みや苦しみに苛まれてはあれをかじれば楽になれるかと思わない日はなかった。
「思ったさ。でもダメだ」
「──そうか」
 十代はスプーンをオレから離して、自分の口に入れた。
「何やってる!」
「やっぱり食べたかった?」
「違う! それを食うと罰を受けるんだろ!」
「何を慌ててるんだよ。お前には関係ないだろ? オレがこの先どうなろうが、死んじまうお前には関係ない。もうオレに関わりたくないから、オレのことがどうでもいいから、だから食べないんだろ?」
「違う! どうでもいいはずないだろ」
「だったらなんで一緒にいてくれないんだよ。オレに自分の都合ばかりって言うけど、お前だって自分の都合ばっかりだ。結婚しろとか人間のルールに縛りつけようとして。オレが人間じゃないのはわかってただろ」
「お前が人間じゃないなんて思ってない」
「嘘をつくなよ。お前が、お前だけが知ってたろ。オレが人間じゃないこと、誰より」
 オレを覗き込む大きな目が、キラキラと色を変える。宿命と精霊との融合がもたらした変化を他の誰にも話さないまま、不老に気づかれる前に姿を消した。
「結婚しないとか仕事に口出すとか、そんなこと本当の理由じゃなかったんじゃないのか? 本当に耐えられなかったのは、オレの姿が変わらないことだろ。自分だけが年老いて」
 茶褐色に戻った瞳に皺だらけの顔が映る。
「仕事の枠はどんどん若手に取られて、そろそろ落ち目だなんて言われて、オレも誰かに取られてしまわないか不安になって、それで持ち出したのが結婚だもんなあ。でもさ、お前の家族になんて説明すんの? こいつは永遠に姿が変わらない化け物だけど気にしないでくれとでも言うのか? なんでオレが結婚を渋ったか、本当は気づいてたくせに。それで捨てられる前に捨てようなんて酷いもんだ。オレはこんなに一途なのに、お前はオレを信じなかった」
 こいつはオレだ。後悔とか、罪悪感とか、未練とか、そんなものがないまぜになって遊城十代の姿をしている。それに気づけば十代は消えてしまった。サイドテーブルのりんごは削られていないし、おろし金も小鉢もスプーンも存在していない。甘くさわやかな香りだけはりんごから漂っている。
 このりんごは、本当に十代が持ってきたものだったろうか。そこから既に妄想で、あれは誰かが持ってきたただのりんごじゃないのか。不老不死の秘薬を持ってきてほしいなんて願望が実はあったのか? それともそんなものでもなければ十代は会いに来ないという、自分を納得させるための小道具なのか。不老不死なんて存在しないからオレはそれを断るしかない、そんな脳内の一人芝居だったんだろうか。
「万丈目」
 ぼやけた視界に赤い人影が立つ。
「本当に食べてくれないの」
 湿っぽい声。さっきの威勢のよさはどうした? もっとオレを責めてくれよ。お前の不老を疎ましいと思った。お前の愛を信じなかった。そんなやつのために、お前は泣くことなんてないんだ。
「万丈目」
 甘くてさわやかな香りがする。またりんごをすりおろしたのだろうか。脳内の一人芝居なら食べてやればよかったか? でも不老不死になったところで、どうせオレたちはすれ違って、お前を泣かせて、ろくなことにならないんだろう。
 すまない、十代。
 そう言いたかったのに声は出なかった。夢の中なのにまだ眠い。万丈目万丈目と呼ぶ声がする。
「行かないで」
 別にどこにも行きゃあしない。どうせここから動けないしな。ただ、今は眠いんだから、眠らせてくれ。

◇◆◇

 医師やら看護師やら何人か出入りしたが、病室の隅でぐずぐず泣く少年に気づく者は誰もいない。長く人間界から離れるうち、彼の存在は人間界からズレてしまったようだった。精霊を認識できる人間にしか彼を見ることはできない。
 数少ないその一人が、今しがたこの世を去ってしまった。
 彼は十代の度重なる誘いを断り、人間として死ぬことを選んだ。
 薄情者──なんて言ったら十代に怒られるんだろうなあとユベルは思う。
 ユベルにしてみればほとんどの人間は薄情者だ。誰も彼の宿命に理解を示さず、その宿命を共にしようとしない。ユベルは迷うことなくそうしたのに。
 彼を愛していると言ったあの男さえ、その宿命や不老の身体を疎んだ。
 まあ、別れた原因はそれだけではないのだろう。口うるさい男で、よく十代と言い争いをしていた。十代の方も一年の半分は家にいないのだから「家庭」とやらを望むあの男とのいさかいは仕方ないのだろうとユベルは思った。
 生きて別れる時も死に別れる時も十代を泣かせてばかりの男だった。
 あの男の何がよかったのかユベルにはよくわからない。精霊たちにはよく好かれる男だった。雑魚をまとめる力はあるから、配下に置けば役立つだろうと思ったが──十代はあの男をそのように使うつもりはないようだった。
 むしろ役割でも与えてやった方があの実を食べたんじゃないか、とユベルは思う。あの男は十代に妙な対抗意識を持っているから、配下にしてやるなんて言ったら反発してしまうか。そこは物は言いようで「光の波動から世界を守るために力になってほしい」とでも言えば──なんなら十代がほんの少しか弱そうなふりをして「お前しか頼れないんだ」とでも言えば、あの男の宿命への憎しみは愛する者を守るというヒロイズムを満たすものへ転換されたのではないか。
 あるいは寂しい悲しい置いていかないでと泣きながら情に訴えてやるとか。
 しかしそのように誘うことを十代は嫌がった。
 その結果がこれだ。
 十代はあの男が死んだ病室の隅でぐずぐず泣いている。部屋の片隅で膝を抱えるようにして泣く姿はまるで小さな子供だ。やっと少し涙はおさまってきた。
 十代はまたあの男のベッドを眺めて、あの男に食べさせるはずだった果実をかじった。ぼろぼろ涙を流しながら、赤い実をかじっては咀嚼し飲み込む。しゃくしゃくと小気味いい音がして、甘くさわやかな香りが病室を満たす。今しがた人が死んだ部屋に似つかわしくないくらい、いきいきとした音と香りだ。
「……どうしたんだい」
 空腹なんて十代にはとうに縁のないものだ。腹が減ったわけではないだろう。
「……永遠に罰を受けるんだろ。そうしたら」
 あいつのことを覚えていられる。
 その罰って果実を盗んだりした者に対するもので、正当に手に入れたキミには関係ないんじゃないかな──ユベルはそう思ったが、これ以上十代を泣かせたくはないから黙っておいた。
 十代は果実の芯も種も飲み込んでしまった。既に不老不死の十代にとって、あの果実は人間界のりんごや何かと変わらないだろう。欠片も残さず食べたところで、祝福も罰ももたらさない。
 苦労して手に入れた果実も、結局役にたたなかったか。いや、十代にあの男を諦めさせるには役立ったろうか。
 一応ユベルは忠告したのだ。あの男はそんなもの食べないと。そうかもしれないけど、と十代は一縷の望みをかけていたようだったが。
 ──まあ、ただの人間だからな。
 ユベルとて元はただの人間なのだが。今にして思えば、あの胆力はどこから出てきたのだろう。幼く恐れ知らずであったのも理由の一つか。もちろん何よりも十代への愛と忠誠があるけれど。
 ──やっぱり薄情だ。
 そんな薄情者でも十代は愛している。恋というのは理屈ではないのだろう。ユベルにはよくわからない。十代への愛はどうやら種類が違う。
 十代はため息をついて立ち上がり、またあの男の顔を見た。苦しむ病だと聞いていたが、死に顔は穏やかに見える。最期にすまないと呟いた口が少し開いていた。
 十代は小さくさよならを言って、涙を拭うと病室を出た。案外あっさり出たなと思ったら、万丈目の親族たちが病室に向かって来ていた。廊下ですれ違ったが、誰一人十代に気づく者はいない。
「火葬場までくっついてるつもりかと思った」
「それをやるのはあいつの家族だ。オレにその資格はない」
 家族になるのは断っちゃったもんね、なんて言ったら十代はまた泣くかもしれない。あの男は結婚というものを重視していたが、十代はそれを断った。十代は、おそらく高校生から変わらない姿をあの男の家族に見せたくなかったのだろう。結局三十になる頃には十代は友人たちにさえ会わなくなった。時折遠くからちょっかいをかけるようなことはしていたが。
 あの男が十代の不老を受け入れていたら、もう少し違ったろうか。十代はまだ普通の人間からも見えて、誰かと親しく交流していただろうか。
 考えたとてせんないことではある。人間の世界に生きていくなら、身分証の偽造やらなんやら面倒なこともつきまとう。十代はもう人の理から外れているのだ。人間界には必要な時にだけ関わるというのも悪い選択ではない。
「また異世界に行くのかい」
「葬式が終わったらな」
 葬式には出るらしい。まあ、あの男に関わるのもこれが最後だろう。

◇◆◇

 ずいぶん久しぶりに遊城十代の姿を見た。
 万丈目準の葬儀に、一人だけ派手な赤い制服を来て参列者席の隅に座っていた。その赤い色に目を留める人間は、ヨハン以外にはいないようだった。
「……十代」
 ヨハンは彼の隣に座り小さな声で呼んだ。
「よう、ヨハン。久しぶり」
 十代も小さな声でそう返した。最後に見た日から全く変わらない、今となっては孫でもおかしくないほどの幼い顔。
「……山小屋を訪ねてきて以来だな。あの時は──助かった」
「最後に会ったのそんなとこだっけ?」
 ヨハンにとっては一大事だったあの日も、もう彼にとっては記憶の彼方のようだ。
「……来たんだな、葬式」
「最後だからな。お前の顔も見たかったし」
「そか、ありがと」
 あいつに会うよう言っておいたから、と万丈目は言っていた。万丈目からはあれから十代は一度しか来ていないと聞いている。まだ彼がまともに話せた頃だから、もう何ヶ月も前だ。
「たくさん人が来てるな」
「そうだな」
 見知ったプロデュエリストが何人も来ていた。デュエリスト以外にも、万丈目の仕事関係らしい参列者も多かった。彼自身は結婚していないが、甥姪の孫なども来て親族も多い。
「知ってる? おジャマのカードを継いだの……」
「ああ、あのお孫さん。小さいのに、もうデュエルの基礎は身についてるよ。オレも一回デュエルしたけど、将来が楽しみだ」
 万丈目の姪の孫娘は、まだ小学生になったばかりだ。おジャマカードを気に入り、万丈目から引き継いだ。彼女は精霊が見えるわけではないが、きっとカードを大切にするだろうとヨハンは思った。
「……万丈目に、病気が治って若返るりんごを持ってきたんだけど」
「ああ、一応聞いた」
「オレがそんなもん食って、病室から消え失せたりしたら親族は困るって言われた。遺体もない行方不明者になって、残された人間がどうなると思うんだ、って。葬儀社にだって話はつけてあるのに、遺体がないと葬儀もできないって」
「まあなぁ」
 ヨハンは苦笑いした。そんな話を十代にしていたのか。万丈目らしい、地に足のついた話だ。
「……こんだけの人が、困っちゃったんだよな、きっと」
 十代は参列者たちを眺めた。
 葬儀は粛粛と行われ、なんの問題もなく終わった。葬儀の途中、十代はこっそりとファラオに棺の中の万丈目を見せていた。ヨハン以外、誰もそんな少年と猫には気づいていなかった。
 十代に「遺族に頼めば棺に何か入れれるかもしれない」とヨハンは言ったが、十代はそんなものは特にないと答えた。
「オレ、贈り物とかもらってもすぐ壊したりなくしたりしちゃってさ。そーゆーのも別れた原因かもな」
 葬儀場を出て、ヨハンは万丈目の思い出話でもしないかと十代を食事に誘った。
「お店なんか入ったらお前は一人でずっとしゃべってる不審者になっちゃうぜ」
 やはり十代の姿はヨハンにしか見えないようだった。
「なら、オレの家で話そう」
 十代は一拍置いてから頷いた。
 二人分の弁当を買い、ヨハンの家へとタクシーで向かった。タクシーの中では念のため黙っていた。
 ヨハンは連れ合いが亡くなってから一人暮らしだった。子供たちもとうに巣立ち、一軒家は一人で住むには広かった。
 十代は弁当をぺろりと平らげ、ヨハンが茶や菓子を出してやればそれも食べた。十代は、ヨハンが一人で向き合う分には普通の人間と変わらなかった。同い年の彼がいつまでも高校生のような姿であることを除けば。
 十代はヨハンがどうしているのか知りたがり、まずはヨハンが自分の近況を話した。
 十代の方は、最近までずっと異世界にいたから人間界に来るのは久しぶりだそうだ。普通の人間に姿が見えなくなったことについては自分でも理由がよくわからないようだった。
「気がついたらこうなってた。異世界に長居しすぎたからかもな。向こうであちこち行ったりしてるうちに気がついたら十年二十年経ってて……万丈目と住んでた頃はまめに戻ってたけど」
 せっかくだからなれそめ話をしてくれとヨハンが言うと、十代はとっくの昔に別れてんだぜと言いながらも高校時代の話をしてくれた。十代は懐かしそうに目を細め、時折瞳を潤ませた。
「あの頃は──こんな風になるなんて夢にも思わなかったな」
 ヨハンも高校生の頃には想像できなかった。当時の十代と万丈目は、ヨハンの目から見て特別に親しい仲でもなかった。二十代の頃に今は同棲しているのだと聞いて、十年も経たないうちに別れてしまったと聞いて──その頃のことをヨハンはよく知らない。仕事と子育てに忙しく、あまり十代と会えていなかった。
「一緒に暮らしてた頃は、思い返すと喧嘩も多かったよ。贈り物とかなくすって言ったろ? 指輪なんか三回なくして、最初は買い直してくれたけどもう無駄だろって言われた」
「三回は多いなあ。置き忘れとか?」
「いや。ずっとつけてんだけどな。腕食われちゃったり、爆破で吹っ飛んだりすると、どっかいっちゃう。……そういうのを昔は言わなかったから、それも嫌だったみたいだ」
 ヨハンはなんと返すべきか迷って「そうか」と言った。「あいつと暮らすと心が削れる」と万丈目が言ったのはそのようなことを指したのだろう。
「……別れることになったの、何が悪かったのかな~って考えたりするんだけどさ。あんまり万丈目に正直に話したりしてなかったなと思ったりしてさ」
 まあ今さら遅いんだけど、と十代はマグカップの茶を飲んだ。
「おかわりいるか?」
「いや。……そろそろお暇するよ」
 気がつけば時計は十七時をまわっていた。
「何か予定あるのか? オレ一人だし、泊まれるぜ」
「なんもないけど……人間界にいるのも疲れる」
 疲れるというのは、単に気持ちの問題なのか、それとも──。
「……あ」
 十代は何か気がついたように声をもらした。
「どうした?」
「いいや。もしかしたら、これが罰なのかなって」
「罰?」
「あのりんご、食べる資格のないやつが食べると、罰を受けるんだって」
「た──食べたのか?」
「ああ。食べた直後はなんも起きねーなと思ってたけど、妙に疲れるのがそれだったりすんのかな?」
 十代はなぜか嬉しそうに笑った。
「……笑い事じゃないだろ」
「心配すんなって。慣れない旅先でちょっと疲れるみたいな、その程度の感覚だから。ちょうどいいくらいだ。これで」
 人間界に来るたびあいつを思い出せる──。
 十代は、どうやら本当に喜んでいるようだった。
 罰を受けることを喜ぶなんて──でも、忘れてしまうことの恐怖はヨハンにもわかる。連れ合いを亡くし、年月が経つほどその記憶は薄れていく。ヨハンの場合は遠からず連れ合いの元へ行くことになるが──十代にそんな日は来ない。
 大切な人たちに先立たれ、自分だけが永遠に生きていかなければならない。子や孫たちに先立たれてしまうなんてヨハンは想像したくもない──でも十代は、これからも出会った人間を見送り続けていく。
 ヨハンのことも。
「今日はありがとな、ヨハン。あいつのこといろいろ話せてよかった」
「次に来るのはオレの葬式か?」
 ヨハンが冗談めかしてそう言うと、十代は笑った。
「また遊びに来るよ。生きてるうちにな」
 じゃあまたな、と十代は笑顔で別れを告げた。
 その後ろ姿を見送りながら、神出鬼没でつむじ風のようだと、遠い昔に聞いた少女の言葉を思い出していた。

2025/10/10
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