一話完結短編

夏休みの終わり

 寂しそうだ──とその横顔に思った。
 四人座れる机に一人で頬杖をついて、ぼんやり誰もいない、同じ机と椅子の並ぶ空間を見ている。こいつはいつもうるさくて、笑っていて、見ているだけでイライラしてくるくらいなのに。
「あ、万丈目!」
 不意に遊城十代はこちらに目をやった。先程の寂しそうな横顔など万丈目の見間違いかと思うほど能天気な顔で笑う。
「久しぶり! いつの間に帰ってきたんだ?」
 帰る、という表現が正しいのだろうか。
「……昼過ぎだ。お前はいつからいるんだ?」
 まだ授業が始まるまで一週間もある。万丈目は実家を離れたかったのと、勉強のために早めに学園へ戻った。
「オレはずっといるよ」
「ずっと? 九月からか?」
「八月から!」
 ずっと──いるのか。夏休みが始まってから。
「帰ってないのか」
「うん。誰もいないからデュエルできないのはつまんないけど、購買とかの手伝いして楽しいぜ」
 なんで帰らないんだ? そう聞きたくなったが、「家庭の事情」に首を突っ込むのは野暮か。黙っている万丈目に十代は話を続ける。
「購買だけじゃなくて学会とか講演会とかの手伝いもした。お客さん迷っちゃうから道案内とかして」
 この学園が学会や講演会の会場になることは万丈目も知っていた。夏休み前にはこの図書室の出入口にあるラックに、そのチラシもあったはずだ。確か三沢が興味を持っていたような──。
「三沢が来てたよ。なんだっけ、デュエルナントカ学……」
 デュエル物理学か何かだった気がする。
「精霊の話もあってさ、校長先生に聞いてみたらどうかって言われて行ったんだけど、途中で寝ちゃった」
「だろうな」
 十代が講演会を最初から最後まで聞いている姿は想像できない。途中からうたた寝を始める姿ならすぐ想像できる。一年生のときに何度も見た光景だ。そんな彼が図書室にいるのはなんとも珍しい光景だが──。
「……よくお前が図書室になんて来たな」
「毎日来てるよ。お勉強」
「お前が?」
「本当だよ、ほら」
 十代は机の上を示す。図書室で借りたらしい『漫画でよくわかる高校化学』と化学の問題が書かれているらしいプリントだった。
「……なんだそのプリントは」
「クロノス先生にいっぱい出された」
 宿題なんてものは夏休みにないのだが──クロノス教諭はドロップアウトボーイの頭がこの二ヶ月でカラッポになることを防ぎたかったらしい。教育熱心だ。
「万丈目も勉強?」
「当たり前だ」
「なに読むの?」
 万丈目は十代に持っていた本の表紙を見せてやる。
「デュエル哲学? 難しそうなの読むなあ」
「お前には難しいだろうな」
「ここ座れよ!」
 嫌味を言ってもどこ吹く風、十代は自分の隣の椅子を引いた。
「なんでお前の隣に座らにゃならんのだ。こんなにガラ空きで──」
 ガラ空きだから十代はあんな顔をしていたのだろうか。夏休みの図書室は二人以外は誰もいなかった。
 万丈目は十代の隣ではなく斜め前の椅子に座った。隣を断っても十代は嫌な顔はせず、むしろキラキラした目で笑っている。
「プリント、さっさとやったらどうだ」
「ん? でもさあ」
「やれ。オレの読書を邪魔するな」
「はぁ~い」
 渋渋返事をして十代はプリントに取りかかった。漫画をパラパラめくり、プリントに書き込んでいく。見ているのが教科書ではなく漫画なのは文字しかないと頭に入らないのかもしれない。
 万丈目もデュエル哲学の本を開く。デュエルには実践のみでなく知識も必要なのだ。一年生のときには出席日数もありレッド寮に甘んじていたが、二年はブルー寮に戻らなくては。
 本越しにはす向かいの赤色を見る。先程少し見ただけだが一年生の復習と思しきプリントに手こずる十代は二年でもレッド寮に居続けるだろう。翔はイエローくらいには上がれるだろうか。そうなったら、夏休みが終わっても十代はあの部屋にまた一人になるのだろうか。あの寂しそうな顔で。
 ──何を気にしている?
 自分には関係ないことだ、と万丈目は思う。それに新一年生でレッド寮生は増えるだろうから、翔がいなくなっても誰かそこに入るはずだ。こいつの性格なら同室の後輩とはすぐに打ち解けることだろう。
 無駄な思考を止め本の文字を追う。耳には不規則な筆記の音が届き、視界の端に赤と茶色がちらついた。それを意識の外にやるように努めながら文字を追った。
 しばらくするとシャープペンシルがカタンと音を立てて机に置かれた。十代が黙って立ち上がる。
 寮に戻るのかもしれない──そう思ったのだが、予想に反して十代は万丈目の隣の椅子に座った。
「……なんだ」
 万丈目は十代をにらむが、十代は明るく笑った。
「気にしないで読んでくれ」
「気になるわ」
「いや、どんな本かなと思って」
 万丈目の隣から本を読もうとしたらしい。
「……何冊か並んでたぞ」
「ふうん」
 まだ本があることを教えてやったのに、十代は生返事をして万丈目の開く本の文字を追っている。また頬杖をついて、でも今度は寂しそうではなく少し満足げに微笑んで。
 ……普段からそのくらいの興味を持って授業を受けたり教科書を読んだりしたらどうだ?
 文句を言いたくなったのだが、またあの横顔がちらついて言うのをやめた。万丈目も再び本の文字を追う。
 ページをめくるときに十代はもう読めたのだろうかと気になって隣を見ると、茶色の目とかち合う。十代はにかっと笑った。その間抜けな顔はデュエル哲学を理解しているとは思えず、元より途中のページから読んでいるのだから気にしてやる必要はあるまいと、遠慮なく自分のペースで本を読み続けた。
 しばらくすると十代は船をこぎだした。何も意外ではない、予想通りの展開だ。しかし視界の端で茶色の頭が揺れるのは集中力を削ぐ。
「読書の邪魔だ」
 万丈目は率直にそう言った。十代はごめんとしょんぼりした声で謝る。
「寝ろ。後で起こしてやる」
「……ありがと」
 あくびでも出たのか潤む茶色の目が細められた。ドロップアウトボーイは授業中さながら机に伏して眠り始める。これでようやく読書に集中できそうだった。

 時は経ち、時刻は図書室が施錠される十七時前だ。うるさい存在が静かに眠ってくれたおかげで読書がはかどった。十代は気持ち良さそうに眠り、数時間前に見たあの寂しそうな顔はやはり見間違いだったのではないかと思う。
「起きろ」
 肩を揺すって起こしてやる。こういうのは翔の仕事だ、と万丈目は思った。
「おはよ~万丈目」
 十代は寝ぼけた顔でふにゃふにゃと笑う。
「起こしてくれてありがと」
「起こさなかったら司書さんに迷惑だろうが。さっさと帰るぞ」
 まだ寝ぼけているのか、十代はへへと笑った。少し目をこすって、プリントや漫画を手に取った。図書室を出る前に十代は返却ボックスに漫画を入れた。
「購買行っていい? トメさんがおにぎり作ってくれるんだ。万丈目も食べるか?」
 おにぎり、と聞くと急に腹が減る。十代もそうだったのか、奇しくも同時に腹の虫が鳴って十代はゲラゲラ笑った。
 十九時まで開いているという購買では、イエロー寮の生徒が一人レジを終わらせたところだった。夏休みの間は食堂が動かない代わり、生徒も教師や職員もこの購買で食事を買うのだろう。それと入れ違いに店内に入り、トメさんがいらっしゃいと明るく声をかける。
「あら万丈目ちゃん、もう来てたの?」
 勉強したくてと答えると偉いねえとトメさんは笑う。
「十代ちゃん、プリントできた?」
「うん」
 十代はトメさんにプリントを見せた。トメさんは余り物らしい企業ロゴの入った月間カレンダーに判子を捺した。土日以外はずらりと判子の捺されたそれは、なんだか小学生のラジオ体操のカードのようだった──万丈目は本物を見たことはないのだが。どうやらクロノス教諭だけでなく、トメさんも協力してドロップアウトボーイの面倒を見ているらしい。
「今日もお疲れ様」
「トメさん、万丈目の分もおにぎり作ってくれる?」
「もちろん。おかずは好きなもの買ってね」
 トメさんは快く万丈目の分もおにぎりを用意してくれた。惣菜コーナーで十代はエビ入りのサラダを、万丈目はエビチリを買った。明日の朝にと十代はドローパンも買い込む。万丈目はドローパンをひとつだけ買った。
「十代ちゃん、万丈目ちゃんと遊びたいなら明日から来なくても大丈夫よ」
 トメさんにそう言われて、十代は期待に満ちた目で万丈目を見た。
「オレは遊びに来たんじゃなくて勉強しに来たんだ。お前の相手をしている暇はない」
 そう答えると十代はわかりやすくしょんぼりした。
「……まあ、勉強の後にデュエルの相手くらいはしてやってもいい」
「やった! 大好きだぜ万丈目!」
「うっとうしい!」
 ぱあっと笑って両手を広げた十代を万丈目はにらんだ。先に牽制しておかないと抱きついてきかねない。
「じゃあトメさん、また明日も来るよ」
「そう? じゃあ明日もお願いね。あ、万丈目ちゃん、食堂は十月まで開かないけど、購買は毎日開いてるからね。ご飯は毎日お昼と夕方に炊くからおいしいよ。学生には食券があるからね」
「そうだ、明日の昼一緒に食べようぜ、万丈目! オレいつも十時から一時まで購買の手伝いしてんの。だから一時に購買来てくれよ」
 別に十代と一緒に食べたくはないが、炊きたての白米は魅力的だった。どうやら夏休みの間は購買で炊いた白飯も販売し、生徒には格安の食券があるようだ。おにぎりはトメさんの厚意で握られ、今万丈目の分の代金は十代が食券を使ったようだった。
「返す」
 万丈目は今買った食券を十代に渡そうとする。
「いーよ、余ってるし」
「お前に借りは作りたくない」
 そお? と十代は大人しく食券を受け取った。
「夕飯誰かと一緒に食うの久しぶりだなあ。トメさんとたまに昼飯は食うけど」
 レッド寮に向かいながら、十代は上機嫌に言った。
「夕飯はトメさんと食べないのか」
「購買はこれから、特に六時から七時あたりが一番忙しいんだって。先生や職員さんたちが買い物に来るから。生徒は一応六時までに寮に帰らなきゃいけないことになってるし」
 寮長いないしレッド寮はバレないけど、と十代は付け加えた。ほんの少し寂しそうな横顔。
「あ、朝ごはんは? 一緒に食べる?」
「……何時だ」
「七時!」
 十代は満面の笑みで答えた。
 その後、レッド寮の食堂で夕飯にした。十代は共用の冷蔵庫から納豆と買い置きの冷凍食品を出して解凍した。サラダしか買わないのかと思ったら、そんなところに隠し球があったとは。
 夕飯の後は、万丈目と十代は久しぶりにデュエルをした。十代が使ってみたいというので、お互いに今月頭に発売されたストラクチャーデッキを使った。二人とも勝手のわからないデッキにああだこうだ言いながら、緊張感もなく勝ち負けに意味もない、生ぬるいデュエルだ。だというのにやけに楽しく、二十一時に教員が見回りに来るまでそれに興じていた。教員は二十二時までには消灯するようにと声をかけて去っていった。
「やべ、風呂も入ってねえ」
「まったく、あの風呂に今から行くのか……」
 レッド寮は天然露天風呂といえば聞こえはいいが、要するに寮から離れた外にしか風呂がないのだ。
「一緒に行こうぜ!」
 十代は楽しそうにしているが万丈目は何も楽しくない。風呂には移動を含めて時間がかかるから、二十二時までにこなすには一緒に行くしかないだけだ。
「二年は絶対ブルー寮に戻るぞ。バスルームがあるからな」
「ここ広くていいじゃん。星も見えるし」
「こんな掃き溜めにいつまでもいてたまるか!」
「はきだめ……掃き溜めに鶴? 万丈目ならカラスかなあ?」
「それは本当に鶴がいるって言葉じゃないぞ……」
 湯けむりの合間で茶色の瞳がきょとんとしていた。
「お前は本当にこの寮が似合ってるな」
「へ? ありがと!」
「ほめてないぞ」
 馬鹿には皮肉も通じない。
「だいたい掃き溜めにカラスならいかにもいそうじゃないか?」
「でも掃き掃除して集まるゴミってほこりとか落ち葉とかだからカラスの食べ物なさそうじゃないか?」
「掃き溜めも別に掃き掃除で集まったゴミそのもののことじゃないだろ……」
 くだらない会話をしながら寮へと戻った。
「じゃ、また明日な!」
 部屋のドアの前で十代が笑顔で手を振った。おやすみと言って部屋に入っていく。万丈目も自分の部屋に入った。
 万丈目は暗い部屋の照明を点ける。一人になった途端に疲れているような気がした。やけに一日が長く感じたが、この島に着いてまだ半日も経っていなかった。
 ベッドに寝転んで万丈目は明日の予定を思う。朝食は七時、昼食は十三時に購買。午前は授業開始に向けた予習と復習、午後は購買に行ったついでに図書室へ行こう。十代は購買の手伝いをするという十時までは何をするのだろう? 昼過ぎからはまたクロノス教諭に出されたプリントをやるのだろうか。
 ──別にあいつが何をしようと知ったことじゃない。
 万丈目は逸れた思考を自分の予定へと戻す。十代が何をするのかなど、そんなことはどうでもいい。なぜそんなことを考えている?
 ともかく午前は学科の勉強をして、午後は読書だ。図書室に行って──図書室の光景を思い出そうとして浮かぶのは、寂しそうな横顔、万丈目を見つけた瞬間の明るい笑顔、隣に座った満足げな笑み、居眠りする間抜け面、起きたときの眠そうな微笑み──。
 なんであいつの顔ばかり浮かぶんだ? いや、深い意味などない。ただ今日は十代といる時間が偶然長かっただけだ。それだけのことで、気にする必要はない。
 万丈目はそう自分に言い聞かせて目を閉じる。おやすみと笑う火照った頬が瞼の裏に浮かんだ。ただ最後に見た顔だからだ。単なる記憶の反復に意味はない。どうせ記憶を反復するならデュエル哲学を理解することに集中した方がいい。万丈目は今日めくった本のページを思い出す。視界の端に赤と茶色があった気がするが、集中すべきは文字の方だ。本の文章を思い出そうとしながら、万丈目は眠りについた。

「おはよう!」
 朝七時、食堂に入れば先にいた十代が元気よく挨拶した。
「……おはよう」
「お茶飲む? お湯沸かしたんだ」
「……ああ」
 十代は食堂を使いこなしているようだった。共用ポットの湯で十代は万丈目と自分の紅茶を淹れて、万丈目の前に座った。
「万丈目は今日何するんだ?」
「勉強だ」
「なんの?」
「まあ……授業に向けて予習と復習だな。お前はまたプリントか?」
「うん。でも昨日みたいに午後からやる」
「午前は?」
 言ってから、別に聞く必要はなかったと万丈目は思った。
「うーん、天気いいし散歩でもしようかな」
 十代は特に予定を決めてはいないようだ。
「あ、万丈目わかめ食べる? 浜辺に落ちてんだ。茹でて食うとうまいぜ。お前も食うなら余分に拾っとく」
 別に海藻は特段好きでも嫌いでもない。ついでならもらっておくと答えた。
「じゃ、拾っとくな」
 嬉しそうに十代は答えた。わかめを拾うことの何が嬉しいのか万丈目にはよくわからなかった。
 朝食のあとは自室に戻り予定通りに勉強をした。十時になった頃、十代は購買に行ったのだろうと思った。
 十三時になる少し前に購買へと行った。十代はデュエルアカデミアのロゴがプリントされたエプロンをして、棚に商品を補充していた。
「あ、万丈目。いらっしゃいませー」
 万丈目を見ると十代はへらりと笑った。
「一時までだからちょっと待ってて」
「お前、手伝いなんて言ってたが働いてたんだな」
「一応」
 紛らわしい言い方だ。とはいうものの、昨日トメさんがあっさりと来なくてもいいと言っていたし、労働力として必要だからではなく生徒の学習機会として雇われているのだろうと万丈目は思う。十代としては「手伝い」感覚なのだろう。
 昼食を見繕いながらしばらく待っていると、十代はエプロンを外して戻ってきた。十代は今日はカレーが食べたいとインスタントカレーを買い、万丈目もそのパッケージを見たら食べたくなり同じものを買った。あっちで食べようと購買スタッフの休憩室であろう部屋に万丈目を連れていった。十代はそこのコンロでカレーのパックを温め始める。その様子はずいぶんこの場所を使い慣れていて、この二ヶ月弱を購買スタッフとして過ごしてきたのだと感じられた。
「部外者のオレが入っていいのか?」
「トメさんがいいって」
「購買は忙しいのか?」
「十二時は先生や職員さんが一斉に来るけど、授業あるときの昼休みと比べたらすいてるよ。十分もしたらまた誰もいなくなるし。あ、学会あるときは食堂開けてたなあ」
 食券で買った温かい白飯のパックに温めたレトルトカレーをかける。スプーンは休憩室のものを借りた。
「カレーってうまいよな。夜は何食おう……あ、わかめ結構拾えたからそれも食おうな」
 いつの間にか一緒に夕飯も食べることになっている。そもそもなんでこいつと飯を食べているのだったか、と万丈目は考える。昨日の時点では白飯に惹かれたのだった。炊かれたばかりの飯はうまいものだ、とカレーライスを食べながら思う。
 予想はしていたことだが昼食後は図書室にも十代と一緒に行くことになった。十代は午後に図書室でプリントをやることを日課にしているようだった。
 図書室に入ると本を探してくると言った十代は、やはり学習漫画を持って万丈目のはす向かいに座った。この広い図書室で、万丈目が座る机以外はどれも空いているのに。
 十代は万丈目と目が合うと微笑んだものの、話しかけはしなかった。おとなしく漫画を読み、プリントを解いていく。万丈目も黙って本を読んだ。昨日と同じく視界の端に十代が入ったが、昨日のように気を取られることはなかった。昨日はやはり学園に戻ったばかりで落ち着かなかったのだろう。
 しばらくすると、プリントを解き終わった十代が万丈目の隣に座った。目が合うとやはりへらりと笑い、気にせず本を読むように言う。何か文句を言いたくなったが、面倒なのでやめた。
 三十分もしたら十代は昨日と同じく机に突っ伏して居眠りを始めた。もしかしたら、十代は睡眠薬代わりにこの本を使っているのではないか? あるいは万丈目の隣で寝ることで十七時前に起こしてもらえると期待しているのかもしれない。今日はこのまま置いていってやろうか。いや、このドロップアウトボーイが司書や職員に迷惑をかけるのはよくない。起こしてやるしかないかと思い、万丈目は読書に集中した。
 昨日と同じように万丈目は十七時前には十代を起こして、昨日と同じように購買に寄った。十代は昨日と同じようにカレンダーに判子を捺された。もう少しで全部埋まるねえとトメさんが笑う。
 昨日と違ったのは、十代が購買で猫用の缶詰をもらったことだった。猫缶は以前から大徳寺に頼まれて定期的に仕入れていたそうだ。大徳寺亡き後の猫缶代は校長が個人的に出しており、ファラオのエサは休み前はトメさんが、夏休みには十代がやっているという。
「でも、どこに行ったのか帰ってこない日もあるんだよな。万丈目も昨日見てないだろ?」
 確かに昨日はファラオを見なかった。なんなら万丈目はその存在を少し忘れていたくらいだ。
「先生がいた頃も見ないときは見なかった気がするが」
「そうなんだけどさ」
 十代は少し心配そうにしていた。しかし噂をすれば──というやつなのか、レッド寮に戻るとファラオが食堂にいた。十代は喜び、ファラオの頭を撫でようとして引っ掻かれかけた。慌てて手を引っ込め、しかしファラオを恨むことなくキャットフードを与えた。
 ファラオは皿を空にすると、満足した様子で礼も言わず黙って食堂を出ていった。そもそも猫は礼を言わないが。
「よかった、元気そうだ」
「無愛想なやつだ……」
 十代は笑ったが万丈目は呆れた。
 夕飯は十代の拾って茹でたわかめと購買で買った惣菜を食べた。新鮮なわかめは確かにうまかった。
 夕食後は昨日と同じように、しかしまた別のストラクチャーデッキでデュエルに興じ、昨日と同じように時を忘れてしまい慌てて風呂に入った。デュエルとなると二人して時間を忘れてしまうのだから明日こそは気をつけなければと万丈目は思った。十代の方はまったく気にしていないらしく、いつも通りへらへらと笑っていた。
 その日の夜は昨日のように十代の顔がちらつくことはなかった。昨夜は久しぶりに会ったことや学園に戻り環境が変わったことによる疲れ、新しいことの起きた刺激などからその日の記憶が頻繁に蘇っただけなのだろう。今日は午前中は勉強に集中できたし、午後も昨日と同じように過ごすことができた。明日も同様に過ごせばいいだろう。一定のペースができれば勉強もはかどる。
 朝七時に朝食を食べて、部屋で勉強をして、昼一時に購買で昼食を食べて、その後は十七時まで図書室で読書し寮に戻って夕食を食べて風呂に入り眠る──余計な部分を省略すればシンプルだ、と万丈目は思った。
 二日ほどそんな日を過ごした。夏休みも残りあと一日だ。とはいっても、今年は土日があるから授業が始まるまであと二日あるのだが。
「おはよう!」
 『余計な部分』は今日も元気に挨拶をした。そして聞いてもいないのに今日の予定を話す。
「今日はさ、釣りしようと思うんだ。ファラオも新鮮な魚食えた方が嬉しいかもしれないだろ。たくさん釣れたら夕飯に焼いて食おうぜ!」
 十代は朝から元気がよかった。納豆と昨日買った白飯を温めて食い、意気揚揚と出かけて行った。昼食のときには「三匹しか釣れなかった……一人一匹だなあ」と少し残念そうに報告した。
「今日はファラオは来るのか?」
 この二日、ファラオの姿を見ていなかった。
「どうだろ……あ、外で焼いたら匂いにつられて来るかも!」
 十代のアイデアで、今日の夕方は外で焚き火をすることになった。夕方になるまで万丈目は図書室で読書し、十代は今日もまたプリントを解いたあと万丈目の隣で昼寝した。十代がトメさんにプリントを見せるのも今日が最後だった。例のカレンダーには土日以外すべて判子が捺され、トメさんは頑張ったねと十代を褒めた。お前が普段から勉強していればトメさんもクロノス教諭も余計な手間はなかったんだぞ、と万丈目は思ったが言うのはやめておいた。
 夕方、十代はレッド寮の倉庫から鉄板を見つけ出し、その上で魚やおにぎりを焼いた。肉が欲しかったが購買に生の肉など売っていないのでソーセージを買った。鉄板で焼いたおにぎりは香ばしくうまかった。
 魚の焼ける匂いのおかげか、目論見通りにファラオはやってきた。ファラオは十代がほぐして冷ましてやった魚と猫缶をペロリと平らげ、またしても黙って立ち去ってしまった。
「可愛げのないやつだ」
「猫は素っ気ないとこが可愛いよ」
「そうかあ?」
 犬の方がまだ可愛げがあるだろうか? と万丈目は考える。犬を飼ったことはないが、尻尾を振って懐いてくるイメージがある。
「ま、デザートでも食おうぜ」
 ビスケットに炙ったマシュマロを挟んで食べた。以前テレビで見て食べてみたかったのだと十代は言った。
「うまいけど……食べにくいな。ベタベタする」
 指についてしまったマシュマロに顔をしかめながら十代は言った。唇の端にもマシュマロがついていた。
「口の端ついてるぞ」
「え?」
 十代は舌を出したり手で唇を触ったりしたが、まるで見当違いだ。
「そっちじゃない」
 万丈目は一瞬十代の方に手を出しそうになって、懐の手鏡を渡した。十代はほんとだあと間抜け面を鏡に写しながら唇の端についたマシュマロを取った。ありがと、と万丈目に手鏡を返す。
「だいたい焼きすぎたんじゃないのか? オレのはそこまでじゃなかったぞ」
「よく焼いた方がおいしいかと思ったんだけどなあ。んじゃ次は控えめに焼くか」
 十代はめげずに二個目のマシュマロを取り出した。万丈目も先程の焼き加減を十代に教えながら二個目を焼いた。
「確かにこっちのが手とかにはくっつかないな……でももっとトロトロになったマシュマロのがうまいぜ。食べにくいけど」
 そう言われて今度は万丈目が十代に教わりながらマシュマロの中がしっかり溶けるまで炙った。溶けたマシュマロは確かにおいしかったが、手や口につかないように食べるのは難しかった。
「これ真ん中目指せばうまくて食べやすくなるかな?」
 その後は「一番いい焼き加減」を探しながらマシュマロとビスケットを食べた。うまく焼けるようになった頃にはマシュマロとビスケットの袋は空になって、二人とも満腹になっていた。
 今日はデュエルをしなかったのに、食休みや片づけでやはりまた風呂に入る時間はギリギリになってしまった。
 ベッドに寝転んだ万丈目の頭は、勝手に今日のことを思い出していた。今日は焚き火という少し違うことをしたせいか、頭の中がうるさかった。目を閉じると十代のいろんな顔が浮かんでくる。
 魚が釣れなかったとしょげる顔だとか、焚き火を思いついてぱっと笑った顔だとか。
 焚き火に照らされてオレンジに染まる頬だとか、指についたマシュマロにしかめられた顔だとか、見えないまま唇の端についたマシュマロを取ろうとした間抜けな顔だとか。
 鉄板を洗おうとして水がはねて十代が頭からびしょ濡れになったことだとか、それを笑ったら倉庫が濡れるからお前が鉄板を片づけてこいと眉つり上げられて仕方なく運んだことだとか。
 その後の風呂で今年の夏休みは楽しかったなあと感慨深げに夜空を見上げた顔だとか。
 そして、お前が来てから毎日本当に楽しい、とついさっき部屋の前で笑った顔だとか。
 浮かぶのは主に笑顔だが、図書室ではまたほんの少し寂しそうな顔を見せたのも思い出す。昼寝から起こしてやり、いつものようにふにゃふにゃ笑った後、すっと波が引くように寂しげな顔をしたのだ。
「もうこんな風には図書室に来ないな」
 『こんな風』が指すのはプリントをやることはないという意味なのか、万丈目と二人で図書室に来ることなのか──と思ったが聞き直す暇もなく、十代はすぐに笑ってこの後焚き火で何を焼くかという話をした。
 聞いたらなんと答えたのだろう。十代が課題の存在を惜しむことはないだろうから、万丈目と来ないことを惜しんだのだろうか──。
 いや、ただ図書室での昼寝が心地よく、それを惜しんだのかもしれない。今回のように誰もいない図書室でなければ昼寝などできないのだから。
 だいたいそれを問うてなんになるのだ? 十代が何を惜しもうと万丈目には関係がないのに。
 ──惜しんでいるのは自分の方なのか?
 もう、あんな風に十代が隣で居眠りすることも、それを起こしてやることもない。心地よさそうな寝顔を見ることも、起こしてやったときのふにゃふにゃした笑顔を見ることも。
 そんなものを惜しんでどうする? だいたい、あれが読書する視界の端に入るのはうざったくて仕方がなかっただろう?
 万丈目はそう思い直す。
 きっとただ、夏休みが終わることが惜しいのだ。勉強は嫌いではないが、授業と今日までのように自分で自由に自習することは違う。やはり夏休みの終わりは寂しいものだ。一般的にそういうものだ。
 だから、特別な感情なんてどこにもない。
 万丈目はそう自分に言い聞かせながら眠った。

「おはよう!」
 今日も朝七時には十代が食堂にいた。
「なあ、今日も勉強するのか? 土曜日だし遊ばないか?」
 十代は能天気な顔で言った。万丈目はため息をつく。
「まったく、新学期が始まるというのにお前は……」
「始まるからじゃん。夏休みの最後くらい万丈目も遊ぼうぜ」
「昨日だって十分遊んでただろうが。だいたい夏休みはもう終わった」
「まだ休みだろ」
「土日にかぶっただけだ」
「ちょっと長いと得した気分だよな!」
 やはり十代が惜しんでいたものなど、図書室で昼寝をすることくらいだろう。あの日寂しそうな顔をしていたのも、ただ遊び相手がいなかったからではないか? 珍しい顔を見たからやけに同情してしまったが──そう、同情だ。万丈目は十代に同情していたのだ。そう気がついたらやけにすっきりとした。
「まあ、少しくらい付き合ってやってもいい。だが、遊ぶって何をするんだ」
「え? えーと……なんか夏休みっぽいこととか」
 十代も考えていなかったらしい。
「夏休みは終わった」
「そーだけどさ。昨日花火でもあればよかったなーって思ったんだ」
 花火など購買では売っていない。夏らしいこと──子供の頃は親に避暑地やプライベートビーチに連れていかれたこともあるのだが。
「ここでできそうなのは海水浴くらいか? もう十月だが」
「とりあえず海行く?」
「ここでは海は毎日見れるけどな」
 「遊ぶ」といってもここは学校内だ。特に娯楽施設があるわけでもない。夏らしい遊びが思いつかず、浜辺へと行った。十代は慣れた様子で靴と靴下を脱いでズボンの裾をまくりあげた。
「海って足浸すだけでも楽しいよなあ」
 十代のお気楽な頭は、海に来ただけで楽しめるようだった。十代は波打ち際を歩き、万丈目は濡れないように少し波から離れて歩いた。靴などを脱ぐのもその後に足を洗うのも面倒だった。
「お、わかめだ」
 十代は浜辺に打ち上げられたわかめを拾った。昼に食おうと万丈目に笑いかける。
「本当に落ちてるんだな」
「見たことない?」
「わかめがあるかなんて気にしたことがない。落ちていても食べようとは思わなかっただろうな」
 昔なら──一年前なら、打ち上げられたわかめを拾って食べるなんて、信じられなかっただろう。
「海ってここに来るまで見たことなかった」
「そうなのか?」
「うん」
 それが一般的なことなのかどうか、万丈目にはよくわからなかった。少なくとも一般的な家庭がプライベートビーチに行かないことは知っている。
「そーいえば、ボートの免許取った」
「はあ?」
 唐突だった。
「ほら、前にオレ、潜水艦からボート適当に動かして帰ってきたじゃん。また何かあるかもしれないし免許取ったらどうかって校長先生が言ってさ。ちゃんと乗れるようになった」
 それは、購買の手伝いが楽しいとかそういう話より優先することではないのか? 十代の中ではたいしたことがない情報なのだろうか。
「学科はちょっと難しかったけど、ああいうの動かすのは結構楽しいよ」
「お前でも取れる免許はあるんだな」
 そう言うと十代はけらけら笑った。
 十代はまたわかめを拾ったり、カニがいただの貝があっただのくだらないことを話しながら浜辺を歩いた。途中、少し大きな波が来て十代はズボンの裾を濡らし、着替えなきゃと苦笑いした。
 中身のない無為な時間だが、たまには悪くないと万丈目は思った。
 昼が近くなり寮へと戻った。食堂に入ると、そこには丸藤翔がいた。
「アニキ! 万丈目くん! 久しぶり!」
 翔はぱあっと笑った。
「翔! 元気だったか?」
「もちろん! アニキは?」
「元気だぜ。あ、わかめ食う?」
 十代は拾ったわかめを翔に見せた。
 ──翔にもやるのか。
 一瞬少しがっかりした気分になって、万丈目は不思議に思った。別にわかめの取り分が減ろうがなくなろうがどうでもいいはずなのに。
「わかめ?」
「今海で拾ってきた。茹でて食うとうまいんだ」
 十代はわかめを洗って水に浸すと、濡れたズボンを着替えに部屋へと戻った。
「万丈目くんも今日来たの?」
 万丈目と二人になると翔は訊ねた。
「いや、月曜から。少し予習をしていた。絶対ブルー寮に戻るからな」
「ボクも今年はイエローに上がったりできたらいいな。アニキと離れるのは寂しいけど……」
 暗に十代は二年もレッド寮に居続けると翔は言っている。そうなるだろうと万丈目も思っているが。
 十代が食堂に戻り、時間もちょうどいいので昼食にすることになった。十代はわかめを茹でて二人にわけ、買い置いていたインスタント食品を片付けると言ってそれを食べた。万丈目も同じだ。翔は弁当を買ってきていた。
 昼食の間、翔と十代は互いに夏休みにあったことを話した。万丈目も水を向けられ適当に話した。なぜだか万丈目の胸には不快感や不安感のようなものあった。先程浜辺を散歩していたときはあんなに気分がよかったのに。
「昨日は焚き火に鉄板置いて魚とかおにぎりとか焼いてさ、うまかったよな」
 翔へ昨日の出来事を話す十代に同意を求められ、万丈目は適当に頷く。
「今度翔も一緒にやろうぜ」
「うん。バーベキューみたいだね」
「あ、そっか。夏休みっぽかったかもな! 昨日は花火でもあったら夏休みっぽかったなって思ったけど」
「花火かあ。そういえば小学生のいとこたちを夏祭りに連れてってね──」
 翔はいとこたちとの話を十代にした。まだ小学一年生のいとこがかき氷をこぼして浴衣を汚してしまったとか、その子の兄はスーパーボールをたくさん掬えたとか、きっとよくある話だ。一般的な、何も特別ではない、夏休みの出来事──。
 昨日までのあの時間も同様にそうなのだ。図書室で勉強をした、図書室で居眠りしたのを起こしてやった、バーベキューをした──よくある学生の夏休みの一コマにすぎない。
 万丈目は昼食を食べ終わると早早に自室へと戻った。十代はもう遊ばないのかと不満そうだったが、お前ら万年レッド寮とは違うのだと言ってやった。下の食堂に十代と翔がいると思うと何か居づらい気持ちになり、本を持って図書室へ向かった。
 一人で歩いていると胸の不快や不安は消えてきたが、代わりに羞恥心が沸き上がった。
 あんなことを特別だと思うなんてどうかしてるぞ! それも、それも──。
 顔から火が出そうだという表現はこういうときに使うのだろうか? 本の角で自分の頭を殴りたいくらいだ。借りたものだからやらないが。
 いつもより早足になってしまい、思ったより早く図書室に着いた。図書室の静かな雰囲気に包まれると、万丈目は少し落ち着いた。ここに来るまでにもちらほらと生徒とすれ違ったが、図書室にはまだ誰もいない。万丈目はなんとなく十代と座ったことのある椅子を避けて、一番壁際の席に座った。
 ──落ち着いて考えよう。
 万丈目は十代と過ごすこの夏休みの終わりを特別だと感じた。それは事実として認めよう。
 だが、何が特別だったのだろう?
 この図書室で十代と過ごすというのは確かに珍しい出来事だった。普段図書室に出入りなどしなさそうな十代が、一応は真面目に勉強していたのだし。購買の休憩室での昼食も特別な出来事だ。本来なら万丈目が入れる場所ではない。焚き火だって滅多にすることではないし、マシュマロを炙ったりなんてのは万丈目には初めてのことだ。
 だから特別だ──でも、万丈目の感じている「特別さ」はそれだけではないのだ。出来事自体が特別ではないことは最初からわかっていた。余計な部分を削ぎ落とせばなんのことはない時間。
 でもその「余計な部分」こそ──「十代と過ごす」ことこそ特別だと感じていた。それに、万丈目はあれを「ふたりだけのもの」だと思っていた。だから話されて不快だったし、拾ったわかめを翔にわけてやることにも、あの焚き火を翔もやろうと誘ったことにもがっかりした。十代にとっては何一つ特別ではなかったことにショックを受けた。
 どうかしてるぞ! これじゃあまるで──。
 それ以上は考えたくなくて、万丈目は本を開いた。内容は昨日読み終わったが、興味深いところやわからなかった部分を読み直すためにまだ返していなかった。思考を追い出すように文字を読もうとするが、今日は視界の端に赤も茶色もないことが逆に気になってしまった。
 夏休みは終わった。もうこんな風には図書室に来ないと十代が寂しそうに言ったように。
 ──なぜ寂しそうだったんだ?
 いや、そんなことは昨日もう考えたじゃないか。夏休みが終わることや昼寝ができなくなることが寂しかったに違いないのだ。
 でもなぜ毎日万丈目の隣に座り直していたのだろう? 隣に座って、目が合うと茶色の目を細めて、しばらくしたら寝てしまう──そんなことを繰り返していた。
 十代の行動の意図がわからない。十代が読めば眠くなるような本はこの図書室にいくらでもあるのに、どうしてわざわざ万丈目の本を読もうとする? いやほとんど読める状態ではなかっただろう。途中からだし、ページをめくるスピードも万丈目のペースで十代が読めたかどうかなど気にしていない。
 本が目的でないなら、どうして十代はわざわざ隣に座っていたんだ?
 そこに何か「特別」があるんじゃないのか──。
 背後に何か気配を感じた。もしかしたら、あいつがまた昼寝をしに来たんじゃないのか──そんなことを思いながら、なんでもない風を装い振り向いた。
「万丈目くん。久しぶり」
 そこにいたのはあの間抜け面など比べるべくもない、美しく聡明な女性だ。
「天上院くん!」
 万丈目の胸は高鳴った。二ヶ月ぶりに見る想い人、天上院明日香。胸に何冊か本を抱え、彼女の勉強熱心ぶりがうかがえる。
「熱心に読んでたわね。邪魔をしたかしら」
「まさか!」
「デュエル哲学ね。私も読んだわ。面白いわよね。特に第三章の──」
 明日香はこの本でもっとも興味深く感じた部分について話し、万丈目もそれに答えて自分の考えを話した。デュエル哲学やおすすめの本など、まさに図書室で交わされるべき知的な会話だった。話し終えると明日香は「それじゃあまた月曜に」と微笑み図書室を後にした。どうやらわざわざ万丈目に声をかけてくれたようだった。
 夏休みで一番嬉しい出来事だったかもしれない──いや、夏休みはもう終わったのだから、新学年になり一番最初の嬉しい出来事だ。
 万丈目の胸はまだ早鐘を打っている。このときめきこそ恋というものだろう。直前までの悩みなど、彼女の顔を見たら吹き飛んでしまった。
 なんのことはない、認めたくはないが万丈目は十代に友情を感じているのだ。残念ながらこれまでの人生に「親しい友達」というものはいなかった。馴れ馴れしく隣に座り居眠りをするようなやつなんて十代くらいのものだ。十代も十代で翔と隼人に挟まれて居眠りをするのが常だったじゃないか。万丈目の隣に座ることにたいした意味などないのだろう。
 万丈目は読み終えた本を返却し、明日香に教えられた本を借りて足取り軽くレッド寮へと戻った。
 授業が始まればあの夏休みの終わりの出来事なんて、記憶の彼方に消えていく ことだろう。

2025/06/29
2025/09/01 脱字修正、一部加筆。
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