一話完結短編
愛の結晶
「愛の結晶ができたんだ」
遊城十代はごく真剣な顔で言った。
「……は?」
「だから愛の結晶だよ」
愛の結晶。まあ子供の命をそのように表現することもある。だが。
「できるわけないだろう」
十代とオレは同性である。いかに愛し合おうが子供などできない。そもそも。
「お前とは何もしていない」
キスもしたことがない。同じベッドで寝たこともない。いや、三段ベッドの一番上と一番下という位置では寝たことがあるのだが。
「愛し合ってるだろうが」
十代は不満そうに言った。
愛してはいる。大変不本意だったがあの異世界で怒りに囚われ彼をなじり、そのあとにようやくその感情を自覚した。そしてその気持ちを当人に伝えてしまった。完全に勢いだったと思う。生死不明の状態になった十代が生きているのを見て、あまりに嬉しくて、二人きりになったときについ言ってしまったのだ。彼はありがとうと泣いて、ずっと大好きだったんだと言った。
だが、その後はオレが寮を移動したこともあり、やや距離ができていた。十代も異世界の事件に疲れたのかレッド寮に引きこもっていた。それが今夜いきなりブルー寮のオレの部屋を訪ねてきて、愛の結晶ができたと言い出したのだ。
「愛し合えば愛の結晶はできるもんだろうが」
十代はまるでオレの方が非常識だとばかりにため息をついた。ため息をつきたいのはこっちだ、と思う。しかしその態度は十代を怒らせてしまった。
「お前に育てる気がないならいいぜ。難しいけどオレひとりで育てる」
そんなことを言って腹を撫でるものだから、オレは急にそこに子供がいるのではないかと思った。こいつは非常に非常識な存在だ。男だろうが本当に腹の中に子供がいるのではないか?
「お──おい、別に育てる気がないなどと言ってないだろうが」
十代は疑うようにオレをにらむ。
「本当に育てる気あるのか?」
「したことの責任は取る」
物理的には何もしていないのだが。しかし愛を告げたのはオレの方だ。それで愛の結晶とやらが生まれたのならその責任は取らねばなるまい。
「……なら、お前に託すぜ」
そう言うと十代はシャツの裾から腹に手を突っ込み、ハンカチを取り出した。
「ほら、手出して」
十代に言われるまま手を出すと、オレの手にそのハンカチをのせた。十代の腹にしまわれていたハンカチは生温かかった。
「まだ小さいけど、可愛いだろ?」
十代が畳まれたハンカチを開くと、小さな石ころがあった。白っぽい、そのへんに落ちていそうな石ころだ。からかっているのか──と思ったが、十代の微笑みにそんな色はなかった。
「しっかり育ててくれよ」
その日から、オレは肌身離さずその愛の結晶を持ち歩くことになった。十代いわく、柔らかい布に包んでしっかり温めること。しまう場所は腹でも胸でもいい。風呂に入るときはどうするんだと聞いたら、三十分くらいなら温めたタオルの上にのせておけばいいと言った。ただし濡らすのは厳禁。よくわからないがそういうものらしい。それと人には見せるなと。
「お前がオレとの愛をどうしても見せびらかしたいならいいけど」
そんなことを喧伝するのは御免である。結晶はほんの小さなものだ。制服の胸ポケットに入れておけば目立たず、誰に気づかれることもなかった。昼間は制服の胸の内ポケット、寝るときにはパジャマの胸ポケットへ。人間の重みで潰れないかと心配したが、そのくらいでは潰れないと十代は言った。多少の衝撃は大丈夫だが扱いには気をつけろと念押しされた。
十代は数日後に部屋を訪ねてきた。結晶の様子を見に来たという。十代はまたしても夜に来て、昼間に授業に出たりすることはなかった。相変わらずレッド寮に引きこもっているらしい。これが酔狂な遊びだとしても、十代が外に出るようになったのはいいことだろうか。
「どう? 何か困ったりしてない?」
「特に何も」
「そうか。これからも頼むな」
十代はそう言って部屋を去り、また数日後の夜に訪ねてきた。結晶の様子を見て、少し話して帰る。それを繰り返して二週間ほどが経った。
「ちょっと育ってきたな」
言われてみると、結晶はほんの少しだけ大きくなっていた。小指の爪から薬指の爪くらいのサイズになっている。十代がすり替えたか──と思ったが、こんなにそっくりでほんの少しだけ大きな石ころを用意できるだろうか? そもそもいつすり替えるというのだ。ずっとオレが肌身離さず持っていて、今だって十代は結晶に触れてもいないのだ。
「……これはなんなんだ?」
「愛の結晶だよ」
十代はそれ以上説明不要だろうとばかりに笑う。
「じゃあこれからも頼むぜ」
十代はいつも少し結晶の様子を見るとすぐに部屋から去ってしまう。これではオレがひとりで育てているようなものではないか? お前は何をしているんだ? 次に来たときにはそれを問いただしてやろう──そう思ったのだが。
「お、デカくなったなあ!」
数日後には、爪くらいの大きさだった結晶はウズラの卵ほどの大きさへとふくらんでいた。あまりに急に成長して、わけがわからなかった。その上、結晶は常に生温かいことにも気づいてしまった。この結晶は生きている──。
「……これはここから何か生まれたりするのか」
「え? もう生まれてるじゃん」
「そもそも愛の結晶ってなんなんだ?」
「愛の結晶は愛の結晶だろ」
まったく話にならない。
十代は結晶を見つめて指先でつついた。オレと結晶を交互に見る。
「なんだ?」
「ううん。順調に育ってるってことは、お前は本当にオレが好きなんだなーって」
うるさいと怒鳴りたくなったが声は出てこなかった。
「ちゃんと育ってきてよかった」
「……オレがずっと持ってるが、お前が育てなくていいのか」
「オレだと難しいの。人間の愛情じゃなきゃ」
「お前も人間だろうが」
「人間だったらこんなのできないじゃん」
十代はへらりと笑った。
「どういう意味だ」
「人間同士の愛は結晶にはならないだろ」
「なら」
お前は『何』だ──そう聞くべきだろう。だがそれは「お前は人間ではない」と十代に言うことだ。そんなことを言いたくはなかった。
「じゃ、もうしばらく頼むぜ」
オレが言葉に迷ううち、十代はそう言うと部屋を出て行った。もうしばらく? そういえばこれはいつまで育てたらいいのだろう。
結晶は少しずつ大きくなると同時に色も変わってきた。最初は変色したことに驚いたが、様子を見に来た十代は大丈夫だと言った。
「成長してるだけだよ。形も変わってくるかもな」
その言葉通り、結晶は日に日に色と形を変えていった。少しずつ赤に染まり、形はデコボコとしてきた。始めはいびつに見えたが、どうやらそれはバラに似ているようだった。色もだんだんと澄んできて、まるで宝石のように見えてきた。十代がオレに渡してきたときにはそのへんの石ころみたいだったのに。
「本当にキレイになったなあ」
十代は感心したように言った。あの日から一ヶ月近く経っていた。結晶は精巧なガラス細工のバラのようになっていた。最初は不透明な白っぽい石ころだったのが嘘のように透明で、色は真っ赤になっている。
「すごいなあ、本当に毎日大事に育ててくれたんだ」
ニコニコと十代は笑った。それからハンカチに包みもしないで結晶を手に取った。十代は結晶を照明に透かせたり、愛おしそうに撫でたり頬ずりしたりした。
「本当にキレイだ。あったかいし。こんな風にお前に愛されるやつは幸せ者だ」
お前だろうが、と思ったが恥ずかしくて口にできなかった。
「今日まで本当にありがとう。これでもうなんの悔いもない」
「……何?」
相変わらずこいつの言うことはわけがわからない。いや、最初からわからないのだ。そもそも愛の結晶ってなんだ。どうしてオレが温めなきゃいけなかったんだ。なんであんな小さな石ころが手のひらほどに育って色や形まで変わるんだ。
「万丈目も見送ってよ。今日は天気もいいし、旅立ち日和だ」
十代はオレの手を引いてバルコニーへと向かった。握られた手の温度は結晶と似ている気がした。十代はバルコニーの手すりに座り、結晶を掲げた。
「月の光で見てもキレイだ」
月明かりで十代の顔に結晶の影が落ちる。赤いそれは血みたいで気味悪く見えた。
オレは十代が結晶を掲げる右の手首を掴んだ。茶褐色の目が驚きに見開かれる。
「なんだ?」
「お──落ちるぞ」
平気だよと十代は笑う。
「落とすぞ。大事な──ものだ」
「大事? 本当に?」
十代は急に気味悪く感じたオレの心を見抜いたかのように聞き返した。しかし一ヶ月も肌身離さず持ち歩いていたのだ。大きさや形や色が変わったりすることが不思議ではあっても不気味ではなかった。ただこの瞬間を除けば。
「あ──愛の結晶なんだろ」
「そう思う?」
「お前が言ったんだろ」
「信じてくれたんだ」
「なんだそのいいぐさは。嘘だったのか」
「嘘じゃないよォ」
へらへらと十代は笑う。
「精霊に伝わるおとぎ話だ。人間と精霊が愛し合うとその想いが結晶になるんだって」
「お前は精霊じゃないだろ」
「覇王は精霊と似たようなもんじゃない?」
似ているのか? よくわからない。オレは覇王など話でしか知らない。
「で──その結晶は育てる必要があんの。最初は石ころみたいだけど、大事にしてたらこうやってキレイな宝石みたいになる。そうじゃなかったら成長しない。お前は本当に大事にしてくれたんだな」
十代は嬉しそうに笑った。でも、と少し声のトーンを落とす。
「成長したこいつは旅立たないといけない」
「旅立つ?」
「そう」
だからさっき旅立ち日和だと言ったのか。確かに今日は雲ひとつなく、月も星も綺麗だ。
「こいつが旅立てるように祈ってやって」
十代はオレに結晶を渡す。手のひらにのせた結晶はやはり生温かく、ほんの少し重い。触ったことはないが小鳥やハムスターはこんな感触なのだろうか。先ほど一瞬気味悪く見えたのに、今はそんな感情はない。むしろ手放すのが惜しい。
「……旅立たないといけないのか」
一ヶ月も肌身離さず持っていて、情がわいてしまったようだ。このままずっと持っていたらいけないのか。愛の結晶なんだろう? どうして手放さないといけないんだ?
「子供は成長したら巣立つもんだろ。見送ってやらなきゃ。オレも寂しいけどさ──」
子供──なのか? まったくわけがわからない。だが十代は真剣そのもので、茶色の瞳を潤ませている。
「祈ってくれよ。オレもそうするから」
十代はオレの手に自分の手を添えた。結晶をのせた右手が十代の両手に包まれる。その手はやはり結晶と同じくらい温かい。
「ええと──オレも初めてだからよくわかんないけど。元気でな、さよならって思えばいいのかな」
十代は結晶を見つめて黙り込む。オレも同様に結晶を見つめた。旅立ちを祈るとはどうすればいいのだろう。
本当は手放したくないのに。
でも、そういうものらしい。拾った犬猫の飼い主が見つかったようなものか。子供の旅立ちよりはその方が想像しやすい。たとえばファラオに新しい飼い主が見つかって、この島からいなくなってしまうような。あんなデブ猫を飼いたがる人間がいるか疑問だが。まああのあばら屋よりいいところに行けることだろう。うまいものも食えるかもな。
そんな想像をしたらいいのか。ハンカチに包まれた狭い世界から、広い世界へ行ける。寮と校舎を行き来するだけの生活から、世界中のいろんなものを見れる。オレがずっと持ち歩いているよりよっぽど幸せかもしれない。結晶に幸せとかいう感情があるかは知らないが、そう思えば惜しい気持ちは薄れて、旅立ちを祝福したくなってきた。
どうかよい旅を。元気でな。
そう思ったオレの心に呼応するように結晶が光った。結晶は花が開くようにほころび、光の粒になって天に昇っていく。
「……キレイだな」
「ああ……」
光の粒を見上げる視界の端に、結晶の光じゃないものがきらめいた。十代が涙を流していた。オレが見ていることに気づくと、十代は作り笑いをした。
「寂しくなる」
「……ああ」
「でも、本当に幸せだよ。あんなキレイな結晶になるほど愛されて。これでなんの悔いもなく旅立てる」
「……? もう旅立っただろう」
「そうだな。そうだ」
十代が涙を袖で拭おうとしたから結晶を包んでいたハンカチを渡してやる。もともと十代のものだ。
「ありがとう万丈目。お前に愛されるやつは本当に幸せ者だ!」
涙を拭くと十代は笑った。だからそれはお前だろうが。何を他人事みたいに言ってやがる。
「オレももう行かなきゃ。あの光が消える前に」
空を見上げた十代につられてオレも見上げると、結晶の光の粒がほんの少しだけ残っていた。それももう消えていく。あの結晶はいい旅ができるだろうか。一ヶ月も懐に入れていたものが消えていくのはやはり寂しかった。
空には月と星だけが輝く。見上げていた視線を戻すとそこには誰もいない。
いや──誰かがいるはずもない。ここは一人部屋だ。
オレはどうしてバルコニーに出たのだったか。こんなことをしてないで寝る準備をしないと。胸の内ポケットに触れて何もないことに気づく。いや、そもそもここには何も入れてなかったはずだ。なぜ何か取り出そうとしたのだろう?
……まあいい。明日の授業の準備をして、風呂に入って──ああ、温めたタオルを準備しないと……。
温めたタオル? なぜそんなものが要るんだ?
行動しようとするたびに小さな違和感があった。自分でもよくわからない、些細な行動。なぜか胸に手をやったり、アレはどこに置いたかと探すのにその「アレ」がなんなのかわからなかったり。
疲れているのかもしれない。なんだかんだと、あの奇妙な騒動からまだ一ヶ月なのだから。その張本人とは長らく顔を合わせていないが、あいつは今頃どうしているのだろう。
……いや、なんでオレがあんなやつを気にかけてやらなきゃならんのか。いつもみたいにどうせ突然へらりと姿を現すのだ。
──いつも? いつもとはなんのことだ?
ため息をつく。やはり疲れているのだろう。今日はさっさと寝てしまおう。
◇◆◇
万丈目に好きだと言われたときにはそりゃあ嬉しかった。でもいずれ万丈目は死んでしまうことと、オレに関われば危険に巻き込まれてしまうだろうことはとても怖かった。オレが巻き込んでしまうのはたぶん万丈目だけじゃなくて、だからもうこの島は出ていくつもりだけど。
万丈目にはきちんとお別れを言わないとなあと思うと少しユーウツだった。そんなことを考えていたせいか、ある日目が覚めたら枕元にあの結晶があった。見た目はただの小石のようだったけど、なにかエネルギーの塊のようなものだと感じた。
「もしかしたらそれってアレかなあ」
「アレ?」
ユベルが興味深そうに小石を見つめて語ったのは、精霊たちに伝わるおとぎ話だった。人間と恋に落ちてしまった精霊の元には、その愛の結晶が現れるのだと。始めはその結晶は小さなただの石ころのようだが、人間の愛によって大きく美しくなるのだと。
「一種の試金石かもしれない。その結晶を人間に持たせて大きくなるならその愛は本物だし、ならないなら愛してない。そして成長した結晶には三つの不思議な力が宿って、そのうち一つだけを叶えてくれる。一つは精霊と人間が一緒にいられるように、人間を精霊へと変化させる力。もう一つはその人間を人間のままでいさせるために、その愛と愛の記憶を消す力。最後の一つは」
その精霊を消してしまう力。
「なんで精霊が消えちまうんだよ。そこは精霊が人間になるとかじゃねーの? 人間は精霊になるんだからさ」
「さあね、精霊を人間にするのは難しいんじゃないの? たとえばハネクリボーだったらどんな人間になるんだい? 全身毛だらけで羽根の生えた人間?」
「あんまり想像したくないな……確かに精霊が人間になるのは難しそうだ……」
人間が精霊になることはそれに比べると簡単なのだろうか。ブラック・マジシャン・ガールなんて見た目はそこらの少女と変わらない。学園祭に紛れ込んだときだって、みんな女子生徒がコスプレしているだけだと思っていただろう。もしかしたら、ブラック・マジシャン・ガールだってもともとはただの人間だったという可能性もある。
「でも、消えるってな酷いな。不公平だぜ」
「そこは結ばれないなら消えてしまいたいみたいな感情なんじゃないかい。ボクにはその程度の愛なんて理解できないけど」
「まあ、ユベルほど強くない精霊は多いだろうからなあ」
ユベルほど心を強く持てない精霊には、それが必要なのだろうか? 消えるなんて選択はオレにも理解できない。そこはオレも元は人間で、失恋なんてよくあることだという意識があるからだろうか。精霊は純粋で、たったひとりしか愛せないのかもしれない。愛の結晶はそんな精霊へ与えられた、ひとつのチャンスなのかもしれない。
相手のことも精霊にして結ばれるのか。
相手を人間のままにして、愛の記憶を消すのか。
それとも自分が消えてしまうのか。
やっぱり最後だけ納得がいかない。精霊を人間にするのが難しいなら、精霊の記憶を消してしまう方がまだ公平なんじゃないか。どうして人間の記憶しか消せないのだろう。
「──もしかしたら、精霊ってのは純粋すぎて、愛の記憶を消したら自分も消えちゃうのかもね」
オレの疑問にユベルはそう言った。
「半分人間のキミなら自分の記憶だけ消すこともできるかもしれないか? まあ、試すにはリスクが大きいな」
「試さないよ」
使うんなら万丈目の記憶を消す一択だ。結晶の効果が人間を精霊にする以外は精霊にとってかわいそうな気がするけど、今のオレにとっては都合がいい。結晶が成長するなら万丈目の記憶を消せばいいし、成長しないなら別れ話だってしやすいだろう。結晶を創った神様かなんかにはちょっと申し訳ない気もするけど。
「……でも万丈目にどうやって持たせたもんかな」
記憶を消したいから結晶を育ててくれなんて言えないし。
「そこは二人の愛の結晶なんだからお前に育てる義務があるとか言えばいいんじゃないの。彼はそのあたりは真面目そうだからな、ちょっとそれらしい演出をしてやればいいさ」
ユベルは楽しいイタズラを思いついたとばかりに笑った。ユベルのアドバイス通りにしてみると、万丈目は少し渋ったものの結晶を育てることを承諾した。育て方は肌身離さず持ち歩く以外はユベルの考えたデタラメだ。こういうのは条件がある方がそれっぽくなるんだとユベルは言った。ユベルは完全にこの状況を面白がっていた。
万丈目に結晶を預けてから何日かに一度様子を見に行った。始めは全然変化がないから、あんまり愛されてないのかなあなんて思うと悲しかった。しばらく経つと結晶は成長してきて、嬉しかったけれど今度はこれが成長し終わったら忘れられてしまうのが悲しかった。どっちだって悲しいけれど、愛されている方がやっぱり嬉しい。それに万丈目の方は忘れてしまうんだから悲しくもならない。結晶を創った神様か何かは、そう思って人間の記憶を消す力を結晶に宿したのだろうか。精霊だって好きな人が悲しむのは悲しいもんな。
そう考えると、精霊が消えてしまうのだけはやっぱり酷いと思う。消えるのはもちろんよくないし、遺された人間に悲しい思いをさせてしまう。オレは使う気はないけど、それを使った精霊はいるんだろうか。それって結ばれない人間へのアテツケとかなのかな。
「そういう使い方もできるかもしれないが、もしかしたら……」
ユベルは少し悲しそうな顔をした。
「後追い用、だったりしてね」
そんなことオレは考えもしなかった。人間を精霊にする力を使わずに、人間が寿命を迎えたあとに精霊を消す力を使う。そのためにあるのだろうか?
「……なんだかろくでもないアイテムのような気がしてきた」
一見素敵なアイテムっぽいのだ。「愛の結晶」なんて名前だし、愛で成長するなんていかにもロマンチックだし。でもそれがもたらす力は、人間を人間でなくしてしまうことか、人間の記憶を消してしまうことか、精霊を消滅させること。
「他はともかく、同じ存在になれるのはいいことだと思うけどね」
「……そうだな。オレたちはそれでいい。でもあいつは違う」
あいつはちゃんと人間のままでいるべきだ。笑ったり怒ったり悔しがったり、あいつはものすごく「人間」で、たぶんオレはそんなところが大好きだったんだと思う。
「あいつには人間のままでいてほしいよ」
だから結晶の力なんて知らないままでいい。それを知ったときあいつが何を選ぶかは知らないけど、もし精霊になるなんて言われたら止めるのが大変そうだ。
「もったいないな。彼は精霊にしたら結構使えそうなのに」
「なんだよ使えそうって」
「雑魚のまとめ役にはちょうど良さそうじゃないか」
配下にでもしろということか。やけに協力的なのはそれが理由だろうか。ますます精霊にはなってほしくない。
「似合わないよそんなのは」
あいつに似合うのはきっと、スポットライトを浴びて大勢から歓声を受けるような、そんな姿だ。人間の中でキラキラ輝くスター。こちら側にはくるべきじゃない。
しばらくすると結晶はうずらの卵くらいの大きさになった。もう力は使えるのかな、と思って万丈目の記憶を消してくれと願ったけどなんの反応もなかった。万丈目を見ても様子は変わらない。
「なんだ?」
「ううん。順調に育ってるってことは、お前は本当にオレが好きなんだなーって」
そう言うと眉間にシワを寄せてにらまれた。からかいすぎたかな。
「ちゃんと育ってきてよかった」
「オレがずっと持ってるが、お前が育てなくていいのか」
あんまり突っ込まれるとボロが出ちゃうなあ。
「オレだと難しいの。人間の愛情じゃなきゃ」
「お前も人間だろうが」
「人間だったらこんなのできないじゃん」
「どういう意味だ」
「人間同士の愛は結晶にはならないだろ」
「なら……」
万丈目は何か言いかけてやめた。お前は人間じゃないのか? って聞きたくなったのかな。
もし聞かれたら、なんて答えたらいいのかな。人間じゃないし精霊でもない。破滅をもたらす光の波動と命を育むやさしい闇がどうこう、なんて話をしたら万丈目は信じてくれるのだろうか?
万丈目が黙っていたから、オレは軽く別れの挨拶をしてレッド寮へと帰った。
「結晶ってどんな風に育つんだろ?」
「島にいる精霊たちに聞いてみたけど、実物を見たやつはいなかったね。でも、その人間の抱く愛情のイメージの色や形になるらしいよ」
「じゃああれが万丈目のイメージする愛情なのか」
だんだん丸っこくなってきている気がする。今日「何か生まれるのか」と聞かれたし、万丈目の愛のイメージは「卵」なのかもしれない。
それから少し経つと結晶の色が変わった。白っぽかった表面は赤くなってきていた。
「これは大丈夫なのか? 昨日の雨のせいだろうか。濡れはしなかったが、冷えてしまったか?」
万丈目は心配そうに訊ねた。万丈目は結晶が冷えたり濡れたりしないようにいつも気をつけているみたいだった。それ嘘だから大丈夫だよ、とは言ってやれない。
「大丈夫。成長してるだけだよ。形も変わってくるかもな」
万丈目が心配しないように、形が変わるかもしれないことも言っておいた。今は石ころっぽいゴツゴツさがあるけど、これから卵っぽく丸くなっていくんじゃないかなと思った。
けど、オレの予想に反して結晶は卵じゃなくデコボコした形に変わっていった。万丈目の愛はフクザツなのかな。
数日ごとに見るたび、結晶の色はどんどん赤くなって、ガラスみたいに透明になってきていた。形はデコボコで最初は何かよくわからなかったけど、時間が経つとデコボコは花びらみたいだと気づいた。花の種類なんてよくわからないオレでも見たことがある形のそれは、たぶんバラだ。
真っ赤なバラが「愛情」のイメージなんてずいぶんストレートだ。そういえば万丈目は結構ロマンチストで、結婚に憧れたりしているんだっけ。
成長した結晶は触れるとあったかくて、透かしたりすると本当にキレイだった。まっすぐで、キレイで、あったかい愛情。こんな風にお前に愛されるやつは幸せ者だ。それはオレであるべきじゃない。
ほんの少しだけ、今これに願ったらオレは消えてしまうのかなと思った。ユベルが精霊たちからさらに集めた情報によると、結晶への願いはそれが作用する本人が願わなければならないらしい。だから精霊が消える力は精霊が願わなきゃいけないし、人間が精霊になったり人間の記憶を消したりするのは人間が願わなきゃいけない。
結晶を月明かりに透かしていると、万丈目にその腕を掴まれた。落ちるぞと少し焦った顔をしている。
「平気だよ」
「落とすぞ。大事な──ものだ」
万丈目は少し言いにくそうにしながらも「大事」だと言った。
「大事? 本当に?」
「あ──愛の結晶なんだろ」
恥ずかしそうに万丈目は言った。
「そう思う?」
「お前が言ったんだろ」
「信じてくれたんだ」
「なんだそのいいぐさは。嘘だったのか」
「嘘じゃないよォ」
愛の結晶なのは本当だ。でもそれ以外は全部嘘だ。嘘じゃないと言った直後に、オレはペラペラ嘘をつく。
万丈目の記憶を消すには万丈目にそれを願ってもらわなきゃならない。でも記憶を消すなんて万丈目が承諾すると思えなかった。だったら「結晶を手放す」ことを願わせたら? ただ「手放す」だと説得力がなさそうだから「旅立つ必要がある」ともっともらしく言った。
ちょっと不審がられたけど、万丈目は信じてくれたようだった。本当にいいやつだと思う。結晶を万丈目の手にのせてその手を握った。万丈目の手は少し冷たかった。
万丈目が旅立ちを祈ってくれたら結晶は光の粒になって空へと昇っていった。本当にキレイだった。これで万丈目の心からもオレへの愛とその記憶は消えていくんだろう。いつの間にか涙が出ていた。万丈目に気づかれたから笑ってごまかした。
「寂しくなる」
「……ああ」
「でも、本当に幸せだよ。あんなキレイな結晶になるほど愛されて。これでなんの悔いもなく旅立てる」
これで異変が起きたときにすぐここを出るのも悔いはない。
「……もう旅立っただろう?」
万丈目は不思議そうに言った。いつもの馬鹿な言い間違いだと思ってくれたらいいんだけど。
「そうだな。そうだ」
万丈目はオレにハンカチを渡してくれた。最初に結晶を預けたときのオレのハンカチだった。制服の洗濯だってしないやつなのに、そのハンカチは洗剤のにおいがした。もしかしたら、結晶のためにいつも清潔な布を用意してくれてたのかな。
「ありがとう万丈目。お前に愛されるやつは本当に幸せ者だ!」
だからどうか幸せになってほしい。オレを愛したことなんてちょっとした間違いだ。全部忘れて、どうか誰かと幸せになってくれ。
すごく身勝手な願いだとわかっているけれど。
万丈目が最後の光の粒を見上げている隙にバルコニーから飛び降りた。
「惜しかったんじゃないの? 結構キレイな愛だったじゃないか」
ユベルが言った。ブルー寮からレッド寮に向かって月明かりの下をユベルと共に歩くけれど、落ちる影はひとつだけだ。
「キミを愛する立場としては彼に同情しないでもないよ。選ばせないなんて少しかわいそうだ」
ユベルは人間の身を捨て覇王の宿命を共にすることを選んだ。オレが知らないうちに。そんなことを背負ってほしくなかった。穏やかに生きてほしかった。でもそうしてくれたことがすごく嬉しかった。「選んでほしくなかった」と「選んでくれてよかった」は同時に存在して、罪悪感と同時に喜びもあって、幸せと同時に苦しくて、そんなごちゃごちゃの感情でオレはユベルを愛している。
「オレを愛してくれるのはお前だけでいいよ」
「おやおや。殊勝なことを言って、本当は?」
魂の片割れはなんでもお見通しだ。
「……選ばれたくなかったんだ」
選ばれるのは幸せでもあるけど苦しいから。これ以上増やしたくなかった。万丈目に幸せになってほしいなんて言い訳で、ただ自分が楽になりたかっただけだ。
「それに、あいつが何を選ぶかも知りたくない」
オレのために人間の道から外れる? 忘れることを自分で選ぶ? それとも人間のままその結晶をずっと持ち続けて寿命を迎える? どれを選ばれたってきっと悲しかったり苦しかったりする。
「甲斐性なし」
「そ。だから早く忘れた方がいーの」
もし万丈目が自分で記憶を消すんだとして、オレなんかのために悩むのはもったいないくらいだ。だからこれでいい。
「それにやっぱりオレにはお前がいるしな」
「キミの不甲斐なさの言い訳にボクを使わないでくれ」
「手厳しいなあ……」
ユベルが機嫌を損ねる理由もわかるのだ。もし「あのとき」にそれがあったら、オレはユベルの記憶を消すことを選んでしまっただろう。ユベルの意見なんて聞かずに。
「でもユベルだってオレに聞いたりしないだろ」
「しない。聞いたらキミは反対するからね」
ユベルは即答した。
「そのくらいしないとキミのそばにはいられない。その意味じゃあ、彼はキミのことを甘く見てたね」
「いきなり記憶消されるなんて思わないよ、普通」
「『普通』じゃあキミのそばにいられないのさ」
ユベルは異形の翼を羽ばたかせてみせた。
「キミのことをお花みたいに大事にするだけじゃあね」
結晶の形がバラだったのはそんな意味もあったのだろうか? 一般的な愛情のイメージというだけでなく。
「別にオレのこと花だなんて思ってないだろ。しかもバラなんて、吹雪さんなら似合うかもしれないけど」
「比喩だよ。触ったら散るお花みたいに彼はキミに触れなかったろ。物理的なことじゃなくて、キミの居場所はわかってるのに会いにも来ない。キミの話に不審なところがあっても深く聞いたりもしない」
「『人間』はそれでいいんだよ」
人間は人間の中で生きて行く方がいい。時折例外もあるけど。
「あの結晶、精霊にとっても試金石なのかもしれないな。人間に本当に愛されてたとわかったとき、どうするのかって」
「やっぱりろくでもないアイテムな気がする」
あれがなかったら、オレはどうしてた? 記憶を消すなんて手段がなかったら、どんな風にあいつに別れを言った?
考えたくなくて、オレはあのキレイな愛の結晶を意気地無しの後押しに使ってしまったのだと思った。
2025/06/08
「愛の結晶ができたんだ」
遊城十代はごく真剣な顔で言った。
「……は?」
「だから愛の結晶だよ」
愛の結晶。まあ子供の命をそのように表現することもある。だが。
「できるわけないだろう」
十代とオレは同性である。いかに愛し合おうが子供などできない。そもそも。
「お前とは何もしていない」
キスもしたことがない。同じベッドで寝たこともない。いや、三段ベッドの一番上と一番下という位置では寝たことがあるのだが。
「愛し合ってるだろうが」
十代は不満そうに言った。
愛してはいる。大変不本意だったがあの異世界で怒りに囚われ彼をなじり、そのあとにようやくその感情を自覚した。そしてその気持ちを当人に伝えてしまった。完全に勢いだったと思う。生死不明の状態になった十代が生きているのを見て、あまりに嬉しくて、二人きりになったときについ言ってしまったのだ。彼はありがとうと泣いて、ずっと大好きだったんだと言った。
だが、その後はオレが寮を移動したこともあり、やや距離ができていた。十代も異世界の事件に疲れたのかレッド寮に引きこもっていた。それが今夜いきなりブルー寮のオレの部屋を訪ねてきて、愛の結晶ができたと言い出したのだ。
「愛し合えば愛の結晶はできるもんだろうが」
十代はまるでオレの方が非常識だとばかりにため息をついた。ため息をつきたいのはこっちだ、と思う。しかしその態度は十代を怒らせてしまった。
「お前に育てる気がないならいいぜ。難しいけどオレひとりで育てる」
そんなことを言って腹を撫でるものだから、オレは急にそこに子供がいるのではないかと思った。こいつは非常に非常識な存在だ。男だろうが本当に腹の中に子供がいるのではないか?
「お──おい、別に育てる気がないなどと言ってないだろうが」
十代は疑うようにオレをにらむ。
「本当に育てる気あるのか?」
「したことの責任は取る」
物理的には何もしていないのだが。しかし愛を告げたのはオレの方だ。それで愛の結晶とやらが生まれたのならその責任は取らねばなるまい。
「……なら、お前に託すぜ」
そう言うと十代はシャツの裾から腹に手を突っ込み、ハンカチを取り出した。
「ほら、手出して」
十代に言われるまま手を出すと、オレの手にそのハンカチをのせた。十代の腹にしまわれていたハンカチは生温かかった。
「まだ小さいけど、可愛いだろ?」
十代が畳まれたハンカチを開くと、小さな石ころがあった。白っぽい、そのへんに落ちていそうな石ころだ。からかっているのか──と思ったが、十代の微笑みにそんな色はなかった。
「しっかり育ててくれよ」
その日から、オレは肌身離さずその愛の結晶を持ち歩くことになった。十代いわく、柔らかい布に包んでしっかり温めること。しまう場所は腹でも胸でもいい。風呂に入るときはどうするんだと聞いたら、三十分くらいなら温めたタオルの上にのせておけばいいと言った。ただし濡らすのは厳禁。よくわからないがそういうものらしい。それと人には見せるなと。
「お前がオレとの愛をどうしても見せびらかしたいならいいけど」
そんなことを喧伝するのは御免である。結晶はほんの小さなものだ。制服の胸ポケットに入れておけば目立たず、誰に気づかれることもなかった。昼間は制服の胸の内ポケット、寝るときにはパジャマの胸ポケットへ。人間の重みで潰れないかと心配したが、そのくらいでは潰れないと十代は言った。多少の衝撃は大丈夫だが扱いには気をつけろと念押しされた。
十代は数日後に部屋を訪ねてきた。結晶の様子を見に来たという。十代はまたしても夜に来て、昼間に授業に出たりすることはなかった。相変わらずレッド寮に引きこもっているらしい。これが酔狂な遊びだとしても、十代が外に出るようになったのはいいことだろうか。
「どう? 何か困ったりしてない?」
「特に何も」
「そうか。これからも頼むな」
十代はそう言って部屋を去り、また数日後の夜に訪ねてきた。結晶の様子を見て、少し話して帰る。それを繰り返して二週間ほどが経った。
「ちょっと育ってきたな」
言われてみると、結晶はほんの少しだけ大きくなっていた。小指の爪から薬指の爪くらいのサイズになっている。十代がすり替えたか──と思ったが、こんなにそっくりでほんの少しだけ大きな石ころを用意できるだろうか? そもそもいつすり替えるというのだ。ずっとオレが肌身離さず持っていて、今だって十代は結晶に触れてもいないのだ。
「……これはなんなんだ?」
「愛の結晶だよ」
十代はそれ以上説明不要だろうとばかりに笑う。
「じゃあこれからも頼むぜ」
十代はいつも少し結晶の様子を見るとすぐに部屋から去ってしまう。これではオレがひとりで育てているようなものではないか? お前は何をしているんだ? 次に来たときにはそれを問いただしてやろう──そう思ったのだが。
「お、デカくなったなあ!」
数日後には、爪くらいの大きさだった結晶はウズラの卵ほどの大きさへとふくらんでいた。あまりに急に成長して、わけがわからなかった。その上、結晶は常に生温かいことにも気づいてしまった。この結晶は生きている──。
「……これはここから何か生まれたりするのか」
「え? もう生まれてるじゃん」
「そもそも愛の結晶ってなんなんだ?」
「愛の結晶は愛の結晶だろ」
まったく話にならない。
十代は結晶を見つめて指先でつついた。オレと結晶を交互に見る。
「なんだ?」
「ううん。順調に育ってるってことは、お前は本当にオレが好きなんだなーって」
うるさいと怒鳴りたくなったが声は出てこなかった。
「ちゃんと育ってきてよかった」
「……オレがずっと持ってるが、お前が育てなくていいのか」
「オレだと難しいの。人間の愛情じゃなきゃ」
「お前も人間だろうが」
「人間だったらこんなのできないじゃん」
十代はへらりと笑った。
「どういう意味だ」
「人間同士の愛は結晶にはならないだろ」
「なら」
お前は『何』だ──そう聞くべきだろう。だがそれは「お前は人間ではない」と十代に言うことだ。そんなことを言いたくはなかった。
「じゃ、もうしばらく頼むぜ」
オレが言葉に迷ううち、十代はそう言うと部屋を出て行った。もうしばらく? そういえばこれはいつまで育てたらいいのだろう。
結晶は少しずつ大きくなると同時に色も変わってきた。最初は変色したことに驚いたが、様子を見に来た十代は大丈夫だと言った。
「成長してるだけだよ。形も変わってくるかもな」
その言葉通り、結晶は日に日に色と形を変えていった。少しずつ赤に染まり、形はデコボコとしてきた。始めはいびつに見えたが、どうやらそれはバラに似ているようだった。色もだんだんと澄んできて、まるで宝石のように見えてきた。十代がオレに渡してきたときにはそのへんの石ころみたいだったのに。
「本当にキレイになったなあ」
十代は感心したように言った。あの日から一ヶ月近く経っていた。結晶は精巧なガラス細工のバラのようになっていた。最初は不透明な白っぽい石ころだったのが嘘のように透明で、色は真っ赤になっている。
「すごいなあ、本当に毎日大事に育ててくれたんだ」
ニコニコと十代は笑った。それからハンカチに包みもしないで結晶を手に取った。十代は結晶を照明に透かせたり、愛おしそうに撫でたり頬ずりしたりした。
「本当にキレイだ。あったかいし。こんな風にお前に愛されるやつは幸せ者だ」
お前だろうが、と思ったが恥ずかしくて口にできなかった。
「今日まで本当にありがとう。これでもうなんの悔いもない」
「……何?」
相変わらずこいつの言うことはわけがわからない。いや、最初からわからないのだ。そもそも愛の結晶ってなんだ。どうしてオレが温めなきゃいけなかったんだ。なんであんな小さな石ころが手のひらほどに育って色や形まで変わるんだ。
「万丈目も見送ってよ。今日は天気もいいし、旅立ち日和だ」
十代はオレの手を引いてバルコニーへと向かった。握られた手の温度は結晶と似ている気がした。十代はバルコニーの手すりに座り、結晶を掲げた。
「月の光で見てもキレイだ」
月明かりで十代の顔に結晶の影が落ちる。赤いそれは血みたいで気味悪く見えた。
オレは十代が結晶を掲げる右の手首を掴んだ。茶褐色の目が驚きに見開かれる。
「なんだ?」
「お──落ちるぞ」
平気だよと十代は笑う。
「落とすぞ。大事な──ものだ」
「大事? 本当に?」
十代は急に気味悪く感じたオレの心を見抜いたかのように聞き返した。しかし一ヶ月も肌身離さず持ち歩いていたのだ。大きさや形や色が変わったりすることが不思議ではあっても不気味ではなかった。ただこの瞬間を除けば。
「あ──愛の結晶なんだろ」
「そう思う?」
「お前が言ったんだろ」
「信じてくれたんだ」
「なんだそのいいぐさは。嘘だったのか」
「嘘じゃないよォ」
へらへらと十代は笑う。
「精霊に伝わるおとぎ話だ。人間と精霊が愛し合うとその想いが結晶になるんだって」
「お前は精霊じゃないだろ」
「覇王は精霊と似たようなもんじゃない?」
似ているのか? よくわからない。オレは覇王など話でしか知らない。
「で──その結晶は育てる必要があんの。最初は石ころみたいだけど、大事にしてたらこうやってキレイな宝石みたいになる。そうじゃなかったら成長しない。お前は本当に大事にしてくれたんだな」
十代は嬉しそうに笑った。でも、と少し声のトーンを落とす。
「成長したこいつは旅立たないといけない」
「旅立つ?」
「そう」
だからさっき旅立ち日和だと言ったのか。確かに今日は雲ひとつなく、月も星も綺麗だ。
「こいつが旅立てるように祈ってやって」
十代はオレに結晶を渡す。手のひらにのせた結晶はやはり生温かく、ほんの少し重い。触ったことはないが小鳥やハムスターはこんな感触なのだろうか。先ほど一瞬気味悪く見えたのに、今はそんな感情はない。むしろ手放すのが惜しい。
「……旅立たないといけないのか」
一ヶ月も肌身離さず持っていて、情がわいてしまったようだ。このままずっと持っていたらいけないのか。愛の結晶なんだろう? どうして手放さないといけないんだ?
「子供は成長したら巣立つもんだろ。見送ってやらなきゃ。オレも寂しいけどさ──」
子供──なのか? まったくわけがわからない。だが十代は真剣そのもので、茶色の瞳を潤ませている。
「祈ってくれよ。オレもそうするから」
十代はオレの手に自分の手を添えた。結晶をのせた右手が十代の両手に包まれる。その手はやはり結晶と同じくらい温かい。
「ええと──オレも初めてだからよくわかんないけど。元気でな、さよならって思えばいいのかな」
十代は結晶を見つめて黙り込む。オレも同様に結晶を見つめた。旅立ちを祈るとはどうすればいいのだろう。
本当は手放したくないのに。
でも、そういうものらしい。拾った犬猫の飼い主が見つかったようなものか。子供の旅立ちよりはその方が想像しやすい。たとえばファラオに新しい飼い主が見つかって、この島からいなくなってしまうような。あんなデブ猫を飼いたがる人間がいるか疑問だが。まああのあばら屋よりいいところに行けることだろう。うまいものも食えるかもな。
そんな想像をしたらいいのか。ハンカチに包まれた狭い世界から、広い世界へ行ける。寮と校舎を行き来するだけの生活から、世界中のいろんなものを見れる。オレがずっと持ち歩いているよりよっぽど幸せかもしれない。結晶に幸せとかいう感情があるかは知らないが、そう思えば惜しい気持ちは薄れて、旅立ちを祝福したくなってきた。
どうかよい旅を。元気でな。
そう思ったオレの心に呼応するように結晶が光った。結晶は花が開くようにほころび、光の粒になって天に昇っていく。
「……キレイだな」
「ああ……」
光の粒を見上げる視界の端に、結晶の光じゃないものがきらめいた。十代が涙を流していた。オレが見ていることに気づくと、十代は作り笑いをした。
「寂しくなる」
「……ああ」
「でも、本当に幸せだよ。あんなキレイな結晶になるほど愛されて。これでなんの悔いもなく旅立てる」
「……? もう旅立っただろう」
「そうだな。そうだ」
十代が涙を袖で拭おうとしたから結晶を包んでいたハンカチを渡してやる。もともと十代のものだ。
「ありがとう万丈目。お前に愛されるやつは本当に幸せ者だ!」
涙を拭くと十代は笑った。だからそれはお前だろうが。何を他人事みたいに言ってやがる。
「オレももう行かなきゃ。あの光が消える前に」
空を見上げた十代につられてオレも見上げると、結晶の光の粒がほんの少しだけ残っていた。それももう消えていく。あの結晶はいい旅ができるだろうか。一ヶ月も懐に入れていたものが消えていくのはやはり寂しかった。
空には月と星だけが輝く。見上げていた視線を戻すとそこには誰もいない。
いや──誰かがいるはずもない。ここは一人部屋だ。
オレはどうしてバルコニーに出たのだったか。こんなことをしてないで寝る準備をしないと。胸の内ポケットに触れて何もないことに気づく。いや、そもそもここには何も入れてなかったはずだ。なぜ何か取り出そうとしたのだろう?
……まあいい。明日の授業の準備をして、風呂に入って──ああ、温めたタオルを準備しないと……。
温めたタオル? なぜそんなものが要るんだ?
行動しようとするたびに小さな違和感があった。自分でもよくわからない、些細な行動。なぜか胸に手をやったり、アレはどこに置いたかと探すのにその「アレ」がなんなのかわからなかったり。
疲れているのかもしれない。なんだかんだと、あの奇妙な騒動からまだ一ヶ月なのだから。その張本人とは長らく顔を合わせていないが、あいつは今頃どうしているのだろう。
……いや、なんでオレがあんなやつを気にかけてやらなきゃならんのか。いつもみたいにどうせ突然へらりと姿を現すのだ。
──いつも? いつもとはなんのことだ?
ため息をつく。やはり疲れているのだろう。今日はさっさと寝てしまおう。
◇◆◇
万丈目に好きだと言われたときにはそりゃあ嬉しかった。でもいずれ万丈目は死んでしまうことと、オレに関われば危険に巻き込まれてしまうだろうことはとても怖かった。オレが巻き込んでしまうのはたぶん万丈目だけじゃなくて、だからもうこの島は出ていくつもりだけど。
万丈目にはきちんとお別れを言わないとなあと思うと少しユーウツだった。そんなことを考えていたせいか、ある日目が覚めたら枕元にあの結晶があった。見た目はただの小石のようだったけど、なにかエネルギーの塊のようなものだと感じた。
「もしかしたらそれってアレかなあ」
「アレ?」
ユベルが興味深そうに小石を見つめて語ったのは、精霊たちに伝わるおとぎ話だった。人間と恋に落ちてしまった精霊の元には、その愛の結晶が現れるのだと。始めはその結晶は小さなただの石ころのようだが、人間の愛によって大きく美しくなるのだと。
「一種の試金石かもしれない。その結晶を人間に持たせて大きくなるならその愛は本物だし、ならないなら愛してない。そして成長した結晶には三つの不思議な力が宿って、そのうち一つだけを叶えてくれる。一つは精霊と人間が一緒にいられるように、人間を精霊へと変化させる力。もう一つはその人間を人間のままでいさせるために、その愛と愛の記憶を消す力。最後の一つは」
その精霊を消してしまう力。
「なんで精霊が消えちまうんだよ。そこは精霊が人間になるとかじゃねーの? 人間は精霊になるんだからさ」
「さあね、精霊を人間にするのは難しいんじゃないの? たとえばハネクリボーだったらどんな人間になるんだい? 全身毛だらけで羽根の生えた人間?」
「あんまり想像したくないな……確かに精霊が人間になるのは難しそうだ……」
人間が精霊になることはそれに比べると簡単なのだろうか。ブラック・マジシャン・ガールなんて見た目はそこらの少女と変わらない。学園祭に紛れ込んだときだって、みんな女子生徒がコスプレしているだけだと思っていただろう。もしかしたら、ブラック・マジシャン・ガールだってもともとはただの人間だったという可能性もある。
「でも、消えるってな酷いな。不公平だぜ」
「そこは結ばれないなら消えてしまいたいみたいな感情なんじゃないかい。ボクにはその程度の愛なんて理解できないけど」
「まあ、ユベルほど強くない精霊は多いだろうからなあ」
ユベルほど心を強く持てない精霊には、それが必要なのだろうか? 消えるなんて選択はオレにも理解できない。そこはオレも元は人間で、失恋なんてよくあることだという意識があるからだろうか。精霊は純粋で、たったひとりしか愛せないのかもしれない。愛の結晶はそんな精霊へ与えられた、ひとつのチャンスなのかもしれない。
相手のことも精霊にして結ばれるのか。
相手を人間のままにして、愛の記憶を消すのか。
それとも自分が消えてしまうのか。
やっぱり最後だけ納得がいかない。精霊を人間にするのが難しいなら、精霊の記憶を消してしまう方がまだ公平なんじゃないか。どうして人間の記憶しか消せないのだろう。
「──もしかしたら、精霊ってのは純粋すぎて、愛の記憶を消したら自分も消えちゃうのかもね」
オレの疑問にユベルはそう言った。
「半分人間のキミなら自分の記憶だけ消すこともできるかもしれないか? まあ、試すにはリスクが大きいな」
「試さないよ」
使うんなら万丈目の記憶を消す一択だ。結晶の効果が人間を精霊にする以外は精霊にとってかわいそうな気がするけど、今のオレにとっては都合がいい。結晶が成長するなら万丈目の記憶を消せばいいし、成長しないなら別れ話だってしやすいだろう。結晶を創った神様かなんかにはちょっと申し訳ない気もするけど。
「……でも万丈目にどうやって持たせたもんかな」
記憶を消したいから結晶を育ててくれなんて言えないし。
「そこは二人の愛の結晶なんだからお前に育てる義務があるとか言えばいいんじゃないの。彼はそのあたりは真面目そうだからな、ちょっとそれらしい演出をしてやればいいさ」
ユベルは楽しいイタズラを思いついたとばかりに笑った。ユベルのアドバイス通りにしてみると、万丈目は少し渋ったものの結晶を育てることを承諾した。育て方は肌身離さず持ち歩く以外はユベルの考えたデタラメだ。こういうのは条件がある方がそれっぽくなるんだとユベルは言った。ユベルは完全にこの状況を面白がっていた。
万丈目に結晶を預けてから何日かに一度様子を見に行った。始めは全然変化がないから、あんまり愛されてないのかなあなんて思うと悲しかった。しばらく経つと結晶は成長してきて、嬉しかったけれど今度はこれが成長し終わったら忘れられてしまうのが悲しかった。どっちだって悲しいけれど、愛されている方がやっぱり嬉しい。それに万丈目の方は忘れてしまうんだから悲しくもならない。結晶を創った神様か何かは、そう思って人間の記憶を消す力を結晶に宿したのだろうか。精霊だって好きな人が悲しむのは悲しいもんな。
そう考えると、精霊が消えてしまうのだけはやっぱり酷いと思う。消えるのはもちろんよくないし、遺された人間に悲しい思いをさせてしまう。オレは使う気はないけど、それを使った精霊はいるんだろうか。それって結ばれない人間へのアテツケとかなのかな。
「そういう使い方もできるかもしれないが、もしかしたら……」
ユベルは少し悲しそうな顔をした。
「後追い用、だったりしてね」
そんなことオレは考えもしなかった。人間を精霊にする力を使わずに、人間が寿命を迎えたあとに精霊を消す力を使う。そのためにあるのだろうか?
「……なんだかろくでもないアイテムのような気がしてきた」
一見素敵なアイテムっぽいのだ。「愛の結晶」なんて名前だし、愛で成長するなんていかにもロマンチックだし。でもそれがもたらす力は、人間を人間でなくしてしまうことか、人間の記憶を消してしまうことか、精霊を消滅させること。
「他はともかく、同じ存在になれるのはいいことだと思うけどね」
「……そうだな。オレたちはそれでいい。でもあいつは違う」
あいつはちゃんと人間のままでいるべきだ。笑ったり怒ったり悔しがったり、あいつはものすごく「人間」で、たぶんオレはそんなところが大好きだったんだと思う。
「あいつには人間のままでいてほしいよ」
だから結晶の力なんて知らないままでいい。それを知ったときあいつが何を選ぶかは知らないけど、もし精霊になるなんて言われたら止めるのが大変そうだ。
「もったいないな。彼は精霊にしたら結構使えそうなのに」
「なんだよ使えそうって」
「雑魚のまとめ役にはちょうど良さそうじゃないか」
配下にでもしろということか。やけに協力的なのはそれが理由だろうか。ますます精霊にはなってほしくない。
「似合わないよそんなのは」
あいつに似合うのはきっと、スポットライトを浴びて大勢から歓声を受けるような、そんな姿だ。人間の中でキラキラ輝くスター。こちら側にはくるべきじゃない。
しばらくすると結晶はうずらの卵くらいの大きさになった。もう力は使えるのかな、と思って万丈目の記憶を消してくれと願ったけどなんの反応もなかった。万丈目を見ても様子は変わらない。
「なんだ?」
「ううん。順調に育ってるってことは、お前は本当にオレが好きなんだなーって」
そう言うと眉間にシワを寄せてにらまれた。からかいすぎたかな。
「ちゃんと育ってきてよかった」
「オレがずっと持ってるが、お前が育てなくていいのか」
あんまり突っ込まれるとボロが出ちゃうなあ。
「オレだと難しいの。人間の愛情じゃなきゃ」
「お前も人間だろうが」
「人間だったらこんなのできないじゃん」
「どういう意味だ」
「人間同士の愛は結晶にはならないだろ」
「なら……」
万丈目は何か言いかけてやめた。お前は人間じゃないのか? って聞きたくなったのかな。
もし聞かれたら、なんて答えたらいいのかな。人間じゃないし精霊でもない。破滅をもたらす光の波動と命を育むやさしい闇がどうこう、なんて話をしたら万丈目は信じてくれるのだろうか?
万丈目が黙っていたから、オレは軽く別れの挨拶をしてレッド寮へと帰った。
「結晶ってどんな風に育つんだろ?」
「島にいる精霊たちに聞いてみたけど、実物を見たやつはいなかったね。でも、その人間の抱く愛情のイメージの色や形になるらしいよ」
「じゃああれが万丈目のイメージする愛情なのか」
だんだん丸っこくなってきている気がする。今日「何か生まれるのか」と聞かれたし、万丈目の愛のイメージは「卵」なのかもしれない。
それから少し経つと結晶の色が変わった。白っぽかった表面は赤くなってきていた。
「これは大丈夫なのか? 昨日の雨のせいだろうか。濡れはしなかったが、冷えてしまったか?」
万丈目は心配そうに訊ねた。万丈目は結晶が冷えたり濡れたりしないようにいつも気をつけているみたいだった。それ嘘だから大丈夫だよ、とは言ってやれない。
「大丈夫。成長してるだけだよ。形も変わってくるかもな」
万丈目が心配しないように、形が変わるかもしれないことも言っておいた。今は石ころっぽいゴツゴツさがあるけど、これから卵っぽく丸くなっていくんじゃないかなと思った。
けど、オレの予想に反して結晶は卵じゃなくデコボコした形に変わっていった。万丈目の愛はフクザツなのかな。
数日ごとに見るたび、結晶の色はどんどん赤くなって、ガラスみたいに透明になってきていた。形はデコボコで最初は何かよくわからなかったけど、時間が経つとデコボコは花びらみたいだと気づいた。花の種類なんてよくわからないオレでも見たことがある形のそれは、たぶんバラだ。
真っ赤なバラが「愛情」のイメージなんてずいぶんストレートだ。そういえば万丈目は結構ロマンチストで、結婚に憧れたりしているんだっけ。
成長した結晶は触れるとあったかくて、透かしたりすると本当にキレイだった。まっすぐで、キレイで、あったかい愛情。こんな風にお前に愛されるやつは幸せ者だ。それはオレであるべきじゃない。
ほんの少しだけ、今これに願ったらオレは消えてしまうのかなと思った。ユベルが精霊たちからさらに集めた情報によると、結晶への願いはそれが作用する本人が願わなければならないらしい。だから精霊が消える力は精霊が願わなきゃいけないし、人間が精霊になったり人間の記憶を消したりするのは人間が願わなきゃいけない。
結晶を月明かりに透かしていると、万丈目にその腕を掴まれた。落ちるぞと少し焦った顔をしている。
「平気だよ」
「落とすぞ。大事な──ものだ」
万丈目は少し言いにくそうにしながらも「大事」だと言った。
「大事? 本当に?」
「あ──愛の結晶なんだろ」
恥ずかしそうに万丈目は言った。
「そう思う?」
「お前が言ったんだろ」
「信じてくれたんだ」
「なんだそのいいぐさは。嘘だったのか」
「嘘じゃないよォ」
愛の結晶なのは本当だ。でもそれ以外は全部嘘だ。嘘じゃないと言った直後に、オレはペラペラ嘘をつく。
万丈目の記憶を消すには万丈目にそれを願ってもらわなきゃならない。でも記憶を消すなんて万丈目が承諾すると思えなかった。だったら「結晶を手放す」ことを願わせたら? ただ「手放す」だと説得力がなさそうだから「旅立つ必要がある」ともっともらしく言った。
ちょっと不審がられたけど、万丈目は信じてくれたようだった。本当にいいやつだと思う。結晶を万丈目の手にのせてその手を握った。万丈目の手は少し冷たかった。
万丈目が旅立ちを祈ってくれたら結晶は光の粒になって空へと昇っていった。本当にキレイだった。これで万丈目の心からもオレへの愛とその記憶は消えていくんだろう。いつの間にか涙が出ていた。万丈目に気づかれたから笑ってごまかした。
「寂しくなる」
「……ああ」
「でも、本当に幸せだよ。あんなキレイな結晶になるほど愛されて。これでなんの悔いもなく旅立てる」
これで異変が起きたときにすぐここを出るのも悔いはない。
「……もう旅立っただろう?」
万丈目は不思議そうに言った。いつもの馬鹿な言い間違いだと思ってくれたらいいんだけど。
「そうだな。そうだ」
万丈目はオレにハンカチを渡してくれた。最初に結晶を預けたときのオレのハンカチだった。制服の洗濯だってしないやつなのに、そのハンカチは洗剤のにおいがした。もしかしたら、結晶のためにいつも清潔な布を用意してくれてたのかな。
「ありがとう万丈目。お前に愛されるやつは本当に幸せ者だ!」
だからどうか幸せになってほしい。オレを愛したことなんてちょっとした間違いだ。全部忘れて、どうか誰かと幸せになってくれ。
すごく身勝手な願いだとわかっているけれど。
万丈目が最後の光の粒を見上げている隙にバルコニーから飛び降りた。
「惜しかったんじゃないの? 結構キレイな愛だったじゃないか」
ユベルが言った。ブルー寮からレッド寮に向かって月明かりの下をユベルと共に歩くけれど、落ちる影はひとつだけだ。
「キミを愛する立場としては彼に同情しないでもないよ。選ばせないなんて少しかわいそうだ」
ユベルは人間の身を捨て覇王の宿命を共にすることを選んだ。オレが知らないうちに。そんなことを背負ってほしくなかった。穏やかに生きてほしかった。でもそうしてくれたことがすごく嬉しかった。「選んでほしくなかった」と「選んでくれてよかった」は同時に存在して、罪悪感と同時に喜びもあって、幸せと同時に苦しくて、そんなごちゃごちゃの感情でオレはユベルを愛している。
「オレを愛してくれるのはお前だけでいいよ」
「おやおや。殊勝なことを言って、本当は?」
魂の片割れはなんでもお見通しだ。
「……選ばれたくなかったんだ」
選ばれるのは幸せでもあるけど苦しいから。これ以上増やしたくなかった。万丈目に幸せになってほしいなんて言い訳で、ただ自分が楽になりたかっただけだ。
「それに、あいつが何を選ぶかも知りたくない」
オレのために人間の道から外れる? 忘れることを自分で選ぶ? それとも人間のままその結晶をずっと持ち続けて寿命を迎える? どれを選ばれたってきっと悲しかったり苦しかったりする。
「甲斐性なし」
「そ。だから早く忘れた方がいーの」
もし万丈目が自分で記憶を消すんだとして、オレなんかのために悩むのはもったいないくらいだ。だからこれでいい。
「それにやっぱりオレにはお前がいるしな」
「キミの不甲斐なさの言い訳にボクを使わないでくれ」
「手厳しいなあ……」
ユベルが機嫌を損ねる理由もわかるのだ。もし「あのとき」にそれがあったら、オレはユベルの記憶を消すことを選んでしまっただろう。ユベルの意見なんて聞かずに。
「でもユベルだってオレに聞いたりしないだろ」
「しない。聞いたらキミは反対するからね」
ユベルは即答した。
「そのくらいしないとキミのそばにはいられない。その意味じゃあ、彼はキミのことを甘く見てたね」
「いきなり記憶消されるなんて思わないよ、普通」
「『普通』じゃあキミのそばにいられないのさ」
ユベルは異形の翼を羽ばたかせてみせた。
「キミのことをお花みたいに大事にするだけじゃあね」
結晶の形がバラだったのはそんな意味もあったのだろうか? 一般的な愛情のイメージというだけでなく。
「別にオレのこと花だなんて思ってないだろ。しかもバラなんて、吹雪さんなら似合うかもしれないけど」
「比喩だよ。触ったら散るお花みたいに彼はキミに触れなかったろ。物理的なことじゃなくて、キミの居場所はわかってるのに会いにも来ない。キミの話に不審なところがあっても深く聞いたりもしない」
「『人間』はそれでいいんだよ」
人間は人間の中で生きて行く方がいい。時折例外もあるけど。
「あの結晶、精霊にとっても試金石なのかもしれないな。人間に本当に愛されてたとわかったとき、どうするのかって」
「やっぱりろくでもないアイテムな気がする」
あれがなかったら、オレはどうしてた? 記憶を消すなんて手段がなかったら、どんな風にあいつに別れを言った?
考えたくなくて、オレはあのキレイな愛の結晶を意気地無しの後押しに使ってしまったのだと思った。
2025/06/08
