夏目友人帳

黄色の蝶を追って

 ひらひらと漂う黄色の蝶。それを追うように、小さくて短い手、否前足がひゅっと空を切る。蝶はそれをかわして高く舞ったが、またふらりと下の方へ戻る。それを狙って白い前足が空を切る。さっきから、その繰り返しだ。ニャンコ先生は、今度は身を屈めて狙いを定める。丸いおしりを小さく左右に振りながら蝶の不規則な動きを細い目で追う。ふんっと気合いを入れて飛び上がった。
 しかし、やはり蝶からは外れる。ニャンコ先生が着地した音は軽やかなものではなく、ずどんと重量感溢れるものだった。花の海にかかる桟橋のように作られた休憩スペースが、その衝撃で揺れた。
「猫ちゃん、ちょっと太りすぎなんじゃない」
 ベンチの上から名取は言った。行儀悪く背もたれに座って、膝を使い頬杖をついている。
「先生、最近よく言われるな」
 名取の隣で、通常のベンチの使い方で腰かけている夏目が笑う。ニャンコ先生はじろりと二人を睨んで、また蝶を追いかける。
「捕まらないのに飽きないね」
「捕まえないそうですよ。逃げるのが楽しいそうです」
 普通の猫なら捕まえて食べてしまうのだろうが、ニャンコ先生の口には合わないようだ。かといって、あんな小さな蝶を追いかけ回して楽しむとは。
「それも悪趣味な気がするなあ」
 名取はニャンコ先生を眺める。前足は空をかき、蝶はその間をひらひらと舞う。蝶はニャンコ先生に離れては近づき、近づいては離れる。もっと遠くへ逃げてしまえばいいのに、付かず離れず。
「……どっちが遊ばれているのやら」
 あるいは蝶もニャンコ先生が捕まえないことを知っていて傍を舞っているのかもしれない。
「あ。こっちにも来た」
 夏目が呟く。名取が見ると、ちょうど夏目の頭上を蝶が舞っている。夏目は蝶を見上げて微笑んだ。側に花もないのに寄ってくるのは珍しい。名取の方にも寄ってくる。
 人懐こいなんて性格が蝶にあるか知らないが、少なくともこの公園の蝶は人にも猫にも近づきたがるらしい。目の前をひらひら飛ぶ黄色の蝶に、名取は手を伸ばした。指先に留まらないかと、手の動きをぴたりと止める。
 しばらく待つと、人差し指に蝶が留まった。指先が震えないように気をつけながら蝶を眺める。黄色に左右対称の模様が美しい。揺れる触覚や何処を見ているかわからない目など、間近で見ると若干不気味さはあるが、大人しく指先に留まる人懐こさにやはり可愛らしいと思う。
 意外に離れないものだ。名取がじっと指先の蝶を見つめていると、手首からヤモリの痣が這い出てきた。ヤモリはそろりそろりと人差し指へ向かう。まるで本当のヤモリが虫を狙うように。ヤモリは一度人差し指の付け根で止まった。そして、素早く指先へ走る──。
 瞬間、蝶はひらりと飛んだ。まるでヤモリの気配を察したように。実際、察したのかもしれない。獲物を逃したヤモリは再び名取の袖の中へと入ってしまった。
 もし辿り着いていたら、ヤモリは蝶を食べたのだろうか──その時は、蝶を捕らえるために名取の指先から飛び出してくれたかもしれない。
「惜しかったな」
 ぽつりと呟く。夏目が不思議そうに名取を見た。
「蝶に逃げられてしまったよ」
 夏目は視線を少し上げて微笑んだ。
「でも名取さん。帽子に蝶が留まってますよ」
「本当かい?」
 名取は思わず視線を上げるが、自分の前髪と帽子の縁が見えるだけだ。
 動くと飛んでしまうだろうか。しかし帽子の上ではヤモリも手出し出来ない。ヤモリが蝶を追いかけて名取の外へ出てくれる日は遠そうだ。
 足元で何か動く気配を感じて名取は視線を下げる。ニャンコ先生が名取を見上げて尻尾を振っている。いや、前足を伏せて、おしりを上げて、少し左右に揺らして──それはさっきも見た光景だ。ニャンコ先生の短い後ろ足が強く地を蹴った。
 あっと思う間もなく、名取の顔にはつるふかとして弾力のあるものが激突した。その勢いに押され、ベンチの背もたれに座っていた名取は後ろへ倒れる。名取さん! と夏目が叫んで名取の腕と肩の服を掴んで引き戻す。それに助けられ、名取はなんとかバランスを取る。ニャンコ先生が名取の帽子と共に板敷の床にどすんと落ちた。ぐふっと呻き声が上がる。やはりベンチは僅かに揺れ、名取は背もたれを掴む手に力を込めた。
「名取さん、大丈夫ですか!?」
「ああ……」
 名取は背もたれを滑りベンチに腰かけた。背もたれは後ろに倒れない為にあるのだな、と背を預けて安心する。
「ニャンコ先生! なんてことするんだ!」
「うぐ……夏目、少しは私の心配をしろ」
「自業自得だろ! 名取さん、すみません」
「大丈夫……先生のお腹やわらかかったから顔に傷がつかなかったよ」
 きらめく笑顔を夏目に見せて、ニャンコ先生がぶつかってずれた眼鏡をかけ直す。
「でも本当にダイエットした方がいい弾力だったね」
「まだ冬毛が生え換わってないだけだ」
「それ生え換わるのかい?」
「冬の初めも太ったんじゃなくて生え換わりだって言い張ってました」
「そうか……」
 生え換わったところでそのフォルムが変わると思えないけど……という言葉を飲み込んで、名取は落ちた帽子に手を伸ばした。またヤモリが袖から這い出てくる。
「もう蝶はいないよ」
「先生が飛び付くからだぞ。なんだかみんないなくなっちゃったじゃないか」
 一人言だったが、夏目が応えるように言った。確かに、夏目に寄ってきていた蝶も、ニャンコ先生がじゃれついていた蝶もいない。この騒がしさには、人懐こい蝶でも嫌になってしまったのだろうか。
 ヤモリの這う手で名取は帽子を拾う。あ、と夏目の声が聞こえた。
 蝶が、帽子の下からひらりと飛び立った。ヤモリは名取の手の甲を旋回して、再び袖に潜り込む。もしかしたら、また獲物を逃して悔しいのかもしれない。
「帽子が一番狩りが上手かったね」
 そう言って名取は帽子を頭に戻す。
「私が捕まえたんだ」
「嘘つけ、偶然だろ」
 得意気なニャンコ先生に、夏目は呆れた声で言った。
 名取は自由を手にした蝶を見上げて、小さく手を振った。

2017/05/02 pixiv公開
2025/07/16 当サイト掲載
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