夏目友人帳

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「……さよなら、先生」
 年老いた僧侶が学生服の少年にそう告げた。
「さよなら、夏目……」
 皺だらけの手で、少年の手にある小さな壺に手を置いた。
「世話になったな、田沼。もう半分は頼んだぞ」
 僧侶は頷いた。少年の目を見つめて、元気で、と告げる。
「お前もな田沼。 あと何年かわからんが」
 唇を歪めた少年に嫌な顔もせず、むしろ僧侶はやさしく笑い返した。少年はくるりと背を向けて、振り向きもせずに歩いていく。そしてしばらく離れたあと、その姿は小さな猫になって森の中へと消えていった。

 そろそろ墓の準備をしなくちゃなあ、と馴染みの妖たちと酒を飲みながら夏目が呟いたのはいつだったか。何を言い出すんですかと中級たちが慌てて、やれ長寿の薬を探しに行くだの、何処其処の薬草が万病に利くだの。夏目は悠悠と笑いながらそれを見て、おれは人間だからなと言った。
「お前たち、おれの墓って欲しいか?」
 そんなことを夏目は聞いた。
「孫のおれのところにレイコさんを訪ねに来る妖がよくいたけど、おれは子供がいないから。誰かがおれに会いに来た時、ここにいるという場所でもあると便利だろ。人間の墓には入るけど、そっちに妖が行ったら、落ち着かない『ひと』がいるかもしれないからな。こっち側にも作ろうと思って」
「確かに、夏目殿を訪ねに来る者はこの先もいそうですな」
「なれば、そこらの寺社も羨むような立派な御殿を建てるといたしましょう! 夏目様の墓ですからな!」
「夏目を祀り上げたらそのまま神にでもなっちまいそうだね」
「大袈裟なのはやめてくれ……」
 犬の会でやいのやいのと言った結果、小さな箱のような、祠のような墓になった。骨壺を納める観音開きの戸に、昼寝の出来そうな平らな屋根。貢ぎ物をたくさん飾れるように、回りの空間を広く取った。妖たちの通り道から少しだけ奥まった、やさしく木漏れ日のさす場所。夏目本人と友人たちの手で、寂しさと楽しさの詰まった小さな墓が出来上がった。
「ふふ。後にも先にも、こんなところに自分で墓を建てたのなんて、おれだけかもしれないな」
「酔狂なやつだな。昔から、お前は」
 いつか来る日が苦しくないわけはなかった。しかし夏目は、墓の話をする時も墓を建てる時もずっと笑っていた。人間たちと葬儀や自分の死んだ時を相談する時も、いつも笑っていた。
「おれは幸せだよ、先生」
 そう言って皺だらけになった手で私の頭を撫でた。
「ありがとう先生。ずっと傍にいてくれて。ありがとう……」
 何度もその言葉を聞いた。幸せだ、と。ありがとう、と。
「私も……」
 私も幸せだったよ。
 生きている間はついぞ口にしてやれなかった。今もうまく言葉に出来ない。ただ観音開きのその小さな墓に、半分だけ骨を入れた壺を納めた。

 今日もまた一人、友人を見送った。葬儀の時は頼むよ、お坊様。冗談混じりにそんなことを言われることは多い。おれの方が先でなければね。そんな風に冗談を交わすような歳に、いつの間にかなっていた。
 そろそろだからさ、くれぐれも頼むよ田沼──。
 まるで予言みたいに、息を引き取る数日前に夏目は電話を掛けてきた。夏目からは生前からいろいろと頼まれていた。といっても、彼は自分でほとんどの所有物を処分してしまっていたけれど。彼に子供はいなかった。ただ猫一匹と暮らしていた。
 それでも、彼の葬儀には多くの人が来た。友人だった。父母が世話になった。近所に住んでいた──彼の本を読んだ、など。
 夏目は何冊かの本を書き残した。地域で信仰される神や語り継がれる伝承の話を集めた本や、少年が不思議なものに出会う小説など。きっと夏目が神様や妖に直接聞いた話や、実際に体験した話もあったのだろう。晩年に出した『猫と暮らす』という随想がニャンコ先生との暮らしを思わせて特に好きだ。
 参列者には、変わった者もいた。何かキラキラしたオーラをまとった娘や、眼帯をした若い男、怪我をしているのか片手を吊った男など。もしかすると、人間ではないものもいたかもしれない。会場の中にこそ入らなかったようだが、外にはとてもたくさんの気配を感じた。妖たちも彼を見送りに来たのだろうと思う。若い頃の夏目の姿で参列したニャンコ先生は、随分いろんな人に話しかけられていた。そっくりだね、お孫さんかい? そう聞かれる度に遠縁だと答え、しかし孫のようによくしてもらっていたから祖父のようなものだ、祖父の為にありがとうと丁寧に答えていた。きっと彼は、その姿を取ることで若い頃の夏目を知る者に会いたかったのだ。頼まれていたから仕方なく、などと口にしていたけれど。一人一人に礼を言う姿に、嘘などあるようには見えなかった。
 彼は夏目の骨を半分だけ持って、妖の世に行ってしまったらしかった。
 生前から夏目は半分はこちらへ、もう半分は向こうに、と言っていた。頼まれた通りに藤原夫妻と同じ合同墓地へと、半分の遺骨を納めた。
 ニャンコ先生がいなくなって少ししてから、家の饅頭やら果物やらがごっそり消えていることに気づいて、久しぶりに腹の底から笑った。こんなに笑うのは、もしかしたら人生で最後かもしれない。

 みしり。屋根に飛び乗ったらそんな音がした。最近はよく軋む。作った時は、頑丈にしようと良質な木やら剥げにくい塗料やら、よく選んだというのに。
 ここは昼寝に使うぞ。しっかりやすりがけしろよ。
 墓の屋根で昼寝だなんて、先生は罰当たりだなあ。
 お前の墓から罰なんぞ当たるもんか。ほれ、よく磨け。
 はいはい先生──笑いながら屋根に使う板を一緒にやすりがけした日は、鮮やかに思い出されるのに。
 色は?
 派手にいきましょう!
 うーん……綺麗に塗るの難しいな。
 皆で賑やかに塗った色も、今は褪せて剥げている。ため息をついたら、またきしりと音がした。
 この箱のような墓に、最近は訪ねて来る者も減った。以前は絶えず花や酒、食べ物が並べられていた。今はその代わりのように、草花が生えて周りを彩っている。かつて捧げられた花から種が落ちたものもあるかもしれない。
 先生、少し遠いけど花を見に行こうか。祭りがあるからイカ焼きもあるといいな。
 先生、庭の朝顔が咲いたよ。今日も暑くなるだろうけど、朝顔が咲く時間は涼しいね。
 先生、おいで。夕焼けが綺麗だ。あ、とんぼが来ているよ。
 先生、見てごらん雪だ。今日は随分冷えると思った。
 先生、先生、ほら。
 先生。
 どうして、涙が流れるのだろう。あんなに幸せだったのに。目を閉じれば、すぐあの笑顔が蘇る。
 先生。おれはね、最近この気持ちの名前がわかったよ。
 傍にいて幸せなのは、どんなものも一緒に見られたらって思う、この気持ちは。
 きっとあいしてるっていうんだね。
 みしり。みしり。耳には木の軋む音が届く。
 先生、最近ちょっと食べ過ぎなんじゃないか。廊下が軋んでるじゃないか。
 阿呆、この家が古くなったのだ。私は太ってなどいない!
 そうかなあ。最近昼寝ばっかりして、散歩も行かないじゃないか。
 猫は寝子というらしいじゃないか。
 いつもは猫じゃないって言うくせに、都合がいいんだから。
 ──お前を置いて散歩なんか行けるか阿呆め。家の中の段差で転びそうになるくせに。そんな脆くなった身体で。皺だらけで骨と皮ばっかりの手足で。
 先生。好きなところに行っていいんだよ。
 私は昼寝がしたいのだ。ただ、この場所で。
 みし、ミシ──バキン!
 大きな音が耳を貫いた。同時に身体もガクンと落ちる。地面に転がると思ったが、意外に身体への衝撃は少なかった。目を開けると目の前が白い。
「先生。だからダイエットしろって言ったのに」
 いやに鮮やかにその声が頭に聞こえた。うるさい、阿呆め。死んでまで私に説教するんじゃない。私は太っていない。丸くてプリチーなのだ。
「先生」
 頭に、懐かしい感触。拭うように指が目尻をかすめた。
 ああ。夢を見ているのか。見上げれば、出会った頃のように若い夏目が微笑む。
「……頭」
 頭に、壺の蓋が載っている。随分懐かしい、それ。墓の中に納めて以来見ていなかった。
「……ん? なんだこれ」
 夏目が私の頭から手を離し、不思議そうに自分の頭の蓋を手に取った。よく見れば、肩には木の破片。真っ白な着物の上に、色褪せた塗料のついた木片がちらほらとついていた。
 墓の破片だ。夏目が墓のあった場所に座っていて、私はその上にいる。
「……先生の破壊力すごいな」
 破片を払いながら夏目が言った。その顔を目がけて、私は。
 右フックを繰り出した。
「いった! 何するんだ!」
 肉球の跡が頬にくっきりとついた。このパンチした感覚と肉球跡の残り方、間違いなく。
「この暴力ニャンコ!」
 ごつん! と久方ぶりにゲンコツが落ちてきた。うむ、この痛み、可愛いニャンコの頭を殴る容赦のなさ。これは間違いなく。
「夏目! この阿呆が! 私の昼寝を邪魔しおってからに!」
「それは先生の方だろ! 先生の重みで墓が壊れたから! だから──……」
 勢いよく言い返した夏目だが、状況を把握してきたらしく、黙り込む。
「……お前のチンケな匂いは人間か幽霊か妖かもわからんな」
「チンケとはなんだ。……でも確かに、なんなんだろうなあ」
 夏目は自分の手を見た。皺一つない手だ。
「的場さんところの資料なら何かあるかもな」
「消し飛ばされるぞ阿呆。だいたいあの男から何代変わったかもわからんし、先祖の恩を返す家系と思えんぞ」
「ははは。そうだな、消されてしまうのは惜しいや。せっかく、一時でもこの世に戻れたんなら」
 夏目が笑って私を抱き上げた。額を近づける。
「またしばらく付き合ってくれよ、先生。まずは、そうだな──散歩にでもいくか。顔を見たいやつらもいるしな」
 夏目は立ち上がる。真っ白な着物は、人の作った織物とは思えない白さだ。墓の破片を払ってしまえば、地面に座っていたにも関わらず汚れた様子もなかった。
「──花が綺麗だね、先生。植えてくれたのか?」
「勝手に生えた」
 まあ、気が向いたら種を持ってきたこともあるが、世話はしていない。夏目は花を踏まないように気をつけて一歩を踏み出す。
「あ、下駄か。歩きにくいな」
「慣れろ。それか脱げ」
「靴って大事なんだぞ。ニャンコにはわからないだろうけど」
 いつも通りに私を左腕に抱いている夏目は、右手で私の手を取り肉球をつついた。それから頭に頬擦りをする。
「ニャンコ先生の肉球久しぶりだなあ。相変わらずつるふかだし」
「当たり前だ」
 抱きしめられる感覚と頭のくすぐったさに、喜びと共に涙も溢れてしまいそうなのは何故だろう。いつの間にこんなに涙もろくなってしまったのか。
「……ありがとう先生」
「なんだ突然」
「ずっと傍にいてくれたんだろ」
「日当たりのいい場所で昼寝していただけだ」
「うん。それでも」
 少しだけきつくなった腕の力に、嫌だとは思わなかった。むしろ胸の中がじわりと熱くなって、幸せでたまらなくて。そう、きっとこの気持ちが。
「夏目、私も」
 今度こそ口にしてやろうかと思ったのに、言葉はやっぱり喉に絡んで出てこなかった。
「わたしも」
「うん。わかってるよ、先生。わかってる」
 見下ろして微笑む顔は若いのに、瞳には若さだけでない深い色があって。あの笑い皺は消えてしまったなと今気がついた。

2017/05/26 pixiv公開
2025/05/25 当サイト掲載
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