夏目友人帳
最後の想い
あんなに分厚かった友人帳が、ついに最後の一枚になった。厚紙で出来た表紙と背表紙に挟まれた最後の名は『三篠』。夏目に自ら名を預け続けることを選んだ妖だ。
「明日でもいいかな」
夏目は三篠にそう言った。
「明日、必ず返すから」
「夏目殿が望むなら、いつまででも」
「ありがとう。明日返すよ、本当に。ただ今日はまだ、やり残したことがあるんだ」
それがなんなのか問うても、夏目は答えなかった。ただ帰ろうと抱き上げられる。いつもは私がねだらなければ行かない七辻屋に行って、新作の菓子と私のお気に入りの饅頭を買う。どういう風の吹き回しかと思えば。
「先生が用心棒してくれるのは、今日までだろ」
そう言って夏目は微笑んだ。ああそうか。そういえば初めて会ったあの日、私はそんなことを言ったんだったか。友人帳を狙う妖から用心棒をしてやると。
「……お前が毎日貢ぎ物をするなら続けてやってもいいぞ」
「ふふ。ありがとう。でもおれは大丈夫。これでも結構強くなったつもりだよ」
相変わらずのもやしの癖に、夏目はそんなことを言った。だが。
──夏目は本当に強くなったね。
名取の小僧もそう言っていた。それは確かに、そうであるのだ。出会った頃はあんなに不安定だった心は、近頃は随分と落ち着いている。妖と関わることにも人に関わることにも、かなり惑わなくなった。もちろん何かと関わる以上感情を揺らすことはある。でも、今の夏目は地に足がついている。泣くことも笑うこともちゃんと受け止めて、自分自身の足元を揺るがすことはない。
──もう私の心配なんて余計なお世話ですねえ。でも、困ったら言いなさい。自分の及ばない部分に助けを求めることも、自立するということですよ。
もちろんたまには的場のことを助けてくださいね、と片目を細めて、的場の頭主はもう勧誘しないことを宣言した。夏目は笑顔でありがとうございますと応えた。いつの間にかあんなに怖がっていた的場の小僧とも夏目は普通に話すようになっていた。それどころか、あまり的場と関わるのは面倒だから嫌ですよとはっきり言えてしまうほどに。
私からしてみれば悪影響の塊にしか見えない祓い人たちも、結果としては夏目を強くする地盤の一つになったのかもしれない。といっても夏目は呪術を好まないから、武器は相変わらずのエノキパンチのみだ。もし用心棒がいなくなるのならば、妖に狙われやすい夏目に呪術は必要なものだろうに。
「ただいま」
藤原家に着く。
「おかえりなさい。……あら? 貴志くん、今日は何かいいことあったの?」
「これ、七辻屋で新作のお菓子が出てたんです」
「まあ。ありがとう。おいしそうね」
塔子たちの分の菓子を置いて、夏目は二階に上がった。夏目は塔子たちにまだ何も話さない。しかし迷いはなくなったらしい。話すことも話さないことも、どちらも同等に大切だという結論に至ったらしかった。
「はい、先生」
夏目は私の前に菓子と茶を用意した。最後となってようやく私への正しい振る舞いを覚えるとは、全くもって遅すぎる。
新作の菓子は花を模した形をしていた。美しく、いつもならば心躍るのに、菓子を目の前にしても素直に喜べなかった。もちろん菓子の味は最高だ。でも夏目と関わらなくなってしまえば、人間の菓子を口にする機会は一気に減る。そう考えると憂鬱なものだ。
「先生。ずっと用心棒してくれてありがとう。先生がいたから、おれは最後まで名前を返すことが出来たよ」
「私がおもしろおかしく友人帳を使う楽しみを奪ったがな」
「ごめんな先生。でもおれは、本当に友人帳を渡したくなかったんだ。名前を縛る関係なんて、なんだか悲しいじゃないか」
「ふん」
友人帳にはレイコの悲しみが詰まっていると夏目は言った。人とうまく関われず、名前を縛ることでしか妖とも繋がれなかったレイコ。その悲しみが、今はもう全て解き放たれたのだろうか。
「おれは、そんなのなくてもつながることができるって知ったよ。きっかけをくれたのはこの友人帳だけど、これは明日でもうなくなる。でも友人帳って形がなくなってもみんなおれの友人だよ」
「……そうか」
「先生もそうだと思ってもいい? おれの友人だって」
夏目は寂しそうな色を滲ませて私を見つめた。
「……くされ縁だ」
そう答えると、夏目は笑った。
「やっぱり先生も、おれのこと友人だって思ってないか」
「も、というのは」
「おれも、なんだか先生のことは友人だって思わないんだ。悪い意味じゃないけど。でもなんて名前なのかわからない。ただね」
おれは先生が好きだよ。
ずっと一緒にいたいって思ってるよ。
守ってくれる用心棒としてじゃなくて、友人としてでもなくて。
ただ、傍にいたい。いてほしい。
「先生、これがおれの、考えて考えてたどり着いた、最後の想いなんだ」
先生は明日からどうしたい?
そう夏目は問い掛けた。
「名を返そう──三篠」
そう言って咥えた紙に息を吹き込む。流れてきた記憶は、レイコさんじゃなかった。
おれと三篠が過ごした日が蘇った。出会った日が。皆で影踏みをした日が。一緒におしゃべりをした日が。そう遠くない日日なのに、何故だかとても懐かしい気がした。
「三篠。お前にも見えた?」
「ええ、夏目殿」
「どうしてかな。名前を縛るのは嫌だけど、少し寂しくなる」
「──私もです」
たぶん三篠は微笑んだ。
「またいつでもお呼びください、夏目殿。もちろん友人として」
「うん。今まで守ってくれてありがとう三篠。これからもよろしくな」
そう言って三篠と別れた。シャラシャラ鳴る鈴の音は、今までより聞ける頻度は少なくなるのかもしれない。
手元には、表紙と背表紙だけの友人帳。軽くなったそれに、清清しさを感じると同時にひどく寂しく思う。
振り向けば、ニャンコ先生がちょこんと座っている。
「先生」
寂しいのは、まだ先生の返事を聞いていないから。もう傍にいる義理もないと何処かへ飛んでいってしまうのかな。その細い目から感情を読み取るのは難しい。
「何を呆けた顔をしとる。さっさと帰るぞ」
そう言って先生はおれに背を向けた。お尻がふりふり揺れて、少しずつ遠ざかる──おれの家に向かって。
「先生」
傍にいてくれるのか? そう問いたくなったけど、言ったら機嫌を損ねてしまいそうだ。「帰るぞ」 というその一言が、先生からの答えなのだから。
揺れるお尻を追いかけて、抱き上げる。ぽにょぽにょした身体をぎゅっと抱きしめる。
「ありがとう先生。ありがとう……」
昨夜は泣いて先生を困らせないようにしようと思ったのに、やっぱり泣いてしまった。つるふかの頭に頬を寄せる。
「礼なら今夜のエビフライでいい」
「それとこれは話が別だぞ」
「なんだと! 昨日ようやく私への正しい振る舞いを覚えたと思ったのに」
「正しい振る舞いってなんだよ」
「私に甲斐甲斐しく茶と菓子を用意しとっただろ。ああいう振る舞いだ」
「昨日のは用心棒のお礼なだけだ!」
「なんだと! 私に毎日うまいものを貢いでくれるんじゃないのか!?」
「ないよ」
全く、感動が台無しだ。でもまさかそれが目当てで家に残ろうと思ったのか? だったら、明日にはいなくなってしまうのか……?
「先生……」
「……名前がない」
「え?」
「昨日言われて考えたが、名前がない。傍にいたいと思うことの名前がなんなのか、私にもわからない。でも、お前は名前で縛る関係は悲しいと思うのだろ。だったら、名前はないままでいいだろ。これがお前のいうところの、私の最後の想いというやつだ」
傍にいたい。
それが最後の想い。
きっといつか、先生を悲しませてしまうのだけど。
「今日は七辻屋に寄らないのか?」
「もうおこづかいがないよ。また来月な」
なんだつまらんと先生は呟く。友人帳がなくなって、妖に関わることはこれから減っていくだろうか。だったら、アルバイトでもして先生におやつを買えるように──いやいや、これ以上太ってもらうのは困る。でも、友人帳目当てでも守ってやろうなんて同情心でもなくて、ただ傍にいたいと思ってくれたことが嬉しすぎて、先生が望むなら世界中のお菓子を食べさせてあげたいくらいだ。
少しくらいなら太ってもいいか。でも運ぶのが大変になるのは嫌だな。先生が肩に乗ってきた時にも転んでしまいそうだし。
これからを悩むのは、これからがあるから。今はそれが嬉しい。
これから先に、おれのたどり着く最後の想いは変わっていくだろう。先生もきっとそうだ。笑う日もあれば泣く日もあるだろう。そしていつかは別れの日が来る。
おれの最期の想いは、幸せだといいな。そして先生がおれに抱く最後の想いも、傍にいてよかったと思ってくれるといいな。
2017/04/22 pixiv公開
2025/05/25 当サイト掲載
あんなに分厚かった友人帳が、ついに最後の一枚になった。厚紙で出来た表紙と背表紙に挟まれた最後の名は『三篠』。夏目に自ら名を預け続けることを選んだ妖だ。
「明日でもいいかな」
夏目は三篠にそう言った。
「明日、必ず返すから」
「夏目殿が望むなら、いつまででも」
「ありがとう。明日返すよ、本当に。ただ今日はまだ、やり残したことがあるんだ」
それがなんなのか問うても、夏目は答えなかった。ただ帰ろうと抱き上げられる。いつもは私がねだらなければ行かない七辻屋に行って、新作の菓子と私のお気に入りの饅頭を買う。どういう風の吹き回しかと思えば。
「先生が用心棒してくれるのは、今日までだろ」
そう言って夏目は微笑んだ。ああそうか。そういえば初めて会ったあの日、私はそんなことを言ったんだったか。友人帳を狙う妖から用心棒をしてやると。
「……お前が毎日貢ぎ物をするなら続けてやってもいいぞ」
「ふふ。ありがとう。でもおれは大丈夫。これでも結構強くなったつもりだよ」
相変わらずのもやしの癖に、夏目はそんなことを言った。だが。
──夏目は本当に強くなったね。
名取の小僧もそう言っていた。それは確かに、そうであるのだ。出会った頃はあんなに不安定だった心は、近頃は随分と落ち着いている。妖と関わることにも人に関わることにも、かなり惑わなくなった。もちろん何かと関わる以上感情を揺らすことはある。でも、今の夏目は地に足がついている。泣くことも笑うこともちゃんと受け止めて、自分自身の足元を揺るがすことはない。
──もう私の心配なんて余計なお世話ですねえ。でも、困ったら言いなさい。自分の及ばない部分に助けを求めることも、自立するということですよ。
もちろんたまには的場のことを助けてくださいね、と片目を細めて、的場の頭主はもう勧誘しないことを宣言した。夏目は笑顔でありがとうございますと応えた。いつの間にかあんなに怖がっていた的場の小僧とも夏目は普通に話すようになっていた。それどころか、あまり的場と関わるのは面倒だから嫌ですよとはっきり言えてしまうほどに。
私からしてみれば悪影響の塊にしか見えない祓い人たちも、結果としては夏目を強くする地盤の一つになったのかもしれない。といっても夏目は呪術を好まないから、武器は相変わらずのエノキパンチのみだ。もし用心棒がいなくなるのならば、妖に狙われやすい夏目に呪術は必要なものだろうに。
「ただいま」
藤原家に着く。
「おかえりなさい。……あら? 貴志くん、今日は何かいいことあったの?」
「これ、七辻屋で新作のお菓子が出てたんです」
「まあ。ありがとう。おいしそうね」
塔子たちの分の菓子を置いて、夏目は二階に上がった。夏目は塔子たちにまだ何も話さない。しかし迷いはなくなったらしい。話すことも話さないことも、どちらも同等に大切だという結論に至ったらしかった。
「はい、先生」
夏目は私の前に菓子と茶を用意した。最後となってようやく私への正しい振る舞いを覚えるとは、全くもって遅すぎる。
新作の菓子は花を模した形をしていた。美しく、いつもならば心躍るのに、菓子を目の前にしても素直に喜べなかった。もちろん菓子の味は最高だ。でも夏目と関わらなくなってしまえば、人間の菓子を口にする機会は一気に減る。そう考えると憂鬱なものだ。
「先生。ずっと用心棒してくれてありがとう。先生がいたから、おれは最後まで名前を返すことが出来たよ」
「私がおもしろおかしく友人帳を使う楽しみを奪ったがな」
「ごめんな先生。でもおれは、本当に友人帳を渡したくなかったんだ。名前を縛る関係なんて、なんだか悲しいじゃないか」
「ふん」
友人帳にはレイコの悲しみが詰まっていると夏目は言った。人とうまく関われず、名前を縛ることでしか妖とも繋がれなかったレイコ。その悲しみが、今はもう全て解き放たれたのだろうか。
「おれは、そんなのなくてもつながることができるって知ったよ。きっかけをくれたのはこの友人帳だけど、これは明日でもうなくなる。でも友人帳って形がなくなってもみんなおれの友人だよ」
「……そうか」
「先生もそうだと思ってもいい? おれの友人だって」
夏目は寂しそうな色を滲ませて私を見つめた。
「……くされ縁だ」
そう答えると、夏目は笑った。
「やっぱり先生も、おれのこと友人だって思ってないか」
「も、というのは」
「おれも、なんだか先生のことは友人だって思わないんだ。悪い意味じゃないけど。でもなんて名前なのかわからない。ただね」
おれは先生が好きだよ。
ずっと一緒にいたいって思ってるよ。
守ってくれる用心棒としてじゃなくて、友人としてでもなくて。
ただ、傍にいたい。いてほしい。
「先生、これがおれの、考えて考えてたどり着いた、最後の想いなんだ」
先生は明日からどうしたい?
そう夏目は問い掛けた。
「名を返そう──三篠」
そう言って咥えた紙に息を吹き込む。流れてきた記憶は、レイコさんじゃなかった。
おれと三篠が過ごした日が蘇った。出会った日が。皆で影踏みをした日が。一緒におしゃべりをした日が。そう遠くない日日なのに、何故だかとても懐かしい気がした。
「三篠。お前にも見えた?」
「ええ、夏目殿」
「どうしてかな。名前を縛るのは嫌だけど、少し寂しくなる」
「──私もです」
たぶん三篠は微笑んだ。
「またいつでもお呼びください、夏目殿。もちろん友人として」
「うん。今まで守ってくれてありがとう三篠。これからもよろしくな」
そう言って三篠と別れた。シャラシャラ鳴る鈴の音は、今までより聞ける頻度は少なくなるのかもしれない。
手元には、表紙と背表紙だけの友人帳。軽くなったそれに、清清しさを感じると同時にひどく寂しく思う。
振り向けば、ニャンコ先生がちょこんと座っている。
「先生」
寂しいのは、まだ先生の返事を聞いていないから。もう傍にいる義理もないと何処かへ飛んでいってしまうのかな。その細い目から感情を読み取るのは難しい。
「何を呆けた顔をしとる。さっさと帰るぞ」
そう言って先生はおれに背を向けた。お尻がふりふり揺れて、少しずつ遠ざかる──おれの家に向かって。
「先生」
傍にいてくれるのか? そう問いたくなったけど、言ったら機嫌を損ねてしまいそうだ。「帰るぞ」 というその一言が、先生からの答えなのだから。
揺れるお尻を追いかけて、抱き上げる。ぽにょぽにょした身体をぎゅっと抱きしめる。
「ありがとう先生。ありがとう……」
昨夜は泣いて先生を困らせないようにしようと思ったのに、やっぱり泣いてしまった。つるふかの頭に頬を寄せる。
「礼なら今夜のエビフライでいい」
「それとこれは話が別だぞ」
「なんだと! 昨日ようやく私への正しい振る舞いを覚えたと思ったのに」
「正しい振る舞いってなんだよ」
「私に甲斐甲斐しく茶と菓子を用意しとっただろ。ああいう振る舞いだ」
「昨日のは用心棒のお礼なだけだ!」
「なんだと! 私に毎日うまいものを貢いでくれるんじゃないのか!?」
「ないよ」
全く、感動が台無しだ。でもまさかそれが目当てで家に残ろうと思ったのか? だったら、明日にはいなくなってしまうのか……?
「先生……」
「……名前がない」
「え?」
「昨日言われて考えたが、名前がない。傍にいたいと思うことの名前がなんなのか、私にもわからない。でも、お前は名前で縛る関係は悲しいと思うのだろ。だったら、名前はないままでいいだろ。これがお前のいうところの、私の最後の想いというやつだ」
傍にいたい。
それが最後の想い。
きっといつか、先生を悲しませてしまうのだけど。
「今日は七辻屋に寄らないのか?」
「もうおこづかいがないよ。また来月な」
なんだつまらんと先生は呟く。友人帳がなくなって、妖に関わることはこれから減っていくだろうか。だったら、アルバイトでもして先生におやつを買えるように──いやいや、これ以上太ってもらうのは困る。でも、友人帳目当てでも守ってやろうなんて同情心でもなくて、ただ傍にいたいと思ってくれたことが嬉しすぎて、先生が望むなら世界中のお菓子を食べさせてあげたいくらいだ。
少しくらいなら太ってもいいか。でも運ぶのが大変になるのは嫌だな。先生が肩に乗ってきた時にも転んでしまいそうだし。
これからを悩むのは、これからがあるから。今はそれが嬉しい。
これから先に、おれのたどり着く最後の想いは変わっていくだろう。先生もきっとそうだ。笑う日もあれば泣く日もあるだろう。そしていつかは別れの日が来る。
おれの最期の想いは、幸せだといいな。そして先生がおれに抱く最後の想いも、傍にいてよかったと思ってくれるといいな。
2017/04/22 pixiv公開
2025/05/25 当サイト掲載
