夏目友人帳
紫陽花を見に
ザザ、と窓に強く雨の当たる音。先程からしとしと降り始めた雨が強くなり、風も出てきたようだ。もう六月も半ばだが今日は随分と冷えて、冬からしまい損ねていた薄手の毛布にまた出番が来た。
梅雨明けしたら、いい加減に洗ってしまわなくては……気圧の変化の所為かぼんやりする頭で田沼はそんなことを考えた。雨の当たる窓の向こうには紫陽花が咲いている。雨でしおれてしまう庭の花たちの中で、紫陽花だけがやけに元気だ。
ガタタ、と玄関の戸が揺れたような音がして、うとうとしていた田沼はぎゅっと心臓を捕まれた気分がした。
誰か来たのか。本当に人だろうか?
「田沼ー! おらんのか?」
ガタタ、とまた音がした。聞き慣れたその声に安堵し、田沼は玄関に向かった。玄関を開ければ、濡れ鼠になった猫がいた。
「先生、大丈夫か?」
「寒くてかなわん! 早く入れろ」
田沼に招かれる前に、ニャンコ先生は玄関に上がってしまう。
「先生! まずは拭かないと」
そう叫んだが、既に廊下には水滴と泥の足跡が。田沼は慌てて先生を抱き上げる。ずぶ濡れの毛皮がひやりとしていた。
「びしょびしょだし、泥だらけじゃないか。お腹まで……」
抱き上げると、手足だけでなく走った時に跳ねたであろう泥が腹にまでついていた。
「まずは洗わないと。お風呂は平気か?」
「ああ。風呂は好きだぞ。寒いしちょうどいい」
遠慮なく頷いて、先生は頭を振った。水滴が散る。田沼は情けない声で先生、と呼ぶ。
「耳に入りそうだったんだ」
「わかったよ、もうやめてくれな」
急ぎ足で田沼は風呂場に行った。大きめの桶にお湯をはる。ニャンコ先生の湯船にするなら、このくらいでちょうどいい。そっと先生の爪先をお湯につける。
「熱くないか?」
「大丈夫だ」
その返事を聞いてから桶にニャンコ先生を降ろした。先生はお湯の中で香箱を作る。
「まずは温まっててな」
そう言い置いて田沼は風呂場を出ていった。残されたニャンコ先生は、小さな湯船でふうと息を吐く。雨で冷えた身体がじんわりと温まってくる。
昨夜は、旅をする妖がいい酒を持ってこの辺りに来たと聞いて、一晩飲み明かした。翌日の午後から雨が降るとは知っていた。昼前に帰ればいいと思っていたのだが、目が覚めたら既に昼過ぎで雨が降り出していた。
──寝過ごして雨に降られた? だからいつも飲み過ぎだって言ってるじゃないか。
そんな夏目の声が頭に浮かんだ。
「お待たせ。先に少し廊下を拭いてきたよ。次からは、玄関に乗る前に足を拭こうな」
室内を汚したというのに田沼は怒ることなく、笑ってニャンコ先生の頭を撫でた。夏目だったら、撫でるどころかゲンコツを食らわせることだろう。
「少し温まったかな。お湯が泥だらけだ。身体洗ってもいい?」
「ああ」
田沼に言われて桶から出る。田沼は桶の湯を捨てた。泥水が流れていく。汚れた湯の代わりにニャンコ先生の泥は粗方落ちていた。
「先生っていつもシャンプー使うのか? それとも石鹸?」
「シャンプーだな」
田沼はシャンプーを手に取り、ニャンコ先生を洗う。毛皮を撫でて泡立ちがいいなあと笑い、少し泥の残る手足は一本ずつ丁寧に、丹念に洗う。肉球と毛の間に挟まる不快な砂粒を丁寧に取り除くその洗い方は、いつもザブザブ洗うだけの夏目とは大違いだ。
「先生の手って小さいな……だからお腹まで汚れちゃうんだな」
「一言余計だぞ小僧」
ごめんと田沼は笑った。まったく、夏目より見所のあるやつだと思った途端にこれだ。ニャンコ先生はふんっと鼻から息をついた。
田沼はニャンコ先生の手足を洗い終えてシャワーで泡と汚れを流す。
「きれいになったぞ。またお湯に浸かるか?」
「いや、もう十分だ」
最初の桶風呂とシャワーで身体は十分に温まっていた。ニャンコ先生はぷるっと身体を振って毛皮にまとわりつく水を払う。
「先生、先生、今タオル持ってくるから……」
田沼は困ったように笑って脱衣場に戻る。ニャンコ先生は風呂場なら水を払ってもいいだろうと思ったが、そうではなかったようだ。ニャンコ先生も脱衣場へ行き、田沼にバスタオルで身体を拭かれる。
「猫は毛で大きく見えるっていうけど、先生は変わらないな」
「だからさっきから一言多いと言うに」
「ごめん。……そうだ、もらった饅頭があるんだけど、食べる?」
バスタオルの隙間から、ニャンコ先生は目を輝かせた。
ドライヤーで乾かすと、ニャンコ先生はいつものつるふかの毛並みを取り戻した。田沼が一度自室に戻って服を着替えていると、先生は田沼が膝掛けにしていた毛布の上に丸まった。やはり今日は少し冷える。
温かい茶と饅頭を堪能した後、ニャンコ先生は寒いと言って田沼の膝の上に乗った。
「雨がやんだら起こしてくれ」
「わかった」
先生は随分眠かったようで、田沼がそっと頭を撫でるとすぐにぷーぷーと小さな寝息を立て始めた。田沼は笑みをこぼして、雨音と可愛らしい寝息に耳を澄ました。
雨がやんでから、ニャンコ先生は田沼と共に藤原家へと向かった。水溜まりやぬかるんだ道でまた汚れてしまうからと、田沼は先生を抱き上げて歩いた。田沼のこういうところをニャンコ先生は気に入っている。夏目と違ってよく貢ぎ物をするし、ゲンコツも飛んでこない。雨上がりの空気は冷えるから、温もりも心地よかった。
「そういえば、今日はどうしてうちの近くにいたんだ?」
「……昨夜飲んだら寝過ごした」
田沼は笑いをこらえようとしたが、身体が震えてすぐにそれと知れる。
「笑うな! ……夏目には秘密にしろよ、笑い転げるに決まっている!」
「ふふ……うん、秘密な」
田沼が選んだ道には紫陽花がたくさん咲いていた。いつものニャンコ先生の視界からはあまり見えない。
「紫陽花は雨の日の方が元気だな」
「そうだな」
身体が泥だらけになる雨はあまり好きではないが、水滴にきらめく紫陽花は美しかった。
藤原家へと着く。ニャンコ先生と田沼を出迎えた夏目は、驚きながらも嬉しそうだった。
田沼が雨に降られてしまったようだからうちで雨宿りをしていたのだと原因をごまかして説明すると、
「先生、どうせ飲んで寝過ごして雨に降られたんだろ」
と夏目はその原因を見抜いてしまったようだった。
「夏目は先生のことお見通しなんだな」
「先生がわかりやすいだけだよ。昨日うきうきしながら出掛けてったからな」
田沼に抱っこされたままのニャンコ先生はふんっと夏目から顔を逸らした。
「田沼、ごめんな迷惑かけて」
「迷惑どころか、楽しかったよ。なあ、先生」
「うむ。田沼は夏目と違ってゲンコツもせんし」
「それは先生が悪いだろいつも!」
「お前は私への敬意が足りんのだ! 田沼をもっと見習って毎日茶と菓子をよこせ!」
「何田沼にたかってるんだ先生!」
夏目が拳を握り、ニャンコ先生は田沼の肩に登って頭を田沼の後ろへ隠した。田沼が笑ってフォローする。
「夏目、おれが先生とお茶を飲みたかっただけだよ。うちは貰い物がいっぱいあるからさ。そうだ──これもお下がりだけど、よかったら藤原さんたちと食べてくれないかな」
田沼は腕に提げていた紙袋を夏目に差し出した。
「わざわざごめん、先生まで送ってもらったのに」
「ちょうど散歩もしたかったから。紫陽花が綺麗な道があるんだ。夏目も今度見るといいよ。雨や雨上がりの時がきっと綺麗だぞ」
「そうなのか。本当にありがとう。どの辺りにあるんだ?」
「ここからだと──なんなら今度一緒に見に行くか。雨の日に」
「ああ、そうだな」
そんな約束をして、田沼は帰った。夏目が受け取った紙袋には、紫陽花を閉じこめたようなゼリーが入っていた。
「綺麗だな。塔子さんも喜んでくれそうだ」
夏目は冷蔵庫にゼリーをしまった。
「今度雨の降る日が楽しみだな。な、先生」
「お前か田沼が私を運ぶんだぞ。私のプリチーな毛並みが乱れてしまうからな」
笑いかけた夏目に、ニャンコ先生はそう返した。
2017/06/11 pixiv公開
2018/09/07 脱字修正
2025/05/25 当サイト掲載
ザザ、と窓に強く雨の当たる音。先程からしとしと降り始めた雨が強くなり、風も出てきたようだ。もう六月も半ばだが今日は随分と冷えて、冬からしまい損ねていた薄手の毛布にまた出番が来た。
梅雨明けしたら、いい加減に洗ってしまわなくては……気圧の変化の所為かぼんやりする頭で田沼はそんなことを考えた。雨の当たる窓の向こうには紫陽花が咲いている。雨でしおれてしまう庭の花たちの中で、紫陽花だけがやけに元気だ。
ガタタ、と玄関の戸が揺れたような音がして、うとうとしていた田沼はぎゅっと心臓を捕まれた気分がした。
誰か来たのか。本当に人だろうか?
「田沼ー! おらんのか?」
ガタタ、とまた音がした。聞き慣れたその声に安堵し、田沼は玄関に向かった。玄関を開ければ、濡れ鼠になった猫がいた。
「先生、大丈夫か?」
「寒くてかなわん! 早く入れろ」
田沼に招かれる前に、ニャンコ先生は玄関に上がってしまう。
「先生! まずは拭かないと」
そう叫んだが、既に廊下には水滴と泥の足跡が。田沼は慌てて先生を抱き上げる。ずぶ濡れの毛皮がひやりとしていた。
「びしょびしょだし、泥だらけじゃないか。お腹まで……」
抱き上げると、手足だけでなく走った時に跳ねたであろう泥が腹にまでついていた。
「まずは洗わないと。お風呂は平気か?」
「ああ。風呂は好きだぞ。寒いしちょうどいい」
遠慮なく頷いて、先生は頭を振った。水滴が散る。田沼は情けない声で先生、と呼ぶ。
「耳に入りそうだったんだ」
「わかったよ、もうやめてくれな」
急ぎ足で田沼は風呂場に行った。大きめの桶にお湯をはる。ニャンコ先生の湯船にするなら、このくらいでちょうどいい。そっと先生の爪先をお湯につける。
「熱くないか?」
「大丈夫だ」
その返事を聞いてから桶にニャンコ先生を降ろした。先生はお湯の中で香箱を作る。
「まずは温まっててな」
そう言い置いて田沼は風呂場を出ていった。残されたニャンコ先生は、小さな湯船でふうと息を吐く。雨で冷えた身体がじんわりと温まってくる。
昨夜は、旅をする妖がいい酒を持ってこの辺りに来たと聞いて、一晩飲み明かした。翌日の午後から雨が降るとは知っていた。昼前に帰ればいいと思っていたのだが、目が覚めたら既に昼過ぎで雨が降り出していた。
──寝過ごして雨に降られた? だからいつも飲み過ぎだって言ってるじゃないか。
そんな夏目の声が頭に浮かんだ。
「お待たせ。先に少し廊下を拭いてきたよ。次からは、玄関に乗る前に足を拭こうな」
室内を汚したというのに田沼は怒ることなく、笑ってニャンコ先生の頭を撫でた。夏目だったら、撫でるどころかゲンコツを食らわせることだろう。
「少し温まったかな。お湯が泥だらけだ。身体洗ってもいい?」
「ああ」
田沼に言われて桶から出る。田沼は桶の湯を捨てた。泥水が流れていく。汚れた湯の代わりにニャンコ先生の泥は粗方落ちていた。
「先生っていつもシャンプー使うのか? それとも石鹸?」
「シャンプーだな」
田沼はシャンプーを手に取り、ニャンコ先生を洗う。毛皮を撫でて泡立ちがいいなあと笑い、少し泥の残る手足は一本ずつ丁寧に、丹念に洗う。肉球と毛の間に挟まる不快な砂粒を丁寧に取り除くその洗い方は、いつもザブザブ洗うだけの夏目とは大違いだ。
「先生の手って小さいな……だからお腹まで汚れちゃうんだな」
「一言余計だぞ小僧」
ごめんと田沼は笑った。まったく、夏目より見所のあるやつだと思った途端にこれだ。ニャンコ先生はふんっと鼻から息をついた。
田沼はニャンコ先生の手足を洗い終えてシャワーで泡と汚れを流す。
「きれいになったぞ。またお湯に浸かるか?」
「いや、もう十分だ」
最初の桶風呂とシャワーで身体は十分に温まっていた。ニャンコ先生はぷるっと身体を振って毛皮にまとわりつく水を払う。
「先生、先生、今タオル持ってくるから……」
田沼は困ったように笑って脱衣場に戻る。ニャンコ先生は風呂場なら水を払ってもいいだろうと思ったが、そうではなかったようだ。ニャンコ先生も脱衣場へ行き、田沼にバスタオルで身体を拭かれる。
「猫は毛で大きく見えるっていうけど、先生は変わらないな」
「だからさっきから一言多いと言うに」
「ごめん。……そうだ、もらった饅頭があるんだけど、食べる?」
バスタオルの隙間から、ニャンコ先生は目を輝かせた。
ドライヤーで乾かすと、ニャンコ先生はいつものつるふかの毛並みを取り戻した。田沼が一度自室に戻って服を着替えていると、先生は田沼が膝掛けにしていた毛布の上に丸まった。やはり今日は少し冷える。
温かい茶と饅頭を堪能した後、ニャンコ先生は寒いと言って田沼の膝の上に乗った。
「雨がやんだら起こしてくれ」
「わかった」
先生は随分眠かったようで、田沼がそっと頭を撫でるとすぐにぷーぷーと小さな寝息を立て始めた。田沼は笑みをこぼして、雨音と可愛らしい寝息に耳を澄ました。
雨がやんでから、ニャンコ先生は田沼と共に藤原家へと向かった。水溜まりやぬかるんだ道でまた汚れてしまうからと、田沼は先生を抱き上げて歩いた。田沼のこういうところをニャンコ先生は気に入っている。夏目と違ってよく貢ぎ物をするし、ゲンコツも飛んでこない。雨上がりの空気は冷えるから、温もりも心地よかった。
「そういえば、今日はどうしてうちの近くにいたんだ?」
「……昨夜飲んだら寝過ごした」
田沼は笑いをこらえようとしたが、身体が震えてすぐにそれと知れる。
「笑うな! ……夏目には秘密にしろよ、笑い転げるに決まっている!」
「ふふ……うん、秘密な」
田沼が選んだ道には紫陽花がたくさん咲いていた。いつものニャンコ先生の視界からはあまり見えない。
「紫陽花は雨の日の方が元気だな」
「そうだな」
身体が泥だらけになる雨はあまり好きではないが、水滴にきらめく紫陽花は美しかった。
藤原家へと着く。ニャンコ先生と田沼を出迎えた夏目は、驚きながらも嬉しそうだった。
田沼が雨に降られてしまったようだからうちで雨宿りをしていたのだと原因をごまかして説明すると、
「先生、どうせ飲んで寝過ごして雨に降られたんだろ」
と夏目はその原因を見抜いてしまったようだった。
「夏目は先生のことお見通しなんだな」
「先生がわかりやすいだけだよ。昨日うきうきしながら出掛けてったからな」
田沼に抱っこされたままのニャンコ先生はふんっと夏目から顔を逸らした。
「田沼、ごめんな迷惑かけて」
「迷惑どころか、楽しかったよ。なあ、先生」
「うむ。田沼は夏目と違ってゲンコツもせんし」
「それは先生が悪いだろいつも!」
「お前は私への敬意が足りんのだ! 田沼をもっと見習って毎日茶と菓子をよこせ!」
「何田沼にたかってるんだ先生!」
夏目が拳を握り、ニャンコ先生は田沼の肩に登って頭を田沼の後ろへ隠した。田沼が笑ってフォローする。
「夏目、おれが先生とお茶を飲みたかっただけだよ。うちは貰い物がいっぱいあるからさ。そうだ──これもお下がりだけど、よかったら藤原さんたちと食べてくれないかな」
田沼は腕に提げていた紙袋を夏目に差し出した。
「わざわざごめん、先生まで送ってもらったのに」
「ちょうど散歩もしたかったから。紫陽花が綺麗な道があるんだ。夏目も今度見るといいよ。雨や雨上がりの時がきっと綺麗だぞ」
「そうなのか。本当にありがとう。どの辺りにあるんだ?」
「ここからだと──なんなら今度一緒に見に行くか。雨の日に」
「ああ、そうだな」
そんな約束をして、田沼は帰った。夏目が受け取った紙袋には、紫陽花を閉じこめたようなゼリーが入っていた。
「綺麗だな。塔子さんも喜んでくれそうだ」
夏目は冷蔵庫にゼリーをしまった。
「今度雨の降る日が楽しみだな。な、先生」
「お前か田沼が私を運ぶんだぞ。私のプリチーな毛並みが乱れてしまうからな」
笑いかけた夏目に、ニャンコ先生はそう返した。
2017/06/11 pixiv公開
2018/09/07 脱字修正
2025/05/25 当サイト掲載
