【改行増版】遊城十代が死んだ

 遊城十代が死んだ。

 万丈目の目の前で通り魔に刺された。まだ明るい、昼間の商店街だった。

「オレこーいう商店街ってあんま来たことないんだ」

 そう言って十代は物珍しげに並ぶ店を眺めていた。「なんかいい匂いする!」とか「あとでカードショップ行こうぜ」とか、そんなことをしゃべっていた。学生の頃と変わらないような笑顔で、あの赤い制服のまま。

 突然黙ったと思ったら突き飛ばされた。万丈目は転んで、身を起こして振り向くと十代も地面に倒れていた。馬乗りになった男が、何度も何度もナイフを振り下ろしていた。通行人たちの悲鳴が聞こえた。万丈目は動けなかった。目の前で起きていることが理解できなかった。

 どのくらい動けなかったかよくわからない。通り魔が動かない十代から万丈目に標的を変えて近づいてきたところで意識が途切れた。気がついたら隣に警官がいて大丈夫ですかと聞かれていた。十代は。

 布が被せられていた。

 その後は警察に話したり病院で検査を受けたりゴタゴタとしていた。万丈目に怪我はなかった。迎えに来た兄に落ち着くまで実家に来るかと言われたが、

「猫にエサをやらないと」

 そんなことを言って自宅に戻った。自宅ではファラオが事件など知らずにソファで丸まっていた。

 十代は事件の数日前から万丈目の家に逗留していた。万丈目の出場する全日本大会の決勝戦を見に来ていたのだ。残念ながら優勝は逃したが、互いに全力を出しきった勝負だった。何より相手が学生時代から師匠と慕う天上院吹雪だったから、悔しさもあるが祝福する気持ちも大きかった。

 その後の打ち上げで十代と吹雪を含む懐かしい面面と酒を飲むうち、十代が万丈目の家に逗留することになってしまった。吹雪が引っ越したばかりの万丈目の家を見せてもらったらどうだと言い、十代はその日万丈目の家に泊まることになった。

 万丈目は優勝を逃したために取材用に空けておいたスケジュールがそのまま休暇になっており、十代もオレもしばらく暇なんだと言い──。

 オレが優勝していたら十代は死なずに済んだのか?

 万丈目の家に留まることがなければ。万丈目が商店街に行くなどと言わなければ。今頃は相変わらず世界を、あるいは異世界を旅していたのか。

 オレのせいで。

「ニャーア」

 ファラオが鳴いた。長く鳴くのは何か要求があるときだと、だんだんとファラオの言いたいことがわかるようになってきている。腹が減ったのだろう。

「……もうそんな時間か?」

 万丈目はベッドから起き上がる。あの日からなにもやる気が起きず、食事とファラオのエサとトイレくらいにしか起き上がらない。

 ピンポン、とインターホンが鳴った。携帯電話を確認するが兄たちからの連絡はない。どうせマスコミだろう。無視してファラオの猫缶を開けた。猫缶の生臭いにおいでも嗅げば自分の腹も鳴った。

 人間、どんな時でも腹は減る。兄たちが用意してくれた食材がまだあったはずだ。こんなときこそうまいものを食えと、簡単に食べられるものをいろいろと持ってきてくれた。特にパンがうまい。今日は自分も缶詰のパテでも開けて食べようか。湯を沸かしてコーヒーでも淹れるか。コーヒーの香りはリラックス効果があると聞くが、確かに落ち着くのだ。

 ピンポン、とまたインターホンが鳴る。

「万丈目!」

 十代の声が聞こえた気がした。幻聴か。やはり参っているのだ。目の前であんな凄惨なものを見たのだから当然だ。

 ピンポン、とインターホンが鳴る。これは本物か?

「万丈目、なあ、いないのか? まんじょーめー!」

 まったく間の抜けた声だった。幽霊が来るにしても、もう少し恨めしそうにしたらどうなんだ。うらめしや、が幽霊の常套句だろう。

「迷惑かけてごめんって。ファラオと荷物取りに来ただけだからさ、ちょっと開けてくれよ」

 猫と荷物を取りに来る幽霊がいてたまるか。無視してコーヒーを淹れ始める。あの商店街の個人経営のコーヒーショップの豆は存外においしくて、カフェもあるからあの日十代も連れていってやればよかったと今さら思う。自分で淹れるのとプロの淹れたコーヒーはやはり味が違うのだ。

「あ、めっちゃいい匂いする。いるじゃんか、開けてくれって! そんな怒んないでくれよ」

 怒ってなどいない。怒りもわかないのだ。呼び掛ける声を無視し続けると、だんだんと声のトーンは下がっていく。

「……わかった、もう来ないよ。ファラオのこと頼むな。本当に迷惑かけた。荷物は適当に処分し……あ、いや寄せ書き! ごめんあれだけくれ。オレもう誰にも会えないんだ。頼む万丈目──」

 幽霊の声は悲しげだった。わざわざ取りに来たものが、寄せ書き? 卒業のときに渡したもののことか? 何年も後生大事に取っていたのか。いや、こんなもの自分の幻聴なのだ。あれを大事にしていてほしかったと万丈目が望んでいるにすぎない。

 万丈目はソファの横の十代の鞄を取るとローテーブルの上でひっくり返した。デュエルディスク、万丈目グループの貸したパソコン、マグカップ、手帳、キーケース、下着(相変わらずファラオ柄のダサいトランクスだ。何年履いてるんだ?)、書類ケース、その他ペンだの食べかけのガムだの雑多なもの──。財布がないのはあの日ポケットに突っ込んで出かけたからか。

 もしあの紙があるなら書類ケースだろうか。中にはどこの国のものかわからない地図やデュエル大会のチラシらしきもの、レシート、ポストカードなどが入っていた。しかし寄せ書きはない。

「入ってないぞ!」

 大きな声で万丈目は言った。

「入ってるよ、お菓子の缶ケース!」

 缶ケースは確かにあった。もとは飴玉でも入っていたのだろう、デュエルモンスターズのカードくらいの大きさの缶──子供向けにデフォルメされたおジャマ・イエローが描かれている。それを開けると、きちんと畳まれた紙が入っていた。開けば見覚えあるメッセージ。

「……は、こんなものをいつまでも」

 馬鹿にしてやりたかったのに、出てきた声は湿っぽかった。いつでも来い、デュエルしてやる──その言葉に偽りはない。幽霊とだってデュエルしてやる。

 万丈目は紙をしまい、その缶を持って玄関に向かう。どうせ誰もいないのに何をやっているのだろう。

「万──じょう、め……」

 玄関ドアを開けると、幽霊は笑顔から驚きへ、そして悲しげな顔になった。幽霊の癖にパーカーを着て、フードを被っている。今は顎まで下ろしているがマスクもしていたらしく、一歩違えば不審者として通報でもされそうだ。

「……ごめん、一旦入るな」

 幽霊は玄関に入るとドアを閉めた。被っていたフードを取る。あの日と変わらない、なんなら卒業したときから変わらない、十代ティーンの顔。

「……本当に迷惑かけてごめん。眠れてるか?」

「眠れるか、たわけ。お前のせいでオレの人生はめちゃくちゃだ」

「……そうだよな。ごめん」

「謝るな! お前はいつもそれだ! お前の何が悪い!」

「うーん──今回は、油断してたこと? 心臓グッサリやられると動けねえ」

「当たり前だ!」

 ずっと怒りもわかなかったのに、この顔を見ると途端に怒りがわいてくる。だというのに、十代はへらへら笑った。

「……なあ、オレ腹減ってんだけどさ、なんか食っていい?」
「幽霊が飯を食うのか」
「幽霊も腹が減るんだよ」

 玄関でもコーヒーのいい香りは漂っている。そうだ、今から飯を食うはずだったのだ、と万丈目は思い出す。

「好きにしろ」

 そう言うと幽霊は笑った。幽霊のくせに足があって靴を脱いで揃えた。幽霊のくせに手を洗って、シンクの空いた猫缶を見て高級なもん食ってるなァと呟く。

「うまそうなもんいっぱいあるな」

 リビングのテーブルに箱のまま置いてある缶詰やレトルト食品を見て十代は声を弾ませる。

「今……パンとパテで軽食を取ろうと思ってな」
「オレももらっていい?」
「好きにしろと言ったろ」

 万丈目がそう言うと、十代は遠慮なく缶詰を取り、冷蔵庫からレタスを出した。

「あ、ちょっとしなびてる。ちゃんと野菜も食えよ」

 幽霊は生前と同じように慣れた様子でサンドイッチを用意していく。初めて料理する姿を見たときに驚いたら、小学生の頃から簡単なことならやっていたと言われたことを思い出す。

「最初は米炊くとか包丁や火を使わないことからな。米なんかは炊飯器で炊きたてのがうまいし。近所に料理教室あったから土日に通ってた。中学から弁当だったから夜にまとめて作って朝詰めて持ってったり」

 親が家にいないから──とは言わなかったが、察するものはあった。

「あんまり誰かに食べてもらう機会ってなかったからさ、食べてもらうのも嬉しいな」

 万丈目の家にいる間に料理係を進んでやる十代に嫌じゃないのか訊ねたらそんなことを言われた。そもそも料理教室に行ったのも、本当は両親に食べてほしかった──あるいは、一緒に食事をしたかったからなのかもしれない。

「両親は」
「え?」
「オレなんかのところに来ていいのか」
「幽霊が両親に会えるかよ」

 十代は苦笑いした。

 じゃあなんでオレに会いに来たんだ──そう聞きかけて、こいつは荷物を取りに来たのだと思い出す。寄せ書きの入った缶はまだ万丈目の手にあった。

「はい、どうぞ。コーヒーはオレがもらうな。すげークマだから寝た方がいいぜ」

 十代はそう言うと万丈目の前にサンドイッチとレタスサラダを載せたプレート、ホットミルクを入れたマグカップを置いた。

 十代はいただきます、と言ってサンドイッチをかじる。途端に目が輝いた。

「うまっ! パテもパンもすげーうまい! これどうしたんだ? どっかスポンサー増えた?」

「兄者たちが持ってきた」
「へえ! ありがとうお兄さんたち」
「伝えておく」
「幽霊が礼を言ってたって?」

 そう言うとコーヒーを一口飲んだ。またうまいと言う。

「オレに会ったのは秘密にしといて」
「……ああ」

 今──万丈目の頭からは十代が死んだという事実が消えていた。これは幻覚か、夢か。サンドイッチの味はしっかりしている気がする。やわらかく香りのいいパンに、スパイスのきいたパテ。レタスがパテの脂を中和すると同時にしゃっきりとした食感を与えている。味だけでなく喉を通り胃の中に入っていく感触までやけにリアルだ。

 ホットミルクを飲めばほんのりとバニラの香りと砂糖の甘味があった。料理教室で習ったのか、十代はほんの少し香辛料を入れるような小技をきかせることがある。いかにも彼がやりそうだと──。

 都合のいい、甘い夢か。

 そんなことを思う。また十代の作ったものを食べたい。おいしそうに頬張る姿を、その笑顔をまた見たい──そんな願望。最後に見たのがあんな姿だったのがつらかったのだ。眠る度にアスファルトに流れる血や、振り下ろされるナイフがよみがえった。あんなに見たはずの笑顔が思い出せなかった。

「これからどうするんだ」

 皿が空になってから万丈目は訊ねた。

「適当にどっか行くよ。ファラオは……満足げに寝てやがる」

 十代はソファで丸まるファラオに目をやった。

「オレと来るよりここにいた方がいいかもな」
「……お前もここにいればいいだろ」

 万丈目はそう言った。どうせ夢なら言いたいことを言おう。十代は少しだけ目を見開いた。それから困ったように笑う。

「幽霊だぜ、オレ」

「だからなんだ。どうせここには雑魚どももいる。幽霊のひとりふたり増えたって構わん」

「……ありがとう」

 十代は少しだけ泣き出しそうな顔をしていた。

「でも迷惑」

「迷惑ならとっくにかけられてる! お前に出会った瞬間から、ずっとだ! オレが万丈目サンダーを名乗ったのもプロになったのもお前のせいだ! お前がいなかったら」

 今もあの家で万丈目の三男という重圧に苦しんでいただろうか。それとも、十代がいなくてもいずれ出奔していたのか? どちらにしても。

「ここにはいなかった。オレの人生はお前に塗り替えられて」

 ──ああちくしょう、今になって気がついてしまった。

「お前の人生を塗り替えたのはお前自身だよ。這い上がってきたのもプロになったのも万丈目が強いからだ」

「さん、だ!」

 そう言って睨むとサンダー、と笑う。あの頃から変わらない、向日葵みたいな笑顔。認めたくなかっただけで、きっとずっと惹かれていた。

 十代の笑顔がぐにゃりと歪んだ。万丈目の目からは涙があふれていた。

「……今さら気づきたくなかった」

 こんなに好きだったなんて。

「……幽霊なんかになりやがって。お前は迷惑千万だ。でも迷惑だからなんだっていうんだ? オレはもっとお前と話したかったし、デュエルしたかったし、コーヒーだって飲みたかった。そうだ、万年筆の店だってまだ行けてないだろ。見たかったんじゃないのか」

 あの日、万丈目はあの商店街の万年筆の店に行く予定だった。十代は万年筆なんて使ったことがないと興味を持っていた。でも、道すがら彼は殺された。

 もう二度と話すこともデュエルすることもコーヒーを飲むことも一緒に出かけることもできない。

「幽霊でもいいから」

 もう一度会いたい。そばにいてほしい。そんな願望が見せたほんのりとだけ甘い夢だ。どうせならもっと楽しい夢を見せろと自分の脳に文句を言う。もっと顔を見たいのに涙が止まらない。話したいことがあるはずなのに。ただの夢なのに顔を伏せて泣くことしかできないなんて。

「万丈目」

 近い場所で声が聞こえた。まだ顔を上げられない。子供のように泣いている。

「……本当に幽霊でもここにいてもいい?」

 遠慮がちに訊ねられたそれにただ頷く。背中にあたたかいものがのしかかった。胸に腕が回された気がする。

「ありがとう、万丈目」

 耳元でささやかれる。ああくそ、こんな願望があったなんて。恥ずかしすぎて情けなくて死にたい気分だった。

 幽霊の前でそれを思うのは不謹慎だと頭の隅で思った。

 目が覚めると真っ暗な寝室にいた。どこから夢だったのだろうと思う。背中があたたかい気がしたが、ファラオがベッドにもぐり込んでいるのだろう。万丈目は明かりをつけずに部屋を出てトイレへ向かった。

 風呂に入っていないことに気がついて、ついでにシャワーを浴びた。鏡に映った顔はひどいものだったが、クマは少し薄くなった気がする。夢見がいいのか悪いのか微妙なところだが、眠れたのは久しぶりだった。

 リビングの明かりをつけた。十代の荷物はあの日から変わらずソファの横に置いてある。ローテーブルに中身を散らかしてもいない。果たしてあの鞄の中には、夢で見た寄せ書きを入れた缶は入っているのだろうか。おジャマ・イエローの缶だなんて、地味な願望もあったものだと思う。十代ならハネクリボーだろう。

 ──ハネクリボーか。

 十代の精霊たちはどうしたのだろう。ハネクリボー、ネオス、ネオスペーシアンたち、そしてユベルは。

 遺体や遺品は遺族──彼の両親の元へ行ったのだろう。思えば、あの鞄も遺族に返すべきなのだ。そういえば葬式はどうした? もう終わってしまったのか。いや。

 そもそも殺人事件だ。遺体や遺品は警察に回収され解剖されたり証拠品として保管されたりしているのか? 犯人は誰で動機はなんだったのだろう。何もわからない。あの日からテレビもつけていないしネットニュースも見ていない。

 巻き込まれたのに万丈目は何もわからなかった。マスコミの取材を断るよう連絡したマネージャーからこちらに任せて無理に報道など見ずにゆっくり休むように言われたのもあるかもしれない。なんにせよそんなものを見る気力はなかった。

 心配して連絡をくれた友人たちにもろくに返事をしていない。みんな大方は今は無理をせず話したければ連絡をくれという内容の連絡だった。その言葉に甘えて何も連絡していなかった。今は夜中だが、朝になったら少しずつ返事をしていこうと思う。

 万丈目はミルクを温めて砂糖とバニラエッセンスを少し入れた。夢で見たものを味わいたいと思った。あんな夢を見たのは、十代の死を受け入れようという心の動きなのかもしれない。また話したいとか一緒に食事をしたいとか、そんな願望を「幽霊」が叶える。幽霊でもいいから一緒にいたいだなんて、そんな願望まで夢であらわになったのは恥ずかしいが。

 ありがとう、万丈目──。

 耳元でささやかれた声と背中のぬくもりがやけにリアルだったのが我ながら気色悪い妄想だ。死者に対して失礼だ。あの根無し草はそんなもの承諾しないだろうし、あいつはどこへでも自由に行くべきなのだ。世界中のどこでも異世界でも死後の世界でも。

 そうだ。今ごろはセブンスターズだったアビドス三世のところにいるのかもしれない。あのとき約束した百年よりもずいぶん早くなってしまったが、きっと楽しくデュエルしていることだろう。

 一緒に行こうと万丈目も誘われた。あのときは断ってしまったが、今なら死んだあとに会えたらいいのにと思う。我ながら都合がいい。

 口にしたホットミルクは、夢とそっくりの味がした。
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