【改行増版】GX一話完結短編

それぞれの道へ

 ゆうごう、と丸藤翔は耳から入った言葉を口に出した。

 あの日、遊城十代が異世界でユベルとの決戦の最中行方不明になったあとの顛末を、ようやく十代の口から聞くことができた。

 どうにかユベルとは決着をつけたらしいということはうかがい知れたが、よもや「魂の融合」だなんて。

 そもそもとしてこの宇宙には破滅をもたらす光の波動と命を育むやさしい闇の対立があるとか、そんな話まで出てきて翔たちは混乱した。

 光の波動と闇の力のことは前に話さなかったっけ、と十代は言ったがそんな覚えはなかった。ネオスたちが仲間になったときだと言われて、そういえば宇宙の力がどうこうと十代が言っていたことを思い出したが、そんな話まではしていなかった気がする。十代もあのときはネオスたち新たな仲間の話に終始してしまい、伝え忘れたようだった。

 十代の話は時折前後したり本題から逸れたりもしていた。

 ともかく、宇宙には光と闇の対立があり、『覇王』とは本来その闇の力で光の波動に対抗する存在で、遊城十代は覇王となるべく生まれ、ユベルは本来なら覇王を守護する精霊で──と、ふたりにはもとより並並ならぬ因果があるようだった。

「お前たちに浅からぬ因縁があるのはわかった。あのデュエルの最後もな。だが、なんでそこで指定する融合素材を、自分とユベルの魂なんてトンチキなものにしたんだ。ユベルに勝ちたいならそのままネオスとユベルのカードを指定すればよかっただろ」

 万丈目準が責めるように言った。

「別にユベルに勝ちたいわけじゃなかったから。デュエルを終わらせたいだけで」

「だからなんでそれが魂の融合なんてことになるんだ!?」

「怒鳴っても仕方ないでしょ、万丈目くん。聞きたいのは──その必要があったか、ってことよね。自分を犠牲になんてしないって、翔くんに言ったんでしょう」

 天上院明日香が万丈目をなだめて十代に聞き直す。

「犠牲なんかじゃない。光の波動で歪んだユベルの魂を癒したかったし、そのためには覇王の魂を使うのが一番早いし……それに」

 十代は一度言葉を止める。

「オレのわがままになるけど、もうユベルと離れたくなかった」

 翔は驚いたし、万丈目も目をむいた。明日香は冷静に「そうなの」と返した。

「アニキは……アニキも……ユベルが好きなんだ」

 翔は、聞きたくないと思いながら聞いた。

「うん。愛してる」

 細められた目は、以前のような無邪気な色から、落ち着きと、たぶん翔にはまだ理解できない愛というものの色に変わったんだろう。

「そうかぁ……」

 大事なアニキを取られてしまった気がした──そんな感情は身勝手だとわかっている。ツンと鼻の奥が痛くなったけれど、弟分としてここで泣いてはいけないのだと思った。

「アニキにとって、一番いい選択だった?」
「ああ」

 迷いなく頷く。犠牲になるわけじゃない、大人になるために旅に出ると言った彼が選んだ「魂の融合」という道。ただの人間の翔にはその正誤も善悪もわからない。でも彼にはそれが一番だったのなら、それでいい。

「馬鹿の考えることはまるでわからん……」

 万丈目は大きくため息をついた。

「あのユベルだぞ。オレも異次元で多少やつの言動が見えたが……とてもまともじゃない」

「あれが全部ユベルの本心なわけじゃないんだ。みんなには本当に迷惑かけたと思うけど──」

「光の結社に洗脳されてた万丈目くんには言う資格ないと思うっス……」

 翔はまた謝りそうな十代をさえぎって言った。十代は責任を感じているもののユベルが光の波動に影響されたことはほとんど事故だろうと翔は思う。

 その経緯に誰も悪意などなかった。でもその積み重ねは結局あの事態を引き起こした。

「お、覚えとらん」

「そうね──私も覚えてない。だけど……私たちの何倍もユベルは心を歪められてしまった……ということよね」

 明日香が悲しげに言った。

 光の波動に歪められてしまった心。本当のユベルはどんな風なのかと翔は思う。この遊城十代が、臆面もなく愛していると言う精霊は。

「思えば、私たちのしたことが寮の壁を白く塗るとか、その程度だったのって運が良かったのかしら」

「あのときの光の結社のみんなは、光の波動を直接受けたわけじゃなくて操られた斎王を介してたからな。その分影響は弱かったと思う」

「私たちも一歩違えばとんでもないことをしていたかもしれない……のよね」

 翔は明日香が光の結社に洗脳されていたときのことを思い出す。もし十代が明日香とのデュエルに負けていたら、明日香は大量殺戮の引き金を引く片棒を担ぐところだった。そのときは、デュエルの勝敗にそんなものが賭けられていたと当人たちでさえ知らなかったけれど。

 先に十代とのデュエルで洗脳が解けた万丈目も。最終的には殺戮者にならずに済んだ斎王琢磨もオージーンも。

 ──ボクだって。

 翔も世界や人命を左右することには関わっていないが、ずっと十代に助けられてきた。

 ──みんなアニキに助けられたのに。
 誰も彼を助けられなかった。
 でも、だからこそ、今度は──。

「お、エビフライパンだ」

 十代はドローパンの袋を開けて笑った。今日は昼休みにゆっくり話そうと、翔が買ってきておいたものだ。

「当たりだったね。ボクは……焼きそばパンだ」
「これはコロッケパンね」
「ピザパン……可もなく不可もなくだな」

 翔たちもドローパンの袋を開けた。

「ドローパンとももうすぐお別れなんスね」
「ちょっと寂しいわよね」
「確かに、他では食べられないな」

 翔がレッド寮生の頃はほとんど毎日十代とドローパンを食べていた。

 黄金のタマゴパンが当たるか、それとも何か好物が当たるか、あるいは苦手なものや嫌いなものかと一喜一憂するのが昼休みの楽しみだった。

 タマゴパンが盗まれる事件もあったか。二年半ほど前のことが、もう遠く感じた。あの頃は、こんな風に昼食をとることも当たり前のようだったのに。

 あと何回、こんな風に過ごせるのだろう。

「ところで、お前は卒業後どうするんだ」

 万丈目は十代をにらむ。

「オレの力が必要な場所に行くよ」
「どこなんだ」

「たぶんいろいろ。人間界も異世界も、必要なら行くさ」

「適当なやつだ……まあ精霊と融合するなんてやつには似合いかもな」

 呆れた声音だったが、それが十代の選択を認めたという意味なのだと翔たちにはわかる。

 万丈目との関係も、万丈目本人も、入学当初には想像できないほど変わった。

 翔自身も、落ちこぼれのレッド寮生からブルー寮生になるだなんてあの頃は想像もできなかった。

 明日香だってきっと変わったのだろう。翔には一年生の頃から強く賢く見えた彼女なら今回の海外留学も当然のように思えてしまうが、ずいぶん迷ったのだと聞いた。

 十代も──きっと一番変わったのは、変わらざるを得なかったのは、彼だろう。

「……でも考えようによってはアニキが一番最初に恋人できちゃったんスねぇ。恋愛とか一番興味なさそうだったのに」

 翔はわざと声を明るくして言った。

「恋人ではないけど……」
「でもパートナーよね」

「いいなあ。……いや、でもちょっと大変そうっス。重そうっていうか」

「別に重くないぞ」
「物理的な重さじゃなくて、愛が」

「愛情深いのはいいことだけど、少し大変そうね」

「少しどころじゃないと思うが……」

 明日香が苦笑し万丈目は肩をすくめる。

「そういえば卒業も間近なのに、実は先輩のこと好きでした、みたいなのないっスね」

「ないな」

「あっても面倒よ。ろくに知らない相手に言われても困ってしまうし」

 翔に同意した万丈目と違い、明日香は何かあったようだ。

「……あ」

 万丈目が何か思い出したように声をもらした。

「万丈目くん! もしかしてあったんスか!? 淡いピンク色のときめきが?」

「ときめきは断じてない。が、ピンクは当たりだ」

 万丈目はカードを一枚取り出した。

「卒業前にどうしてもオレ様に会いたかったと」

「《おジャマ・ピンク》……へえ、ピンクもいたのか。よろしくな」

 十代が万丈目の横の何もない空間に向かって微笑んだ。精霊のおジャマ・ピンクに挨拶をしたらしい。

「お、引っ込んじまった」

「人見知りなんだと。うるさくないのはいいがな」

 万丈目はまた深いため息をついた。今日はため息をついてばかりだ。

「人の多い会場とかテレビとか大丈夫っスかね?」

「さあな。カメラから逃げるかもな」

「ふふ。プロのデュエルは中継されるものね。私、楽しみよ。万丈目くんのデュエルをテレビで見られるの」

「本当かい天上院くん!」

 万丈目は目を輝かせた。万丈目の憂いは明日香の微笑みひとつで吹き飛ぶようだ。

「テレビといえば、今朝エドの本が紹介されてたね」

 『「それはどうかな」と言えるデュエル哲学』──在校生のエド・フェニックスが書いているからか、デュエルアカデミアの図書室では常に貸出中、予約待ち状態だ。

 兄の亮はエド本人から送られてきたそれを入院の暇つぶしに読んでいた。翔にも一冊送られてきたが、翔はまだ序盤しか読めていない。

 送られてきた本にはエドのサインと共に慣れない漢字であろうに「丸藤翔様」ときっちりとした字で書かれていた。

「そうなの? 面白い本だものね」
「難しくてオレ読めてねぇや……」
「そう難しくはないが、まあお前の頭だからな」

 翔は序盤しか読んでいないことを黙っておくことにした。自分に話を振られないうちに話題を変える。

「そういやアニキ、課題終わったっスか?」
「……今日出す分は終わった……」

 十代は歯切れ悪く答えた。

「もうすぐ卒業デュエルもあるんだから早くやらないとダメよ」

「午後も逃げるなよ」

 明日香と万丈目にも言われ、十代は気まずそうな顔をする。こんなところは一年生の頃から変わっていない気がした。

 その日、十代は最後まで授業を受けた。久しぶりに一日一緒にいられた日だった。

「アニキ。今日は話してくれてありがとう」

 校舎の前で、翔は十代にそう言った。昔ならくだらないことも含めてもっとたくさん十代と話していた。でも思い返せば肝心なことは何も話せていなかったのかもしれない。

「……アニキが背負ってることは、ボクたちじゃ手に負えないこともたくさんあると思うけど、それでも力になりたいし、もっと話してほしい」

「ありがとう、翔」

 十代は翔に微笑んだ。その笑顔はやっぱりどこか大人びて見えた。

「じゃあ、またねアニキ」
「ああ」

 そう言って、翔は十代を見送る。

 昔ならみんなでレッド寮まで一緒に帰ったけれど、今はそうはいかない。

 万丈目は書類に目を通さなければと先にブルー寮へ帰り、明日香も留学についてクロノス教諭と話があると職員室へ向かった。

 翔もこれから兄の見舞いを兼ねたリーグ作りについての話し合いがある。

 三年間一緒にいたけれど、同じ道を歩くことはもうない。それはとても寂しくて、胸が締めつけられ泣きたくなるほどだ。

 でも、この道を歩かなければいけない。翔は小さくなった赤い背中を振り向いてから、歩き出した。


愛の天秤

 珍しく丸一日授業に出た日の放課後、十代は埠頭でぼんやりと釣糸をたらしていた。

 見慣れた光景ではあるのだが、今日の十代はいつもより思い悩んでいるようだった。

 しかしそれは最近十代が気にかけているこの島に迫る危機へのものとはまた違う悩みのようだった。

「今日はどうしたの」

 ユベルは姿を現して十代に声をかける。

「……どうって?」
「ざわついてる」

 そう言うと、十代は苦笑いした。ユベルは十代の隣に座った。

「ダークネスの件とは別だね。お勉強のことでもなさそうだ。あとキミを悩ますものといえば……お友達のことかな」

「別に友達は関係ないけど……」
「でも彼らと話してからだ」
「まあ……うん」

 十代は曖昧に頷いた。十代が思い悩み始めたのは昼休みのあたりだった。友人たちとの会話によって十代の悩みは生まれたのだろうと思う。

 ──なんの話してたっけ。

 ユベルは普段、十代と友人たちの会話、特におしゃべりの類いはあまり聞いていない。十代に悪意などない連中ばかりだから、いちいち内容を気にかける必要はない。

 十代の魂から伝わってくるものが「悩み」だと気づいたときに会話へ意識を向けてみたが、もう話題は変わったあとのようでエドの書いた本の話になっていた。

 その後も十代を悩ませそうな話題は出ていない。十代自身の記憶を辿ればわかるだろうが、覗き見のようであまりやりたくはなかった。

「何話してたの?」
「……まあ、世間話、みたいな……」

 半分嘘だ、とユベルにはわかる。ふたりは互いに心を読むことまではできないが、嘘を言ったかどうか程度なら判別することができる。

「話したくないなら言わなくてもいいけど。でもキミが悩んでると居心地が悪い。普段は口出しする気ないけど、今回はひどいよ」

 今の悩みは十代の心をかなりざわつかせている。ダークネスのことも十代はかなり気にかけているが、ユベルの居心地を悪くするようなものではなかった。今回は何か特別なのだろうと思う。

「ごめん。居心地……悪いか」

 十代は謝る。が、十代の心はユベルの一言で余計に揺らいだようだった。

「余計に悪くしないでくれよ」
「ごめん、いや、これじゃ本当に──」

 ユベルが文句を言うと、十代はまた謝りため息をついた。

「翔に言われたんだ。ユベルの愛は重そうって……オレは重くないって言ったんだけど」

 うん、とユベルは相槌をうち十代の話を聞く。

「でも他の連中にも似たようなこと言われて。別にそんなことはないんだけど……」

 十代はまたため息をついた。ユベルが居心地悪く感じるのは、十代がユベルのことで悩んでいるからだろう。

「で……なんで悩んでるの?」

 今の話にどう悩む要素があるのか、それがユベルにはわからなかった。

「オレのユベルへの愛が足りないのかなって……」
「そんなこと言われたの?」

「言われてない。言われたのは重そうとか大変そうとかそういうので……みんなからそう見えるってことは、オレの愛が軽いってことなのかって……」

「はあ? なんでそうなるんだ」
「『重い』の反対は『軽い』だろ」
「……は?」

「だから天秤があるとして、片方が重いなら片方は軽いだろ」

「天秤」

 つまり、十代は「ユベルの愛」と「十代の愛」の載った天秤がユベルの方へ傾いているなら十代の愛が『軽い』のだと考えて悩んでいるようだ。

 ちょっと馬鹿らしいな、とユベルは思った。しかし十代本人は真剣に悩んでいるのだから、ユベルも真面目に答える。

「……その天秤は存在しない。キミの愛が軽いわけないだろ」

「でも今、居心地が悪いって」

「悩んでるのが居心地悪いんだよ。キミの愛が軽いものじゃないことはボクがよくわかってる。誰よりね」

「だとして……オレは長いことユベルを忘れてたし……」

 時間の話をするなら、十代の転生を待ち続けたユベルの方が長く彼を愛していたことになるだろう。その差は永遠に覆らない。しかし愛の大きさや深さにおいて、十代はひけを取らないのではないかと思う。

「でもキミはボクにすべての愛を捧げたじゃないか」

「すべてを捧げたのはユベルの方だ」

 十代はユベルの目をまっすぐ見返した。ユベルを見つめる茶褐色の大きな目。沈んできた夕日が十代の頬を橙に染めて、それは遠いあの日を思い出させる。

 十代がユベルの手に自分の手を重ねる。今は触れられないその手があの日のように感触やぬくもりを伝えてくることはない。それでも十代は包むようにユベルの手を握ろうとする。

「ユベルは返しきれないほどのものをオレにくれた」

 融合してわかったことだが、十代は心の奥底でユベルに終わらない役割を負わせてしまったことを悔やんでいる。

 しかし同時にユベルが宿命を共にしたことを喜び、手放したくないと願い、そんな自分のことを酷薄だと責め、さらにそのように責任を感じることはユベルの覚悟を無碍にするからよくない──などという面倒なことを考えている。

 そのわだかまるような愛の、どこが軽いのだろう。

「そもそも返す必要はないよ。ボクだってキミの愛を返すつもりはない。キミの愛は永遠にボクだけのものだ。重かろうが軽かろうがすべてね」

 十代は少し目をみはり、それから笑った。

「そうだな。オレの愛はユベルだけのものだ」

 その声も笑顔も穏やかだった。涙ながらに愛を誓ってくれたあの日に、遠い未来でこんな風に笑い合えるなんて想像もつかなかっただろう。

「天秤は安定したかい」

 十代は目をぱちくりとさせた。

「……ユベルのいうとおり、はじめからなかったかもな」

「キミってときどき馬鹿なことを考えるよね」

「確かに今のは馬鹿だった。比べるものじゃないよな」

 比べるものではないとはいえ、実際にそんなものがあればどちらに傾くのか、ユベルとて気にならないわけではない。天秤は案外と彼の方に傾くのかもしれない。

 だからといって自分の愛が軽いとは思わないけれど。ハネクリボーの羽根一枚の差でも傾くのが天秤なのだから。

「ユベルの居心地は?」
「聞くまでもないだろ」
「そうだな」

 十代は安心したように笑う。

「もう馬鹿なことを考えなくてよくなったんだから、課題でもやれば」

「お前まで卒業の心配か? この先──」

 十代は水平線に目をやって言葉を止めた。学校の卒業なんて肩書きは、おそらくこの先の役には立たない。『遊城十代』の名前もあと十年か、長くて二十年ほどしか使えないだろう。

 人間のことわりから外れた者に、人間の名も肩書きも長くは使えない。

「……また翔たちに心配かけちまうからな」

 おそらく思い浮かんだ言葉を飲み込んで、十代はそう言った。釣竿を片付け始める。慣れた作業だろうに、十代は釣り針に指を引っかけた。まだ考え事でもしているのかもしれない。

「……そういえば、言いそびれたな」
「何を?」
「この身体のこと」

 十代が指先からしたたる血を払うように手を振れば、もうそこに傷はなかった。

「前に光の波動の話も言い忘れてたし、なんか抜けちまうんだよな。万丈目にも話がわかりにくいって言われたし……」

「それこそ国語のお勉強が必要なんじゃないか」

「課題やるか……」

 十代はレッド寮へと戻った。珍しいことに、先程言った通り課題に取り組んだ。確か出席の代わりにと課されたもので、提出しなければ単位取得にかかわるのだったか。

「……なあ、ユベル」

 ずっと黙って机に向かっていた十代が声をかける。

「なんだい」

「融合してから、国語とか英語とか計算とか、前よりあっさりできる気がするんだけど……それもユベルの力なのか?」

「ボクの力というか……言語については、精霊は人間の言語は基本的にわかるからね。計算は融合でボクの知識が混じったかもしれない」

「だからかなぁ。歴史とかはわかんねーなと思って。どうせなら全教科わかればよかったのに……」

「そりゃボクは人間の歴史なんか知らないからね」

「あ、ユベルが教科書読めばオレの頭にも入る?」

 目を期待の色に輝かせ十代はユベルを見上げた。

「自分でやんな」

 ぴしゃりとユベルが言うと十代は「はぁ~い」とため息まじりのしょげた返事をしておとなしく机に向き直った。

 こんな冗談を言い合うのもあと少しだろう。十代の同級生たちも今日を名残惜しげにしていた。

 十代もダークネスの件がなければ感傷に浸れたかもしれないが、人智の外の存在に卒業するまで待ってくれなんて通じない。

 いつ、どう動いてくるか。その心配がなければ十代ももう少し授業に出たりといったこともできるのだろう。

 もし授業中に十代が外に飛び出しでもしたら、あのお友達想いの同級生たちが追いかけて来かねないと──またあの日のようにならないかと十代は心配している。

 彼らもまた十代を案じているが、彼らはただの人間だ。

 十代を守りたいと願うなら、人間のままではいられない──ユベルがそうであったように。

 彼らはそこまでする必要はないし、十代だってさせる気はないだろう。むしろそうさせないために動いている。

 人間が人間のままでいられるように。

 自分が人間のことわりから外れても、十代は人間を愛している。もちろん精霊のことも。

 十代の中には、きっとたくさんの天秤がある。

 人間への愛と精霊への愛。
 ヒトであることと精霊であること。
 強大な闇の力とそれに溺れない理性──。

 それらの天秤をいつだって釣り合わせようとしている。

 ──そんな生き方するから苦しむのに。

 ユベルの中に天秤があるとしても、それはいつだって十代の方に傾いている。必ず十代の方に傾くのなら、それはもう天秤ではなくただの置物かもしれない。

 そもそも天秤なんてものはユベルには必要がない。十代以上に優先するものなどないのだから、天秤で量るまでもない。

 ユベルのように、片方だけに傾けてしまえばきっと苦しまない。でも。

 それをしてしまえば光の波動と変わらない存在になってしまうだろう。光がすべてを焼き尽くすように闇ですべてを飲み込むならば、そのふたつは方向性が違うだけの同じものになってしまう。

 彼はあまねく命を育むやさしく正しい闇の力の持ち主としてあろうとしている。それは闇にすべてを飲み込むよりよほど難しいだろう。

 その釣り合いを取ろうと奔走し、守ろうとしたものによって深く傷つく日もくるのかもしれない。

 ──いや。

 ありもしない天秤を想像して憂えても仕方のないことだ。それにもしもそんな日が来たとして、彼の天秤がどちらに傾こうが、天秤そのものを捨てようが。

 ──ボクだけは味方だ。

 ユベルは愛しい後ろ頭を抱きしめるようにして、十代の手元を覗き込む。

「ここ、間違ってる」
「え? ……あ、ほんとだ……」

 ユベルに指差された計算式に十代は消しゴムをかける。

「……ちょっと手伝ってくれても……」
「ダメ。間違いくらいは教えてあげるけど」
「勉強に厳しいの、昔から変わんないよな」

 残念そうにしながらも、その声音は少し嬉しそうだった。いつのことを思い出しているのだろう。幼い頃か、それとももっと遠い昔なのか──。

「ま、頑張りなよ。終わったら少しデュエルでもしよう」

「本当か?」

 十代はぱっと顔を明るくした。

「ちゃんと終わらせるんだよ」

 ユベルは十代の頭を撫でる。その笑顔は、幼い頃も遠い昔も変わらない気がした。

2024/10/21
2024/12/07 改行増版
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