遊城十代が死んだ
「遊城十代」が死んだ。
正確には、死んだことになった。オレ本人はぴんぴんしている。
新聞やニュースの報道によれば遊城十代は昼日中の商店街で刺され、病院に搬送されたが死亡が確認された。犯人はアメリカで摘発されたレアカード窃盗団の一員であった。インダストリアル・イリュージョン社の社員だった遊城十代が警察に捜査協力していたことの恨みが動機のようだ──ということになっている。
いつの間にインダストリアル・イリュージョン社の社員になったのだろうと思う。卒業後からペガサス会長の依頼で世界各地の精霊の調査をしていた。それは請け負いみたいなものだと思っていたけど、金を支払うにあたり社員として処理していたのかもしれない。あるいは「遊城十代が殺害された理由」として「カードの会社の社員がレアカード窃盗団の捜査をする警察に協力していた」というのがわかりやすい物語だから社員ということにしたのか。当の本人なのによくわかっていない。ペガサス会長に聞いたらたぶん教えてくれるだろう。
とにもかくにも「遊城十代」は死亡したことになった。「遊城十代」の名前が使えなくなる日が来ることは想定していた。でも、こんなに突然、こんなに早く使えなくなるとは思わなかった。あと十年は使えるつもりでいたし、それまでに友人たちとの関係をどうするのか考えようと思っていた。不老不死となったことを話すのか、死を偽装するのか、姿を消すのか──。
先に話しておけばよかったと今なら思う。
そうしたら、万丈目のことをこんなに苦しめずにすんだ。
「十代!」
名前を呼ばれて目が覚めた。切羽詰まったその声に飛び起きたけれど、オレを呼んだ当の本人は顔をしかめて眠っていた。
たぶん、またオレが「死んだ」ときの夢を見たのだろう。ずれた掛布団を直して、万丈目の頭を撫でる。
大丈夫。死んでなんかない。ぴんぴんしてるよ──。起こさないように心の中で語りかける。きっと取り返しのつかないほどのショックを与えてしまったのだと思う。
ファラオと荷物を取りに万丈目の家へ向かったとき、きっと万丈目は怒っていると思っていた。真っ先にネットに動画が上がって、詳しい報道が出るまでネットじゃいろいろ悪口も書かれたようだった。元はライバルだったからオレを誰かに殺させたんだとか、痴情のもつれだとか借金があっただとか。どれも根も葉もない話だ。ペガサス会長が「カード窃盗団の摘発のために警察に協力した社員が窃盗団の一員に殺された」ということにしてくれたのは、そんな噂話を一掃するのにちょうどいい物語だったのかもしれない。まだオレたちの関係を疑う声はあるようだけど、今度は悪口ではなく「最愛の人を失った悲劇の人」という方向でいろいろ言われているようだった。最大のライバルではあったけど最愛ではないと思う。いや、最大も言いすぎか。殺人教唆や借金がどうのよりはマシとはいえ、そんな噂を立てられたらいい気分はしないだろう。
だから、万丈目は怒っていると思っていた。「お前のせいでオレに変な噂が立っただろ!」とか「オレが巻き添え食って刺されたらどうしてくれる!」とか、そんな文句を言われると思っていた。いつもの怒った顔で、声で、元気よく。
でも、玄関のドアを開けた万丈目の顔は、青白くて、ゾンビだったときみたいに真っ黒なクマがあった。
やっとオレは万丈目の目の前で起きたことが尋常ではなかったことに気がついた。ここしばらく誘拐されたり撃たれたりなんだりで、刺されたくらいたいしたことではないような気になっていた。
目の前で友達がナイフで刺されたら、たぶんオレもそうなるだろう。ヨハンを失ったかと思ったときみたいに。友達を失ったかと思った痛みはよくわかる。血の一滴も見なくてもあれだけショックなんだから、刺された瞬間や血の流れる様を見たらなおさらだ。
道端で刺されるなんて、普通ならば大ごとなのだ。普通の人間は何度も刺されてぴんぴんしてることなんかない。「人間」の感覚をなくさないようにしないとと思っているのに、すぐ忘れてしまう。
人間のふりをし続けるのは向いていないのかもしれないと思った。ペガサス会長は新しい名前と身分証をくれたけれど、しばらくは異世界で過ごそうかと思っていた。「遊城十代」は死んだのだ。この世界から離れるべきなのだろうと、そう思っていた。
でも万丈目はここにいてもいいと言ってくれた。オレが死なないことを知らなかったことによる行き違いから出た言葉でも、そう言ってくれたことが嬉しかった。もう一度「人間」として生きたいと思った。
迷惑じゃないかと心配したけれど、万丈目は迷惑だからなんだと言ってくれた。子供の頃から、オレはずっと誰かに迷惑をかけている。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんと謝る両親を何度も見た。迷惑をかけないようにしようと思ってもうまくいかない。それはオレが異質な存在だからかもしれないし、単に馬鹿だからかもしれない。オレ自身が迷惑なわけじゃないと言われることもあったけれど、間違いなくオレが迷惑をかけていた。万丈目は真正面から迷惑だと言い切って、迷惑でもいいんだと言ってくれた。迷惑だろうと考えてしまうクセは抜けないけれど、万丈目がここにいていいと言ってくれる間はここにいたい。
それは万丈目のやさしさにつけこんでいるだけなのかもしれない。もしかしたら、この先今よりもっと万丈目を苦しめてしまうのかもしれない。
でも、本当に嬉しかったんだ。ここにいていいと言ってくれたこと。迷惑でもいいと言ってくれたこと。全部諦めるべきだと、ここにいるべきではないと思っていた、それを吹き飛ばすくらいに嬉しかったんだ。
万丈目の険しかった顔は、やっと少し穏やかになる。目の下のクマはだいぶ薄くなったけどまだ残っている。万丈目は肌が白くて、クマがあるとずいぶん目立って痛ましい。オレができることなんて、掛布団を直すくらいしかないけれど。
オレはまた横になる。枕元にいたファラオがあくびをして、くるりと体の向きを変えた。オレがいないうちに、ファラオはすっかり万丈目のベッドが気に入ったようだった。
万丈目のベッドはひとりで寝るにはずいぶん大きい。ふたりで寝てもまだ余裕があるくらいだ。万丈目には手を伸ばせばすぐ届くけれど、万丈目はオレから少し距離を取っている。
昨日のはなんだったのかなあ──。
昨日、万丈目はオレにここにいていいと言ったあと、机に突っ伏して寝てしまった。少ししたら目が覚めるだろうかと、使った皿やコップ、ローテーブルに散らかされた荷物を片付けたり、ペガサス会長にしばらく万丈目のところに世話になることを連絡したりした。一時間くらい経っても起きないから、一度起こして寝室まで肩を貸した。ベッドに寝かせたら腕をつかまれて「お前もここで寝ろ」と言われた。まだ昼間だけどなあと思ったけれど、腕を離してくれそうにはなかったし、別に用もないのでそのままベッドに横になった。すぐさま万丈目に抱きしめられて、驚いたけど嬉しかった。オレもこの数日はあまり休めていなかったし、やわらかいベッドも万丈目の体温もいい感じに眠気を誘ってそのまま朝まで眠ってしまった。
今日の万丈目はそんなこと何も覚えていなくて、嫌というより何か複雑そうな顔をしていた。昨日のはただ寝ぼけていたのか、幽霊だったら邪魔にならないからいいと思ったのか、よくわからない。覚えていなかったことにがっかりしてしまったけど、万丈目が悪いわけじゃない。万丈目はショックを受けていて、あまり冷静じゃないんだろう。それはオレが原因だ。
抱きしめてほしいなんて贅沢は言わない。万丈目が「もっと話したいし、デュエルしたいし、コーヒーだって飲みたい」と言ってくれただけで十分だ。隙間があるのは寂しいけれど、朝になったらまた話せるし、デュエルもできるし、ごはんを一緒に食べることもできる。
でもそんな日をいつまで続けられるんだろう──まだ一日しか過ごしていないのに、もう不安になる。
誘拐されるのも刺されるのも痛かったしもう嫌だなあ。光の波動と戦うのだって命がけだけれど、人間同士のいざこざは死にはしないけど別種の面倒くささがある。全力でデュエルしたらいいだけの光の波動やダークネスや精霊相手の方が楽なような気がしてしまう。ユベルには人間相手だからって手加減するからダメなんだと言われるけれど、異世界じゃないんだから力で解決するわけにはいかない。人間の世界には人間の世界のルールが、法律がある。デュエルの勝敗でいろんなことが決まる異世界とは違うのだ。
「人間は精霊のルールを知りもしないし知ったって守らないだろうに、キミは律儀に人間のルールを守ってやるんだね」
ユベルは本当に不満そうだった。精霊たちが手酷く監禁されているのを見たのだから当たり前だ。あの場にいた精霊たちは逃がすことができたけれど、もう売られてしまった精霊たちはどうしているのだろう? 警察やヨハンや精霊研究室のチームが引き続き調査していくようだけど、警察は盗まれたレアカードとしての捜査ができるだけで、精霊そのものの売買はどうにもできない。
そもそも、精霊なんか買ってどうするのだろう。オレは願いを叶えるなんて噂があったようだけどそんな力はないし、他の精霊たちだってほとんどがそうだろう。それとも金魚を水槽に入れるみたいにして眺めるのか? オレも案外見た目がいいから高値がつきそうだなんて言われたけれど。もし逃げ出せず売られてしまったらどこへ行き、どうなっていたんだろう。死なないことがバレたら生きたまま解剖とかされてしまうのかな。不老不死の研究材料とか。たぶんこの器を解剖したって何も解明できないと思うけれど。解剖は痛そうで嫌だなあ……。
頭に何か触った。ファラオが布団に入りたがっているのかな。目を開ける。万丈目と近くで目が合った。
「大丈夫か?」
「何が?」
「……苦しそうに見えた」
考え事をしていたから、今度はオレがしかめっ面になっていたのだろうか。
「なんともない」
万丈目はちょっとオレを見つめて、そうかと言って手を引っ込めた。ああ、さっきのは万丈目が頭に触ったのかと今理解する。さっきと逆になったらしい。
「……ちょっと考えてた」
「なにを」
「いろいろ……売られた精霊たちはどうなっちゃったんだろ、とか……」
万丈目は眉を寄せた。あんまりいい話題ではない。
「ごめん。変な話した」
「いや、オレも気になっている」
「ヨハンとかたぶん調べてくれてるけどな」
「お前は調べないのか」
「オレは関わるなって言われてて。『商品』側だから」
「……なぜ『商品』なのに刺されたんだ」
「へ?」
「殺すより捕まえて売った方がいいだろ。この事件何かおかしいと思わんのか。なぜお前は刺されたんだ」
どうやら名探偵サンダーの血が騒いだらしい。オレには犯人がなぜ自分を刺したのかはわりとどうでもいい。
「そりゃ……組織の方が潰れたからじゃね? 金にできるルートがなくなって恨みに思ったとか……」
「お前は願いを叶えると言われてたんだろ。間違った噂だが、一度捕まえてみて何か願いが叶うか試した方がいいだろう」
「……捕まるのはやだよ」
オレはさっき考えた解剖される様を想像してしまう。
「わかっている。問題はなぜ犯人がそうしようとしなかったか、だ……まあほとんどの精霊にそんな御大層な力はないだろうから、売る側としてそういう箔付けの部分が嘘だと知っていたのかもしれない。お前は警察に協力したことが原因だと言ってたが、なぜ警察の協力者という情報が組織の側に漏れている?」
「さあ──」
誘拐されたけど逃げ出したから──とはいえない。犯人にしてみればオレだと始めからわかっているのだ。捕まっていた他の精霊たちも逃がしたけれど、精霊は逃げたところで警察に通報なんてしない。
「まあ、遊城十代の名前は精霊の間では有名だろうから、精霊に聞いたらお前の名前が挙がったということはありそうだ。何か聞かれたら聞いてもいないことまでペラペラ喋り出すのもいそうだからな」
「まあ……精霊には純粋なやつも多いからな」
特に人間が好きで人間界にいるような精霊は人間を疑ったりしない。抵抗する間もなく捕まってしまった精霊も多いのではないかと思う。
「居場所や警察への協力者……というか、精霊を助けたかどうかは精霊から聞き出せるだろうが、やはりなぜ刺したのかというのがわからん」
「そんな考えることか? 組織を潰された恨みだろうって報道されてるじゃん」
「本当にそうだと思うのか?」
「わかんねーけどさ。そんなの気にしなくてよくないか」
「自分が刺されたんだから気にしろ」
万丈目は呆れたように言った。
「でも理由がわかったって、何が変わるわけでもないし」
「……確かに、理由がわかったところで何も取り戻せないが……」
万丈目は顔をしかめた。なんだか、万丈目の方が今回のことを深刻に考えている気がする。
「そんな深刻な意味で言ってないけどさ……だいたい今回は突発的にこうなっちまったけど……どっかで死んだことにする必要はあったのかもしれない」
「何?」
「精霊売買の組織ってひとつじゃないだろうし、もう『商品』としてオレのことが把握されてるってことは、このままだと何かしら起きるかもっていうのは思ってて……」
というか、既に一度は誘拐されている。
「オレだけ狙われるのは別にいいけど、他のひとを巻き込みたくなくて……」
万丈目はむっとした顔でオレをにらんだ。
「ごめん、万丈目はもう巻き込ん」
「そのときにはオレにも言わないつもりだったのか?」
万丈目はオレの言葉をさえぎった。
「もしお前が自分の意志で死を偽装したら、それをオレには言わないつもりか」
「たぶん──」
「そういうところがむかつくんだお前は。昔から変わらずひとりで突っ走りやがって」
「でも」
でも。
「万丈目は刺されたら死んじゃうじゃん……」
思ったより弱弱しい声が出た。
あの日。万丈目が刺されるかと思ったら突き飛ばすのが精一杯で身構える暇もなかった。まぐれ当たりなのか向こうにそれだけの技術があったのか心臓を刺され意識は飛んでしまった。万丈目のことはユベルが守ってくれたけれど、「遊城十代」は死ぬことになった。ユベルには油断しすぎだと怒られて次は助けられると限らないと釘を刺された。
「ばかやろう。お前だって死ぬだろうが」
呆れたみたいな声だった。
「オレは死なないよ」
「『遊城十代』は死んだだろうが。お前は……友達に二度と会えなくなった。それに」
万丈目はオレの顔に手を伸ばして、今朝みたいに頬をつねった。地味な痛みが頬に走る。
「痛みがないわけじゃないだろ。こんな程度でも痛がるくせに」
痛いのは嫌だ。傷が治るにしても痛いものは痛い。
「死なないことにあぐらをかかずにもっと考えて行動しろ、この間抜け」
万丈目はきつい口調と怒った声とは裏腹につねった頬をやさしく撫でた。万丈目の冷たい指がもやのかかった頭を少しすっきりさせる気がする。
死なないことにあぐらをかいている──自覚はなかったけど、そうなのかもしれない。行動するときにケガをするかどうかを度外視している。痛いのは嫌だと思うけど恐怖はない。たぶん怖いのは自分じゃなくて誰かが傷つくことだ。でも、その行動が大切なひとを傷つけることもやっと理解した。
「……うん。ありがとう」
「わかったらさっさと寝ろ」
頬を撫でていた手でくしゃりと乱雑に頭を撫でると万丈目はオレに背を向けた。
「おやすみ」
やっぱり大好きだ。万丈目の、怒りながらオレのことを考えてくれるところ。それはオレにだけ特別なわけじゃなくて、万丈目はおジャマたちにもそんな風だけれど。いくらやさしくしてくれても、昨日みたいにくっついたら嫌がられてしまうかな。万丈目の背中を見ていたら、ファラオがオレと万丈目の隙間に入ってきた。時間を見ていないけどそろそろ明け方なのだろうか。ファラオは明け方の冷える頃になるとよくひっついてくる。
ファラオの背に額を寄せる。ファラオになら簡単にできるのになと思いながら目を閉じた。
正確には、死んだことになった。オレ本人はぴんぴんしている。
新聞やニュースの報道によれば遊城十代は昼日中の商店街で刺され、病院に搬送されたが死亡が確認された。犯人はアメリカで摘発されたレアカード窃盗団の一員であった。インダストリアル・イリュージョン社の社員だった遊城十代が警察に捜査協力していたことの恨みが動機のようだ──ということになっている。
いつの間にインダストリアル・イリュージョン社の社員になったのだろうと思う。卒業後からペガサス会長の依頼で世界各地の精霊の調査をしていた。それは請け負いみたいなものだと思っていたけど、金を支払うにあたり社員として処理していたのかもしれない。あるいは「遊城十代が殺害された理由」として「カードの会社の社員がレアカード窃盗団の捜査をする警察に協力していた」というのがわかりやすい物語だから社員ということにしたのか。当の本人なのによくわかっていない。ペガサス会長に聞いたらたぶん教えてくれるだろう。
とにもかくにも「遊城十代」は死亡したことになった。「遊城十代」の名前が使えなくなる日が来ることは想定していた。でも、こんなに突然、こんなに早く使えなくなるとは思わなかった。あと十年は使えるつもりでいたし、それまでに友人たちとの関係をどうするのか考えようと思っていた。不老不死となったことを話すのか、死を偽装するのか、姿を消すのか──。
先に話しておけばよかったと今なら思う。
そうしたら、万丈目のことをこんなに苦しめずにすんだ。
「十代!」
名前を呼ばれて目が覚めた。切羽詰まったその声に飛び起きたけれど、オレを呼んだ当の本人は顔をしかめて眠っていた。
たぶん、またオレが「死んだ」ときの夢を見たのだろう。ずれた掛布団を直して、万丈目の頭を撫でる。
大丈夫。死んでなんかない。ぴんぴんしてるよ──。起こさないように心の中で語りかける。きっと取り返しのつかないほどのショックを与えてしまったのだと思う。
ファラオと荷物を取りに万丈目の家へ向かったとき、きっと万丈目は怒っていると思っていた。真っ先にネットに動画が上がって、詳しい報道が出るまでネットじゃいろいろ悪口も書かれたようだった。元はライバルだったからオレを誰かに殺させたんだとか、痴情のもつれだとか借金があっただとか。どれも根も葉もない話だ。ペガサス会長が「カード窃盗団の摘発のために警察に協力した社員が窃盗団の一員に殺された」ということにしてくれたのは、そんな噂話を一掃するのにちょうどいい物語だったのかもしれない。まだオレたちの関係を疑う声はあるようだけど、今度は悪口ではなく「最愛の人を失った悲劇の人」という方向でいろいろ言われているようだった。最大のライバルではあったけど最愛ではないと思う。いや、最大も言いすぎか。殺人教唆や借金がどうのよりはマシとはいえ、そんな噂を立てられたらいい気分はしないだろう。
だから、万丈目は怒っていると思っていた。「お前のせいでオレに変な噂が立っただろ!」とか「オレが巻き添え食って刺されたらどうしてくれる!」とか、そんな文句を言われると思っていた。いつもの怒った顔で、声で、元気よく。
でも、玄関のドアを開けた万丈目の顔は、青白くて、ゾンビだったときみたいに真っ黒なクマがあった。
やっとオレは万丈目の目の前で起きたことが尋常ではなかったことに気がついた。ここしばらく誘拐されたり撃たれたりなんだりで、刺されたくらいたいしたことではないような気になっていた。
目の前で友達がナイフで刺されたら、たぶんオレもそうなるだろう。ヨハンを失ったかと思ったときみたいに。友達を失ったかと思った痛みはよくわかる。血の一滴も見なくてもあれだけショックなんだから、刺された瞬間や血の流れる様を見たらなおさらだ。
道端で刺されるなんて、普通ならば大ごとなのだ。普通の人間は何度も刺されてぴんぴんしてることなんかない。「人間」の感覚をなくさないようにしないとと思っているのに、すぐ忘れてしまう。
人間のふりをし続けるのは向いていないのかもしれないと思った。ペガサス会長は新しい名前と身分証をくれたけれど、しばらくは異世界で過ごそうかと思っていた。「遊城十代」は死んだのだ。この世界から離れるべきなのだろうと、そう思っていた。
でも万丈目はここにいてもいいと言ってくれた。オレが死なないことを知らなかったことによる行き違いから出た言葉でも、そう言ってくれたことが嬉しかった。もう一度「人間」として生きたいと思った。
迷惑じゃないかと心配したけれど、万丈目は迷惑だからなんだと言ってくれた。子供の頃から、オレはずっと誰かに迷惑をかけている。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんと謝る両親を何度も見た。迷惑をかけないようにしようと思ってもうまくいかない。それはオレが異質な存在だからかもしれないし、単に馬鹿だからかもしれない。オレ自身が迷惑なわけじゃないと言われることもあったけれど、間違いなくオレが迷惑をかけていた。万丈目は真正面から迷惑だと言い切って、迷惑でもいいんだと言ってくれた。迷惑だろうと考えてしまうクセは抜けないけれど、万丈目がここにいていいと言ってくれる間はここにいたい。
それは万丈目のやさしさにつけこんでいるだけなのかもしれない。もしかしたら、この先今よりもっと万丈目を苦しめてしまうのかもしれない。
でも、本当に嬉しかったんだ。ここにいていいと言ってくれたこと。迷惑でもいいと言ってくれたこと。全部諦めるべきだと、ここにいるべきではないと思っていた、それを吹き飛ばすくらいに嬉しかったんだ。
万丈目の険しかった顔は、やっと少し穏やかになる。目の下のクマはだいぶ薄くなったけどまだ残っている。万丈目は肌が白くて、クマがあるとずいぶん目立って痛ましい。オレができることなんて、掛布団を直すくらいしかないけれど。
オレはまた横になる。枕元にいたファラオがあくびをして、くるりと体の向きを変えた。オレがいないうちに、ファラオはすっかり万丈目のベッドが気に入ったようだった。
万丈目のベッドはひとりで寝るにはずいぶん大きい。ふたりで寝てもまだ余裕があるくらいだ。万丈目には手を伸ばせばすぐ届くけれど、万丈目はオレから少し距離を取っている。
昨日のはなんだったのかなあ──。
昨日、万丈目はオレにここにいていいと言ったあと、机に突っ伏して寝てしまった。少ししたら目が覚めるだろうかと、使った皿やコップ、ローテーブルに散らかされた荷物を片付けたり、ペガサス会長にしばらく万丈目のところに世話になることを連絡したりした。一時間くらい経っても起きないから、一度起こして寝室まで肩を貸した。ベッドに寝かせたら腕をつかまれて「お前もここで寝ろ」と言われた。まだ昼間だけどなあと思ったけれど、腕を離してくれそうにはなかったし、別に用もないのでそのままベッドに横になった。すぐさま万丈目に抱きしめられて、驚いたけど嬉しかった。オレもこの数日はあまり休めていなかったし、やわらかいベッドも万丈目の体温もいい感じに眠気を誘ってそのまま朝まで眠ってしまった。
今日の万丈目はそんなこと何も覚えていなくて、嫌というより何か複雑そうな顔をしていた。昨日のはただ寝ぼけていたのか、幽霊だったら邪魔にならないからいいと思ったのか、よくわからない。覚えていなかったことにがっかりしてしまったけど、万丈目が悪いわけじゃない。万丈目はショックを受けていて、あまり冷静じゃないんだろう。それはオレが原因だ。
抱きしめてほしいなんて贅沢は言わない。万丈目が「もっと話したいし、デュエルしたいし、コーヒーだって飲みたい」と言ってくれただけで十分だ。隙間があるのは寂しいけれど、朝になったらまた話せるし、デュエルもできるし、ごはんを一緒に食べることもできる。
でもそんな日をいつまで続けられるんだろう──まだ一日しか過ごしていないのに、もう不安になる。
誘拐されるのも刺されるのも痛かったしもう嫌だなあ。光の波動と戦うのだって命がけだけれど、人間同士のいざこざは死にはしないけど別種の面倒くささがある。全力でデュエルしたらいいだけの光の波動やダークネスや精霊相手の方が楽なような気がしてしまう。ユベルには人間相手だからって手加減するからダメなんだと言われるけれど、異世界じゃないんだから力で解決するわけにはいかない。人間の世界には人間の世界のルールが、法律がある。デュエルの勝敗でいろんなことが決まる異世界とは違うのだ。
「人間は精霊のルールを知りもしないし知ったって守らないだろうに、キミは律儀に人間のルールを守ってやるんだね」
ユベルは本当に不満そうだった。精霊たちが手酷く監禁されているのを見たのだから当たり前だ。あの場にいた精霊たちは逃がすことができたけれど、もう売られてしまった精霊たちはどうしているのだろう? 警察やヨハンや精霊研究室のチームが引き続き調査していくようだけど、警察は盗まれたレアカードとしての捜査ができるだけで、精霊そのものの売買はどうにもできない。
そもそも、精霊なんか買ってどうするのだろう。オレは願いを叶えるなんて噂があったようだけどそんな力はないし、他の精霊たちだってほとんどがそうだろう。それとも金魚を水槽に入れるみたいにして眺めるのか? オレも案外見た目がいいから高値がつきそうだなんて言われたけれど。もし逃げ出せず売られてしまったらどこへ行き、どうなっていたんだろう。死なないことがバレたら生きたまま解剖とかされてしまうのかな。不老不死の研究材料とか。たぶんこの器を解剖したって何も解明できないと思うけれど。解剖は痛そうで嫌だなあ……。
頭に何か触った。ファラオが布団に入りたがっているのかな。目を開ける。万丈目と近くで目が合った。
「大丈夫か?」
「何が?」
「……苦しそうに見えた」
考え事をしていたから、今度はオレがしかめっ面になっていたのだろうか。
「なんともない」
万丈目はちょっとオレを見つめて、そうかと言って手を引っ込めた。ああ、さっきのは万丈目が頭に触ったのかと今理解する。さっきと逆になったらしい。
「……ちょっと考えてた」
「なにを」
「いろいろ……売られた精霊たちはどうなっちゃったんだろ、とか……」
万丈目は眉を寄せた。あんまりいい話題ではない。
「ごめん。変な話した」
「いや、オレも気になっている」
「ヨハンとかたぶん調べてくれてるけどな」
「お前は調べないのか」
「オレは関わるなって言われてて。『商品』側だから」
「……なぜ『商品』なのに刺されたんだ」
「へ?」
「殺すより捕まえて売った方がいいだろ。この事件何かおかしいと思わんのか。なぜお前は刺されたんだ」
どうやら名探偵サンダーの血が騒いだらしい。オレには犯人がなぜ自分を刺したのかはわりとどうでもいい。
「そりゃ……組織の方が潰れたからじゃね? 金にできるルートがなくなって恨みに思ったとか……」
「お前は願いを叶えると言われてたんだろ。間違った噂だが、一度捕まえてみて何か願いが叶うか試した方がいいだろう」
「……捕まるのはやだよ」
オレはさっき考えた解剖される様を想像してしまう。
「わかっている。問題はなぜ犯人がそうしようとしなかったか、だ……まあほとんどの精霊にそんな御大層な力はないだろうから、売る側としてそういう箔付けの部分が嘘だと知っていたのかもしれない。お前は警察に協力したことが原因だと言ってたが、なぜ警察の協力者という情報が組織の側に漏れている?」
「さあ──」
誘拐されたけど逃げ出したから──とはいえない。犯人にしてみればオレだと始めからわかっているのだ。捕まっていた他の精霊たちも逃がしたけれど、精霊は逃げたところで警察に通報なんてしない。
「まあ、遊城十代の名前は精霊の間では有名だろうから、精霊に聞いたらお前の名前が挙がったということはありそうだ。何か聞かれたら聞いてもいないことまでペラペラ喋り出すのもいそうだからな」
「まあ……精霊には純粋なやつも多いからな」
特に人間が好きで人間界にいるような精霊は人間を疑ったりしない。抵抗する間もなく捕まってしまった精霊も多いのではないかと思う。
「居場所や警察への協力者……というか、精霊を助けたかどうかは精霊から聞き出せるだろうが、やはりなぜ刺したのかというのがわからん」
「そんな考えることか? 組織を潰された恨みだろうって報道されてるじゃん」
「本当にそうだと思うのか?」
「わかんねーけどさ。そんなの気にしなくてよくないか」
「自分が刺されたんだから気にしろ」
万丈目は呆れたように言った。
「でも理由がわかったって、何が変わるわけでもないし」
「……確かに、理由がわかったところで何も取り戻せないが……」
万丈目は顔をしかめた。なんだか、万丈目の方が今回のことを深刻に考えている気がする。
「そんな深刻な意味で言ってないけどさ……だいたい今回は突発的にこうなっちまったけど……どっかで死んだことにする必要はあったのかもしれない」
「何?」
「精霊売買の組織ってひとつじゃないだろうし、もう『商品』としてオレのことが把握されてるってことは、このままだと何かしら起きるかもっていうのは思ってて……」
というか、既に一度は誘拐されている。
「オレだけ狙われるのは別にいいけど、他のひとを巻き込みたくなくて……」
万丈目はむっとした顔でオレをにらんだ。
「ごめん、万丈目はもう巻き込ん」
「そのときにはオレにも言わないつもりだったのか?」
万丈目はオレの言葉をさえぎった。
「もしお前が自分の意志で死を偽装したら、それをオレには言わないつもりか」
「たぶん──」
「そういうところがむかつくんだお前は。昔から変わらずひとりで突っ走りやがって」
「でも」
でも。
「万丈目は刺されたら死んじゃうじゃん……」
思ったより弱弱しい声が出た。
あの日。万丈目が刺されるかと思ったら突き飛ばすのが精一杯で身構える暇もなかった。まぐれ当たりなのか向こうにそれだけの技術があったのか心臓を刺され意識は飛んでしまった。万丈目のことはユベルが守ってくれたけれど、「遊城十代」は死ぬことになった。ユベルには油断しすぎだと怒られて次は助けられると限らないと釘を刺された。
「ばかやろう。お前だって死ぬだろうが」
呆れたみたいな声だった。
「オレは死なないよ」
「『遊城十代』は死んだだろうが。お前は……友達に二度と会えなくなった。それに」
万丈目はオレの顔に手を伸ばして、今朝みたいに頬をつねった。地味な痛みが頬に走る。
「痛みがないわけじゃないだろ。こんな程度でも痛がるくせに」
痛いのは嫌だ。傷が治るにしても痛いものは痛い。
「死なないことにあぐらをかかずにもっと考えて行動しろ、この間抜け」
万丈目はきつい口調と怒った声とは裏腹につねった頬をやさしく撫でた。万丈目の冷たい指がもやのかかった頭を少しすっきりさせる気がする。
死なないことにあぐらをかいている──自覚はなかったけど、そうなのかもしれない。行動するときにケガをするかどうかを度外視している。痛いのは嫌だと思うけど恐怖はない。たぶん怖いのは自分じゃなくて誰かが傷つくことだ。でも、その行動が大切なひとを傷つけることもやっと理解した。
「……うん。ありがとう」
「わかったらさっさと寝ろ」
頬を撫でていた手でくしゃりと乱雑に頭を撫でると万丈目はオレに背を向けた。
「おやすみ」
やっぱり大好きだ。万丈目の、怒りながらオレのことを考えてくれるところ。それはオレにだけ特別なわけじゃなくて、万丈目はおジャマたちにもそんな風だけれど。いくらやさしくしてくれても、昨日みたいにくっついたら嫌がられてしまうかな。万丈目の背中を見ていたら、ファラオがオレと万丈目の隙間に入ってきた。時間を見ていないけどそろそろ明け方なのだろうか。ファラオは明け方の冷える頃になるとよくひっついてくる。
ファラオの背に額を寄せる。ファラオになら簡単にできるのになと思いながら目を閉じた。