遊城十代が死んだ

 遊城十代が死んだ。
 万丈目の目の前で通り魔に刺された。まだ明るい、昼間の商店街だった。
「オレこーいう商店街ってあんま来たことないんだ」
 そう言って十代は物珍しげに並ぶ店を眺めていた。「なんかいい匂いする!」とか「あとでカードショップ行こうぜ」とか、そんなことをしゃべっていた。学生の頃と変わらないような笑顔で、あの赤い制服のまま。
 突然黙ったと思ったら突き飛ばされた。万丈目は転んで、身を起こして振り向くと十代も地面に倒れていた。馬乗りになった男が、何度も何度もナイフを振り下ろしていた。通行人たちの悲鳴が聞こえた。万丈目は動けなかった。目の前で起きていることが理解できなかった。
 どのくらい動けなかったかよくわからない。通り魔が動かない十代から万丈目に標的を変えて近づいてきたところで意識が途切れた。気がついたら隣に警官がいて大丈夫ですかと聞かれていた。十代は。
 布が被せられていた。
 その後は警察に話したり病院で検査を受けたりゴタゴタとしていた。万丈目に怪我はなかった。迎えに来た兄に落ち着くまで実家に来るかと言われたが、
「猫にエサをやらないと」
 そんなことを言って自宅に戻った。自宅ではファラオが事件など知らずにソファで丸まっていた。
 十代は事件の数日前から万丈目の家に逗留していた。万丈目の出場する全日本大会の決勝戦を見に来ていたのだ。残念ながら優勝は逃したが、互いに全力を出しきった勝負だった。何より相手が学生時代から師匠と慕う天上院吹雪だったから、悔しさもあるが祝福する気持ちも大きかった。その後の打ち上げで十代と吹雪を含む懐かしい面面と酒を飲むうち、十代が万丈目の家に逗留することになってしまった。吹雪が引っ越したばかりの万丈目の家を見せてもらったらどうだと言い、十代はその日万丈目の家に泊まることになった。万丈目は優勝を逃したために取材用に空けておいたスケジュールがそのまま休暇になっており、十代もオレもしばらく暇なんだと言い──。
 オレが優勝していたら十代は死なずに済んだのか?
 万丈目の家に留まることがなければ。万丈目が商店街に行くなどと言わなければ。今頃は相変わらず世界を、あるいは異世界を旅していたのか。
 オレのせいで。
「ニャーア」
 ファラオが鳴いた。長く鳴くのは何か要求があるときだと、だんだんとファラオの言いたいことがわかるようになってきている。腹が減ったのだろう。
「……もうそんな時間か?」
 万丈目はベッドから起き上がる。あの日からなにもやる気が起きず、食事とファラオのエサとトイレくらいにしか起き上がらない。
 ピンポン、とインターホンが鳴った。携帯電話を確認するが兄たちからの連絡はない。どうせマスコミだろう。無視してファラオの猫缶を開けた。猫缶の生臭いにおいでも嗅げば自分の腹も鳴った。
 人間、どんな時でも腹は減る。兄たちが用意してくれた食材がまだあったはずだ。こんなときこそうまいものを食えと、簡単に食べられるものをいろいろと持ってきてくれた。特にパンがうまい。今日は自分も缶詰のパテでも開けて食べようか。湯を沸かしてコーヒーでも淹れるか。コーヒーの香りはリラックス効果があると聞くが、確かに落ち着くのだ。
 ピンポン、とまたインターホンが鳴る。
「万丈目!」
 十代の声が聞こえた気がした。幻聴か。やはり参っているのだ。目の前であんな凄惨なものを見たのだから当然だ。
 ピンポン、とインターホンが鳴る。これは本物か?
「万丈目、なあ、いないのか? まんじょーめー!」
 まったく間の抜けた声だった。幽霊が来るにしても、もう少し恨めしそうにしたらどうなんだ。うらめしや、が幽霊の常套句だろう。
「迷惑かけてごめんって。ファラオと荷物取りに来ただけだからさ、ちょっと開けてくれよ」
 猫と荷物を取りに来る幽霊がいてたまるか。無視してコーヒーを淹れ始める。あの商店街の個人経営のコーヒーショップの豆は存外においしくて、カフェもあるからあの日十代も連れていってやればよかったと今さら思う。自分で淹れるのとプロの淹れたコーヒーはやはり味が違うのだ。
「あ、めっちゃいい匂いする。いるじゃんか、開けてくれって! そんな怒んないでくれよ」
 怒ってなどいない。怒りもわかないのだ。呼び掛ける声を無視し続けると、だんだんと声のトーンは下がっていく。
「……わかった、もう来ないよ。ファラオのこと頼むな。本当に迷惑かけた。荷物は適当に処分し……あ、いや寄せ書き! ごめんあれだけくれ。オレもう誰にも会えないんだ。頼む万丈目──」
 幽霊の声は悲しげだった。わざわざ取りに来たものが、寄せ書き? 卒業のときに渡したもののことか? 何年も後生大事に取っていたのか。いや、こんなもの自分の幻聴なのだ。あれを大事にしていてほしかったと万丈目が望んでいるにすぎない。
 万丈目はソファの横の十代の鞄を取るとローテーブルの上でひっくり返した。デュエルディスク、万丈目グループの貸したパソコン、マグカップ、手帳、キーケース、下着(相変わらずファラオ柄のダサいトランクスだ。何年履いてるんだ?)、書類ケース、その他ペンだの食べかけのガムだの雑多なもの──。財布がないのはあの日ポケットに突っ込んで出かけたからか。
 もしあの紙があるなら書類ケースだろうか。中にはどこの国のものかわからない地図やデュエル大会のチラシらしきもの、レシート、ポストカードなどが入っていた。しかし寄せ書きはない。
「入ってないぞ!」
 大きな声で万丈目は言った。
「入ってるよ、お菓子の缶ケース!」
 缶ケースは確かにあった。もとは飴玉でも入っていたのだろう、デュエルモンスターズのカードくらいの大きさの缶──子供向けにデフォルメされたおジャマ・イエローが描かれている。それを開けると、きちんと畳まれた紙が入っていた。開けば見覚えあるメッセージ。
「……は、こんなものをいつまでも」
 馬鹿にしてやりたかったのに、出てきた声は湿っぽかった。いつでも来い、デュエルしてやる──その言葉に偽りはない。幽霊とだってデュエルしてやる。
 万丈目は紙をしまい、その缶を持って玄関に向かう。どうせ誰もいないのに何をやっているのだろう。
「万──じょう、め……」
 玄関ドアを開けると、幽霊は笑顔から驚きへ、そして悲しげな顔になった。幽霊の癖にパーカーを着て、フードを被っている。今は顎まで下ろしているがマスクもしていたらしく、一歩違えば不審者として通報でもされそうだ。
「……ごめん、一旦入るな」
 幽霊は玄関に入るとドアを閉めた。被っていたフードを取る。あの日と変わらない、なんなら卒業したときから変わらない、十代ティーンの顔。
「……本当に迷惑かけてごめん。眠れてるか?」
「眠れるか、たわけ。お前のせいでオレの人生はめちゃくちゃだ」
「……そうだよな。ごめん」
「謝るな! お前はいつもそれだ! お前の何が悪い!」
「うーん──今回は、油断してたこと? 心臓グッサリやられると動けねえ」
「当たり前だ!」
 ずっと怒りもわかなかったのに、この顔を見ると途端に怒りがわいてくる。だというのに、十代はへらへら笑った。
「……なあ、オレ腹減ってんだけどさ、なんか食っていい?」
「幽霊が飯を食うのか」
「幽霊も腹が減るんだよ」
 玄関でもコーヒーのいい香りは漂っている。そうだ、今から飯を食うはずだったのだ、と万丈目は思い出す。
「好きにしろ」
 そう言うと幽霊は笑った。幽霊のくせに足があって靴を脱いで揃えた。幽霊のくせに手を洗って、シンクの空いた猫缶を見て高級なもん食ってるなァと呟く。
「うまそうなもんいっぱいあるな」
 リビングのテーブルに箱のまま置いてある缶詰やレトルト食品を見て十代は声を弾ませる。
「今……パンとパテで軽食を取ろうと思ってな」
「オレももらっていい?」
「好きにしろと言ったろ」
 万丈目がそう言うと、十代は遠慮なく缶詰を取り、冷蔵庫からレタスを出した。
「あ、ちょっとしなびてる。ちゃんと野菜も食えよ」
 幽霊は生前と同じように慣れた様子でサンドイッチを用意していく。初めて料理する姿を見たときに驚いたら、小学生の頃から簡単なことならやっていたと言われたことを思い出す。
「最初は米炊くとか包丁や火を使わないことからな。米なんかは炊飯器で炊きたてのがうまいし。近所に料理教室あったから土日に通ってた。中学から弁当だったから夜にまとめて作って朝詰めて持ってったり」
 親が家にいないから──とは言わなかったが、察するものはあった。
「あんまり誰かに食べてもらう機会ってなかったからさ、食べてもらうのも嬉しいな」
 万丈目の家にいる間に料理係を進んでやる十代に嫌じゃないのか訊ねたらそんなことを言われた。そもそも料理教室に行ったのも、本当は両親に食べてほしかった──あるいは、一緒に食事をしたかったからなのかもしれない。
「両親は」
「え?」
「オレなんかのところに来ていいのか」
「幽霊が両親に会えるかよ」
 十代は苦笑いした。
 じゃあなんでオレに会いに来たんだ──そう聞きかけて、こいつは荷物を取りに来たのだと思い出す。寄せ書きの入った缶はまだ万丈目の手にあった。
「はい、どうぞ。コーヒーはオレがもらうな。すげークマだから寝た方がいいぜ」
 十代はそう言うと万丈目の前にサンドイッチとレタスサラダを載せたプレート、ホットミルクを入れたマグカップを置いた。
 十代はいただきます、と言ってサンドイッチをかじる。途端に目が輝いた。
「うまっ! パテもパンもすげーうまい! これどうしたんだ? どっかスポンサー増えた?」
「兄者たちが持ってきた」
「へえ! ありがとうお兄さんたち」
「伝えておく」
「幽霊が礼を言ってたって?」
 そう言うとコーヒーを一口飲んだ。またうまいと言う。
「オレに会ったのは秘密にしといて」
「……ああ」
 今──万丈目の頭からは十代が死んだという事実が消えていた。これは幻覚か、夢か。サンドイッチの味はしっかりしている気がする。やわらかく香りのいいパンに、スパイスのきいたパテ。レタスがパテの脂を中和すると同時にしゃっきりとした食感を与えている。味だけでなく喉を通り胃の中に入っていく感触までやけにリアルだ。ホットミルクを飲めばほんのりとバニラの香りと砂糖の甘味があった。料理教室で習ったのか、十代はほんの少し香辛料を入れるような小技をきかせることがある。いかにも彼がやりそうだと──。
 都合のいい、甘い夢か。
 そんなことを思う。また十代の作ったものを食べたい。おいしそうに頬張る姿を、その笑顔をまた見たい──そんな願望。最後に見たのがあんな姿だったのがつらかったのだ。眠る度にアスファルトに流れる血や、振り下ろされるナイフがよみがえった。あんなに見たはずの笑顔が思い出せなかった。
「これからどうするんだ」
 皿が空になってから万丈目は訊ねた。
「適当にどっか行くよ。ファラオは……満足げに寝てやがる」
 十代はソファで丸まるファラオに目をやった。
「オレと来るよりここにいた方がいいかもな」
「……お前もここにいればいいだろ」
 万丈目はそう言った。どうせ夢なら言いたいことを言おう。十代は少しだけ目を見開いた。それから困ったように笑う。
「幽霊だぜ、オレ」
「だからなんだ。どうせここには雑魚どももいる。幽霊のひとりふたり増えたって構わん」
「……ありがとう」
 十代は少しだけ泣き出しそうな顔をしていた。
「でも迷惑」
「迷惑ならとっくにかけられてる! お前に出会った瞬間から、ずっとだ! オレが万丈目サンダーを名乗ったのもプロになったのもお前のせいだ! お前がいなかったら」
 今もあの家で万丈目の三男という重圧に苦しんでいただろうか。それとも、十代がいなくてもいずれ出奔していたのか? どちらにしても。
「ここにはいなかった。オレの人生はお前に塗り替えられて」
 ──ああちくしょう、今になって気がついてしまった。
「お前の人生を塗り替えたのはお前自身だよ。這い上がってきたのもプロになったのも万丈目が強いからだ」
「さん、だ!」
 そう言って睨むとサンダー、と笑う。あの頃から変わらない、向日葵みたいな笑顔。認めたくなかっただけで、きっとずっと惹かれていた。
 十代の笑顔がぐにゃりと歪んだ。万丈目の目からは涙があふれていた。
「……今さら気づきたくなかった」
 こんなに好きだったなんて。
「……幽霊なんかになりやがって。お前は迷惑千万だ。でも迷惑だからなんだっていうんだ? オレはもっとお前と話したかったし、デュエルしたかったし、コーヒーだって飲みたかった。そうだ、万年筆の店だってまだ行けてないだろ。見たかったんじゃないのか」
 あの日、万丈目はあの商店街の万年筆の店に行く予定だった。十代は万年筆なんて使ったことがないと興味を持っていた。でも、道すがら彼は殺された。
 もう二度と話すこともデュエルすることもコーヒーを飲むことも一緒に出かけることもできない。
「幽霊でもいいから」
 もう一度会いたい。そばにいてほしい。そんな願望が見せたほんのりとだけ甘い夢だ。どうせならもっと楽しい夢を見せろと自分の脳に文句を言う。もっと顔を見たいのに涙が止まらない。話したいことがあるはずなのに。ただの夢なのに顔を伏せて泣くことしかできないなんて。
「万丈目」
 近い場所で声が聞こえた。まだ顔を上げられない。子供のように泣いている。
「……本当に幽霊でもここにいてもいい?」
 遠慮がちに訊ねられたそれにただ頷く。背中にあたたかいものがのしかかった。胸に腕が回された気がする。
「ありがとう、万丈目」
 耳元でささやかれる。ああくそ、こんな願望があったなんて。恥ずかしすぎて情けなくて死にたい気分だった。
 幽霊の前でそれを思うのは不謹慎だと頭の隅で思った。

 目が覚めると真っ暗な寝室にいた。どこから夢だったのだろうと思う。背中があたたかい気がしたが、ファラオがベッドにもぐり込んでいるのだろう。万丈目は明かりをつけずに部屋を出てトイレへ向かった。
 風呂に入っていないことに気がついて、ついでにシャワーを浴びた。鏡に映った顔はひどいものだったが、クマは少し薄くなった気がする。夢見がいいのか悪いのか微妙なところだが、眠れたのは久しぶりだった。
 リビングの明かりをつけた。十代の荷物はあの日から変わらずソファの横に置いてある。ローテーブルに中身を散らかしてもいない。果たしてあの鞄の中には、夢で見た寄せ書きを入れた缶は入っているのだろうか。おジャマ・イエローの缶だなんて、地味な願望もあったものだと思う。十代ならハネクリボーだろう。
 ──ハネクリボーか。
 十代の精霊たちはどうしたのだろう。ハネクリボー、ネオス、ネオスペーシアンたち、そしてユベルは。
 遺体や遺品は遺族──彼の両親の元へ行ったのだろう。思えば、あの鞄も遺族に返すべきなのだ。そういえば葬式はどうした? もう終わってしまったのか。いや。
 そもそも殺人事件だ。遺体や遺品は警察に回収され解剖されたり証拠品として保管されたりしているのか? 犯人は誰で動機はなんだったのだろう。何もわからない。あの日からテレビもつけていないしネットニュースも見ていない。巻き込まれたのに万丈目は何もわからなかった。マスコミの取材を断るよう連絡したマネージャーからこちらに任せて無理に報道など見ずにゆっくり休むように言われたのもあるかもしれない。なんにせよそんなものを見る気力はなかった。
 心配して連絡をくれた友人たちにもろくに返事をしていない。みんな大方は今は無理をせず話したければ連絡をくれという内容の連絡だった。その言葉に甘えて何も連絡していなかった。今は夜中だが、朝になったら少しずつ返事をしていこうと思う。
 万丈目はミルクを温めて砂糖とバニラエッセンスを少し入れた。夢で見たものを味わいたいと思った。あんな夢を見たのは、十代の死を受け入れようという心の動きなのかもしれない。また話したいとか一緒に食事をしたいとか、そんな願望を「幽霊」が叶える。幽霊でもいいから一緒にいたいだなんて、そんな願望まで夢であらわになったのは恥ずかしいが。
 ありがとう、万丈目──。
 耳元でささやかれた声と背中のぬくもりがやけにリアルだったのが我ながら気色悪い妄想だ。死者に対して失礼だ。あの根無し草はそんなもの承諾しないだろうし、あいつはどこへでも自由に行くべきなのだ。世界中のどこでも異世界でも死後の世界でも。
 そうだ。今ごろはセブンスターズだったアビドス三世のところにいるのかもしれない。あのとき約束した百年よりもずいぶん早くなってしまったが、きっと楽しくデュエルしていることだろう。
 一緒に行こうと万丈目も誘われた。あのときは断ってしまったが、今なら死んだあとに会えたらいいのにと思う。我ながら都合がいい。
 口にしたホットミルクは、夢とそっくりの味がした。

 翌朝、頭はやけにすっきりとしていた。よく眠ったからだろう。ベッドではファラオが丸くなっていた。今日は食欲より睡眠欲が勝っているらしい。
 万丈目は携帯端末をチェックする。兄から今日も食材を届けようかという連絡が届いていた。万丈目は気遣いの礼と気分がいいので今日は自分で買い物に行きたいという旨を返信した。
 キッチンで湯を沸かし、コーヒーを淹れる。まだ新しい豆を買うには早いか。今日はどこへ買い物に行こう。あの商店街は気に入りだが、ほとぼりが冷めるまでは近づかない方がいいだろう。
「おはよう、いー匂いだな。オレの分も入れてくれよ」
 背後から聞こえるはずのない声がした。振り向く。万丈目のスウェットの部屋着を勝手に着て(しかも今度下ろそうと思っていた新品のやつだ)、濡れた髪を拭いている幽霊がいた。
「……なんでお前がここにいるんだ?」
「昨日幽霊でもいいから一緒にいたいって言ったじゃん」
 けろりと十代は言った。まだ夢を見ているのか。万丈目は十代に近づいて、湿っぽい頬を引っ張った。冷えた指先に頬の熱がしみ入るような気がした。
「痛いって。悪かった、でも着るもんなくて」
 幽霊は万丈目がスウェットを着たことに怒っていると思ったらしい。
「……なんであたたかくて痛がるんだ」
「なんでって言われても……生きてるから?」
「生きてるから!?」
 万丈目が驚くと十代は目をぱちくりとさせた。
「死んだ──だろう」
「死んじまったなあ。あんな通りで刺されてすぐ警察来ちゃって、動画も撮られてすぐネットに上げられちまったし。もう死んだことにするしかねえ」
「……は?」
「ん?」
 十代は万丈目を不思議そうに見つめる。
「……もしかして本当に死んだと思ってた? 先生から何も聞いてない?」
「先生?」
「大徳寺先生」
 懐かしい名前だ。だが。
「死んだだろ──十年は前に」
「死んだけどさ、幽霊がいるじゃん」
「はあ?」
 十代はちょっと待って、と言うと寝室からファラオを連れてきた。
「ファラオ。ちょっと大徳寺先生出してくれよ。あとでおやつやるから」
 そう言ってファラオの背中を軽く叩く。ファラオが口を開けると、ふわりと金色の光が出てきた。
「ふあ~……先生まだ眠いのにゃ……」
 金色の光は聞き覚えのある声でそう言った。
「だ──大徳寺先生?」
 金色の光は半透明な人間の姿になった。
「おや、万丈目くん。ご無沙汰していましたニャア」
 大徳寺は相変わらずの糸目で微笑んだ。
「な、んで」
「ファラオに食べられて、成仏するタイミングを逃しちゃったんだニャ~」
 戸惑う万丈目に大徳寺はふわふわと笑う。
「先生、てっきり万丈目にいろいろ話してると思ったのに」
「そう言われても……わたしには十代くんがなかなか帰ってこないことしかわからなかったからニャア」
「ああ、そっか。ごめん先生」
「じゃあ、わたしは寝ますからニャ~。あとはお二人で」
 大徳寺はそう言うとまた金色の光になり、ファラオに飲み込まれた。ファラオは十代の腕の中から飛び降りて寝室に戻っていく。
「ごめん、先に言ってなくて。オレ死なないんだ」
 さらりと十代は言った。
「……は?」
「死なないしたぶん老けない。何があってもこのかたちに修復されるんだと思う。ほら」
 十代はスウェットの上を引き上げた。心臓が跳ねて万丈目はめくられたそれをすぐに引き下ろす。
「馬鹿者! そんなものを見せるな!」
 一瞬見えた肌にナイフの跡など微塵もなかった。傷が治ったにしても早すぎる。万丈目が見たあの光景は現実のはずだ──。
「悪かったって。でも見た方が早いだろ」
「昨日幽霊だって言ったのは」
「幽霊って言い出したの万丈目じゃん。オレてっきり皮肉で言われてんだと……ああ、じゃあ──」
 十代の顔から表情が消えた。
「オレ、勘違いしてた」
 呟く。それから笑顔になった。
「万丈目って行き場のない精霊にやさしいもんなあ。ここにいろって言ってくれたの、本当に嬉しかったぜ。荷物持ったらすぐ出てくよ。あ、でも飯は食わせてくれ。コーヒーも!」
 十代は早口で、不自然なくらい明るい声で言った。
「……出ていけなんて言ってない」
「でも、迷惑──」
 昨日と同じ台詞を言いそうな十代の胸ぐらをつかんだ。
「迷惑なのは最初からだと言ってるだろうが! お前は台風みたいにはた迷惑で、オレの人生を変えちまったんだ! でもオレはそれに感謝してる、そんなことお前に一生言いたくなかったが!」
 怒りながら感謝していると言うのもおかしな話だ。でもこいつには言わなければ伝わらないのだと万丈目は思う。
「お前なんか迷惑だとも、でもそれがもうオレの人生の欠かせないものになっちまったんだ! 幽霊でもいていいんだから、生きててもいていいに決まってるだろ!」
 十代は目を丸くして万丈目を見つめている。一気にまくし立てて少し冷静になった万丈目は胸ぐらをつかんでいた手を離す。
「……だが、どうするかはお前の自由だ。旅をしたいならすればいい。行き場がないというなら──いや、行き場があろうがなかろうが、お前がいたいと思うならここにいればいい」
 十代は、昨日みたいに泣きそうな顔になった。そう──昨日のことが現実だったなら、あれは万丈目の妄想ではないのだ。背中から抱きしめられて、耳元にささやかれたのは。
「ありがとう、万丈目──」
 やはり昨日と同じ言葉を言って、十代は目を潤ませたまま笑った。
「じゃ、朝飯食おうぜ! コーヒー淹れてくれよ!」
 先ほどの空元気とは違う、心からの笑顔で十代は言った。

「──そうだ、先生から何も聞いてないなら、一応話しておかなきゃな」
 そう言って十代は朝食をとりながら自分が殺された理由を話した。犯人は十代が日本に戻る前にアメリカで摘発された、精霊やレアカードの窃盗や違法売買組織の一員だったらしい。十代が警察に協力しており、恨まれたようだった。
「犯人も精霊が見えて、精霊から居場所をたどられちまったみたいだ。精霊からたどられるなんて思ってなかったから、油断してた」
「……そんな危なっかしいもんに関わってたのか」
 ふらふらと根無し草をしていただけではないらしい。なにかはやっていると思ったが、てっきり困った精霊を助けるだとか暴れる精霊をやっつけるだとかのメルヘンチックなことをしていて、人間の警察に協力なんて世俗的なことをしていると思わなかった。
「オレだけじゃなくてヨハンも。オレの事件のあとすぐに保護して、でもヨハンの方には怪しいやつはいなかったみたいだ。精霊にとっちゃオレの方が目立つから見つけやすかったんだろうな」
「ヨハンも知ってるのか。お前が生きてること」
 十代は首を横に振った。
「いや。このまま言うつもりもない。オレが生きてるの知ってるのは、ペガサス会長と遊戯さんとインダストリアル・イリュージョン社の精霊研究室の何人か」
「インダストリアル・イリュージョン社──」
「ああ。卒業してからずっと世話になっててさ。頼まれて精霊の調査とかしてて、警察への協力も会長の紹介で。……だから、今会長すっごい責任感じてるみたいでさ、やばい金額を渡そうとしてきて困ってる」
「もらっておけ、そんなもの」
「もらえねえよ、新しい身分証とかも用意してくれたのにさ」
「……偽造したのか」
「いや、ホンモノ。ちゃんと正式なものだって会長が。オレ、向こうの警察に協力してただろ」
「証人保護プログラムってやつか」
「そうみたい。名前はジェイデン・ケントだって。いいだろ、スーパーマンみたいで」
 十代はにかっと笑った。
「単純なやつめ」
「まあもとからあと二十年くらいしたら新しい身分証作るつもりだったしな。オレの息子ってことにして、遊城十代二世とかにしてさ。そしたらもし知り合いに会っても老けない人間じゃなくてそっくりの息子になるだろ」
 そんな計画をしていたのか。死なないことも歳を取らないこともひた隠しにして。
 オレにも隠して、息子として振る舞うつもりだったのか──そう聞きたくなったが、言葉は喉から出なかった。
「……こんな早くに身分証変えることになるとは思わなかったけどさ、『遊城十代』が死んだことになったの、あんまり悪くはないのかもしれない。オレ、精霊売買の『商品』としてリストに載ってたんだ。結構高値で取引できるらしいぜ」
 お前を買う物好きなんかいるかと軽口を言ってやるべきなのだろう。だが学生時代にだって十代を買おうとした男はいたか──あれはデュエルの腕前を買いたいという話ではあったが。
「なんか三幻魔を操るとかどんな願いも叶える力があるとかって……なんでそうなったんだろうな」
「三幻魔はともかく、願いとは……」
「意味わかんねーよな。ランプの精かよって」
 十代は笑う。だが嘘でもそんな噂を流されては、つけ狙う連中もいたのだろう。どんな願いもとはいかないが、精霊を操る力、老いも死にもしない身体──利用価値はいくらでもあるだろう。
「……そういえば、刺されたとき警察とかどうやってごまかしたんだ? 死体もないのに……」
「ん? ユベルがちょっと……最初に来た警官に、もう死んでるって思ってもらって。で、布かけてもらってその下で研究室に連絡して、あとは会長がなんかやってくれたんだと思う。あのとき運ばれた先が海馬コーポレーションの病院でさ、たぶん会長から海馬さんに話通してくれたんじゃないかな。ああ、だから──オレが生きてること、海馬さんは知ってるのかも」
 海馬コーポレーションにもコネがあるようだ。どこにも属さない根なし草のようでいて、後ろ楯はしっかりとあったらしい。
「オレは死んだって報道されたし、もう狙われないと思う。けど……危ないと思ったら、何も言う暇なく消えるかも」
 そんときは探さないでくれよ、と十代は少し寂しそうに笑った。
「お前なんかわざわざ探すか。連絡先を教えろ。お前じゃなくてインダストリアル・イリュージョン社の精霊研究室とかいうところのだ。そことはずっと繋がってるんだろ」
「たぶん……」
 十代は怪訝そうにしながらも頷いた。
「お前がいない間に引っ越したりしてもそこに伝えておく。来たいときは来い」
 十代は目を瞬かせ、それから笑って頷いた。

 その日はショッピングモールへ出かけた。
 十代は、もうあの制服は着られないからと新しい服を探す。
「あれまた着れるのは五十年くらいあとかな」
「そんな後にまた着るつもりなのか? だいたい穴が空いてしまったんじゃないか」
「気に入ってるし、比喩じゃなくオレの一部だからな」
 十代はこっそりとあの制服は破れても勝手に戻るのだとささやいた。こいつはどれだけ常識はずれな存在なのだろうと思う。
 出かけるにあたって十代は髪と目を一瞬で黒く変えてみせた。心臓を刺されても蘇るのだから、髪と目の色を変えるなど彼にはちょっとした手品にすぎないのかもしれない。ジェイデン・ケントはクラーク・ケントよろしく黒縁眼鏡をかけた。身分証の顔写真も黒髪黒目黒縁眼鏡で用意されているらしい。ジェイデンはインダストリアル・イリュージョン社の日本支部で働いていることになっているそうだ。
 十代は赤ではない、グレーや茶や紺など、地味な色を選んで服を買った。なるべく目立たないようにしたいと言っていた。黒い服も試着していたが、
「黒はやっぱり万丈目の方が似合うな」
 と言って黒い服は買わなかった。外には赤を着れない代わりに赤いチェック柄のパジャマを買っていた。
 服を買い終えたあと、どうせしばらくいるなら十代用の茶碗や箸やマグカップを買うかと聞くと、なんで? と不思議そうにされた。
「……お前の家にはそういうものはなかったのか?」
「子供用のならあったけど、中学くらいからは全部揃いのやつ使ってた。まあ、家族で一緒に飯食うこと、少なかったけど。万丈目の家じゃそういうのあんの?」
「いや……」
 万丈目も、そういうものがあるという話を聞いただけなのだ。中等部の頃、同級生たちと何がきっかけだったか茶碗や箸の柄がなんだったかという話になって、一般家庭では一人ずつ違う柄の茶碗や箸やカップがあるのだと知った。説明しながら「一般家庭はそうするものだと思ったから」というのは、十代を「家族」のように扱おうとしていたことに思い至る。
 ──別に家族になりたいわけじゃないんだが。
 好きだと気づいてしまったが、十代とどうにかなりたいとは思わない。ここにいろという言葉にありがとうと言われたことは嬉しいが、縛りつけたいわけではない。たぶん風のように自由な十代が好きなのだ。
「ふーん……別にいらない。オレいつ出てくかわかんないし、余計なもん残っても仕方ないだろ」
 やはり根なし草は根を下ろす気はないようだった。納得するが少し寂しい気持ちもあった。
 昼食はフードコートで取ることにした。平日でもそれなりに混みあっていて、少し離れると十代のことを見失ってしまった。髪の色が変わっているのも一因だろう。
 不意に不安感に襲われた。全部が全部妄想で、やはり遊城十代はこの世にいないのではないかと。
 しばらくしたら十代は大盛りの焼きそばとたこ焼きをトレイに載せて戻ってきたのだが、それも幻覚ではないとどうしたら証明できるのだろう。そもそも本当は全部夢で、今は自宅のベッドで眠っているのかもしれない。
「あれだ、ナントカの夢」
「胡蝶の夢か?」
「それそれ」
 よく十代が荘子など知っていたなと思ってしまう。
「万丈目は難しいこと考えるよな。味がしたら現実じゃねーの? ほら」
 十代は万丈目の皿の隅にたこ焼きを置いた。ミートソーススパゲッティーとたこ焼きの取り合わせはまるで似合わない。
「ミートソースの皿に置くか普通」
「味混ざったらこれまでに食べたことない味じゃん。夢か現実か確かめるにはちょうどよくね?」
 たこ焼きのソースとミートソースの混ざった味がするだけだろう。想像しつつたこ焼きを口に入れた。
 香ばしい醤油と少しのミートソースの味がした。
「な? 夢じゃないだろ?」
 十代は伊達眼鏡の向こうの黒い瞳を細めた。
「ミートソースちょっとくれ」
 万丈目が頷くと十代は割り箸で器用にひき肉をつまんで口に運んだ。
「……結構トマト強め。肉多いな。オレが作るともっとケチャップ味。肉よりたまねぎ多いから甘いかも。万丈目はどんなミートソース作る?」
「……わざわざ作ったことがないな」
 スパゲッティを茹でても市販のインスタントソースで済ませることも多い。
「ふーん。焼きそばの味も確かめてみるか?」
「そっちはソースだろ」
「食べると違うかもしれないだろ」
 十代はまるでリバースカードの中身を問うような挑戦的な目をしていた。絶対にソース味だと思う。だがリバースカードが何かはめくるまでわからない。
 万丈目はフォークに焼きそばを巻きつけて口に運んだ。
「やっぱりソースじゃないか」
「食べたからわかったんじゃん。食べなかったら醤油味だったかもしれないぜ。ソース味だって甘口と辛口あるし」
 やや甘めのソースだったか。あまり香辛料は強くない。子供でも食べられそうだ。漠然と「ソース味」を想像したものと実際の味は違う──味がすれば現実だというのは単純そうで案外と馬鹿にできないのかもしれない。
「万丈目は難しく考えすぎだって」
「お前が考えなさすぎるんだ」
 そう言うと教師を悩ませ続けたドロップアウトボーイはあの頃と変わらない笑顔を見せた。
 食料品や石鹸や洗剤の類いを買って帰宅した。二人分のそれは普段の買い出しよりも重く、玄関で何気なく言われた「ただいま」という言葉にもう短期間の逗留ではないのだと思う。
 十代は和室へと買い出した服などを置きにいった。十代の実家には和室がないそうで、どの空き部屋を使うか訊ねたらそこを選んだ。
 偶然とはいえ一軒家を借りたばかりでよかったと思う。築五十年は経つらしい古い家だが、水回りはリフォームされている。いわゆる「普通の一軒家」のようなものに住んでみたいという好奇心から借りたものだ。一人で暮らすには部屋数が多く持て余していたが、今はそれが役に立っている。
 その日の夜、長兄の長作が様子を見に来た。長作から来訪の連絡があったときに十代に隠れておくかと聞いたが、こういうのは堂堂としている方がバレないんだと十代は長作に挨拶をした。事前に話を合わせ、アメリカで知り合った友人のジェイデンが仕事で日本にいる間に泊めることになったのだ、ということにしておいた。十代は長作にインダストリアル・イリュージョン社ではカード開発の仕事をしているのだとペラペラ嘘をついた。十代がこんなに流暢に嘘をつく姿を初めて見た気がする。長作はその肩書きにジェイデンを信用したのか、疑う様子はまったくなかった。ジェイデンはにこやかに世間話をし、昨日食べたパンと缶詰の礼を言った。遊城十代の話が出れば面識はないが残念だと悲しげにしてみせた。長作と十代は十年ほど前に顔を合わせたきりか。気づかないのも無理はないだろう。
 長作は少し元気が出たようでよかったと弟の回復を喜び帰っていった。万丈目は兄が何か気づかないかと気を揉んでいたのでほっとした。
「なんかさ、お兄さんと仲良くなってよかったなあ」
「は? ああ──まあ」
 長作が帰るなりそう言われ曖昧に頷く。十代の中では、自分と兄の関係が十年前で止まっているのだろう。思い返せば一番関係の悪い時期を見られてしまった気がする。
「あの頃よりは……今は普通の兄弟くらいの仲じゃないか、たぶん」
 ふうん、と頷いたが十代は少しわかりかねているようだった。そろそろ風呂に入るとバスルームへ消えてしまう。
 十代にきょうだいはいないのだったか。聞きたくなったが、家族関係があまりよくないだろうことは察しがついている。そういえば昨夜は遺品(本当は生きているのだが)を家族に返すべきかと考えていたのだった。十代の鞄はまだソファの横に起きっぱなしだ。持ち主の十代も触れていない──いや。
 ローテーブルにぶちまけた荷物を片付けたのは十代か。あの寄せ書きの入った缶も現実のものだろう。万丈目は十代に言われるまで寄せ書きのことなど半ば忘れていた。もう何年も前のことだ。でも十代にとっては死んでも取りに戻るほど大切なもの。
 オレもう誰にも会えないんだ、という悲しそうな声を思い出す。万丈目は十代の勘違いによって会うことができたが、本来なら「誰にも会えない」ひとりだったのだろう。もしそうなら、まだ自分はベッドであの日のことを繰り返し考えていたのかもしれない──。
「万丈目、風呂空いたぜ」
 考え事をしているうちにうたた寝をしていた。十代の声で目が覚める。十代はまた万丈目のスウェットを着て(買ったばかりのパジャマは洗濯機の中だ)、湯上がりでほんのり赤く染まる能天気な顔を見ると、悩むのが馬鹿らしくなるほどだ。
 入れ代わりで万丈目も風呂へと入った。湯に浸かると案外と疲れていたことを自覚する。思えば十代が生きていたと知ってまだ一日も経っていない。だというのに、誤解もあったが十代はここで暮らすことになり、兄にはジェイデン・ケントとして紹介することになり──寝てばかりいた昨日までと比べて急激に状況が変化している。疲れて当たり前なのだ。
 これだけ疲れているなら今日はよく眠れるだろう。そう思いながら寝室へ行くと、十代がファラオと共にベッドに丸まっていた。
「十代? どうした、具合でも悪いのか?」
「へ? 別になんともないけど」
 寝転がったまま目を開けて十代は答えた。顔色も悪くないし、声音も無理をしている風でもない。十代は普段勝手にひとの寝室に入るような真似はしない。大雑把な性格なようでいて、線引きはしっかりしている。だから具合でも悪いのかと思ったが。
「大丈夫ならいいんだが……なんでここにいる?」
「なんでって?」
 十代はきょとんとして万丈目を見返す。しばし沈黙が流れた。
「……あれ? ここで寝ない方がいい?」
「ここで寝たいのか?」
 言ってから、あの部屋に布団がなかったと思い出す。これまで泊まりに来たときはソファで寝ていたので忘れていた。もしや抗議の意味を込めてここで寝ていたのか。
「……すまん、布団がなかったな。わざとじゃないぞ、忘れてただけで」
「布団?」
 話が通じていない。
「あの部屋に布団なかっただろ」
「え? あー……そういや押し入れ空だったな。服入れたけど」
「ああ、衣装ケースみたいなものもいるな」
 今日は消耗品にしか気が回らなかった。十代がここに住むならまだ他にもいるものがある。和室にも机や座椅子などがいるだろう。
「そう気を遣わなくていいよ、本当にいつ出てくかわかんないし……てゆーか、オレここで寝るんだと思ってたんだけど……」
 違った? と十代は訊ねる。
「……は?」
「昨日ここで寝ろって万丈目が……」
 覚えていない──が、ということは気づかなかっただけで昨夜目が覚めたときも十代はいたのか。面倒で明かりをつけなかったから気づかなかった。
「寝ぼけてた? じゃなくて──あのときは幽霊だと思ってたのか」
 十代は今朝と同じように落胆した。昨日の自分はいろいろと取り返しのつかないことを口走ったようだった。
「わかった。ここで寝ろ」
「嫌じゃないのか?」
「別に、昨日も寝てたんだろ。猫が一匹増えたみたいなもんだ」
 そう──昨日と同じだ。昨日はファラオがベッドにいると思っていたが、たぶんファラオも十代もいたのだ。それでも別に問題は何も起きていないのだから、これからだって問題はない。使えるベッドの幅がやや減ったがそれだけのことだ。十代は小柄だからたいしたことはない。
 ただそれだけのことだ。
「……わかった。おやすみ」
 十代はそう言うと、腕に乗っているファラオを撫でて目を閉じた。
 明かりを消して万丈目もベッドに横になる。少し横に十代がいることを妙に意識してしまう。
 ──別になんの問題もない、ファラオが寝ているのと同じだ……。
 腹の底がひりつくような緊張感にそう言い聞かせる。第一、学生の頃はレッド寮で同じ部屋だったのだ。三段ベッドの一番上と下、縦の距離はあったが横の距離はないに等しい。横の距離としてはレッド寮の頃よりも今の方が離れているくらいだ。ファラオ一匹分以上しっかり空いている。
 そう、だから、なんの問題もない。
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