遊城十代が死んだ
ロマンのない結婚
馬鹿は死ななきゃ治らない、なんて言うがこいつの場合は死んでも治らないのだ。
アスファルトに流れていく赤い色に頭がくらくらして、鉄くさいにおいに吐き気がして、心臓は馬鹿みたいにバクバクと鳴っていた。それでも携帯電話を取り出し、しかるべき場所へと電話をかける。
「万丈目です。ジェイデンが交通事故に遭いました。場所は」
必要事項を伝えれば、電話の向こうの女性は頼もしくこちらで手配しますからお待ちくださいと告げ電話を切った。
「もう一回死ぬつもりか?」
諸諸の処理が済んで、病室のベッドに座る十代に万丈目は言った。
「……本当にごめん」
頭に包帯を巻いた顔で十代は謝った。謝られる筋合いはない。もし謝るとしたらタクシー運転手にか? 十代は道路に飛び出した子供を庇ってタクシーと衝突した。しかしそのおかげで子供は突き飛ばされた際のすり傷程度で済み、運転手も事故とはいえ子供を死なせずに済んだ。十代は「奇跡的な軽傷」で後遺症もなく一ヶ月程度で完治する「ことになっている」。もう既に完治して頭の包帯は飾りだ。
三年前もこのように処理されたのだろう、と万丈目は思う。あの場合、遊城十代は死亡したことになったが。
「またネットに写真上げられちゃったりした?」
「した。今のところお前の顔が映ったものは見てない」
「オレはいいけど」
「お前が映る方がよくないに決まってるだろうが」
「でも、また万丈目が悪く言われそうだし……」
十代は黒い瞳をやや潤ませていた。相当へこんでいるようだ。前回は完全に加害者が悪く、今回は子供を助けるためとはいえ。
「この万丈目サンダーがその程度でへこたれると思うのか」
「そうだけど……オレが嫌なのか。オレが悪いのに万丈目が悪く言われるのが嫌、だな」
「お前が悪いわけでも……ないと思うが」
というか、誰も悪くないのではないか。もちろん道路への飛び出しはよくないことだが、まだろくに物事の判断できそうにない子供だった。三、四歳だろうか。その子供は小さな精霊を追いかけていた。子供を後ろから追いかけていた母親は一歳くらいの下の子を抱きかかえて必死に止まるように叫んでいたが、精霊に目を奪われた子供には聞こえていないようだった。精霊が見えない母親にとって子供の動きは全くの想定外であったろうし、精霊は道路が危ないなどという判断はできない。不幸な偶然の重なり合わせだ。子供に精霊が見えなければ起きなかった──きっと十代はそう思いたくないだろうが。
万丈目の目に精霊が見えるようになったのは高校生になってからだ。あんな幼い時分から見えていれば、交通事故でなくても追いかけて転んだり階段から落ちたりなどの事故は起こしていたかもしれない。
「お前は子供の頃から見えるんだったか」
「ああ。何歳頃かはよく覚えてないけど……ユベルがオレのところに来たのは小学校に上がる前で──でもユベルは結構面倒見がよかったというか……ぼんやり歩くなとか暗くなる前に帰れとかは言われた……かな」
十代はやや歯切れ悪く答えた。幼い頃の記憶を操作された影響が残っているのかもしれない。
「よく車は気をつけろって言われて……それで……」
十代は包帯の巻かれた頭に手をやった。
「どうした? 痛むのか?」
十代は首を横に振った。
「オレも昔車に──」
「ひかれたのか?」
「……なんか思い出しそうだったんだけど……」
十代は両手でこめかみをおさえた。眉間にシワを寄せて目を閉じる。包帯も相まって痛がっているように見えてしまう。
「……無理に思い出さなくていいんじゃないのか?」
「んー……」
十代はしばし黙り込む。だめだ、と呟いて目を開けた。
「ユベルもやめとけって」
目を閉じていたのはユベルと会話していたらしい。
「やめとけ?」
「人間の下手な技術でいじられてるから記憶を探るのは危ないって」
下手な技術──か。当時は最先端技術だったろうが二十年ほど前の話だ。記憶操作など現在に一般化されてもいないし、倫理的な問題のみでなく技術的に不安定なのかもしれない。なんなら遊城一家は人体実験をしたい医師なり科学者なりに騙されていた可能性もあるのではないか?
「パンドラの箱だってユベルは言ってた。開けない方がいいって」
神話に出てくる厄災の入った箱だったか。底には希望が残ったともいうが、一般的には厄災をもたらすきっかけの比喩に使われる。
「パンドラの箱って何? って聞いたらキミたち人間の作った話だろって言われた」
「よくユベルが知ってたな」
「うん、ユベルも言ってからヨハンの知識だって」
そういえば翔に聞いた話、ユベルは一時ヨハンに取り憑いていたのだったか。
「なんにせよ、無理に思い出す必要もないんじゃないか」
「そうだな。思い出そうとして逆に記憶が消えたりしても困るし……」
「そんなことが──いや、そもそもどうやって記憶を消したんだ?」
「全然わかんない。そもそも記憶を消されたって話もずっと知らなかったし」
それはそうか。本人に説明するはずもない。
「じゃあ記憶がないことはなんと説明されていたんだ?」
「事故の後遺症って──ああ、だから」
それが嘘なのか、と十代は呟いた。
「車にひかれたと『思ってた』んだ。子供の頃、車ってなんか怖かったし……あ」
十代はわずかに目をみはる。何か思い出したようだった。
「どうした」
「……いや、親も大変だったろうなって思ってさ」
両親との何かを思い出したようだが、十代は特に説明はしなかった。あまりいい記憶ではなかったのかもしれない。
「両親といえば──ジェイデン・ケントに家族はいない、ということでよかったか?」
「うん。孤児院出身で引き取ったケント夫妻も亡くなったことになってる」
「なら……結婚しないか?」
十代は黒い瞳を丸くした。元の瞳がキャラメルならこっちは玉羊羮だ。高級なものではなく駄菓子のそれだ。
「……なんて?」
聞き間違いだと思ったのか十代は聞き返す。
「結婚だ」
「……なんで?」
「もしお前が意識不明で傷も治らなかったとき、治療の同意が誰もできないだろ」
「オレの傷なら勝手に治るけど」
「絶対にか? 何かで弱体化して医療が必要になることは絶対にないか?」
「……絶対かって言われると困るけど」
「それに、治るにしても今回は軽傷ということにできたが、三年前みたいなことが起きたらどうする」
「どうって……ジェイデン・ケントじゃない名前にする──かなあ?」
「ジェイデン・ケントじゃなくなったとき、お前はどこに行く」
「……どっかに、行く、けど……」
十代は万丈目から目をそらした。どうせいろいろと深くは考えていなかったのだろう。
「オレのところに二度と戻れないだろ。それなら」
葬式くらいさせてくれ。
畢竟、万丈目の望みはそれだった。万丈目の命より先に十代と別れるなら、葬式をしたい。
「……葬式がしたいから結婚したいの?」
「そうだ」
お前ってときどきわかんない、と十代は眉根を寄せた。
「だいぶ意味わかんねーけど……でも万丈目にとって意味があるなら協力はするよ。ただオレの今の身分証で結婚とかできるかよくわかんねーから一旦確認してからになるけど……」
「それでいい。結婚が無理なら養子縁組はできないかも聞いてくれ。親子でも葬式はできる」
「葬式への執念ちょっと怖いぜサンダー……」
若干引いているようだ。葬式を行うために結婚するなんておかしな話だし、親族でなくても葬式を行う方法がないわけではないかもしれない──そんな都合の悪いことは十代には言わないが。
何も葬式だけが目的ではない。婚姻でも養子縁組でも手続きしておけば万丈目の身に突然何かあっても十代が家を失うことはない。遺産も十代のものになる。──根なし草に家も金も必要ないかもしれないが。それでも突然家がなくなったり、長旅から帰ったら家がなかったなんてことにもならない。
「別にお前にメリットがないわけじゃないぞ。お前もオレの葬式ができる」
「オレはそんなに葬式にこだわりないけど……」
「死ぬ前段階の治療の同意とかもできる」
「そっちのが大事じゃね!?」
十代は目を見開いた。
「ていうか……さっきの意識不明でナントカって万丈目もじゃん! 葬式よりそっち先に言えよ!」
そんなことは一般常識の範囲だと思っていたが、十代は思わなかったらしい。自分自身は病院などに縁のない身だからだろう。
「結婚でも養子縁組みでもなんでもするぞ!」
なんにせよロマンの欠片もないプロポーズは成功したようだった。
◇◆◇
半ば勢いもあったとはいえ、万丈目と結婚することになった。
新聞やらなんやらに万丈目の「婚約者」が交通事故に遭ったと報道されていた。万丈目の所属先から相手は一般人だから取材は控えてくれという声明が出された。ネットのファンの目撃証言ではアメリカの俳優の誰だかの若い頃に似ていると書かれていた。調べてみるとすらりとした長身の白人男性で黒髪以外は似ても似つかなかった。
万丈目の家族から特に反対もなかったが、彼の父親からは遠回しに今後は関わるなと言われた。表面上はにこやかにしていたが、時代が時代ならば怒鳴り声で勘当でも言い渡されていたのかもしれない。二人の兄たちは存外に歓迎してくれて、どうやら彼らには「つらい時期の弟を支えた恩人」と思われているらしかった。恩人どころかその「つらい時期」をもたらした原因である。そんなことを言えるはずがなく、これからもよろしく頼むと言われて「はい」と答えるしかなかった。
非常に申し訳なく思ったが、万丈目の方はあっさりしたものだった。
「そんなもの、利用できるものは利用しておけ。その方がスムーズだ。だいたい騙す騙さないという話をするなら根本から騙してるだろうが」
まあ──そうなのだが。ジェイデン・ケントという人間は存在しない。遊城十代は生きてここにいるのに、ジェイデン・ケントが遊城十代殺害事件の影響で苦しんだ万丈目を支えたことになっている。
「……マッチポンプ?」
「それは違うと思うが」
万丈目は帰り道に買ったコーラのペットボトルを開けた。オレもアップルジュースを開ける。堅苦しい挨拶と食事会が終わり帰宅して、二人でソファに座りやっと人心地ついてきている。移動も合わせて数時間しか経っていないのに、丸一日休みなく闇のデュエルでもした気分だ。
「でもなんか、万丈目の負担がデカイよなあ。たくさん嘘つかなきゃいけなくて……」
オレが偽名を使う負担はオレよりも万丈目にかかっている気がする。オレの場合は単純に「遊城十代」を知る人間に会わずにいればいいだけだが、万丈目はそうはいかない。結婚なんかすればその負担は余計に増えるのだ。あのときは勢い余って結婚するなどと言ってしまったが、本当はよくなかったのではないか……。
「あのな、こっちは三年前からそんなものは織り込み済みだ。考えなしのお前と違ってオレは将来をきちんと考えてるんだ」
「きちんと将来を考えたのにオレを織り込んじゃったの?」
「なんだその言いぐさは。お前が言ったんだろうが、一緒にいたいとか一緒にいられて嬉しいとか」
「言ったけどさ」
万丈目はオレのことなんか好きじゃないと思ってたし──なんて言ったら怒られるだろう。そう思っていたから甘えていただなんて。
万丈目の言う通りオレは考えなしの馬鹿で、そばにいたいと思うだけで将来のことなんかちっとも考えていない。
「オレのこと織り込もうったって」
そんなもの誰かの都合ですぐ壊れちゃうじゃないか。オレがどんなにここにいたいと願っても。
「お前はそうやって先を考えるのを放棄するから馬鹿なんだ。学生の頃から変わらん。その馬鹿を人生に織り込んだオレも確かにどうかしてるが」
「……人生に織り込んじゃったんだ」
そんな風に言われると照れくさい。ふん、とふてくされたような顔で万丈目は目を逸らす。
「万丈目大好き」
「知ってる」
最近結構素直なのだ。以前そう言ったらいつまでも高校生みたいな意地をはってどうすると言われた。確かにもう三十も目前ではある。オレの身分証は五歳くらい誤魔化されているが。
今の身分証が二十三歳で、あと二十年くらいならそのまま使えるんだろうか。インダストリアル・イリュージョン社のツテで都度身分証は用意してもらえるらしい。万丈目はオレの葬式をしたがってるから取り換えるときに葬式をしてもいいのかもしれない。
「オレの葬式ってどんなのやるの?」
「普通にやる」
「火葬する?」
「たぶんな」
「オレの骨いる? 腕一本分くらい用意しようか?」
我ながらナイスアイデアだと思ったのに、万丈目はめちゃくちゃ嫌そうな顔をした。苦手な芸能人やデュエリストと共演しなきゃいけないときくらい嫌そうだ。
「いるわけないだろ、気色悪い。腕なんかどうしろというんだ」
「多すぎ? じゃあほら、左の薬指とか」
万丈目にもらった指輪のはまる左手を見せる。なんだかきれいでしゃれたやつだ。万丈目も揃いのものをつけている。
「いらん。そんな呪いのアイテムみたいなものをオレに渡そうとするな」
「呪いのアイテムとはなんだよ」
指輪はめてくれたときは宝物みたいに扱ってくれたじゃん、とか言うと怒るんだろうなあ。
「同じ墓に入れるぜ。骨だけだけど」
「それはお前が同じ墓に入りたいってことか?」
「あー……そうかも、うん」
万丈目が寂しくないかな、なんて思ったけど、本当はオレが寂しくってそうしたいのかもしれない。何回もデュエルした腕、宝物みたいに大切に触れてくれた薬指、そんな一部分を、オレが置いていきたかったのか。オレはひとつところに留まれないけど、骨だけなら置いていけるから。
「……なら」
万丈目はオレの左手を取った。あの日みたいにやさしい手つきだ。
「この指輪を同じ墓に入れてやる」
「指輪?」
「骨は気味悪くてかなわん」
「呪いのアイテムじゃないのに……」
「あのな、生きた人間から切断して取り出した骨だぞ。お前に猟奇的な趣味があるのは勝手だが、オレを巻き込むな」
「りょーきてき」
「猟奇的だ。お前がどうかは知らんが普通は生きた人間の指の骨をもらっても嬉しくない。お前はオレの骨をもらって嬉しいのか?」
「万丈目の骨はいらないけど」
「自分がいらないものを寄越そうとするな」
「いらないっていうか、万丈目の骨は取れないじゃん」
「お前の骨も同じだ」
「オレのは取れるよ」
「その猟奇的な発想をやめろ。想像させるな」
万丈目は本気で顔をしかめている。そういえば、万丈目は血が苦手なのだ。オレは自分の血ならずいぶん見慣れてしまったけど。
「お前の感覚がおかしいのは承知の上だが、身体の一部分を渡そうとするのはかなり常軌を逸してるぞ」
「そう? ……そうかもな」
確かに万丈目の指の骨はもらっても困る。万丈目の指がなくなるのも嫌だし。
「でも万丈目の葬式したいから結婚したいはりょーきてきじゃないの?」
「……猟奇的かもしれん」
万丈目の指がオレの薬指を撫でる。そこにはまった指輪は薄い金色で宝石も落ち着いた黄のような橙のような色合いだ。オレはなんとなく、万丈目が毎年庭に植えているひまわりを連想する。万丈目はひまわりが好きみたいで、毎年植えては世話をしている。夏には見たくなるらしい。万丈目の誕生日頃にちょうど咲くからだろうか。
「大丈夫、万丈目はたぶん常識的な方のりょーきてきだぜ」
「骨を寄越すのに比べたらな」
万丈目はようやく笑った。今指を触っていたのは、指輪を見てたんじゃなくて骨の感触を確かめていたのだろうか。欲しかったらあげるのに、なんて言うとまた顔をしかめられるんだろう。
「だから、せいぜい失くすなよ」
「何が?」
「指輪だ。オレの墓に入れてやる」
「ああ──」
やっぱり骨の方がいいなぁ。こっそり入れちゃおうかな。
「オレの墓に自分の骨を入れるような真似はするなよ」
「なんでわかったの?」
「お前みたいな馬鹿の考えはすぐわかる」
「わかっちゃうか~」
オレはあんまり万丈目の考えはわからない。最近は照れ隠しなら結構わかるようになった。だから骨は本気でいらないってこともわかる。
逆にオレが万丈目の墓から骨を持ってっちゃおうかなあなんて思ったら、それも読まれて釘を刺された。
「猟奇趣味に巻き込むなと言ってるだろ」
「はぁ~い」
「指輪は墓に入れてやるから」
宝物みたいにオレの左手を両手で包む。
「……それってオレに何も残らなくない?」
「残るものがほしいのか?」
「……まあ、オレはすぐ失くしちゃうな。だったら万丈目の墓に入れた方がいいか」
この指輪を自分の一部分みたいに大切にしていたら、オレの一部分を置いていくのと同じことになるのかな。万丈目が宝物みたいに触れてくれたこの手の代わりに。
いつかその日が来たときには。
「……オレたち死ぬことばっかり考えてる」
葬式がしたいとか、墓に何を入れるとか。
結婚ってもっとめでたいことじゃなかったっけ。今日はたくさんおめでとうと言われたのに。万丈目の父親からは表面的にしか言われてないけど。
「それが将来を考えるということだ。まあ普通はこれから暮らす家とか子供のこととか考えるんだろうが、オレたちは既に一緒に暮らしているしな」
子供──。
「そうだ、万丈目、オレが死んだらオレのこと息子ってことにしない? オレの次の身分証、万丈目十代とかで。で、次は孫ってことにしてさ。ひ孫までいけるかなァ。二十年くらいで世代交代として……」
面倒だから三十で計算して、五十で子供、七十で孫、九十でひ孫。百十でやしゃご──は難しいかもしれないけど。
こっちは本当にナイスアイデアだ──そう思ったのに万丈目は真面目な顔で何か考えている。
「……万丈目を名乗るのはやめておけ」
「なんで?」
「落し胤と思われて何かに巻き込まれても困る」
「おとしだねって何?」
万丈目はこいつ本当に馬鹿だなって顔をして「おとしだね」について説明した。要は「万丈目家」の血縁者と思われてほしくないようだ。
「養子でも相続の権利は発生するが相続放棄もできる。だが金銭目的の誘拐なんかは防ぎようがない。『万丈目』の血縁者と思われそうなことはやめた方がいい」
誘拐は──嫌だ。
「じゃ、名前違ったら息子や孫ってことにしてもいい?」
「オレが生きてる間だけな」
「うん」
子や孫なら治療の同意や葬式もできるだろう。万丈目に葬式の話をされたときは何を言ってるんだと思ったけれど、結局オレも葬式をやりたがっている。
なんだか全然ロマンチックじゃないけれど、それがオレたちらしい結婚なのかもしれなかった。
2025/02/01
馬鹿は死ななきゃ治らない、なんて言うがこいつの場合は死んでも治らないのだ。
アスファルトに流れていく赤い色に頭がくらくらして、鉄くさいにおいに吐き気がして、心臓は馬鹿みたいにバクバクと鳴っていた。それでも携帯電話を取り出し、しかるべき場所へと電話をかける。
「万丈目です。ジェイデンが交通事故に遭いました。場所は」
必要事項を伝えれば、電話の向こうの女性は頼もしくこちらで手配しますからお待ちくださいと告げ電話を切った。
「もう一回死ぬつもりか?」
諸諸の処理が済んで、病室のベッドに座る十代に万丈目は言った。
「……本当にごめん」
頭に包帯を巻いた顔で十代は謝った。謝られる筋合いはない。もし謝るとしたらタクシー運転手にか? 十代は道路に飛び出した子供を庇ってタクシーと衝突した。しかしそのおかげで子供は突き飛ばされた際のすり傷程度で済み、運転手も事故とはいえ子供を死なせずに済んだ。十代は「奇跡的な軽傷」で後遺症もなく一ヶ月程度で完治する「ことになっている」。もう既に完治して頭の包帯は飾りだ。
三年前もこのように処理されたのだろう、と万丈目は思う。あの場合、遊城十代は死亡したことになったが。
「またネットに写真上げられちゃったりした?」
「した。今のところお前の顔が映ったものは見てない」
「オレはいいけど」
「お前が映る方がよくないに決まってるだろうが」
「でも、また万丈目が悪く言われそうだし……」
十代は黒い瞳をやや潤ませていた。相当へこんでいるようだ。前回は完全に加害者が悪く、今回は子供を助けるためとはいえ。
「この万丈目サンダーがその程度でへこたれると思うのか」
「そうだけど……オレが嫌なのか。オレが悪いのに万丈目が悪く言われるのが嫌、だな」
「お前が悪いわけでも……ないと思うが」
というか、誰も悪くないのではないか。もちろん道路への飛び出しはよくないことだが、まだろくに物事の判断できそうにない子供だった。三、四歳だろうか。その子供は小さな精霊を追いかけていた。子供を後ろから追いかけていた母親は一歳くらいの下の子を抱きかかえて必死に止まるように叫んでいたが、精霊に目を奪われた子供には聞こえていないようだった。精霊が見えない母親にとって子供の動きは全くの想定外であったろうし、精霊は道路が危ないなどという判断はできない。不幸な偶然の重なり合わせだ。子供に精霊が見えなければ起きなかった──きっと十代はそう思いたくないだろうが。
万丈目の目に精霊が見えるようになったのは高校生になってからだ。あんな幼い時分から見えていれば、交通事故でなくても追いかけて転んだり階段から落ちたりなどの事故は起こしていたかもしれない。
「お前は子供の頃から見えるんだったか」
「ああ。何歳頃かはよく覚えてないけど……ユベルがオレのところに来たのは小学校に上がる前で──でもユベルは結構面倒見がよかったというか……ぼんやり歩くなとか暗くなる前に帰れとかは言われた……かな」
十代はやや歯切れ悪く答えた。幼い頃の記憶を操作された影響が残っているのかもしれない。
「よく車は気をつけろって言われて……それで……」
十代は包帯の巻かれた頭に手をやった。
「どうした? 痛むのか?」
十代は首を横に振った。
「オレも昔車に──」
「ひかれたのか?」
「……なんか思い出しそうだったんだけど……」
十代は両手でこめかみをおさえた。眉間にシワを寄せて目を閉じる。包帯も相まって痛がっているように見えてしまう。
「……無理に思い出さなくていいんじゃないのか?」
「んー……」
十代はしばし黙り込む。だめだ、と呟いて目を開けた。
「ユベルもやめとけって」
目を閉じていたのはユベルと会話していたらしい。
「やめとけ?」
「人間の下手な技術でいじられてるから記憶を探るのは危ないって」
下手な技術──か。当時は最先端技術だったろうが二十年ほど前の話だ。記憶操作など現在に一般化されてもいないし、倫理的な問題のみでなく技術的に不安定なのかもしれない。なんなら遊城一家は人体実験をしたい医師なり科学者なりに騙されていた可能性もあるのではないか?
「パンドラの箱だってユベルは言ってた。開けない方がいいって」
神話に出てくる厄災の入った箱だったか。底には希望が残ったともいうが、一般的には厄災をもたらすきっかけの比喩に使われる。
「パンドラの箱って何? って聞いたらキミたち人間の作った話だろって言われた」
「よくユベルが知ってたな」
「うん、ユベルも言ってからヨハンの知識だって」
そういえば翔に聞いた話、ユベルは一時ヨハンに取り憑いていたのだったか。
「なんにせよ、無理に思い出す必要もないんじゃないか」
「そうだな。思い出そうとして逆に記憶が消えたりしても困るし……」
「そんなことが──いや、そもそもどうやって記憶を消したんだ?」
「全然わかんない。そもそも記憶を消されたって話もずっと知らなかったし」
それはそうか。本人に説明するはずもない。
「じゃあ記憶がないことはなんと説明されていたんだ?」
「事故の後遺症って──ああ、だから」
それが嘘なのか、と十代は呟いた。
「車にひかれたと『思ってた』んだ。子供の頃、車ってなんか怖かったし……あ」
十代はわずかに目をみはる。何か思い出したようだった。
「どうした」
「……いや、親も大変だったろうなって思ってさ」
両親との何かを思い出したようだが、十代は特に説明はしなかった。あまりいい記憶ではなかったのかもしれない。
「両親といえば──ジェイデン・ケントに家族はいない、ということでよかったか?」
「うん。孤児院出身で引き取ったケント夫妻も亡くなったことになってる」
「なら……結婚しないか?」
十代は黒い瞳を丸くした。元の瞳がキャラメルならこっちは玉羊羮だ。高級なものではなく駄菓子のそれだ。
「……なんて?」
聞き間違いだと思ったのか十代は聞き返す。
「結婚だ」
「……なんで?」
「もしお前が意識不明で傷も治らなかったとき、治療の同意が誰もできないだろ」
「オレの傷なら勝手に治るけど」
「絶対にか? 何かで弱体化して医療が必要になることは絶対にないか?」
「……絶対かって言われると困るけど」
「それに、治るにしても今回は軽傷ということにできたが、三年前みたいなことが起きたらどうする」
「どうって……ジェイデン・ケントじゃない名前にする──かなあ?」
「ジェイデン・ケントじゃなくなったとき、お前はどこに行く」
「……どっかに、行く、けど……」
十代は万丈目から目をそらした。どうせいろいろと深くは考えていなかったのだろう。
「オレのところに二度と戻れないだろ。それなら」
葬式くらいさせてくれ。
畢竟、万丈目の望みはそれだった。万丈目の命より先に十代と別れるなら、葬式をしたい。
「……葬式がしたいから結婚したいの?」
「そうだ」
お前ってときどきわかんない、と十代は眉根を寄せた。
「だいぶ意味わかんねーけど……でも万丈目にとって意味があるなら協力はするよ。ただオレの今の身分証で結婚とかできるかよくわかんねーから一旦確認してからになるけど……」
「それでいい。結婚が無理なら養子縁組はできないかも聞いてくれ。親子でも葬式はできる」
「葬式への執念ちょっと怖いぜサンダー……」
若干引いているようだ。葬式を行うために結婚するなんておかしな話だし、親族でなくても葬式を行う方法がないわけではないかもしれない──そんな都合の悪いことは十代には言わないが。
何も葬式だけが目的ではない。婚姻でも養子縁組でも手続きしておけば万丈目の身に突然何かあっても十代が家を失うことはない。遺産も十代のものになる。──根なし草に家も金も必要ないかもしれないが。それでも突然家がなくなったり、長旅から帰ったら家がなかったなんてことにもならない。
「別にお前にメリットがないわけじゃないぞ。お前もオレの葬式ができる」
「オレはそんなに葬式にこだわりないけど……」
「死ぬ前段階の治療の同意とかもできる」
「そっちのが大事じゃね!?」
十代は目を見開いた。
「ていうか……さっきの意識不明でナントカって万丈目もじゃん! 葬式よりそっち先に言えよ!」
そんなことは一般常識の範囲だと思っていたが、十代は思わなかったらしい。自分自身は病院などに縁のない身だからだろう。
「結婚でも養子縁組みでもなんでもするぞ!」
なんにせよロマンの欠片もないプロポーズは成功したようだった。
◇◆◇
半ば勢いもあったとはいえ、万丈目と結婚することになった。
新聞やらなんやらに万丈目の「婚約者」が交通事故に遭ったと報道されていた。万丈目の所属先から相手は一般人だから取材は控えてくれという声明が出された。ネットのファンの目撃証言ではアメリカの俳優の誰だかの若い頃に似ていると書かれていた。調べてみるとすらりとした長身の白人男性で黒髪以外は似ても似つかなかった。
万丈目の家族から特に反対もなかったが、彼の父親からは遠回しに今後は関わるなと言われた。表面上はにこやかにしていたが、時代が時代ならば怒鳴り声で勘当でも言い渡されていたのかもしれない。二人の兄たちは存外に歓迎してくれて、どうやら彼らには「つらい時期の弟を支えた恩人」と思われているらしかった。恩人どころかその「つらい時期」をもたらした原因である。そんなことを言えるはずがなく、これからもよろしく頼むと言われて「はい」と答えるしかなかった。
非常に申し訳なく思ったが、万丈目の方はあっさりしたものだった。
「そんなもの、利用できるものは利用しておけ。その方がスムーズだ。だいたい騙す騙さないという話をするなら根本から騙してるだろうが」
まあ──そうなのだが。ジェイデン・ケントという人間は存在しない。遊城十代は生きてここにいるのに、ジェイデン・ケントが遊城十代殺害事件の影響で苦しんだ万丈目を支えたことになっている。
「……マッチポンプ?」
「それは違うと思うが」
万丈目は帰り道に買ったコーラのペットボトルを開けた。オレもアップルジュースを開ける。堅苦しい挨拶と食事会が終わり帰宅して、二人でソファに座りやっと人心地ついてきている。移動も合わせて数時間しか経っていないのに、丸一日休みなく闇のデュエルでもした気分だ。
「でもなんか、万丈目の負担がデカイよなあ。たくさん嘘つかなきゃいけなくて……」
オレが偽名を使う負担はオレよりも万丈目にかかっている気がする。オレの場合は単純に「遊城十代」を知る人間に会わずにいればいいだけだが、万丈目はそうはいかない。結婚なんかすればその負担は余計に増えるのだ。あのときは勢い余って結婚するなどと言ってしまったが、本当はよくなかったのではないか……。
「あのな、こっちは三年前からそんなものは織り込み済みだ。考えなしのお前と違ってオレは将来をきちんと考えてるんだ」
「きちんと将来を考えたのにオレを織り込んじゃったの?」
「なんだその言いぐさは。お前が言ったんだろうが、一緒にいたいとか一緒にいられて嬉しいとか」
「言ったけどさ」
万丈目はオレのことなんか好きじゃないと思ってたし──なんて言ったら怒られるだろう。そう思っていたから甘えていただなんて。
万丈目の言う通りオレは考えなしの馬鹿で、そばにいたいと思うだけで将来のことなんかちっとも考えていない。
「オレのこと織り込もうったって」
そんなもの誰かの都合ですぐ壊れちゃうじゃないか。オレがどんなにここにいたいと願っても。
「お前はそうやって先を考えるのを放棄するから馬鹿なんだ。学生の頃から変わらん。その馬鹿を人生に織り込んだオレも確かにどうかしてるが」
「……人生に織り込んじゃったんだ」
そんな風に言われると照れくさい。ふん、とふてくされたような顔で万丈目は目を逸らす。
「万丈目大好き」
「知ってる」
最近結構素直なのだ。以前そう言ったらいつまでも高校生みたいな意地をはってどうすると言われた。確かにもう三十も目前ではある。オレの身分証は五歳くらい誤魔化されているが。
今の身分証が二十三歳で、あと二十年くらいならそのまま使えるんだろうか。インダストリアル・イリュージョン社のツテで都度身分証は用意してもらえるらしい。万丈目はオレの葬式をしたがってるから取り換えるときに葬式をしてもいいのかもしれない。
「オレの葬式ってどんなのやるの?」
「普通にやる」
「火葬する?」
「たぶんな」
「オレの骨いる? 腕一本分くらい用意しようか?」
我ながらナイスアイデアだと思ったのに、万丈目はめちゃくちゃ嫌そうな顔をした。苦手な芸能人やデュエリストと共演しなきゃいけないときくらい嫌そうだ。
「いるわけないだろ、気色悪い。腕なんかどうしろというんだ」
「多すぎ? じゃあほら、左の薬指とか」
万丈目にもらった指輪のはまる左手を見せる。なんだかきれいでしゃれたやつだ。万丈目も揃いのものをつけている。
「いらん。そんな呪いのアイテムみたいなものをオレに渡そうとするな」
「呪いのアイテムとはなんだよ」
指輪はめてくれたときは宝物みたいに扱ってくれたじゃん、とか言うと怒るんだろうなあ。
「同じ墓に入れるぜ。骨だけだけど」
「それはお前が同じ墓に入りたいってことか?」
「あー……そうかも、うん」
万丈目が寂しくないかな、なんて思ったけど、本当はオレが寂しくってそうしたいのかもしれない。何回もデュエルした腕、宝物みたいに大切に触れてくれた薬指、そんな一部分を、オレが置いていきたかったのか。オレはひとつところに留まれないけど、骨だけなら置いていけるから。
「……なら」
万丈目はオレの左手を取った。あの日みたいにやさしい手つきだ。
「この指輪を同じ墓に入れてやる」
「指輪?」
「骨は気味悪くてかなわん」
「呪いのアイテムじゃないのに……」
「あのな、生きた人間から切断して取り出した骨だぞ。お前に猟奇的な趣味があるのは勝手だが、オレを巻き込むな」
「りょーきてき」
「猟奇的だ。お前がどうかは知らんが普通は生きた人間の指の骨をもらっても嬉しくない。お前はオレの骨をもらって嬉しいのか?」
「万丈目の骨はいらないけど」
「自分がいらないものを寄越そうとするな」
「いらないっていうか、万丈目の骨は取れないじゃん」
「お前の骨も同じだ」
「オレのは取れるよ」
「その猟奇的な発想をやめろ。想像させるな」
万丈目は本気で顔をしかめている。そういえば、万丈目は血が苦手なのだ。オレは自分の血ならずいぶん見慣れてしまったけど。
「お前の感覚がおかしいのは承知の上だが、身体の一部分を渡そうとするのはかなり常軌を逸してるぞ」
「そう? ……そうかもな」
確かに万丈目の指の骨はもらっても困る。万丈目の指がなくなるのも嫌だし。
「でも万丈目の葬式したいから結婚したいはりょーきてきじゃないの?」
「……猟奇的かもしれん」
万丈目の指がオレの薬指を撫でる。そこにはまった指輪は薄い金色で宝石も落ち着いた黄のような橙のような色合いだ。オレはなんとなく、万丈目が毎年庭に植えているひまわりを連想する。万丈目はひまわりが好きみたいで、毎年植えては世話をしている。夏には見たくなるらしい。万丈目の誕生日頃にちょうど咲くからだろうか。
「大丈夫、万丈目はたぶん常識的な方のりょーきてきだぜ」
「骨を寄越すのに比べたらな」
万丈目はようやく笑った。今指を触っていたのは、指輪を見てたんじゃなくて骨の感触を確かめていたのだろうか。欲しかったらあげるのに、なんて言うとまた顔をしかめられるんだろう。
「だから、せいぜい失くすなよ」
「何が?」
「指輪だ。オレの墓に入れてやる」
「ああ──」
やっぱり骨の方がいいなぁ。こっそり入れちゃおうかな。
「オレの墓に自分の骨を入れるような真似はするなよ」
「なんでわかったの?」
「お前みたいな馬鹿の考えはすぐわかる」
「わかっちゃうか~」
オレはあんまり万丈目の考えはわからない。最近は照れ隠しなら結構わかるようになった。だから骨は本気でいらないってこともわかる。
逆にオレが万丈目の墓から骨を持ってっちゃおうかなあなんて思ったら、それも読まれて釘を刺された。
「猟奇趣味に巻き込むなと言ってるだろ」
「はぁ~い」
「指輪は墓に入れてやるから」
宝物みたいにオレの左手を両手で包む。
「……それってオレに何も残らなくない?」
「残るものがほしいのか?」
「……まあ、オレはすぐ失くしちゃうな。だったら万丈目の墓に入れた方がいいか」
この指輪を自分の一部分みたいに大切にしていたら、オレの一部分を置いていくのと同じことになるのかな。万丈目が宝物みたいに触れてくれたこの手の代わりに。
いつかその日が来たときには。
「……オレたち死ぬことばっかり考えてる」
葬式がしたいとか、墓に何を入れるとか。
結婚ってもっとめでたいことじゃなかったっけ。今日はたくさんおめでとうと言われたのに。万丈目の父親からは表面的にしか言われてないけど。
「それが将来を考えるということだ。まあ普通はこれから暮らす家とか子供のこととか考えるんだろうが、オレたちは既に一緒に暮らしているしな」
子供──。
「そうだ、万丈目、オレが死んだらオレのこと息子ってことにしない? オレの次の身分証、万丈目十代とかで。で、次は孫ってことにしてさ。ひ孫までいけるかなァ。二十年くらいで世代交代として……」
面倒だから三十で計算して、五十で子供、七十で孫、九十でひ孫。百十でやしゃご──は難しいかもしれないけど。
こっちは本当にナイスアイデアだ──そう思ったのに万丈目は真面目な顔で何か考えている。
「……万丈目を名乗るのはやめておけ」
「なんで?」
「落し胤と思われて何かに巻き込まれても困る」
「おとしだねって何?」
万丈目はこいつ本当に馬鹿だなって顔をして「おとしだね」について説明した。要は「万丈目家」の血縁者と思われてほしくないようだ。
「養子でも相続の権利は発生するが相続放棄もできる。だが金銭目的の誘拐なんかは防ぎようがない。『万丈目』の血縁者と思われそうなことはやめた方がいい」
誘拐は──嫌だ。
「じゃ、名前違ったら息子や孫ってことにしてもいい?」
「オレが生きてる間だけな」
「うん」
子や孫なら治療の同意や葬式もできるだろう。万丈目に葬式の話をされたときは何を言ってるんだと思ったけれど、結局オレも葬式をやりたがっている。
なんだか全然ロマンチックじゃないけれど、それがオレたちらしい結婚なのかもしれなかった。
2025/02/01