夏虫の蛍火
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「…杏寿郎さん。」
「…澪か。…千寿郎は?」
「先ほどようやく泣き疲れて寝ました。」
「そうか。任せきりにしてすまなかったな。」
「いえ、皆さまはもうお帰りに…?」
「あぁ、」
今日で、お義母様の葬儀もすべてひと段落だ。
千寿郎は、まだお義母様が亡くなったことを理解できず、
毎日、毎夜、お義母様を捜し、恋しがって泣く。
お義父様は喪主こそ務められていたが、
その憔悴ぶりは誰の目にも明らかで
誰が話しかけても虚ろな目で反応が乏しく
弔問客の相手などは杏寿郎さんが一手に担っていた。
「お疲れなのでは…?もうお休みになってはいかがです?」
「うむ…そうだな。」
そう言いながら、杏寿郎さんはお義母様の部屋の前の縁側に腰かけ
庭を見つめたまま動こうとしない。
「風邪を、引いてしまいます…。」
持って来た上掛けを杏寿郎さんの肩にかけながら隣に座るが
杏寿郎さんは前を向いたまま、こちらを見ない。
だから私も、何も言わずにお庭を眺める。
お義母様はここ最近ずっと、お部屋の布団から飽きもせず
じっとこの庭を眺めていらっしゃった。
何かを考えられていらっしゃったのか、
庭の木々、池、緑、空、雲、風…それらの変化を元に
ご自分に残された時間を測っていらっしゃったのか…
時に、杏寿郎さんがお義父様や千寿郎と共に鍛錬をする様子を眺め、
変わらないもの、変わっていくもの、
すべてが尊いのだ、とでも言うように目を細めていた。
どのくらいの時間が経っただろうか。
ふいに隣の杏寿郎さんが、
聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で囁いた。
「…情けないな、俺は。」
庭に向けていた視線を隣の杏寿郎さんへと向けるが、
杏寿郎さんは未だに真っすぐ庭を見つめたままだ。
「これから、千寿郎も、澪も、俺が守らねばならぬと言うのに…。…っ!」
膝の上で握られていた、杏寿郎さんの拳の上からソッと手を重ねる。
「…何を言うんです。塩辛い味噌汁しかお作りになれないのに。」
だから一人で背負う必要なんてないんですよ、そういう意味を込めて
上から重ねるだけでなく、
鍛錬の成果であるまめだらけのその手を、きゅっと握る。
杏寿郎さんの隣で、同じように、前を見つめながら。
「それに…買い物の目利きだって杏寿郎さんには任せられませんよ。この前だって萎びた大根を普通の倍の値段でっ…、」
ぐいっ
「っ…あぁ、…そうだな…、…っ」
横から伸びてきた腕に抱きこまれ、
視界が炎色で染まる。
杏寿郎さんの身体が小刻みに揺れて、私の肩口が濡れる。
握っていない方の手を、杏寿郎さんの背中においてさすったら
…チリッチリーン…
目の前の炎色の髪が揺れるのと同時に、
風鈴が風に吹かれ物哀しく鳴った。
「…あ。」
風鈴の音に誘われて軒先を見上げると、
風鈴の周りを
ふわり、ふわり
と一匹の蛍が舞っている。
私の漏らした声を頼りに、杏寿郎さんもそちらを見上げ
柔らかな蛍火の色を見つめる。
「…珍しいですね、このような時季に。」
蛍の季節は初夏。
もうとうに時季は過ぎている。
だからこそ、舞うのはたった一匹。
たった一匹だけでふわり、ふわりと舞う。
「…母上だろうか。」
「そう…かも、しれませんね。」
二人並んで、蛍のゆく先を見守る。
小さな光は私と杏寿郎さんの周りを舞ってから、
スッと庭先へ飛び去って行った。
すると、…ふっと頭上から杏寿郎さんの息が漏れる。
見上げた先には、いつも通りの杏寿郎さんの笑顔があった。
「澪、ありがとう!君が居てくれて良かった!」
「私だってそう思ってますよ、杏寿郎さん。」
一人で悲しみに耐える必要はない。
どちらかが一方的に守り、頼り、支える必要もない。
私たちは、お互いに同じ方向を見ながら隣に立てば良い。
一緒に。この夏も。この先も。ずっと。
夏虫の蛍火