平和な日常~冬~5

「息子は元々パン屋が好きだった訳じゃない。 外で働くのが嫌で仕方なく手伝ってただけだからな。 技術がない訳じゃないが続かないかもしれん。」

少ししんみりとした空気の中で話をしていく坂本夫妻の妻と大山夫妻であるが、大山夫妻は寂しさと同時に複雑さも隠しきれてなかった。

大山夫妻の息子は坂本夫妻の妻も何度か会ったことがあるが少し人付き合いが苦手そうな青年に見えた。

個人経営の飲食業の大変さは坂本夫妻の妻も身に染みている。

味で勝負などと単純な世界ではないのだ。


「引退しても惜しまれてる坂本さんが羨ましいよ。」

最後に大山夫妻はそんな一言を残したが坂本夫妻の妻からすると、安易な励ましを言うわけにもいかずに何とも答えようがない一言であった。

この食が溢れてる時代に引退した老人の味を今一度振る舞う機会が与えられるほど惜しまれることは確かに幸せだろう。

年齢的に自ら経営し毎日営業するのは無理でも、伝統と経営という重荷から解放された今ならば純粋に料理だけを振る舞うならばまだまだ出来る。

そして坂本夫妻の妻が驚いたのは、麻帆良亭の伝統という重荷を降ろした夫が本当に変わったことか。

実は坂本夫妻の夫は前回の限定復活の後から定期的にキッチンに立つようになっていて、正月には息子夫婦や孫を招き料理を振る舞っている。

端から見るとそれは特別驚くことには見えないかも知れないが、引退して一度も包丁を握ることがなかった夫の変化に妻や息子は本当に驚いていた。

加えて驚いたのはそれだけではない。

坂本夫妻の夫は以前食べた横島のオムライスを何度か再現して夫妻で食べたことがある。

現役時代も料理や味を試行錯誤することはあったが、特定の人物の料理を再現しようとしたことはないのだ。

坂本夫妻の妻はあえて作る理由は聞かなかったが、試行錯誤しながら再現していく姿は最早伝統や引退に悩む夫ではなかった。


「あまり深く考えなくてもいいのかもしれませんよ。 私達も再びこんな機会が巡ってくるなど考えもしませんでしたから。」

少し悩んだ坂本夫妻の妻は自らのこの一年を振り返り大山夫妻に精一杯の言葉を伝えた。

先のことなど誰にも分からないが、必ずしも悲観することはない。

いつどんな巡り合わせがあるか分からないのだから。




「君、やっぱり上手いね。」

「今のウチじゃ一度に一人分しか作れへんしスピードも遅いんや。 その点藤井さんは凄いわ。」

一方厨房では相変わらず藤井が木乃香の技術に興味津々だった。

流石に調理が疎かになることは無くなったが、やはり木乃香の調理は目を見張る物があるらしい。


「いや、君にそれ以上上手くなられると僕の立場が……。」

木乃香は割りと単純に藤井も凄いと尊敬の眼差しを向けていたが、実際木乃香が明らかに劣ってるのは今のところ調理スピードくらいである。

元々料理は見た目以上に体力や腕力を使う仕事だが、非力な木乃香ではどうしても大人の男性のように一度に何人前かを纏めて作るなど出来ない。

従って藤井と比べても調理スピードは明らかに遅かったが、藤井からするとそこで追い付かれると完全に立場がないと本気で思っていた。

一つ一つの料理の完成度はほぼ同じなのだ。

しかも話を聞くと本格的に料理を学んで一年も過ぎてないという事実が、藤井に驚きというか信じられないほどの現実を突きつけている。

才能という意味では藤井も兄弟子などと比べてかんじたことがあるが、木乃香の場合はそんな生易しいものではなかった。

ただ藤井はその元凶が木乃香に比べると普通に見える横島だとはまだ気付いてないらしい。



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