一章
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「ぶぇっっっっくしっ!!」
ズズズっと鼻をすする。
もうこれを繰り返して何回目だろうか。学校から本丸に帰ってきて、しばらく書類とにらめっこしているが、作業は一向に進まない。
「……っえくし!!!」
ズズズ……。
「もーやだー!!」
1人、自分の鼻をすする音しかない執務室で悲しい声をあげた。
「何事ですか主!?」
シュタっと、ご自慢の機動力を生かして部屋の前に現れたのは長谷部さんだ。声をあげたと言っても、そんな大きな声で叫んだというわけではない。あんな声すらも聞き逃さないのか、それとも聞こえる距離に控えていたのか、どちらにせよ流石の長谷部さんだ。
「はい、主。ティッシュだよ」
それに続くようにして、小夜さんがティッシュの箱をいくつか抱えて持ってきてくれた。
「すぐになくなってしまうから、これいくつか貰ってきた」
「ありがとぉ……うぅ……」
持ってきてもらったティッシュに盛大に鼻水を放出する。人の前だとか気にしていられない。こっちはもう息を吸い続けていないと鼻水が即噴射の危機的状況にいたのだ。
「うぇええ……すっきりした……」
鼻の中のものをかみきって、ようやく落ち着いた。
「長谷部さん、せっかく来てくれたんですけど大丈夫です……。何事もありませんから……」
颯爽と現れてくれた長谷部さんには申し訳ないが、彼に頼むような仕事はない。ごめんね、と彼を追い返そうとするが、長谷部さんは下がらない。
「あの、主。お身体の調子がすぐれませんか……?少々元気がないように見えるのですが……」
心配してくれるのはありがたい。だが、彼にどうにか出来るものでもないのだ。
「うん、大丈夫。病気とかじゃないから……うぅ……べくしっ!!」
言ってるそばから盛大にくしゃみをして、また鼻の中がグズグズとしだす。
「はい、ティッシュ」
小夜さんが差し出してくれるティッシュをありがたく受け取って、また盛大に鼻をかむ。鼻が通るつかの間のすっきり感に、深く息を吸って吐く。
「もう無理だ……気分転換する……」
のそのそと立ち上がる私に小夜さんがティッシュ箱を持って着いてくる。何も言わずともこの働き、最高の近侍だ。
「あの、主。俺もお供しても……?」
それに、さらに長谷部さんまで着いてくるみたいだ。彼のことだからきっと今のこの私の状況が気になるのだろう。断る理由もないのでどうぞ、と承諾する。
気分転換、と言ってもこの症状がよくなるわけではない。ただ、集中できない書類仕事にイライラしてきたから、息抜きをしようというだけだ。
最近は随分と暖かくなってきた。いよいよ春がやってくるといった感じだ。本丸も、襖を開けて随分と空気の通りが良い。暖かい春の風がとても心地よい。
それだけで済むのなら、今は最高の季節のはずなのに。
「あっ、あるじさま!」
大広間越しに見える庭から短刀たちの声がする。手合わせなどを終えて、今はみんなで遊んでいたようだ。最初に気がついた今剣さんの声でみんなが思い思いに私を呼んでくれる。できることならば、極力外には出たくないのだが、ここまで呼ばれては出て行かざるをえない。それに、きっと今日1日浴びた分を考えれば、今少しくらい外に出たところでなにも変わらない気がする。
「どこかへお出かけでしたか?」
庭に面した縁側までやってきた私に、前田さんが尋ねる。おそらく小夜さんと長谷部さん、2人も付き従えて歩いていたせいだろう。
「ううん、何にもないよ……っぅえっくし!」
油断するとこれだ。もう何度目かわからないが鼻をかむ。まわりの油分を根こそぎティッシュに持って行かれているせいか、ヒリヒリと痛む。まるで私の気分に追い打ちをかけるかのようだ。
「主さん、気分でも悪いのか?」
「確かに、あんまし元気がないな……」
「薬研に診てもらった方がいいんじゃない?」
短刀たちの心配が、一振から始まりみんなに伝染していく。
「主、やはりどこか……?俺がお連れします」
そのままの勢いで私を抱えてしまいそうな長谷部さんを制して、短刀たちをなだめる。
「大丈夫だよ、これは……花粉症だから」
「花粉症……ですか?」
「うん。植物の花粉にやられてこうなってるの……どこかが悪いわけじゃないから、心配してくれてありがとうね」
とは言っても、これはこれでなかなかしんどい。最近一気に暖かくなったせいか、急に症状が出始めたのだ。それもかなり重症。
「それは、どうすれば治るんですか?」
薬、食生活など、改善する手段はいくらかあるだろう。でも根本から言ってしまえば、
「スギの木を切り尽くす……なんてね。無理だけど」
花粉に悩まされるものなら一度は考えたことがあるであろう突飛な発想だ。でも本当にそれができたならきっと空気は素晴らしく澄んだものになるのだろう。
「なるほど、わかりました」
チャキ、と刀を構えて臨戦大勢なのは長谷部さんだ。
「全て斬ればよろしいのですね」
「待って待って待って!」
そんなことできるわけがない、とわかっているからこその冗談。だが、それが通じない相手もいるみたいだ。止めなければきっと彼は山に入りスギを切り尽くすまで帰ってこないだろう。
「僕たち、なにかできることはないんですか?」
長谷部さんほどじゃないが、短刀たちもどうにかしてくれようという気持ちがあるようで、各々に何かできることはないかと相談を始める。私としてはその気持ちだけで十分ありがたい。それだけで、なんとかこの花粉を乗り切れそうな気すらする。気持ちだけだが。
「そうだ!僕、助っ人を呼んできます!」
何か思いついた様子の秋田さんがどこかへと急ぎ足でかけていく。他のみんなも心当たりはないのか首を傾げている。
「秋田のやつ、どこにいったんだ」
「さぁ?中に入って待ってよっか。ここよりも中の方が主さんもいいよね」
乱さんの気遣いで、みんなで大広間へと引き上げる。その間も話し合いは続いているようで、ああだこうだとお互いに意見を出し合っているようだ。
「やはり一度、薬研兄さんに診てもらうのがよさそうですね」
「うん。薬研なら主さんに合った薬を作れるかもしれないし」
最終的に、薬研さんに頼ることになりそうだ。出陣中の彼はまだ帰ってきていないので、秋田さんと薬研さんの帰りを待つことになる。
しばらく外の風に当たっていたからか、目までムズムズしてきた。何か異物感のある痒みに、ダメだとわかってはいても目を擦ってしまう。
「主、傷がつくよ」
小夜さんに腕を取られ止められる。
「赤くなってる……」
擦ったところがヒリヒリとして痛い。だが、依然痒みも治らない。
「主君!お待たせしました!」
タタタ、と走ってきたのは秋田さんだ。その手には『助っ人』を連れているはずだが、
「カカカカ!拙僧の力が必要と聞いたが何事であろうか」
連れてきたのは山伏さんだ。なぜ、その人選をしたのか謎は深い。
「お山のことなら山伏さんです!」
フンス!と得意げな顔をする秋田さんだが、そもそも山という時点で少しずれている気がする。木が生えているのは確かに山だが、それで山伏さんを呼ぶというのも何か違う気がする。山伏さんもこの様子じゃあ何も聞かずに来てくれたみたいだ。
「拙僧にできることであればなんなりと申し付けられるがよい!」
秋田さんが期待の目で私を見ている。つまり、早く山伏さんに言っちゃえ!とそういうことなんだろう。
「あー……えっと、花粉症、なんですけど」
それを聞いて首をかしげる山伏さん。これはわかっていないやつだ。せっかく来てくれたのに、なんだか申し訳なくなる。秋田さんも、私を思ってくれての行動だというのはよくわかるので、がっかりさせてしまうのは少々忍びない。
「主君、くしゃみがひどくて、お鼻も辛そうなんです!山伏さん、どうにかできませんか?」
秋田さんからのだめ押しの無茶振りだ。これに対して、山伏さんはなんと返すのか。
「なるほど、拙僧にはよくわからぬが……困ったときは修行である!主殿、山籠りの許可を……いや、山籠りに行こうぞ!」
「いや、山はダメです」
余計に花粉が飛んでいそうなところに行くなんて、本末転倒も良いところだ。それに、ちゃっかり自分が山籠りしたいのが見え見えだ。
「そうであるか……」
しゅんとしてしまった山伏さん。そんな大きな体でしょげられると、なんだか罪悪感がすごい。秋田さんまでもしょんぼりしてしまっている。
「で、でもありがとね。一生懸命考えてくれたの、嬉しかったよ」
その一言で顔を上げてパァっと綻ばせるものだから、まったく可愛いものだ。
「あ、第一部隊が帰ってきたみたい」
手元の端末が部隊の帰還を告げる。待っていた薬研さんの帰還だ。
「私、薬研さんのところに行ってきますね」
みんなにそう告げて、広間を出る。着いていこうかと申し出た小夜さんと長谷部さんにはティッシュだけもらって自由にしてもらう。ずっとティッシュを運ばせるのも、いくら近侍とはいえ、仕事の範疇に収まらないだろう。
とりあえず、帰ってきた部隊を迎えるべく、玄関に向かう。そこにはちょうど今帰ってきましたという様子の第一部隊の面々が揃っている。しかし、薬研さんの姿はない。
「みなさんおかえりなさい。えっと、薬研さんは……?」
「ただいま。あいつなら、先に部屋に戻ったと思うぞ。……!?おい、あんた。どうしたんだ」
こちらを振り返りながら言った山姥切さんが突然私の腕をつかんだ。引き寄せると顔を挟み込んでじっと見つめられる。突然のことに何事かと固まってしまう。
「何かあったのか……?赤く、潤んでいる」
そこまで言われて、彼が目のことを言っているのだとわかる。
何があったわけでもなく、ただ単に花粉にやられているだけなのだが、彼は本気で心配してくれているようでなんだか申し訳ない。
「いや、大丈夫。このことでちょっと薬研さんに相談があって……えぇぇぇぇ!?」
そこまで言って、なぜか体がふわりと宙に浮く。慣れない感覚に思わず声をあげてしまう。その原因は大倶利伽羅さんだった。彼が私の体を担ぎ上げたのだ。
突然のことに驚いたのは私だけではない。山姥切さんを始め、みんな何事かと構えている。鶴丸さんまで目を丸くして本気で驚いているのだから、これはなかなかの事態だ。
そんな周りの反応は意に介さず、大倶利伽羅さんは私を担いだまま歩き出す。
「ちょ、ちょっ!おろしてください!」
怖い。これが、意外に怖い。
人に抱きあげられたりすることもそうそうあることではないと思うが、こうやって米俵のように担ぎ上げられることはそれ以上に珍しいことではなかろうか。実際私は人生で初めての体験だ。
自分の意思に関係なく、それなりの高さで移動していくというのは、なかなかの怖さがある。それに、この体勢。鍛えられた彼のことだから落とすことはないと思うが、とても安定しているとは言い難い。どこに捕まれば良いのかもわからない手は空を切るだけだし、足も固定されず宙ぶらりんだ。
「おとなしくしていろ。傷を隠すなといったのはあんただ」
彼の言葉に頭には疑問符が浮かぶ。言葉少なな彼の言葉はどうも飲み込むのに時間がかかる。さっきの状況とあわせて考えて、つまり……
「あの、あの!ごめんなさいけど、私怪我はしてないです!本当に大丈夫なんです!」
私が以前に、大倶利伽羅さんに言ったことがあった。軽傷を負って帰ってきた彼は、それを名乗り出ることもせず、さらにはそのまま出陣しようとしたことがあった。そのときに、私は彼に「絶対に傷を隠すな」とかなりしつこく言ったのだ。彼はうんざりしたようにそれを聞いていて、了承してくれたのかは微妙だったがどうやらしっかり覚えていてくれたようだ。
だが、残念ながら今の私は怪我をしていないし、なんなら病気なわけでもない。本当に彼に隠し事なんかしていないのだ。
「いい、俺は勝手にする」
私の言葉に耳を傾ける気はないのか、信用がないのか、大倶利伽羅さんは無視してずんずん進んでいく。半ば私も諦めて、彼に運ばれるがままに身を任せる。
着いたのは刀剣たちの私室が並ぶ一角だ。その中の一室に一言「入るぞ」と声をかけて返事も待たずに戸を開けた。
「おぉ、大倶利伽羅……に、それは大将か?」
声の主、薬研さんが疑問系なのは、担がれた体勢的に、私は今彼の方にお尻を向けているからだろう。制服姿の今、中身が見えていないかが不安だ。
「患者だ」
ようやく肩から降ろされて、それだけ言うと大倶利伽羅さんはすぐに部屋を出て行った。なんの説明もなしに、担がれた私が現れた薬研さんは何が何だかわかっていない様子だ。
「なんだ、大将。怪我でもしたのか?」
患者、と言われて思いつくのはやっぱりそれだろう。そういうわけじゃない、と心の中で訂正するのはもう何回目だろう。
「いえ、でも患者なのは間違ってないかな」
「どこか悪いのか?」
少し心配そうな顔で薬研さんが私の顔色を覗き込む。
「病気というわけではないんですけど……あの、花粉症の薬とかってなんとかなったりしますか?」
「あはははっ、なるほどなぁ」
薬研さんに症状を相談して、薬を用意してくれることになった。
その中で、私は今日あったことを薬研さんに話す。ただの花粉症でなんだか大事になってしまった気がするのだが、彼は「まあいいじゃないか」と適当だ。
「でもまぁ、大倶利伽羅や山姥切にはちゃんと訂正しといた方がいいだろうなぁ」
あいつらは本気でどこか悪いんだと思い込んでそうだ、と薬研さんが笑う。
「他人事だと思ってますねー……」
「実際そうだしなぁ。でも、そんだけ心配されるってのはありがたい話じゃねえか。みんな大将のことが好きなんだな」
さらりと言った薬研さんの言葉がトン、と刺さる。あぁ、そうか。みんな私のことを思ってくれてるんだ。どうやって仲良くなればいいのかわからないと思っていた大倶利伽羅さんも、ここまで運んでくれたのはきっと、少なくとも私の身を案じてのことであっただろう。
「ふふっ、嬉しいね」
思わず笑みが溢れる。人に大事にしてもらえるというのは、こんなにも暖かくて嬉しいものなんだ。
「おっ、花粉症で苦しんでるかいがあるってもんか?」
「いや、それはないです」
この苦しみとは別問題だ。みんなの気持ちでこんなもの吹き飛ぶ、と言いたいのは山々だが、そうはいかないのが甘くない現実だ。
「はははっ、すまんすまん。なるべく早めに用意するから、ちっとばかし待ってくれ」
「お願いね」
早速用意に取り掛かってくれるという薬研さんにお願いをして、彼の部屋を後にする。ごそごそと薬の材料になるであろうものを広げていたが、ここは4人部屋ではなかっただろうか。同室の人たちは気にならないのか、と関係ない私が気にしてしまう。
彼らの部屋が並ぶ一角を抜けたところで、大倶利伽羅さんの姿を見つける。
「どうしたんですか、こんなところで」
「たまたま通っただけだ」
とはいうが、明らかに壁際にもたれかかって何かを待っているようだった。しかしそれを追求したところで彼が答えてくれるとは思えないので、そこはスルーすることにする。
「……もういいのか」
そう彼が言うのは、私のことだろう。私が、どこか悪いんじゃないかと思った大倶利伽羅さんは薬研さんのところへ連れて行ってくれたわけだが、彼にはちゃんと説明しなければいけない。
「ありがとうございました。おかげで問題は解決したんですけど……その本当に怪我とか病気とかじゃなくてですね……」
「花粉症……」
聞きなれない言葉を聞いた彼はそれを繰り返してつぶやくと、短くため息をついてそのまま背を向けて言ってしまう。まるでくだらないことに付き合ってしまったとでもいうように。
「……心配して損したな」
ぼそり、と言ったそれは小さな声だったが確かに私の耳に届いた。
心配、してくれていたんだ。
スタスタと歩いて行ってしまう大倶利伽羅さんの背中は角を曲がって見えなくなってしまったが、私はその見えなくなった彼に小さくお礼をいった。
「ありがとうございます……!」
そういえば、第一部隊のみんなは何が何だかわからないまま置いてきてしまっただろうから、彼らにもちゃんと説明しておかなければいけない。それに、私のためにといろいろ考えてくれた短刀たちにもきちんとお礼を言おう。
2019.3.25
ズズズっと鼻をすする。
もうこれを繰り返して何回目だろうか。学校から本丸に帰ってきて、しばらく書類とにらめっこしているが、作業は一向に進まない。
「……っえくし!!!」
ズズズ……。
「もーやだー!!」
1人、自分の鼻をすする音しかない執務室で悲しい声をあげた。
「何事ですか主!?」
シュタっと、ご自慢の機動力を生かして部屋の前に現れたのは長谷部さんだ。声をあげたと言っても、そんな大きな声で叫んだというわけではない。あんな声すらも聞き逃さないのか、それとも聞こえる距離に控えていたのか、どちらにせよ流石の長谷部さんだ。
「はい、主。ティッシュだよ」
それに続くようにして、小夜さんがティッシュの箱をいくつか抱えて持ってきてくれた。
「すぐになくなってしまうから、これいくつか貰ってきた」
「ありがとぉ……うぅ……」
持ってきてもらったティッシュに盛大に鼻水を放出する。人の前だとか気にしていられない。こっちはもう息を吸い続けていないと鼻水が即噴射の危機的状況にいたのだ。
「うぇええ……すっきりした……」
鼻の中のものをかみきって、ようやく落ち着いた。
「長谷部さん、せっかく来てくれたんですけど大丈夫です……。何事もありませんから……」
颯爽と現れてくれた長谷部さんには申し訳ないが、彼に頼むような仕事はない。ごめんね、と彼を追い返そうとするが、長谷部さんは下がらない。
「あの、主。お身体の調子がすぐれませんか……?少々元気がないように見えるのですが……」
心配してくれるのはありがたい。だが、彼にどうにか出来るものでもないのだ。
「うん、大丈夫。病気とかじゃないから……うぅ……べくしっ!!」
言ってるそばから盛大にくしゃみをして、また鼻の中がグズグズとしだす。
「はい、ティッシュ」
小夜さんが差し出してくれるティッシュをありがたく受け取って、また盛大に鼻をかむ。鼻が通るつかの間のすっきり感に、深く息を吸って吐く。
「もう無理だ……気分転換する……」
のそのそと立ち上がる私に小夜さんがティッシュ箱を持って着いてくる。何も言わずともこの働き、最高の近侍だ。
「あの、主。俺もお供しても……?」
それに、さらに長谷部さんまで着いてくるみたいだ。彼のことだからきっと今のこの私の状況が気になるのだろう。断る理由もないのでどうぞ、と承諾する。
気分転換、と言ってもこの症状がよくなるわけではない。ただ、集中できない書類仕事にイライラしてきたから、息抜きをしようというだけだ。
最近は随分と暖かくなってきた。いよいよ春がやってくるといった感じだ。本丸も、襖を開けて随分と空気の通りが良い。暖かい春の風がとても心地よい。
それだけで済むのなら、今は最高の季節のはずなのに。
「あっ、あるじさま!」
大広間越しに見える庭から短刀たちの声がする。手合わせなどを終えて、今はみんなで遊んでいたようだ。最初に気がついた今剣さんの声でみんなが思い思いに私を呼んでくれる。できることならば、極力外には出たくないのだが、ここまで呼ばれては出て行かざるをえない。それに、きっと今日1日浴びた分を考えれば、今少しくらい外に出たところでなにも変わらない気がする。
「どこかへお出かけでしたか?」
庭に面した縁側までやってきた私に、前田さんが尋ねる。おそらく小夜さんと長谷部さん、2人も付き従えて歩いていたせいだろう。
「ううん、何にもないよ……っぅえっくし!」
油断するとこれだ。もう何度目かわからないが鼻をかむ。まわりの油分を根こそぎティッシュに持って行かれているせいか、ヒリヒリと痛む。まるで私の気分に追い打ちをかけるかのようだ。
「主さん、気分でも悪いのか?」
「確かに、あんまし元気がないな……」
「薬研に診てもらった方がいいんじゃない?」
短刀たちの心配が、一振から始まりみんなに伝染していく。
「主、やはりどこか……?俺がお連れします」
そのままの勢いで私を抱えてしまいそうな長谷部さんを制して、短刀たちをなだめる。
「大丈夫だよ、これは……花粉症だから」
「花粉症……ですか?」
「うん。植物の花粉にやられてこうなってるの……どこかが悪いわけじゃないから、心配してくれてありがとうね」
とは言っても、これはこれでなかなかしんどい。最近一気に暖かくなったせいか、急に症状が出始めたのだ。それもかなり重症。
「それは、どうすれば治るんですか?」
薬、食生活など、改善する手段はいくらかあるだろう。でも根本から言ってしまえば、
「スギの木を切り尽くす……なんてね。無理だけど」
花粉に悩まされるものなら一度は考えたことがあるであろう突飛な発想だ。でも本当にそれができたならきっと空気は素晴らしく澄んだものになるのだろう。
「なるほど、わかりました」
チャキ、と刀を構えて臨戦大勢なのは長谷部さんだ。
「全て斬ればよろしいのですね」
「待って待って待って!」
そんなことできるわけがない、とわかっているからこその冗談。だが、それが通じない相手もいるみたいだ。止めなければきっと彼は山に入りスギを切り尽くすまで帰ってこないだろう。
「僕たち、なにかできることはないんですか?」
長谷部さんほどじゃないが、短刀たちもどうにかしてくれようという気持ちがあるようで、各々に何かできることはないかと相談を始める。私としてはその気持ちだけで十分ありがたい。それだけで、なんとかこの花粉を乗り切れそうな気すらする。気持ちだけだが。
「そうだ!僕、助っ人を呼んできます!」
何か思いついた様子の秋田さんがどこかへと急ぎ足でかけていく。他のみんなも心当たりはないのか首を傾げている。
「秋田のやつ、どこにいったんだ」
「さぁ?中に入って待ってよっか。ここよりも中の方が主さんもいいよね」
乱さんの気遣いで、みんなで大広間へと引き上げる。その間も話し合いは続いているようで、ああだこうだとお互いに意見を出し合っているようだ。
「やはり一度、薬研兄さんに診てもらうのがよさそうですね」
「うん。薬研なら主さんに合った薬を作れるかもしれないし」
最終的に、薬研さんに頼ることになりそうだ。出陣中の彼はまだ帰ってきていないので、秋田さんと薬研さんの帰りを待つことになる。
しばらく外の風に当たっていたからか、目までムズムズしてきた。何か異物感のある痒みに、ダメだとわかってはいても目を擦ってしまう。
「主、傷がつくよ」
小夜さんに腕を取られ止められる。
「赤くなってる……」
擦ったところがヒリヒリとして痛い。だが、依然痒みも治らない。
「主君!お待たせしました!」
タタタ、と走ってきたのは秋田さんだ。その手には『助っ人』を連れているはずだが、
「カカカカ!拙僧の力が必要と聞いたが何事であろうか」
連れてきたのは山伏さんだ。なぜ、その人選をしたのか謎は深い。
「お山のことなら山伏さんです!」
フンス!と得意げな顔をする秋田さんだが、そもそも山という時点で少しずれている気がする。木が生えているのは確かに山だが、それで山伏さんを呼ぶというのも何か違う気がする。山伏さんもこの様子じゃあ何も聞かずに来てくれたみたいだ。
「拙僧にできることであればなんなりと申し付けられるがよい!」
秋田さんが期待の目で私を見ている。つまり、早く山伏さんに言っちゃえ!とそういうことなんだろう。
「あー……えっと、花粉症、なんですけど」
それを聞いて首をかしげる山伏さん。これはわかっていないやつだ。せっかく来てくれたのに、なんだか申し訳なくなる。秋田さんも、私を思ってくれての行動だというのはよくわかるので、がっかりさせてしまうのは少々忍びない。
「主君、くしゃみがひどくて、お鼻も辛そうなんです!山伏さん、どうにかできませんか?」
秋田さんからのだめ押しの無茶振りだ。これに対して、山伏さんはなんと返すのか。
「なるほど、拙僧にはよくわからぬが……困ったときは修行である!主殿、山籠りの許可を……いや、山籠りに行こうぞ!」
「いや、山はダメです」
余計に花粉が飛んでいそうなところに行くなんて、本末転倒も良いところだ。それに、ちゃっかり自分が山籠りしたいのが見え見えだ。
「そうであるか……」
しゅんとしてしまった山伏さん。そんな大きな体でしょげられると、なんだか罪悪感がすごい。秋田さんまでもしょんぼりしてしまっている。
「で、でもありがとね。一生懸命考えてくれたの、嬉しかったよ」
その一言で顔を上げてパァっと綻ばせるものだから、まったく可愛いものだ。
「あ、第一部隊が帰ってきたみたい」
手元の端末が部隊の帰還を告げる。待っていた薬研さんの帰還だ。
「私、薬研さんのところに行ってきますね」
みんなにそう告げて、広間を出る。着いていこうかと申し出た小夜さんと長谷部さんにはティッシュだけもらって自由にしてもらう。ずっとティッシュを運ばせるのも、いくら近侍とはいえ、仕事の範疇に収まらないだろう。
とりあえず、帰ってきた部隊を迎えるべく、玄関に向かう。そこにはちょうど今帰ってきましたという様子の第一部隊の面々が揃っている。しかし、薬研さんの姿はない。
「みなさんおかえりなさい。えっと、薬研さんは……?」
「ただいま。あいつなら、先に部屋に戻ったと思うぞ。……!?おい、あんた。どうしたんだ」
こちらを振り返りながら言った山姥切さんが突然私の腕をつかんだ。引き寄せると顔を挟み込んでじっと見つめられる。突然のことに何事かと固まってしまう。
「何かあったのか……?赤く、潤んでいる」
そこまで言われて、彼が目のことを言っているのだとわかる。
何があったわけでもなく、ただ単に花粉にやられているだけなのだが、彼は本気で心配してくれているようでなんだか申し訳ない。
「いや、大丈夫。このことでちょっと薬研さんに相談があって……えぇぇぇぇ!?」
そこまで言って、なぜか体がふわりと宙に浮く。慣れない感覚に思わず声をあげてしまう。その原因は大倶利伽羅さんだった。彼が私の体を担ぎ上げたのだ。
突然のことに驚いたのは私だけではない。山姥切さんを始め、みんな何事かと構えている。鶴丸さんまで目を丸くして本気で驚いているのだから、これはなかなかの事態だ。
そんな周りの反応は意に介さず、大倶利伽羅さんは私を担いだまま歩き出す。
「ちょ、ちょっ!おろしてください!」
怖い。これが、意外に怖い。
人に抱きあげられたりすることもそうそうあることではないと思うが、こうやって米俵のように担ぎ上げられることはそれ以上に珍しいことではなかろうか。実際私は人生で初めての体験だ。
自分の意思に関係なく、それなりの高さで移動していくというのは、なかなかの怖さがある。それに、この体勢。鍛えられた彼のことだから落とすことはないと思うが、とても安定しているとは言い難い。どこに捕まれば良いのかもわからない手は空を切るだけだし、足も固定されず宙ぶらりんだ。
「おとなしくしていろ。傷を隠すなといったのはあんただ」
彼の言葉に頭には疑問符が浮かぶ。言葉少なな彼の言葉はどうも飲み込むのに時間がかかる。さっきの状況とあわせて考えて、つまり……
「あの、あの!ごめんなさいけど、私怪我はしてないです!本当に大丈夫なんです!」
私が以前に、大倶利伽羅さんに言ったことがあった。軽傷を負って帰ってきた彼は、それを名乗り出ることもせず、さらにはそのまま出陣しようとしたことがあった。そのときに、私は彼に「絶対に傷を隠すな」とかなりしつこく言ったのだ。彼はうんざりしたようにそれを聞いていて、了承してくれたのかは微妙だったがどうやらしっかり覚えていてくれたようだ。
だが、残念ながら今の私は怪我をしていないし、なんなら病気なわけでもない。本当に彼に隠し事なんかしていないのだ。
「いい、俺は勝手にする」
私の言葉に耳を傾ける気はないのか、信用がないのか、大倶利伽羅さんは無視してずんずん進んでいく。半ば私も諦めて、彼に運ばれるがままに身を任せる。
着いたのは刀剣たちの私室が並ぶ一角だ。その中の一室に一言「入るぞ」と声をかけて返事も待たずに戸を開けた。
「おぉ、大倶利伽羅……に、それは大将か?」
声の主、薬研さんが疑問系なのは、担がれた体勢的に、私は今彼の方にお尻を向けているからだろう。制服姿の今、中身が見えていないかが不安だ。
「患者だ」
ようやく肩から降ろされて、それだけ言うと大倶利伽羅さんはすぐに部屋を出て行った。なんの説明もなしに、担がれた私が現れた薬研さんは何が何だかわかっていない様子だ。
「なんだ、大将。怪我でもしたのか?」
患者、と言われて思いつくのはやっぱりそれだろう。そういうわけじゃない、と心の中で訂正するのはもう何回目だろう。
「いえ、でも患者なのは間違ってないかな」
「どこか悪いのか?」
少し心配そうな顔で薬研さんが私の顔色を覗き込む。
「病気というわけではないんですけど……あの、花粉症の薬とかってなんとかなったりしますか?」
「あはははっ、なるほどなぁ」
薬研さんに症状を相談して、薬を用意してくれることになった。
その中で、私は今日あったことを薬研さんに話す。ただの花粉症でなんだか大事になってしまった気がするのだが、彼は「まあいいじゃないか」と適当だ。
「でもまぁ、大倶利伽羅や山姥切にはちゃんと訂正しといた方がいいだろうなぁ」
あいつらは本気でどこか悪いんだと思い込んでそうだ、と薬研さんが笑う。
「他人事だと思ってますねー……」
「実際そうだしなぁ。でも、そんだけ心配されるってのはありがたい話じゃねえか。みんな大将のことが好きなんだな」
さらりと言った薬研さんの言葉がトン、と刺さる。あぁ、そうか。みんな私のことを思ってくれてるんだ。どうやって仲良くなればいいのかわからないと思っていた大倶利伽羅さんも、ここまで運んでくれたのはきっと、少なくとも私の身を案じてのことであっただろう。
「ふふっ、嬉しいね」
思わず笑みが溢れる。人に大事にしてもらえるというのは、こんなにも暖かくて嬉しいものなんだ。
「おっ、花粉症で苦しんでるかいがあるってもんか?」
「いや、それはないです」
この苦しみとは別問題だ。みんなの気持ちでこんなもの吹き飛ぶ、と言いたいのは山々だが、そうはいかないのが甘くない現実だ。
「はははっ、すまんすまん。なるべく早めに用意するから、ちっとばかし待ってくれ」
「お願いね」
早速用意に取り掛かってくれるという薬研さんにお願いをして、彼の部屋を後にする。ごそごそと薬の材料になるであろうものを広げていたが、ここは4人部屋ではなかっただろうか。同室の人たちは気にならないのか、と関係ない私が気にしてしまう。
彼らの部屋が並ぶ一角を抜けたところで、大倶利伽羅さんの姿を見つける。
「どうしたんですか、こんなところで」
「たまたま通っただけだ」
とはいうが、明らかに壁際にもたれかかって何かを待っているようだった。しかしそれを追求したところで彼が答えてくれるとは思えないので、そこはスルーすることにする。
「……もういいのか」
そう彼が言うのは、私のことだろう。私が、どこか悪いんじゃないかと思った大倶利伽羅さんは薬研さんのところへ連れて行ってくれたわけだが、彼にはちゃんと説明しなければいけない。
「ありがとうございました。おかげで問題は解決したんですけど……その本当に怪我とか病気とかじゃなくてですね……」
「花粉症……」
聞きなれない言葉を聞いた彼はそれを繰り返してつぶやくと、短くため息をついてそのまま背を向けて言ってしまう。まるでくだらないことに付き合ってしまったとでもいうように。
「……心配して損したな」
ぼそり、と言ったそれは小さな声だったが確かに私の耳に届いた。
心配、してくれていたんだ。
スタスタと歩いて行ってしまう大倶利伽羅さんの背中は角を曲がって見えなくなってしまったが、私はその見えなくなった彼に小さくお礼をいった。
「ありがとうございます……!」
そういえば、第一部隊のみんなは何が何だかわからないまま置いてきてしまっただろうから、彼らにもちゃんと説明しておかなければいけない。それに、私のためにといろいろ考えてくれた短刀たちにもきちんとお礼を言おう。
2019.3.25