主従ごっこ。
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「――寝たのか?」
帽子屋ファミリーのボスは書類に通していたはずの目を上げていた。視線の先のソファーでは、アリスがティーカップを口に運んでいる。
二人は、ブラッドの仕事に支障のない程度の他愛ない言葉のやりとりを続けていた。最初はお互いの視線が合わない状態で会話していたのだ。
それが今、ブラッドがアリスを注視するほどに気を引かれたのは、彼女がなにげなく話題にしたあることが原因だった。
カップを口から離したアリスは、ブラッドの視線を受け取り答えた。
「ええ、そう」
「同じベッドで一晩、か」
「ええ。……なによ、その目は」
ブラッドは肩を竦める仕草をしてみせ、軽く唇で笑みを形作った。
「君達の仲がそこまで進展していたとは、驚きだな」
「変な含みを持たせないでくれる?私と〇〇は友達…それ以前に同性なんだから」
アリスの話はついこの間。ハートの城にある一室、アリスの部屋で余所者二人が過ごしていたときのことだった。
夜の時間帯が来たので〇〇は時計塔に帰ることになった。その前は昼の時間帯だったがこれが短かったため、二人でいた時間はかなり少ない。アリスは物足りなさを感じた。
そこで思いついたのが泊まりという手段である。
引き止めたアリスの提案に〇〇は乗り気で頷き、どうせならと子供に返った気分で枕を並べたというわけだった。
アリスは流れでそのときのことを話したに過ぎなかったが、余所者達の仲睦まじさを聞かされたブラッドはつまらなさそうに言った。
「ふん…。同性とベッドを共にしてなにが楽しい」
「あら、女同士だから楽しいんじゃないの。男にはわからないのね」
その日あった出来事を思い出したのか、アリスは楽しそうにふふと笑って、
「試しにあなたもエリオットと寝る想像をしてみたら?」
「……わかりたくもないな。男と寝るなど欝陶しい上に気色悪い」
間を空けて一蹴したブラッドは眉間に皺を寄せて唸った。
アリスは「あなたならそうかもしれないわね」と顔を苦笑に変えて、隣に置いた紙袋に目をやった。ここに来る途中の店で見かけたクッキーが入っている。
衝動買いしてしまったのは、意外と甘いもの好きの女友達の笑顔が浮かんだから。帽子屋屋敷をお暇した後、持っていくつもりだ。
〇〇、喜んでくれるかしら。自然と緩むアリスの表情を、ブラッドは口を結んでじっと眺めていた。
「――アリスと?ああ、確かにやったな」
お泊り会、と〇〇の唇はその日をいかに楽しんだかを彷彿させる微笑を湛えた。
小さい頃は寝相が悪くてとても他人に見せられるものではなかったが、大人になるとおとなしく眠れるようになった、と思う。
隣に家族以外の存在があるのは、しかもそれがあのアリスだなんて不思議な心地がした。
横になってもすぐには眠たくならず、修学旅行の晩のようにしばらく二人でお喋りをしていた。
(アリスの生ネグリジェ姿、やっぱり可愛かったなー)
仕事の後の一杯、ブラッドの自室で紅茶を啜る〇〇の前のテーブルには、小皿が置かれている。
おすそ分けにと持ってきたクッキーを見た途端不機嫌になったブラッドに気づかないはずがない。
そしてこの話題だ。どうやらこちらが言うまでもなく、彼はこのお菓子がアリスからの贈り物だということを知っているらしい。
なにを思っているのか見当はつく。にやにやとつい感じのよろしくない笑みが浮かんでしまう。
「女同士で、多少慎みに欠ける場面も交えながら楽しんだよ」
「…そうか。そんなにいい夜なら私もぜひ混ぜてもらいたいものだな」
ちっとも心のこもらない声でそう言われても。
あたしがひと足お先にアリスとあれこれ楽しんだことが気に入らないんだろう。男の入っていけない領域にも踏み込めるのが同性の特権だ。
〇〇はテーブルにある皿をひょいと持ち上げ、ブラッドのデスクに近づいた。
「まあ拗ねないで。悪かったって、アリスを取っちゃって」
コトンと彼の前に置く。心配しなくても独り占めする気はない、クッキーもアリスも。
自分自身が直接触れ合うよりも、役持ちとアリスの絡みのほうがいっそう楽しめる。
碧眼は読めない色を宿して〇〇を射抜いていたが、やがて端整な顔は穏やかでない笑みに変わった。
「不公平だと思わないか。性別が同じだというだけで、君達は共有できる範囲が広がる」
「そう言われてみれば…そうかも?」
否定はできない。ならアナタも女になれば、という話でもないし。そもそもビバルディがいる時点で女キャラは事足りている。
彼の不満は永久に解決不可能だと言えた。しかしそこはそれ、現在の性別の利点を高く評価するしかないだろう。
「あたしは男も捨てたもんじゃないと思うけど」
「ほう…。たとえば?」
「そりゃ、男女でなきゃ成立しないこととか。個人的には、同性にこだわらなくてもいいかなとも思…」
ってこれじゃあ慰めにならない。不要な付け加えだったと口を噤む。だが、ブラッドにとってはその付加は重要ではなかったようだ。
「なるほど。男女間でのみ成立すること、か」
思わせぶりな視線を受けた〇〇は羞恥を感じることなく頷いた。事実を述べたに過ぎないからだ。
他人事として、というかブラッドとアリスに置き換えて考えているからでもある。
「そうそ、だからブラッドはおおいに有益なそっちを考えてればいいってわけ」
「わかった。そういうことなら、私はアリスと君が未経験のことをしよう」
うんうん、わかってくれたのか。ブラッドの嫉妬をうまく変換できたことに〇〇は満足した。
ひとつ話題を丸く収めたのだからそろそろ帰ろうか。帰宅を考える〇〇は真逆を始めようというブラッドの内心など知りもしない。
「こちらへおいで、〇〇」
手招きされ、首を傾げつつ従う。机を回り込んで傍に立つと「跪け」と命令された。当然拒否する。
「なんであたしが…」
「君が言い出したんじゃないか。有益なことをしろとね」
(――って、あたしとしても意味ないんですけど?)
納得いかない。ひょっとするとこれは憂さ晴らしか。アリスとお泊りしたことがよほど彼の機嫌を損ねたに違いない。
アリスに対する好意の反動だと思えば付き合う気がないでもなかった。
しかたなしに片膝を床につく。主に忠誠を誓う僕のごとく恭しく頭を垂れるが、
「そうじゃない。膝を立てるな」
「は?…じゃあ、こう?」
両膝をつけると、今度は両手を彼の膝に置くよう言われた。そうする。
椅子をこちらに向けて座り気だるげに机に肘をつく様は、まさにご主人様という感じだ。それならあたしは?
出来上がったポーズを再度見下ろして、妙な仕上がりになっていることに気づいた。これは――ご主人様の膝に甘えたように縋るメイド、的な。
「……」
「よく似合っているよ。メイド服でないのが少々残念ではあるが」
直感は的を射ていたらしい。やっぱりご主人様とメイドなのかよ。
腹いせか、はたまた予行練習か。後者はどうも違う。アリスとこんなプレイをするなんて、悪くはないが今ひとつ想像できない。
眉根を寄せて消化不良な顔をする〇〇の顎を、手袋に包まれた指が優しく撫でた。
「どうだ。お嬢さんとはこんなことはしないだろう?」
「やってたらそれこそ趣向がヤバイでしょーが」
「私と君ならなにもまずいことはない。ノーマルとは言い難いにしても…だ」
皿からクッキーをひとつ摘み上げ、〇〇の唇に押し当てる。渋々口を開いて受け入れると、ブラッドは喉を震わせて笑った。
「従順な君も悪くないな。…どこまでも服従させてみたくなる」
またひとつ放り込まれる。いつの間にか手袋を外した素手で。
咀嚼で広がる味は文句なしに美味しくて、断る意思を削いでしまう。とりあえず言葉を返した。
「従うだけの人間といたって面白くないよ、きっと。満たされるのは支配欲くらいじゃないの」
「そうだな…すぐに屈服されてはつまらない。堕とすまでの過程は長いほど、愉しい――そう思わないか?」
「ぅっ!?」
油断しきった〇〇の唇に指が捩じ込まれる。唐突の襲来に思わず涙ぐんで視界がぼやけた。
噛み砕いたクッキーの破片ごと掻き混ぜるように蠢く男の指。ぐちゅ、と唾液が口の中で音を立てた。
こんなことをされて従っていられるのは忠実なメイドか、哀れな奴隷か、さもなければ相手に恋情を抱く場合だ。
どれにも当て嵌まらない〇〇は咄嗟に引き剥がしにかかった。
「ううっ……ん、っ!」
「噛んだらもっと奥まで突っ込むぞ?それに類似する行為――私のしたいことを阻むのであれば、さらに過激な仕置きが待っている」
「! ぅ…」
なりきりか?ご主人様になりきっているのか?まさかこの男にそんな趣味があったとは知らなかった。
ごっこ遊びの延長で口に出すのも憚られるようなことをさせられては堪らない。
口に指を突っ込まれるくらいがなんだ、と〇〇は己に言い聞かせた。ブラッドの手首を掴んだ手は抵抗を一時やめた。
「っ……ぁうっ……」
喉に近いところを爪先で引っ掻かれてまた涙の膜が更新される。苦しむ〇〇を見下ろすブラッドは愉悦すら浮かべていた。
この男がサディストなら、〇〇の立場を喜べるのはマゾヒストだけだ。
舌を弄んでいた指が糸を引いて出ていき、ようやく満足に呼吸ができるようになった。
軽く噎せ、許しなんて待っていられるかとばかりに立ち上がる〇〇の顎を再び引き寄せたブラッドは、
「忘れ物だぞ、お嬢さん」
〇〇の濡れた口元を舐め取った。
「忘れ物っていうか…むしろ奪われた気分なんだけど、なんで…?」
手の甲で拭って一人呟く。とにかく、これだけ付き合えばもう十分だ。
アリスがされていると脳内変換でもすれば多少楽しめるゆとりもあっただろうに、そんな暇もなかった。
結局ブラッドにいいようにされただけの気がする。
釈然としない気持ちをどうにかしたくて、皿からクッキーをもう三つ掻っ攫う。残した最後のひとつは良心だ。
真っ直ぐに扉に向かう〇〇に、面白がるブラッドの声が飛んだ。
「文句ならアリスに言うといい。彼女のおかげで、君は私にそんな顔をさせられる羽目になったのだから――」
バタン。閉じた扉からさっさと離れて歩きながら、〇〇は顔を手で摩った。そんな顔とはどんな顔だ。
自分でわかるのは瞳の潤みと、いつもより高い気がする頬の温度だけ。
ブラッドが嫉妬の矢印を予想外の方向に向けていたのだと〇〇が気づいたのは、時計塔に帰ってからのことだった。
end。→あとがき
帽子屋ファミリーのボスは書類に通していたはずの目を上げていた。視線の先のソファーでは、アリスがティーカップを口に運んでいる。
二人は、ブラッドの仕事に支障のない程度の他愛ない言葉のやりとりを続けていた。最初はお互いの視線が合わない状態で会話していたのだ。
それが今、ブラッドがアリスを注視するほどに気を引かれたのは、彼女がなにげなく話題にしたあることが原因だった。
カップを口から離したアリスは、ブラッドの視線を受け取り答えた。
「ええ、そう」
「同じベッドで一晩、か」
「ええ。……なによ、その目は」
ブラッドは肩を竦める仕草をしてみせ、軽く唇で笑みを形作った。
「君達の仲がそこまで進展していたとは、驚きだな」
「変な含みを持たせないでくれる?私と〇〇は友達…それ以前に同性なんだから」
アリスの話はついこの間。ハートの城にある一室、アリスの部屋で余所者二人が過ごしていたときのことだった。
夜の時間帯が来たので〇〇は時計塔に帰ることになった。その前は昼の時間帯だったがこれが短かったため、二人でいた時間はかなり少ない。アリスは物足りなさを感じた。
そこで思いついたのが泊まりという手段である。
引き止めたアリスの提案に〇〇は乗り気で頷き、どうせならと子供に返った気分で枕を並べたというわけだった。
アリスは流れでそのときのことを話したに過ぎなかったが、余所者達の仲睦まじさを聞かされたブラッドはつまらなさそうに言った。
「ふん…。同性とベッドを共にしてなにが楽しい」
「あら、女同士だから楽しいんじゃないの。男にはわからないのね」
その日あった出来事を思い出したのか、アリスは楽しそうにふふと笑って、
「試しにあなたもエリオットと寝る想像をしてみたら?」
「……わかりたくもないな。男と寝るなど欝陶しい上に気色悪い」
間を空けて一蹴したブラッドは眉間に皺を寄せて唸った。
アリスは「あなたならそうかもしれないわね」と顔を苦笑に変えて、隣に置いた紙袋に目をやった。ここに来る途中の店で見かけたクッキーが入っている。
衝動買いしてしまったのは、意外と甘いもの好きの女友達の笑顔が浮かんだから。帽子屋屋敷をお暇した後、持っていくつもりだ。
〇〇、喜んでくれるかしら。自然と緩むアリスの表情を、ブラッドは口を結んでじっと眺めていた。
「――アリスと?ああ、確かにやったな」
お泊り会、と〇〇の唇はその日をいかに楽しんだかを彷彿させる微笑を湛えた。
小さい頃は寝相が悪くてとても他人に見せられるものではなかったが、大人になるとおとなしく眠れるようになった、と思う。
隣に家族以外の存在があるのは、しかもそれがあのアリスだなんて不思議な心地がした。
横になってもすぐには眠たくならず、修学旅行の晩のようにしばらく二人でお喋りをしていた。
(アリスの生ネグリジェ姿、やっぱり可愛かったなー)
仕事の後の一杯、ブラッドの自室で紅茶を啜る〇〇の前のテーブルには、小皿が置かれている。
おすそ分けにと持ってきたクッキーを見た途端不機嫌になったブラッドに気づかないはずがない。
そしてこの話題だ。どうやらこちらが言うまでもなく、彼はこのお菓子がアリスからの贈り物だということを知っているらしい。
なにを思っているのか見当はつく。にやにやとつい感じのよろしくない笑みが浮かんでしまう。
「女同士で、多少慎みに欠ける場面も交えながら楽しんだよ」
「…そうか。そんなにいい夜なら私もぜひ混ぜてもらいたいものだな」
ちっとも心のこもらない声でそう言われても。
あたしがひと足お先にアリスとあれこれ楽しんだことが気に入らないんだろう。男の入っていけない領域にも踏み込めるのが同性の特権だ。
〇〇はテーブルにある皿をひょいと持ち上げ、ブラッドのデスクに近づいた。
「まあ拗ねないで。悪かったって、アリスを取っちゃって」
コトンと彼の前に置く。心配しなくても独り占めする気はない、クッキーもアリスも。
自分自身が直接触れ合うよりも、役持ちとアリスの絡みのほうがいっそう楽しめる。
碧眼は読めない色を宿して〇〇を射抜いていたが、やがて端整な顔は穏やかでない笑みに変わった。
「不公平だと思わないか。性別が同じだというだけで、君達は共有できる範囲が広がる」
「そう言われてみれば…そうかも?」
否定はできない。ならアナタも女になれば、という話でもないし。そもそもビバルディがいる時点で女キャラは事足りている。
彼の不満は永久に解決不可能だと言えた。しかしそこはそれ、現在の性別の利点を高く評価するしかないだろう。
「あたしは男も捨てたもんじゃないと思うけど」
「ほう…。たとえば?」
「そりゃ、男女でなきゃ成立しないこととか。個人的には、同性にこだわらなくてもいいかなとも思…」
ってこれじゃあ慰めにならない。不要な付け加えだったと口を噤む。だが、ブラッドにとってはその付加は重要ではなかったようだ。
「なるほど。男女間でのみ成立すること、か」
思わせぶりな視線を受けた〇〇は羞恥を感じることなく頷いた。事実を述べたに過ぎないからだ。
他人事として、というかブラッドとアリスに置き換えて考えているからでもある。
「そうそ、だからブラッドはおおいに有益なそっちを考えてればいいってわけ」
「わかった。そういうことなら、私はアリスと君が未経験のことをしよう」
うんうん、わかってくれたのか。ブラッドの嫉妬をうまく変換できたことに〇〇は満足した。
ひとつ話題を丸く収めたのだからそろそろ帰ろうか。帰宅を考える〇〇は真逆を始めようというブラッドの内心など知りもしない。
「こちらへおいで、〇〇」
手招きされ、首を傾げつつ従う。机を回り込んで傍に立つと「跪け」と命令された。当然拒否する。
「なんであたしが…」
「君が言い出したんじゃないか。有益なことをしろとね」
(――って、あたしとしても意味ないんですけど?)
納得いかない。ひょっとするとこれは憂さ晴らしか。アリスとお泊りしたことがよほど彼の機嫌を損ねたに違いない。
アリスに対する好意の反動だと思えば付き合う気がないでもなかった。
しかたなしに片膝を床につく。主に忠誠を誓う僕のごとく恭しく頭を垂れるが、
「そうじゃない。膝を立てるな」
「は?…じゃあ、こう?」
両膝をつけると、今度は両手を彼の膝に置くよう言われた。そうする。
椅子をこちらに向けて座り気だるげに机に肘をつく様は、まさにご主人様という感じだ。それならあたしは?
出来上がったポーズを再度見下ろして、妙な仕上がりになっていることに気づいた。これは――ご主人様の膝に甘えたように縋るメイド、的な。
「……」
「よく似合っているよ。メイド服でないのが少々残念ではあるが」
直感は的を射ていたらしい。やっぱりご主人様とメイドなのかよ。
腹いせか、はたまた予行練習か。後者はどうも違う。アリスとこんなプレイをするなんて、悪くはないが今ひとつ想像できない。
眉根を寄せて消化不良な顔をする〇〇の顎を、手袋に包まれた指が優しく撫でた。
「どうだ。お嬢さんとはこんなことはしないだろう?」
「やってたらそれこそ趣向がヤバイでしょーが」
「私と君ならなにもまずいことはない。ノーマルとは言い難いにしても…だ」
皿からクッキーをひとつ摘み上げ、〇〇の唇に押し当てる。渋々口を開いて受け入れると、ブラッドは喉を震わせて笑った。
「従順な君も悪くないな。…どこまでも服従させてみたくなる」
またひとつ放り込まれる。いつの間にか手袋を外した素手で。
咀嚼で広がる味は文句なしに美味しくて、断る意思を削いでしまう。とりあえず言葉を返した。
「従うだけの人間といたって面白くないよ、きっと。満たされるのは支配欲くらいじゃないの」
「そうだな…すぐに屈服されてはつまらない。堕とすまでの過程は長いほど、愉しい――そう思わないか?」
「ぅっ!?」
油断しきった〇〇の唇に指が捩じ込まれる。唐突の襲来に思わず涙ぐんで視界がぼやけた。
噛み砕いたクッキーの破片ごと掻き混ぜるように蠢く男の指。ぐちゅ、と唾液が口の中で音を立てた。
こんなことをされて従っていられるのは忠実なメイドか、哀れな奴隷か、さもなければ相手に恋情を抱く場合だ。
どれにも当て嵌まらない〇〇は咄嗟に引き剥がしにかかった。
「ううっ……ん、っ!」
「噛んだらもっと奥まで突っ込むぞ?それに類似する行為――私のしたいことを阻むのであれば、さらに過激な仕置きが待っている」
「! ぅ…」
なりきりか?ご主人様になりきっているのか?まさかこの男にそんな趣味があったとは知らなかった。
ごっこ遊びの延長で口に出すのも憚られるようなことをさせられては堪らない。
口に指を突っ込まれるくらいがなんだ、と〇〇は己に言い聞かせた。ブラッドの手首を掴んだ手は抵抗を一時やめた。
「っ……ぁうっ……」
喉に近いところを爪先で引っ掻かれてまた涙の膜が更新される。苦しむ〇〇を見下ろすブラッドは愉悦すら浮かべていた。
この男がサディストなら、〇〇の立場を喜べるのはマゾヒストだけだ。
舌を弄んでいた指が糸を引いて出ていき、ようやく満足に呼吸ができるようになった。
軽く噎せ、許しなんて待っていられるかとばかりに立ち上がる〇〇の顎を再び引き寄せたブラッドは、
「忘れ物だぞ、お嬢さん」
〇〇の濡れた口元を舐め取った。
「忘れ物っていうか…むしろ奪われた気分なんだけど、なんで…?」
手の甲で拭って一人呟く。とにかく、これだけ付き合えばもう十分だ。
アリスがされていると脳内変換でもすれば多少楽しめるゆとりもあっただろうに、そんな暇もなかった。
結局ブラッドにいいようにされただけの気がする。
釈然としない気持ちをどうにかしたくて、皿からクッキーをもう三つ掻っ攫う。残した最後のひとつは良心だ。
真っ直ぐに扉に向かう〇〇に、面白がるブラッドの声が飛んだ。
「文句ならアリスに言うといい。彼女のおかげで、君は私にそんな顔をさせられる羽目になったのだから――」
バタン。閉じた扉からさっさと離れて歩きながら、〇〇は顔を手で摩った。そんな顔とはどんな顔だ。
自分でわかるのは瞳の潤みと、いつもより高い気がする頬の温度だけ。
ブラッドが嫉妬の矢印を予想外の方向に向けていたのだと〇〇が気づいたのは、時計塔に帰ってからのことだった。
end。→あとがき