馨しき絶望の薫り。
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「私はこれからアリスに会いに行こう。……彼女を、殺すために」
恋人に愛を囁くかのような甘い声音が紡いだ、まるで現実味のない言葉。
それは、逃げるために動くはずだった〇〇の足を完全に封じてしまった。
ハートの国のどこかに隠されたアリスを求めて、〇〇は帽子屋屋敷を捜索していた。
すんなりここにたどり着いたわけではなく、他の領土であわやという事態に陥り、やっとの思いで逃れてきたのである。
すでに全身が疲弊している状態で、持久戦などとても考えられない。気ばかりが急いた。
一刻も早く少女を見つけ、この異常事態から脱したい。そして再び自分の知る“ハートの国のアリス”を取り戻すのだ。
悪夢に直面した精神が、逃避するように夢見ていたとき――彼は現れた。
当然遭遇する危険があることは承知していた。ここは彼、ブラッド=デュプレの屋敷なのだから。
だが、役なしならまだしも帽子屋本人に見つかってしまうとは、なんたる失態だ。
汗だくの身体がさらに冷たい汗を流し、呼吸は抑えがたいほど荒れた。
「ブラッドっ…」
靴の裏がじりと床を擦る。こうなってはどんな行動も無駄かもしれない。それでも、逃げの構えだけは解けなかった。
すぐにでも踵を返せばよかったのだろう。一度止まってしまうと、相手の出方が気がかりで背中を向けられない。
疲労困憊で警戒心を露にする〇〇に対して、ブラッドは奇妙なくらい普段どおりの態度で挨拶した。
「こんにちは、お嬢さん。その様子だと随分苦労しているようじゃないか」
「はっ……誰かさん達のおかげで、この有様だよ」
「ふむ。今の君は、毛を逆立てた子猫のように愛らしいな」
皮肉にしか聞こえない台詞だ。〇〇は応えて笑ってみせたが、あいにく表情筋は上手く働いてくれなかった。
〇〇にとってはどんなに馬鹿げたゲームであっても、ブラッドが鬼ごっこに参加していないとは思えなかった。
たとえ勝者が手に入れるものに興味がなくても、参加すること自体を一興と思うような男だ。
「調子はどうだ。なにか有力な情報は得られたかな?」
悠々と尋ねる態度が憎たらしい。〇〇は相手の一挙一動を注視しながら、
「わかってるくせに…。ブラッドは知ってるんだろ。だったらヒントくらい恵んでくれない?」
底を突いた余裕を振り絞って冗談めかす。その実、少しも期待していない。
いつなにが起こるかわからない不安に、唇が渇く。歯を立てれば呆気なくぷつりと切れるだろう。
ブラッドはしばらくの間、黙って〇〇を眺めていた。心に余裕を持てなくなった、無様な余所者の姿を。
もし僅かにでも哀れんでくれるのなら、見逃してほしい。そんな甘さなど現状には存在しないと知っていても。
やがて彼はステッキでトンと軽く手のひらを打ち、静かな口調でこう言った。
「〇〇。私のものになる気はないか」
「……は、」
〇〇の口から浅い息が漏れる。なんだ、それは。
命令でも強要でもなく、提案、あるいは単なる問いかけのようにも聞こえた。
「…どういう意味」
「そのままの意味だよ。現在進行しているゲームに関係なく、私の手を取る気はないかと聞いている」
咄嗟に答えられなかったのは、疲労による思考力の低下が原因だろうか。
この鬼ごっこに関係なく、ブラッドのものになる?そのままの意味だと言われても理解できない。
もちろん答えは決まっている。ノーだ。〇〇にその気があるはずもない。
しかし、その問いがこの状況で行われたことが問題だった。普段の戯れ言と同様に捉えるのは些か早計のように思える。
(なにを考えてるんだ、ブラッド)
常と変わらぬ態度が読めず、心がざわついた。
答えを待つブラッドに向かって、〇〇は不安を気取らせまいといつもどおりの声を心がける。
「アナタなら、あたしがどう答えるのか知ってるはずだ」
なんと答えれば正解なのか判断できないが、イエスとは返せなかった。返したところで、きっと彼は本心とは受け取らない。
〇〇は緊張の糸を張って見つめ返す。ブラッドは、ふ、と小さく笑った。
「愚問だったな。……だが、今一度聞いてみたかったんだ」
さっとこちらに広げられた手のひらに過敏に反応し、〇〇は咄嗟に腿に手を這わせた。装備した銃に指先が触れる。
別にステッキが凶器に変化したわけではない。わかっていながらも新たな汗が滲んだ。
ブラッドの笑みがさらに深まる。嘲りではなく、気味の悪い優しさのようなものが見えた気がした。
「なに…」
「残念ながら、ここにアリスはいない。〇〇、君は好きな場所に行きたまえ」
一瞬、聞き間違いかと思った。
役持ちに出会ってしまったら逃れることは容易ではないと、〇〇は身をもって知っていた。
しかも今対峙している相手はブラッド=デュプレだ。どんな手で仕掛けてくるかと身構えているところに、その言葉である。
なによりも望んだ展開であるはずなのに、疑念を捨てきれない。いや、今は僅かな希望に賭けてでも形振り構わず逃げるべきだ。
〇〇が決断し、踵を返そうとした、まさにそのときだった。男の口から思いがけない形で、求める少女の名が紡がれたのは。
それは想定を遥かに凌ぐ、あってはならない最悪の展開だった。
恋人に愛を囁くかのような甘い声音が紡いだ、まるで現実味のない言葉。
それは、逃げるために動くはずだった〇〇の足を完全に封じてしまった。
ハートの国のどこかに隠されたアリスを求めて、〇〇は帽子屋屋敷を捜索していた。
すんなりここにたどり着いたわけではなく、他の領土であわやという事態に陥り、やっとの思いで逃れてきたのである。
すでに全身が疲弊している状態で、持久戦などとても考えられない。気ばかりが急いた。
一刻も早く少女を見つけ、この異常事態から脱したい。そして再び自分の知る“ハートの国のアリス”を取り戻すのだ。
悪夢に直面した精神が、逃避するように夢見ていたとき――彼は現れた。
当然遭遇する危険があることは承知していた。ここは彼、ブラッド=デュプレの屋敷なのだから。
だが、役なしならまだしも帽子屋本人に見つかってしまうとは、なんたる失態だ。
汗だくの身体がさらに冷たい汗を流し、呼吸は抑えがたいほど荒れた。
「ブラッドっ…」
靴の裏がじりと床を擦る。こうなってはどんな行動も無駄かもしれない。それでも、逃げの構えだけは解けなかった。
すぐにでも踵を返せばよかったのだろう。一度止まってしまうと、相手の出方が気がかりで背中を向けられない。
疲労困憊で警戒心を露にする〇〇に対して、ブラッドは奇妙なくらい普段どおりの態度で挨拶した。
「こんにちは、お嬢さん。その様子だと随分苦労しているようじゃないか」
「はっ……誰かさん達のおかげで、この有様だよ」
「ふむ。今の君は、毛を逆立てた子猫のように愛らしいな」
皮肉にしか聞こえない台詞だ。〇〇は応えて笑ってみせたが、あいにく表情筋は上手く働いてくれなかった。
〇〇にとってはどんなに馬鹿げたゲームであっても、ブラッドが鬼ごっこに参加していないとは思えなかった。
たとえ勝者が手に入れるものに興味がなくても、参加すること自体を一興と思うような男だ。
「調子はどうだ。なにか有力な情報は得られたかな?」
悠々と尋ねる態度が憎たらしい。〇〇は相手の一挙一動を注視しながら、
「わかってるくせに…。ブラッドは知ってるんだろ。だったらヒントくらい恵んでくれない?」
底を突いた余裕を振り絞って冗談めかす。その実、少しも期待していない。
いつなにが起こるかわからない不安に、唇が渇く。歯を立てれば呆気なくぷつりと切れるだろう。
ブラッドはしばらくの間、黙って〇〇を眺めていた。心に余裕を持てなくなった、無様な余所者の姿を。
もし僅かにでも哀れんでくれるのなら、見逃してほしい。そんな甘さなど現状には存在しないと知っていても。
やがて彼はステッキでトンと軽く手のひらを打ち、静かな口調でこう言った。
「〇〇。私のものになる気はないか」
「……は、」
〇〇の口から浅い息が漏れる。なんだ、それは。
命令でも強要でもなく、提案、あるいは単なる問いかけのようにも聞こえた。
「…どういう意味」
「そのままの意味だよ。現在進行しているゲームに関係なく、私の手を取る気はないかと聞いている」
咄嗟に答えられなかったのは、疲労による思考力の低下が原因だろうか。
この鬼ごっこに関係なく、ブラッドのものになる?そのままの意味だと言われても理解できない。
もちろん答えは決まっている。ノーだ。〇〇にその気があるはずもない。
しかし、その問いがこの状況で行われたことが問題だった。普段の戯れ言と同様に捉えるのは些か早計のように思える。
(なにを考えてるんだ、ブラッド)
常と変わらぬ態度が読めず、心がざわついた。
答えを待つブラッドに向かって、〇〇は不安を気取らせまいといつもどおりの声を心がける。
「アナタなら、あたしがどう答えるのか知ってるはずだ」
なんと答えれば正解なのか判断できないが、イエスとは返せなかった。返したところで、きっと彼は本心とは受け取らない。
〇〇は緊張の糸を張って見つめ返す。ブラッドは、ふ、と小さく笑った。
「愚問だったな。……だが、今一度聞いてみたかったんだ」
さっとこちらに広げられた手のひらに過敏に反応し、〇〇は咄嗟に腿に手を這わせた。装備した銃に指先が触れる。
別にステッキが凶器に変化したわけではない。わかっていながらも新たな汗が滲んだ。
ブラッドの笑みがさらに深まる。嘲りではなく、気味の悪い優しさのようなものが見えた気がした。
「なに…」
「残念ながら、ここにアリスはいない。〇〇、君は好きな場所に行きたまえ」
一瞬、聞き間違いかと思った。
役持ちに出会ってしまったら逃れることは容易ではないと、〇〇は身をもって知っていた。
しかも今対峙している相手はブラッド=デュプレだ。どんな手で仕掛けてくるかと身構えているところに、その言葉である。
なによりも望んだ展開であるはずなのに、疑念を捨てきれない。いや、今は僅かな希望に賭けてでも形振り構わず逃げるべきだ。
〇〇が決断し、踵を返そうとした、まさにそのときだった。男の口から思いがけない形で、求める少女の名が紡がれたのは。
それは想定を遥かに凌ぐ、あってはならない最悪の展開だった。