望むものは、ただひとつ。
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休息が欲しい。心から安らげる時間を、ほんのつかの間でもいいから。
どこへ行くにも、誰に会うことも疑いを抱かなければならない状況は、着実に〇〇を追いつめていた。
味方などいない。端からそう割り切っていれば、こうまで苦しむこともなかったのかもしれない。
だが、一縷の望みを捨てきれないのだ。誰も彼もが自分を求めるという、このありえない現実を認めたくなかった。
(アリス…必ず、助けに行くから。だから、少し休ませて)
数日と離れていないのに、随分と帰らなかったように思える滞在地。時計塔。
階段を一段一段、上っていく。一歩踏み出すごとに体中が痛みに苛まれ、脈を打つように響いた。
疲労困憊の〇〇にとって、長い階段は果てしなかった。冷静さを保つ頭の片隅から、このまま行っていいのかと問う声がする。
(だって……ユリウスは、参加してないかもしれない)
不意に遊園地のオーナーの顔が過ぎり、〇〇の足が止まった。
目眩のようなものを感じて壁にもたれかかる。強く目を瞑って堪えた後、再び上を目指し始めた。
ゴーランドでさえ、という思いと、ひょっとするとユリウスなら、という思いが交差する。
もし彼が“ユリウス=モンレー”でなくなっているのならば、もはや〇〇が信用できる役持ちはいないということになる。
ふと、どこかでゲームの成り行きを見ているはずの夢魔のことを思い出したが、〇〇は緩く首を振った。傍観に徹しているというのなら、そちらのほうがありがたかった。
危惧と期待が入り乱れる。頭が重い。身体がだるい。
対立する二つの気持ちを抱えたまま、〇〇はとうとう仕事部屋までやってきた。
躊躇い、臆する心に震える指が、そっとドアを開ける。
踏み出し、息を殺しながら中に歩を進めた〇〇の目には、机の前に座って黙々と仕事をする時計屋の姿が映った。
(――ああ、ほら)
大丈夫じゃないか。ユリウスは、いつものユリウスだ。
全身から力が抜け落ちた。崩れるように座り込んだ〇〇の立てた音に、ふっとユリウスが顔を上げた。
眼鏡を挟んでぶつかった二対の瞳は、それぞれの感情に染まった。
「〇〇っ!?どうしてここに…」
「っ、来ないで!」
勢いよく立ち上がった反動で倒れた椅子の音にも勝る、〇〇の悲鳴のような叫び声。
駆け寄ろうとしたユリウスの身体が固まり、〇〇はハッとして己の口を手で塞いだ。
――今、自分はなにを言った。意志に反して飛び出した言葉はあまりに鋭く、そして怯えを含んで震えていた。
「ぁ、違……違う、違うから」
〇〇は笑顔を作ろうと顔を引き攣らせ、弁解しようとした。こんなことを言うつもりではなかったのに、どうして。
ユリウスの顔を見られない。その目に映る自分は、なんと無様な姿なのだろう。
服は裂け、切った肌から滲んだ血が赤黒く腕を染めている。
なによりも情けないのは、笑う余裕さえも失っている自分自身の心だった。危害を加えるでもない相手に対して、一方的に声を上げて、みっともない。
「ユリウス…ごめん。今のあたし、どうかしてるんだ。大声出したりしてごめん」
「謝るな。…私が迂闊だった」
顔を上げれば、ユリウスは瞳を揺らしてこちらを見つめていた。傷ついた〇〇の痛みを自身も感じたかのように。
――ああ、やっぱり大丈夫だ。ここは、なにも変わっていない。
緊張が解けていく。表情の和らいだ〇〇を見て、ユリウスもほっとしたようだった。
手当てをしよう。そう言って彼が近づいてきても、〇〇は逃げなかった。身体も強張ることなく、他者の手を受け入れた。
なにが起こってこうなったのか、聞かずにいてくれる心遣いが嬉しかった。
「ねえ、ユリウス…。どうして、こんなことになったんだろうな」
床に座ったままの〇〇の傍らに、ユリウスは膝をついた。
袖を捲り上げ、白い肌に残ったガラスの破片を目にし、端整な顔が歪む。
ユリウスが口を引き結び、無言のまま破片を取り除いて消毒を行い、包帯を巻いていくのを見ながら、〇〇は無気力に言葉を紡いだ。
「あたし、この世界でなにしてるんだろう。なんで、アリスがいなくなったんだ…?」
「〇〇。おまえは…」
「…うん。帰りたい」
包帯を結んでいた長い指が動きを止めた。形のいい唇が、帰りたいのか、と反芻する。
〇〇はぼんやりと視線を下に落として、うん、と頷きながら、
「もともと、あたしはここに存在しない人間なんだよ。あたしがいるせいで、この世界がおかしくなってるなら…帰らないと」
「…それは義務感か。それとも、おまえの意志なのか」
「どうだろ……なんかもう、わからなくなってきたかな。ただ逃げたいだけなのかもね」
「――それは、私からも逃げ出したいということか」
口調の強さに驚いて、〇〇は弾かれたように目を上げた。
裏腹にユリウスは憂いを浮かべ、陰のかかった表情で〇〇の腕の包帯を指の腹で撫でている。
「ユリウス?」
「おまえが去ることでこの世界が正常を取り戻すのなら、それが最善の選択だろう」
伸ばされた片手が〇〇の頬に触れる。切り傷が痛み、びくりと肩が跳ねた。
「だが、それで本当になにもかもが元通りになるのか?…おまえを失った役持ち達が、どんな行動に出ると思う」
「そ、んなの……あたし一人が消えたところで、大きな影響なんて」
あるはずがない。しかし本来ならば、このゲームだって“あってはならない”ことだったのだ。
〇〇を参加させるために、ヒロインであるアリスを利用するなど。そもそもゲームの目的が〇〇であるなんて。そのありえないことが、現に起こっている。
ぞっとした。この世界はすでに、〇〇の知る創作の世界から逸脱してしまっている。“ありえない”と断言できる根拠が、保証が、ない。
〇〇は頬に添えられた手を掴むと、身を乗り出した。ぎょっとして身を引いたユリウスだったが、直後、〇〇の言葉に硬直した。
「殺して、ユリウス」
「な、に……?」
「あたしを殺して。今すぐに。そうすれば、あたしは元の世界に戻れる」
切羽詰まったように〇〇は繰り返した。
捕まる捕まらないの問題ではない。たとえアリスを取り戻しても、ここはもう〇〇の知る“ゲーム”の世界ではなくなっている。
その異常性を理解した〇〇は、追い立てられるように目覚めを望んだ。一刻も早く目を覚まさなければ、戻れなくなる。そんな気がした。
「あたしを殺してよ。解放して。ユリウスならあたしを…」
懇願する〇〇から、ユリウスは目を背けた。求めには応じず、硬い声で言う。
「…疲れているだろう。おまえは少し休め」
「ユリウス!」
仕事に戻ろうとするユリウスを追うように、〇〇も立ち上がろうとした。が、一度座り込んだ身体はうまく機能してくれない。
倒れ込みそうになるのを察した彼は、すぐさま身体の向きを変えて〇〇を支えた。
縋りつきながら礼を言おうとしたが、急に息がつまるほどの抱擁に強く締めつけられて、〇〇は言葉を失った。
「何故、おまえはそうやって私を…」
「っ…苦し…」
苦痛を感じるほど抱きしめられているのは〇〇のほうなのに、吐き出された声は酷く苦しげで呻くようだった。
もがけばもがくほどに、深く抱き込まれ圧迫される。軋む。後頭部を掴まれ、耳元に吹き込まれた言葉に。〇〇の背筋が凍った。
「おまえは自分を価値のないもののように言う。私がどれだけそれを欲しがっているのか、知りもせずに」
「ユリ、ウス…?」
「そのうえ、この私に殺せだと?できるわけがないだろう。ようやく…手に入れられるというのに」
「っ……!」
低く響く声が、じわりじわりと〇〇の中を蝕んでいく。これは、この感じは、紛れもなく、
「すべてを投げ打ってでも欲しいと求めるものを、どうしてこの手で失わなければならないんだ?」
(――あ、あ……嘘だ……こんなことって……)
絶望が心を埋め尽くしていく。もう、自力では立っていられなかった。
ずるずると崩れ落ちていく〇〇の身体を床に横たえて、両手を指まで絡めて縫い止め、時計屋はふっと笑った。
日常の中で不意に見せるあの柔らかな優しい微笑に、澱んだ闇を落として。
露になった暗い欲望と堪えきれない愛おしさを孕みながら、余所者の目尻の雫へと静かに唇を寄せて、彼は囁いた。
「つかまえた」
end。→あとがき
どこへ行くにも、誰に会うことも疑いを抱かなければならない状況は、着実に〇〇を追いつめていた。
味方などいない。端からそう割り切っていれば、こうまで苦しむこともなかったのかもしれない。
だが、一縷の望みを捨てきれないのだ。誰も彼もが自分を求めるという、このありえない現実を認めたくなかった。
(アリス…必ず、助けに行くから。だから、少し休ませて)
数日と離れていないのに、随分と帰らなかったように思える滞在地。時計塔。
階段を一段一段、上っていく。一歩踏み出すごとに体中が痛みに苛まれ、脈を打つように響いた。
疲労困憊の〇〇にとって、長い階段は果てしなかった。冷静さを保つ頭の片隅から、このまま行っていいのかと問う声がする。
(だって……ユリウスは、参加してないかもしれない)
不意に遊園地のオーナーの顔が過ぎり、〇〇の足が止まった。
目眩のようなものを感じて壁にもたれかかる。強く目を瞑って堪えた後、再び上を目指し始めた。
ゴーランドでさえ、という思いと、ひょっとするとユリウスなら、という思いが交差する。
もし彼が“ユリウス=モンレー”でなくなっているのならば、もはや〇〇が信用できる役持ちはいないということになる。
ふと、どこかでゲームの成り行きを見ているはずの夢魔のことを思い出したが、〇〇は緩く首を振った。傍観に徹しているというのなら、そちらのほうがありがたかった。
危惧と期待が入り乱れる。頭が重い。身体がだるい。
対立する二つの気持ちを抱えたまま、〇〇はとうとう仕事部屋までやってきた。
躊躇い、臆する心に震える指が、そっとドアを開ける。
踏み出し、息を殺しながら中に歩を進めた〇〇の目には、机の前に座って黙々と仕事をする時計屋の姿が映った。
(――ああ、ほら)
大丈夫じゃないか。ユリウスは、いつものユリウスだ。
全身から力が抜け落ちた。崩れるように座り込んだ〇〇の立てた音に、ふっとユリウスが顔を上げた。
眼鏡を挟んでぶつかった二対の瞳は、それぞれの感情に染まった。
「〇〇っ!?どうしてここに…」
「っ、来ないで!」
勢いよく立ち上がった反動で倒れた椅子の音にも勝る、〇〇の悲鳴のような叫び声。
駆け寄ろうとしたユリウスの身体が固まり、〇〇はハッとして己の口を手で塞いだ。
――今、自分はなにを言った。意志に反して飛び出した言葉はあまりに鋭く、そして怯えを含んで震えていた。
「ぁ、違……違う、違うから」
〇〇は笑顔を作ろうと顔を引き攣らせ、弁解しようとした。こんなことを言うつもりではなかったのに、どうして。
ユリウスの顔を見られない。その目に映る自分は、なんと無様な姿なのだろう。
服は裂け、切った肌から滲んだ血が赤黒く腕を染めている。
なによりも情けないのは、笑う余裕さえも失っている自分自身の心だった。危害を加えるでもない相手に対して、一方的に声を上げて、みっともない。
「ユリウス…ごめん。今のあたし、どうかしてるんだ。大声出したりしてごめん」
「謝るな。…私が迂闊だった」
顔を上げれば、ユリウスは瞳を揺らしてこちらを見つめていた。傷ついた〇〇の痛みを自身も感じたかのように。
――ああ、やっぱり大丈夫だ。ここは、なにも変わっていない。
緊張が解けていく。表情の和らいだ〇〇を見て、ユリウスもほっとしたようだった。
手当てをしよう。そう言って彼が近づいてきても、〇〇は逃げなかった。身体も強張ることなく、他者の手を受け入れた。
なにが起こってこうなったのか、聞かずにいてくれる心遣いが嬉しかった。
「ねえ、ユリウス…。どうして、こんなことになったんだろうな」
床に座ったままの〇〇の傍らに、ユリウスは膝をついた。
袖を捲り上げ、白い肌に残ったガラスの破片を目にし、端整な顔が歪む。
ユリウスが口を引き結び、無言のまま破片を取り除いて消毒を行い、包帯を巻いていくのを見ながら、〇〇は無気力に言葉を紡いだ。
「あたし、この世界でなにしてるんだろう。なんで、アリスがいなくなったんだ…?」
「〇〇。おまえは…」
「…うん。帰りたい」
包帯を結んでいた長い指が動きを止めた。形のいい唇が、帰りたいのか、と反芻する。
〇〇はぼんやりと視線を下に落として、うん、と頷きながら、
「もともと、あたしはここに存在しない人間なんだよ。あたしがいるせいで、この世界がおかしくなってるなら…帰らないと」
「…それは義務感か。それとも、おまえの意志なのか」
「どうだろ……なんかもう、わからなくなってきたかな。ただ逃げたいだけなのかもね」
「――それは、私からも逃げ出したいということか」
口調の強さに驚いて、〇〇は弾かれたように目を上げた。
裏腹にユリウスは憂いを浮かべ、陰のかかった表情で〇〇の腕の包帯を指の腹で撫でている。
「ユリウス?」
「おまえが去ることでこの世界が正常を取り戻すのなら、それが最善の選択だろう」
伸ばされた片手が〇〇の頬に触れる。切り傷が痛み、びくりと肩が跳ねた。
「だが、それで本当になにもかもが元通りになるのか?…おまえを失った役持ち達が、どんな行動に出ると思う」
「そ、んなの……あたし一人が消えたところで、大きな影響なんて」
あるはずがない。しかし本来ならば、このゲームだって“あってはならない”ことだったのだ。
〇〇を参加させるために、ヒロインであるアリスを利用するなど。そもそもゲームの目的が〇〇であるなんて。そのありえないことが、現に起こっている。
ぞっとした。この世界はすでに、〇〇の知る創作の世界から逸脱してしまっている。“ありえない”と断言できる根拠が、保証が、ない。
〇〇は頬に添えられた手を掴むと、身を乗り出した。ぎょっとして身を引いたユリウスだったが、直後、〇〇の言葉に硬直した。
「殺して、ユリウス」
「な、に……?」
「あたしを殺して。今すぐに。そうすれば、あたしは元の世界に戻れる」
切羽詰まったように〇〇は繰り返した。
捕まる捕まらないの問題ではない。たとえアリスを取り戻しても、ここはもう〇〇の知る“ゲーム”の世界ではなくなっている。
その異常性を理解した〇〇は、追い立てられるように目覚めを望んだ。一刻も早く目を覚まさなければ、戻れなくなる。そんな気がした。
「あたしを殺してよ。解放して。ユリウスならあたしを…」
懇願する〇〇から、ユリウスは目を背けた。求めには応じず、硬い声で言う。
「…疲れているだろう。おまえは少し休め」
「ユリウス!」
仕事に戻ろうとするユリウスを追うように、〇〇も立ち上がろうとした。が、一度座り込んだ身体はうまく機能してくれない。
倒れ込みそうになるのを察した彼は、すぐさま身体の向きを変えて〇〇を支えた。
縋りつきながら礼を言おうとしたが、急に息がつまるほどの抱擁に強く締めつけられて、〇〇は言葉を失った。
「何故、おまえはそうやって私を…」
「っ…苦し…」
苦痛を感じるほど抱きしめられているのは〇〇のほうなのに、吐き出された声は酷く苦しげで呻くようだった。
もがけばもがくほどに、深く抱き込まれ圧迫される。軋む。後頭部を掴まれ、耳元に吹き込まれた言葉に。〇〇の背筋が凍った。
「おまえは自分を価値のないもののように言う。私がどれだけそれを欲しがっているのか、知りもせずに」
「ユリ、ウス…?」
「そのうえ、この私に殺せだと?できるわけがないだろう。ようやく…手に入れられるというのに」
「っ……!」
低く響く声が、じわりじわりと〇〇の中を蝕んでいく。これは、この感じは、紛れもなく、
「すべてを投げ打ってでも欲しいと求めるものを、どうしてこの手で失わなければならないんだ?」
(――あ、あ……嘘だ……こんなことって……)
絶望が心を埋め尽くしていく。もう、自力では立っていられなかった。
ずるずると崩れ落ちていく〇〇の身体を床に横たえて、両手を指まで絡めて縫い止め、時計屋はふっと笑った。
日常の中で不意に見せるあの柔らかな優しい微笑に、澱んだ闇を落として。
露になった暗い欲望と堪えきれない愛おしさを孕みながら、余所者の目尻の雫へと静かに唇を寄せて、彼は囁いた。
「つかまえた」
end。→あとがき