水に想いを告げる瞳の警鐘
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好きなところに座るよう勧められ、〇〇は手近にあったベッドに腰を下ろした。我ながら無遠慮である。
エリオットは気にしない様子で、奥に一度姿を消し、再び戻ってきたときにはタオルを持っていた。
なにをするつもりかと思いきや、ふわりと〇〇の頭にそれを被せた。
「なに?」
「拭いてやるよ。髪、まだ湿ってるぜ?」
遠慮する前にエリオットの手は動き出していた。
わしわしと荒っぽくくるかと思ったが杞憂で、手慣れなさを多大に含んだ慎重な手つきだった。精一杯の気遣いを感じられる。
〇〇の場合、髪が短いことからすぐに乾くため(というのは体のいい言い訳で単に物ぐさなだけか)、たいていは適当に拭き終えた後は自然に乾くに任せている。文明の利器はたまに出番があるだけだ。
エリオットの部屋にそんな親切なものがあるようには思えないので、彼もまた自然乾燥を利用しているのかもしれない。
他人に髪を触れられるのには独特の気持ちよさがある。美容院がいい例だ。
誰かに髪を拭いてもらうのはいつ以来だろう。悪い気はしなくて、〇〇は目を伏せてされるがままに委ねた。
「痛くねえか?」
「ん。まったく。むしろ気持ちいいくらい」
「そ、そっか。加減がいまいちわかんねえんだが、あんたがいいっつーんならそれでいい」
照れてはにかむようにちょこっと動く耳が可愛い。癒しだなあと頬が緩む。
ほわほわと壊れ物の扱いに似たタオルは、徐々に水分を吸い取っていく。
少し向きを変えたほうがいいだろうと身じろぐが制された。ベッドに乗り上げたエリオットは〇〇の背後に回った。
「あんたの髪、柔らかいな」
「そう?自分じゃよくわかんないなー。細くて絡まりやすいのは知ってるけどね」
「手触りいいし…なんかいい匂いがする」
「……。それはあれ、男の幻想が混じった錯覚だろ」
湯上がりで臭くはないだろうが、あまり嗅がないでほしい。
女の子が無条件にいい香りを纏っているなんて、都合のいい妄想だと思う。
確かに可愛らしい女の子と擦れ違いざま、ふわりと漂ってくる香水ではない良い香りを嗅いだ経験は〇〇にもある。
だが、女という性別の人間が一様にそうだとどうして言い切れる。
自分がどんな匂いを発しているのかを考えるとあまり追究したくない話題だった。
そんな〇〇の思いをよそに、エリオットは首筋にさらに鼻を近づけてきた。
「すっげえいい匂い。にんじんケーキと互角…いや、それ以上かも」
「……へえ」
にんじんを引き合いに出すとは、なんとも微妙な気持ちにさせてくれる。
ほんのり頬を染めてうっとりするエリオットが理解できない。
なにより、背後から覆いかぶさられているような今の状態に、パーソナルスペースに侵入された変な心地がした。
「へえって…あのにんじんケーキに勝ったんだぜ!?すげーことなのにあんた、全然嬉しくなさそうだ」
「そっか。それってすげーことなのか」
何事も基準は人それぞれ、個人差がある。しみじみそう思う〇〇だった。
にんじんケーキとの勝敗はともかく、肌を震わせる低めの声にくすぐられて気が散る。
大事ではないと決定づけながらも、容易に忘れてしまえるほどには軽くない記憶が呼び覚まされる。
横目に見遣った鮮やかなオレンジ色は黒髪とダブり、瞳は熱を孕んだ碧に変わる。
口元を飾る酷薄な笑みはいやらしく、いつか少女を相手に妄想した情景は所詮想像でしかなかったと思い知った。
好き勝手に、思うままに揺さぶられる感覚までも甦りそうになって、〇〇は頭を振って打ち消した。
「…〇〇?どうしたんだよ、急に黙りこくって」
「――なんでもない」
〇〇は笑顔を繕った。なんでもないことだ。
精神と肉体は混同されるべきでない。切り離して考えることは可能なはずだ。ただ少し、違和感に馴染めないだけで。
「ありがと。もうだいぶ乾いたみたい」
「あ、ああ」
後ろ髪をくちゃっと掴んで湿り具合を確かめた。これなら外気で乾いてしまうだろう。
さて、雑談に誘われエリオットの部屋を訪れたわけだが、どれくらい続ければ彼は満たされるのか。
たいした話題も提供できないから、話したいことをエリオットから始めてくれると助かる。
聞き手に徹することにしようと決めたとき、離れかけた気配が再び接近するのを感じた。
なんだ?と振り向こうとした動きは圧倒的な力の前に無効化された。
気がつくと、〇〇は軋むベッドに両手をついていて、その両手を上から押さえつける手があった。
状況を理解する前に、つかの間ぷるぷると踏ん張った腕が背中に負ぶさる重さに耐え切れず折れた。
ばふんとベッドに沈み、〇〇はわけがわからずぱちぱちと瞬きをした。
「エリオット?」
「――あんた、好きな奴いる?」
唐突だなおい。それに、人にものを尋ねるにしてはお粗末な扱いだ。
頬をシーツに押しつけて低姿勢、なのに妙に腰だけは位置を保っている。
人によっては悩ましいポーズも、自分が行うと格好がつかないばかりか苦しくてかなわない。
「どいてよ。辛いんだけど…」
「俺の質問に答えろよ」
「好きな奴?じゃあアリスで、痛っ」
適当に答えた途端、両手をきつく握り込まれた。本気、という文字がふと胸のうちに浮かぶ。
三月ウサギの言葉には戯れも駆け引きもない。技巧のない直球。
好きな奴というのも、俗に使われる意味――恋愛対象のことを言っているのだとすぐに察した。
〇〇はとりあえず体勢の窮屈さから意識を逸らし、溜め息混じりに返した。
「あたしには、恋愛をするよりも有意義な時間の使い方がある。はっきり言って、アリスのこと以上に思考を費やしてるものなんてない」
結構な回りくどさに案の定、いや予想以上の苛立ちでエリオットの怒声が耳を打った。
「いるならいるってはっきり言えばいいじゃねえか!いないなら…っこれはなんなんだよ!?」
エリオットは荒々しく〇〇の首筋を暴いた。
襟足を掻き上げるようにうなじを露にさせ、身体を折り曲げて息を落として呻く。これ…キスマーク、だろ?
「身に覚えがないなんて言い訳すんなよ。マジで、気が狂っちまいそうだ…」
切羽詰った圧迫感。物質的な重さに加えて、〇〇の呼吸は押し潰されてしまいそうだった。
エリオットの言うとおりなら、そんな場所に痕を残した人間は一人しか思い当たらない。
彼との間になんらかのルールを設けたわけではなかった。
キスはなし、痕はつけない、などと男女の爛れた肉体関係にありがちな条件はない。
こちらにも明確にしなかったという非があるにせよ、しかしそれなりの“節度”があってしかるべきだろう。
何故わざわざ際どい部分に痕跡を残す。嫌がらせか。
〇〇はブラッドの不遜な笑みを思い浮かべ、同時に己の迂闊さを呪った。
「恋人がいないはずのあんたに、なんでこんなもんがあるんだ」
「…いないなんて、一言も言ってない」
「じゃあ相手は。誰だよ」
「それをアナタに言う必要はある?」
この姿勢ではとても振り向いて顔を合わせることはできない。
〇〇はくす、と小さく笑った。見下ろすエリオットの目に映る横顔は、目元が乱れた髪に隠され、シーツに映える唇の笑みしか見えない。
「エリオットー。少し干渉が過ぎるんじゃない?興味を持つ相手を間違えてる」
「間違い…?」
「そう。あたしは余所者、だけどアリスじゃないんだよ?」
それは寛容に許し、弾き、改めるよう優しく促す声。
見え隠れする拒絶。いくら叫んでも思いの届かない焦燥、阻まれる無力。
エリオットはたとえようのない気持ちを持て余した。二人の余所者、アリスと〇〇。
二人を重ねたことなど一度もなくて、〇〇がアリスでないことはわかりきっている。
それなのに、〇〇に改めてそう言われると、無性に反発したくなる。〇〇のその言葉が、この苛立ちの根源であるような気までして。
エリオットは気にしない様子で、奥に一度姿を消し、再び戻ってきたときにはタオルを持っていた。
なにをするつもりかと思いきや、ふわりと〇〇の頭にそれを被せた。
「なに?」
「拭いてやるよ。髪、まだ湿ってるぜ?」
遠慮する前にエリオットの手は動き出していた。
わしわしと荒っぽくくるかと思ったが杞憂で、手慣れなさを多大に含んだ慎重な手つきだった。精一杯の気遣いを感じられる。
〇〇の場合、髪が短いことからすぐに乾くため(というのは体のいい言い訳で単に物ぐさなだけか)、たいていは適当に拭き終えた後は自然に乾くに任せている。文明の利器はたまに出番があるだけだ。
エリオットの部屋にそんな親切なものがあるようには思えないので、彼もまた自然乾燥を利用しているのかもしれない。
他人に髪を触れられるのには独特の気持ちよさがある。美容院がいい例だ。
誰かに髪を拭いてもらうのはいつ以来だろう。悪い気はしなくて、〇〇は目を伏せてされるがままに委ねた。
「痛くねえか?」
「ん。まったく。むしろ気持ちいいくらい」
「そ、そっか。加減がいまいちわかんねえんだが、あんたがいいっつーんならそれでいい」
照れてはにかむようにちょこっと動く耳が可愛い。癒しだなあと頬が緩む。
ほわほわと壊れ物の扱いに似たタオルは、徐々に水分を吸い取っていく。
少し向きを変えたほうがいいだろうと身じろぐが制された。ベッドに乗り上げたエリオットは〇〇の背後に回った。
「あんたの髪、柔らかいな」
「そう?自分じゃよくわかんないなー。細くて絡まりやすいのは知ってるけどね」
「手触りいいし…なんかいい匂いがする」
「……。それはあれ、男の幻想が混じった錯覚だろ」
湯上がりで臭くはないだろうが、あまり嗅がないでほしい。
女の子が無条件にいい香りを纏っているなんて、都合のいい妄想だと思う。
確かに可愛らしい女の子と擦れ違いざま、ふわりと漂ってくる香水ではない良い香りを嗅いだ経験は〇〇にもある。
だが、女という性別の人間が一様にそうだとどうして言い切れる。
自分がどんな匂いを発しているのかを考えるとあまり追究したくない話題だった。
そんな〇〇の思いをよそに、エリオットは首筋にさらに鼻を近づけてきた。
「すっげえいい匂い。にんじんケーキと互角…いや、それ以上かも」
「……へえ」
にんじんを引き合いに出すとは、なんとも微妙な気持ちにさせてくれる。
ほんのり頬を染めてうっとりするエリオットが理解できない。
なにより、背後から覆いかぶさられているような今の状態に、パーソナルスペースに侵入された変な心地がした。
「へえって…あのにんじんケーキに勝ったんだぜ!?すげーことなのにあんた、全然嬉しくなさそうだ」
「そっか。それってすげーことなのか」
何事も基準は人それぞれ、個人差がある。しみじみそう思う〇〇だった。
にんじんケーキとの勝敗はともかく、肌を震わせる低めの声にくすぐられて気が散る。
大事ではないと決定づけながらも、容易に忘れてしまえるほどには軽くない記憶が呼び覚まされる。
横目に見遣った鮮やかなオレンジ色は黒髪とダブり、瞳は熱を孕んだ碧に変わる。
口元を飾る酷薄な笑みはいやらしく、いつか少女を相手に妄想した情景は所詮想像でしかなかったと思い知った。
好き勝手に、思うままに揺さぶられる感覚までも甦りそうになって、〇〇は頭を振って打ち消した。
「…〇〇?どうしたんだよ、急に黙りこくって」
「――なんでもない」
〇〇は笑顔を繕った。なんでもないことだ。
精神と肉体は混同されるべきでない。切り離して考えることは可能なはずだ。ただ少し、違和感に馴染めないだけで。
「ありがと。もうだいぶ乾いたみたい」
「あ、ああ」
後ろ髪をくちゃっと掴んで湿り具合を確かめた。これなら外気で乾いてしまうだろう。
さて、雑談に誘われエリオットの部屋を訪れたわけだが、どれくらい続ければ彼は満たされるのか。
たいした話題も提供できないから、話したいことをエリオットから始めてくれると助かる。
聞き手に徹することにしようと決めたとき、離れかけた気配が再び接近するのを感じた。
なんだ?と振り向こうとした動きは圧倒的な力の前に無効化された。
気がつくと、〇〇は軋むベッドに両手をついていて、その両手を上から押さえつける手があった。
状況を理解する前に、つかの間ぷるぷると踏ん張った腕が背中に負ぶさる重さに耐え切れず折れた。
ばふんとベッドに沈み、〇〇はわけがわからずぱちぱちと瞬きをした。
「エリオット?」
「――あんた、好きな奴いる?」
唐突だなおい。それに、人にものを尋ねるにしてはお粗末な扱いだ。
頬をシーツに押しつけて低姿勢、なのに妙に腰だけは位置を保っている。
人によっては悩ましいポーズも、自分が行うと格好がつかないばかりか苦しくてかなわない。
「どいてよ。辛いんだけど…」
「俺の質問に答えろよ」
「好きな奴?じゃあアリスで、痛っ」
適当に答えた途端、両手をきつく握り込まれた。本気、という文字がふと胸のうちに浮かぶ。
三月ウサギの言葉には戯れも駆け引きもない。技巧のない直球。
好きな奴というのも、俗に使われる意味――恋愛対象のことを言っているのだとすぐに察した。
〇〇はとりあえず体勢の窮屈さから意識を逸らし、溜め息混じりに返した。
「あたしには、恋愛をするよりも有意義な時間の使い方がある。はっきり言って、アリスのこと以上に思考を費やしてるものなんてない」
結構な回りくどさに案の定、いや予想以上の苛立ちでエリオットの怒声が耳を打った。
「いるならいるってはっきり言えばいいじゃねえか!いないなら…っこれはなんなんだよ!?」
エリオットは荒々しく〇〇の首筋を暴いた。
襟足を掻き上げるようにうなじを露にさせ、身体を折り曲げて息を落として呻く。これ…キスマーク、だろ?
「身に覚えがないなんて言い訳すんなよ。マジで、気が狂っちまいそうだ…」
切羽詰った圧迫感。物質的な重さに加えて、〇〇の呼吸は押し潰されてしまいそうだった。
エリオットの言うとおりなら、そんな場所に痕を残した人間は一人しか思い当たらない。
彼との間になんらかのルールを設けたわけではなかった。
キスはなし、痕はつけない、などと男女の爛れた肉体関係にありがちな条件はない。
こちらにも明確にしなかったという非があるにせよ、しかしそれなりの“節度”があってしかるべきだろう。
何故わざわざ際どい部分に痕跡を残す。嫌がらせか。
〇〇はブラッドの不遜な笑みを思い浮かべ、同時に己の迂闊さを呪った。
「恋人がいないはずのあんたに、なんでこんなもんがあるんだ」
「…いないなんて、一言も言ってない」
「じゃあ相手は。誰だよ」
「それをアナタに言う必要はある?」
この姿勢ではとても振り向いて顔を合わせることはできない。
〇〇はくす、と小さく笑った。見下ろすエリオットの目に映る横顔は、目元が乱れた髪に隠され、シーツに映える唇の笑みしか見えない。
「エリオットー。少し干渉が過ぎるんじゃない?興味を持つ相手を間違えてる」
「間違い…?」
「そう。あたしは余所者、だけどアリスじゃないんだよ?」
それは寛容に許し、弾き、改めるよう優しく促す声。
見え隠れする拒絶。いくら叫んでも思いの届かない焦燥、阻まれる無力。
エリオットはたとえようのない気持ちを持て余した。二人の余所者、アリスと〇〇。
二人を重ねたことなど一度もなくて、〇〇がアリスでないことはわかりきっている。
それなのに、〇〇に改めてそう言われると、無性に反発したくなる。〇〇のその言葉が、この苛立ちの根源であるような気までして。