交差
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30、会いたいの
傍目から見れば拉致の結果とは思えないほど、平和な毎日は続いた。
抜け出すチャンスはなかなか訪れず、●●は今日も一日の終わりに溜め息をつく。
●●の世界では、少なくとも大学の友人が確実に異変に気づいているだろう。
今まで無断欠席や自主休講などは一度もしたことがないのだ。警察沙汰になどなっていなければいいが。
(――違う。そんなんじゃない…)
孤独の寄り添う時間、特に夜になると頭を占めていく思考は、徐々に昼間にも漏れ出すようになっていた。
本当に気にかかっているのは、自分の世界のことではない。
今の●●にとってある意味最大の心配事でなければならないそのことは、実際は二の次だった。
「……静さん」
ぽつりと名前を呟いても、振り返って瞳を緩める人はいない。
実質的には自身の世界を考えることが現実逃避と化している。それほどに、あまりにも時間が経ちすぎていた。
(もうわたしのこと、忘れちゃったかな…)
すべてがゼロになったのなら、最初から始めればいい。そう楽観的に思うのは心の一部だけで、今はとても優勢になりそうにない。
確かめたい。彼の中の自分がどうなってしまったのか、知りたい。
無性にこの場から動きたくてしかたない衝動が●●の身体の中に渦巻いていた。
その日訪ねてきた臨也は、手に小さな紙袋を提げていた。
それをテーブルの上に置くと、中身を取り出しながら機嫌よく言った。
「美味しそうなケーキを見つけたから、つい奮発しちゃったよ」
勝手知ったる様子で戸棚を開けて皿やフォークを用意し、彼はテーブルを整える。
しかし、いつまで経っても反応を返さない●●に、ふと顔を上げた。
「どうかしたの、〇〇ちゃん。まさか好きじゃないなんて言わないよね?」
「あっ…はい。食べます」
●●は慌ててソファーから立ち上がり、テーブルに移動した。
席についた臨也の向かい側に座り、勧められるままにケーキに手をつける。
彼の説明によると、雑誌に取り上げられるほど有名な店のケーキらしい。確かに見た目も凝った作りで、甘さもしつこくなく優しい味がした。
しかし、上の空であることを拙く繕ったところで、●●の反応が芳しくないことは明白だった。
「最近元気がないみたいだけど、なにか困ったことでもあった?」
フォークを置いて食べることを中断した臨也が、両手を組んでテーブルに肘をつき、聞き手の体勢になる。
気遣いはありがたいが、彼こそが現在困った状況を強いている張本人である。●●は曖昧に笑った。
「すみません。せっかく買ってきてもらったのに…」
「〇〇ちゃん」
「おいしいですよ、すごく」
射るような視線を受けながら、フォークを動かしてケーキを崩す。
今度はちゃんと味わうことができたが、気を取り直しかけた●●を、臨也の声が再び同じ思考に引き戻した。
「君ってシズちゃんに対しては素直なのに、どうして俺には甘えてくれないのかなー」
「…日頃の行いの違いなんじゃないですか」
「ああ、またそんな可愛くないこと言っちゃって」
「いいんです、だって臨也さんだから」
少々鬱憤も溜まっていたため、ついつっけんどんな物言いをしてしまった。だが、本心でもあった。可愛いと思われなくても気にならない。
(静さんじゃないなら、別にどう思われたって…)
――ならば、相手が静雄だと気になるのか。ふと、考える。
可愛いなんて褒められなくても構わない。ただ、好かれていたいのだ。
一人になる時間だけに留めようとしているのに、抑えることが難しい。頭は当たり前のように静雄のことを思う。
それが目の前にいる男を苛立たせるのだと、●●は気づかない。
だから、不意に割り込んできた感覚には動揺した。●●の手首を掴んだ力は、肌が白くなるほどに強かった。
「いっ、臨也さ、ん…?」
困惑の声を漏らすと、臨也は無表情の中に僅かに微笑めいたものを浮かべる。
それがかえって表出しない彼の苛立ちをはっきりと感じさせ、今まで覚えたことのない類いの不安を抱かせた。
咄嗟に距離を取ろうとすれば手はあっさり解けたが、立ち上がった●●に逃げ場はなかった。
「いい加減、俺を蔑ろにするのはやめてくれないか」
「っ……そんな、こと…」
「シズちゃんのことしか頭にない、周囲を顧みない君のそういう態度には、つくづく腹が立つよ」
●●は後ろから抱きすくめられたまま、首を横に振った。決して臨也のことを軽んじているつもりはない。
最近は接し方が思いがけないくらい優しかったせいか、緊張感を保てなくなっていたのかもしれない。
頭の中で考えていることが顔に出ていたのだろう。臨也の本気の怒りを買うほどに。
だが、自力では抑制できないのだ。静雄を思うことをやめられない。
●●がどうしようもなく身を竦ませていると、強張った肩口にふっと笑みを吹きかけられた。
今にも冗談だと笑い出しそうなその軽やかさに安堵したのも、つかの間のこと。
唐突に男の手のひらが胸元をぐっと押し潰し、●●はびくりと肩を震わせた。
「ゃっ…!」
「……ねえ。〇〇ちゃんは俺のこと、嫌い?」
それは性的な触れ合いというより、命の駆け引きに似ている気がした。
心臓を、握られている。実際には不可能であるにもかかわらず、臨也の手中に収まる鼓動は動きを止められてしまいそうだ。
●●は肌に立てられた爪の固さを衣類越しに感じて、浅く呼吸した。
「き、嫌いじゃ、ありません…けど」
「それなら大丈夫、ちゃんと俺を受け入れられるはずだ」
俺は君を人間にしてあげたいんだよ。嘘とは思えない口調で言った臨也は、手に込めた力をそっと抜いた。そして。
「君の頭の中に、この心の奥深くに、俺の存在を捻じ込んであげる」
心臓を包み込む手の指先が、確かな意図をもって胸の先端を引っかいた。
これには思わず全身が硬直してしまった。明らかにこれまでのスキンシップとは意味が違う。
もし臨也がまだ誰にも知られていない領域に踏み込もうとするのなら、●●には避ける術がなかった。
限られた空間には●●が求める人も、場所も、存在していないのだから。
(静さん――!)
きつく視界を閉ざせば、冷たくはない闇の中に淡い光が浮かび上がった。
小さな白い輝きは柔らかく揺らめき、ある形を成す。それは●●を優しく招く、発光。
●●はぱっと大きく目を見開き、息を呑むと、薄く口を開けた。小さく呟く。ごめんなさい、臨也さん。
「っ、〇〇ちゃん……っ?」
渾身の力で抗い、振り払って抜け出した身体は一気に駆け出した。伸ばされた手は空を掻く。
呼びかける声は届かない。もう、目の前に在るそれしか見えていなかった。
●●はただただ会いたい一心で、後先を考えずに白い扉に飛び込んだ。
ドアに手をかけた瞬間、●●の後ろ姿は忽然と消えていた。
傍目から見れば拉致の結果とは思えないほど、平和な毎日は続いた。
抜け出すチャンスはなかなか訪れず、●●は今日も一日の終わりに溜め息をつく。
●●の世界では、少なくとも大学の友人が確実に異変に気づいているだろう。
今まで無断欠席や自主休講などは一度もしたことがないのだ。警察沙汰になどなっていなければいいが。
(――違う。そんなんじゃない…)
孤独の寄り添う時間、特に夜になると頭を占めていく思考は、徐々に昼間にも漏れ出すようになっていた。
本当に気にかかっているのは、自分の世界のことではない。
今の●●にとってある意味最大の心配事でなければならないそのことは、実際は二の次だった。
「……静さん」
ぽつりと名前を呟いても、振り返って瞳を緩める人はいない。
実質的には自身の世界を考えることが現実逃避と化している。それほどに、あまりにも時間が経ちすぎていた。
(もうわたしのこと、忘れちゃったかな…)
すべてがゼロになったのなら、最初から始めればいい。そう楽観的に思うのは心の一部だけで、今はとても優勢になりそうにない。
確かめたい。彼の中の自分がどうなってしまったのか、知りたい。
無性にこの場から動きたくてしかたない衝動が●●の身体の中に渦巻いていた。
その日訪ねてきた臨也は、手に小さな紙袋を提げていた。
それをテーブルの上に置くと、中身を取り出しながら機嫌よく言った。
「美味しそうなケーキを見つけたから、つい奮発しちゃったよ」
勝手知ったる様子で戸棚を開けて皿やフォークを用意し、彼はテーブルを整える。
しかし、いつまで経っても反応を返さない●●に、ふと顔を上げた。
「どうかしたの、〇〇ちゃん。まさか好きじゃないなんて言わないよね?」
「あっ…はい。食べます」
●●は慌ててソファーから立ち上がり、テーブルに移動した。
席についた臨也の向かい側に座り、勧められるままにケーキに手をつける。
彼の説明によると、雑誌に取り上げられるほど有名な店のケーキらしい。確かに見た目も凝った作りで、甘さもしつこくなく優しい味がした。
しかし、上の空であることを拙く繕ったところで、●●の反応が芳しくないことは明白だった。
「最近元気がないみたいだけど、なにか困ったことでもあった?」
フォークを置いて食べることを中断した臨也が、両手を組んでテーブルに肘をつき、聞き手の体勢になる。
気遣いはありがたいが、彼こそが現在困った状況を強いている張本人である。●●は曖昧に笑った。
「すみません。せっかく買ってきてもらったのに…」
「〇〇ちゃん」
「おいしいですよ、すごく」
射るような視線を受けながら、フォークを動かしてケーキを崩す。
今度はちゃんと味わうことができたが、気を取り直しかけた●●を、臨也の声が再び同じ思考に引き戻した。
「君ってシズちゃんに対しては素直なのに、どうして俺には甘えてくれないのかなー」
「…日頃の行いの違いなんじゃないですか」
「ああ、またそんな可愛くないこと言っちゃって」
「いいんです、だって臨也さんだから」
少々鬱憤も溜まっていたため、ついつっけんどんな物言いをしてしまった。だが、本心でもあった。可愛いと思われなくても気にならない。
(静さんじゃないなら、別にどう思われたって…)
――ならば、相手が静雄だと気になるのか。ふと、考える。
可愛いなんて褒められなくても構わない。ただ、好かれていたいのだ。
一人になる時間だけに留めようとしているのに、抑えることが難しい。頭は当たり前のように静雄のことを思う。
それが目の前にいる男を苛立たせるのだと、●●は気づかない。
だから、不意に割り込んできた感覚には動揺した。●●の手首を掴んだ力は、肌が白くなるほどに強かった。
「いっ、臨也さ、ん…?」
困惑の声を漏らすと、臨也は無表情の中に僅かに微笑めいたものを浮かべる。
それがかえって表出しない彼の苛立ちをはっきりと感じさせ、今まで覚えたことのない類いの不安を抱かせた。
咄嗟に距離を取ろうとすれば手はあっさり解けたが、立ち上がった●●に逃げ場はなかった。
「いい加減、俺を蔑ろにするのはやめてくれないか」
「っ……そんな、こと…」
「シズちゃんのことしか頭にない、周囲を顧みない君のそういう態度には、つくづく腹が立つよ」
●●は後ろから抱きすくめられたまま、首を横に振った。決して臨也のことを軽んじているつもりはない。
最近は接し方が思いがけないくらい優しかったせいか、緊張感を保てなくなっていたのかもしれない。
頭の中で考えていることが顔に出ていたのだろう。臨也の本気の怒りを買うほどに。
だが、自力では抑制できないのだ。静雄を思うことをやめられない。
●●がどうしようもなく身を竦ませていると、強張った肩口にふっと笑みを吹きかけられた。
今にも冗談だと笑い出しそうなその軽やかさに安堵したのも、つかの間のこと。
唐突に男の手のひらが胸元をぐっと押し潰し、●●はびくりと肩を震わせた。
「ゃっ…!」
「……ねえ。〇〇ちゃんは俺のこと、嫌い?」
それは性的な触れ合いというより、命の駆け引きに似ている気がした。
心臓を、握られている。実際には不可能であるにもかかわらず、臨也の手中に収まる鼓動は動きを止められてしまいそうだ。
●●は肌に立てられた爪の固さを衣類越しに感じて、浅く呼吸した。
「き、嫌いじゃ、ありません…けど」
「それなら大丈夫、ちゃんと俺を受け入れられるはずだ」
俺は君を人間にしてあげたいんだよ。嘘とは思えない口調で言った臨也は、手に込めた力をそっと抜いた。そして。
「君の頭の中に、この心の奥深くに、俺の存在を捻じ込んであげる」
心臓を包み込む手の指先が、確かな意図をもって胸の先端を引っかいた。
これには思わず全身が硬直してしまった。明らかにこれまでのスキンシップとは意味が違う。
もし臨也がまだ誰にも知られていない領域に踏み込もうとするのなら、●●には避ける術がなかった。
限られた空間には●●が求める人も、場所も、存在していないのだから。
(静さん――!)
きつく視界を閉ざせば、冷たくはない闇の中に淡い光が浮かび上がった。
小さな白い輝きは柔らかく揺らめき、ある形を成す。それは●●を優しく招く、発光。
●●はぱっと大きく目を見開き、息を呑むと、薄く口を開けた。小さく呟く。ごめんなさい、臨也さん。
「っ、〇〇ちゃん……っ?」
渾身の力で抗い、振り払って抜け出した身体は一気に駆け出した。伸ばされた手は空を掻く。
呼びかける声は届かない。もう、目の前に在るそれしか見えていなかった。
●●はただただ会いたい一心で、後先を考えずに白い扉に飛び込んだ。
ドアに手をかけた瞬間、●●の後ろ姿は忽然と消えていた。