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14、たとえば雨の日は
玄関から一歩足を踏み出した瞬間、バケツの水を引っかけられた。
――違う。全身を瞬く間に濡らすのは、土砂降りの雨だった。
すでに手はドアノブから離れ、鍵のかかる音を聞き届けてしまった●●は、即座に逡巡をやめて走り出した。
幸いにも、●●の唐突な出現に気づいた者はいなかった。
とりあえず、走った先にあった軒下に避難する。
服はずぶ濡れになってしまったが、鞄はどうにか表面だけで留まったようだ。中身を確認した●●はほっと息をついた。
まだ夕方だというのに、重たい灰色の雲が空を覆い尽くし、辺りは薄暗かった。
点滅する街灯。大粒の涙を零す曇天。行き交う人々は、皆一様に傘をさしている。
軒下で雨宿りをする●●に、時折ちらりと向けられる視線。
(こんなに人がいるのに、みんな誰もわたしのこと、知らないんだよね)
世界の違いを取り払っても、それは変わらない事実。
世界を隔てているからこそ、強まる疎外感。
「……しーずさーん……」
ふと、小さく呼んでみた声は、雨音とざわめきに掻き消された。
「●●……?」
ぼやーっと突っ立っていた●●の耳は、数ある音の中からその声だけを意識に届けた。
いっこうに止まない強い雨音を擦り抜け、真っ直ぐに。
●●が声のほうに顔を向けると、 周りの誰もと同じように傘を差したバーテン服の男が立っていた。
(わお。タイムラグで届いた?)
って、そんなはずないか。
しかし、自然と頬が緩んでくる。会えて嬉しい。素直な感情がそのまま顔に出た。
一方、なにやら呆然としていた静雄は、我に返ったように目を瞠る早足で●●に近づいた。
「バッ……なんつー格好してやがんだ!」
「え?」
目の前に迫るなり、怒鳴りつける勢いで静雄は言った。
彼は狼狽えたように目を泳がせ、自分の大声で少なからず集めた視線を(サングラスの下からでもわかるほど)鋭い眼差しで蹴散らした。
それから舌打ちをして、●●の手に傘を押しつける。
慌ただしくベストを脱ぐやいなや●●の身体を包むと、傘を奪い取り、●●の腕を掴んで軒下から引きずり出した。
静雄の一連の動作についていけず、されるがまま、歩き出した●●。
ぽかんと呆気にとられる●●の足がもつれそうになっていることに気づいたのか、静雄は歩調を緩めた。
しばらく謎の無言が続いた。雨音ばかりが耳を打つ。●●は自分がなにか言うべきなのだろうかと、口を開いた。
「えーっと…。静さん、こんにちは?」
「疑問形っつーことは、今言うべきことがそれじゃねぇのは自分でわかってんだろ」
「?……ああ!服、濡らしちゃってごめんなさい」
真剣に謝った●●に、静雄はがくっと脱力した。
掴んでいた腕を解放して、少しずれたサングラスを押し上げる。溜め息。
「…俺がなんでそれを貸したか、わかってんのか」
「わたしが寒そうに見えたとかじゃ…?」
「あのなぁ!お前の服がっ……透けてんだよ」
言わせんな馬鹿、と呟いて、静雄は顔を背ける。頬がやや赤い。
●●は思わず下を向いた。うわ、ほんとうだ。
(わたし、こんな格好でずっと人前に立ってたの?)
●●は急に恥ずかしくなってベストの前を合わせた。急いで駆けつけてくれた静雄に感謝しなければ。
「あは…。えと、静さん。ありがとう、ね?」
「…おう」
照れを隠すように、静雄はぶっきらぼうに短く答えた。
「そういやあ、なんで傘持ってねぇんだ?」
傘をたたみながら、静雄は気づいたように●●に目を向けた。●●はつつと視線を逸らした。
「わ、忘れちゃったんです…うん」
「忘れただぁ?朝から降ってんのに、傘も持たずに家を出たのかお前は」
静雄が訝しがるのはもっともだ。●●は誤魔化すように笑った。
うちのほうじゃ雨は降ってなかったんです。言い訳に使えない事実である。
明らかになにかを隠すふうな●●を見て、静雄はなにも言わなかった。
家の鍵を開け、●●に先に入るよう促した。
ふと見れば、静雄の左肩に濡れた服がはりついていた。●●に傘を傾けていた証だ。
●●はすでに全身ぐっしょりと濡れているのだから、今さら雨に打たれても構わないのに。
「静さん…」
「ほら、入れよ」
そっと背中を押す手。静雄は、優しい。
事あるごとに不意にその優しさに触れて、●●はなんともいえない気持ちになる。
心がじんわりとあたたまるような。きゅんと胸が苦しくなるような。
「そのままでいいから上がれ。で、荷物は適当なとこに置いといて…」
静雄は濡れ鼠になった●●の姿を再確認して、軽く苦笑した。「お前はまず、シャワーだな」
家主よりも先に使うなんて、と●●は言ったが、結局その家主の押しに負けた。
ありがたくシャワーを借りて、雨に濡れて冷えた身体をあたためた。
タオルで拭いて浴室を出ると、きちんと着替えが用意されていた。もちろん静雄の服である。
下着も湿っていたが、替えがないのでしかたなくそれに足を通す。
少し悩んだが、この服なら透けないだろうと、絞れるほど濡れたブラジャーは諦めることにした。
「お先でした、静さん」
「……っ」
部屋に戻ると、静雄はぎょっとしたように目を見開いた。
彼はすでに着替えを済ませていた。どうやらシャワーを使うつもりはないようだ。
静雄の様子を特に気にすることなく、●●は丁寧に畳んだズボンを静雄に返した。
「あの。一応穿いてみたんですけど、腰が緩くて…それに裾も引きずりそうで、ちょっと無理でした」
「……あー、まあ、そうだろうな」
というわけで、現在●●が着ているのは上の服一枚だった。
恥ずかしくないこともないが、ワンピースだと思えば羞恥も幾分和らいだ。
静雄は明後日の方向に目を逸らしたまま、●●を見ない。それもそうだろうと●●は苦笑した。
「静さん。見苦しくてごめんなさい」
「見苦し……、って誰もんなこと言ってねぇだろ!」
ばっと勢いよくこちらを向いた静雄は、同じ勢いで再び目を背けた。
あー、だとか、うー、だとか唸りながら片手で顔を覆う。
「だからな…見苦しいとかそんなんじゃなくて、その、直視するといろいろヤバイことがあるだろうがよ」
「そう、なんですかね?」
「そうだ。……ったく、ガキじゃねぇんだから、ちったぁ察しろ」
小さく付け加えられた声が聞こえず問い返すと、なんでもないと手を振られた。
静雄はぶつぶつなにか呟いていたが、立ったままでいる●●に気づいて手招いた。
――なぜか、なにやら吹っ切った感があった。
「ここ、座れよ」
「あ、はい」
●●は静雄の隣に腰を下ろした。彼はじっと●●を見ている。
そう、じっと。じーっと。じいいぃっと。見てる。見てる。見られている。穴が開いてしまうほど。なんで、そんなに見るの?
「……あ、あのー。わたし、晩ごはんの支度を、」
「まだいい」
「そ、そうですか…」
●●は浮かしかけた腰を再び下ろした。静雄はまだ目を逸らすことなく、ガン見してくる。
●●は次第に落ち着きをなくし、たじろぎ、もじもじと意味もなく身体を動かした。
頬に熱がのぼってくる。ぽかぽかを通り越して、湯気が立ちそうだった。
「う……静さ~ん…」
「ん?」
首を傾げて、どうした、と平然と聞いてくる。
静雄の眼差しに意図があることは明らかだった。口元に少し意地悪そうな笑みを浮かべている。
●●は服の裾を引っ張って膝を隠しながら小さく、降参です、と白旗を揚げた。
ようやく「ヤバイこと」のひとつを理解した(正しくは“させられた”)●●のりんご色の頬に、静雄は優しく手の甲を当てて笑ったのだった。
玄関から一歩足を踏み出した瞬間、バケツの水を引っかけられた。
――違う。全身を瞬く間に濡らすのは、土砂降りの雨だった。
すでに手はドアノブから離れ、鍵のかかる音を聞き届けてしまった●●は、即座に逡巡をやめて走り出した。
幸いにも、●●の唐突な出現に気づいた者はいなかった。
とりあえず、走った先にあった軒下に避難する。
服はずぶ濡れになってしまったが、鞄はどうにか表面だけで留まったようだ。中身を確認した●●はほっと息をついた。
まだ夕方だというのに、重たい灰色の雲が空を覆い尽くし、辺りは薄暗かった。
点滅する街灯。大粒の涙を零す曇天。行き交う人々は、皆一様に傘をさしている。
軒下で雨宿りをする●●に、時折ちらりと向けられる視線。
(こんなに人がいるのに、みんな誰もわたしのこと、知らないんだよね)
世界の違いを取り払っても、それは変わらない事実。
世界を隔てているからこそ、強まる疎外感。
「……しーずさーん……」
ふと、小さく呼んでみた声は、雨音とざわめきに掻き消された。
「●●……?」
ぼやーっと突っ立っていた●●の耳は、数ある音の中からその声だけを意識に届けた。
いっこうに止まない強い雨音を擦り抜け、真っ直ぐに。
●●が声のほうに顔を向けると、 周りの誰もと同じように傘を差したバーテン服の男が立っていた。
(わお。タイムラグで届いた?)
って、そんなはずないか。
しかし、自然と頬が緩んでくる。会えて嬉しい。素直な感情がそのまま顔に出た。
一方、なにやら呆然としていた静雄は、我に返ったように目を瞠る早足で●●に近づいた。
「バッ……なんつー格好してやがんだ!」
「え?」
目の前に迫るなり、怒鳴りつける勢いで静雄は言った。
彼は狼狽えたように目を泳がせ、自分の大声で少なからず集めた視線を(サングラスの下からでもわかるほど)鋭い眼差しで蹴散らした。
それから舌打ちをして、●●の手に傘を押しつける。
慌ただしくベストを脱ぐやいなや●●の身体を包むと、傘を奪い取り、●●の腕を掴んで軒下から引きずり出した。
静雄の一連の動作についていけず、されるがまま、歩き出した●●。
ぽかんと呆気にとられる●●の足がもつれそうになっていることに気づいたのか、静雄は歩調を緩めた。
しばらく謎の無言が続いた。雨音ばかりが耳を打つ。●●は自分がなにか言うべきなのだろうかと、口を開いた。
「えーっと…。静さん、こんにちは?」
「疑問形っつーことは、今言うべきことがそれじゃねぇのは自分でわかってんだろ」
「?……ああ!服、濡らしちゃってごめんなさい」
真剣に謝った●●に、静雄はがくっと脱力した。
掴んでいた腕を解放して、少しずれたサングラスを押し上げる。溜め息。
「…俺がなんでそれを貸したか、わかってんのか」
「わたしが寒そうに見えたとかじゃ…?」
「あのなぁ!お前の服がっ……透けてんだよ」
言わせんな馬鹿、と呟いて、静雄は顔を背ける。頬がやや赤い。
●●は思わず下を向いた。うわ、ほんとうだ。
(わたし、こんな格好でずっと人前に立ってたの?)
●●は急に恥ずかしくなってベストの前を合わせた。急いで駆けつけてくれた静雄に感謝しなければ。
「あは…。えと、静さん。ありがとう、ね?」
「…おう」
照れを隠すように、静雄はぶっきらぼうに短く答えた。
「そういやあ、なんで傘持ってねぇんだ?」
傘をたたみながら、静雄は気づいたように●●に目を向けた。●●はつつと視線を逸らした。
「わ、忘れちゃったんです…うん」
「忘れただぁ?朝から降ってんのに、傘も持たずに家を出たのかお前は」
静雄が訝しがるのはもっともだ。●●は誤魔化すように笑った。
うちのほうじゃ雨は降ってなかったんです。言い訳に使えない事実である。
明らかになにかを隠すふうな●●を見て、静雄はなにも言わなかった。
家の鍵を開け、●●に先に入るよう促した。
ふと見れば、静雄の左肩に濡れた服がはりついていた。●●に傘を傾けていた証だ。
●●はすでに全身ぐっしょりと濡れているのだから、今さら雨に打たれても構わないのに。
「静さん…」
「ほら、入れよ」
そっと背中を押す手。静雄は、優しい。
事あるごとに不意にその優しさに触れて、●●はなんともいえない気持ちになる。
心がじんわりとあたたまるような。きゅんと胸が苦しくなるような。
「そのままでいいから上がれ。で、荷物は適当なとこに置いといて…」
静雄は濡れ鼠になった●●の姿を再確認して、軽く苦笑した。「お前はまず、シャワーだな」
家主よりも先に使うなんて、と●●は言ったが、結局その家主の押しに負けた。
ありがたくシャワーを借りて、雨に濡れて冷えた身体をあたためた。
タオルで拭いて浴室を出ると、きちんと着替えが用意されていた。もちろん静雄の服である。
下着も湿っていたが、替えがないのでしかたなくそれに足を通す。
少し悩んだが、この服なら透けないだろうと、絞れるほど濡れたブラジャーは諦めることにした。
「お先でした、静さん」
「……っ」
部屋に戻ると、静雄はぎょっとしたように目を見開いた。
彼はすでに着替えを済ませていた。どうやらシャワーを使うつもりはないようだ。
静雄の様子を特に気にすることなく、●●は丁寧に畳んだズボンを静雄に返した。
「あの。一応穿いてみたんですけど、腰が緩くて…それに裾も引きずりそうで、ちょっと無理でした」
「……あー、まあ、そうだろうな」
というわけで、現在●●が着ているのは上の服一枚だった。
恥ずかしくないこともないが、ワンピースだと思えば羞恥も幾分和らいだ。
静雄は明後日の方向に目を逸らしたまま、●●を見ない。それもそうだろうと●●は苦笑した。
「静さん。見苦しくてごめんなさい」
「見苦し……、って誰もんなこと言ってねぇだろ!」
ばっと勢いよくこちらを向いた静雄は、同じ勢いで再び目を背けた。
あー、だとか、うー、だとか唸りながら片手で顔を覆う。
「だからな…見苦しいとかそんなんじゃなくて、その、直視するといろいろヤバイことがあるだろうがよ」
「そう、なんですかね?」
「そうだ。……ったく、ガキじゃねぇんだから、ちったぁ察しろ」
小さく付け加えられた声が聞こえず問い返すと、なんでもないと手を振られた。
静雄はぶつぶつなにか呟いていたが、立ったままでいる●●に気づいて手招いた。
――なぜか、なにやら吹っ切った感があった。
「ここ、座れよ」
「あ、はい」
●●は静雄の隣に腰を下ろした。彼はじっと●●を見ている。
そう、じっと。じーっと。じいいぃっと。見てる。見てる。見られている。穴が開いてしまうほど。なんで、そんなに見るの?
「……あ、あのー。わたし、晩ごはんの支度を、」
「まだいい」
「そ、そうですか…」
●●は浮かしかけた腰を再び下ろした。静雄はまだ目を逸らすことなく、ガン見してくる。
●●は次第に落ち着きをなくし、たじろぎ、もじもじと意味もなく身体を動かした。
頬に熱がのぼってくる。ぽかぽかを通り越して、湯気が立ちそうだった。
「う……静さ~ん…」
「ん?」
首を傾げて、どうした、と平然と聞いてくる。
静雄の眼差しに意図があることは明らかだった。口元に少し意地悪そうな笑みを浮かべている。
●●は服の裾を引っ張って膝を隠しながら小さく、降参です、と白旗を揚げた。
ようやく「ヤバイこと」のひとつを理解した(正しくは“させられた”)●●のりんご色の頬に、静雄は優しく手の甲を当てて笑ったのだった。