眠りから醒めるまで
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ある日の午後●●は時々そうであるように、頼まれ事のために出かけていった。
その際道場に顔を覗かせたのだが、着物は少女が持っている中で一番見栄えのいいものだったと記憶している。
「今日は野良仕事の手伝いじゃねーのか」
「うん。お夕飯までには戻ると思うけど、もしわたしが遅れたら、先に支度を始めておいてくれる?」
「へいへい、りょーかい」
「ありがとう。いってきます」
剣術の稽古が終わり、太陽が傾き出す。塾生は皆、家に帰っていった。
銀時は●●の言葉を思い出して重たい腰を上げ、夕食の準備に取りかかった。そろそろ帰ってくるだろうが、たまにはいいところを見せてやろう。
ところが、山の稜線の向こうに太陽が隠れ、すっかり支度が整ってしまっても、●●が帰ってこない。
銀時は落ち着きなく立ったり座ったりを繰り返し、心配した松陽も縁側に出て、夜の闇に覆われようとしている空を見上げた。
「松陽。●●のやつ、今日はどこまで出かけたんだ」
ついに銀時が問いただすと、松陽は普段の穏やかさを潜ませて言った。
「……やはり行かせるべきではなかったかもしれない。銀時も知っているでしょう――」
松陽が答えたのは村の中でも指折りの商家の名だった。銀時の表情も些か険しくなる。
なかなかあくどい商売をしているらしいその家は、近頃商いが上手くいっていないという噂があった。信憑性は定かではないが、実は金に困っているとも……。
●●は一人娘の相手をしてもらいたいと言われ出かけたらしい。たしか同じ年頃の娘がいたはずだ。
身綺麗にしていったのもそのためなら納得が行く。そして、たとえ悪い噂があろうと出向いてしまうのはお人好しの性かと呆れもした。
「お嬢さんに気に入られて引き留められているだけならいいのですが……」
「良識のある家なら連絡のひとつも寄越すはずだろ」
銀時は刀を肩にかけると玄関に向かって歩き出した。銀時、と制す松陽の声に一度だけ足を止めて、
「先生は待っててくれ。入れ違いになったら困るからな。……心配すんな、迷惑はかけねェよ。俺はただ可愛い妹分を迎えに行くだけだ」
とっぷり日も暮れた頃、立派な表門ではなく裏口から人目を避けるように発つ男が二人。
銀時は気づかれぬよう後を追った。明かりも持たず、月の光を頼りにして足早に村から出ようとしている。
とうとう完全に人気のない森の中に入ると、先回りをして行く手を遮るように立ち塞がった。
「てめーら、人攫いか。悪いが、こっから先を通りたきゃそいつを置いていきな」
男の一人は膨らんだ麻袋を肩に担いでいた。子どもを容易く放り込めそうな大きさだ。
聞こえるように声を張ったにもかかわらず中身が動く気配はない。銀時は腰に下げた刀を手で確認した。
「童が一人で何をしにきやがった」
「痛い目を見たくなければそこを退け」
「悪党の決まり文句だろ、それ。よく恥ずかしげもなく言えたもんだ」
銀時は飄々とした態度を崩さない。鼻の穴をほじりながら視線で麻袋を示した。
「つーか、そもそも人違いだぜ?商家のガキを攫ったつもりだろーが、顔をよく見てみろよ、親父と全然違うじゃねェか」
親父の顔なんて知らねーけど、と付け加える。
今にも攫われようとしている子どもが●●だという証拠はないが、銀時には確信めいたものがあった。
そしてそれは裏付けられた。男達の薄笑いと吐き出された言葉によって。
「それがどうした。このガキが実の娘だろうと赤の他人だろうと、こちらにはどうでもいいことよ」
「あんな男でも親は親。金を返せねえなら娘を差し出せと言ったら、身代わりを調達してきやがった。ま、正直あの娘より高い値がつきそうなんで、いい取引だったがなぁ」
端から銀時を始末するつもりなのだろう、聞いてもいないことをべらべらよく喋る。銀時は黙ってそのお喋りを聞きながら、麻袋をじっと見つめた。
商家の男は最初から実子の代わりにするつもりで●●を呼び出したのだ。おそらく身辺の調べをつけたうえで。
大方、出自のわからない子どもが一人行方不明になったところで構いやしないとでも考えたのだろう。
しかし、それは大きな間違いだと思い知らせるべきだ。
そのたった一人がいなくなるだけで、死に物狂いで探し出す人間が少なくとも一人、ここにいるということを。
銀時は鯉口を切った。空気の変化を感じ取ったのか、男達が素早く身構える。
先ほどまでの完全に舐め切った態度を改める程度には相手も馬鹿ではないらしい。
肩に荷物を負っていた男までも、麻袋を脇に放り出して刀を抜いた。おいおい、商品ならもっと丁重に扱えよな。
「てめーらが手ェ出したのがどういうもんなのか――教えてやる」
雲が月明かりを遮る中、目を殺気に輝かせた白髪の鬼が咆哮を上げた。
物のように静かな麻袋の口を開く銀時は祈るような思いだった。
金に換えるつもりだったのだからまさか死んではいないだろうが、取引相手が変質的な嗜好の持ち主だったら……。
ひょっとすると窒息しているかもしれない。汗で滑る手を必死に動かして、袋の口を大きく開いた。
見覚えのない上等の着物に包まれた肢体がだらりと弛緩して現れ、思わず息を呑む。
抱きかかえた少女の口元に手をやり、胸に耳を押し当て、銀時はようやく切迫した緊張感から解放された。
「はっ……生きてらァ……」
当たり前だ、死んでいるはずがない。銀時は場違いにも反動で笑い出しそうになった。
生存を信じながらも実際は僅かな不安によって押し潰されそうだったのだ。
銀時は●●の名前を呼んで、ぺちぺちと頬を軽く叩いた。青白く見えるそれを早くあたたかい色に戻したい。
しばらくして、●●は目蓋を震わせた。何かの薬を嗅がされたか飲まされたかしたらしい。
視線は焦点が定まらず、どういう状況なのか、呼びかけるのが誰なのかもわからない様子だった。
「●●、起きろ。帰ぇるぞ。飯時はとっくに過ぎちまったよ」
「……ぎん……さ……?」
「銀さんじゃなくて銀ちゃんな。いっつもそう呼んでんだろーが」
どこか夢見心地に囁いた●●が、銀ちゃん、と幾分か確かな発音で呟く。
隠れた月が再び木々の合間を照らしたその瞬間、銀時は凍り付いた。●●の表情を間近で認識したために。
それは潔いまでの諦念、自身の置かれた状況を恐ろしいほど客観視する目だった。
少女は救出されることを微塵も期待してはいなかったのだ。
銀時はもちろんのこと、●●がもっとも信頼を寄せているだろう松陽の助けすら、求めていなかった。
事情は知らずとも、異変に気づいたときにはすでに覚悟を決めたに違いなかった。もう元の生活には戻れない、と。
抗う術がないという以前に抗う意志も見せず、救われたいと願いもせず。
まるで鬼事で捕まってはい終わり、そのくらいの気軽さで少女は己を諦めていた。
ぞっとした。怒りよりも恐怖が勝った。どうしてそんなふうに簡単に捨てられる?
銀時の知る●●は決して命を粗末にするような人間ではなかった。此処で生きていくことを願っていたはずだ。
それとも、生きてさえいられれば場所などどうでもいいのか?……俺がそこに、居なくても。
衝撃のあまり硬直していた銀時は背後に迫る気配に気づくのが一拍遅れてしまった。
ハッと振り仰いだときには白刃が振り下ろされようとしていたが、その剣が届くことはなかった。
どっと地に伏して昏倒する男、その後ろに現れたのは、
「松陽……」
「油断大敵ですよ、銀時」
微笑みを湛える顔を見て泣き出したいような気持ちになった。――先生、●●が、助けに来たのに、●●は、松陽だって、……俺は、どうしたらいいんだ。
支離滅裂に溢れ出そうになる言葉が喉で滞り、その苦しみが銀時の表情を歪めた。
松陽は傍らに膝をついて●●の様子を確かめた後、銀時の頭に優しい手のひらを乗せた。
「よく頑張りました。むやみに殺生することなく、正しく大切なものを護れた。銀時は立派な兄貴分ですね」
「先生……」
「私は然るべきところに彼らを送り届けてきます。銀時は●●さんを連れて先にお帰んなさい」
命じられるままに動く操り人形のように、銀時は緩慢に動き出した。
松陽に預けた刀に取って代わる、人ひとりの重みを感じながら一歩一歩を踏みしめ、村へ続く道を引き返していく。
●●を連れて帰ること。目的を無事達成した、この手に取り戻した……だが、この気持ちは何なのだろう。
まだ意識の定まらない●●は自力で体勢を保てず、銀時は松下村塾に着くまでの間、何度も何度も少女を背負い直した。
地面を踏みしめるこの足に、支えるこの腕にかかる負荷が、証だ。じんわりあたたまる背中が証明してくれる。
●●は正体のわからぬ生き物などではなく、銀時と同じ人間で、銀時の知る人間で。生きて、居る。――嗚呼、それなのに。
漠然とした不安感はその後も銀時の中に頑として居座り続けることになる。
銀時の背中で、朦朧としながら少女は呟いた。わたし、まだ、ゆめをみていても、いいの。
その際道場に顔を覗かせたのだが、着物は少女が持っている中で一番見栄えのいいものだったと記憶している。
「今日は野良仕事の手伝いじゃねーのか」
「うん。お夕飯までには戻ると思うけど、もしわたしが遅れたら、先に支度を始めておいてくれる?」
「へいへい、りょーかい」
「ありがとう。いってきます」
剣術の稽古が終わり、太陽が傾き出す。塾生は皆、家に帰っていった。
銀時は●●の言葉を思い出して重たい腰を上げ、夕食の準備に取りかかった。そろそろ帰ってくるだろうが、たまにはいいところを見せてやろう。
ところが、山の稜線の向こうに太陽が隠れ、すっかり支度が整ってしまっても、●●が帰ってこない。
銀時は落ち着きなく立ったり座ったりを繰り返し、心配した松陽も縁側に出て、夜の闇に覆われようとしている空を見上げた。
「松陽。●●のやつ、今日はどこまで出かけたんだ」
ついに銀時が問いただすと、松陽は普段の穏やかさを潜ませて言った。
「……やはり行かせるべきではなかったかもしれない。銀時も知っているでしょう――」
松陽が答えたのは村の中でも指折りの商家の名だった。銀時の表情も些か険しくなる。
なかなかあくどい商売をしているらしいその家は、近頃商いが上手くいっていないという噂があった。信憑性は定かではないが、実は金に困っているとも……。
●●は一人娘の相手をしてもらいたいと言われ出かけたらしい。たしか同じ年頃の娘がいたはずだ。
身綺麗にしていったのもそのためなら納得が行く。そして、たとえ悪い噂があろうと出向いてしまうのはお人好しの性かと呆れもした。
「お嬢さんに気に入られて引き留められているだけならいいのですが……」
「良識のある家なら連絡のひとつも寄越すはずだろ」
銀時は刀を肩にかけると玄関に向かって歩き出した。銀時、と制す松陽の声に一度だけ足を止めて、
「先生は待っててくれ。入れ違いになったら困るからな。……心配すんな、迷惑はかけねェよ。俺はただ可愛い妹分を迎えに行くだけだ」
とっぷり日も暮れた頃、立派な表門ではなく裏口から人目を避けるように発つ男が二人。
銀時は気づかれぬよう後を追った。明かりも持たず、月の光を頼りにして足早に村から出ようとしている。
とうとう完全に人気のない森の中に入ると、先回りをして行く手を遮るように立ち塞がった。
「てめーら、人攫いか。悪いが、こっから先を通りたきゃそいつを置いていきな」
男の一人は膨らんだ麻袋を肩に担いでいた。子どもを容易く放り込めそうな大きさだ。
聞こえるように声を張ったにもかかわらず中身が動く気配はない。銀時は腰に下げた刀を手で確認した。
「童が一人で何をしにきやがった」
「痛い目を見たくなければそこを退け」
「悪党の決まり文句だろ、それ。よく恥ずかしげもなく言えたもんだ」
銀時は飄々とした態度を崩さない。鼻の穴をほじりながら視線で麻袋を示した。
「つーか、そもそも人違いだぜ?商家のガキを攫ったつもりだろーが、顔をよく見てみろよ、親父と全然違うじゃねェか」
親父の顔なんて知らねーけど、と付け加える。
今にも攫われようとしている子どもが●●だという証拠はないが、銀時には確信めいたものがあった。
そしてそれは裏付けられた。男達の薄笑いと吐き出された言葉によって。
「それがどうした。このガキが実の娘だろうと赤の他人だろうと、こちらにはどうでもいいことよ」
「あんな男でも親は親。金を返せねえなら娘を差し出せと言ったら、身代わりを調達してきやがった。ま、正直あの娘より高い値がつきそうなんで、いい取引だったがなぁ」
端から銀時を始末するつもりなのだろう、聞いてもいないことをべらべらよく喋る。銀時は黙ってそのお喋りを聞きながら、麻袋をじっと見つめた。
商家の男は最初から実子の代わりにするつもりで●●を呼び出したのだ。おそらく身辺の調べをつけたうえで。
大方、出自のわからない子どもが一人行方不明になったところで構いやしないとでも考えたのだろう。
しかし、それは大きな間違いだと思い知らせるべきだ。
そのたった一人がいなくなるだけで、死に物狂いで探し出す人間が少なくとも一人、ここにいるということを。
銀時は鯉口を切った。空気の変化を感じ取ったのか、男達が素早く身構える。
先ほどまでの完全に舐め切った態度を改める程度には相手も馬鹿ではないらしい。
肩に荷物を負っていた男までも、麻袋を脇に放り出して刀を抜いた。おいおい、商品ならもっと丁重に扱えよな。
「てめーらが手ェ出したのがどういうもんなのか――教えてやる」
雲が月明かりを遮る中、目を殺気に輝かせた白髪の鬼が咆哮を上げた。
物のように静かな麻袋の口を開く銀時は祈るような思いだった。
金に換えるつもりだったのだからまさか死んではいないだろうが、取引相手が変質的な嗜好の持ち主だったら……。
ひょっとすると窒息しているかもしれない。汗で滑る手を必死に動かして、袋の口を大きく開いた。
見覚えのない上等の着物に包まれた肢体がだらりと弛緩して現れ、思わず息を呑む。
抱きかかえた少女の口元に手をやり、胸に耳を押し当て、銀時はようやく切迫した緊張感から解放された。
「はっ……生きてらァ……」
当たり前だ、死んでいるはずがない。銀時は場違いにも反動で笑い出しそうになった。
生存を信じながらも実際は僅かな不安によって押し潰されそうだったのだ。
銀時は●●の名前を呼んで、ぺちぺちと頬を軽く叩いた。青白く見えるそれを早くあたたかい色に戻したい。
しばらくして、●●は目蓋を震わせた。何かの薬を嗅がされたか飲まされたかしたらしい。
視線は焦点が定まらず、どういう状況なのか、呼びかけるのが誰なのかもわからない様子だった。
「●●、起きろ。帰ぇるぞ。飯時はとっくに過ぎちまったよ」
「……ぎん……さ……?」
「銀さんじゃなくて銀ちゃんな。いっつもそう呼んでんだろーが」
どこか夢見心地に囁いた●●が、銀ちゃん、と幾分か確かな発音で呟く。
隠れた月が再び木々の合間を照らしたその瞬間、銀時は凍り付いた。●●の表情を間近で認識したために。
それは潔いまでの諦念、自身の置かれた状況を恐ろしいほど客観視する目だった。
少女は救出されることを微塵も期待してはいなかったのだ。
銀時はもちろんのこと、●●がもっとも信頼を寄せているだろう松陽の助けすら、求めていなかった。
事情は知らずとも、異変に気づいたときにはすでに覚悟を決めたに違いなかった。もう元の生活には戻れない、と。
抗う術がないという以前に抗う意志も見せず、救われたいと願いもせず。
まるで鬼事で捕まってはい終わり、そのくらいの気軽さで少女は己を諦めていた。
ぞっとした。怒りよりも恐怖が勝った。どうしてそんなふうに簡単に捨てられる?
銀時の知る●●は決して命を粗末にするような人間ではなかった。此処で生きていくことを願っていたはずだ。
それとも、生きてさえいられれば場所などどうでもいいのか?……俺がそこに、居なくても。
衝撃のあまり硬直していた銀時は背後に迫る気配に気づくのが一拍遅れてしまった。
ハッと振り仰いだときには白刃が振り下ろされようとしていたが、その剣が届くことはなかった。
どっと地に伏して昏倒する男、その後ろに現れたのは、
「松陽……」
「油断大敵ですよ、銀時」
微笑みを湛える顔を見て泣き出したいような気持ちになった。――先生、●●が、助けに来たのに、●●は、松陽だって、……俺は、どうしたらいいんだ。
支離滅裂に溢れ出そうになる言葉が喉で滞り、その苦しみが銀時の表情を歪めた。
松陽は傍らに膝をついて●●の様子を確かめた後、銀時の頭に優しい手のひらを乗せた。
「よく頑張りました。むやみに殺生することなく、正しく大切なものを護れた。銀時は立派な兄貴分ですね」
「先生……」
「私は然るべきところに彼らを送り届けてきます。銀時は●●さんを連れて先にお帰んなさい」
命じられるままに動く操り人形のように、銀時は緩慢に動き出した。
松陽に預けた刀に取って代わる、人ひとりの重みを感じながら一歩一歩を踏みしめ、村へ続く道を引き返していく。
●●を連れて帰ること。目的を無事達成した、この手に取り戻した……だが、この気持ちは何なのだろう。
まだ意識の定まらない●●は自力で体勢を保てず、銀時は松下村塾に着くまでの間、何度も何度も少女を背負い直した。
地面を踏みしめるこの足に、支えるこの腕にかかる負荷が、証だ。じんわりあたたまる背中が証明してくれる。
●●は正体のわからぬ生き物などではなく、銀時と同じ人間で、銀時の知る人間で。生きて、居る。――嗚呼、それなのに。
漠然とした不安感はその後も銀時の中に頑として居座り続けることになる。
銀時の背中で、朦朧としながら少女は呟いた。わたし、まだ、ゆめをみていても、いいの。