目覚めのデッドエンド
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使い勝手の悪い肉体にも少しずつ慣れてきたので、わたしは歩行の練習を始めた。あんよはじょうず、っと。
それにしてもハイテクなこのご時世に逆らうような仕様の夢だとつくづく思う。見事なまでのぎこちなさ。どうにかひとまず立ち上がることができたものの、そこからが難しかった。
まず、足が地面に着いている感触がない。一歩踏み出したつもりがよくわからず、平衡感覚もいまいち掴めない。数えるのも億劫になるくらい膝をついたし、尻餅をついた。ベンチの背を利用してのつかまり立ちに挑戦する姿は、赤ちゃんと老婆のどっちが言い得て妙かね……。
それでもなにかしら変化を起こさないと、この夢から抜け出せない気がして、無限に感じられる時間を根気強く費やして徐々に行動範囲を広げていった。といってもせいぜいこの公園内だけど。
生まれたての動物だって種によってはすぐに立てるっていうのに、わたしはそれ以下か。超次元的なことがなんでも叶う夢の中で退化するってどうなんだ。……と考えて、そうかと気づく。
――“夢”だ。頭の中で起こる夢ならばこそ想像力がものを言うんじゃないかと、イメージトレーニングを強化してみることに。するとそこから幾分か上達の速度が上がったような気がした。自分じゃわからないけど様にはなってる感じ。それでもこの調子で長距離は無理っぽいな。歩くだけでこの苦労。空を飛ぶなんてことは夢のまた夢ってやつかー。
マイホームとして愛着が湧きそうな公園の隅っこのベンチに座って、だらりと力を抜く。腿のあたりまで垂れる長い髪が視界を塞いだ。……これ、傍から見たら完璧貞子だわ。う~ぅ~きっとくる~って。怖い物見たさで鑑賞した映画はいまだにトラウマです。
俯いて、さて次に何日飛ばしてみようかと悩む。目を瞑って、一時間――半日――二日――……うん、こんなもんかな。
気分的に自分をリセットして、さあ今日も頑張るぞと思ったところに、こんにちはという声が聞こえてきた。はい、こんにちは。心の中で勝手に返す。……ん?ちょっと待って、このイイ声ってたしか……?
「ああ、お元気そうでよかった」
「……こんにちは」
へい大将、やってるー?ってな感じに、暖簾のごとくわたしの前髪をそっと指先でよけたのは、この間の親切なお兄さんだった。――来たか、第二波。まさか同じ人に二度も声をかけられるとは思わなかった。
彼は柔和な微笑みを浮かべながら「隣にお邪魔しても?」と聞いてくる。このベンチは誰のものでもないから断れない。お尻をずらして場所を空けると、ありがとうございますとお礼を言われた。丁寧な物腰の人だ。
ここをわざわざ選んで座ったからには、わたしに用があるんだろう。この前注意してやったのにまた寝やがって、とかそういう展開だったらどうしよう。怖いよー。
そんなリアルは求めてない。内心戦々恐々としていると、長い足を優雅に組んだ彼がわたしのほうを向いて話し出した。
「よほどこの公園がお好きなようですね。実は通りすがりに、あれから何度か君の姿を見かけたのですが……今日も、お昼寝ですか?」
「……まさか。たまたまです」
「ほう……?」
仮に見られていたとしてもきっと遠目からで、声をかけられてはいないはずだ。それならと多少強引でもごまかそうとすれば、面白いものを見る顔をされた。あの、興味を持たないでくれませんかね?
「随分と時間にゆとりのある生活をされているようですが、学生ならばこの時間帯に公園にいるのは些か不思議ですね……」
……これってどういうイベントなんだろう。ていうか学生って、大学生だよね?とっくに卒業しましたけど。もしかして結構若く見られてる……?
大学生活ではできるだけ早めに単位を取っておこうと、最初のうちに時間割を埋めた記憶がある。おかげで四回生のときは主に卒論を仕上げる一年だった。懐かしいなあ、じゃなくて。
会話の意図が掴めないけど、どんなに願っても選択式に切り替わることはなかった。しかたなく自力で会話を続ける。世間話よりはシリアスに、かと言って不審者に対する尋問よりは軽い口調のお兄さん。やっぱりどっかで聞いたことのある声だなと思いつつ、質問には質問で返そう。
「そう言うお兄さんも、多忙というわけではなさそうですが……」
わたしを見かけるということは、それなりの頻度でこのあたりを通っているわけで。通勤でもなさそうだし、散歩が日課だったりするんだろうか。暗にそちらはどうなのだと問うわたしに気を悪くした様子もなく、彼はあっさり肯定して正体を明かした。
「ええ。僕は院生なので、時間にはわりと融通が利くんですよ」
大学院生。なるほど、賢そうに見えるんじゃなくて実際頭のいい人だったわけか。でも大学院って研究やらなにやらでむしろ結構忙しいんじゃないの?縁遠い世界の話だからよくわからない。
院にまで行くんだから、きっと勉強が好きで目標がある人なんだろうな。わたしとは大違い。……となると、お兄さんはわたしよりも年下である可能性が俄かに浮上する。年上っぽいんだけどなあ。歳を教えるくらいたいしたことはないかと踏んで、ならばと訊かれる前に自ら回答を差し出すことにする。
「わたしも時間には余裕のあるほうです。学生だったのは昔の話ですけど。早いもので三十も過ぎました」
「……は……?」
途端にお兄さんは呆気にとられた顔をした。うん?今の、めちゃくちゃ素の声じゃない?
二十代とさよならしてからは年齢を打ち明けるのにちょっとした抵抗を覚えるようになった。女として、じゃなくて。こう、中身を伴う加齢ならまだしも、そうじゃない自覚があるからこその羞恥心と言いますか。若く見られるのを単純に喜べたらいいんだけど。ねー。
お兄さんは瞳の見えない細い目でまじまじとわたしの顔を眺めると、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「……失礼しました。まさか年上だったとは」
「年下でしたか」
「はい。僕は二十七歳ですので」
「お若いですね、二十代。ちなみになんですが、わたしは何歳に見えましたか?」
「てっきり二十歳そこそこかと……。十代後半だと言われても信じたでしょうね」
今度はわたしが驚かされる番だった。十代、だと……?さすがにそれはない。顔パスでお酒が買えるようになって何年経ったと。お兄さん、目が悪いのかな。あ、眼鏡を掛けてるんだから悪いんだな。それ合ってないと思います、眼鏡屋さんに直行したほうがいいですよ。
公開した年齢にお互い驚き合うという妙な展開を経て、次なるステップに進んだ。別に親睦を深める予定はないのに、名乗られたからにはこっちも名乗るしかない。
「申し遅れました、沖矢昴といいます。東都大学の大学院工学部に在籍しています」
「……どうも。▲▲です」
とうとだいがく。耳慣れない響き。うーん、知らないな。怪しい者じゃないよって意味での自己紹介なんだろうけど、こっちにまで同等の情報公開を求めないでほしい。
姓だけで済ませようと思ったら、先を促すように復唱された。下の名前を付け加えれば今度は字まで問われる。彼自身の名前の漢字表記を先に告げるという抜かりのなさ。逃げられない。なんだこの人。他人の個人情報を収集する癖でもあるの。もしこれが現実世界なら特に疑問を抱かないだろうスマートさに、うっすら寒気を覚えた。
「今日は、お仕事はお休みなんですか?」
今日はというか今日“も”と言いたげな口調だ。気持ちはわかる。三十過ぎの人間が無職というのも珍しいだろうから、働いていると仮定しての問いかけは自然な流れだった。正社員よりは勤務時間も給料も少ないパートとはいえ、ニートと思われるのはちょっと不服。でも公園に入り浸ってるように見える人間が働いていると声高に主張するのもどうか。
ここは無難に乗り切ろうと、彼の質問にイエスとのみ答えた。これ以上突っ込まれませんように。
……なんか、だんだん疲れてきたかも。難解な話題でもないのに頭のいい人との会話ってこんなに消耗するんだ。いや偏見か。わたしのほうが勝手に、主に精神的なものが削られてる。気を張りすぎて。夢なのになんでこんなに現実的。心理戦とか向いてないんだよー。
名乗り合ったことで赤の他人から一歩前進、少なくともこれで顔見知り認定はされてしまった。で、このキーパーソンといったいどうしろと……?かっこいい知り合いが出来て喜ぶ場面じゃないのは理解した。
沖矢さんは相変わらずわたしの顔から目を逸らさない。正直合ってるんだか合ってないんだかな視線だけど、顔の向きが固定されてるということはつぶさに観察されてると考えたほうがよさそうだ。
自己紹介を終えたところでひとまず今日は解散したい。わたしは思い切って彼に尋ねてみることにした。
「それで、わたしになにか御用でしょうか」
たとえ本当に時間に余裕があったとしても、大学院生が公園の不審者に貴重な時間を割く理由にはならない。突拍子もないことを言い出されたら太刀打ちできないぞ……と知的な人間の思考回路に怯えていると、沖矢さんは「ああ、そうでした」とたった今思い出したように身体をひねって横を向き、向こう側からなにかを膝の上に取り上げた。紙袋。手ぶらじゃなかったとは気づかなかった。
「今日はこれを●●さんに、と思いまして……」
おおう、早速名前呼びですか。めちゃくちゃナチュラル。さすがイケメン。突っ込む間もなく、袋の中から取り出されたものを目にして言葉を失う。女物のサンダル……?なにゆえ。
今日ってなにかの記念日だったかなと思わず考えて、そうじゃないやとぶっ飛んだ思考を修正する。贈り物をされる理由もなければ、そもそも言葉を交わすのはこれで二回目のほぼ他人同士だ、さっぱりわけがわからない。
差し出されたサンダルをしばらく無言で眺めていると、沖矢さんは苦笑した。そう警戒しないで、なんて無理があるのは彼もきっと気づいてる。
「念のためにお伺いしますが、それをわたしにくださる……ということでしょうか」
「はい、そうです」
「受け取れません」
夢なんだから生真面目に考える必要はないと言えばなかった。もらえるものはもらっとこうと普段のわたしなら考える。けど反射的に断ってた。だって二度目ましての人から―― 一方的には何度か見られていたらしいが――平然ともらえると思う?そんな耐性は皆無である。うん。
沖矢さんは困ったように眉尻を下げた。困りましたね、と実際に口にも出した。その表情と声音にこっちが悪いことをした気持ちになる。イケメンって理不尽。
「受け取ってもらえないとこれの行き場がなくなるのですが……デザインがお気に召しませんでしたか?それとも色かな」
「そういう問題ではなく、頂戴する理由がありません」
「二足まとめて買うとお得だったので、それならもう一足は●●さんにプレゼントしようかと。僕は一足あれば十分でしたから」
ありますよねえ、そういうセール。って、いや、だからそこでわたしが登場する意味がわからないんです……?
サンダルを手にして立ち上がった彼は、わたしの目の前に。まるであのときみたいだと思った。違うのは、跪いたお兄さんの名前をわたしが知っていて、名もなき不審者だったわたしの名前を彼が知ったということ。
沖矢さんはサンダルを地面に置いて、代わりに別のものを手に取った。
「お近づきのしるしに、という品物ではありませんが、このサンダルを見たときに思ったんです。――いつも素足でいる君に是非とも贈りたい、とね」
ほんのりと伝わってくる体温は思いがけないところから。片足をそっと取って持ち上げられたことを視覚で正確に知った。……そう、わたしは知ったのだ。たった今、この瞬間に。自分が裸足だったという驚愕の事実を。
(……マジでか)
絶対に一度は見たはずだった。少なくとも歩行の練習をしたときには必ず。転んで、立ち上がって、何度も見る機会はあったはずだし、自分の足が視界に映ったに違いなかった。なのに全然意識できなかった。――ああなるほど、これが夢の弊害というやつか。夢の中ってどこかがおかしくてもそれを認識できないときってあるもんね。それならそうとわたし以外の登場人物にも等しく適用してほしかった。くっ、求めてないリアルがここにも。
言い逃れできなくなったわたしは無言でその光景を受け入れた。沖矢さんがさらに紙袋から取り出したタオルでわたしの足を丁寧に拭き、優しくサンダルを履かせてくれるのを。
まるでそれはドラマの一場面。さながら気分はシンデレラ。ただしガラスの靴を片方残していったわけじゃなく最初から裸足の野生児だ。ロマンチックの欠片もねーわ。
沖矢さんがこんなわたしのために選んでくれたというサンダルは、デザイン性が高い華奢なものじゃなくて、機能性重視のシンプルなもの。カラーはシックな赤。アンクルストラップはありがたい、おかげでなんちゃってシンデレラになる心配はなさそうだ。
「サイズはぴったりですね。履き心地はいかがですか?」
「いいと思います……」
たぶん。なにぶん感覚がないもので。見た目で判断すると問題はないと思う。別問題はありまくりだけど。でもここまでしてもらったら、もう受け取らざるをえないよね……。
プレゼントされることへの抵抗感の次にやってきたのは申し訳なさ。乙女ゲームとして割り切れたら気が楽になるんだろうけどなあ。お近づきになる展開が多少早くてもそういう仕様なんだと割り切れるし。てことは彼は攻略対象?むしろ攻略されてる気がするのはなんでだろ。
返せるものがないわたしは、感謝の気持ちを言葉にすることしかできない。
「ありがとうございます、沖矢さん」
沖矢さんがこうして気にかけてくれなかったら、きっと自分の状態に気づかないままだった。いずれこの公園から出るとしても、もしわたしのことが見える人に見られていたらと思うと。本当に。ありがとうございますとしか言えないよ。
「どういたしまして。喜んでいただけて何よりです」
穏やかに口元を綻ばせた彼が薄く目を開けてわたしを見つめる。その瞳はやっぱり綺麗な緑色だった。
それにしてもハイテクなこのご時世に逆らうような仕様の夢だとつくづく思う。見事なまでのぎこちなさ。どうにかひとまず立ち上がることができたものの、そこからが難しかった。
まず、足が地面に着いている感触がない。一歩踏み出したつもりがよくわからず、平衡感覚もいまいち掴めない。数えるのも億劫になるくらい膝をついたし、尻餅をついた。ベンチの背を利用してのつかまり立ちに挑戦する姿は、赤ちゃんと老婆のどっちが言い得て妙かね……。
それでもなにかしら変化を起こさないと、この夢から抜け出せない気がして、無限に感じられる時間を根気強く費やして徐々に行動範囲を広げていった。といってもせいぜいこの公園内だけど。
生まれたての動物だって種によってはすぐに立てるっていうのに、わたしはそれ以下か。超次元的なことがなんでも叶う夢の中で退化するってどうなんだ。……と考えて、そうかと気づく。
――“夢”だ。頭の中で起こる夢ならばこそ想像力がものを言うんじゃないかと、イメージトレーニングを強化してみることに。するとそこから幾分か上達の速度が上がったような気がした。自分じゃわからないけど様にはなってる感じ。それでもこの調子で長距離は無理っぽいな。歩くだけでこの苦労。空を飛ぶなんてことは夢のまた夢ってやつかー。
マイホームとして愛着が湧きそうな公園の隅っこのベンチに座って、だらりと力を抜く。腿のあたりまで垂れる長い髪が視界を塞いだ。……これ、傍から見たら完璧貞子だわ。う~ぅ~きっとくる~って。怖い物見たさで鑑賞した映画はいまだにトラウマです。
俯いて、さて次に何日飛ばしてみようかと悩む。目を瞑って、一時間――半日――二日――……うん、こんなもんかな。
気分的に自分をリセットして、さあ今日も頑張るぞと思ったところに、こんにちはという声が聞こえてきた。はい、こんにちは。心の中で勝手に返す。……ん?ちょっと待って、このイイ声ってたしか……?
「ああ、お元気そうでよかった」
「……こんにちは」
へい大将、やってるー?ってな感じに、暖簾のごとくわたしの前髪をそっと指先でよけたのは、この間の親切なお兄さんだった。――来たか、第二波。まさか同じ人に二度も声をかけられるとは思わなかった。
彼は柔和な微笑みを浮かべながら「隣にお邪魔しても?」と聞いてくる。このベンチは誰のものでもないから断れない。お尻をずらして場所を空けると、ありがとうございますとお礼を言われた。丁寧な物腰の人だ。
ここをわざわざ選んで座ったからには、わたしに用があるんだろう。この前注意してやったのにまた寝やがって、とかそういう展開だったらどうしよう。怖いよー。
そんなリアルは求めてない。内心戦々恐々としていると、長い足を優雅に組んだ彼がわたしのほうを向いて話し出した。
「よほどこの公園がお好きなようですね。実は通りすがりに、あれから何度か君の姿を見かけたのですが……今日も、お昼寝ですか?」
「……まさか。たまたまです」
「ほう……?」
仮に見られていたとしてもきっと遠目からで、声をかけられてはいないはずだ。それならと多少強引でもごまかそうとすれば、面白いものを見る顔をされた。あの、興味を持たないでくれませんかね?
「随分と時間にゆとりのある生活をされているようですが、学生ならばこの時間帯に公園にいるのは些か不思議ですね……」
……これってどういうイベントなんだろう。ていうか学生って、大学生だよね?とっくに卒業しましたけど。もしかして結構若く見られてる……?
大学生活ではできるだけ早めに単位を取っておこうと、最初のうちに時間割を埋めた記憶がある。おかげで四回生のときは主に卒論を仕上げる一年だった。懐かしいなあ、じゃなくて。
会話の意図が掴めないけど、どんなに願っても選択式に切り替わることはなかった。しかたなく自力で会話を続ける。世間話よりはシリアスに、かと言って不審者に対する尋問よりは軽い口調のお兄さん。やっぱりどっかで聞いたことのある声だなと思いつつ、質問には質問で返そう。
「そう言うお兄さんも、多忙というわけではなさそうですが……」
わたしを見かけるということは、それなりの頻度でこのあたりを通っているわけで。通勤でもなさそうだし、散歩が日課だったりするんだろうか。暗にそちらはどうなのだと問うわたしに気を悪くした様子もなく、彼はあっさり肯定して正体を明かした。
「ええ。僕は院生なので、時間にはわりと融通が利くんですよ」
大学院生。なるほど、賢そうに見えるんじゃなくて実際頭のいい人だったわけか。でも大学院って研究やらなにやらでむしろ結構忙しいんじゃないの?縁遠い世界の話だからよくわからない。
院にまで行くんだから、きっと勉強が好きで目標がある人なんだろうな。わたしとは大違い。……となると、お兄さんはわたしよりも年下である可能性が俄かに浮上する。年上っぽいんだけどなあ。歳を教えるくらいたいしたことはないかと踏んで、ならばと訊かれる前に自ら回答を差し出すことにする。
「わたしも時間には余裕のあるほうです。学生だったのは昔の話ですけど。早いもので三十も過ぎました」
「……は……?」
途端にお兄さんは呆気にとられた顔をした。うん?今の、めちゃくちゃ素の声じゃない?
二十代とさよならしてからは年齢を打ち明けるのにちょっとした抵抗を覚えるようになった。女として、じゃなくて。こう、中身を伴う加齢ならまだしも、そうじゃない自覚があるからこその羞恥心と言いますか。若く見られるのを単純に喜べたらいいんだけど。ねー。
お兄さんは瞳の見えない細い目でまじまじとわたしの顔を眺めると、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「……失礼しました。まさか年上だったとは」
「年下でしたか」
「はい。僕は二十七歳ですので」
「お若いですね、二十代。ちなみになんですが、わたしは何歳に見えましたか?」
「てっきり二十歳そこそこかと……。十代後半だと言われても信じたでしょうね」
今度はわたしが驚かされる番だった。十代、だと……?さすがにそれはない。顔パスでお酒が買えるようになって何年経ったと。お兄さん、目が悪いのかな。あ、眼鏡を掛けてるんだから悪いんだな。それ合ってないと思います、眼鏡屋さんに直行したほうがいいですよ。
公開した年齢にお互い驚き合うという妙な展開を経て、次なるステップに進んだ。別に親睦を深める予定はないのに、名乗られたからにはこっちも名乗るしかない。
「申し遅れました、沖矢昴といいます。東都大学の大学院工学部に在籍しています」
「……どうも。▲▲です」
とうとだいがく。耳慣れない響き。うーん、知らないな。怪しい者じゃないよって意味での自己紹介なんだろうけど、こっちにまで同等の情報公開を求めないでほしい。
姓だけで済ませようと思ったら、先を促すように復唱された。下の名前を付け加えれば今度は字まで問われる。彼自身の名前の漢字表記を先に告げるという抜かりのなさ。逃げられない。なんだこの人。他人の個人情報を収集する癖でもあるの。もしこれが現実世界なら特に疑問を抱かないだろうスマートさに、うっすら寒気を覚えた。
「今日は、お仕事はお休みなんですか?」
今日はというか今日“も”と言いたげな口調だ。気持ちはわかる。三十過ぎの人間が無職というのも珍しいだろうから、働いていると仮定しての問いかけは自然な流れだった。正社員よりは勤務時間も給料も少ないパートとはいえ、ニートと思われるのはちょっと不服。でも公園に入り浸ってるように見える人間が働いていると声高に主張するのもどうか。
ここは無難に乗り切ろうと、彼の質問にイエスとのみ答えた。これ以上突っ込まれませんように。
……なんか、だんだん疲れてきたかも。難解な話題でもないのに頭のいい人との会話ってこんなに消耗するんだ。いや偏見か。わたしのほうが勝手に、主に精神的なものが削られてる。気を張りすぎて。夢なのになんでこんなに現実的。心理戦とか向いてないんだよー。
名乗り合ったことで赤の他人から一歩前進、少なくともこれで顔見知り認定はされてしまった。で、このキーパーソンといったいどうしろと……?かっこいい知り合いが出来て喜ぶ場面じゃないのは理解した。
沖矢さんは相変わらずわたしの顔から目を逸らさない。正直合ってるんだか合ってないんだかな視線だけど、顔の向きが固定されてるということはつぶさに観察されてると考えたほうがよさそうだ。
自己紹介を終えたところでひとまず今日は解散したい。わたしは思い切って彼に尋ねてみることにした。
「それで、わたしになにか御用でしょうか」
たとえ本当に時間に余裕があったとしても、大学院生が公園の不審者に貴重な時間を割く理由にはならない。突拍子もないことを言い出されたら太刀打ちできないぞ……と知的な人間の思考回路に怯えていると、沖矢さんは「ああ、そうでした」とたった今思い出したように身体をひねって横を向き、向こう側からなにかを膝の上に取り上げた。紙袋。手ぶらじゃなかったとは気づかなかった。
「今日はこれを●●さんに、と思いまして……」
おおう、早速名前呼びですか。めちゃくちゃナチュラル。さすがイケメン。突っ込む間もなく、袋の中から取り出されたものを目にして言葉を失う。女物のサンダル……?なにゆえ。
今日ってなにかの記念日だったかなと思わず考えて、そうじゃないやとぶっ飛んだ思考を修正する。贈り物をされる理由もなければ、そもそも言葉を交わすのはこれで二回目のほぼ他人同士だ、さっぱりわけがわからない。
差し出されたサンダルをしばらく無言で眺めていると、沖矢さんは苦笑した。そう警戒しないで、なんて無理があるのは彼もきっと気づいてる。
「念のためにお伺いしますが、それをわたしにくださる……ということでしょうか」
「はい、そうです」
「受け取れません」
夢なんだから生真面目に考える必要はないと言えばなかった。もらえるものはもらっとこうと普段のわたしなら考える。けど反射的に断ってた。だって二度目ましての人から―― 一方的には何度か見られていたらしいが――平然ともらえると思う?そんな耐性は皆無である。うん。
沖矢さんは困ったように眉尻を下げた。困りましたね、と実際に口にも出した。その表情と声音にこっちが悪いことをした気持ちになる。イケメンって理不尽。
「受け取ってもらえないとこれの行き場がなくなるのですが……デザインがお気に召しませんでしたか?それとも色かな」
「そういう問題ではなく、頂戴する理由がありません」
「二足まとめて買うとお得だったので、それならもう一足は●●さんにプレゼントしようかと。僕は一足あれば十分でしたから」
ありますよねえ、そういうセール。って、いや、だからそこでわたしが登場する意味がわからないんです……?
サンダルを手にして立ち上がった彼は、わたしの目の前に。まるであのときみたいだと思った。違うのは、跪いたお兄さんの名前をわたしが知っていて、名もなき不審者だったわたしの名前を彼が知ったということ。
沖矢さんはサンダルを地面に置いて、代わりに別のものを手に取った。
「お近づきのしるしに、という品物ではありませんが、このサンダルを見たときに思ったんです。――いつも素足でいる君に是非とも贈りたい、とね」
ほんのりと伝わってくる体温は思いがけないところから。片足をそっと取って持ち上げられたことを視覚で正確に知った。……そう、わたしは知ったのだ。たった今、この瞬間に。自分が裸足だったという驚愕の事実を。
(……マジでか)
絶対に一度は見たはずだった。少なくとも歩行の練習をしたときには必ず。転んで、立ち上がって、何度も見る機会はあったはずだし、自分の足が視界に映ったに違いなかった。なのに全然意識できなかった。――ああなるほど、これが夢の弊害というやつか。夢の中ってどこかがおかしくてもそれを認識できないときってあるもんね。それならそうとわたし以外の登場人物にも等しく適用してほしかった。くっ、求めてないリアルがここにも。
言い逃れできなくなったわたしは無言でその光景を受け入れた。沖矢さんがさらに紙袋から取り出したタオルでわたしの足を丁寧に拭き、優しくサンダルを履かせてくれるのを。
まるでそれはドラマの一場面。さながら気分はシンデレラ。ただしガラスの靴を片方残していったわけじゃなく最初から裸足の野生児だ。ロマンチックの欠片もねーわ。
沖矢さんがこんなわたしのために選んでくれたというサンダルは、デザイン性が高い華奢なものじゃなくて、機能性重視のシンプルなもの。カラーはシックな赤。アンクルストラップはありがたい、おかげでなんちゃってシンデレラになる心配はなさそうだ。
「サイズはぴったりですね。履き心地はいかがですか?」
「いいと思います……」
たぶん。なにぶん感覚がないもので。見た目で判断すると問題はないと思う。別問題はありまくりだけど。でもここまでしてもらったら、もう受け取らざるをえないよね……。
プレゼントされることへの抵抗感の次にやってきたのは申し訳なさ。乙女ゲームとして割り切れたら気が楽になるんだろうけどなあ。お近づきになる展開が多少早くてもそういう仕様なんだと割り切れるし。てことは彼は攻略対象?むしろ攻略されてる気がするのはなんでだろ。
返せるものがないわたしは、感謝の気持ちを言葉にすることしかできない。
「ありがとうございます、沖矢さん」
沖矢さんがこうして気にかけてくれなかったら、きっと自分の状態に気づかないままだった。いずれこの公園から出るとしても、もしわたしのことが見える人に見られていたらと思うと。本当に。ありがとうございますとしか言えないよ。
「どういたしまして。喜んでいただけて何よりです」
穏やかに口元を綻ばせた彼が薄く目を開けてわたしを見つめる。その瞳はやっぱり綺麗な緑色だった。