目覚めのデッドエンド
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「その鏡にはどんな意味があるんですか?」
やはりと言うべきか、安室さんは堂々とわたしを観察していた。テーブル席から食器を下げてきて洗い物を済ませた後は、わたしの正面を陣取った。立てた鏡を見つめながら飲み物を飲む客なんて初めてだろう、訝しがる様子を隠さない。変人扱いおおいに結構、奇行種だとでも思って引いてくれたら万々歳。でも普通の人なら敬遠するところをあえて踏み込んでくるのが探偵という生き物か。
こればっかりはいくら優秀な頭脳を働かせても解けないでしょ?わたしは視線を上げて真正面からでたらめを吐いた。
「私は人より飲み込む力が弱いらしくて、そのせいで人前で失敗してしまったことがありまして……こうやって鏡でチェックしながらでないと落ち着かないんです」
「それは……大変ですね。気を遣いながらの食事なんておつらいでしょう」
適当な説明で納得するような人じゃないだろう。それでも安室さんは表面上は同情するような表情で優しく気遣ってくれた。それが演技だとしても騙す側としては少々良心が咎めた。……まあ、あながち完全に嘘でもないんだけどね。実験でわかったことだけど、固形物を食べるのはかなりのハードモードなのだ。噛む感覚がないと咀嚼もうまくできないし、飲み込むタイミングも難しい。下手すれば喉を詰まらせて死亡とか、舌を噛み切って死亡なんていう事態も起こりうる。できることならさ、もうちょっと穏便な方法で目覚めたいと思うよね……?仮初めと言えども壮絶な死はぜひともお断りしたい。
安室さんとの会話を耳にして、梓さんも気遣わしげな表情でわたしを見つめた。
「●●さん、ちゃんと食事は取ってるんですか?お肌が白いのは羨ましいけど、もしかして貧血気味とか、栄養が足りてないんじゃ……」
年上ということが発覚したため、ちゃん付けはなしになったらしい。年下の女の子からそう呼ばれるのは気恥ずかしかったからよかった。わたしのほうが梓ちゃんと呼ぶべきかな。うーん、でも“梓さん”はやっぱり梓さんなんだよねえ。
表情が変わらないどころかちっとも赤みの差さない顔を指摘されて、これが標準仕様なのだと弁明したくなった。にこりともしないことには触れられない。配慮か、個性だとでも思われてるのか……。
「確かに、一人暮らしだと不摂生になりがちですよね。▲▲さんはしっかりされているように見えて、そういう所は抜けてそうですし。体調を崩しても病院に行かず、じっと我慢されているんじゃないですか?引っ越して来たばかりで周りに頼れる人もいないんでしょう?」
「そうなんですか?」
心配だとありありと顔に書いた梓さん。親身になってくれるのは嬉しいけど、なんだか会話の流れを安室さんに誘導されているような。どういう方向に行かせたいのか知らないが、わたしは彼女に「もしものときはさすがに誰かに頼ります」と答えて安心させた。会話に応じながらもカフェオレを消費することを忘れない。むう、なかなか減らない……。まあ、彼らに心配されるようなもしものことは起こらないと思っている。この身体で病死はないと根拠もなく確信していた。その他の危険ならこっちから腕を広げて歓迎すべきだろう。この夢から覚めるためには。
「あなたが頼りにするその“誰か”に該当する相手が気になる所ですが……」
安室さんの声にひやりとした感情が混じる。瞬時に脳裏に浮かんだのは眼鏡を掛けた細目の大学院生のことで、気管に入ったわけでもないはずなのに危うく噎せそうになった。こう、気分的に。意地でも鏡から目を離さずにせっせと消費に勤しんだ。思うようになくならないカフェオレに苦戦するわたしをじっと見下ろす彼は、忍ばせた冷気を綺麗さっぱり拭い去って平常どおりの声音に戻した。
「いざという時に頼りになる人間は多い方がいいと思いませんか、ねえ梓さん?」
なぜそこで梓さんに話を振るんだ、と思った疑問は直後に解決された。ぱんっと両手を合わせた彼女によって。
「安室さんの言う通りよ!●●さんっ、私と連絡先を交換しましょう!」
名案を思いついたとばかりにキラキラした眼で梓さんは身を乗り出してきた。そう来たかー。でも待てよ。安室さんには連絡手段を持たないことを事前に伝えてたはず。それでどうしてこの運びになるの。携帯電話を持たない希少な人間の存在を周知したいのか……?
「お気遣いありがとうございます。ですが、」
「▲▲さんは携帯電話をお持ちじゃないんですよね?その事について僕から良い提案があります」
ありがたい梓さんの申し出を心苦しくも断ろうとしたところ、安室さんがさっと片手を上げて口を挟んだ。ちょうどそのとき、店内に残っていた一人が会計を済ませようと席を立った。梓さんがレジに回り、安室さんもまた店の奥に向かった。今のうちにカフェオレの処理を進める。コツは少し掴めた気がするけど。半分も減っていないグラスを見てストローで氷を回した。喫茶店のカフェオレ、しかもあの安室さんお手製の飲み物。そんじょそこらのより絶対においしいはずだ。ここにいるのが本物のわたしだったら味わえたのになー。
「ありがとうございました!」と元気に最後のお客さんを見送った梓さんがいそいそと戻ってくる。喫茶店が閑散としているのはどうかと思うけど、誰もいなくなったことでこっちの会話に集中できると彼女は素直に喜んでいるようだった。せめて売り上げにもっと貢献できればよかったんだけど……故意じゃなくてもカフェオレ一杯で長時間粘る迷惑なカスタマーであることは自覚している。申し訳ない。
「それで、安室さんの良い提案って何でした?」
「さあ、なんでしょうね。わたしには見当もつきません」
「……JKにも大人気のあの安室さんに全然靡かないって……●●さん、とっても綺麗な上にクールで素敵……」
彼の思惑はもれなくさっぱりわからない。なぜかうっとり頬を染める梓さんに首を傾げて、またカフェオレの消費作業に戻った。下を向くと垂れてくる髪の毛は現在進行形で絶賛放置中。これは、いい加減バッサリ行ってしまいたい気持ちもある。手を加えていいものなのかはっきりすれば切ってもいいかもしれない。でもさあ、呪いの人形みたいに一晩で伸びてきそうじゃない?そう思うのってわたしだけ?
「もう少し僕に興味を持っていただければ、泣いて喜ぶんですけどね」
奥から戻ってきたイケメンがさりげなく会話に加わりながら「今後僕を喜ばせてくれる予定ってあります?」と魅惑の笑みを向けてくる。もちろんないです。別の意味で興味は持ってるけど。どうすれば主要キャラクターに関わらずに済むのか、とかなら。
安室さんは返答を期待できないとわかっていたように「まあ予定は未定と言いますからね」とポジティブに自答して、あるものをわたしの前に差し出した。その意外性にストローから口を離す。大きな液晶画面はいまだにガラケーを愛用しているわたしには見慣れないもので、まじまじと眺めてしまう。どこからどう見てもスマートフォンだった。
「安室さんのケータイ、ですよね?」
「はい。そして今からあなたのケータイになります」
……急に日本語が理解できなくなった。スマホから視線をつつと上向きにする。安室さんはわたしの手に渡るまでその体勢を維持するつもりのようで、しかたなくその精密機器を両手で受け取った。綺麗な淡いブルーのスマホ。世の中の携帯電話保有者の大半が現在持っているのがこれか。
「僕は普段から複数台を使い分けているんですが、あまり使っていない物がそれなんです。▲▲さんがお持ちでないと聞いて、ちょうどいいんじゃないかと思いまして……。どうぞお好きなように使ってください。もちろん通信費はこちらで負担します。あなたはただ持っていてくれるだけでいい。どうです、悪い話ではないでしょう?」
安室さんはそう言うけど悪いもなにも、とんでもなく好条件だ。金銭的負担をせずにスマホをゲットできるなんて。親切にしてはあまりにも行き過ぎているし、数回顔を合わせただけの客をここまで気にかける必要があるだろうか。
さすがにこの対応には梓さんもおかしいと気づいてくれるかと思いきや、彼女は非常に乗り気だった。うりうりと肘で安室さんをつつきかねない表情で「こんなに積極的な安室さん、見たことないんですけど。さては本気で●●さんを狙ってますね?」とこそこそと耳打ちしていた。おーい、聞こえてるよー。おやバレてしまいましたか、って安室さんもわざとらしく照れてみせなくていいですから。
「●●さん、ここは安室さんに甘えちゃいましょう!この人、こう見えて結構稼いでるみたいだから遠慮なんかしなくていいですよっ」
「あはは……。まあ梓さんの仰る通りお金には困っていないので、遠慮なく僕に甘えてください。▲▲さんは現在お仕事をされていないようですし、今の所は携帯電話は必需品ではなく、貯金を崩してまで持とうとは思っていないという事ですよね?」
ここで仕事に言及されるとは思わなかったから、ひとまず充電期間中ということで話を合わせた。すると、より断りにくい状況に追い込まれることになった。
「でしたら、僕のために受け取っていただけませんか?一人暮らしをしているあなたが元気でいる様子を知ることが出来たら、それだけで安心なんです」
「私の番号も登録させてください!ほら、男の人に言えないような事でも同性なら気軽に話せたりしますよね?ねっ?」
美男美女に迫られるとたじたじとなってしまう。……梓さんを味方につけるとは安室さん、やるな。彼女がいるポアロでこの話を持ちかけたのもきっと彼の作戦のうちに違いない。そしてその読みは当たっている。わたしはすでに意志を押し通す気力を奪われていた。なにがなんでも断らないといけない場面であるにもかかわらず。主要人物とは関わらないと決めたのに彼名義のケータイなんて持たされたら、さあ……。
「……こんなに良くしていただいても、わたしには返せるものがありません」
気持ちとして懸命に弱々しくそう主張してみても、安室さんはとびっきりの笑顔でわたしの最後の抵抗を有無を言わさず無効化するのだ。
「そうでしょうか。僕にはあなたが相当魅力的な物をお持ちのように見えますが?」
なにを持っているというんだろう。わたしが今持っているものといえば折り畳み式の鏡とハンカチ、財布代わりの巾着袋、鍵、あとはもらった名刺くらいのもので。アパートにもたいしたものは置いていない。つまり、安室さんが言いたいのはそういう物理的なもの以外ってこと……?彼の求めるものはなんだと考えると、あまりよくない予感にぶるりと身震いした。
梓さんはカウンターからこっち側に回ると隣の席に座った。スマホを取り出して連絡先を交換する気らしい。わたしがガラケー愛用者だったと打ち明ければ、基本的な操作方法を喜んでレクチャーしてくれた。あ、電話帳に安室透の名前がある。
梓さんとのやりとりをにこやかに眺めている彼は、自分の思うとおりに事が運んで内心にやりとしていることだろう。わたしは内心ぐったりです。……これって本当にわたしの夢か?目覚めるために頑張ってる(正しくは頑張ろうとしてる)のに、立ちはだかる敵が手強すぎない?
「――他に見返りは求めないつもりでしたが、ひとつだけ」
ぽつりぽつりとまた人が入り出した喫茶店内。やっとのことでカフェオレを飲み切ったわたしは飲み物のせいじゃない膨満感みたいなものを抱えていた。来たときには持っていなかった小さな紙袋を腕に提げて。中にはスマホ本体とその充電器や説明書が入っていた。重たい足を動かしてレジ前に移動し、百円均一で買った巾着からお金を取り出して代金を支払う。お釣りを渡す安室さんが引き留めるように小銭の乗った手のひらを両手でそっと包み込んだ。あの、これ女の子が勘違いしちゃうやつ(ただしイケメンに限る)……安易にしないほうがいいと思いますよ?
「●●さん、と。僕もお呼びしていいですか?」
なにを言われるのかと思ったらそんなことか。むしろその声で呼ばれるのならわたしにとってご褒美だと躊躇いもなく頷いた。名前呼びを許すだけでスマホの使用権利をもらえるとはどんな等価交換。果てしなく釣り合わない。たとえ若干強制の匂いがする取引だったとしても。
ありがとうございます、と顔を綻ばせる安室さんはちょっと笑顔を安売りしすぎなんじゃないかなあ。
「名前で呼ぶとなんだか親しくなれたみたいで嬉しくなりますね」
「……そうですか」
この人、まだハニトラで落とすのを諦めてなかったのか。どんな情報がほしいんです?
ようやくお釣りを巾着の中におさめることができた。さらにそれをパーカーのポケットに突っ込んで歩き出す。先んじて安室さんが扉を引いてくれた。ご丁寧に見送り付きとは、実に手厚いサービスだ。なにが狙いなのか考えるだに恐ろしい。
「またいつでもいらしてくださいね。僕の方からもお誘いのメールを送ります。本当は自主的に顔を見せに来てくださるのが一番なんですが、そうすると遠慮深いあなたの事だからポアロに寄り付かなくなるでしょう?……僕と同じように●●さんの来店を心待ちにしている人がいるという事を、どうかお忘れなく」
その言葉に思わず店内を見やれば、接客中の梓さんがはにかみながら小さく手を振ってきた。わたしは内心諦めの微笑を浮かべてそっと片手を上げる。……ああもう。わかりました、わかりましたよ。彼女の無垢な笑顔を曇らせるわけにはいかないもんね。うまく溜め息をつけたのか定かじゃないが心の中では盛大に息を吐き出しておいた。
ご馳走様でしたと会釈して、安室さんが大きく開いてくれている扉をくぐった。彼は喫茶店の店員らしく決まり文句を言った後、晴天に似合う爽やかな笑みもそのままにさらりと述べた。
「そうだ。僕の事も透君でいいですよ」
誰それ、『フルーツバスケット』の主人公?
安室さんは安室さんでしかない。わたし、嫉妬の炎で火葬される死に方は望んでませんので。
やはりと言うべきか、安室さんは堂々とわたしを観察していた。テーブル席から食器を下げてきて洗い物を済ませた後は、わたしの正面を陣取った。立てた鏡を見つめながら飲み物を飲む客なんて初めてだろう、訝しがる様子を隠さない。変人扱いおおいに結構、奇行種だとでも思って引いてくれたら万々歳。でも普通の人なら敬遠するところをあえて踏み込んでくるのが探偵という生き物か。
こればっかりはいくら優秀な頭脳を働かせても解けないでしょ?わたしは視線を上げて真正面からでたらめを吐いた。
「私は人より飲み込む力が弱いらしくて、そのせいで人前で失敗してしまったことがありまして……こうやって鏡でチェックしながらでないと落ち着かないんです」
「それは……大変ですね。気を遣いながらの食事なんておつらいでしょう」
適当な説明で納得するような人じゃないだろう。それでも安室さんは表面上は同情するような表情で優しく気遣ってくれた。それが演技だとしても騙す側としては少々良心が咎めた。……まあ、あながち完全に嘘でもないんだけどね。実験でわかったことだけど、固形物を食べるのはかなりのハードモードなのだ。噛む感覚がないと咀嚼もうまくできないし、飲み込むタイミングも難しい。下手すれば喉を詰まらせて死亡とか、舌を噛み切って死亡なんていう事態も起こりうる。できることならさ、もうちょっと穏便な方法で目覚めたいと思うよね……?仮初めと言えども壮絶な死はぜひともお断りしたい。
安室さんとの会話を耳にして、梓さんも気遣わしげな表情でわたしを見つめた。
「●●さん、ちゃんと食事は取ってるんですか?お肌が白いのは羨ましいけど、もしかして貧血気味とか、栄養が足りてないんじゃ……」
年上ということが発覚したため、ちゃん付けはなしになったらしい。年下の女の子からそう呼ばれるのは気恥ずかしかったからよかった。わたしのほうが梓ちゃんと呼ぶべきかな。うーん、でも“梓さん”はやっぱり梓さんなんだよねえ。
表情が変わらないどころかちっとも赤みの差さない顔を指摘されて、これが標準仕様なのだと弁明したくなった。にこりともしないことには触れられない。配慮か、個性だとでも思われてるのか……。
「確かに、一人暮らしだと不摂生になりがちですよね。▲▲さんはしっかりされているように見えて、そういう所は抜けてそうですし。体調を崩しても病院に行かず、じっと我慢されているんじゃないですか?引っ越して来たばかりで周りに頼れる人もいないんでしょう?」
「そうなんですか?」
心配だとありありと顔に書いた梓さん。親身になってくれるのは嬉しいけど、なんだか会話の流れを安室さんに誘導されているような。どういう方向に行かせたいのか知らないが、わたしは彼女に「もしものときはさすがに誰かに頼ります」と答えて安心させた。会話に応じながらもカフェオレを消費することを忘れない。むう、なかなか減らない……。まあ、彼らに心配されるようなもしものことは起こらないと思っている。この身体で病死はないと根拠もなく確信していた。その他の危険ならこっちから腕を広げて歓迎すべきだろう。この夢から覚めるためには。
「あなたが頼りにするその“誰か”に該当する相手が気になる所ですが……」
安室さんの声にひやりとした感情が混じる。瞬時に脳裏に浮かんだのは眼鏡を掛けた細目の大学院生のことで、気管に入ったわけでもないはずなのに危うく噎せそうになった。こう、気分的に。意地でも鏡から目を離さずにせっせと消費に勤しんだ。思うようになくならないカフェオレに苦戦するわたしをじっと見下ろす彼は、忍ばせた冷気を綺麗さっぱり拭い去って平常どおりの声音に戻した。
「いざという時に頼りになる人間は多い方がいいと思いませんか、ねえ梓さん?」
なぜそこで梓さんに話を振るんだ、と思った疑問は直後に解決された。ぱんっと両手を合わせた彼女によって。
「安室さんの言う通りよ!●●さんっ、私と連絡先を交換しましょう!」
名案を思いついたとばかりにキラキラした眼で梓さんは身を乗り出してきた。そう来たかー。でも待てよ。安室さんには連絡手段を持たないことを事前に伝えてたはず。それでどうしてこの運びになるの。携帯電話を持たない希少な人間の存在を周知したいのか……?
「お気遣いありがとうございます。ですが、」
「▲▲さんは携帯電話をお持ちじゃないんですよね?その事について僕から良い提案があります」
ありがたい梓さんの申し出を心苦しくも断ろうとしたところ、安室さんがさっと片手を上げて口を挟んだ。ちょうどそのとき、店内に残っていた一人が会計を済ませようと席を立った。梓さんがレジに回り、安室さんもまた店の奥に向かった。今のうちにカフェオレの処理を進める。コツは少し掴めた気がするけど。半分も減っていないグラスを見てストローで氷を回した。喫茶店のカフェオレ、しかもあの安室さんお手製の飲み物。そんじょそこらのより絶対においしいはずだ。ここにいるのが本物のわたしだったら味わえたのになー。
「ありがとうございました!」と元気に最後のお客さんを見送った梓さんがいそいそと戻ってくる。喫茶店が閑散としているのはどうかと思うけど、誰もいなくなったことでこっちの会話に集中できると彼女は素直に喜んでいるようだった。せめて売り上げにもっと貢献できればよかったんだけど……故意じゃなくてもカフェオレ一杯で長時間粘る迷惑なカスタマーであることは自覚している。申し訳ない。
「それで、安室さんの良い提案って何でした?」
「さあ、なんでしょうね。わたしには見当もつきません」
「……JKにも大人気のあの安室さんに全然靡かないって……●●さん、とっても綺麗な上にクールで素敵……」
彼の思惑はもれなくさっぱりわからない。なぜかうっとり頬を染める梓さんに首を傾げて、またカフェオレの消費作業に戻った。下を向くと垂れてくる髪の毛は現在進行形で絶賛放置中。これは、いい加減バッサリ行ってしまいたい気持ちもある。手を加えていいものなのかはっきりすれば切ってもいいかもしれない。でもさあ、呪いの人形みたいに一晩で伸びてきそうじゃない?そう思うのってわたしだけ?
「もう少し僕に興味を持っていただければ、泣いて喜ぶんですけどね」
奥から戻ってきたイケメンがさりげなく会話に加わりながら「今後僕を喜ばせてくれる予定ってあります?」と魅惑の笑みを向けてくる。もちろんないです。別の意味で興味は持ってるけど。どうすれば主要キャラクターに関わらずに済むのか、とかなら。
安室さんは返答を期待できないとわかっていたように「まあ予定は未定と言いますからね」とポジティブに自答して、あるものをわたしの前に差し出した。その意外性にストローから口を離す。大きな液晶画面はいまだにガラケーを愛用しているわたしには見慣れないもので、まじまじと眺めてしまう。どこからどう見てもスマートフォンだった。
「安室さんのケータイ、ですよね?」
「はい。そして今からあなたのケータイになります」
……急に日本語が理解できなくなった。スマホから視線をつつと上向きにする。安室さんはわたしの手に渡るまでその体勢を維持するつもりのようで、しかたなくその精密機器を両手で受け取った。綺麗な淡いブルーのスマホ。世の中の携帯電話保有者の大半が現在持っているのがこれか。
「僕は普段から複数台を使い分けているんですが、あまり使っていない物がそれなんです。▲▲さんがお持ちでないと聞いて、ちょうどいいんじゃないかと思いまして……。どうぞお好きなように使ってください。もちろん通信費はこちらで負担します。あなたはただ持っていてくれるだけでいい。どうです、悪い話ではないでしょう?」
安室さんはそう言うけど悪いもなにも、とんでもなく好条件だ。金銭的負担をせずにスマホをゲットできるなんて。親切にしてはあまりにも行き過ぎているし、数回顔を合わせただけの客をここまで気にかける必要があるだろうか。
さすがにこの対応には梓さんもおかしいと気づいてくれるかと思いきや、彼女は非常に乗り気だった。うりうりと肘で安室さんをつつきかねない表情で「こんなに積極的な安室さん、見たことないんですけど。さては本気で●●さんを狙ってますね?」とこそこそと耳打ちしていた。おーい、聞こえてるよー。おやバレてしまいましたか、って安室さんもわざとらしく照れてみせなくていいですから。
「●●さん、ここは安室さんに甘えちゃいましょう!この人、こう見えて結構稼いでるみたいだから遠慮なんかしなくていいですよっ」
「あはは……。まあ梓さんの仰る通りお金には困っていないので、遠慮なく僕に甘えてください。▲▲さんは現在お仕事をされていないようですし、今の所は携帯電話は必需品ではなく、貯金を崩してまで持とうとは思っていないという事ですよね?」
ここで仕事に言及されるとは思わなかったから、ひとまず充電期間中ということで話を合わせた。すると、より断りにくい状況に追い込まれることになった。
「でしたら、僕のために受け取っていただけませんか?一人暮らしをしているあなたが元気でいる様子を知ることが出来たら、それだけで安心なんです」
「私の番号も登録させてください!ほら、男の人に言えないような事でも同性なら気軽に話せたりしますよね?ねっ?」
美男美女に迫られるとたじたじとなってしまう。……梓さんを味方につけるとは安室さん、やるな。彼女がいるポアロでこの話を持ちかけたのもきっと彼の作戦のうちに違いない。そしてその読みは当たっている。わたしはすでに意志を押し通す気力を奪われていた。なにがなんでも断らないといけない場面であるにもかかわらず。主要人物とは関わらないと決めたのに彼名義のケータイなんて持たされたら、さあ……。
「……こんなに良くしていただいても、わたしには返せるものがありません」
気持ちとして懸命に弱々しくそう主張してみても、安室さんはとびっきりの笑顔でわたしの最後の抵抗を有無を言わさず無効化するのだ。
「そうでしょうか。僕にはあなたが相当魅力的な物をお持ちのように見えますが?」
なにを持っているというんだろう。わたしが今持っているものといえば折り畳み式の鏡とハンカチ、財布代わりの巾着袋、鍵、あとはもらった名刺くらいのもので。アパートにもたいしたものは置いていない。つまり、安室さんが言いたいのはそういう物理的なもの以外ってこと……?彼の求めるものはなんだと考えると、あまりよくない予感にぶるりと身震いした。
梓さんはカウンターからこっち側に回ると隣の席に座った。スマホを取り出して連絡先を交換する気らしい。わたしがガラケー愛用者だったと打ち明ければ、基本的な操作方法を喜んでレクチャーしてくれた。あ、電話帳に安室透の名前がある。
梓さんとのやりとりをにこやかに眺めている彼は、自分の思うとおりに事が運んで内心にやりとしていることだろう。わたしは内心ぐったりです。……これって本当にわたしの夢か?目覚めるために頑張ってる(正しくは頑張ろうとしてる)のに、立ちはだかる敵が手強すぎない?
「――他に見返りは求めないつもりでしたが、ひとつだけ」
ぽつりぽつりとまた人が入り出した喫茶店内。やっとのことでカフェオレを飲み切ったわたしは飲み物のせいじゃない膨満感みたいなものを抱えていた。来たときには持っていなかった小さな紙袋を腕に提げて。中にはスマホ本体とその充電器や説明書が入っていた。重たい足を動かしてレジ前に移動し、百円均一で買った巾着からお金を取り出して代金を支払う。お釣りを渡す安室さんが引き留めるように小銭の乗った手のひらを両手でそっと包み込んだ。あの、これ女の子が勘違いしちゃうやつ(ただしイケメンに限る)……安易にしないほうがいいと思いますよ?
「●●さん、と。僕もお呼びしていいですか?」
なにを言われるのかと思ったらそんなことか。むしろその声で呼ばれるのならわたしにとってご褒美だと躊躇いもなく頷いた。名前呼びを許すだけでスマホの使用権利をもらえるとはどんな等価交換。果てしなく釣り合わない。たとえ若干強制の匂いがする取引だったとしても。
ありがとうございます、と顔を綻ばせる安室さんはちょっと笑顔を安売りしすぎなんじゃないかなあ。
「名前で呼ぶとなんだか親しくなれたみたいで嬉しくなりますね」
「……そうですか」
この人、まだハニトラで落とすのを諦めてなかったのか。どんな情報がほしいんです?
ようやくお釣りを巾着の中におさめることができた。さらにそれをパーカーのポケットに突っ込んで歩き出す。先んじて安室さんが扉を引いてくれた。ご丁寧に見送り付きとは、実に手厚いサービスだ。なにが狙いなのか考えるだに恐ろしい。
「またいつでもいらしてくださいね。僕の方からもお誘いのメールを送ります。本当は自主的に顔を見せに来てくださるのが一番なんですが、そうすると遠慮深いあなたの事だからポアロに寄り付かなくなるでしょう?……僕と同じように●●さんの来店を心待ちにしている人がいるという事を、どうかお忘れなく」
その言葉に思わず店内を見やれば、接客中の梓さんがはにかみながら小さく手を振ってきた。わたしは内心諦めの微笑を浮かべてそっと片手を上げる。……ああもう。わかりました、わかりましたよ。彼女の無垢な笑顔を曇らせるわけにはいかないもんね。うまく溜め息をつけたのか定かじゃないが心の中では盛大に息を吐き出しておいた。
ご馳走様でしたと会釈して、安室さんが大きく開いてくれている扉をくぐった。彼は喫茶店の店員らしく決まり文句を言った後、晴天に似合う爽やかな笑みもそのままにさらりと述べた。
「そうだ。僕の事も透君でいいですよ」
誰それ、『フルーツバスケット』の主人公?
安室さんは安室さんでしかない。わたし、嫉妬の炎で火葬される死に方は望んでませんので。