目覚めのデッドエンド
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すっきり爽快、とてもいい気分だった。今ならスキップだって軽やかにこなせそう。ひとつ大きな仕事を成し遂げたような達成感に満ち満ちた気持ちは、けれどそう長くは続かなかった。あの角を曲がれば待機中の赤い車が見える――そう思った矢先に突如背後に迫った足音。それが耳に入った直後、視界が斜めに傾いた。
「――▲▲さんっ、待ってください!」
わたしの腕を引いたのは、お日様の下で光をその身に宿したかのように輝く男性。さっきまでいなかったはずの、安室透。瞬歩か。引き留めるために腕を掴んだ力が強かったのか、わたしの身体が不意打ちに耐えられなかったのか。倒れそうになったわたしを彼は容易く胸元へと引き寄せた。勢いを殺せず頭突きをかますわたし。……そろそろデジャヴがゲシュタルト崩壊するね。
安室さんはすみませんと謝りながらも放さないし離れない。なぜ彼がここに。わたしを追ってきたのだとわかるけどそれだけだ。タオルも傘も返却済みなのに、他にどんな用が?
「先日はお世話になりました。先ほど従業員の方にタオルと傘をお預けしてきました」
こうして会ってしまったからには直接お礼を言うべきだろうと口火を切った。安室さんはわたしの腰を支えた体勢から動かない。あの夜みたいに一心不乱に瞳を合わせて、唇はかすかに開いたままだった。……どうすりゃいいの。
炎上、その単語が頭を過ぎる。梓さんの台詞。炎上って怖いよね。でも、こんな場面を誰かに目撃されて実質的に困るのは彼のほうだろう。
「安室さん?」
「……用件だけ済ませてさっさと帰ってしまうなんて、あんまりじゃないですか」
やっと話し出したと思ったら、安室さんはどことなくわたしを責めるようにきゅっと目を細めた。あれ、なんだか不機嫌。ええー?
「元よりお仕事の邪魔をするつもりはなかったので、長居は無用かと……?」
「梓さんにも言付けを頼んでおいたのに」
「はい、女性の方からお聞きしました。わたしもよろしくお伝えくださいとお願いして……」
「僕は聞いていません」
んん……?安室さんが追ってきたのは彼女から伝言を聞いたからだとばかり思ってたんだけど違うのか。わたしの疑問は顔に出ないはずで、だけど勘のいい彼は眉根を寄せたまま答えてくれた。
「ポアロには入ってません。その前にあなたの後ろ姿が見えたので、咄嗟に追いかけてきたんです」
そういう経緯だったのね、なるほどー。じゃないわ。だからなんで追いかけてきたんだこの人。手ぶらの後ろ姿を見たのなら予想はついただろうし、そのままポアロに入ってしまえばよかったのに。
とりあえず他人同士に適した距離感を保ちたくて胸元を押してみる。拘束する必要はないと判断したのか、彼はおとなしく腕を緩めてくれた。パーソナルスペースを確保できてほっとする。少し立ち位置がずれたことで、わたしはあることに気づいた。向こうのほう、道端になにかが落ちてるような……あれって……?
「あの、あそこに鞄らしきものが……」
「ええ、僕のです。あなたを追いかけるのに邪魔だったので」
なんでやねん。そう口走らなかったのは奇跡だ。荷物が邪魔になるくらいの本気の走りとはいったい。安室さんは道に放り出したマイバッグを振り返りもしない。お巡りさん、ここ米花町ですよ。誰かが持ち逃げしたらどうするんですか。たとえそんな事態が起こったとしても、この人ならダッシュを決めて即座に取り返すんだろうけどな。犯人もぱぱっと確保して。それにしたって鞄がかわいそう……。
取りに行ったほうがいいですよ。そう言おうとしたわたしの視界の端で、ポアロから出てきたその人が鞄を拾い上げ、きょろきょろと周囲を見回した。こっちに気づいた彼女があっと口に手を当てて凝視してくる。遠目に見てもわかりやすい反応をありがとう、梓さん。
「従業員の方が鞄を拾い上げて、こちらを見ていますけど」
「ならよかった。鞄の心配はもういいですよね。話を続けましょう」
安室さんが一歩横に動いたことで視界は遮られた。だからなんでそうなるの。わたしだってこの顔じゃなければ安室さんと同じように表情で訴えることもできただろうに。顔が動かないなら目で訴えるのはどうだ?用は済みましたよね、解散したいんです。願いを込めてじーっと彼の青い目を見続ける。おそらく耐久動画を作っても余裕で視聴できるその顔が、ふと勝ち気な眉を下げて笑みを作った。苦笑よりも情に訴えてくるものがあるそれを間近で見て内心動揺する。
「……酷い人だ。わかってるくせに」
え、すみません。なにもわからない鈍感女で。
「タオルを返して欲しいだけなら、わざわざあなたの体調が整ってからなんて言いません。その場で回収しなかったのは、それきりの関係で終わらせるのが惜しかったから。傘を強引に押しつけたのも保険のつもりで……単なる口実に過ぎませんよ」
参ったな、と言いたげに眉尻を下げて微笑むイケメンはどういうつもりなんだろう。やっぱり乙女ゲーム仕様か、そうなのか。いくら漫画の登場人物と言えどこうして実写版でやられるとどう対応すればいいのか本気で悩む。いでよ、選択肢。
「口実、ですか」
「そうですよ。言葉を交わせばあなたが律儀な人だとすぐにわかりましたから、貸した物を絶対に返しに来てくれるだろうと踏んで。……本当は、僕があなたに会いたかっただけです。もう一度会って、ゆっくり話をしてみたかった」
気恥ずかしそうにそんなことを言うこの人は、いったい誰だ。なんだか腑に落ちない理由をほぼ瞬間的に察することができてしまう。わたしが“安室透”ではなく“ふるやさん”のことを少なからず知っていたことが幸いして。
(――……ハニートラップ、か?)
……マジでか。え。うわあ、マジでかー。好意を抱いていますと言わんばかりの露骨な態度が逆に真実味を与えてくる。だってありえないでしょ。そうとしか考えられない。
だけど彼にこういった行動を取らせることになった原因が不明だ。必死に頭の中を引っかき回しても皆目見当がつかない。そりゃ不審者感は出してたかもしれないけど、一応体調不良で通ったはずだし。公安に目を付けられるようなことってなんなんだ。一般人には想像もつかない。
できることなら彼の望む情報をまるっと渡しておさらばしたい。だけどなにが目的なのだと直接聞くに聞けないうえに、そもそもそれを口にするだけで自ら黒だと告白するようなものだった。黒である理由さえわからないのに。……あ、そういや彼をゼロだと知ってる時点でアウトな世界じゃないか。あちゃー。
安室さんははにかんでわたしを見つめる。誰がどう見ても好青年の純粋な好意に思えるそれに、どう対応するのが正解なのか。えっと、わたしにはその気がないんで。これでオーケー?……彼が本気でなんらかの疑惑をわたしに抱いているのなら、そんな台詞で引き下がってくれるはずがない。
脳内で苦悶の表情を作ったわたしは最善とは言いがたい選択肢を手に取った。他に思いつかなかったってのもあるけど、これは嘘じゃなくて本当のことだから幾分罪悪感は軽かった。
「お気持ちは嬉しいのですが、人を待たせているので……。そろそろ行かないと」
これ以上会話を引き延ばしても有益なことなどない。双方にとって。ただでさえ多忙な彼の貴重な時間を浪費するなんて許されない。ぺこりとお辞儀したわたしはさっさと彼に背を向けた。え、なんて声が聞こえた気がしたが空耳だろう。
この角を曲がれば沖矢さんの車が見えるはず――なのにまだ見えない。曲がる手前でまたしても掴まれてしまったせいで。今度は腕じゃなくて手だ。大きな手に握られたことで、わたしも自分の手がそこにちゃんとあることを認識した。直接触れ合う肌からじわじわと体温が染み込んでくる。
「……あなたが僕の前から一刻も早く立ち去りたいという事はよくわかりました」
「本当に人を待たせているんです」
「――じゃあ、これは要らないんですね?」
安室さんは薄く微笑むと、空いたもう一方の手で上着のポケットから取り出したものをわたしの目の前にぶら下げてみせた。キラリと太陽光を反射するそれは……鍵だ。なくしたと思っていたアパートの鍵に見える。どうして彼が。
「これ、僕の車の中に落ちていたんですよ。すぐにあなたの持ち物だとわかりました。見た所これは家の鍵で、自宅に入れないあなたが困っているだろうと思い届けに行きました。しかしアパート付近にあなたの姿はなく、管理人に頼んで開けてもらった形跡もない。その後も仕事の合間に何度か訪ねましたが一向に戻ってくる様子はなかった。警察に遺失物の届出をしに行ったのかと思えばそれもない。……ああ、そういえばこの鍵は傷もなく新品同様に見えますね。賃貸物件は原則として入居前に新しい鍵に交換するのが一般的です。あなたは最近越して来られたばかりではありませんか?僕が住所を尋ねた時にメモを見ながら答えた事からもそれは裏付けられる。自宅の場所さえ把握出来ていないあなたが、なんの準備もなく何日もの間、いったいどちらに身を寄せていたのでしょう……?」
普通に考えたら普通に出てくる疑問を探偵に問われることや、こっちの事情に踏み込んだ推理が、ここまでぞっとするものだとは思いもしなかった。これがあの全身黒タイツの人の気持ちなら生涯知りたくなかった。こ、怖いですお兄さん……。さっきまでの照れくさそうな笑顔はいずこへ。ねえ、それちょっとバーボン入ってません?
わたしがあまりにも頑なだから攻め手を変えてきたか。まさかフラれて腹に据えかねたとかは、ないな。プライドが許さないとかそんな人じゃないよね。それくらい単純で読みやすい相手なら苦労しない。
探偵の探求心だか公安の警戒心だかに追いつめられる。じり、とサンダルの裏が地面を擦る音がした。と同時に接触する手の熱がさらに増した気がした。
そこら中をさまよっていたことや最終的に公園にたどり着いたことを言えないわたしは、唯一の武器である無表情を意識的に全面に押し出した。逃げられないなら全力でごまかすのみである。
「……知り合いの家に、泊めてもらっていました」
「へえ……?連泊させてくれるなんてよほど親しい仲なんですねぇ。だけどそれって失くした自宅の鍵を探さない理由にはなりませんよね?」
ごもっとも。ぐうの音も出ない。退路、断たれる。瞬殺かよ。えーっと、家の鍵が見つからなくても探さない理由、理由……ってそんなもんあるか。家に入れなかったら心底困るわ。どうしても言い訳が見つからなくて沈黙するわたしに、安室さんは満足げににっこり笑いかけた。観念しろ、と?
「――……ねえ、▲▲さん。ひょっとして、あなたは公園の、」
「彼女をいじめるのはそこまでにしていただけませんか?」
「――▲▲さんっ、待ってください!」
わたしの腕を引いたのは、お日様の下で光をその身に宿したかのように輝く男性。さっきまでいなかったはずの、安室透。瞬歩か。引き留めるために腕を掴んだ力が強かったのか、わたしの身体が不意打ちに耐えられなかったのか。倒れそうになったわたしを彼は容易く胸元へと引き寄せた。勢いを殺せず頭突きをかますわたし。……そろそろデジャヴがゲシュタルト崩壊するね。
安室さんはすみませんと謝りながらも放さないし離れない。なぜ彼がここに。わたしを追ってきたのだとわかるけどそれだけだ。タオルも傘も返却済みなのに、他にどんな用が?
「先日はお世話になりました。先ほど従業員の方にタオルと傘をお預けしてきました」
こうして会ってしまったからには直接お礼を言うべきだろうと口火を切った。安室さんはわたしの腰を支えた体勢から動かない。あの夜みたいに一心不乱に瞳を合わせて、唇はかすかに開いたままだった。……どうすりゃいいの。
炎上、その単語が頭を過ぎる。梓さんの台詞。炎上って怖いよね。でも、こんな場面を誰かに目撃されて実質的に困るのは彼のほうだろう。
「安室さん?」
「……用件だけ済ませてさっさと帰ってしまうなんて、あんまりじゃないですか」
やっと話し出したと思ったら、安室さんはどことなくわたしを責めるようにきゅっと目を細めた。あれ、なんだか不機嫌。ええー?
「元よりお仕事の邪魔をするつもりはなかったので、長居は無用かと……?」
「梓さんにも言付けを頼んでおいたのに」
「はい、女性の方からお聞きしました。わたしもよろしくお伝えくださいとお願いして……」
「僕は聞いていません」
んん……?安室さんが追ってきたのは彼女から伝言を聞いたからだとばかり思ってたんだけど違うのか。わたしの疑問は顔に出ないはずで、だけど勘のいい彼は眉根を寄せたまま答えてくれた。
「ポアロには入ってません。その前にあなたの後ろ姿が見えたので、咄嗟に追いかけてきたんです」
そういう経緯だったのね、なるほどー。じゃないわ。だからなんで追いかけてきたんだこの人。手ぶらの後ろ姿を見たのなら予想はついただろうし、そのままポアロに入ってしまえばよかったのに。
とりあえず他人同士に適した距離感を保ちたくて胸元を押してみる。拘束する必要はないと判断したのか、彼はおとなしく腕を緩めてくれた。パーソナルスペースを確保できてほっとする。少し立ち位置がずれたことで、わたしはあることに気づいた。向こうのほう、道端になにかが落ちてるような……あれって……?
「あの、あそこに鞄らしきものが……」
「ええ、僕のです。あなたを追いかけるのに邪魔だったので」
なんでやねん。そう口走らなかったのは奇跡だ。荷物が邪魔になるくらいの本気の走りとはいったい。安室さんは道に放り出したマイバッグを振り返りもしない。お巡りさん、ここ米花町ですよ。誰かが持ち逃げしたらどうするんですか。たとえそんな事態が起こったとしても、この人ならダッシュを決めて即座に取り返すんだろうけどな。犯人もぱぱっと確保して。それにしたって鞄がかわいそう……。
取りに行ったほうがいいですよ。そう言おうとしたわたしの視界の端で、ポアロから出てきたその人が鞄を拾い上げ、きょろきょろと周囲を見回した。こっちに気づいた彼女があっと口に手を当てて凝視してくる。遠目に見てもわかりやすい反応をありがとう、梓さん。
「従業員の方が鞄を拾い上げて、こちらを見ていますけど」
「ならよかった。鞄の心配はもういいですよね。話を続けましょう」
安室さんが一歩横に動いたことで視界は遮られた。だからなんでそうなるの。わたしだってこの顔じゃなければ安室さんと同じように表情で訴えることもできただろうに。顔が動かないなら目で訴えるのはどうだ?用は済みましたよね、解散したいんです。願いを込めてじーっと彼の青い目を見続ける。おそらく耐久動画を作っても余裕で視聴できるその顔が、ふと勝ち気な眉を下げて笑みを作った。苦笑よりも情に訴えてくるものがあるそれを間近で見て内心動揺する。
「……酷い人だ。わかってるくせに」
え、すみません。なにもわからない鈍感女で。
「タオルを返して欲しいだけなら、わざわざあなたの体調が整ってからなんて言いません。その場で回収しなかったのは、それきりの関係で終わらせるのが惜しかったから。傘を強引に押しつけたのも保険のつもりで……単なる口実に過ぎませんよ」
参ったな、と言いたげに眉尻を下げて微笑むイケメンはどういうつもりなんだろう。やっぱり乙女ゲーム仕様か、そうなのか。いくら漫画の登場人物と言えどこうして実写版でやられるとどう対応すればいいのか本気で悩む。いでよ、選択肢。
「口実、ですか」
「そうですよ。言葉を交わせばあなたが律儀な人だとすぐにわかりましたから、貸した物を絶対に返しに来てくれるだろうと踏んで。……本当は、僕があなたに会いたかっただけです。もう一度会って、ゆっくり話をしてみたかった」
気恥ずかしそうにそんなことを言うこの人は、いったい誰だ。なんだか腑に落ちない理由をほぼ瞬間的に察することができてしまう。わたしが“安室透”ではなく“ふるやさん”のことを少なからず知っていたことが幸いして。
(――……ハニートラップ、か?)
……マジでか。え。うわあ、マジでかー。好意を抱いていますと言わんばかりの露骨な態度が逆に真実味を与えてくる。だってありえないでしょ。そうとしか考えられない。
だけど彼にこういった行動を取らせることになった原因が不明だ。必死に頭の中を引っかき回しても皆目見当がつかない。そりゃ不審者感は出してたかもしれないけど、一応体調不良で通ったはずだし。公安に目を付けられるようなことってなんなんだ。一般人には想像もつかない。
できることなら彼の望む情報をまるっと渡しておさらばしたい。だけどなにが目的なのだと直接聞くに聞けないうえに、そもそもそれを口にするだけで自ら黒だと告白するようなものだった。黒である理由さえわからないのに。……あ、そういや彼をゼロだと知ってる時点でアウトな世界じゃないか。あちゃー。
安室さんははにかんでわたしを見つめる。誰がどう見ても好青年の純粋な好意に思えるそれに、どう対応するのが正解なのか。えっと、わたしにはその気がないんで。これでオーケー?……彼が本気でなんらかの疑惑をわたしに抱いているのなら、そんな台詞で引き下がってくれるはずがない。
脳内で苦悶の表情を作ったわたしは最善とは言いがたい選択肢を手に取った。他に思いつかなかったってのもあるけど、これは嘘じゃなくて本当のことだから幾分罪悪感は軽かった。
「お気持ちは嬉しいのですが、人を待たせているので……。そろそろ行かないと」
これ以上会話を引き延ばしても有益なことなどない。双方にとって。ただでさえ多忙な彼の貴重な時間を浪費するなんて許されない。ぺこりとお辞儀したわたしはさっさと彼に背を向けた。え、なんて声が聞こえた気がしたが空耳だろう。
この角を曲がれば沖矢さんの車が見えるはず――なのにまだ見えない。曲がる手前でまたしても掴まれてしまったせいで。今度は腕じゃなくて手だ。大きな手に握られたことで、わたしも自分の手がそこにちゃんとあることを認識した。直接触れ合う肌からじわじわと体温が染み込んでくる。
「……あなたが僕の前から一刻も早く立ち去りたいという事はよくわかりました」
「本当に人を待たせているんです」
「――じゃあ、これは要らないんですね?」
安室さんは薄く微笑むと、空いたもう一方の手で上着のポケットから取り出したものをわたしの目の前にぶら下げてみせた。キラリと太陽光を反射するそれは……鍵だ。なくしたと思っていたアパートの鍵に見える。どうして彼が。
「これ、僕の車の中に落ちていたんですよ。すぐにあなたの持ち物だとわかりました。見た所これは家の鍵で、自宅に入れないあなたが困っているだろうと思い届けに行きました。しかしアパート付近にあなたの姿はなく、管理人に頼んで開けてもらった形跡もない。その後も仕事の合間に何度か訪ねましたが一向に戻ってくる様子はなかった。警察に遺失物の届出をしに行ったのかと思えばそれもない。……ああ、そういえばこの鍵は傷もなく新品同様に見えますね。賃貸物件は原則として入居前に新しい鍵に交換するのが一般的です。あなたは最近越して来られたばかりではありませんか?僕が住所を尋ねた時にメモを見ながら答えた事からもそれは裏付けられる。自宅の場所さえ把握出来ていないあなたが、なんの準備もなく何日もの間、いったいどちらに身を寄せていたのでしょう……?」
普通に考えたら普通に出てくる疑問を探偵に問われることや、こっちの事情に踏み込んだ推理が、ここまでぞっとするものだとは思いもしなかった。これがあの全身黒タイツの人の気持ちなら生涯知りたくなかった。こ、怖いですお兄さん……。さっきまでの照れくさそうな笑顔はいずこへ。ねえ、それちょっとバーボン入ってません?
わたしがあまりにも頑なだから攻め手を変えてきたか。まさかフラれて腹に据えかねたとかは、ないな。プライドが許さないとかそんな人じゃないよね。それくらい単純で読みやすい相手なら苦労しない。
探偵の探求心だか公安の警戒心だかに追いつめられる。じり、とサンダルの裏が地面を擦る音がした。と同時に接触する手の熱がさらに増した気がした。
そこら中をさまよっていたことや最終的に公園にたどり着いたことを言えないわたしは、唯一の武器である無表情を意識的に全面に押し出した。逃げられないなら全力でごまかすのみである。
「……知り合いの家に、泊めてもらっていました」
「へえ……?連泊させてくれるなんてよほど親しい仲なんですねぇ。だけどそれって失くした自宅の鍵を探さない理由にはなりませんよね?」
ごもっとも。ぐうの音も出ない。退路、断たれる。瞬殺かよ。えーっと、家の鍵が見つからなくても探さない理由、理由……ってそんなもんあるか。家に入れなかったら心底困るわ。どうしても言い訳が見つからなくて沈黙するわたしに、安室さんは満足げににっこり笑いかけた。観念しろ、と?
「――……ねえ、▲▲さん。ひょっとして、あなたは公園の、」
「彼女をいじめるのはそこまでにしていただけませんか?」