目覚めのデッドエンド
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次の日。待ち合わせ時間にさほど遅れることなく、赤色のスバル360はわたしの待つ公園にやってきた。沖矢さんをあの“沖矢昴”と認識してから乗り込む車はなんというか、特別感がある。意外とミーハーだったんだなと自分を客観的に評価して、わたしは手渡される無地の紙袋を受け取った。中を覗けば透明なビニール袋に包まれたタオルが見えた。うん、ふわふわでいい仕上がりだ。
「お手数をおかけしました。おいくらでした?お支払いします」
「子供の小遣い程度でしたから。そんな事より、●●さんの恩人にはどこに行けば会えるんですか?」
現金を手に入れた心強さもあって自ら代金を尋ねれば、その回答をあっさり退けて質問が繰り出される。手間をかけさせたうえにお金を返さないなんてありえない。わたしも沖矢さんの質問には答えずに、再度こっちの問いかけを繰り返した。沖矢さんは自身の口元を隠すように長い指先を持って行く。おかしそうなその笑み、全然隠れてませんけどね。
「押しに弱いかと思えば、意外と強情な所があるんですね」
「沖矢さんにはお世話になりっぱなしなので、せめて代金だけでもお返しするのは当然だと思います」
「なるほど、ここで男の顔を立てて欲しいと言っても無駄のようだ。……ならばこれは貸しという事で。返して欲しい時にこちらから●●さんにお願いするというのはどうでしょう」
「……あなたがそれでいいのなら」
あー、うまい具合に丸め込まれた。無理、勝てない。こうやってなんだかんだ途切れずに交流が続くのを、不可抗力だと諦めていいものなのか。だって勝てないんだもん。沖矢さんルートを攻略しつつ実際は攻略されている状態をひしひしと感じた。
クリーニングの代金問題はひとまず解決となり、わたしは“恩人”との待ち合わせ場所の名前を言った。馬鹿正直に。迂闊だった。それを聞いた沖矢さんの反応を見て、さーっと血の気が引く思いがした。
「ホォー……ポアロ、ですか」
――あ、これダメなやつだった。引き合わせたら確実にややこしくなる案件じゃないか。沖矢さんが車を発進させる隣で思わず頭を抱えたくなった。うわあ、どう考えてもダメだよねえ?なにがダメって問題なのは沖矢さんじゃない、沖矢さんを見たあの人の反応が怖い。安室透さん、いや“ふるやさん”のほうか。沖矢さんの中身を赤井秀一だと疑った人。それとも現在進行形で疑ってる人……?
今は原作のどのあたりなんだろう、とふと考える。漫画を持っていないわたしは話の流れを把握できていないし、アニメもさらっと視聴してるだけだから曖昧な知識はなんの助けにもならない。というか、この夢ってどこまで原作に忠実なんだ?わたしの頭で緻密に再現できるわけ?よくわからないけどこれは断言できる、彼と彼が不用意に顔を合わせることだけは回避すべきだと。
「もしかして●●さんの恩人というのは、そこでアルバイトをしている彼の事ですか?」
「……安室さんとお知り合いでしたか」
「ええ、まあ。多少なりとも彼の事は存じ上げていますが」
ですよねー。沖矢さんはそれ以上詳しいことは語らず、少し話の矛先を逸らして続けた。
「実は、とある事情から現在居候の身でして。その家主が喫茶店の二階にある毛利探偵事務所に預けられている少年の親戚にあたる方なんです」
「そうなんですか」
情報のみとはいえ、思わぬタイミングでこの世界の主人公と接することになった。そうだ、沖矢さんも安室さんもそうだけど、考えたら『名探偵コナン』の登場人物でもっとも近づいちゃいけないのって当然あの小さな探偵くんだよね。考えるまでもないや。今日は何曜日なんだろう。確率的には平日であってほしい。車内の時計が示すのは昼食にはちょっと早めの時間帯。平日なら小学生は学校にいるはずだから、万が一にもポアロで鉢合わせすることはないだろうけど。
鉢合わせしちゃまずい組み合わせはわたしと主人公の少年、そして沖矢さんと安室さんだ。わたしは傘とタオルを渡すだけだから離れた場所で待っていてほしいと沖矢さんに伝えた。積もる話があるようなら近くの駐車場に停めてくると彼は言ったけど、近辺に長居するなんて危険すぎる。沖矢さんも車内でじっと息を潜めていてほしい。もし安室さんに見つかったらどうするの。
「本当にすぐ戻ってきますから、ここで待っていてくださいね」
「はい。そんなに心配せずとも、飼い主に従順な犬のようにお待ちしていますよ」
ポアロには近づいてくれるなという気持ちを込めたところで、沖矢さんは気づかない……はずなんだけど彼は意味深に微笑んで、素直に喫茶店から離れた路上に車を停めてくれた。「そこの角を曲がればポアロの看板が見えますよ」とわざわざ親切な助言まで添えて。
ひょっとして最初からポアロに近づく気はなかったのか。だとしたら墓穴を掘ったかも……。にしても、犬って。リードなんか持たせてくれないくせに。むしろ意図的に握らされたそれによってあちこちに引っ張り回されてる気分なんですけど?手懐けられているのはわたしのほうに違いない。
沖矢さんの言うとおり、角を曲がれば低い位置にあるポアロの看板はすぐに見つかった。あの夜の光景が目に浮かぶようでいて、景色に関してはあまり鮮明には思い出せない。記憶容量の大半は出会ってしまった彼のことで占められていた。でもあの看板ってあの夜もあったっけ。なんらかの理由で定位置になかったのか、意識から除外されていたのか。どちらにせよ恨めしく思う。それにさえ気づいていれば近づこうとも思わなかった。
これを返すだけ、返したら即時撤退だと心の中で何度も念じる。シミュレーションはばっちりだ。左腕に紙袋を提げ、右手で傘を持ちながらわたしはひと呼吸置くと喫茶ポアロの扉を押し開いた。カランカラン、と軽やかな音に素早く反応した女性がこっちを向いた。
「あっ、いらっしゃい……ませ……?」
聞き覚えのあるこの声は紛れもなく“梓さん”である。アニメを通してこの世界を知っているせいか、一番重要な情報は声だった。声でそれが誰であるかを想起して、それからアニメーションの彼らと目の前の人物を重ね合わせる。声からキャラクターの顔を思い浮かべると、実写化されたその人がもはやそうとしか見えなくなるから不思議だ。そして相変わらずのハイクオリティー。この人はポアロの看板娘、梓さんだとしっかり認識した。本物だー。
音につられて振り向いた彼女と視線は交わらなかった。まるで狐につままれたような顔をして目をさまよわせること何秒か。ようやく焦点がわたしに定まった瞬間、彼女は大きな目をさらに見開いてぽかんと口を開けた。……うん、それってどういう表情なんだろうといつも思う。初対面でみんなそんな感じになるけど、わたしって宇宙人にでも見えるのかね。異世界人だってことがダダ漏れとか?
いつまでも店の入り口に突っ立っているわけにはいかない。梓さんの意識が正常に戻るようにこっちから声をかけようか迷っていると、彼女は次第に頬を赤らめて唐突に大きく肩を揺らした。……え、もしかして息止めてました?
「い、いらっ、あっ、いいいいらしゃいませっ!」
……まああれだ。落ち着いて深呼吸しようか。彼女の尋常でない慌てぶりを前にして、わたしの内なる緊張感はものの見事に吸い取られていった。感謝しよう。おかげで店内の様子に気を配る余裕が生まれた。ほどよくお客さんがいる喫茶店の中に目当ての彼の姿は、ない。それを確認した途端に納得した。ああ、そっか。トリプルフェイスで忙しいあの人が常にここにいるわけがなかったんだ。当然別の顔で活動している日だってある。それが今日とはなんて幸運。これはチャンスだ。
「おっ、おひとりさまで、ですかっ!?」
「……すみませんが、飲食しに来たわけではないんです」
喫茶店を訪れた客がおかしなことを言い出して、疑問に思ったのか梓さんはようやく落ち着いてきたらしい。胸元に手を当てて視線を逸らし、何度か深呼吸を繰り返してから――隠してやったつもりだろうがバレバレだった――意を決したようにわたしと再度目を合わせた。ぽーっとした顔が可愛いな、と思ったらハッとしたようにぐぐっと距離を詰められた。おおっと?
「っ――もしかして安室さんのお客さんっ!?」
美人に迫られるのは同性でも悪い気はしない。勢い込んで尋ねられて、はいともいいえとも返せなかった。彼に用があるのはたしかだけどお客さんとは言えないな。ただ借り物をしただけでそれを返せば縁が切れる間柄だ。
わたしが視線を手元に落とすと梓さんも紙袋と傘に気づいたようで、ぱあっと明るい笑顔を咲かせた。ま、まぶしい。
「その傘っ、という事はそうなんですね……!自分がいない間にもし髪の長い綺麗な女性が来店したら連絡が欲しいって!あの人、安室さんに言われてたので……!絶対そうですよねっ、ああやっぱり、どんな人だろうと思ってたけどあなた以外に考えられないわっ!」
きゃーっと頬に両手を当てる梓さん。めちゃくちゃテンションが高い。予想外の歓迎ぶりに圧倒されていると、彼女は今すぐ連絡しなくちゃとばかりにスマホを取り出した。あ、それダメ。思わず操作を妨害するように上から手を重ねる。力を加減しすぎて気持ち悪いくらいのソフトタッチ。見ず知らずの人間に急に触られた梓さんは短い悲鳴を上げた。わたしも歓声を飲み込んだ。自分からあの“梓さん”に触っちゃったよー。いい記念になるわ……って彼女のテンションに影響されてる?
「あ、あああのっ?」
「連絡は結構です。今日はお借りしたものを返しに来ただけですから。実は外で人を待たせているのであまり時間もなくて……。すみませんが、これを預かっていただけませんか。安室さんによろしくお伝えください」
本来なら菓子折りを持参すべきだったんだろうけど、公安っていうのは食べ物に関してシビアなイメージがある。余計なことはしないことにした。どうせ消え去る人間だから多少礼節を欠いていても目を瞑ってもらおう。
タオルの入った紙袋と男物の傘を押しつけられた梓さんは反射的に受け取ってくれた。が、直後におろおろと慌て出した。悲痛な表情がどうにかしてわたしを引き留めようとする。
「そんなっ、ま、待ってください!彼、あなたに会えるのをそれはもう楽しみにしてて……っ。それに今日は午後からシフトに入ってるから、もうすぐ、もうすぐ来ると思うんです!」
ほう、それはいいことを聞いた。ならば速攻で退散しよう。もしも表情筋が勤勉なら完璧なスマイルを作れる、そんな晴れやかな気持ちでわたしは彼女に向かって頭を下げた。梓さん、あなたに会えて光栄でした。それではお仕事中にお邪魔しましたー。
これで見納めだと喫茶店を見渡して未練なく踵を返す。いつの間にか店内中の視線を集めていたらしく、わたしはいくつもの好奇の瞳に見送られることになったのだった。
「お手数をおかけしました。おいくらでした?お支払いします」
「子供の小遣い程度でしたから。そんな事より、●●さんの恩人にはどこに行けば会えるんですか?」
現金を手に入れた心強さもあって自ら代金を尋ねれば、その回答をあっさり退けて質問が繰り出される。手間をかけさせたうえにお金を返さないなんてありえない。わたしも沖矢さんの質問には答えずに、再度こっちの問いかけを繰り返した。沖矢さんは自身の口元を隠すように長い指先を持って行く。おかしそうなその笑み、全然隠れてませんけどね。
「押しに弱いかと思えば、意外と強情な所があるんですね」
「沖矢さんにはお世話になりっぱなしなので、せめて代金だけでもお返しするのは当然だと思います」
「なるほど、ここで男の顔を立てて欲しいと言っても無駄のようだ。……ならばこれは貸しという事で。返して欲しい時にこちらから●●さんにお願いするというのはどうでしょう」
「……あなたがそれでいいのなら」
あー、うまい具合に丸め込まれた。無理、勝てない。こうやってなんだかんだ途切れずに交流が続くのを、不可抗力だと諦めていいものなのか。だって勝てないんだもん。沖矢さんルートを攻略しつつ実際は攻略されている状態をひしひしと感じた。
クリーニングの代金問題はひとまず解決となり、わたしは“恩人”との待ち合わせ場所の名前を言った。馬鹿正直に。迂闊だった。それを聞いた沖矢さんの反応を見て、さーっと血の気が引く思いがした。
「ホォー……ポアロ、ですか」
――あ、これダメなやつだった。引き合わせたら確実にややこしくなる案件じゃないか。沖矢さんが車を発進させる隣で思わず頭を抱えたくなった。うわあ、どう考えてもダメだよねえ?なにがダメって問題なのは沖矢さんじゃない、沖矢さんを見たあの人の反応が怖い。安室透さん、いや“ふるやさん”のほうか。沖矢さんの中身を赤井秀一だと疑った人。それとも現在進行形で疑ってる人……?
今は原作のどのあたりなんだろう、とふと考える。漫画を持っていないわたしは話の流れを把握できていないし、アニメもさらっと視聴してるだけだから曖昧な知識はなんの助けにもならない。というか、この夢ってどこまで原作に忠実なんだ?わたしの頭で緻密に再現できるわけ?よくわからないけどこれは断言できる、彼と彼が不用意に顔を合わせることだけは回避すべきだと。
「もしかして●●さんの恩人というのは、そこでアルバイトをしている彼の事ですか?」
「……安室さんとお知り合いでしたか」
「ええ、まあ。多少なりとも彼の事は存じ上げていますが」
ですよねー。沖矢さんはそれ以上詳しいことは語らず、少し話の矛先を逸らして続けた。
「実は、とある事情から現在居候の身でして。その家主が喫茶店の二階にある毛利探偵事務所に預けられている少年の親戚にあたる方なんです」
「そうなんですか」
情報のみとはいえ、思わぬタイミングでこの世界の主人公と接することになった。そうだ、沖矢さんも安室さんもそうだけど、考えたら『名探偵コナン』の登場人物でもっとも近づいちゃいけないのって当然あの小さな探偵くんだよね。考えるまでもないや。今日は何曜日なんだろう。確率的には平日であってほしい。車内の時計が示すのは昼食にはちょっと早めの時間帯。平日なら小学生は学校にいるはずだから、万が一にもポアロで鉢合わせすることはないだろうけど。
鉢合わせしちゃまずい組み合わせはわたしと主人公の少年、そして沖矢さんと安室さんだ。わたしは傘とタオルを渡すだけだから離れた場所で待っていてほしいと沖矢さんに伝えた。積もる話があるようなら近くの駐車場に停めてくると彼は言ったけど、近辺に長居するなんて危険すぎる。沖矢さんも車内でじっと息を潜めていてほしい。もし安室さんに見つかったらどうするの。
「本当にすぐ戻ってきますから、ここで待っていてくださいね」
「はい。そんなに心配せずとも、飼い主に従順な犬のようにお待ちしていますよ」
ポアロには近づいてくれるなという気持ちを込めたところで、沖矢さんは気づかない……はずなんだけど彼は意味深に微笑んで、素直に喫茶店から離れた路上に車を停めてくれた。「そこの角を曲がればポアロの看板が見えますよ」とわざわざ親切な助言まで添えて。
ひょっとして最初からポアロに近づく気はなかったのか。だとしたら墓穴を掘ったかも……。にしても、犬って。リードなんか持たせてくれないくせに。むしろ意図的に握らされたそれによってあちこちに引っ張り回されてる気分なんですけど?手懐けられているのはわたしのほうに違いない。
沖矢さんの言うとおり、角を曲がれば低い位置にあるポアロの看板はすぐに見つかった。あの夜の光景が目に浮かぶようでいて、景色に関してはあまり鮮明には思い出せない。記憶容量の大半は出会ってしまった彼のことで占められていた。でもあの看板ってあの夜もあったっけ。なんらかの理由で定位置になかったのか、意識から除外されていたのか。どちらにせよ恨めしく思う。それにさえ気づいていれば近づこうとも思わなかった。
これを返すだけ、返したら即時撤退だと心の中で何度も念じる。シミュレーションはばっちりだ。左腕に紙袋を提げ、右手で傘を持ちながらわたしはひと呼吸置くと喫茶ポアロの扉を押し開いた。カランカラン、と軽やかな音に素早く反応した女性がこっちを向いた。
「あっ、いらっしゃい……ませ……?」
聞き覚えのあるこの声は紛れもなく“梓さん”である。アニメを通してこの世界を知っているせいか、一番重要な情報は声だった。声でそれが誰であるかを想起して、それからアニメーションの彼らと目の前の人物を重ね合わせる。声からキャラクターの顔を思い浮かべると、実写化されたその人がもはやそうとしか見えなくなるから不思議だ。そして相変わらずのハイクオリティー。この人はポアロの看板娘、梓さんだとしっかり認識した。本物だー。
音につられて振り向いた彼女と視線は交わらなかった。まるで狐につままれたような顔をして目をさまよわせること何秒か。ようやく焦点がわたしに定まった瞬間、彼女は大きな目をさらに見開いてぽかんと口を開けた。……うん、それってどういう表情なんだろうといつも思う。初対面でみんなそんな感じになるけど、わたしって宇宙人にでも見えるのかね。異世界人だってことがダダ漏れとか?
いつまでも店の入り口に突っ立っているわけにはいかない。梓さんの意識が正常に戻るようにこっちから声をかけようか迷っていると、彼女は次第に頬を赤らめて唐突に大きく肩を揺らした。……え、もしかして息止めてました?
「い、いらっ、あっ、いいいいらしゃいませっ!」
……まああれだ。落ち着いて深呼吸しようか。彼女の尋常でない慌てぶりを前にして、わたしの内なる緊張感はものの見事に吸い取られていった。感謝しよう。おかげで店内の様子に気を配る余裕が生まれた。ほどよくお客さんがいる喫茶店の中に目当ての彼の姿は、ない。それを確認した途端に納得した。ああ、そっか。トリプルフェイスで忙しいあの人が常にここにいるわけがなかったんだ。当然別の顔で活動している日だってある。それが今日とはなんて幸運。これはチャンスだ。
「おっ、おひとりさまで、ですかっ!?」
「……すみませんが、飲食しに来たわけではないんです」
喫茶店を訪れた客がおかしなことを言い出して、疑問に思ったのか梓さんはようやく落ち着いてきたらしい。胸元に手を当てて視線を逸らし、何度か深呼吸を繰り返してから――隠してやったつもりだろうがバレバレだった――意を決したようにわたしと再度目を合わせた。ぽーっとした顔が可愛いな、と思ったらハッとしたようにぐぐっと距離を詰められた。おおっと?
「っ――もしかして安室さんのお客さんっ!?」
美人に迫られるのは同性でも悪い気はしない。勢い込んで尋ねられて、はいともいいえとも返せなかった。彼に用があるのはたしかだけどお客さんとは言えないな。ただ借り物をしただけでそれを返せば縁が切れる間柄だ。
わたしが視線を手元に落とすと梓さんも紙袋と傘に気づいたようで、ぱあっと明るい笑顔を咲かせた。ま、まぶしい。
「その傘っ、という事はそうなんですね……!自分がいない間にもし髪の長い綺麗な女性が来店したら連絡が欲しいって!あの人、安室さんに言われてたので……!絶対そうですよねっ、ああやっぱり、どんな人だろうと思ってたけどあなた以外に考えられないわっ!」
きゃーっと頬に両手を当てる梓さん。めちゃくちゃテンションが高い。予想外の歓迎ぶりに圧倒されていると、彼女は今すぐ連絡しなくちゃとばかりにスマホを取り出した。あ、それダメ。思わず操作を妨害するように上から手を重ねる。力を加減しすぎて気持ち悪いくらいのソフトタッチ。見ず知らずの人間に急に触られた梓さんは短い悲鳴を上げた。わたしも歓声を飲み込んだ。自分からあの“梓さん”に触っちゃったよー。いい記念になるわ……って彼女のテンションに影響されてる?
「あ、あああのっ?」
「連絡は結構です。今日はお借りしたものを返しに来ただけですから。実は外で人を待たせているのであまり時間もなくて……。すみませんが、これを預かっていただけませんか。安室さんによろしくお伝えください」
本来なら菓子折りを持参すべきだったんだろうけど、公安っていうのは食べ物に関してシビアなイメージがある。余計なことはしないことにした。どうせ消え去る人間だから多少礼節を欠いていても目を瞑ってもらおう。
タオルの入った紙袋と男物の傘を押しつけられた梓さんは反射的に受け取ってくれた。が、直後におろおろと慌て出した。悲痛な表情がどうにかしてわたしを引き留めようとする。
「そんなっ、ま、待ってください!彼、あなたに会えるのをそれはもう楽しみにしてて……っ。それに今日は午後からシフトに入ってるから、もうすぐ、もうすぐ来ると思うんです!」
ほう、それはいいことを聞いた。ならば速攻で退散しよう。もしも表情筋が勤勉なら完璧なスマイルを作れる、そんな晴れやかな気持ちでわたしは彼女に向かって頭を下げた。梓さん、あなたに会えて光栄でした。それではお仕事中にお邪魔しましたー。
これで見納めだと喫茶店を見渡して未練なく踵を返す。いつの間にか店内中の視線を集めていたらしく、わたしはいくつもの好奇の瞳に見送られることになったのだった。