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不老不死

森の王

 冷たい森の王と呼ばれたその男は次世代の王たる者に弑され、贄の如く焚き上げられた。しかし、彼はまだ死んではおらず、業火の中から火だるまとなって這い出で、そのまま追手を振り切って湖に逃げ落ちた。王が、後任者の手で死なぬ、それは道理に反することで、不吉だった。そのため、民はその逃亡者の生存を願った。騒擾を生み、また、夫婦の契りを踏みにじったこの男に、女神もまた酷く腹を立てていたため、呪言を吐いた。
「我が夫であった者、そこまで死を恐れるのなら、生かしてやろう。ただし、たといお前が死の安息を望んだとて、我が祝福は消えぬぞ」
 これにより、男は民と女神の祈りによって不死を得た。身体は老いを忘れ、常に同じ姿を保っていた。男の性質によく馴染み、彼はこの祝福を大いに喜んだ。
 それから、男は地方を転々として過ごした。人人と女神の怒りを、なにより祝福を剥奪されることを恐れ、ラティウムの地に足を踏み入れることは無かった。しかし数百年たち、偶然ラティウムの近辺に滞在する機会があった。この頃はローマという都市国家が半島全体を支配しており、昔とは様相が大きく異なっていた。故郷の変貌に男がノスタルジーを感じるのも無理はない、周囲の物事はいつも彼を置き去りにしていく。
 「ネミの民はきっと自分のことなどとうに忘れているだろうし、彼女の怒りもさすがに落ち着いただろう」長い人生で培った楽観思考でもって、男は数世紀ぶりにネミを訪問した。まだ信仰は守られているようで、血塗られた王の伝統は続いていた。懐かしさを感じ、巡礼者を装って神殿に詣る。
 しかし、神殿に足を踏み入れた途端、違和感が生じる。一体、この神殿は誰を祀っているのか?周囲の神官に聞いてみても、「ディアーナ」と聞き覚えのある名が出るばかり。たとえ数年ほどの短い付き合いだったとしても、かつての半身の神聖を男が間違うはずがなかった。
 その夜、男はこっそり聖域の森に忍び込んだ。男が初めて彼女の姿を見、言葉を交わした場所。ひときわ大きなオークの木立は変わらずヤドリギを湛えている。樹の胴が幾周り大きくなったところ以外は数百年前と同じ風景。幸い、ここに巡回しに来るだろう王や衛士の姿はない。男はその聖木の前に立って彼女の気配を探った。「ディアーナ、ディアーナ。私の前に出てきておくれ…」
 すると、木の纏う聖気が男の側にギュウと凝縮されていく。美しい女の身体が形作られていく。「私を呼ぶのは誰?」女神は艶やかな眼差しで男を見つめた。「あなたは?」
 「ディアーナ。久しぶりに会えてうれしいよ。こうして姿を見せてくれたということは、もう私のことを許してくれたのだね?」
 しかし彼女は男の言葉に首を傾げた。理解していないようだ。それどころか、「誰?」などと言う。「愛する夫の神気を感じたのだけれど…」
 神がたかだか数百年でものを忘れるはずがない。嫉妬深い女の神ならばなおのこと。彼女の尊厳を大いに傷つけたあの日を、慣れない呪言を男にかけるほどの出来事をわすれるはずが無い。女が、男の知る妻と同一のものであれば。
「ネミの乙女、大いなる女神。あなたはディアーナですか。エーゲリアですか。まさか、別の名を持つとでも?」
「私はディアーナ。エーゲリア。ルーナ。あるいは、セレーネー。ヘカテー。アルテミス…」
 男は全てを察した。この女は「混ざりもの」になったのだと。旅の途中でしばしば目撃した「混ざりもの」。名を聞く限り、東方の神々と融合してしまったのだろう。ローマは東の大国の権威を借りるのに躍起になっていたから…。
「あなたは私の夫にとても似ている。ウィルビウス。マニウス・エーゲリウ。ヒッポリュトス。でも、違うの?」
「私はウィルビウス。マニウス・エーゲリウ。それ以外の名は無い」
「そう、あなたは私の夫ではないのね」
 そう言い残して、女は霧のようになって消えた。変質した女神。王の方も変質しているらしい。もはや男を知る者は誰もいない。では男を縛るこの祝福も変質しているのだろうか。いずれにせよ術をかけた者らが既にこの世にいないのだ、祝福が解かれることは永遠にない。
 世の全ての物事は絶えず変化するもの。それは不滅の魂を持つとされる神とて逃れられない。男は真の意味で、終わらない生を独りで過ごすことになったのだった。
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