贖いの光華

 痛みのぶんだけ
 人は強くなるというけれど
 それは 本当に強い人だけだ
 私は 本当は弱いから
 痛みのぶんだけ弱くなる
 もしも 私に痛みがなければ
 誰も傷つけることなく
 一人で生きてゆけるのに





 《贖いの光華 後編》


 来たる、緋月の夜を迎えた。
 月は血のように緋く染まり、月光が照らす夜空も、その月を映した海面もまた、不気味で不吉な紅に染まっていた。

 「じゃあ、いってくるね!テメノス、とっつぁん、アグねえ!」
 オーシュットは体いっぱいに手を振り、相棒のマヒナ、島の主ジュバとともに駆け出した。
 「みんな気をつけてね、いってらっしゃい」
 アグネアは手を振り返した。
 「オルト、テメノスを頼むぞ」
 「はい、お任せください」
 「ヒカリ、私はもう大丈夫ですよ。では皆さん、私たちはここで。——聖火の加護があらんことを」
 ヒカリは病み上がりのテメノスが前線に出ることに最後まで渋っていたが、緋月の夜が訪れた状況下もあり了承せざるを得なかった。ヒカリはテメノスとオルトを交互に見てようやく納得するとオーシュットたちの後に続いた。

 テメノス、アグネア、オズバルド、それからオルトと親衛隊員はケノモの村の住民たちとともに、溢れ出る魔物を迎え撃つ選択肢をした。
 獣人たちは武器を扱い戦える者が多いが、緋月の夜に出現した魔物はケノモ村周辺に生息する魔物よりも段違いに強い。人間たちもまた、戦う意志があっても実戦経験が少なく戦力は心もとない。村の住民の半数は女性と子どもが占めている。すでに怪我人も数人出ていたため彼らを守る必要がある。
 加えて異形な夜の魔物はみな共通して光属性が弱点であったため、テメノスは自身が深淵の森に残ることが最善だと判断した。魔法の使用許可はオズバルドから降りている。テメノスの体調も、今は問題ない。同じく広範囲の魔法攻撃が可能なオズバルドなら前線で多くの敵を相手に戦える。
 オルト率いる親衛隊は聖堂騎士の中でもカルディナの実力を認められた選りすぐりの上級騎士たちだ。村の住民を守りながら戦うことは難しいことではなく、戦力には申し分ない。
 そしてアグネアは彼らのサポート役として残ることにした。

 オルトたちは鎧ではなく、トト・ハハ島で伝統的に作られる皮の鎧を纏ってる。
 獣人たちの技術によって作られた防具は魔物の皮を鞣し、幾重に重ね、また精密に編み込まれおり、鉄製の防具に比べると耐久性は劣るがその分軽くて動きやすいため機動性に優れる。トト・ハハ島は亜熱帯故に鉄製の鎧は向いていない、という理由もあるが、一番の理由はオルトたちは聖堂騎士としてではなく、あくまでもソリスティアにすむ一人の人として緋月の夜に立ち向かうべく戦う決断をしたからだ。
 だから今は聖堂騎士の証である鎧もサーコートも必要ない。
 この戦いに加わることは聖堂機関には報告するつもりもない。――そもそも機関長も副機関長も不在なのに、いったい誰に報告をするのか。

 オルトはなかなかに果断な青年のようだ。数日間彼の近くにいて、実際会話は数えるくらいしかしていないが、テメノスはオルトのそういった判断力をとても好ましく思っていた。

 オルトはテメノスを守るように前に立つ。
 「君は、私の後ろに隠れないんですね」
 「当たり前だろう?」
 振り返ったオルトは怪訝な顔をした。
 「そうですね、失礼しました」
 テメノスは目を伏せた。

 (失言、でしたかね……)
 つい、あの子に重ねてしまった。
 そうだ……あの子だって、私の背に隠れたのはほんの一瞬だった。その後は私を必死に守るように勇敢に戦ってくれたではないか。比べるなんて、どちらにも失礼な行為だ。
 君はあの子とは全然違う。
 性格も、考え方も、私に対する反応も。
 わかっている。それなのに――

 「テメノス審問官、貴方は私が守ります」

 あの子と同じことを言うんですね。
 でも――
 (私も同じように、君を護りたいのですよ)

 
 不吉な月明かりと煌々と燃える松明が、闇夜の魔物の影を次々に紅く映し出す。
 ケノモの村人は斧を手に、槍を構え、弓を引く。
 森に喊声が響き、木々はざわめいた。
 「やれやれ、長い夜になりそうですね」
 テメノスはため息をつきながらも、不思議な高揚感に口角を上げた。



 獣人は人間よりも遥かに優れた直感力を持つため、危険な魔物相手に無謀に戦うことはしない。知恵をつけた人間も同じだ。生きるために狩りはすれど、未知なるものには恐れるのが普通だ。だが、今夜だけは違う。オーシュットに触発された村人は武器を取り、果敢に立ち向かった。
 
 テメノスは戦況を随一確認しながら回復魔法と光明魔法を繰り返し唱え、時々マジックスティールロッドで魔力を回復する。魔力を回復するのには敵に近づく必要があり、そのたびにオルトはテメノスの傍に寄り、ヒカリに宣言したように彼を守ろうとした。
 正直、ヒカリ以上に過保護だ。ヒカリはこれまでテメノスと共に戦ってきたからテメノスが前衛でもある程度の身のこなしができることがわかっているが、オルトにはそれがわからない。オルトの中ではテメノスがよほどか弱く見えているのだろうか。
 テメノスはオルトに気を遣い、魔力回復の回数をなるべく最小限に抑えることにした。それに、魔力量の増減を繰り返すことは魔力欠乏症を引き起こしたばかりのテメノスの体にとっては負担のかかる行為にもなる。戦いの前にオズバルドに注意を受けた通り、魔力の増減のたびに軽い目眩がしたが気づかぬ振りをした。
 少しずつだが確実に魔物の出現数は減っていた。魔力はまだ十分に温存している。

 「オズバルド。そろそろ、よろしいでしょうか」
 テメノスは、前線で森を焼き尽くさんばかりに炎や雷を放つオズバルドに近寄るとそっと伺った。
 「敵勢力もわずかであると見える。頃合いだろう」
 許可は得た。これなら、仮に失敗しても迷惑は最小で済みそうだ。ちなみに彼の熟練した魔法は的確に魔物だけを焼くので森は無事である。
 オズバルドが奥義の詠唱に集中するのを確認すると、テメノスはアグネアに声をかける。
 「アグネア君、私に“舞踏姫シルティージの囁き”をお願いします」
 「は、はい!――舞踏姫シルティージよ!」
 アグネアが複雑なステップを踏み、華麗にターンをすると、テメノスは術技を全体化する強力な踊り子の奥義を授かった。
 「聖なる盾よ……」
 テメノスは場にいる全員に守護の聖盾を張る。
 最小限の魔力で最大の効果を発揮できるこの奥義は神官の術と非常に相性が良いため、これまでも何度か試したことがある戦法だった。
 これは保険だ。今から行う魔法の威力が未知数なため、万が一でも巻き込まないように、回復の担い手である自分が戦線離脱しても大丈夫なように、お守りの盾である。
 「碩学王アレファンよ……」
 「恩に着ます、オズバルド」
 続けてオズバルドからアレファンの叡智の恩恵を授かる。魔法力が特大まで上がったテメノスは最前線へと進む。
 「テメノス審問官!危険です下がってください!」
 オルトは慌ててテメノスを追った。
 テメノスは依然として鷹揚に構えている。
 「オルト君……皆を下がらせて」
 「しかし、何を!?」
 テメノスは振り返る。
 彼の翡翠の瞳と銀髪は青白く発光していた。体から溢れる魔力は風を起こし、絹糸のように繊細な髪と、真白い外套と、法衣の長い裾を靡かせた。
 「……お願いします」

 テメノスはまっすぐにオルトを見た。その目は後に引くつもりはないと訴えていた。オルトは観念すると、部下に、ケノモの村の住民たちを下がらせるよう指示を出した。


 ――すみません、オルト君。 
 本当は君が生きていてくれた、それだけで私は充分だったのに。
 こうして肩を並べて闘うことができて、もう充分すぎるくらい満たされました。
 最初で最後の君との共闘は不思議な、快い高揚感でした。
 私はきっと、一生忘れない。
 私のことは呆れてください。
 これで終わりにしますから。
 どうか蔑んで。
 そしてもう構わないで。


 テメノスは断罪の杖を足元に置くと、瞼を伏せ、祈るように指を組み、己の全魔力を一点に集中させる。オルトはこれまで感じたことのない膨大な魔力を肌に感じた。以前、蘇生魔法を受けたときは温かな優しい光だった。今回のは全く違う。オルトは魔法には疎いが、それでも全身がぞわぞわと粟立つくらいのとてつもない魔力を肌に感じた。
 大気に舞う魔力の粒子が視覚化し、閃光となり、風を纏い、テメノスに収束していく。夜だというのに、テメノスの周囲は真夏の昼よりも眩かった。
 光に消えゆく彼に手を伸ばし、繋ぎ止めたいと思った。しかしオルトは圧倒的な魔力を前に慄然した体は動かず、眩さに目がくらんだ。

 テメノスは指を組む祈りの姿勢をゆっくりと解く。掌を上に向けたまま両手を下ろすのが微かに見えたのが最後、世界は光で真っ白に塗りつぶされた。

 「エルフリックよ
  世の影を照らしたまえ―――」

 その時魔法は解き放たれた。
 三度、凄まじい轟音と衝動波が響き、地を揺らした。







 森に静寂が訪れる。

 瞼の裏が暗くなり、オルトはゆっくりと目を開いた。
 そこにはかわり果てた森があった。周囲の木々はなぎ倒され、いや元から木々なんてなかったかのようにぽっかりと円形に抉れていた。衝動波によって吹き飛ばされた防壁の柵が辺りに散らばっている。魔物の気配はない。辺りの魔物は一瞬で一掃されていた。被害状況を確認しようと周りを見渡してみたが誰一人傷ついてはいない。
 守護の聖盾が発動したからではない。
 この魔法は“テメノスが味方だと判断した者は影響を受けていない”のだ。
 残った木々を揺らす音と、波の音だけが遠くに聞こえた。

 テメノスがその場に座り込むのを確認すると、オルトとアグネアは一目散に駆け寄った。オズバルドは変わらず泰然としてテメノスの元へ向かう。顔色を伺うと彼は顔も指先も青白くしていた。前と同じ症状だ。
 
 「前回より……、いいでしょう?」
 「そのようだな」
 テメノスは肩で息をしながらオズバルドに向けて答えた。体はぐったりとして手足に力が入らないようだが、焦点は合っていて受け答えは可能なようだ。
 「いったん村まで戻って休みましょう。話はそれからです」
 オルトはテメノスを横抱きにしようと膝裏に腕を回すが、テメノスは力なくもがいて抵抗を示した。
 「そんなこと、しなくていいです……!」
 「全然力が入っていませんよ。説得力がありません」
 「いやです……!だって、村まで結構距離、ありますよ……?少し、休めば……」
 「前回もそう言ってすぐ倒れたでしょう。貴方には前科がある。貴方の回復を待つより、俺が抱えて戻った方が早い」
 「うぅ……」
 テメノスは言い返すことができずに口ごもった。反論する言葉が見つからないほどに体調が悪い証拠だ。また突き放すつもりだろうがそうはいかない。商人のパルテティオが迷いの森を抜ける距離を背負えたのだ。オルトにとってはこんな時こそ日々訓練をしている力の発揮所である。今度は引き下がるつもりなぞ毛頭なかった。
 「心配をかけさせたんだ、これくらい安いだろう」
 オズバルドの声色は珍しく、少し愉快そうに聞こえた。
 オルトがテメノスを抱き上げようと胸に寄せると「あ、ちょっと待って」と再び制止の声がかかった。
 「まだ文句があるのか?」
 身をよじるテメノスを覗き込む。テメノスは外套のフードを深く被った。
 「恥ずかしいので、被らせて………」
 きゅうっと胸が締め付けられ、オルトは眉間のしわを増やした。
 「別に恥ずかしがらなくていいだろう」
 「……だってあの時は意識がなかったから……改めると、これ、なんか、恥ずかしい……」


 ——可愛い。
 ——可愛い……?
 ついさっきまで、光に攫われそうな儚げな姿であったというのに、この差はなんだ?
 急に青くなったり赤くなったり、テメノスの百面相にオルトは困惑した。相手はあのテメノス審問官で、クバリー副機関長も、カルディナ機関長も討ち、聖堂機関の闇を暴いたものすごい人で、しかも自分よりも結構な年上だと聞く。
 それなのに、今のテメノスはあまりにも庇護欲をひどく刺激する存在に思えた。可愛いだの、何かの間違いだ。オルトは必死に否定し、蓋をした。とにかく今は彼を休ませないといけない。
 「いくぞ」
 「ん……」
 すみません、と吐息のようなか細い声が聞こえた。
 テメノスは想像していた通り、いや、それ以上に軽かった。女性とたいして変わらないのではないだろうか。


 (騎士様とお姫様だべ……)
 アグネアは顔を赤らめ、もじもじしながらその光景を見ていた。おとぎ話のような、少女なら誰もが憧れる夢のシチュエーションだ。しかし羨ましいとは思わない。
 アグネアの目からみても、テメノスが完璧な“お姫様”だった。

 「アグネア君……」
 「は、はい!」
 「このことは、皆さんには、内緒にしていただけますか……?」
 「わ、わかったべ!」
 オルトは表情を引き締めることに意識した。彼が一回りも年下の少女に懇願している姿がなんともおかしかった。 
 オズバルドはテメノスの胸に手をかざすと、魔力の流れを確認する。オルトも何度か見た光景だ。
 「空っぽだな。テメノス、今の症状は?」
 「脱力感と……目眩がして、頭も痛いです……。でも、前回の、耐えがたい症状に比べたら、いくらかマシです。あと、とても眠いです……」
 「そうか」
 オズバルドは屈むと、テメノスの外套のフードを少しめくった。テメノスの目はすでに微睡んでいた。
 「また熱は出そうだな」
 「あっ、じゃああたし、先に村まで行って宿の手配をしてきます!」
 アグネアはすぐに人間の村人数人に声をかけ、宿屋の主人を見つけるや駆け出した。
 オズバルドはテメノスの呼吸が楽になるよう、法衣の胸元をはだけさせた。オルトはテメノスの白い喉元が見えないように目を反らした。


 裂け岩からナ・ナシの里までの距離に比べたら、ここからケノモの村まではそう遠くない。あの時は里までの距離と時間が永遠に続くかのような苦痛であった。
 今回は違う。
 断罪の杖を持ち、オルトの前を歩くオズバルドの足取りは緩やかだった。
 オルトは歩調を合わせた。
 本当は一刻も早ベッドで休ませてあげたいと思うべきなのに、今は緩やかな歩調が有り難かった。
 ――オルト君……
 胸元から消え入るようなささやききが聞こえたので「何だ?」と返したが返事がなかった。
 オルトの腕はテメノスの揺籃となった。


 
 「オズバルドさん!オルトさん!こっちです!」
 村へ到着すると、迅速に宿の手配をしたアグネアが出迎えた。
 村の東側、人間の区域にある宿だ。獣人たちの寝具はハンモックが主流だが、ケノモの村に住む人間は竹で作られたベッドを使う。竹製のベッド一見簡易的に見えるが、作りは頑丈で、湿気を吸い取り、通気性がある。亜熱帯のトト・ハハ島では適した作りだ。

 「上、脱がせますよね?テメノスさん軽そうだけど、二人でできそうですか?」
 「ああ。見た目通りに軽いからな」
 「ヒカリくんより?」
 「筋肉がない分ありうる」
 テメノスを抱えているのはオルトだというのに、オズバルドは勝手に答えた。
 最年長と最年少による、親子ほど年の離れた二人のやりとりを聞きながらオルトは発熱したテメノスの体を慎重にベッドへ下ろした。法衣を脱がすのは前回、ヒカリとパルテティオが率先して行ったと聞いた。手狭だったこともあり、あの時オルトは宿へ入ることすらできずにいたが、今回はオズバルドと二人でやらなければいけない。
 「ふふ、じゃああたし、お水とか桶とか必要そうな物をもらってきますから、その間にお願いしますね」
 そう言い残しアグネアは宿屋を出ていく。
 「よろしくね、オルトさん」


 「そのまま持っていろ」
 なんだか物みたいな言い方だなとオルトは思った。決して悪い人ではないのに、この学者は時々人に誤解を与えるような言葉のつかい方をする。
 オルトがテメノスの上半身を支えている間にオズバルドは彼の革靴を脱がし、淡々と法衣の留め具を外していく。
 ――ただの看病だというのに……。
 暗がりの中で意識のない神官の法衣を剥ぐ、という行為があまりにも背徳的な光景に見えてしまった。オルトは緊張でじっとりといやな汗をかいた。己の思考の不謹慎さに罪悪感を覚えた。

 「……ん」
 胸元からテメノスの艶めかしい吐息が聞こえた。
 「起きたか?」
 オズバルドはすぐさまテメノスの様子を観察する。頬は上気し、熱を帯びて潤んだ瞳はぼんやりとしていた。
 「私、ちょっと寝てました……?」
 「少しな、小一時間程度だ」
 「あつい……」
 「熱があるからな」
 「下も、いいですか?」
 「暑いなら脱げばいい」
 オズバルドとの短いやりとりをすると、テメノスは覚束ない手つきで法衣の下に身につけている、くるぶしまで覆うプリーツの裾をめくると、その下のスラックスに手をかけた。指先が思うように動かないようでなかなか脱ぐことが出来ずテメノスはくぐもった声を漏らした。結局オズバルドが脱衣を手伝った。
 オルトの情緒はテメノスの一挙手一投足にかき乱されていた。

 ——いや、何の問題がある?薄着になって快適に休めるのなら構わないのではないか。
 
 「オズバルドさん、オルトさん、開けますね」
 部屋の入り口から快活な少女の声がした。
 「あ、テメノスさん!よかった、目を覚ましたんですね」
 脱ぎかけの神官の様子は気にもせず、アグネアは彼の意識が前回よりも早く戻ったことに喜び、ベッドサイドに水、桶、コップ、タオルと必要な物を並べた。
 テメノスの法衣とスラックスを「明日洗いますね」と受け取って畳むアグネアはどこまでも欣然であった。

 ようやく横になれたテメノスの額に氷結魔法で冷やしたタオルが乗せられる。
 吐血のような重篤な症状もなく意識も早く戻ったが、熱は前回同様に高かった。魔力は徐々に回復しているから安静にしていれば大丈夫だろうとオズバルドは判断した。

 「みんな……大丈夫かな?」
 アグネアは不安げに窓から紅い空を見て呟いた。
 「一緒に迎えにいくか?」
 「でも、テメノスさんは?」
 「オルトがいる」
 オズバルドはじろりとオルトに視線を向けると、氷の精霊石を手渡した。



 「オルト君、私のことは大丈夫です」
 寝ていれば治りますからと、テメノスは遠回しにオルトを拒んだ。オルトは小さくため息をつく。
 「俺では駄目ですか」
 「……これ以上、君に……迷惑をかけられません」
 テメノスの目線は揺らいでいて言葉を選んでいるように見えた。
 「迷惑だなんて思っていません。だから、俺を突き放すのはやめていただきたい」
 テメノスは力の入らない手で掛布を握る。

 やめろ。
 これ以上彼を責めるな。
 余計な心労を与えるな。
 オルトは己に言い聞かせるが、積もった憤懣を抑えられずに続ける。 
 「貴方はなぜ俺を助けたんですか?」
 「それは、ただ君を助けたくて……」
 今うやむやにしたら、この男はまたのらりくらりとはぐらかすはずだ。
 「貴方は、誰かれ構わず重症者を治療するんですか?自身を試みないほどに」
 「……君だから……助けたんです」
 反論するテメノスはだんだんと自分の受け答えに自信がなくなっていった。

 あの時点ではテメノスとオルトはほぼ他人も同然であった。会話もしたこともなかった。それどころか、カルディナの思惑によっては自身の行く手を彼が阻んでいたかもしれない。そのくらい不安定な関係性であった。
 ではあの時、死の危険を冒してまでオルトを助けたのは何故なのか。
 
 ——あの子の友人だから?
 まさか、救えなかったあの子の代りとして、オルトを救いたかったとでもいうのか。
 まるで罪滅ぼしのように、綺麗事で誤魔化して、自分を慰めるために……
 そんなはずは、ない……
 それではまるで……

 ——救いたかったのはオルトではなく自分自身のようではないか?

 テメノスは真っ暗な奈落に突き落とされたかのような感覚に陥った。腐敗して汚いものを取り除くことをせず、目を反らし、見えないように固く蓋を閉め、知らないふりをしていたのに。それをこじ開けられ、どろりとした見たくもないものを見てしまった。
 それは博愛ではなく自暴的な行為だ。
 では彼を拒みたいと思うのは何故か。
 オルトの生はテメノスを一時的に満たした。
 健気にも生を受け取ったオルトの近くにいたら、途端に彼へ向ける愛おしさが膨れ上がった。

 ――そしたら、それをまたこぼれ落とすことが怖くなったのだ。
 テメノスはいつかまた負うかもしれぬ傷を恐れていた。
 彼を守れることこそが本懐だと信じた。
 この痛みは罰だと、罰が救いだと縋った。
 しかし、暴かれた己の心は欺瞞でつぎはぎに取り繕っていたにすぎなかった。
 テメノスが抱える不安定で自己犠牲的な思想も虚栄も真正面から崩された。

 「……ルト……ごめんなさ……」
 絞り出した謝罪の声は掠れて震えていた。
 オルトはテメノスの薄い手を握った。オルトの手もテメノスと同じく熱くて汗ばんでいた。テメノスはその手を、己が与えた生を必死に享受しているようだと感じた。ふれられたところから、緊張や不安が和らぐような気がした。
 オルトはこの数日間、いつでも手を差し出せる距離にいて向き合ってくれた。頼っていいのだと、こうして手を取ることを赦してくれた。
 「貴方は恩人です。もう他人じゃありません。俺だって貴方を守りたい」
 「……はい」
 「だからもっと、頼って欲しい」
 「ありがと……オルト……」
 「……伝わったか?」
 「はい、とても。君は……本当に、優しいですね」
 「別に……。すみません、休まないといけないのに。あとは寝てください」

 すっかり常温になった桶の水を冷やそうと氷の精霊石を懐から取り出したときだった。部屋に差し込む紅い月明かりは消え、室内は穏やかな藍色に包まれた。
 「空が……」
 オーシュット達が緋月の夜に打ち勝ったのだ。
 テメノスは緩慢な動きで体を起こそうとしたがすぐによろめき、オルトは咄嗟に彼の肩と背中を支えた。
 「起きて大丈夫なのか?」
 「体、結構……つらいですけど……外が……見たいんです」
 テメノスは息を切らしながら掛布を剥ぐ。
 不吉な紅い夜空は不安を増大させ、すっかり気も滅入っていた。この目でオーシュット達が勝利した証を確かめたかった。
 「では、また運びますよ」
 「え!?」
 「抱えた方が早いって言ったでしょう」
 散々に情緒を乱されたのだ。少しくらい仕返しをしたっていいだろう。
 うろたえるテメノスを無視し、オルトは再び彼を軽々と横抱きにして持ち上げた。意識がある分、より簡単だ。法衣とスラックスを脱いだテメノスはさらに薄くなり、抱いた腕からは硬い骨の感触と、高い体温が伝わった。靴を履いていない彼を地面に降ろすわけにもいかないので、抱きかかえたまま宿の入り口に腰を下ろした。
 
 「あの、下ろさないんですか……?」
 「貴方の足と服が汚れる。重くないから別に問題ない」
 ――むしろ軽すぎだ。もっと食べてくれ。
 思わず口に出たが、とくに二人の間に会話は続かなかった。
 雲一つない満天には白い満月が地上を見守っていた。 

 テメノスは夜空を見ると瞬きを忘れた。
 満月なんて、旅路の中、何度も見てきた。
 標高の高いフレイムチャーチから見上げる澄んだ月も、
 リーフランドやブライトランドの緑を包む穏やかな月も、
 ワイルドランドの寂寥の大地を優しく照らす月も、
 ヒノエウマの広大無辺の砂漠を白く染める月も、
 みな同じ月なのに、なぜだか、今宵の満月は一等美しい。


 「……きれい……」
 「テメノス……」
 オルトは月光を浴びるテメノスの横顔を盗み見る。
 どこかあどけなさの残る顔は一切の翳りはなく、玉の肌は一層白く透き通って見えた。大きな翡翠の瞳がきらきらと煌めいて見えるのは、熱によって潤んでいるのか、満天の星々をいっぱいに映しているからなのか。

 彼は月に、魅入られている——

 オルトも息を呑んで、月を見た。
 ただ美しいと思った。





 テメノスはオルトの肩に寄りかかった。彼の腕の中は心地よかった。少し速い心音も、温かい体温も。いや、この鼓動も熱も自分のものかもしれない。これだけ密着していれば、どちらのものかわからなかった。

 しばらくそうしていると、村の西南、深淵の森へ続く方面から喧騒が聞こえた。
 「……皆さんが帰ってきたのかも……。オルト君、部屋に……戻りましょう」
 本当はもう少し、このままでいたかったが、この状況を見られるのはいろいろと面倒だ。オルトはテメノスを抱え直すと室内へと戻った。
 「首に手を回せるか?」
 「はい」
 テメノスは素直に、彼の首に腕を回して上半身を支える。息がかかるくらいに互いの顔が近づき、オルトの緩くうねった黒髪がテメノスの細い指に絡んだ。間近で見るオルトは思っていたよりずっと精悍で、テメノスを見る目は優しかった。
 
 テメノスの後頭部にオルトの厚い手が添えられる。
 「ぁ……」
 「頭、ゆっくり下ろしますから」
 軽快な足音がどんどん近づいてくる。
 
 ――嗚呼、終わってしまう。
 テメノスはオルトの姿と、感触と、体温を、脳に、目に焼き付けるよう刻み込む。


 「テメノスいるー!?」
 「オーシュット待って!寝てるかもしれないわ!——あら」
 ベッドへ下ろされる寸前、オーシュットと相棒マヒナとキャスティは闖入した。
 「これは……」
 オルトはたじろいだ。第三者から見たら抱き合っているように見える姿勢だろう。
 「月がきれいで見ていたんですよ。そしたらオルト君にね、連行されました」
 「もう、相変わらずね。って、あなた結構な熱じゃない!?まったく……」
 テメノスの体温に触れたキャスティは呆れながらも脈を測り、すぐに症状に適した薬の調合に取り掛かかった。
 その後も次々に残りの仲間たちは四人部屋の広さの室内へ詰めかけ、定員を超えた床は軋みを上げた。


 「皆さん、お疲れ様です。お怪我は?」
 「私が治療したから大丈夫よ。あなたは自分の心配をなさい」
 キャスティは間髪入れずに答えると、有無を言わさず解熱剤を飲ませた。
 皆、服は土汚れが付き、ほつれたり破れている箇所も見受けられたが、テメノスよりもよっぽど元気そうであった。
 
 「今度は騎士様に村まで抱っこしてもらったんだって?お姫様」
 ソローネはあくどい笑みを浮かべた。
 「ソローネ君何故それを……」
 「あれホントなの?カマかけたんだけど」
 「っ……、この私をはめましたね……」
 「可愛い顔を膨らませてももっと可愛いだけだよ。まぁ本調子じゃなさそうだし、もっと休んでな。騎士様も、テメノスは頭も体もじっとできないからちゃんと見張っててよ」
 オルトの方へ振り向いたソローネの目は人の心を暴くような、深層を見透かす目をしていた。
 「人聞きの悪いことを……」
 テメノスは否定するが、オルトは心の中で頷いた。
 全くその通りだ。この人は病人だというのに全然大人しく寝る様子がなく目が離せない。
 「テメノス、回復してからでいい。後ほど神聖魔法について話し合おう」
 「ヒカリ、オルト君は悪くないですよ」
 「知っている。オズバルドから聞いた」
 「オズバルド……」
 「内緒にしてくれとは言われてない」
 オズバルドは皮肉を返した。お前の手間を省いてやったんだ、と言われた気がした。
 「みんな、今日はいったん休んで、明日話そうよ」
 アグネアの提案は最もで、夜通し戦いづめだった旅人は疲労困憊だった。
 「で、誰がここ残んの?」 
 ソローネは状況を楽しんでいるようだった。この部屋にあるベッドは四つ。テメノスと、おそらくオズバルドは確定だろう。残り二枠は普段だったら迷いなくヒカリとパルテティオだが……
 「何?テメノスは騎士様にいて欲しい?」
 ソローネの目には二人がなんとも離れがたそうな雰囲気を醸し出しているように見えた。
 「………………はい。彼ともう少し、一緒にいたいなと……」

 (マジじゃん……)
 ソローネは呆気にとられた。
 てっきり否定するかと思ったが、数秒言葉に迷ったあと、テメノスは正直に白状した。
 あのテメノスがだ。
 ひねくれていて、飄々としていて、本心を出すのが下手くそなあの男が、こんなにも素直でしおらしくなるなんて。
 たったの数時間で二人の間で何があったのか、ソローネは勘繰りたくなったが、あまり追及するのは野暮かもしれない。 
 「わかった。では俺とパルテティオは他の宿で休もう」
 「だな。そのかわり看病頼むな。」
 ヒカリとパルテティオは快く承諾し、他の仲間たちも泊まれる所を探しに、テメノスが休む宿屋を後にした。オズバルドはテメノスの魔力量をチェックし、前回よりも回復が早いことを確認すると「あとは任せる」と残し、早々に床に付いた。

 「ごめんねオルト君」
 「いや、構わないが……」
 「君とお話がしたくて」
 「具合は大丈夫なのか?」
 「悪いですよ?頭は痛いし、目眩でふわふわしてます」
 「…………頼むから寝てくれ……」

 オルトは頭を抱えたが、すぐにテメノスはうつらうつらと微睡んだ。
 後日知ったが、先ほどテメノスに投与された解熱剤に、キャスティは傾眠作用のある薬を混ぜたとのことだ。あの薬師は逆らってはいけない女性(ひと)だと、オルトは痛感した。

 静まり返った村で、オルトだけが起きている。
 夜間の警護なら慣れている。
 オルトはテメノスの安らかな寝顔を見た。
 安堵の裏に潜む燻る感情など知る由もない。


 一同は各々に分散すると泥のように深く眠った。起きたのは皆、正午過ぎであった。再びテメノスが休む宿屋に集合すると遅い朝食を摂る。一晩共にしたオルトも引き続き居合わせた。部下の親衛隊らは村の復興や救護作業にあたらせた。
 話は昨日の続きだ。神聖魔法はテメノスの意思を尊重する方針だが、条件についての話し合いをする。
 「旦那かキャスティのどっちかがいた方がいいよな」
 パルテティオの意見に皆は賛同した。
 「万が一倒れても運べるようにパルテティオがいた方が安心ね」
 「俺も持てるぞ」
 キャスティの言葉にすかさずヒカリが遮るように被した。確かに単純な腕力だけならヒカリの右に出る者はいないが。
 「わかったわ、ヒカリ君も入れましょう」
 「わたしもテメノスもてるぞ!」
 オーシュットは負けじと手を挙げた。
 「ヒカリは……いいですけど、オーシュットだけは勘弁してください……」
 想像したテメノスはいたたまれなくなり掌で赤面した顔を覆い、皆は肩を震わせて笑った。

 テメノスは旅の仲間たちのことを自然に頼っているように見えた。それは心強く、安心するべきことなのに、オルトの心境は些か複雑であった。
 「あんたたちストーンヘイルに戻るんでしょ。私らこのあとメリーヒルズに行くからしばらく一緒でいいよね?」
 大所帯の方が魔物も警戒して寄ってこないし。ソローネはそう付け加えたが、それは後付けの理由だろう。
 「その間はテメノス頼むね」
 ソローネはオルトを見てニヤリと笑う。
 やはりこの女性には見透かされている。だが、もうしばらく同行できることに許可が降り、オルトの鉄仮面はほのかに緩んだ。



 近日、メリーヒルズでは大舞踏祭が開催される。アグネアの晴れ舞台を応援するために一行はクレストランド地方を目指す予定だ。

 ケノモの村を発つ朝、身支度を終え、体力の回復したテメノスをオルトは宿屋前で出迎える。
 「行きましょう、テメノス審問官」
 「え、いやです」
 「は?」
 テメノス即答にオルトは思わず間抜けな声が出た。
 「その審問官っていうの、いらないです」
 「……では……テメノスさん?」
 テメノスは心底いやそうな顔を示した。 
 「もっといやです」
 「なっ!?」
 「どこかの、迷える子羊君みたいで」
 「…………」
 「”テメノス”でいいですよ」
 「……ですが、部下もいる手前、示しがつきません」
 「はあ、固いですね。別に私は君の上司じゃないのに」
 「では、俺のこともオルトとお呼び下さい」
 「う—ん……オルト君は……”オルト君”です」
 テメノスは優美に微笑むが、オルトの目には蠱惑的な笑みに見えた。

 「何ですか?ソローネ君、その顔は」
 「いや別に。オルトも大変だね」
 ポーカーフェイスには自信があるソローネだが、笑いをこらえきれなかった。
 (……だめだ、両方自覚ないの、やっかいすぎる)
 テメノスの新たな表情が見れるのは喜ばしいことだが、あれから一向に進展する気配のない二人の先行きにソローネはどうしたものかとわざとらしくため息をついた。


 それからパルテティオが所有する船に共に乗り、ニューデルスタ港へ。平原と街道を越え、フレイムチャーチ山道へ向かった。青々とした草木は歩むにつれて鮮やかに紅く色づき、日差しはやわらいだ。湿度の低いひんやりとした空気を吸うと、トト・ハハ島の纏わりつくような暑さの中寝込んでいた日々が遠い昔のように思えた。大滝に掛かる長い吊り橋を渡るとやがて分かれ道にさしかかる。

 ここでお別れだ。
 オルトたち聖堂騎士達はここから北上しストームヘイルに、テメノス達はここより東南のメリーヒルズへ向かう。

 「短い間でしたけど、ありがとう。オルト君」
 「こちらこそ、本当に感謝いたします」
 「いつか、お暇をいただいたら、一緒にアグネア君の舞台を見に行きませんか?彼女の踊りは元気が出ますよ」
 「当分は難しいと思いますが……」
 「おやおや、聖堂機関は労働体制に難ありですね」
 テメノスはいつもの軽妙な調子で話すが、寂しさを紛らわしているようにも見えた。


 (友情……私は君と育ませることができたのでしょうか?)

 ――いいえ、多分、違う。
 私と君を結ぶものは友情ではない。
 もっと優しくて、重くて、難しくて、嬉しくて、切ない、何か。
 ――親友?仲間?同志?
 どの関係性もしっくりとこなかった。
 ただ、テメノスにとってオルトは、確実に友という枠では収まらない特別な存在になっていた。ロイやあの子は今でも大切で大きな存在だが、オルトとの間にあるものは彼らと少し違うように感じた。その違いが何なのかはわからず、謎として残った。

 「私たちはもう少し旅を続けます」
 「はい。くれぐれも無理はしないで下さい」
 「君もね」
 「道中、お気をつけて」

 「「 聖火の加護があらんことを 」」


 聖職者同士の定形の挨拶を交わすと、二人は同時に踵を返した。
 最後までありきたりな別れの言葉しか出てこなかった。本当に伝えたいことは言語化することもできず、別れを惜しむ感情を形容する名もわからなかった。
 次に逢うときは、もっとお互いのことが知りたい。そして、この不思議な関係の名の答えを知りたいと思う。

 やるべきことも、考えることも山積みだ。
 振り返ることなく、旅人は前へと歩を進めた。
 クレストランドの乾いた風が慰めるように頬を撫でた。












 私は知っている
 神なぞは都合のいい偶像で
 祈りなど 届きはしないと
 もしも 神がいるのなら
 それは 己の中にいる

 《贖いの光華 後編》 Fin


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