Op:7 氷城の舟
ブリッグズ要塞 赴任者 名義変更
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完全に音が消え入り、ようやくそっと手を離した。
それでも立ち上がる気にはなれず、セシリアは隣のオリヴィエの手元へ視線を移した。
彼女は自分の手を見下ろし、指を軽く曲げ伸ばししている。
「…ふむ。さすがに少し鈍っているな」
「そんな……!とても弾きやすかったです。その……」
「…そうか」
横目でこちらを見る青い瞳はわずかに細まり、口元には、先ほど思い出したばかりのあの日の夜とよく似た柔らかさがあった。
「あ……えぇと…」
それを見た途端、次に続けようとしていた言葉がどこかへ行ってしまった。
「…ご、ごめんなさい」
「ん?」
セシリアは膝の上で指を組み、すぐに解く。
「その……緊張してしまって…こんなふうに少将とお話しするの、久しぶりですから…」
言ってから、何かもう一つ続けようと唇を開く。
けれど緊張で上手い言葉が見つからず、視線は鍵盤へ落ち、指だけがまた組み直された。
オリヴィエはそんなセシリアの横顔をしばらく見てから、膝の上で動くその細い指へ目を落とした。
「……ピアノは
「は、はい。カレッジへ入るまでですが……あと、母からも」
ちらりと隣を見ると、久しぶりにこれほど近くにいることを意識してしまい、目が合うより先に視線を鍵盤へ戻した。
「そうか」
オリヴィエはまだ隣で座ったままだ。
立ち上がる様子がないのを見て、セシリアは膝の上で指を組み直してから、もう一度そちらを窺った。
「し、少将は……?」
「同じだ。一通り叩き込まれた。弟は専ら絵に熱心だったが、私はこちらだな」
てっきり一言で終わると思っていたのに、話の続きを返してくれたものだから、セシリアは思わず顔を上げた。
「そ、その……好きな作曲家、は…?」
「ふむ……同じロマン派で言うなら、ブラームスか」
「ブラームス……」
その名を口にした頃には、さっきまで行き場をなくしていた手も膝の上でおとなしくなっていた。
「彼の…交響曲第1番は、完璧主義という言葉だけでは言い表せない葛藤や苦悩を感じます」
気づけば、さっきまで何を話そうか迷っていたのが嘘のように言葉が自然と湧いて出た。
「伝統的な交響曲の復活を期待されていたゆえだろう」
「ええ。1曲に20年を費やして、何度も書き直したのですよね?重ねて、削って、また重ねて……まるで油絵のよう…」
ふと隣を見ると、今度こそオリヴィエと目が合った。
いつからこちらを見ていたのか、口元にはほんのわずかに笑みがあるように見えて、落ち着かない気持ちになった。
「なら、貴様のお気に入りは水彩画家、といったところだな」
「あ…ふふ」
自分の喩えをそのまま返されたことがおかしくて、セシリアの口元にも笑みが浮かんだ。
「そうかもしれません。そういえばメンデルスゾーンは、本当に水彩画も描いていたそうですね。旅先の風景をたくさん……見たことはありませんが」
「あぁ、そうだったな」
オリヴィエはそれだけ答えると、再びピアノへ目を向けた。
やがてオリヴィエはグローブを手に取った。
「いい気晴らしになった」
「こ、こちらこそ…!」
指が一本ずつ布の中へ戻っていく。セシリアはそれを横目で追いながら、もうこの時間も終わるのだと、なんとなく分かった。
「ありがとうございました」
セシリアの言葉を背に受けたオリヴィエは、外套を羽織ると、娯楽室を出て行った。
静かになった左隣には、さっきまでオリヴィエが座っていた場所がぽっかりと空いていた。
「………」
そこを見ていると、先ほどまで気にならなかった足元の冷たさを感じた。
