Op:7 氷城の舟
ブリッグズ要塞 赴任者 名義変更
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弾き切った最後の和音も静寂へ溶けていくと、背後でグローブ越しの拍手が二度、三度と小さく鳴った。
「あ、ありがとうございます……」
耳に熱が集まるのを感じながら振り返ると、オリヴィエはすでにピアノのそばまで歩み寄っていた。
「“甘い思い出“だったか」
「はい…旅先での景色やノスタルジーが生み出した曲、なんだとか」
「……」
目を伏せたセシリアを見つめたオリヴィエは、外套をビリヤード台の角に置き、手近なスツールを引き寄せた。
「詰めろ」
「……え?」
「久しぶりに弾きたくなった」
セシリアは意味を理解すると、慌てて座っていたスツールを右端へ寄せた。
「連弾の経験は」
「え?あ、あります」
ときたま、母と弾いていたからそう答えた。
「そこに何曲か連弾譜が入ってる」
「え!ええと……」
(一緒に弾こう、ってこと…?)
戸惑いながら譜面を探しているうちに、オリヴィエは両手に嵌めていた白い手袋へ指をかけ、打感を確かめるようにカデンツを鳴らした。
Amの音を背にセシリアは目についた一冊を手に取ると、数頁を捲り、最初の曲名を見つけたところで指を止めた。
「あったか?」
「その……ドビュッシーでも良いですか?」
「あぁ」
迷いのない返事に促され、セシリアが譜面台へスコアを置くと、オリヴィエはすぐにスコアに目を走らせ始めた。
セシリアも頭の中で曲を思い起こしながら左隣を見ると、オリヴィエの指先が打鍵しない程度に小さく動いていた。
まさか、初見で
そう思っているうちに、最後の頁まで譜読みしたオリヴィエが頁を冒頭へ戻し、両手を鍵盤へ構え直した。
二人分の手が同じ鍵盤の上に並ぶと、先ほどまで一人で弾いていた時より、ずっと狭く感じる。
♪ TAP / Piano Solo: Op.9 No.1
「あ、で、では……始めから…」
「うむ」
オリヴィエが冒頭の譜面へ目を落としたまま、小さく息を吸う。吐く気配を合図に、二人の指がほとんど同時に鍵盤へ沈んだ。
一人で弾いていた時にはなかった厚みが、静かな娯楽室へゆっくりと広がっていく。
オリヴィエの伴奏には、揺るがない拍の芯があった。
必要な場所へ低音を置き、足元では靴先がペダルを浅く踏み替えて、重なった和音の輪郭を滑らかに繋いでいく。
徹底して抑えられた音量の中でも響きは痩せず、セシリアの旋律がどこへ向かっても、その下には確かな足場が残っていた。
初めて一緒に弾いているはずなのに、こちらの歩幅を探るようなぎこちなさがない。
進む場所だけを示し、その先では好きなように音を泳がせてくれる。
(徹底されたピアニッシモ……なのに、こんなに安心感がある。それに、このレガートペダリング……本当に初見なの……?)
セシリアは譜面を追いながら、右手の旋律を次のフレーズへ運んだ。
柔らかな六拍子の揺れの下で、オリヴィエの左手が低音を拾う。
大きく、骨格のしっかりした手だった。
指にも掌にも女性らしい丸みを残しながら、セシリアのものよりずっと逞しい。
けれど、鍵盤を捉える指先は驚くほど繊細だった。
深く沈めた音にも硬さはなく、低音だけが静かな重みをもって旋律と重なる。
頁の終わりが近づくと、オリヴィエの右手が譜面へ伸びた。
一瞬だけ、譜面より先にオリヴィエの腕がセシリアの視界を占め、袖口から伸びる素肌が顔のすぐ前を横切る。
その動きに連れて、チュベローズを思わせる香りがふわりと近づいた。
甘さの奥に、白い花を夜気へ晒したような涼しさがある。
この要塞に向かっていた時、すぐそばにあった香りだった。
紙がぱらと鳴り、頁が返る。
ほんの一瞬だったはずなのに、セシリアの指だけが次の入りをわずかにためらった。
その間を拾うように、低音がほんの少しだけ長く残る。
次の拍では二人の音が再び重なり、旋律は何事も途切れなかったかのように水面へ戻った。

曲が進むにつれて、高音と低音に分かれていた二人の手は少しずつ同じ場所へ寄る。
視界の端へオリヴィエの指が入るたび、鍵盤の幅が先ほどまでより狭く感じられた。
曲の中ほどへ差しかかると旋律は軽やかさを増し、セシリアの左手がオリヴィエの手の下へ入る。
ほとんど同時に、オリヴィエの腕が持ち上がった。
通る場所を空ける仕草に迷いはなく、その下をセシリアの指先が泳いでいく。
ほんの数音のあいだ、鍵盤の上では二人の手が上下に重なって見えた。
自分の指のすぐ上を、ひと回り大きな手が行き来している。
それだけのことなのに、なぜか意識が引っ張られそうになった。
肩のすぐ近くを腕が通った拍子に、白い花の香りがもう一度近づく。
隣から刻まれる低音は変わらず一定だった。
その拍を拾うと、指は自然と次の音へ辿り着く。
どこへ進めばいいのか迷うより先に、ほんのわずかな動きで次の場所を示される。
あの夜は足元だったものが、今はそれが手の先だ。
その感覚に気を取られているうち、次の小節で互いの手がさらに近づいた。
セシリアが白鍵へ指を伸ばす。そのすぐ上を越えようとしたオリヴィエの掌が、手の甲をかすめた。
ほんの一瞬だったけれど、触れたところから熱だけが置いていかれたような気がした。
セシリアの指先が、鍵盤の上でわずかに強張る。
いつも通りのつもりで押した一音が、ほんの少しだけ深く沈んだ。
自分の耳にはそれがひどく大きく聞こえて、セシリアは慌てて指から力を抜く。
隣ではオリヴィエの伴奏が変わらぬ拍を刻んでいる。
その音を頼りに、広い水面を小舟で滑っていくように音を運ぶ。
少し揺らいだ戦慄も、次の拍ではきちんと息を合わせて戻ってくる。
終わりが近づくにつれて、曲は少しずつ静けさを取り戻していく。
何度も近づいた二人の手も、それぞれの音域へ戻った。
鍵盤が沈む小さな音、ペダルが戻る気配。
袖が動くたびに重なるかすかな衣擦れ、彼女の香り。
旋律が細くなるほど、音楽の隙間にあるものまで耳へ届く。
最後のフレーズへ入ると、セシリアは旋律を少しずつ静めていった。
オリヴィエもその呼吸を受け取り、低音をひとつずつ重ねていく。
広い水面を渡ってきた小舟が、二人の手で静かな船着場へ寄せられていくようだった。
最後の和音が、ほとんど同時に鍵盤へ落ちた。
重なった響きはしばらくそこに留まり、やがて静かな娯楽室へゆっくりとほどけていった。
